公孫丑(こうそんちゆう)篇 「浩然の気」とは / 孟子
※ 四つの芽:あわれみの心は、人間ならだれでも持っている。むかしの聖人が血の
通った政治を行ない得だのは、この心をもっていたからである。いまもし、あわ
れみの心で、血の通った政治を行なうなら、天下はたやすく治まるのだ。
あわれみの心はだれにもある、というわけはこうだ。
幼い子供がヨチヨチと井戸に近づいて行くのを見かけたとする。だれでもハッと
して、かわいそうだ、款ってやろう、と思う。それはべつに、子供を款った縁で
その親と近づきになりたいと思ったためではない。村人や友人にほめてもらうた
めでもない。また款わなければ非難される、それがこわいためでもない。
してみると、かわいそうだと思う心は、人間だれしも備えているものだ。さらに、
悪を恥じ憎む心、譲りあいの心、善悪を判断する心も、人間ならだれにも備わっ
ているものだ。かわいそうだと思う心は、仁の芽生えである。悪を恥じ憎む心は、
義の芽生えである。譲りあいの心は、礼の芽生えである。善悪を判断する心は、
智の芽生えである。人間は生まれながら手足を四本持っているように、この四つ
の芽生えを備えている。それなのに、自分は仁義礼智など実行できぬときめこむ
のは、自分を傷つけるものである。君主に対しても、同じようにきめつけるのは、
君主を傷つけるものである。
自分に備わっているこの四つの芽生えを、育てようと思い立てば、火が燃え出し、
泉が湧き出るように、それは限りなく大きくなっていく。これを育ててゆけば、
天下を安定することができる。しかし育てなければ、父母を良うことすらできな
い。
【解説】有名な四端説の章。性善説の根拠をなす議論である。人間の本性は善きも
のだ、これは孟子のゆるぎない信念である。告子篇では、人間の本性をめぐる告
子との論戦が展開されているが、孟子はこの信念を断乎として守り、一歩も退か
ぬ気脈を見せている。性善説にくみするか否かは別として、社会の機構が複雑化
し、人間の自己疎外が進行して「人間」が日ごとに見失われてゆく今日、われわ
れはいま一度問うてみる必要がありはしないか。人間とは何か、と。
【本日は蕪と柚の立冬】
いたつきも 久しくなりぬ 柚は黄に / 夏目漱石
何年か前にホームセンタで買って植えた5月は白い花を咲かせていた花柚の実が約二百五十も結実。毎
晩柚風呂に入り楽しむ季節である。南堀江の実家のころは、内風呂はひのき風呂だったから、入浴には
恵まれていたような気がする。さて、柚だけでなく今年の大きなニュースは檸檬の結実も多く、こちら
はまだ青いものの収穫が楽しみで、あとは、オリーブの実の収穫だけは経験できていないだねと彼女と
言葉を交わし。余談だがマンゴーもブラットオレンジも北限の厳しさを知らず彼女は寒風に植木鉢をさ
らし枯れさせているが、「あなたって雑ね!」と誹るわりには、整理・整頓の潔癖症?もその意味では
五十歩百歩だとエピソードを思いだし、「そんなもんだ!}」と付け加えた。
ところで、ミカン属の常緑小高木。柑橘類の1つ。ホンユズとも呼ばれる。消費・生産ともに日本が最大
である本柚(ゆず:Citrus junos:シトラス・ジュノ)と花柚(Citrus hanayu:シトラス・ハナユ)はザボンやブンタ
ンの仲間であり果実が小形で早熟性は別種とか。また、本柚は成長が遅く、「桃栗3年柿8年、ユズの大
馬鹿18年」などと呼ばれ。栽培に当たり、種子から育てる実生栽培では、結実まで10数年掛かり、
結実までの期間短縮にカラタチへの接ぎ木により、数年で収穫可能にすることが多いが、現在の日本で
栽培されるユズには主に3系統あり、本ユズとして「木頭系」・早期結実品種として「山根系」・無核
(種なし)ユズとして「多田錦]」がある。「多田錦」は本ユズと比較して果実がやや小さく、香りが僅
かに劣るとされているが、トゲが少なくて種もほとんどなく、果汁が多いので、本ユズよりも多田錦の
方が栽培しやすい面がある(長いトゲは強風で果実を傷つけ、商品価値を下げる)。
ユズは、ジャム、ゆべしなどシトラス・タルト(BBC Food - Recipes - Tarte au citron/Anna Olson's Tarte
au Citron Recipes | Food Network Canada)などジュースやスイーツをはじめ、柚子呼称・柚子ぼん酢など
の香辛料、薬味、冬至の季節料理にかかせない「近江の蕪の柚マリネ」ばどゆずのレシピは3万超のレ
シピ@cookpadが存在する。勿論、料理、食品、食品添加物だけでなく医療薬品、あるいは保湿剤、香水、
香料、畜産・養魚用食餌、肥料、土質改良、除草剤と応用展開されている。
● 事例研究:最新安全なユズで健康増進
2012年5月10日、高知大学医学部と馬路村農業協同組合(高知県馬路村、東谷望史組合長)は、
ユズの種子オイルがアトピー性皮膚炎に効果があるとする共同研究を発表。ユズ種子オイルをアトピー
性皮膚炎のマウスに塗布したところ、かゆみの原因となるヒスタミン量が抑制されている。同村特産の
ユズを使用した加工食品を製造する馬路村農協と高知大学が2009年に共同研究契約を締結。溝渕俊
