襄公21年(‐553)~定公4年( -506) / 中原休戦の時代
※ 血で書かれた記録:この事件を斉の太史は、「崔杼が主君を殺した」と記録し
た。崔杼は怒って太史を殺した。太史の弟があとをついで、同じ事を書き、犠
牲者は二名となった。しかし弟の弟があとかろぎ、同じ事を書くと、さすがに
崔杼もあきらめざるを得なかった。太史がすべて命をおとしたと聞いて、地方
在住の史官が、竹筒(竹の札、これに字を刻んで記録する)を手に駆けつけて
来たが、記録がすんだと知って、引き返した。
★ 権力に屈せず生命を賭して真実を直書した無名の歴史家たち。かれらは史官と
して当然の責務を果たしたまでなのであろうが、歴史家の理想の姿がここに示
されている。こうして、崔杼と慶封は斉の国政を龍断(ろうだん)するに至っ
た。だが、それから二年もたたぬうちに両氏の間に争いが生じ、慶封は崔氏一
家をことごとく殺した。しかしその翌年(-545)、慶封も部下の廬蒲癸、王何
に襲われて魯に逃げ、さらに呉に奔って後、殺された。晏嬰(あんえい)が
政治家としての本領を発揮し、諸国にその名を知られるようになるのは、その
後のことである。(役人によって作られた『晏千春秋』はかれの言行を集録し
たものである)
読書録:村上春樹著『騎士団長殺し 第Ⅱ部 遷ろうメタファー編』
第49章 それと同じ数だけの死が満ちている
雨田典彦が目覚めたのは三時少し前だった。彼は身体をもぞもぞと動かした。ひとつ大きく呼
吸をし、布団が胸のところで上下するのがわかった。雨田が立ち上がってベッドの脇に行き、上
から父親の顔をのぞき込んだ。父親はゆっくりと瞼を開いた。白い長い眉毛が細かく宙に震えて
いた。
雨田は枕元のテーブルにあった細口のガラスの吸い飲みを手に取り、それで乾いた唇を湿らせ
た。そしてガーゼのようなもので、口元にこぼれた水を拭いてやった。父親がもっと水をほしが
ると、少しずつ水を口の中に補給した。いつもやっていることらしく、慣れた手つきだった。水
を飲み込むごとに、老人ののど仏が大きく上下した。その動きを目にして、彼がまだ生きている
という事実が私にもようやく納得できた。
「父さん」と雨田は私を指さして言った。「こいつが小田原の家のあとに往んでくれているやつ
だよ。やはり絵描きで、父さんのスタジオを使って給を描いている。大学時代の友だちで、あま
り気は利かないけど、そして素敵な奥さんにも逃げられちまったけど、給描きとしてはなかなか
悪くない」
雨田が口にしたことを父親がどこまで理解したのか、それはわからない。しかしとにかく雨田
典彦は息子の指さした先を辿るように、私の方にゆっくり顔の向きを変えた。その両目はどうや
ら私を見ているようだった。しかし顔には表情らしきものはまったく浮かばなかった。何かは見
えているのだろうが、その何かは彼にとってとりあえず意味をなさないものであるようだった。
しかし同時に、その談い膜のかかったような眼球の奥には、驚くほど明晰な光が潜んでいるよう
にも感じられた。その光は意味を持つ何かのために大事にしまい込まれているのかもしれない。
そういう印象があった。
雨田は私に言った。「おれが何を言っても、たぶん理解できてないと思う。でもとにかく、言
っていることは全部相手に通じているものとして自由に自然に話してくれという、担当医からの
指示なんだ。何かわかっていて何かわかっていないのか、誰にもわからないわけだからな。だか
らこうしてごく普通に話している。まあその方が、おれとしても楽たしな。おまえも何か話しか
けてくれ。いつも話すようにでいいからさ」
「こんにちは。初めまして」と私は言った。そして名前も名乗った。「今、小田原の山の上のお
宅に住まわせてもらっています」
雨田典彦は私の顔を見ているようだったが、やはり表情に変化は見えなかった。雨田は私に向
