※ 政治的殺人:「先生のご教示を仰ぎとう存じますが」。 梁の恵王の請いに
応じて、孟子はこう問いかけた。「人を殺すのに、混紡でなぐるのと、刀で斬
るのと相違がありましょうか」。「人を殺したことに変わりはない」。「では、刀
で殺すのと政治で殺すのとでは?」梁の恵王が言った。「わたしは国政
にはずいぷんと心を「それも同じことです」。「あなたの調理場には、
脂ののった肉があり、馬小屋には肥えた馬がつながれています。一方、
人民は飢えにやつれ、農村には餓死者がころがっています。これでは
獣をけしかけて人間を殺させるようなものです。獣の共食いでさえい
やなものです。まして、人民の父であり母であるべきあなたが、獣を
けしかけて人間を殺させるようでは、どうして人民の父母だなどとい
えましょうか。孔子は、『俑(よう)を最初に作った人は、子孫が絶
えるだろう』。と言いました。生きた人間そっくりに作って死者とと
もに埋めるのはいかにも残酷であったからです。人形でさえそうなの
です。まして生きた人間を餓死に追いやるような仕打ちは絶対すべき
ではありません」
〈俑〉 木の人形で、死者を葬るとき、ともに埋めるために用いられ
た。
【解説】 凶器を使わないで人を殺す例は、いまの世にも数限りなく
ある。人間の尊厳を忘れた為政者を、孟子は殺人罪を犯したものとし
て告発する。この鋭い批判、強烈なヒューマニズムは、そのまま現代
に通用する。
【ルームランニング記 Ⅹ】
● 歩数計が手放なせない!
おかしな話だが、体調崩しなんとか復調させるため、歩数計を所持し「宅トレ」のウォーキングに心
がけいるるのはいいのだが、季節の変わり目で上下の上着も半袖・半パンと長そぜ袖・長ズボンの二
種類を室内温度に合わせ履き替えるのだが、どのポケットに所持していたのか、目が覚めて探すこと
がここ2、3日の間で起きている。そこで、バイタルレコーダ(あるいは、バイオロガー)つきのデ
ジタル腕時計に歩数計を組み込んでおけば、その心配は取り除ける。1億人に対し約10%を目標に
所持させるような健康増進(=医療費削減)政策が国内できれば面白いと考えてみた。勿論、バイタ
ル・アイテムは血圧・血糖値・心拍(脈拍)・体温・活動量(=運動量)ぐらいは組み込みサポート
でききることが望ましい。
読書録:村上春樹著『騎士団長殺し 第Ⅱ部 遷ろうメタファー編』
第54章 永遠というのはとても長い時間だ
私は意を決して暗い森の中に足を踏み入れた。今の時刻が夜明けなのか、昼間なのか、夕方な
のか、明るさから判断することはできなかった。わかるのは、その薄暮のような薄暗さがどれだ
け時間がたっても変化を見せないということだけだった。あるいはこの世界には時間というもの
がそもそも存在しないのかもしれない。そしてこれくらいの光が、明けもせず暮れもせず、永遠
に継続しているのかもしれない。
森の中はたしかに暗かった。頭上は幾重もの枝でしっかりと覆われていた。しかし懐中電灯は
つけなかった。暗さに次第に目が馴れ、踏み出す足下くらいはなんとか見えたし、電池を無駄に
消耗したくはなかったからだ。できるだけ何も考えないように努めながら、森の中の暗い道をた
だひたすら歩き続けた。何かを考え出すと、その私をどこかより暗い場所に遠んでいきそうな気
がしたからだ。道は終始なだらかな上り坂だった。歩きながら耳に届くのは自分の足音だけだっ
たが、その足音もまるで途中で音をいくらか抜かれているみたいに、こっそりと小さかっ た。
また喉が掲かなければいいのだがと私は思った。もう川からはずいぶん遠く離れてしまった
はずだ。喉が渇いたからといって、永を飲みに戻ることもできない。
