※ 五十歩百歩:梁の恵王が言った。「わたしは国政にはずいぷんと心を
伜いてきたつもりだ。河内が凶作の年には、住民を河東に移住させ、
食糧を河内に運び入れた。河東が凶作の年にも同じようにした。隣国
の政治をみても、わたしほど配慮しているようには思えない。それな
のに、向こうの人口が減りもしなければ、こちらの人口がふえもしな
い。これはどういうわけでしょう」
孟子は答えた。「あなたは戦が好きなようですから、ひとつ戦話にた
とえて申しあげましょう。進撃の陣太鼓が鳴りわたり、いざ合戦とい
うとき、鎧を捨て刀をひきずって逃げ出した兵士がいました。ひとり
は百歩逃げてとどまり、ひとりは五十歩逃げてとどまった。さて、そ
のとき、五十歩逃げた者が百歩逃げた者を隠病者めとあざけったとす
れば、王はどうお考えになりますか」
「それはおかしい。ただ百歩逃げなかったというだけだ。逃げここと
には変わりはない」と恵王が言った。「
「先生、その理屈がおわかりならあなたがこれしきの善政で人口が隣
国よりふえるものと期待するのもおかしなことです。農繁期に農民を
徴用にかり出さなければ、食糧には事欠かなくなります。乱獲を禁ず
れば、魚には不自由しなくなります。乱伐を禁止すれば、木材に不自
由しなくなります。食糧や魚に事欠かず、木材が豊かになれば、人民
は生活に不安がなくなり、死者を手厚く葬ることもできます。そうな
れば人民は不平不満を抱きません。人民に不平不満を抱かせないこと
こそ、王道政治の第一歩です。五畝の宅地を利用して桑を植えるよう
奨励すれば、五十すぎの老人には、温かい絹の服を着せてやれます。
家畜が繁殖するよう飼育法を指導すれば、七十すぎの老人には、肉を
食膳にそなえてやれます。農繁期に人民をかり出さなければ、百畝の
田で、散人家族のT京が飢えることはありません。そのうえで教育を
重視し、孝、仰の道徳を徹底させれば、白髪まじりの老人が重い荷物
を持ち歩くような状態はなくなります。老人は絹を着、肉を食べ、人
民は飢えもこごえもしない政治、そういう政治を行なって、しかも王
者になれなかったという例はありません。
ところがあなたは、犬や泳が人間の食糧を食っているのを見ても、取
り締まろうとしない。道端に餓死者がころがっていても、穀倉を間い
て救済しようとしない。人民が餓死しても、『わしの責任ではない。
凶年のせいだ』とおっしゃる。これは、人を刺し穀しておいて、『わ
しが殺したのではない、刀が殺したのだ』とうそぶくのと、なんのち
がいがありましょう。凶年に罪をなすりつける態度をあなたが捨てた
とき、天下の人民はお国に暮い寄って米るのです」
〈五畝の宅地〉 周の制度で、万人の農夫に分け与えられた宅地。
約260坪。
〈百畝の田〉 周代に行なわれたといわれる井田法では、下図のよ
うに九百畝の耕地を九等分し、中央を公印、他を私
田とする。公田はハ戸で共同耕作し、収穫を租税と
して納める。
読書録:村上春樹著『騎士団長殺し 第Ⅱ部 遷ろうメタファー編』
第54章 永遠というのはとても長い時間だ
「どんな似顔絵ができるのか、わたしとしてもたいへん興味かおる」と顔のない男は言った。
「しかし残念ながらここには紙というものはない」
私は足下に目をやった。地面に棒で絵を描けるかもしれない。しかし足下の地面は堅い岩場だ
った。私は首を振った。
「ほんとうにそれがおまえの身につけているものの一切なのかね?」
私はもう一度すべてのポケットを念入りに探してみた。革ジャンパーのポケットにはもう何ひ
とつ入っていなかった。空っぽだ。しかしズボンのポケットの奥にとても小さなものがあること
に気づいた。それはペンギンのプラスチックのフィギュアだった。免色が穴の底でみつけ、私に
渡してくれたものだ。細いストラップがついている。秋川まりえが携帯電話にお守りとしてつけ
ていたものだ。それがなぜか穴の底に落ちていた。
「手の中にあるものを見せてごらん」と顔のない男は言った。
私は手を広げて、ペンギンのフィギュアを男に見せた。
顔のない男は空白の目でそれをじっと見ていた。
「これでよろしい」と彼は言った。「これを代価としよう」
それをこの男に渡してしまっていいものかどうか、私には判断がつかなかった。それはなんと
いっても秋川まりえが大事にしていたお守りなのだ。私の持ち物ではない。それを勝手に誰かに
あげてしまっていいものだろうか? そうすることで、秋川まりえの身に何か悪いことが起こっ
たりはしないのだろうか?