かって、〈なんでもいいから、もっとどんどん話せよ〉という動作をした。
私は言った。「ぼくは油絵を描いています。長いおいた肖像画を専門に描いていましたが、今
はその仕事は辞めて、好きな絵を描いています。でもときどきは注文が入って、肖像画を描くこ
ともあります。たぶん人の顔を描くことに興味かおるのだと思います。政彦くんとは美大時代か
らのつきあいです」
雨田典彦の目はまだ私の方に向けられていた。その目にはやはり談い膜のようなものがかかっ
て いた。それは生と死のあいだをゆっくり隔てていく薄いレースのカーテンのようにも見えた。
そのカーテンが幾重にもかさなり、奥の方がだんだん見えなくなり、最後には重い緞帳が降りる
のだろう。
「とても素敵なお宅です」と私は言った。「仕事がよく捗ります。お気を悪くなさらないといい
のですが、レコードも勝手に聴かせていただいています。政彦くんが聴いてもいいと言ってくれ
たので。素敵なコレクションです。オペラをよく聴いています。それから、このあいだ初めて屋
根裏部屋に上がりました」
私がそう言ったとき、彼の目が初めてきらりと光ったように見えた。ほんの微かな煌めきだっ
たし、よほど注意していなければ誰もそれに気づかなかったはずだ。でも私は怠りなく彼の目を
直視していた。だからその煌めきを見逃すことはなかった。おそらく「屋根裏部屋」という言葉
の響きが、彼の記憶のどこかを刺激したのだ。
「屋根裏部屋にはどうやらみみずくが一羽注み着いているようです」と私は続けた。「夜中にと
きどき何かが出入りするような、がさごそという音がしたので、鼠かもしれないと思って、昼間
に様子を見にそこにあがってみました。すると葉に一羽のみみずくが休んでいました。美しい鳥
でした。通風口の金網が破れていて、そこからみみずくが自由に出入りできるようになっていた
んです。屋根裏はみみずくにとって、格好の昼間の隠れ家だったんですね」
その目はまだしっかりと私を見ていた。まるでそれ以上の何かの情報を待ち受けているみたい
に。
「みみずくがいても、家に害はないよ」と雨田が口を添えた。「みみずくが家に往み着くのは縁
起の良いことでもあるんだ」
「みみずくも素敵だったけど、それだけではなく、屋根裏部屋はなかなか興味深いところでし
た」と私は付け加えた。
雨田典彦はベッドに仰向けになったまま、身じろぎもせず私を見つめていた。呼吸は再び浅く
なっているようだった。眼球には相変わらず談い膜がかかっていたが、その奥深くに潜んだ秘密
の光は、さっきよりいっそう鮮明になったように私には感じられた。
私はもっと屋坦畏の話をしたかったが、息子の政彦が同席しているところで、そこであるもの
をみつけたという話を持ち出すわけにはいかなかった。政彦は当然、それがどんなものだったか
知りたがるだろう。私と雨田典彦は話題を宙づりの状態にしたまま、互いの顔を探るようにじっ
と見ていた。
私は注意深く言葉を追んだ。「あの屋根裏はみみずくだけじゃなく、絵にとっても絶好の場所
かもしれません。つまり絵を保管しておくのに追した場所ということです。とくに画材のせいで
変質しやすい日本画の保存には追しているでしょう。地下室なんかとは追って湿気もないし、風
通しも良いし、また窓がないから日当たりを気にしなくてもいいし。もちろん雨風が吹き込むお
それもありますから、長期的に保存するには、しっかりと包装しておく必要はあるでしょうが」
「そういえばおれはこれまで、屋根裏なんてのぞいたこともなかったな」と雨田は言った。「ど
うもほこりっぽいところが苦手なものだから」
私は雨田典彦の顔から日を逸らさなかった。雨田典彦も私の顔から視線を逸らさなかった。彼
がその頭の中で思考の道筋を辿るうとしていることを私は感じた。みみずく・屋根裏・絵の保管