どれほど長く歩いただろう。森はとこまでも深く、いくら歩いても風景はほとんど変化を見せ
なかった。明るさも変化しなかった。自分の足首以外のどのような音も耳に届かなかった。そし
て空気は相変わらず無味無臭だった。樹木は重なり入口って小径の両側に壁を作り、その壁以外
に 目につくものは何ひとつなかった。この森には生き物が棲んでいないのだろうか? たぶん
棲んではいないだろう。見渡す限り、鳥もいなければ虫もいない。それにもかかわらず、自分か
終始何かに見られているという、いやに生々しい感覚があった。
暗闇の中から、樹木の厚い壁の隙間からいくつもの目が私の動きを見守り、監視しているようだ
った。私はそれらの鋭い視線を、レンズで集約された光線のように肌にじりじりと感じた。彼ら
は私がここで何をしようとしているのかを見届けているのだ。ここは彼らの領土であり、私は孤
独な侵入者なのだ。しかし私はそれらの目を実際に見たわけではない。それはただの錯覚かもし
れない。恐怖や祷疑心は、暗闇の中にいくつもの架空の目を作り出す。
その一方で、秋川まりえは双眼鏡を過した免色の視線を、谷間を隔てて肌身にありありと感じ
とることができたという。自分か誰かに日常的に観察されていると知ることが、彼女にはできた。
そして彼女の感覚は正しかった。その視線は決して架空のものではなかったのだ。
それでも私は自分に往がれるそれらの視線を、あくまで架空のもの、実際には存在しないもの
として考えることにした。そこには目なんてない。それは私の恐怖心が作り出した錯覚に過ぎな
い。そう考えることが必要だった。とにかく私はこの巨大な森を(どれほど大きいかは心からな
いが)、最後まで歩いて通り抜けなくてはならないのだ。能う限り正気の頭を持ったまま。
ありかたいことに分かれ道はひとつもなかった。だからどちらに迷もうかと迷うこともなく、
行き先のしれない迷路に入り込むこともなかった。鋭い輔のある枝に行く手を阻まれたりもしな
かった。一本の小径をただ前に前にと進み続けるだけでよかった。
どれほどその道を歩いたことだろう。たぶんとても長い時間だ(そこでは時間というものがほ
とんど何の意味も持だなかったにせよ)。それでもほとんど疲れを感じなかった。疲れを感じる
には、私の神経はあまりに高ぶり、緊張していたのだろう。しかしさすがに両脚が重くなり始め
た頃、前方遠くに小さな光源が見えたような気がした。まるで蛍の光のような黄色く小さな点だ。
でも蛍ではない。その点はひとつだけで、揺らぎもせず、また点滅もしなかった。どうやらそれ
は一箇所に固定された人工の光であるようだった。そして道を歩いて行くにつれて、少しずつで
はあるけれど、その光はより大きくより明るくなっていった。間違いない。拡は何かに向かって
近づきつつあるのだ。
それが善きものなのか、あるいは悪しきものなのか、知りようもなかった。私を肋けてくれる
ものなのか、それとも害をなすものなのか? しかしどちらにしても、私は選択肢というものを
持だなかった。善きものであるにせよ悪しきものであるにせよ、その光が何であるかを自分の目
で実際に見届けるしかない。もしそれがいやなら、そもそもこんなところにやって来るべきでは
なかったのだ。私はその光源に向けて冨言歩足を踏み出していった。
やがて森が急に終わった。両脇の樹本の壁が消滅し、気がついたときには開けた広場のような
場所に出ていた。とうとう森を抜け出せたのだ。広場の地面は平らで、きれいな半月形をしてい
た。そこでようやく頭上に空を目にすることができた。薄暮に似た光が再び拡のまわりを照らし