しかし私には選びようがなかった。それを顔のない男に渡さなければ、私が川の向こう岸に行
くことはできないし、もし向こう岸に行けなければ、秋川まりえの行方を突き止めることもでき
なくなってしまうだろう。そして騎士団長の死も無駄に終わってしまう。
「それを渡し賃としてあなたにさしあげます」と私は思い切って言った。「川の向こう岸までぼ
くを運んでください」
顔のない男は肯いた。そして言った。「いつかおまえにわたしの肖像を描いてもらうことにな
るかもしれない。もしそれができたなら、ペンギンの人形はそのときに返してあげよう」
男は先に立って、木製の突堤の先に繋がれた小さな舟に乗り込んだ。舟というよりは平たい菓
子箱のような角張った格好をしている。頑丈そうな厚い木材で作られていて、縦に細長く、全長
はニメートルほどしかない。たぶんコ皮にそれほど人数を運ぶこともないのだろう。舟底の真ん
中あたりに太い柱が▽本立っていて、そのてっぺんに直径十センチほどの頑丈そうな鉄の輪っか
がついていた。そしてその輪っかの中に太いロープが通されている。ロープはこちらの岸から、
向こう側の岸までぴんとほとんどたるみなく張られていた。どうやら、川の逸い流れに押し流さ
れないように、そのロープをたどるようにして舟が行き来するらしい。舟はとても古くから使わ
れているもののようだった。そこには推逸機らしきものもついていないし、櫓もなかった。ただ
木製の箱が水の上に浮かんでいるだけだ。
私は彼のあとがらその舟に乗り込んだ。舟底には平たい板が渡されていたので、私はそこに腰
を下ろした。頑のない男は、真ん中に立った大い柱にもたれかかって立ち、何かを待つように目
を閉じ、口をつぐんでいた。私も何も言わなかった。沈黙のうちに数分の時間が経ち、やがて舟
は決心でもしたみたいにゆっくりと前に進み始めた。いかなる動力でもって舟が動いているのか
は判別できなかったけれど、とにかく我々は無音のうちにそろそろと対岸に向かって進んでいっ
た。エンジンの音も、またどのような種類の機械音も聞こえなかった。私の耳に届くのは船の脇
腹に間断なくぷつかる川の水音だけだ。舟は人が歩くのとほぼ同じくらいの速度で前に進んだ。
水の勢いで舟は揺れ、また斜めに傾いでいたが、輪っかに速された頑丈なロープのおかげで、流
されることはなかった。たしかに男の言ったように、人が舟に乗らずこの流れを渡りきることは
まず不可能だろう。顔のない男は舟が大きく揺れても、何ごともないように静かに柱にもたれか
っていた。
「向こう岸に渡れば、秋川まりえの居場所がわかるのでしょうか?」と私は川の真ん中あたりで
役に尋ねてみた。
顔のない男は言った。「わたしの役目はおまえを向こう岸に渡してあげることだ。無と有の挟
間を、おまえにすり抜けさせるのが仕事だ。それより先のことはわたしの職分ではない」
やがてこつんという音がして、舟は対岸の突堤に軽くぷつかって停止した。舟が停まっても、
顔のない男はしばらくそのままの姿勢をとり続けていた。大い柱にもたれて顔の中で何かを確認
しているみたいだった。それからひとつ大きく空白の息を吐き、舟を降りてその突堤にあがった。
私もそのあとに従って舟を降りた。突堤も、そこについたウィンチのような機械装置も、出発し
たところにあったものとまったく同じ格好をしていた。往復してもとあった場所見反ってきただ
