襄公21年(‐553)~定公4年( -506) / 中原休戦の時代
※ 城濮の戦いに始まる晋楚の争和戦は九十年の長きにわたったが、双方とも決定
的勝利を得るに至らなかった。宋の華元の提唱による休戦条約(第一次宋の盟)
も僅か三年で破れた。しかし同じく宋の大夫向戌(しょうじゅつ)の休戦運動
はみごと実った。それは多分にかれの功名心から発したきらいがあるし、また
晋は内紛、楚は呉の攻勢に苦しんでいなという外的条件がそろっていたせいも
あるが、ともかく晋・楚・斉・秦以下十三国の代表が宋の国都西門外に会して
和議成立し(第二次宋の盟)、以後四十年にわる休戦をもたらした。この時期
には、国際的に知られた政治家が輩出した。宋の向戌、晋の叔向(しゅくきょ
う)、鄭の子産、斉の晏嬰(あんえい)などがそれである。
【エネルギータイリング事業篇】
● 最新サーマルタイル技術事例:特開2017-143209 光起電力装置
【概要】
従来、光起電力装置ては、電荷移動型有機分子等を用いて、それをドーパントとして用いる、ゼーッベク係数のN
やPの領域を作り、熱電変換型光起電力発生を実現した装置が提案されているが、熱電変換型光起電力発生ではP型
およびN型のゼーベックを示す空間分布やその大きさの制御が極めて重要であるところ、電極構造(電極S、電極
D)を形成した場合、光励起により生じる温度上昇ΔTを、物質のゼーベック係数S1、S2を用いて、光起電力Δ
Vへと下記の式にしたがって変換する手法を採用している。
ΔV=(S2-S1)ΔT
ここで、ゼーベック係数がP型(S1>0)およびN型の薄膜部位(S2<0)を形成することが重要となり、ΔT
が同じならば、負号が異なり各々の絶対値が大きい程、大きな電圧を取りだせる。従来法では、電荷移動型ドーパ
ントを用いて、それを物質表面に吸着させることで、P型/N型領域を形成。また、この方法は、半導体層として
カーボンナノチューブを含む半導体層を備え、広いバンドキャップ範囲で光電変換でき、太陽電池の半導体層は、
表面電極に近い側から順にp型半導体層、i型半導体層とn型半導体層を備える。p型半導体層、i型半導体層、
n型半導体層は、カーボンナノチューブを含有し、(p型半導体層を構成するカーボンナノチューブ)の直径は、
(i型半導体層を構成するカーボンナノチューブの直径よりも小さく、i型半導体層を構成するカーボンナノチュ
ーブ)の直径が、(n型半導体層を備えるカーボンナノチューブ)の直径よりも小さい光起電力装置が提案されて
いる。しかし、既存のドーパントを用いる方法は、ドープ量の調整が困難であり、そのゼーベック係数の最大値を
得られず、十分に高い光起電力を得れない。
2014年10月28日、首都大学東京の研究グループは、単層カーボンナノチューブがネットワークを形成した
バルクな薄膜において、イオン液体を用いた電気二重層キャリア注入制御法(※1)という手法を用いることによ
り外部から電場をかけ、その電圧を調整するだけで、バルク薄膜のゼーベック係数の符号と大きさを自由に制御で
きることをに見出し、下図1の高効率な光起電力発生を実現できる光起電力装置にあっては、カーボンナノチュー
ブ薄膜(CNT)を具備してなる光起電力装置であって、カーボンナノチューブ薄膜が、第1のゼーベック係数S1
を有する第1のカーボンナノチューブ材料と、第1のカーボンナノチューブ材料に接合された、第1のカーボンナ
ノチューブ材料とは異なる第2のゼーベック係数S2を有する第2のカーボンナノチューブ材料とを具備し、第1
のカーボンナノチューブ材料と第2のカーボンナノチューブ材料とを直接または間接的に接合した部分が光起電力
発生部である光起電力装置の提案を行っている。
【図面の簡単な説明】
【図1】図1は、本発明の光起電力装置の1実施形態を示す模式図
【図2】図2は、図1に示す装置のII矢視図
【図3】図3は、実施例で組み立てた光起電力発生装置の平面図(図面代用写真)
【図4】図4は、図3に示す装置にレーザー光を照射した際の電圧発生を示すチャート
【図5】図5は、参考形態のトランジスタデバイスの製造装置を示す模式図
【図6】図6は、参考形態のトランジスタデバイスのWS2ナノチューブのネットワークの走査型顕微鏡写真(図面
代用写真)
【図7】図7は、参考形態のトランジスタデバイスのラマン分光測定結果を示す模式図
【図8】図8は、参考形態のトランジスタデバイスの電流(ISD)のゲート電圧(Vr)依存性を示すチャートで
【図9】図9は、実施例2におけるキャリア密度とゲート電圧(実際にチャネルに掛かっているチャネル電圧(参
照電極電圧))との関係を示すチャート
※1 イオン液体を用いた電気二重層によるキャリア注入制御