……そういった覚えのあるいくつかの単語の意味を、ひとつに結びつけようとしているのだ。そ
れは現今の彼にとって簡単なことではない。まったく簡単なことではない。おそらく目隠しをし
て入り組んだ迷路を抜けるような作業なのだろう。しかし彼はそれを結びつけることが、自分に
とって重要であると感じている。とても強く感じている。私はそんな彼の孤独な切実な作業を静
かに見守っていた。
私は雑木林の中の祠と、その裏手にある奇妙な穴のことも話そうかと思った。その穴がどのよ
うな経緯で開かれたか。それがどのような形状の穴であったか。しかし思い直してやめた。あま
り二度にいろんなことを持ち出さない方がいい。残された彼の意識はひとつのものごとを処理す
るだけでも、かなりの負荷を負わされているはずだ。そして残された僅かな能力を支えているの
は、あやうい一本の糸だけなのだ。
「もう少し水はいらない?」と政彦はガラスの吸い飲みを手にして、父親に尋ねた。しかし父親
はその問いかけには何の反応も見せなかった。彼の耳には息子の言葉がまったく入っていないよ
うだった。政彦はもっと近くに寄って同じ質問をしたが、やはり反応がないことを知って、それ
以上質問するのをあきらめた。父親の目にはもう息子の姿は入っていないのだ。
「親父はどうやらおまえにずいぷん興味を待ったみたいだな」と政彦は感心したように私に言っ
た。「さっきからずっと熱心におまえのことを見ている。誰かに、というか、何かにそんなに強
い関心を持ったのはしばらくなかったことだ」
私は黙って雨田典彦の目を見つめていた。
「不思議だよ。おれが何を言ってもほとんど見向きもしなかったのに、さっきからおまえの顔を
見たっきり、じっと目を逸らせもしない」
政彦の口調に経い羨望の響きが混じっていることに気づかないわけにはいかなかった。彼は父
親に見られることを求めているのだ。それはおそらく子供の頃から一貫して求め続けてきたこと
なのだろう。
「ぼくの身体から絵の其の匂いがするのかもしれない」と私は言った。「その匂を呼び起こして
いるのかもしれない」
「たしかにそうだな、それはあるかもしれない。そういえば、おれは本物の絵の典なんてもう長
いおいた手にもしていない」
彼の声にはもう暗い響きはなかった。いつもの気楽な雨田政彦に戻っていた。そのとき、テー
ブルの上に置かれた政彦の小さな携帯電話が振動音を断続的に上げ始めた。
政彦ははっと顔を上げた。「いけない、携帯を切るのをすっかり忘れていた。部屋の中では携
帯を使うことは禁止されているんだ。外に出て話をしてくる。少しのあいだ席を外してかまわな
いか?」
「もちろん」
政彦は携帯電話を取り上げ、相手の名前を確かめ、ドアに向かった。そして私の方を向いて言
った。「少し長引くかもしれない。おれのいないあいだ適当に親父と何かを話していてくれ」
政彦は携帯電話に向かって、小声で何かをしゃべりながら部屋の外に出て、静かにドアを閉め
た。
その上うにして私と雨田典彦は部屋の中に二人きりになった。雨田典彦はまだ私をじっと見つ
めていた。おそらく私を理解し上うと努めていた。私は少しばかり息苦しくなり、席から立ち上
がって彼のベッドの足下をまわり、南東に向いた窓際に行った。そして大きなガラス窓に顔をつ
けるようにして、外に広がる太平洋を眺めた。水平線がせり上がるように空に追っていた。私は
そのまっすぐな線を端から端まで目で辿った。それほど長く美しい直線は、どんな定規を使って
も人間には引けない。そしてその線の下の空間には、無数の生命が躍動しているはずだ。この世
界には無数の生命と、それと同じ数だけの死が満ちているのだ。
それから私はふと気配を感じて、背後を振り返った。そしてその部屋の中にいるのが、雨田典