けではないのか、という気がしたほどだった。しかしそうではないことは、突堤を離れ、地面に足をつけた
ときにすぐにわかった。それは対岸の土地だった。そこはもうごつごつした岩場ではなく普通の土の地面
になっていたからだ。
「ここから先、おまえは一人で道んでいかなくてはならない」と顔のない男は私に告げた。
「方向も道筋もわからなくても?」
「そういうものは必要とはされない」と男は乳白色の虚無の中から低い声で言った。「もう川の水を飲んだ
のだろう。おまえが行動すれば、それに合わせて関連性が生まれていく。ここはそういう場所な
のだ」
それだけを言うと、顔のない男はつばの広い黒い帽子をがぶりなおし、私に背中を向けて舟に
戻っていった。彼が乗り込むと、舟はロープを辿って来たときと同じようにそろそろと向こう岸
に戻っていった。まるでよく飼い慣らされた生き物のように。そして舟と顔のない男は、フ伴と
なって霜の中に消えていった。
私は突堤をあとにし、とりあえず川下に向かって歩くことにした。たぶん川から離れない方が
いいだろう。そうすれば喉が謁いたときにまた川の水を飲むこともできる。少し歩いて振り返っ
たとき、突堤は既に白い言の奥に隠されていた。まるでそんなものは最初から存在しなかったか
のように。
川下に進むにつれて、川幅は次第に広くなり、流れも目に見えて穏やかになっていった。泡立
つ波も見えなくなり、今では水音もほとんど聞こえなくなった。わざわざあんな流れの激しい場
所を横切るよりは、これくらいの穏やかな流れのところに渡し場を作ればいいのに、と私は思っ
た。距離が少し長くなったとしても、その方が川を渡るのは違かに楽なはずだ。しかしたぶんこ
の世界には、この世界なりの原理があり、考え方があるのだろう。あるいはこのような穏やかな
流れの場所には、かえってより多くの危険が僣んでいるのかもしれない。
試しにズボンのポケットの中に手を突っ込んでみた。しかしそこにはやはりもうペンギンのフ
イギュアはなかった。そのお守りをなくしてしまったことを(私はおそらくそれを永遠に失って
しまったのだろう)、不安に感じないわけにはいかなかった。あるいは私は間違った選択をした
のかもしれない。しかしそれをあの男に渡す以外に、どのような選択の余地が残されていただろ
う? 秋川まりえがそのお守りから遠く離れても無事でいてくれるといいのだが、と私は願った。
願う以外に今の私にできることは何もなかった。
雨田典彦のベッドの枕元から借りてきた懐中電灯を片手に、川沿いの上地を私は足もとに用心
しながら前に進んでいった。懐中電灯のスイッチは消したままにしていた。あたりはそれほど明
るくはなかったけれど、懐中電灯の光を必要とするほどではなかったから。足もとはちゃんと見
えたし、四、五メートル先までなら不足なく見通すことができた。私のすぐ左手を川はゆっくり
と静かに流れていた。対岸はやはりときたまぼんやりと見えるだけだった。
進んで行くにつれて、私の前に次第に違のようなものが形成されていった。はっきりとした道
ではなかったけれど、明らかに道としての機能を果たしているようだった。前にも人々がそこを
歩いたという、漠然とした気配があった。そしてその遠は少しずつ川から遠ざかっていくようだ
った。私はあるところで立ち止まって迷った。このまま川の流れに沿って下流に違んでいくべき
なのだろうか? それともその道らしきものを辿って、川から離れていくべきなのだろうか?
