定公4年( -506)~哀公27年( - 468) / 呉越争覇の時代
※ 伍員(ごうん)と申包胥(しんほうしょう):舞台は長江(揚子江)の南岸にう
つる。楚の半玉の太子建(けん)を補佐すべき少傅(しょうふ:侍従次官)費
無極(けんぶきょく:『史記』では費無忌)は、建の妃として迎えた秦の公女
を、なんと父・平玉にすすめて王の寵を獲得し、主人の建とその太傳(侍従長)
伍奢を平王に讒言した。建は国外に亡命し、伍奢とその子伍尚は平玉に殺され
た(-522)。伍尚の弟伍員(宇は子胥)は復讐の鬼と化した。かれは、建とそ
の子勝(後の白公)のあとを追って国外に亡命し、やがて長江の下流・呉の公
子光(後の呉王闔廬:こうりょ)に依った。光が呉玉官僚を殺して自立するや
(-515)、その参謀となって活躍、定公4年(-506)ついに楚を柏挙(はく
きょ:楚の地、湖北省麻城県境)に敗り、呉軍は楚の国都郢(えい)に入城し
た。『史記』(伍子胥列伝)によると、そのさい伍具は楚の昭王の行方をハ方
さがしたが、見つからなかったので、平王の墓をあばいて、その屍に鞭うつこ
と三百、父と兄の恨みを報じた。山中に逃げていた申包胥が、人づてに「あま
りひどいではないか」と伍員に告げると、伍員は「日暮れて道遠し。自分はそ
んな道理なんかを考えているひまはなかった」と答えたという。申包胥が秦に
奔って援軍を乞うだのは、その年が明けてからのことである。
【経】 四年冬十有一月庚午、蔡侯、呉子を以いて楚人と柏挙に戦う。楚の師
収績す。庚辰(こうしい)、呉、郢に入る。
読書録:村上春樹著『騎士団長殺し 第Ⅱ部 遷ろうメタファー編』
第52章 オレンジ色のとんがり帽をかぶった男
そこに出現しているのは、雨田典彦が『騎士団長殺し』の左下の隅に描いたのと同じ光景だっ
た。「顔なが」は部屋の隅に間いた穴からぬっと頭を突き出し、四角い蓋を片手で押し上げなが
ら、部屋の様子をひそかにうかがっていた。長く伸びた髪はもつれ、顔中にたっぷり黒い髭がは
えていた。顔は曲がった茄子の上うに細長く、顎がしゃくれ、目は異様に丸く大きかった。鼻は
扁平で低かった。そしてなぜか唇だけが、果物のような鮮やかな色をしていた。身体は大きくな
い。全体的にバランス良くサイズを縮められた上うに見える。ちょうど騎士団長が、普通の大き
さの人間をそのまま「立体縮小コピー」したように見えるのと同じように。
それは『騎士団長殺し』に描かれた顔ながとはちがって、驚愕の表情を頭に浮かべ、今はもう
亡骸となった騎士団長の姿を呆然と見つめていた。自分の目が信じられないというように、小さ
くその目を開いて。いつから彼がそこでそのような姿勢をとっていたのか、私にはわからない。
私は雨田典彦の様子をうかがいながら騎士団長の息の根を止めることに意識を集中しており、部
屋の隅にいる男の存在にはまったく気づかなかったのだ。しかしおそらくその奇妙な男は、出来
事の一部始終を洩れなく目撃していたに違いあるまい。なぜならそれこそが雨田典彦の『騎士団
長殺し』に描写されていたことだったから。
顔ながは身動きひとつせず、「画面」の端っこでひとつの姿勢を維持していた。まるでその構
図の中にぴったり固定されてしまったみたいに。私は試しにそっと僅かに身体を動かしてみた。
しかし私が動いても、顔ながは何の反応も見せなかった。片手で四角い蓋を持ち上げ、目を大き
く見開いて、雨田典彦の絵に描かれたままの姿勢で騎士団長を凝視していた。瞬きひとつしなか
った。
私は全身に込めていた力を少しずつ緩め、定められた構図から抜け出すようにその場を離れ、
こっそり顔ながの方に近づいて行った。血に濡れた包丁を片手に、猫のように足音を忍ばせ、ど
こまでもひそやかに。顔ながをこのまま地下に戻してしまってはならない。秋川まりえを救い出
すために、騎士団長は自らの命を捨てて『騎士団長殺し』の画面を再現し、この顔ながを地中か
ら引っ張り出してきたのだ。彼の払った犠牲をむだにしてはならない。
しかしこの顔ながをどのように扱えば、秋川まりえに関する情報を得ることができるのか、そ
の筋道は私にはまるでつかめなかった。顔ながの存在と秋川まりえの失踪がどのように結びつい
ているのか、顔ながという男がいったい誰なのか、何なのか、すべてはわからないままだ。顔な
がに関して私が騎士団長から与えられた情報は、情報というよりむしろ謎かけに近いものだった。
しかし何はともあれ顔ながの身を確保しなくてはならない。それ以上のことはあとで考えるしか