彦と私の二人だけではないことを知った。
「そう。諸君らはここにふたりきりではあらない」と騎士団長が言った。
第50章 それは犠牲と試練を要求する
そう。諸君らはここにふたりきりではあらない」と騎士団長が言った。
騎士団長は雨田政彦がさっきまで座っていた布張りの椅子に腰掛けていた。いつもの服装、い
つもの髪型、いつもの剣、いつもの身長だった。私は何も言わず、彼の姿をじっと見ていた。
「諸君のお友だちはまだしばらく戻ってくるないよ」と騎士団長は右手の人差し指を宙に突き出
すようにあげて言った。「電話の諸はどうやら長くなりそうだ。だから諸君は安心して、心ゆく
まで雨田典彦さんと話をすればよろしい。様々に尋ねたいことがあるのだろう? どれはどの答
えが返ってくるかは疑問ではあるが」
「あなたが政彦をよそに遠ざけたのですか?」
「まさかまさか」と騎士団長は言った。「諸君はあたしを買いかぶりすぎている。あたしにはそ
こまでの力はあらない。諸君やあたしとは違って、会社に勤めている人は何かと忙しいものだ。
気の毒に、週末も何もあらない」
「あなたはずっとここまで一緒にいたのですか? つまりあの車に同乗して末たのですか?」
騎士団長は首を振った。「いや、同乗してはおらない。小田原からここまでは長い道のりだ。
あたしはすぐに車酔いするたちでね」
「でもあなたはとにかくここまでやってきた。招かれてもいないのに?」
「確かに正確に言うなれば、あたしはここに招かれてはおらない。しかし求められてここにいる。
招かれることと求められることの違いはなかなかに微妙なものだが、それはさておき、とにかく
あたしを求めたのは雨田典彦氏だ。そしてあたしは、諸君の彼に立ちたいと恩えばこそ、ここに
いる」
「役に立つ?」
「そうとも。あたしは諸君にいささかの恩義がある。諸君らがあたしを地下の場所から出してく
れた。そうしてあたしは再びイデアとして、この世にはばかり出ることができた。このあいだ諸
君が言っていたようにな。いつかそのお返しをしなくてはならないと思っていた。イデアとて義
理人情を解さないではない」
義理人情?
「まあよろしい。そのようなものだ」と騎士団長は私の心を読んだように言った。「いずれにせ
よ、諸君は秋川まりえの行方をつきとめ、彼女をこちら側に取り戻したいと心から望んでおる。
それに間違いはあらないね?」
私は肯いた。間違いはあらない。
「あなたは彼女の行方を知っているのですか?」
「知ってはいるよ。少し前に会ってきたところだ」
「会ってきた?」
「短く話もしてきた」
「じやあ彼女がどこにいるか敢えてください」
「知ってはいるか、あたしの口からは敢えられな
「敢えられない?」
「教える資格を持たないということだ」
「でもあなたは今、ぼくの役に立ちたいからこそこの場所にいると言いました」
「確かにそう言った」
「それなのに秋川まりえの居場所は教えられない、ということですか?」
騎士団長は首を振った。「それを教えるのはあたしの役目ではあらない。気の毒なことではあ
るが」
「じやあ、誰の役目なのですか?」
騎士団長は右手の人差し指で私をまっすぐ指さした。「諸君自身だよ。諸君自身が諸君に教え
るのだ。それ以外に諸君が秋川まりえの居場所を知る道はあらない」
「ぼくがぼく自身に教える?」と私は言った。「でもぼくは彼女がどこにいるのか、まったく知
らないのですよ」
騎士団長はため息をついた。「諸君は知っておるのだよ。ただ自分かそれを知っておるという
ことを知らないだけだ」
「堂々巡りの論議みたいに思えますが」
「堂々巡りではあらない。やがて諸君にもそれがわかる。ここではない場所で」
今度は私がため息をつく番たった。
「ひとつだけ教えてください。秋川まりえは誰かに誘拐されたのですか? それとも自分からど