導体をイオンを含んだ溶液に浸し、電位勾配を形成すると、その電位勾配を打ち消すように、導体内の電荷と液体
中のイオンが固液界面で再配列をする。その結果、電荷とイオンとが厚さ1ナノメートル程度の層を形成する。こ
れを電気二重層と呼ぶ。電気二重層の形成により、導体内には電荷が蓄積される。電位勾配の正負により、電荷の
符号を制御することが可能であり、その結果、外部電場を制御することにより導体内のキャリア注入制御が可能で
ある。この方法を用いて、二次元電子系の超伝導や磁性などの制御に成功した報告例がある。本成果は、イオン液
体――陽イオン、陰イオン化合物のみからなる常温で液体状態の塩――を用いた電気二重層キャリア注入制御手法
により、一次元ナノ物質薄膜の熱電物性の制御に成功した研究例と位置づけられる(下図参照)。
※2 バックゲート法
絶縁体表面に存在するナノ物質に、裏面から電圧を印加することにより、そのナノ物質に電荷を注入する方法。高
効率に電荷が注入されるのは、絶縁体表面に存在するナノ物質に限られるため、バルク薄膜を形成するナノ物質全
てに電荷を注入することは不可能である。また電圧を外すと元の状態に戻ってしまう。
高橋洋一 著 『戦後経済史は嘘ばかり』
序章 経済の歩みを正しく知らねば、未来は見通せない
「ウソの経済常識」を信じ込んでいませんか?
日本は第二次世界大戦で敗戦したあとの厳しい状況から雄々しく立ち上がり、世界か
ら「奇跡」と称された高度経済成長を成し遂げて、現在の経済大国の地位を築き上げま
した,一方、平成に入るとバブルの崩壊から「失われた二十年」といわれるほどのデフ
レ不況に落ち込んでしまいました。
なぜ日本は高度成長に成功したのでしょうか。そして、どうして「失われた二十年」
という失敗をしてしまったのでしょうか。
当たり前のことですが、実は、その要因をきちんと理解していなければ、これから先
の経済を見通すことも、正しい道を選ぶこともできません。
しかし、現在の日本では、そのような戦後から平成に至る経済の歩みについての「間
違った経済常識」や「単なる思い込み」が、驚くほど広範に流布しています。
みなさんは、次のようなことを信じていないでしょうか,
(1)高度成長は通産省の指導のおかげ
(2)1ドル=360円時代は為替に介大していない
(3)狂乱物価の原因は石油ショックだった
(4)「フラザ合意」以降、アメリカの圧力で政府が円高誘導するようになった
(5)バブル期はものすごいインフレ状態だった
これらはいずれも間違いです。詳細については、本文で述べたいと思いますが、
ここでは簡単に触れておきます。
'Floating Exchange Rate'
☑ 高度成長は通産省の指導のおかげ ? ➲ ✕
日本の戦後の高度経済成長は、通商産業省(通産省↓現在の経済産業省《経度省》)
が通切な産業政策を行ったからだ、と信じている人が多くいます。「通産省が日本株式
会社の司令塔だ」という声もありますし、城山三郎の小説「官僚たちの夏」は、そんな
英雄的な官僚像を高らかにうたいあげました。
しかし、これはあくまで「伝説」にすぎません。実際には、産業政策が効果を上げた
ことなどほとんどなく、通産省の業界指導は役に立だなかったのです。むしろ、通産省
に逆らって四輔車に参入した本田技研工業のような企業が戦後日本の発展を支えてきま
した。ホンダも含めて、戦後の日本産業を引っ張ったとされるトヨタ、パナソニック
(松下電器産業)、ソニーなどが通産省の指導で仲びたと思っている人は、いないので
はないでしょうか。
高度成長を支えたのは主に為替要因です。1ドル=360円の圧倒的に有利な為替
レートが輸出産業と高度成長を支えました。
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「Iドル=360円」の楽勝レートが高度成長の最大の要因
私は、日本の高度成長を支えた最大の要因は「1ドル=360円」の有利な為替レー
トだったと見ています。
産業界には、ものづくりの技術を高めたことが日本の産業を発展させたと考えている
方が多くいらっしやいますから、「為替レートが有利だったから、日本の産業が伸びた」
というと、必ずお叱りを受けます。
もちろん、ものづくりの努力が産業を支えてきたことは私も十分に承知していますし、
そうした要因があったことも問違いないことなのですが、しかし、為替データを見る限
り、為替要因が圧倒的に大きかったことがわかるのです。
身近な例でいえば、2009年からの民主党政権時代(2009年9月~2011年
12月)には、過度な円高が放置されたために、日本の産業界は非常に苦しめられまし
た。技術力は世界最高レベルであるにもかかわらず、大手メーカーが赤字となり、リス