ていた。広場の前は切り立った急な断崖になっていて、断崖の壁には洞窟がひとつその目を開け
ていた。そして拡が先刻から目にした黄色い光は、その洞窟の暗闇からこぼれ出ていた。
背後には鬱蒼とした樹海が控え、正面には高い崖が聳え(登ることはとてもできそうにない)、
そこに洞窟の入り目があった。空をもうコ皮見上げ、あたりを見回した。他に道らしきものはな
い。洞窟の中に足を踏み入れる以外に、拡にとれる行動はなかった。そこに入る前に何度か深呼
吸をして、できるだけ意識を立て直した。拡が連むにつれて関連性が生まれていく。顔のない男
はそう言った。無と有の挟間を拡はすり抜けているのだ。彼の言葉をそのまま信じて、思い切っ
て身を委ねるしかない。
私は用心深く、その洞窟の中に足を踏み入れていった。それから、あることに思いあたった。
この洞窟には前にも入ったことがある。この洞窟の形状には見覚えがある。この空気にも覚えが
ある。それからはっと記憶が蘇った。あの富士の風穴だ。子供の頃、夏休みに若い叔父に連れら
れて、妹のコミチと一緒に訪れた洞窟だ。そしてコミはそこにあった挟い横穴に一人でするする
と入っていって、長いあいだ戻ってこなかった。そのあいだ彼女がもうそのままどこかに消えて
しまったのではないかという不安に私は駆られていた。地中の聞の迷宮の中に永遠に吸い込まれ
てしまったのではないかと。
永遠というのはとても長い時間だ、と顔のない男は言った。
洞窟の中を、黄色い光のこぼれてくる方に向かって私はそろそろと連んでいった。できるだけ
足音を立てないように、高まる胸の鼓動を抑えて。岩壁の角を曲がったところで、その光源を目
にすることができた。それは古いカンテラだった。昔の炭坑夫が坑内で使っていたような、黒い
鉄縁のついた古風なカンテラだ。カンテラの中には太い蝋燭が燃えていた。それは岩壁に打ち付
けられた太い釘に吊されていた。
「カンテラ」、その言葉には聞き覚えかおる。それは雨田典彦が加わっていたと思われる、ナチ
に抵<抗するウィーンの学生地下組織の名称とつながっている。いろんなことがどんどん結びつい
ていく。
カンテラの下に女が一人立っているのが見えた。最初のうちその女がいることに気づかなかっ
たのは、彼女がとても小柄だったからだ。身長はおおよそ六十センチほどしかない。彼女は黒い
髪を頭の上できれいに結い、白い古代の衣服を身につけていた。見るからに上品な衣服だった。
彼女もやはり『騎士団長殺し』の絵の中から抜け出してきた人物だった。騎士団長が刺し殺され
る現場を、手を口もとにやりながら、怯えた目で目撃していた若い美しい女だ。モーツァルトの
歌劇『ドン・ジョバンニ』の彼に即して言えば、ドンナ・アンナ。ドン・ジョバンニに殺害され
た騎士団長の娘だ。
カンテラの光を受けた彼女の黒い影が、鮮やかに拡大されて背後の岩壁に映し出され、揺れて
いた。
「お待ちしておりました」と小柄なドンナ・アンナは私に言った。
第55 それは明らかに原理に反したことだ
「お待ちしておりました」とドンナ・アンナは私に言った。身体こそ小さいが、くっきりとして
軽やかな声だった。
その頃には私はもう、何かに驚くという感覚をおおむね失っていた。彼女がそこで私を待ち受
けていたのは、むしろ当然の成り行きであるようにさえ思えた。美しい顔立ちの女性だった。自
然な気品のようなものがあり、その声には凛とした響きが聞き取れた。身長が六十センチほどし
かなかったにもかかわらず、彼女には男の心を惹きつける特別な何かが具わっているようだった。
「ここからあなたをご案内します」と彼女は私に言った。「そのカンテラをとっていただけませ
んか」