こかに迷い込んだのですか?」
「それは彼女を見つけて、この世界に連れ戻したときに諸君が知ることだ」
「彼女は危険な状態にあるのですか?」
騎士団長は首を横に振った。「何か危機であるか、何か危機でないかを判断するのは人の役目
であって、イデアの役目ではあらない。しかしもしあの少女を取り戻したいのであれば、けっこ
う連を急いだ方がいいかもしれない」
道を急ぐ? それはどのような道なのだろう? 私はしばらく騎士団長の顔を見ていた。すべ
てが謎解きのように響く。もしそこに正解というものがあればだが。
「それであなたは今ここで、いったい何を手伝ってくれようというのですか?」
騎士団長は言った。「諸君が諸君白身に出会うことができる場所に、諸君を今から送り出すこ
とがあたしにはできる。しかしそれは簡単なことではあらない。そこには少なからざる犠牲と、
厳しい試練とが伴うことになる。具体的に申せば、犠牲を払うのはイデアであり、試練を受ける
のは諸君だ。それでもよろしいか?」
彼が何を言おうとしているのか、私には見当もつかなかった。
「それで、ぼくは具体的にいったい何をすればいいのですか?」
「簡単なことだ。あたしを殺せばよろしい」と騎士団長は言った。
「第47章 今日は金曜日だったかな?」にあったやりとりが騎士団長との間でここでもかわされ、
核心(ヒントの答え)が顕れるのか?ともあれ、今夜はここまで。
この項つづく
何の試練も受けていない者は、試練を受けている人に、何も教えることはできません。
レフ・トルストイ
高橋洋一 著 『戦後経済史は嘘ばかり』
第1章 「奇跡の成長」の出発点見るウソの数々
第2節 教科書にも出てくる「傾斜生産方式」はまるで効果がなかった
天来氏のデータ分析でも明らかになっていますが、鉄鋼や石炭の生産拡大と最も連
動が強かったのは、「鉄鉱石の輸入数量」でした。要するに、アメリカが鉄鉱石を回
してくれると生産が回復し、鉄鉱石を回してくれないと生産が伸びない状態でした。
原材料がなければ、日本政府も産業界も何もできなかったのです。
1947年の連い時期から生産が回復したのは、1947年6月にアメリカからの
重油の緊急輸入が実現したからです。それまでは生産が伸び悩んでいましたが、重油
が入ってきてからは急速に生産が拡大していきました。
終戦当初は、アメリカからの資金はガリオア資金(占領地域救済政府資金)だけで
あり、主に輸入していたのは食糧です。その後、エロア資金(占領地域経済復興資金)
によって産業のための原材料輸入ができるようになりました,1948年8月からの
エロア資金による原材料輸入の援助が日本経済を復興させました。
つまり、1948年の重油の緊急輸入」と「1948年からの原材料輸入」によっ
て生産が拡大したわけです。ちょうど、この時期が傾斜生産方式の計画実施の時期と
一致していて、1948年に計画がほぼ達成されたため、いかにも傾斜生産方式の成
果のように見られていますが、実際にはアメリカによる援助が最大の要因でした,
要は、傾斜生産方式はアメリカからの援助を引き出したという点で、ポリティカル
な意味では成功でしたが、エコノミックな意味ではほとんど効果のないものだったの
です。
実は、戦災に遭っても日本の工場はかなり生き残っていた戦争中に日本の国土は米
軍の爆撃で焼け野原にされました。しかし、不幸中の幸いというべきか、基礎的な生
産手段は爆撃によってあまり破壊されませんでした。この点については前出の天来氏
の論文でも触れられています。徹底的に爆撃されたように見えたわりには、意外なこ
とに工場の生産設備はかなり残っていたのです。
本章の冒頭で、戦争による国富の被害率で、工業用機械器具は34%強が失われた
ことを紹介しましたが、主に破壊されたのは大規模な軍需工場でした,
