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Channel: 極東極楽 ごくとうごくらく
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私がいつかはやらなくてはならないこと

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                         梁恵王篇 「仁とは何か」  /  孟子        

                                

         ※ 狭くて広い話:宣王が孟子にたずねた。「文公の狩り場は七十里
           四方もあったそうですが」
           「そう伝えられています」
           「そんなに広いとは」
           「人民はそれでもまだ狭すぎると思っていました」
           「わたしの狩り場は四十里四方なのに、人民が、広すぎると非難
           するのは、なぜだろうか」
           「文王の狩り場は七十里四方もありましたが、きこりも利用すれ
           ば、猟師も利用するで、人民との共有でした。人民が狭すぎると
           思ったのも当然です。
            わたしは、国境へさしかかると、まずその国で厳しく取り締ら
           れているのは何かを確かめてから、入国しています。お国の場合、
           関所の内側に四十里四方の狩り揚があり、そこで鹿を殺した者は、
           人殺しと同罪に扱われるとのことでした。これは関内に四十里四
           方の陥し穴をつくっておくようなものです。これでは人民が広す
           ぎると思うのも当然ではありませんか」

        〈文王〉 周子朝を開いた武子の父。殷王朝に仕えていたが、暴君紅玉
             とは逆に、民衆をよくいたわったので、天下の三分の二まで
             が心服したという。儒家の理想とする聖王の一人。 

 

          
読書録:村上春樹著『騎士団長殺し 第Ⅱ部 遷ろうメタファー編』     

   第56章 埋めなくてはならない空白がいくつかありそうです 


  私にはそれ以上の説明はできなかった。そしてまた説明するつもりもなかった。「私かそこに
 降りていきましょうか?」と免色は言った。「いや、あなたはそこにいてください。ぼくが上が
 っていきます」やがてうっすらと目を開けることができるようになった。

  目の奥ではまだ謎めいたいくつもの図形が渦巻いていたが、意識の働きに問題はなさそうだっ
 た。私は梯子が壁に立てかけられた位置を見定め、その段に足をかけようとしたが、うまく足に
 力が入らなかった。それはもう自分の足ではないみたいに感じられた。だから時間をかけて足場
 を慎重に確かめながら、その金属の段をひとつひとつ上に登っていった。地面に近づくにつれて、
 空気はますます新鮮なものになっていった。今では鳥たちの聯る声も耳に届くようになっていた。

  地面に手をかけると、免色が手首をしっかり握って、私を地上に引っ張り上げてくれた。予想
 外に強い力だった。安心して身を任せられる力だ。私はその力に心から感謝した。そしてそのま
 ま倒れ込むように地面に仰向けになった。頭上にはうっすらと空か見えた。思った通り空は灰色
 の雲に覆われていた。時刻まではわからない。小さな堅い雨粒が頬と頭を打つ感触があった。私
 はその不揃いな感触をじっくりと楽しんだ。これまで気がつかなかったけれど、雨というのはな
 んと喜ばしい感触を持ったものなのだろう。なんと生命力に溢れたものなのだろう。たとえそれ
 が冬の初めの冷ややかな雨であってもだ。

 「ずいぶん腹が減っています。喉もからからです。そしてすごく寒い。身体が凍りついたみたい
 に」と私は言った。それが私に言えるすべてだった。歯がカタカタと音を立てていた。
  彼は私の肩を抱きかかえるようにして、雑木林の中の道をゆっくりと辿った。私はうまく歩調
 を合わせることができなかった。だから免色に引きずられるような格好になった。免色の筋力は
 見かけよりずっと強かった。きっと自宅のマシンで毎日のように鍛えているせいだろう。

 「家の鍵はお持ちですか?」と免色は尋ねた。
 「玄関の右側に鉢植えがあります。鍵はその下にあります。たぶん」、たぶんとしか私には言え
 ない。確信を持って断言できることなんてこの世界にはひとつもないのだ。私はまだ寒気に震え
 ていた。歯の根があわず、自分でも自分の言葉がうまく聞き取れなかった。
 「まりえさんは昼過ぎに、家に無事仁戻ってきたようです」と免色は言った。「ほんとによかっ
 た。私もほっとしました。一時間ほど前に秋川笙子さんから私に連絡がありました。お宅に何度
 か電話をしたのですが、ずっと誰も電話に出なかった。それでなんだか心配になって、ここまで
 足を連んでみたのです。すると雑木林の奥の方からあの鈴の音が微かに聞こえてきました。だか
 らひょっとしてと思って、シートをはがしてみたのです」