私は言われたとおり、壁の釘にかかっていたカンテラを外した。誰の于によってかはわからな
いが、そのカンテラは彼女には手の届かない高いところに吊されていた。カンテラのてっぺんに
は鉄製の翰っかがついていて、それを釘から吊したり、あるいは于に待って移動したりできるよ
うになっていた。「ぼくが来るのを待っていた?」と私は尋ねた。
「そうです」と彼女は言った。「ここで長いあいだ待っておりました」
彼女もやはりメタファーの一種なのだろうか? しかし彼女に対してその上うな直截的な質問
をするのがなんとなく憚られた。
「あなたはここの土地に住んでおられるのですか?」
「ここの土地?」と彼女は径厨そうな顔で聞き返した。「いいえ、私はここであなたをお待ちし
ていただけです。ここの土地と言われてもよくわかりません」
私はそれ以上の質問をすることをあきらめた。彼女はドンナ・アンナで、ここで私が来るのを
待っていたのだ。
彼女は騎士団長が着ていたのと同じような、白い布の装束に身を包んでいた。おそらくは絹だ
ろう。何枚もの布が上衣として重ねられ、その下はゆったりとしたズボンのようになっていた。
体型は外から見えないが、どうやらほっそりと引き締まった体つきであるようだった。そして何
かの革でできた小さな黒い靴を履いていた。
「さあ、参りましょう」とドンナ・アンナは私に言った。「時間の余裕はありません。道は刻々
とせばまっていきます。私のあとをついてきてください。そのカンテラを持って」
私はカンテラを彼女の頭上に差し出し、あたりを照らしながら、彼女のあとに続い
た。ドンナ・アンナは素早い馴れた足取りで洞窟の奥に向かって歩いた。歩くにつれて蝋燭の炎
が揺れ、まわりの岩壁の細かな陰影が生きたモザイクのように踊った。
「ここはぼくがかつて訪れた富士の風穴みたいに見えます」と私は言った。「実際にそうなので
すか?」
「ここにあるものは、すべてがみたいなものなのです」とドンナ・アンナは背後を振り返ること
もなく、前方の暗闇に向かって語りかけるように言った。
「本物ではないということ?」
「本物がいかなるものかは誰にもわかりません」と彼女はきっぱりと言った。「目に見えるすべ
ては結局のところ関連性の産物です。ここにある光は影の比喩であり、ここにある影は光の比喩
です。ご存じのことと思いますが」
その意味を正確に理解できたとは思えなかったが、私はそれ以上の質問は控えた。すべては象
徴的な哲学論議になってしまう。
奥に連むに従って、洞窟はだんだん狭くなっていった。天井も低くなり、私はいくらか身をか
がめて歩かなくてはならなかった。あの富士の風穴のときと同じように。やがてドンナ・アンナ
は歩をとめた。そして振り向いて、その小さな黒い目で私の顔をまっすぐ見上げた。
「私か先に立って案内できるのはここまでです。ここからはあなたが先に立って連んでいかなく
てはなりません。途中まで私はあなたのあとからついていきます。しかしそれもある地点までで
す。そこから先はあなた一人で行くことになります」
ここから先に連む? 私はそう言われて首をひねった。というのは、どう見ても洞窟はそこで
終わっていたからだ。行く手には暗い岩の壁が立ちはだかっているだけだった。私はその壁のま
わりをカンテラの明かりで照らしてみた。でもやはりそこが洞窟の行き止まりだった。
「ここからどこにも行けないように見えますが」と私は言った。
「よく見てください。左の隅の方に横穴の入り口があるはずです」とドンナ・アンナは言った。
私はもう一度、洞窟の左手の隅をカンテラの明かりで照らしてみた。身を乗り出して近くから
注意深く見ると、大きな岩の背後に隠されて、暗い陰になったくぼみがあることがわかった。私