しばらく考えてから、川を離れ道に洽って連むことを選んだ。その道が私をどこかに導いてい
ってくれるような気がしたからだ。おまえが行動すれば、関連性がそれに合わせて生まれていく、
と顔のない渡し守は言った。この連もやはりその関連性のひとつなのかもしれない。私はその自
然な示唆(の上うなもの)に従ってみることにした。
川から連ざかるにつれて、道は次第に登り坂になっていった。水音はいつの間にか聞こえなく
なっていた。ほとんど直線に近いなだらかな坂道を、私は一定の歩調をとって歩いていった。言
はもう消えていたが、光はあくまでぼんやりと談く単調だった。先を見渡すことはできなかった。
そんな光の中を、私は規則正しく呼吸をし、足もとに注意しながら歩を連めた。
どれほど長く歩いただろう? 時間の感覚はとうの昔に失われていた。方向の感覚も失われて
いた。歩きながらずっと考えごとをしていたせいもある。私には考えなくてはならないことがた
くさんあった。しかし実際にはひどく切れ切れにしかものを考えることができなくなっていた。
何かひとつのことを考え上うとすると、すぐに何か別の考えが頭に浮かんでしまう。新しい考え
は、まるで大きな魚が小さな魚を呑み込むみたいに、それまでの考えをすっぽりと呑み込んでし
まった。その上うにして思考はどんどんあるべきではない方向にずれていった。そして最後には、
自分か今いったい何を考えているのか、何を考え上うとしていたのか、すっかりわからなくなっ
てしまった。
そんな風に意識が乱れていたせいで、注意力がすっかり散漫になり、もう少しでそれに文字通
り正面衝突してしまうところだった。でもそのとき私はたまたま何かに躍いて転びそうになり、
危うく体勢を立て直し、そこで歩を止めて、伏せていた顔を上げた。あたりの空気が急激に変化
する気配が肌に感じられた。はっと意識を取り戻すと、巨大なかたまりのようなものがすぐ目の
前に黒々と聳え立ち、追っていた。私は息を呑み、言葉を失った。一瞬、わけがわからなくなっ
てしまった。これは何だ? それが森であることが理解できるまでに、しばらく時間がかかった。
それまで草一本の葉一枚見当たらなかったところに、見上げんばかりの森がぬっと姿を現し
たのだ。驚かないわけにはいかない。
しかしそれは間違いなく森だった。樹木は複雑に絡みあって、ほとんど隙間なく繁り、森の内
部はいかにも僻蒼としていた。いや、森というよりは「樹海」といった方が近いかもしれない。
その前に立ってしばらく耳を澄ませてみたが、何も聞こえなかった。風が枚を揺らせる音もなく、
鳥の声も聞こえなかった。どのような音も私の耳には届かなかった。まったくの無音だ その森
の中に足を踏み入れることに。私は本能的な怯えを感じた。樹木の繁り方はあまりにも
緊密であり、奥にある闇はとこまでも深そうだった。どれはどの規模を持つ森かもわからないし
迷がどこまで続いているかもわからない。あるいは迷はあちこちで抜分かれして迷路をつくり出
しているかもしれない。もし中で迷ってしまったら、そこから抜け出すのはとてもむずかしくな
るだろう。それでも思い切って中に入っていくほかに選択肢はなかった。私が歩いてきた道は森
の中にまっすぐ吸い込まれていたし(まるで鉄道の線路がトンネルに吸い込まれるように)、こ
こまでやって来て、今さら川まで後戻りするわけにはいかなかった。また後戻りして、まだそこ
に川があるという確証もなかった。とにかく私はこの道に沿って迷もうと心を決めて迷んできた
のだ。何かおるうと前に進み続けるしかない。
第54章の途上にすぎないが、著者村上の集大成の作品として、羽毛も大量に集積すれば重くなるよ
うに、ずっしりとした重みがわたしの頭にのしかかるように感じる。「おまえが行動すれば、関連性
がそれに合わせて生まれていく」という顔のない渡し守の言葉に表されるように「自由」と「共生」