  我々は雑木林を抜け、開けた場所に出た。免色の銀色のジャガーが、いつものようにうちの前
 に静かに停まっていた。相変わらず曇りひとつない。

 「どうしていつも、あの車はこんなにも美しいのですか?」と私は免色に尋ねてみた。こんな状
 況にふさわしい質問ではないかもしれないが、それは前から尋ねてみたかったことだった。
 「さあ、どうしてでしょう」と免色はあまり興味なさそうに言った。「とくにやることがないと
 きには、自分で車を況うようにしています。隅々まできれいにします。そしてまた、月に一度は
 専門の業者がやってきて、ワックスをかけてくれます。もちろん車庫に入れて雨風が及ばないよ
 うにしています。それだけのことですが」

  それだけのこと、と私は思った。それを問いたら、半年間雨ざらしになっている私のカロー
 ラ・ワゴンはきっと肩を落とすことだろう。下手をすれば気を失ってしまうかもしれない。
 免色は鉢の下から鍵を取り出し、玄関のドアを開けた。

 「ところで今日は何曜日ですか?」と私は尋ねた。
 「今日? 今日は火曜日です」
 「火曜日? それは確かですか?」

  免色は念のために記憶を辿った。「昨日が月曜日で、瓶と缶のゴミを出す日でしたから、今日
 は間違いなく火曜日です」
  私が雨田典彦の部屋を訪れたのは土曜日だった。それから三日が経過したことになる。それは
 三週間であっても、三ケ月であっても、たとえ三年であっても決しておかしくはなかった。しか
 しとにかく経過したのは三日間なのだ。私はそのことを頭に刻み込んだ。それから私は掌で顎を
 こすってみた。でもそこには三日分の祭が生えている形跡はなかった。顎は不思議なほどつるり
 としていた。どうしてだろう?

  免包は私をまず浴室に連れて行った。そして熱いシャワーを浴びさせ、服を着替えさせた。着
 ていた衣服は何もかもが泥で汚れて、穴だらけになっていた。私はそれをまとめてゴミ箱に捨て
 た。身体のあちこちが擦れて赤くなっていたが、傷のようなものは見当たらなかった。少なくと
 も血は出ていなかった。

  そのあと彼は私を食堂に連れて行って、食卓の椅子に座らせ、まずゆっくり少しずつ水を飲ま
 せた。私は時間をかけてミネラル・ウオーターの大きなボトルを一本空にした。私か水を飲んで
 いるあいだに、彼は冷蔵庫の中にリンゴをいくつか見つけ、皮を剥いてくれた。彼の包丁さばき
 はとても素連く、上手だった。私は感心しながら、その作業をぼんやりと眺めていた。皮を剥か
 れ、皿に盛られたリンゴはどこまでも上品で、美しく見えた。

  私はそのリンゴを三個か四個食べた。リンゴとはこんなにうまいものだったのだと感動するほ
 どうまいリンゴだった。リンゴという果物をそもそも思いついてくれた創造主に、私は心から感
 謝した。リンゴを食べ終えると、彼はクラッカーの箱をどこかから見つけ出してくれた。私はそ
 れを食べた。少し湿気ていたものの、それも世界でいちばんうまいクラッカーだった。そのあい
 だに彼は湯を彿かし、紅茶を滝れて、そこに蜂蜜も加えてくれた。私はそれを何杯も飲んだ。紅
 茶と蜂蜜は私の身体を内側から温めてくれた。

  冷蔵庫の中にはそれほど多くの良材はなかった。それでも卵のストックだけはたくさんあった。
 「オムレツは食べたいですか?」と免色は尋ねた。
 「できれば」と私は言った。私は胃の中をとにかく何かで満たしたかった。
  免包は冷蔵庫から卵を四つ取り出し、ボウルの中に割り、箸で素遠くかき混ぜ、そこにミルク
 と塩と胡椒を加えた。そしてまた箸でよくかき回した。馴れた手つきたった。それからガスの大
 をつけ、小型のフライパンを熟し、そこにバターを薄く引いた。抽斗の中からフライ返しをみつ
 け、手際よくオムレツをつくった。