は岩と壁のあいだに身をはさむようにして、そのくぼみの有様を点検した。それはたしかに横穴
の入り目であるようだった。富士の風穴でコミが潜り込んでいった横穴によく似ていたが、それ
よりいくぶん大きかった。私の記憶によれば、小さな妹があのとき潜り込んでいったのはもっと
決い横穴だった。
私は振り返ってドンナ・アンナを見た。
「あなたはそこに入っていかなくてはなりません」とその身長六十センチほどの美しい女性は言
った。
私は言葉を深しながら、ドンナ・アンナの美しい顔を見た。カンテラの黄色い明かりに照らさ
れて、彼女の引き伸ばされた影が壁に揺れた。
彼女は言った。「あなたが昔から、暗くて狭いところに強い恐怖心を抱いていることは存知あ
げています。そういうところに入ると正常に呼吸ができなくなってしまう。そうですね? でも
それにもかかわらず、あなたはあえてその中に入っていかなくてはなりません。そうしなければ、
あなたはあなたの求めているものを手に入れることはできません」
「この横穴はとこに通じているのですか?」
「それは私にもわかりません。行く先はあなたご自身が、あなたの意思が決定していくことで
す」
「でもぼくの意思には恐怖もまた含まれています」と私は言った。「ぼくにはそれが心配なので
す。ぼくのその恐怖心がものごとをねじ曲げ、間違った方向に進めてしまうかもしれないこと
力」
「繰り進すようですが、違を訣めるのはあなたご自身です。そして何より、あなたはもう行くべ
き道を選んでしまっています。あなたは大きな犠牲を払ってこの世界にやって来て、舟に乗って
あの川を渡りました。後戻りはできません」
私はもう一度その横穴の入り目に目をやった。その狭い暗闇の中にこれから自分が潜り込んで
いくのだと思うと、身がすくんだ。しかしそれは私がやらなくてはならないことなのだ。彼女が
言うとおり、もう後戻りはできない。私はカンテラを地面に置き、ポケットから懐中電灯を出し
た。カンテラを持って挟い横穴に入ることはできない。
「自分を信じるのです」とドンナ・アンナは小さな、しかしよく通る声で言った。「あなたはあ
の川の水を飲んだのでしょう?」
「ええ、喉が渇いて我慢できなかったので」
「それでいいのです」とドンナ・アンナは言った。「あの川は無と有の挟間を流れています。そ
して優れたメタファーはすべてのものごとの中に、隠された可能性の川筋を浮かび上がらせるこ
とができます。優れた詩人がひとつの光景の中に、もうひとつの別の新たな光景を鮮やかに浮か
び上がらせるのと同じように。言うまでもないことですが、最良のメタファーは最良の詩になり
ます。あなたはその別の新たな光景から目を逸らさないようにしなくてはなりません」
雨田典彦の描いた『騎士団長殺し』もその「もうひとつの別の光景」だったのかもしれないと
私は思った。その絵画はおそらく、優れた詩人の言葉がそうするのと同じように、最良のメタフ
ァーとなって、この世界にもうひとつの別の新たな現実を立ち上げていったのだ。
私は懐中電灯のスイッチをつけ、その明かりを点検した。明かりの照度に揺らぎはなかった。
電池はまだしばらくはもちそうだった。私は革ジャンパーを脱いで、置いていくことにした。そ
んなごつい服を着たまま、この狭い穴に入っていくわけにはいかない。そして薄手のセーターに
ブルージーンという格好になった。洞窟の中はとくに寒くもなく、暑くもなかった。
私はそれから心を決めて身をかがめ、ほとんど四つん這いになり、穴の中に上半身を潜り込ま
せた。穴のまわりは岩でできていたが、まるで長い歳月にわたって流水で決われてきたみたいに、