トラを余儀なくされました。不利な為替レートだと、どんなに技術力が高くても利益を
上げられません。為替要因はしばしば技術要因を上回ります。
経済理論の中には、適正な為替レートを計算する理論がいくつかあります。経常収支
によって決まってくるときもありますが、変動相場制のような自由な為替相場の世界で
は、マネタリーアプローチによって計算できます。2国のマネタリーベースの比をとる
と、均衡レートが出てきます。
途中を省いて単純化していうと、円の総量/ドルの総量で、円ドルの均衡レートが計
算できます。「完全に自由な為替相場だったとしたら」と仮定した場合の計算上の為替
レートです。どんな物でも量が増えると相対的な価値が減少します。それと同じで、円
の量を増やすと円安になると考えていただくとわかりやすいかもしれません。
図1を見て下さい。1986年以降の円ドルレートは、計算上の均衡レートとほとん
ど同じ水準です。のちほど「プラザ合意」のところで詳しく説明しますが、1985年
のプラザ合意以降は為替介入をしなくなりましたので、計算上の均衡レートと実際の為
替レートがだいたい一致するようになりました。
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☑ 1ドル=360円時代は為替に介大していない ? ➲ ✕
現在、為替は変勤相場制になっていますが、昔はIドル=360円の固定相場制でし
た。
誤解している人が多いのですが、固定相場制とは、放っておいても為替レートが維持
される制度ではありません。どんなに世界中が「1ドル=360円」だと認めていて、
日本政府が「その相場で固定する」と宣言したところで、自動的に為替が「Iドル=3
60円」になるわけではないのです。
では、どうしていたか。
実は、Iドルが360円から前後しそうになったときには、日本政府が猛烈に為替介
入をしていたのです。決められた為替レートを維持するために介入し続けるのが固定相
場制です。多くの場合、円高に振れないようにドル買い介入が行われました。
そして、そのために円を刷る必要かおり、その結果として、日本国内はインフレ基調
になっていたのです。
均衡レートは、1971年までさかのぼって計算することができます。1970年代
における均衡レートは、Iドル=140円程度です。それ以前の均衡レートは私の試算
ですが、1970年代と大きくは追っていないはずです。
グラフを見ていただくと、Iドル=360円時代が日本の輸出産業にとっていかに有
利な為替レートだったかがわかります。1ドル=140円程度のところを1ドル=36
0円で取引できるなら、「楽勝レート」です。1960年代の高度成長期には、非常に
有利なレートで輸出をすることができました。
1ドル=360円のレートは、一九四丸年に設定されて以来ずっと続きました。なぜ
アメリカが日本にとって有利な為替レートにしてくれたのかはよくわかりません。かつ
て田中角栄が「円は360度だから、1ドル360円だ」と冗談めかしていったという
話はありますが、1ドル=360円に決めてくれた人に感謝するしかありません。日本
のことをアメリカがナメていたのかもしれません。
この有利な為替レートが戦後の高度経済成長の最大の要因です。1960年代の高度
成長期は、高いゲタを履かせてもらっていましたので、輸出企業の競争力が圧倒的に高
まり、高収益を上げることができました。
為替レートが有利なうえに、技術力がついてきた
日本の輸出企業は圧倒的に有利な為替レートの恩恵を受けていました。もちろん、日
本企業に基礎的な技術力があったのも事実です。いくら為替レートが有利でも、粗悪品
をつくっていたのでは海外では売れません。
昔は日本製品は低品質と見られていましたが、徐々に技術力が高まり、アメリカ製品
と似たようなレベルの物をつくることができるようになりました。その過程で、海外か
ら多くの技術を学んでいます。海外企業と提携して技術力を高めた企業もたくさんあり
ます。
もちろん、実力を超えた円安の時代ですから、海外から技術を導入する経費は大変な
ものでした。本田技研は、あまりに高額の工作機械を購入したことも響いて資金難に陥
り、倒産しかかっています。松下電器がフィリップスと提携したときも、イニシャル・
ペイメント(前払い実施料)55万ドル、株式参加30%、ロイヤルティー(技術指導料)
7%を要求されました。松下幸之助が、この技術指導料に対して「経営指導料」を逆に
要求したことは有名な話です。結果としてフィリップスの技術指導料4・5%に対して、
松下電器の経営指導料3%で契約が成立しています。
たしかに、当時の名経営者たちはこのような果断な判断を次々と下し、技術力を格段
に向上させていったのです。1950年代は価格の安さが最大の売りだったのでしょう