ない。
顔ながの持ち上げている四角い蓋の大きさは、一辺六十センチほどだった。その蓋は部屋の床
と同じ淡いグリーンのリノリウムでできていた。閉められてしまえば、床と運いがまったくわか
らなくなってしまうことだろう。いや、おそらくは蓋そのものがそっくり消滅してしまうはずだ。
私か近づいても、顔ながは微動だにしなかった。彼はそこで文字通り固まってしまっているよ
うだった。ちょうど車のヘッドライトに照らし出された猫が、路上で硬直状態に陥ってしまうみ
たいに。あるいはその絵の構図を少しでも長く固定し、維持することが、この場で顔ながに与え
られた使命だったのかもしれない。いずれにせよ、彼がそのように一時的に不動の状態に陥って
いたことは、私にとっては幸運だった。もしそうでなかったら、顔ながは近寄ってくる私の姿を
目にして身の危険を察知し、さっさと地中に逃げ込んでしまっただろうから。そしておそらくそ
の蓋は一度閉められたら、もうニ度と外に向かって開かないようになっていただろう。
私は顔ながの背後に静かに回り込み、包丁を脇に置いて、素速く両手を差し出して襟の後ろを
掴んだ。顔ながは暗くくすんだ色あいの、比較的ぴたりとした服を着ていた。作業着のようなか
っこうの粗末な服だった。騎士団長の着ている上等な服とは、明らかに布地が追っている。ざら
ざらとした質素な手触りで、あちこちつぎがあてられていた。
私か襟を掴むと、それまで硬直状態にあった顔ながはそこではっと正気を取り戻し、慌てて身
を振りほどき、穴の中に逃げ込もうとした。しかし私はその襟を強い力で掴んで放さなかった。
何かあるうとこの男を逃がすわけにはいかない。そして全力を振り較って、顔ながの身体を穴か
ら地上に引き上げようとした。それに対して顔ながは必死に抵抗した。両手で穴の縁を掴み、身
体を突っ張って、地上に引きずり出されるまいとした。その力は思いのほか強かった。私の手に
噛みつこうとさえした。私は仕方なく、彼の長い顔を思い切り穴の角に叩きつけた。そしてしっ
かり反動をつけてもう一度。二度目の叩きつけで顔ながは意識を失い、その身体から急に力が抜
けた。それで私はその男を、ようやく穴から光の中に引っ張り出すことができた。
顔ながの身長は騎士団長より少しばかり高かった。七十センチか八十センチ、そんなところだ
ろう。彼が身につけているのは、農夫が農作業のときに、あるいは下男が庭を掃除するときに着
るような、あくまで実用的な衣服だった。ごわごわとした上衣に、もんぺに似たかたちのズボン。
腰のところが荒縄のような紐で結んである。履物は履いていなかった。たぶん普段から裸足で生
活しているのだろう、足の裏は硬く分厚く、どす黒く汚れていた。髪は長く、ここしばらくのあ
いだに洗われたり、櫛をあてられたりしたような形跡は見当たらなかった。黒い梨が顔の半分は
とを覆っていた。謳に覆われていない部分は青白く、いかにも不健康そうだった。全身のどの部
分をとってもあまり清潔には見えなかったが、不思議に体臭はなかった。
その外見から私に推量できるのは、騎士団長はおそらく当時の貴族階級に属する人であり、こ
の男は賤しい庶民なのだろうというくらいだった。飛鳥時代には庶民というのはこのような格好
をしていたのだろう。いや、あるいはそれはただ「飛鳥時代の庶民はこのような格好をしていた
だろう」と雨田典彦が想像した姿に過ぎないのかもしれない。でもそんな考証はどうでもいい。
今ここで私がやらなくてはならないのは、秋川まりえの発見に繋がる情報を、この奇妙な顔つき
の男から引き出すことだった。
私は顔ながをうつぷせにし、近くにかけてあったバスローブの紐をとり、それで両手を後ろ手
にきつく縛り上げた。そしてぐったりしたその身体を引きずって部屋の中央に運れてきた。体重
は身長相応に、それほど重くはない。中型犬程度のものだ。それから私は窓のカーテンをまとめ
るためについていた布紐を外し、それで彼の片足をベッドの脚に縛り付けた。これで意識が戻っ
ても、もうあの穴に逃げ込むことはできない。
縛られて床に横たえられ、意識を失い、明るい午後の陽光を全身に浴びた類ながは、みすぼら
しく哀れに見えた。暗い穴から類を突き出して目を光らせ、こちらをうかがっていたときの、は
っとするような不気昧さはそこから既に失われていた。近くから子細に観察すると、悪意や不吉
な意志を持っているもののようには見えなかった。それほど類が良さそうにも見えない。そして