表面はすべすべして滑らかだった。角張った部分はほとんどない。おかげで決陰な割に、前に進
んでいくのは思ったほどむずかしくはなかった。手を触れると、岩はいくぶん冷ややかで、微か
に湿り気を含んでいるようだった。私は懐中電灯の明かりで行く手を照らしながら、虫が這うよ
うにゆっくり前に進んでいった。かつてはこの穴は水路として機能していたのかもしれないと私
は推測した。
穴の高さは六十センチか七十センチ、横幅はIメートル足らずだった。這って進むしかない。
場所によっていくらか挟くなったり広くなったりしながら、その暗闇の白烈のパイプは延々とど
こまでも――と私には思えた―続いていた。ときどき横にカーブし、上り坂になったり下り坂に
なったりもした。しかしありかたいことに大きな段差はなかった。しかしもしこの穴が本当に
地下水路としての役目を果たしてきたのだとしたら、今ここに急に大量の水が流れ込んでくる可
能性だってなくはないはずだ。そういう考えが私の順にふと浮かんだ。この狭い暗闇の中で自分
が溺れ死んでいくかもしれないと思うと、恐怖のために手脚が痺れて動かなくなった。
私はもと来た道を引き返そうとした。しかしこの狭い穴の中で方向を転換することはもはや不
可能だった。知らないうちに通路は少しずつ狭くなっていたようだった。これまで進んできた距
離を後ろ向きに這って戻ることもできそうにない。恐怖が私の全身を包んだ。私はその場所に文
字通り釘付けにされてしまったのだ。前に進むこともできず、後ろにさがることもできない。身
体のすべての細胞が新鮮な空気を希求し、激しく喘いでいた。私はとこまでも孤独で無力で、す
べての光に見放されていた。
「停まらないで。そのまま前に進みなさい」とドンナ・アンナがきっぱりとした声で言った。そ
れが幻聴なのか、それとも彼女が本当に私の背後にいて、そこから声をかけているのか、私には
判断できなかった。
「身体が動かないんだ」と私は背後にいるはずの彼女に向かって、なんとか声を絞り出した。
「呼吸もできない」
「心をしっかりと繋ぎ止めなさい」とドンナ・アンナは言った。「心を勝手に動かさせてはだめ。
心をふらふらさせたら、二重メタファーの餌食になってしまう」
「二重メタファーとは何なんだ?」と私は尋ねた。
「あなたは既にそれを知っているはずよ」
「ぼくがそれを知っている?」
「それはあなたの中にいるものだから」とドンナ・アンナが言った。「あなたの中にありながら、
あなたにとっての正しい思いをつかまえて、次々に貪り食べてしまうもの、そのようにして肥え
太っていくもの。それが二重メタファー。それはあなたの内側にある深い暗闇に、昔からずっと
往まっているものなの」
白いスバル・フォレスターの男だ、と私は直観的に悟った。そうであってほしくはなかった。
しかしそう思わないわけにはいかなかった。おそらくあの男が私を導いて、女の首を絞めさせた
のだ。そうやって私に、私自身の心の暗い深淵を覗き見させたのだ。そして私の行く先々に姿を
見せ、私にその暗闇の存在を思い起こさせた。おそらくはそれが真実なのだ。
おまえがどこで何をしていたかおれにはちやんとわかっているぞ、彼は私にそう告げていた。
もちろん彼には何でもわかっている。なぜなら彼は私白身の中に存在しているのだから。
私の心は暗い混乱の中にあった。私は目を閉じて、その心をひとつのところに繋ぎ止めようと
した。私は歯を食いしばった。でもどうすれば心をひとつのところに繋ぎ止めることができるの
だろう? だいたい心はとこにあるのだろう? 私は身体の中を順番に深っていった。でも心は
見つからなかった。私の心はいったいどこにあるのだ?