に向かい闘うという<テーマ性>に「遷ろうメタダー」がすべて収斂されていくかのようである。
この項つづく
高橋洋一 著 『戦後経済史は嘘ばかり』
第1章 「奇跡の成長」の出発点見るウソの数々
第12節 ドッジラインの金融引き締めが深刻な不況を招いた
昔も今も変わっていませんが、インフレについて議論するときに、極端な例だけで考える人が
たくさんいます。お金の要因とともに、供給、需要の要因の両方を見なければ、物価について理
解することはできません,
戦争時においては、供給面が大きなウエートを占めます。戦時体制が始まると、民生品をつく
っていた工場もみな軍事にシフトして、極端に供給能力が低下します。マネー要因ではなく供給
要因でインフレが起こるのです。そこに中央銀行が軍事資金としてのお金を供給するとダブルパ
ンチになります。
しかし、戦争が終わって生産設備が回復していくと物価はやがて落ち着いていきます。どのく
らいの期間でインフレが収まるかは国によって異なりますが、どの国でも戦後のインフレは必ず
終息しています。工場を再整備して、物をつくるようになれば物価は下がるのです,
そこを見誤ってマネー要因と考えてしまうと「復金値でお金をばらまいたためにインフレにな
った」とか「金融引き締めをしなければいけない」という意見が出てきて、必要な設備投資資金
まで市場から回収してしまうことになります,インフレ対策として生産設備を増やさなければい
けない時期に逆効果になってしまいました。
ドッジこフインで金融を引き締めてしまったため、復興しかかっていた日本経済は深刻な不況
に陥りました。
第13節 日本復興の員大の原動力は、政策ではなく「朝鮮特需」
もし、そのままいったら、日本は大変なことになっていたかもしれません。杓子定規なドッジ・
ラインの緊縮財政のせいで、深刻な不況が続いていたでしょう。必要な生産設備もつくれなかっ
たはずです。労働争議が頻発して、社会主義の方向に転換し、再び社会党政権が誕生していたか
もしれません。農地改革で土地をもらった地主層は社会主義化に反対したかもしれませんが、サ
ラリーマン層など一般労働者は雪崩を打ったように社会主義の方向に流れていった可能性もあり
ます。当時は社会主義が崇拝されている時代でしたので、まさに瀬戸際だっただろうと思います。
GHOぶ経済を悪化させる政策を行ったにもかかわらず、日本経済が復活できたのは、朝鮮戦
争による特需のおかげです。思わぬ需要ができたために、経済が回っていきました。資本主義を
続けるか、社会主義に転換するか。ドッジこフインをきっかけにした大不況で社会主義化しかね
ないところを、朝鮮戦争が資本主義に戻してくれたと見ていいだろうと思います,
朝鮮戦争勃発で経済的には特需が起こって好景気になり、政治的にはGHQによるレッドパー
ジが始まって、共産主義者が追放されました。そういう意味では、朝鮮戦争という神風が吹いた
ようなものです,
戦後の五年間を振り返ってみると、傾斜生産方式が見せかけだったことに代表されるように、
あらゆる経済面を統制しようとした経済安定本部はほとんど復興の役に立っていなかったといえ
ます。スーパー経済官庁というイメージは立派ですが、実際には機能していませんでした,
しかもGHOぶ展開した「経済安定9原則」による緊縮財政や金融引き締めも、深刻な不況を
生み出しただけで、経済復興にはつながりませんでした,
身も蓋もない言い方ですが、日本経済を復興させたのは、政府の統制や指導ではなく、「朝鮮
特需」という外的要因です。もし朝鮮特需がなければ、日本経済はどうなっていたかわかりませ
ん。
このように、高橋が指摘するように、戦争が有効需要かどうか別にして、需要拡大。景気拡大につな
がったベトナム戦争と同様、「直接的な戦闘に参加せず、ガチャマン景気に沸いた日本にとっては不
幸中の幸いであった。
第2章 高度経済成長はなぜ実現したのか?