戦時中に軍事物資をつくっていた工場を2つに分けて考えるとわかりやすくなりま
す。1つは、軍直轄の軍需工場や重工業の大企業など、もともと軍用品をつくってい
た工場。もう1つは、戦前は生活用品をつくっていた民間工場です。
戦時体制に入ってから、軍部の指示で生産ラインを変更して、民生品から軍用品の
生産に切り替えた民間工場がたくさんありました。
たとえば、電化製品をつくっていた松下電器産業(現パナソニック)も、軍部の要
請で木造船や飛行機などをつくっています。まず松下電器産業は、1953年3年4
月に松下造船という会社を設立し、流れ作業の工程で250トン型の木造船を建造し
ます(最終的に56隻を建造)。この流れ作業方式に注目した軍は、今度は木製の飛
行機をつくるように要請。やむなくこれに応えて松下飛行機を設立しましたが、終戦
までにつくれた飛行機は4機だったといいます。
これはほんの一例で、戦争のために多くの民生用の工場が軍用品の生産を余儀なく
されていたのです。米軍は、軍需工場の所在地を調べ上げて徹底的に破壊しました。
ですが、転用された民生用工場の中には、爆撃を免れたケースもたくさんありました。
それらの生き残った工場を元の民生用の工場に戻せば、生活用品の供給は増えていき
ます。軍用品の需要はもうありませんので、工場の経営者たちは生きていくために急
いで民生用の工場に戻そうとします。放っておいても市場原理で民生品の生産へと転
換されていきます。少し時間はかかりますが、いずれ工場が完全に転換されれば、生
活用品の供給量が増えていきます。
問題は原材料です。工場を民間転換しても、原材料がなければ製品をつくることが
できません。政府のすべきことは原材料の確保です。
米軍と交渉して、原材料を人手して市場に流してやれば、あとは民間の力で勝手に
経済は回っていきます。 そういう意味では、「傾斜生産方式」を打ち出して
アメリカを説得し、アメリカから物資の輸入を実現させたのは、政府の功績といえま
す。つまり、「政府の傾斜配分の成果で産業が発展した」という認識は間違いで、
「政府の対米交渉で物資の輸入に成功したので、日本の産業全体が発展した」のです。
第3節 "復金債”のお金のばらまきは「悪性インフレ」の主因ではない
戦後の復興に必要だったのは、原材料の輸入と、もう1つは資金の供給です。世の
中にお金が出回れば、企業は民間転換や設備投資を進めやすくなります。
先述のように、政府は復興金融金庫をつくり復興金融債(復金債)を発行しました。
日銀引き受けで大量の資金を市場に投入しています。資金は傾斜生産方式の計画に沿
って、石炭・鉄鋼業界などに集中的に役人されたとされています。
しかし、今、見てきたように、「傾斜生産方式」そのものが生産拡大に大きな効果
を発揮したわけではありません。特定業界への融資自体にはあまり意味はありません
でした。意味があったのは、「お金をばらまいた」ことでした。政府が個別の産業を
ターゲットにしてお金をばらまいてもほとんど効果はありませんが、市場全体にお金
を供給することは経済を活性化させます。
お金が出回れば多くの人が商売をしたくなります。
物不足で、つくればすぐに売れる時代ですから、企業はどんどん設備投資をしよう
とします。そういう意味では、日銀が復金偵を買い取ってお金を市場に供給したのは
悪い政策ではなかったと思います。
ところが、日本には「金融政策で広くお金をばらまく」ことは悪いことだと考えた
い人たちが、たくさんいます,傾斜生産方式がとられたあとの時期にインフレが進ん
だことを、この「復金値」だけのせいにする人も、決して少なくおりません。
実際のところ、戦後に「悪性インフレ」と呼ばれるインフレーションが起こった最
大の要因は、金余りではなく供給不足でした。どの国でも戦争に負けたあとの経済は、