「心は記憶の中にあって、イメージを滋養にして生きているのよ」と女の声が言った。でもそれ
はドンナ・アンナの声ではなかった。それはコミの声だった。十二歳で死んだ私の妹の声だ。
「記憶の中を深して」とその懐かしい声は言った。「何か具体的なものを深して。手で触れられ
るものを」
「コミ?」と私は言った。
返事はなかった。
「コミ、どこにいるんだ?」と私は言った。
やはり返事はなかった。
私は暗闇の中で記憶を探った。大きな古いずだ袋の中を手探りで探るみたいに。しかし私の記
憶は空っぽになってしまったようだった。記憶というのがどのようなものであったのか、私には
それさえもう思い出せなくなっていた。
「明かりを消して、風の音に耳を澄ませて」とコミが言った。
私は懐中電灯のスイッチを切り、言われたように風の音に耳を澄ませた。でも何も聞こえなか
った。辛うじて聞こえるのは、自分の心臓の鼓動だけだった。私の心臓は強風にあおられる網戸
のように慌ただしい音を立てていた。
「風の音に耳を澄ませて」とコミが繰り返した。
私は息を殺し、神経を集中してもうコ皮耳を澄ませた。そして今度は心臓の鼓動の音に被さる
ように、微かな空気のうなりを聴き取ることができた。そのうなりは高くなったり低くなったり
した。どこか遠くで風が吹いているらしかった。それから私は顔面にほんの僅かではあるが空気
の流れを感じた。前方から空気が入ってきているようだ。そしてその空気には匂いが含まれてい
た。紛れもない匂い、湿った土の匂いだ。それは私かこのメタファーの土地に足を踏み入れて以
来、初めて嗅いだ匂いらしい匂いだった。この横穴はとこかに通じているのだ。どこか匂いのあ
る場所に。つまりは現実の世界に。
「さあ、先に進んで」と今度はドンナ・アンナが言った。「残り時間は限られているのだから」
私は懐中電灯の明かりを消したまま、暗闇の中を這って進んだ。前に進みながら私は、どこか
から吹き込んでくるその本物の空気を少しでも胸に吸い込もうとした。
「コミ?」と私はもう一度呼びかけてみた。
やはり返事はなかった。
私は懸命に記憶の袋を探った。その頃コミと私は猫を飼っていた。頭の良い雄の黒猫だった。
名前は「こやす」(どうしてそんな名前がつけられたのか覚えていない)。彼女が学校の帰り道
に棄てられていた子猫を拾ってきて、それを育てたのだ。でもあるときその猫がいなくなってし
まった。私たちは来る日も来る日も、近所のあらゆる場所を探しまわった。私たちはどれほどた
くさんの人に「こやす」の写真を見せてまわったか。しかし猫はとうとう見つからなかった。
私はその黒猫のことを思い出しながら、狭い穴の中を這っていった。私は妹と一緒に黒猫を探
してこの穴の中を這い進んでいるのだ。そう考えようとした。私は前方にある暗闇の中に、失わ
れた黒猫の姿を見いだそうとした。その鳴き声を聴き取るうとした。黒猫はとても具体的なもの
であり、手で触れることのできるものだった。私はその猫の毛の手触りや、温もりや、肉球の堅
さや、ごろごろと喉を鳴ら才首をありありと思い起こすことができた。
「そう、それでいい」とコミが言った。「そうやって思い出し続けて」
おまえがどこで何をしていたかおれにはちやんとわかっているぞ、と白いスバル・フオレスタ
ーの男がふいに私に声をかけた。彼は黒い革ジャンパーを着て、ヨネックスのゴルフ・キャップ
をかぶっていた。彼の声は潮風に暖れていた。その声に虚を突かれて、私はひるんだ。
私は懸命に黒猫のことを考え続けようとした。そして風の運んでくる微かな土の匂いを、肺に
吸い込もうと努めた。その匂いには覚えがあるような気がした。どこかで少し前に嗅いだことの
ある匂いだ。しかしそれがどこだったのか、どうしても思い出せなかった。私はいったいどこで
この匂いを嗅いだのだろう? それを思い出そうとして思い出せないでいるうちに、記憶が再び
手薄になり始めていた。
私の首をこれで絞めて、と女が言った。そして桃色の舌を唇のあいだからちらちらと覗かせた。
枕の下にバスローブの紐が用意されていた。彼女の黒い陰毛は雨に濡れた草のようにじっとりと