  予想したとおり、免色のオムレツの作り方は完璧だった。そのままテレビの料理番組に出して
 もいいくらいだ。そのオムレツの作り方を目にしたら、全国の主婦たちはきっとため息をつくこ
 とだろう。彼はオムレツ作りに関しては、あるいは関してもというべきか、見事にスマートであ
 り、手抜かりなく、また効率よく繊細だった。私はただ感心してそれを眺めていた。やがてオム
 レツは皿に移され、ケチャップと共に私の前に出された。

  思わず写生したくなるくらい美しいオムレツだった。しかし私は遠うことなくそれにナイフを
 入れ、素遠く口に運んだ。それは美しいばかりではなく、とても美味なオムレツだった。
 「完璧なオムレツだ」と私は言った。
  免色は笑った。「そうでもありません。もっとよくできたオムレツを前に作ったこともありま
 す」
  それはいったいどんなものだろう? 立派な翼をそなえて、東京から大阪まで二時間あれば空
 を飛んでいけるオムレツかもしれない。
  私かオムレツを食べてしまうと、彼はその皿を片付けた。それで私の空腹はようやく落ち着き
 をみせたようだった。免色はテーブルを挟んで私の向かい側に腰を下ろした。
 「少し話をしてもかまいませんか?」と彼は私に尋ねた。
 「もちろん」と私は言った。

 「疲れていませんか?」
 「疲れているかもしれません。でもいろんな話をしなくては」

  免色は肯いた。「この何日かについて、埋めなくてはならない空白がいくつかありそうです」
  それがもし埋めることができる空白であるなら、と私は思った。
 「実は日曜日にもお宅にうかがいました」と免色は言った。「どれだけ電話をかけても連絡がつ
 かないので、ちょっと心配になって様子を見に来たのです。午後一時くらいですが」

  私は肯いた。その頃私はとこか別の場所にいたのだ。

  免色は言った。「玄関のベルを嗚らすと、雨田典彦さんの息子さんが出てこられました。政彦
 さんっておっしやいましたっけ?」
 「そうです。雨田政彦、古くからの友人です。この家の持ち主だし、鍵を持っていますから、ぼ
 くがいなくてもここに入れるんです」
 「彼はなんというか……あなたのことをとても心配しておられました。土曜日の午後に彼のお父
 さんの、雨田典彦さんの入っている施設を二人で訪問しているとき、お父さんの部屋からあなた
 が急にいなくなってしまったということでした」

  私は何も言わずただ肯いた。

 「政彦さんが仕事の電話をかけるために席を外しているあいだに、あなたは忽然と消えてしまっ
 たとか。施設は伊豆高原の山の上にあって、最寄りの駅までは歩いてかなりあります。かといっ
 てタクシーを呼んだ形跡もない。またあなたが出て行ったところを、受付の人も、警備員も見て
 いません。そしてそのあとお宅に電話をかけてみても誰も出ない。だから雨田さんは心配になっ
 て、ここまでわざわざ足を連んで米られたんです。あなたの安否を真剣に案じておられました。
 あなたの身に何かよくないことが起こったんじやないかと」

  私はため息をついた。

 「政彦にはあらためてぼくから説明します。お父さんが大変なときに、
 余計な迷惑をかけてしまった。それで、雨田具彦さんの具合はいかがなのでしょうか?」
 「しばらく前からほとんど眠りこんだ状態にあるようです。意識は戻りません。息子さんは施設
 の近くに泊まっておられたということでした。東京仁戻る途中、ここに様子を見に来られたんで
 す」
 「電話をかけてみた方がよさそうだ」と私は首を振って言った。
 「そうですね」と免色はテーブルの上に両手を置いて言った。「でも政彦さんに連絡をするから
 には、この三日間あなたがどこで何をしていたのか、それなりに筋の過った説明が必要になると
 思いますよ。どうやってその施設から姿を消したかについても。ふと気がついたらここに戻って
 いた、というだけでは人はまず納得しないでしょう」
 「たぶん」と私は言った。「でも、あなたはどうなのですか、免色さん? あなたはぼくの話に
 納得されているのですか?」

  免色は遠慮がちに顔をしかめ、しばらくじっと考え込んでいた。それから口を間いた。「私は
 昔から一貫して論理的に思考する人間です。そのように訓練されています。でも正直に申し上げ
 て、あの祠の裏手の穴に関していえば、私はなぜかそれほどロジカルになることができません。
 あの穴の中ではたとえ何か起こっても不思議ではない、そういう気がしてなりません。とくにあ
 の底で一人で一時間を過ごしてからは、そういう気持ちがいっそう強くなりました。あれはただ
 の穴じゃない。でもあの穴を休験したことのない人には、そういった感覚はまず理解してもらえ
 ないでしょうね」