第1節 「神話以来の好景気」が連発した時代
「1950年代後半から1970年代初頭にかけて、日本が高度成長をした」ということは誰も
が知っています。1961年からの10年間で国民所得を倍にするという池田勇人首相の「所得
倍増計画」もよく知られています。
実際、1955年から1973年まで、日本の経済成長率は平均して10%近くに達していまし
た。この間、幾度も好景気が訪れています,
1950~1953年の朝鮮戦争による特需景気が終わると、次に早くも1955~1957
年の「神武景気」が到来します。「こんなに景気がいいのは、初代天皇の神武天皇以来だ」とい
うことで、つけられた名です。1957年7月から1958年6月にかけて不況となり「なべ底
不況」と呼ばれますが、しかし、1958年から3回にわたり実施された公定歩合の引き下げに
より、今度は「岩戸景気」と呼ばれる好景気になります。景気は1961年12月まで、42ヵ
月間にわたって拡大し、神武景気の31ヵ月を超えたので、「神武天皇より前の「天の岩戸」の
神話の時代以来の好景気だ」という話になったのです,
その後、10ヵ月の不景気を挟んで、今度は1964年の東京オリンピックに向けた「オリン
ピック景気」になります。1962年11月から1964年10月まで景気が拡大しますが、さ
すがにオリンピックが終わると、建設需要やテレビの需要なども落ち込み、構造不況とも呼ばれ
る「四十年不況」(昭和40年=1965年)になります。
ところが、政策金利を引き下げ、さらに戦後初の「建設国債」の発行などの手を打つと、19
65年11月から1970年7月までの57ヵ月間続いた「いざなぎ景気」となります。天の岩
戸の神話もはるかに超えて、「神話の始まりでもあるイザナギ・イザナミの神様以来の景気だ」
ということになったのです。
こう見ていくだけでも、まさに猛烈なる、イケイケどんどんの時代です。それこそ景気の名前
からして、「神話以来の好景気」が次々と逓発しているのですから。 デフレ不況が続く現代し
か知らない人だちからすれば、あまりに羨ましすぎて、想像もできないかもしれません。「いざ
なぎ景気」などという名前をつけられてしまったら、日本神話でその先にさらにさかのげるのは
難しいですから(「古事記」などでは、イザナギ、イザナミの前にも神様がいますが、人口に論
叢しているとはいえません)、
「そら見たことか。そんな大それた名前をつけたから、高度成長が終わってしまったじやないか」
などと、文句をいいたくもなってきます。
第2節 高度成長時代には、実は何のめぼしい政策もなかった
では、その当時、日本政府はどんな政策をとったのでしょうか。
たしかに池田首相は1961年からの10年間で国民所得を倍にするという「所得倍増計画」
をぶちあげたわけですが、「この政策をしたから1960年代は高度成長した」という話を聞い
たことがある人はいないのではないでしょうか。
実は、具体的な経済政策はほとんど何もしていません。むしろ、何もしなかったことが良か
ったのです,日本のように戦前から一定の産業基盤のできている国では、政府が民間の指導をす
るより、民間に任せたほうが経済は成長するからです,
所得倍増計画の立案者は大蔵省出身の下村治ですが、下村の話を聞いてもいても具体的に「こ
れをやった」というものは出てきません。特効薬のような政策をしたわけではなく、景気が悪く
なったら政策金利(公定歩合)を下げたり、政府支出を増やしたり、などという普通の政策をし
ただけです。
もし、高度成長させる特効薬のような政策かおるのなら、今でもみんながまねをするはずです。
しかし、めぼしい政策がなかったため、その後のモデルにはなっていません。
池田政権(1960年7月~1964年11月)が所得倍増論を打ち出す前の岸信介政権(1
957年2月~1960年7月)のころから、「安定成長」の計画にするか、「高度成長」の計
画にするかで議論が続いていました。岸政権から池田政権に変わり、池田首相は 「高度成長」
になると読み岡って、所得倍増計画を打ち出しました。
もし池田首相が「高度成長」ではなく「安定成長」を選んでいたら、政府が景気抑制的で余計
なことをした可能性があります。
所得倍増計画は10年で国民所得を倍にする計画でしたが、7年で達成されています。「安定
成長」を掲げていたとしたら、「こんなに成長しているのはおかしい。不吉な予感がする,安定
成長に戻すべきだ」という理屈で、経済の足を引っ張る政策を打ち出したかもしれません。
目標を低めに見ていると、それを上回る成長をしたときに、「想定と達うのは良くないことだ」
と いう意見が出てきます。
高度成長期には、実質GDP成長率が110%を超える年が10年間のうちに7回もありまし