が、利益を上げながら品質を高め、1980年代には日本製品の品質は世界最高レベル
になっています。
それを端的に物語っているのが、アメリカの映画「バック・トウ・ザ・フューチャー」
です。主人公が1985年から1955年にタイムスリップするストーリーですが、1
985年のシーンでは、身の回りの家電製品は日本製ばかりです。主人公の少年があこ
がれる自動車もトヨタのピックアップトラックです。
ところが、30前の1955年のシーンはまったく追います。シリーズ3作目で、1
955年当時の人物が、「メイド・イン・ジャパンじゃ、壊れても不思議はない」とい
うのに対し、1985年から来た主人公が、「何をいっているんだい。日本製は最高だ
よ」というシーンがあります。1950年代の日本製品と1980年代の日本製品では
まったくイメージが追っています。
ともあれ、果断な経営判断と、不断の努力で製品の品質を上げていったことが、日本
製品の最終的な勝利を招来することになったわけですが、日本企業の躍進を支えた大き
な要因は、やはり「1ドル=360円」の為替レートだったことは間違いないでしょう。
有利な為替レートのおかげで、「品質の良いものを、割安の値段で売る」ことができ
たのです。おかげで、日本製品はどんどん海外で売れました。さらにいえば、当時の経
営者たちが果敢に決断できた背景に、「1ドル=360円」という為替レートがもたら
してくれる高収益に対する安心感があったことも、間違いありません。
Sep. 22, 2017
1985年のプラザ合意までは、実は、実質的な「固定相場制」だった 固定相場を
続けている限り、独立した金融政策を打つことはできません。固定相場制から変動相場
制に移行することで、初めて日銀は独立した金融政策をとることができるようになりま
す。
では、いつから変動相場制に移行したのでしょうか。
社会の教科書では1973年2月から変動相場制に移行したとされています。しかし、
国民には知らされていない裏があります。
制度上は1973年に変動相場制になったのですが、実際には猛烈な為替介入が続い
ていました。「ダーティ・フロート」という裏の介入が続いていたのです。もちろん国
民にはわかりにくい形にされていました。
「ダーティ・フロート」を完全にやめて、宣]の変動相場制に移行したのが1985年
の「プラザ合意」です。1ドル=360円時代は、360円から上下への変動をまった
く許さない為替介入をし、1973年2月からプラザ合意までは、上下への変動をある
程度許す為替介入をしていました。プラザ合意以降は「クリーン・フロート」にして為
替介入をやめました。
日本が固定相場制から、為替介入しない変動相場制に移行したのは、1973年2月」
ではなく、1985年9月」のプラザ合意です。ここを見誤ると、1973年から19
85年までの日本経済を正しく理解できなくなります。
為替介入をやめて変動相場制にすると、為替は計算上の均衡レートとほぼ一致した数
値になります。同列のグラフをもう一度見て下さい。グラフの2つの折れ線が急激に近
づいていくのは、1985年以降です。それまでは両者には開きがあります。これは介
入を続けていたことを意味しています。
整理しますと、
・プラザ合意まで ➲ 固定相場制(1973~1985年は実質的固定相場)
・プラザ合意以降 ➲ 変動相場制
となります。
「国際金融のトリレンマ」に則していえば、1985年までは固定相規制だったため独
立した金融政策をとることができず、1985年に変動相場制になってようやく独立し
た金融政策をとれるようになりました。
Paul Krugman
ここで、高橋洋一氏の著書を眼にするのは、リーマンショック後であったことはこのブログで掲載している。「失
われし十年」ではなく、「失われし二十年」「失われし三十年」との考えの切っ掛けは彼ではなくポール・クルー
グマンの『クルーグマン教授の経済入門』(山形浩生訳、メディアワークス、1998年)である。高橋がここで「高
度成長を支えたのは主に為替要因です。1ドル=360円の圧倒的に有利な為替レートが輸出産業と高度成長を支
えた」との指摘には異論がない。わたしが付け加えるとするなら、共同幻想の貨幣(為替)は決算手段に過ぎず、
財政と金融政策の独立した制御の形態であり、その経済的エネルギーの源泉は国民にある。このことの考察はこの
著書を読み進めるなかで逐次進めていくことにする。
、
この項つづく
Steam rising from the coal-fired Jim Bridger power plant outside Rock Springs, Wyo. Credit Jim Urquhart/Reuters