  私は黙っていた。口にするべきうまい言葉がみつからなかったからだ。

 「やはり何ひとつ覚えていないということで押し通すしかないでしょうね」と免色は言った。
 「どこまで信用してもらえるかはわかりませんが、それ以外に方法はないでしょう」

  私は肯いた。たぶんそれ以外に方法はないだろう。
  免色は言った。「この人生にはうまく説明のつかないことがいくつもありますし、また説明す
 べきではないこともいくつかあります。とくに説明してしまうと、そこにあるいちばん大事なも
 のが失われてしまうというような場合には」
 「あなたにもそういう経験があるのですね?」
 「もちろんあります」と免色は言って、小さく微笑んだ。「何度かあります」

  私は紅茶の残りを飲んだ。

  私は尋ねた。「それで秋川まりえは、怪我をしたりはしていなかったのですか?」
 「泥だらけで、軽い怪我はしているようですが、たいした傷ではありません。転んですりむいた
 程度のものみたいです。あなたの場合と同じように」
  私と同じように? 「彼女はこの何日か、どこで何をしていたのだろう?」
  免色は困った顔をした。「そういう事情について私はまったく何も知らないのです。ただ少し
 前にまりえさんが家に帰ってきた。泥だらけで軽い怪我をしている。それくらいのことしか聞い
 ていません。里子さんもまだ気持ちが混乱していて、電話で詳しい説明をするどころではないみ
 たいです。もう少しものごとが落ち着いてから、あなたが笙子さんに直接尋ねてみられた方がい
 いと思います。あるいは、もし可能であるなら、まりえさん本人に」

  私は肯いた。「そうですね。そうします」

 「そろそろ眠った方がいいのではありませんか」

  免色にそう言われて私は、自分かひどく眠いことに初めて気づいた。あれほど穴の中で深く
 昏々と眠っていたのに(眠っていたはずだ)、とても我慢できないほど眠い。

 「そうですね。少し限った方がいいかもしれない」と私は、食卓の上に重ねられた免色の端正な
 両手の甲をぼんやり眺めながら言った。
 「ゆっくり休んでください。それがいちばんです。私にほかに何かできることはありますか?」
  私は首を振った。「今のところ何も思いつきません。ありがとう」
 「それでは私はそろそろ引き上げます。もし何かあったら遠慮なく連絡をください。ずっと家に
 いると思いますから」、そう言って免色はゆっくりと食堂の椅子から立ち上がった。「でもまり
 えさんが見つかってよかった。そしてあなたを助け出すこともできてよかった。実をいうと、私
 もここのところあまり限っていないのです。だからうちに帰って少し寝ようと思います」

  そして彼は帰っていった。いつものように車のドアが閉まる確固とした音が聞こえ、エンジン
 の深い音が響いた。その音が遠ざかって消えてしまうのを確かめてから、私は服を説いでベッド
 に入った。頭を枕につけ、古い鈴のことをほんの少しだけ考えたところで(そういえば鈴と懐中
 電灯をあの穴の底に置きっぱなしにしてきた)、深い眠りの中に落ちた。

※ このように、不思議な展開描写がつづく。

   第57章 私がいつかはやらなくてはならないこと

  目が覚めたのは二時十五分だった。私はやはり深い暗闇の中にいた。それで自分かまだ穴の底
 にいるような錯覚に一瞬襲われたが、そうではないことにすぐに気がついた。穴の底の完全な暗
 闇と、地上の夜の暗闇とでは質感が違う。地上においては、たとえどのような深い暗闇にもいく
 らか光の気配が含まれている。すべての光を遮られた暗闇とは違う。今は夜中の二時十五分であ
 り、太陽はたまたま地球の裏側に位置している。それだけのことだ。
  枕元の明かりをつけ、ベッドから出て台所に行って、冷たい水をグラスに何杯か飲んだ。あた
 りは静かだった。静かすぎるほど静かだった。耳を澄ませてみたが、どんな音も聞こえなかった。
 風も吹いていない。冬になったからもう虫も嗚いていない。夜の鳥の声も聞こえない。鈴の音も
 聞こえない。そういえば、初めてあの鈴の音を耳にしたのもちょうどこの時刻だった。普通では
 ないことがいちばん起こりやすい時刻なのだ。