湿っていた。
「懐かしく思うものを何か心に思い浮かべて」とコミが切迫した声で言った。「さあ早く、急い
で」
私はもうコ伎その黒猫のことを考えようとした。しかし「こやす」の姿はもう思い出せなかっ
た。どうしてもその姿が頭に浮かんでこない。拡が少しほかのことを考えているあいだに、描の
イメージは闇の力に貪り食われてしまったのかもしれない。急いで何か他のことを思い浮かべな
くてはならない。暗闇の中で穴がじわじわとせばまってくるような嫌な感触があった。この穴は
生きて勤いているのかもしれない。時間は限られているとドンナ・アンナは言った。わきの下を
冷ややかな汗が一筋流れた。
「さあ、何かを思い出して」とコミが背後から声をかけた。「手で触れられるものを。すぐに絞
に描けるようなものを」
私は溺れる人がブイにしがみつくように、プジョー205のことを思い出した。拡がそのハン
ドルを握って東北から北海道へと旅をしてまわった、古い小さなフランス車を。もう大昔の出来
事のように思えたが、その四気筒の無骨なエンジン昔はまだ私の耳にくっきり焼き付いていた。
ギアをセカンドからサードにシフトアップするときの、ゴリッとひっかかるような感触も忘れる
ことができない。一ケ月半のあいだその車は私の相棒であり、唯一の友人だったのだ。今ではも
うスクラップになってしまっているはずだが。
それでも穴は間違いなく挟まっているようだった。這って進んでも天井が順につっかえるよう
になっていた。私は懐中電灯のスイッチを入れようとした。
「明かりはつけないで」とドンナ・アンナが言った。
「でも明かりがないと前が見えないんだ」
「見てはだめ」と彼女は言った。「目で見てはだめ」
「穴がどんどん挟くなっている。このまま進めば、身体が挟み込まれて身勣きがとれなくなって
しまう」
返事はなかった。
「もうこれ以上進めない」と私は言った。「どうすればいいんだ?」
やはり返事はなかった。
もうドンナ・アンナの声も、コミの声も聞こえなかった。彼女たちはもういなくなってしまっ
たようだった。そこにはただ深い沈黙があるだけだった。
穴はますます挟くなり、身体を前に進めることがますます困難になっていった。パニックが私
を襲った。手脚は麻蝉したように勤きがとれなくなり、息を吸い込かのもむずかしくなった。お
まえは小さな棺桶の中に閉じ込められてしまったのだ、と私の耳元で声が囁いた。おまえは前に
も進めず後ろにも戻れず、ここに永遠に埋められることになる。誰の手心届かないこの暗くて挟
い場所に、すべての人に見捨てられたまま。
凄いシーンで今夜は読み終える。
この項つづく
● 今夜の寸評:哀しき移民銃社会の不可解さ
10月2日の起きた米ラスベガス、銃乱射事件で59名が死亡。その犯行現場のカジノホテル「マン
ダレイ・ベイ(Mandalay Bay)」では、2日の昼過ぎにバーテンダーがハッピーアワーのスタートを告
げるとカジノに興じる客たちから歓声が上がっことが報道されている。高級ホテルに大量の銃器をひ
そかに持ち込み、32階の部屋の窓から音楽祭の参加者らに向けて銃を乱射した元会計士のスティーブ
ン・クレイグ・パドック(Stephen Craig Paddock)容疑者(64)は、ギャンブルに高額をつぎ込む賭博
愛好家で、その父親はかつて連邦捜査局(FBI)の最重要指名手配犯の銀行強盗。容疑者は賭博都市ラ
スベガスの東130キロに位置するネバダ州メスキート(Mesquite)にある定年退職者向けの閑静なゴル
フコース付き住宅街に一軒家所有していたと三人兄弟のの弟は、大量殺人の計画しているような素振り
はなかったと話す。犯人は特別機動隊(SWAT)が室内に突入した際に遺体で発見され、銃による自殺
したとみる。容疑者のホテルの部屋からは、ロングライフルも含め少なくとも10の武器が押収。また、
定年退職者向けの閑静な新興住宅街に新築された同容疑者宅からは、さらに多くの武器が見つかって
いる。何にしても、わたしたち日本人の感覚では到底理解できない犯行である。