た。もし「安定成長」を目指していたら、成長率が7~8%になった段階で、「過熱しているか
ら引き締めをしなければいけない」という意見が出てきたかもしれません。政府が余計なことを
してしまって、成長の足を引っ張っていた可能性もあります。それをしなかったことが、高度成
長を成功させた殼大の要因です。
当時はIドル=360円でしたので、有利な為替レートにうまく乗って輸出企業はどんどん成
長していきました。政府が民間の邪魔をしなかったことで高度成長を達成することができたので
す。高度成長期から学べることは、政府が現状をきちんと理解して、正しい読みをすることが重
要だということです。読みが間違っていると、間違った政策が行われて、経済の足を引っ張って
しまいます。読みが正しければ、「今は政府が余計なことをしないほうがいい」という判断もで
きますし、状況に応じて必要な政策を打ち出すこともできます。
池田政権は「高度成長する環境が整っている」と、正しく状況を読んで、笛を吹きました。笛
を吹いただけで、余計なことは何もしなかったことで高度成長を達成することができたのです。
この項つづく
【ピエゾタイル事業篇:振動発電素子の最新特許事例】
❏ 特開2017-175751 振動発電素子 国立大学法人東北大学
【概要】
あらゆるモノがインターネットを介して接続され、モノ同士あるいは人とモノが相互に情報を交換し
新たな価値を生み出すIoT(Internet to Things)技術の発展が目覚しいが、IoT関連デバイスは、主に人な
どの移動体や頻繁なアクセスが難しい場所に設置されることが多い。電子的な機能を駆動するには、
電源が必須であり、これまではボタン電池等の蓄電池から電源を供給していた。回路の低消費電力化
により、電池寿命が延びているものの、定期的な充電や電池交換は非常な手間となり、IoT関連デバ
イス普及の妨げている中、エナジーハーベスト(環境発電)のなかで、環境中の振動による力学的
エネルギーを利用する振動発電は、比較的エネルギー密度が高く、有望なエネルギー源に注目されて
いる。振動を利用した発電技術としては、圧電体を利用した方法があり、圧電体は、歪むと電荷を発
生。圧電体を振動させて歪ませることで電荷を回収でき圧電体を利用した振動発電装置には、片持ち
梁状態で固定された振動部材と、振動部材の自由端側に取り付けられた錘と振動部材に接合された圧
電体を備えた構造をしており、外部から与えられた振動により生じた振動部材の振動を圧電体により
電気エネルギー変換する。振動部材/圧電体は所望の固有振動数で共振するよう寸法が定められてい
る。
また、時計に内蔵される振動発電装置が記載されている。細長い帯状の圧電体が螺旋状に成型され、
圧電体の外表面に電極が形成されている。圧電体の一端は固定され、他端には錘が取り付けられてい
る。外部振動により錘が旋回面内で旋回運動することで、圧電体に力が加わり発電が行われる。圧電
体には、圧電セラミックスが用いられ、直径方向に分極されている特許事例がある。 一般に、環境
に存在する振動は、周波数が低い。例えば、建物や橋梁などの振動数は、10Hzから100Hz程
度であり、人の歩行に伴う振動数は数Hz以下と非常に低い。従来の片持ち梁構造において、そのよ
うな低い振動数に共振する固有振動数を得ようとすると、圧電体の長さを数十cmに設定する必要が
あり、小型化の妨げになっていた。一方、特許文献2に記載の構造は、長い圧電体をコンパクトに収
容することが可能となる構造となっており、低周波振動による発電に適している。
しかし、発電に利用している変位、錘(おもり)により旋回方向に伸び縮みする変位と分極方向が直
交し、発電効率が小さくなる。また、圧電セラミックスは脆弱であり、耐久性に懸念がある。シム(
磁気)板を構造体とし強度向上を図ったものあるが、しかし、シム板形状に圧電体形成には、水熱処
理/成膜形成する必要がある。一般に水熱処理や圧電膜は圧電性が理論値より小さい、発電効率の低
下が懸念される。このように、従来の片持ち梁構造で、IoT関連デバイスに適した低周波振動発電を
実現には、デバイスサイズが大型化してしまう。また、圧電セラミックスなどを螺旋状に成型した構
造は、低周波振動発電に適しているものの、強度不足や発電効率の低下が懸念される。
このような、強度不足なくより高い効率で発電するに当たり、下図のように、圧電単結晶体101の
コイルバネ100より構成されている。コイルバネ100を構成する圧電単結晶体101の、コイル
バネ100の軸芯を通る平面に平行な面の断面における圧電単結晶体101の結晶状態は、コイルバ
ネ100の発電領域において同一(一定)とすることで問題を解決する。