  もう眠れそうにはなかった。眠気はすっかり消え去っていた。パジャマの上にセーターを着て、
 スタジオに行った。家に戻ってきてからまだコ及もスタジオに足を踏み入れていないことに気が
 ついたのだ。そこに置いてあるいくつかの絵がどうなったか、私は気になった。とりわけ『騎士
 団長殺し』が。免色の話によれば、私のいないあいだに雨田政彦がこの家にやってきたというこ
 とだ。ひょっとしたら被はスタジオに入って、あの絵を目にしたかもしれない。当然一目見れば、
 それが父親の描いた作品であることが被にはわかる。でも私はその絵に被いをかけていった。気
 になったので壁から外し、人目につかないように念のために白いさらしの布でくるんでいった。
 もしその被いを政彦がはがしていなければ、被はそれを目にしていないはずだ。



  私はスタジオに入り、壁についた電灯のスイッチを入れた。スタジオの中もやはりしんと静ま
 り返っていた。もちろんそこには誰もいなかった。騎士団長石いないし、雨田具彦石いない。そ
 の部屋の中にいるのは私一人だけだ。

 『騎士団長殺し』は被いをかけられたまま床に置かれていた。誰かがそれを触った形跡は見られ
 なかった。もちろん確証はない。でも誰にも触れられていないという気配のようなものがそこに
 はあった。被いをはがすと、その下には『騎士団長殺し』があった。それは以前に目にしたのと
 何ひとつ変わりのない絵だった。そこには騎士団長がいた。彼を刺し殺しているドン・ジョバン
 ニがいた。そばで息を呑んでいる従者のレボレロがいた。口許に手をやって呆然としている美し
 いドンナ・アンナがいた。それから画面の左隅には、地面に開いた四角い穴から顔をのぞかせて
 いる不気味な「顔なが」がいた。

  実をいえば私は心の隅で密かに危惧していたのだ。私のとった一連の行為によって、その絵の
 中のいくつかのものごとが変更されてしまったのではないかと。たとえば「顔なが」が顔を出し
 ていた地面の蓋が閉じられ、したがって顔ながの姿も画面から消えてしまっていることを。たと
 えば騎士団長が長剣ではなく包丁で殺されていることを。しかしどれだけ詳しく隅々まで見ても、
 絵には変化らしきものはひとつとして見受けられなかった。相変わらず顔ながは地面の蓋を押し
 上げて、その奇妙なかたちをした顔を地上に出していた。ぎょろりとした目であたりを見回して
 いた。騎士団長は鋭い長剣で心臓を刺し貫かれ、鮮血をほとばしらせていた。絵はいつもながら
 の完璧な構図をもった絵画作品としてそこにあった。私はその絵をしばらく鑑賞してから、もう
 一度さらしの被いをかぷせた。

  それから私は自分か描きつつある二枚の油絵を眺めた。どちらもイーゼルの上に載せられ、並
 べられている。ひとつは横長の『雑木林の中の穴』であり、もうひとつは縦長の『秋川まりえの
 肖像』だ。私はその二枚の絵を交互に注意深く見比べてみた。どちらの絵も最後に目にしたとき
 のままたった。まったく変化はしていない。ひとつの絵は既に完成し、もうひとつの絵は最後の
 手入れを待っていた。

  それから私は、裏返して璧に立てかけていた『白いスバル・フォレスターの男』を表向きにし、
 床に座ってその絵をあらためて眺めた。何包かの絵の具の塊の中から、「白いスバル・フォレス
 ターの男」はこちらをじっと見ていた。その姿は具体的には描かれていなかったが、そこに顔が
 潜んでいることは、私にははっきりと見て取れた。被はパレット・ナイフで厚く塗られた絵の具
 の背後にいて、そこから夜の鳥のような鋭い目で、私をまっすぐ見つめていた。その顔はとこま
 で も無表情だった。そしてその絵が完成させられることを――自らの姿が明らかにされること
 を――その男は拒否していた。披は白分か闇から引きずり出され、明るみに立だされることを望
 んでいないのだ。

ここへきて筋書きと関連する絵が出そろうことになる(拍手?)。
                                        

                                     この項つづく

  


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