必ずインフレ状態になります。工場を破壊されて生産ができませんので、需要に対し
て供給が追いつかず、物価が上昇するからです。日本は、設備は「壊滅していなかっ
た」とはいえ、物資が途絶えていたこともあって生産がうまく回らず、供給不足に陥
ってしまっていたのです。
戦後のインフレを脱するための方法はシンプルです。工場を復活させればいいので
す。生産手段が復活して供給量が増えれば、物価は落ち着いていきます。
金をばらまくことによってインフレを促進するリスクはたしかにありますが、その
金で設備が増えていきますので、供給が需要に追いついていない状況である場合、少
し我慢していれば生産設備が整って供給が増え、インフレは自然に収まっていきます。
第4節 政府金融が呼び水となる「カウベル効果」が起こった実例はない
復興金融金庫のような「政策金融」が、特定の産業の振興や経済発展のためには不
可欠だった、と主張する人もいます。しかし、今、述べたように、「お金をばらまい
た」ことは効果があったものの、特定の産業を仲ばし、成功させるという政策金融の
本来の目的に間しては、戦後の復興金融金庫は実際には、それほど役に立ちませんで
した。
政策金融の必要性の根拠として用いられる理論は「カウベル効果」です。「カウベ
ル」は牛がつけているベルのことで、ベルをチャランチャランと鳴らすことが呼び水
になる、という考え方です。民間金融がどこに貸し付けていいかわからないときに、
政策金融がターゲット分野を決めて貸し付けをすると、民間金融の融資を誘発すると
いうロジックです。
しかし、政府よりも民間金融機関のほうが「目利き能力がある」というのが定説で
す。政府が「この分野が伸びる」とわかっているのであれば、民間はとっくにわかっ
ているはずです。貸せば儲かるわけですから、民間金融が政府に後れをとることはま
ずありません。
復興金融金庫は1953年に日本開発銀行に吸収され、その後、日本政策投資銀行
へと変わっていきますが、いずれの銀行も大した効果を上げていないのが実状です。
日本開発銀行は、大企業が設備投資をするときに、民間より少し低い金利で融資す
ることがありました。企業側としては、金利が安いので融資を受けてもいいという気
になります,これは税金を使って、民間金融の商売を奪っているのと同じですから、
民間金融にとっては迷惑なことでした,
政策金融のうち日本輸出入銀行だけは、一定の役割を果たしていました。日本の民
間金融機関は、東京銀行を除いて海外支店が少なかったため、海外での融資は不十分
でした。政府系の日本輸出入銀行は相手国の政府とも近い間係にありますので、相手
国の情報が入ります。
Feb. 29, 2016
そのため、海外輸出しようとする企業にとって日本輸出大銀行が、ある程度は投に
立つ存在だったのです。しかし、その後、民間金融機関が海外支店をたくさん設立し
ましたので、政府系金融機関の役割はほとんどなくなっています。
結局、政府が先に融資をして民間の融資を誘発するというカウベル効果は、現実に
は起こりませんでした。効果かおるのなら実例が挙げるられるはずですが、カうベル
の実例は示されていません。
ときどき、造船業界がカツベルの例として単げられますが、造船業界が伸びていく
時期には、民間が貸し出しをしていましたから、政府が貸し出す必要はありませんで
した。その造船業界も最終的には衰退していきました。
「政策金融が産業を育てた」というのは、大きな誤解の1つです。私は小泉政権(
2001年4月~2006年9月)のときに政策金融を廃止する仕事を手伝いました
が、そのときに、復興金融金庫以来の政策金融が日本の産業育成にほとんど効果を上
げてこなかった、という事実を再確認しました。