その風貌にはどことなく鈍重な律儀さがうかがえた。そして臆病そうでもある。自分で何かを立
案したり判断したりするのではなく、上から指示されたことをそのまま従順に遂行する種類の人
間だ。
雨田典彦は相変わらずベッドに横だわったまま、静かに目を閉じていた。微勤だにしない。生
きているのか死んでいるのか、見かけからはまったく判断がつかなかった。私は彼の口もとに耳
を近づけてみた。ほんの数センチしか離れていないところに。耳を澄ませると、とても微かにで
はあるが、遠くの海鳴りのように呼吸の音が聞こえた。まだ亡くなってはいない。彼は深い昏睡
の底に静かに横だわっているだけだ。そのことがわかって私はいくらかほっとした。政彦が席を
外しているあいだに父親が息を引き取ってしまった、というようなことにはしたくなかったから
だ。雨田典彦はそこに横向きになり、さっきとはまるで違うとても安らかな、満足げと表現して
もいいような表情を類に浮かべていた。自分の目の前で私が騎士団長を(あるいは彼にとっての
殺されるべき人物を)刺し殺すのを見届けて、それでようやく何かの思いが遂げられたのかもし
れない。
この項つづく
【ZW倶楽部とRE100倶楽部の提携 12】
● オールソーラーシステム篇:世界最大の電動ダンプトラック
9月14日、スイスの企業コンソーシアムは、世界最高の採石専用電動ダンプトラックを開発。車
体重量が非積載時45トン、積載時65トン、バッテリーは、ステラ社のモデルS電気自動車8台
分相当の7000キロワット時、タイヤの直径は約2メートル、車体はコマツダンプトラック:Kom-
atsu HD 605-7(下写真)をベース。電動機はブレーキ時に発電し充電、特に下り坂でフル充電状態
となる。なお、充電装置はニッケルマンガンコバルト電池1440個/重量4.5トン。最大電流、
3千アンペア、最大斜度13%対応。排ガスゼロ、静粛性に優れた省エネルギー車、大規模の建設
機械の新分野を担う。
● オールソーラーシステム篇:洗濯できる太陽電池
9月18日、伸縮性があり洗濯もできる超薄型の太陽電池を開発したと東京大などのの研究チーム
が英科学誌ネイチャー・エナジー(電子版)に公表。衣服に貼り付け、ウェアラブル(身につけら
れる)機器の電源して応用できる。半導体の性質を持った有機化合物を極薄の高分子膜上に塗りつ
けて太陽電池を作製。厚さがわずか3マイクロメートルで、曲げたり押しつぶしたりしても正常に
作動する。ペンで染みを付けた後、洗剤液中でかき回して汚れを落としても、電池の性能は低下し
ない。太陽光を電力に変換する効率も、従来の薄型太陽電池の2倍高いという。また、2枚の透明
ゴムで挟めば、伸縮性と耐水性をさらに強化できシャツなどに貼り付け、血圧や体温を常に測定し
て病気を早期発見する医療器具や、衣服と一体化した薄型スマートフォンなどの電源に使えるかも
しれないと担当者ははなしている。変換効率30%超パネル時代が約束されている現在、変換効率
以外の分野での応用商品開発に拍車がかかる。面白い!
Sep.18, 2017
Sep.6, 2017● オール燃料電池篇:使い捨て自律バイタルレコーダ
9月18日、ニューヨーク州立大学の研究者は、糖尿病患者が運動中のグルコースレベル測定でき
る新しい紙ベースの使い捨てセンサーパッチを開発しとことを公表。最も広く普及しているグルコ
ース自己試験方法は、血液中のグルコースレベルの監視だが、運動中の低血糖を予防に適していな
い。、1)根底にあるプロセスが、侵襲的で不便な血液採取に依存し、様々な電解質とタンパク質を
含む汗による汚染や皮膚刺激の可能性がある、2)患者が、身体活動中に多くの付属品を運ぶ必要が
ある、3)洗練された電気化学的検出技術と十分な電気エネルギーが必要とされ、コンパクトでポー
タブルな方法ではない。この発明により次のようなことが期待できる。人間の汗に含まれるグルコ
ースを非侵襲的に測定し、自己給電型、着用可能、使い捨て可能なでる。このウェアラブルでな使
い捨てのバイオセンサは、垂直に積み重ねられた紙ベースのグルコース/酸素酵素燃料電池を標準の
Band-Aid接着パッチに内挿できる。
今夜の寸評:解散風 古色蒼然
疑惑隠し解散と揶揄される解散風が永田町で吹いている。言い換えれば、党利党略のエゴ解散とい
えるこの解散、非核化、脱原発、非武器輸出、地方分権促進の税制改革などのビジョンを鮮明でき
ず保身に窮していると見透かされている古色蒼然の解散風である。