二教授の研究グループが、同農協が製造するユズの種子オイルの効能の研究に取り組んできた。実験で
はダニでアトピー性皮膚炎を発症させたマウスを使い、ユズ種子オイルとオリーブオイルを塗布して比
較。精製したユズ種子オイルを塗布したマウスはアトピー性皮膚炎の所見はほとんど認められなかった。
マウスの皮膚の出血、ただれ、浮腫などの症状をスコア化(点数が多いほど症状がある)したところ、
オリーブは6点、未精製のユズ種子オイルは3.6点、精製したユズ種子オイルは2.8点で、オリーブオイ
ルよりも効果があるという報告がされている(日本経済新聞、電子版 2012.05.11)。
❏ 特許6112702 抗酸化剤
【概要】
抗酸化性物質としては、いわゆる合成化合物も開発されているが、活性酸素は生活習慣病の原因の一つ
であり、抗酸化性物質としては、症状が顕在化する前に、予防的、また、恒常的に投与できるものが好
ましい。このため抗酸化作用を有する合成化合物は副作用問題が大きく、予防的な投与や恒常的な投与
に適さない。そこで、食品としても使用可能な天然物から抗酸化物質が探索――βカロチン、ビタミン
C、ビタミンE、ポリフェノールなどを含む柑橘類から抗酸化物質が見出されている。従来、抗酸化作
用を有するフラボノイドなどを含むことから柑橘類の果実などから抗酸化物質の探索が進められてきた
が、フラボノイドを含まない/ほとんど含まないユズ種子のオイルが優れた抗酸化作用を有することを
実験的に突き止める(上/下図参照)。JP 6112702 B
❏ 特開2008-184454 葉面散布型の硝酸低減剤
【概要】
ほとんどの植物は、根から窒素源の硝酸を吸引、葉から空気中の二酸化炭素を取り込む。根から吸い込
まれた硝酸は、亜硝酸、アンモニアと代謝され、光合成で二酸化炭素を基に得られた糖由来の炭素源と
結合。このように植物は、「空気中からの炭素」と、「土壌からの窒素」を結合させ、生命活動に不可
欠なアミノ酸「炭素と窒素の化合物」を得て、健全な生育には、常時、一定濃度の硝酸が体液中に存在
し、硝酸濃度をゼロにはできない。
食用植物の残留硝酸イオンは、その量が多ければ、ヒトにとっては食味が優れないだけでなく、バクテ
リアなどにより亜硝酸に還元されるとニトロソ系の発がん剤となり、さらに、ヘム鉄と結び付きチアノ
ーゼ症状を引き起こす。また、微生物の増殖にとっても活用されるため、収穫後の野菜の腐敗が速い。
これにも関わらず、農作物の効果的な増収のために多肥栽培が実施され、高濃度の残留硝酸を含む野菜
が市場流通している実状がある。食の安心を求める市場からは、農作物中の残留硝酸を可能な限り低く
する事が切実に求められている。実際、EUでは葉野菜に含まれる硝酸濃度の許容基準値が定められて
いる。ここで、植物体内での代謝による硝酸の減少を「作用D」とし、根からの硝酸吸収を「作用U」
と定義すると、従来の硝酸低減剤は、作用Dの強化に軸足を置いた「生育促進剤+α」形で開発され、
作用Uの制限を追求する「生育抑制剤+α」の開発思想では全く実施されていない。
さて、植物の生長停止ホルモンのアブシジン酸誘導体は、アブシジン酸の気孔を閉じる作用が蒸散抑制
となり、切り花などの日持ち向上に使用される。アブシジン酸は全ての植物に含まれるが、ユズなどの
柑橘果皮には多く含まれ、、いくつかの植物の発芽、伸長が抑制される確認されている。また、ワイン
の渋味のもとでもあるタンニン型ポリフェノール誘導体も植物の生育を抑制する事が示されて、樹皮中
のタンニン誘導体に着目した雑草生育抑制剤などに使用されている。これらのタンニンは、水溶性で、
タンパク質、アルカロイド、金属イオンと強く結合し、還元(抗酸化)性を持つ。これらの特性が生育
抑制効果と相関すると推測されている。酸化防止剤として食品添加に利用されている没食子酸(gallic
acid, 3,4,5-trihydroxybenzoic acid)は、加水分解性タンニンの基本骨格をなし、実際、タンニン類の合成
原料として使用されている。
具体的には、まず、(1) 「生育抑制剤」による生育の緩慢化を、根からの養分吸収の制限につなげる。
この、根から硝酸が吸引されにくい状態で、(2) 体内に残存する硝酸濃度を二つ目の鍵物質(細胞内代
謝を促進剤)により低減させる方法での硝酸低減剤の開発であり、強力な生育抑制剤の作用に、細胞内
代謝促進剤の持つ硝酸低減効果を、有機的に相乗させ初めて発現すさせる「生育抑制剤+α」の設計指
針、これまでの硝酸低減剤の開発方法とは正反対という特徴をもつ葉面散布型の硝酸削減剤は、出荷直
前の大きさまで育てる農産物の葉の硝酸濃度を、一回の葉面散布処理により、2割から7割低減させ、
低硝酸状態が2-6日間維持(=農作物生産者に十分な有効収穫作業期間)し、優しく効果的な葉面散
布型の硝酸低減剤の提供効果、また、柑橘果皮や、抗酸化剤としての機能も合わせ持つタンニン誘導体
で植物体内に残存しても健康に問題なもので、下図のように、ユズ果皮成分やタンニン誘導体など植物
の生育抑制剤に、細胞内の代謝を活性化させる所謂育成促進剤としてマグネシウム塩や糖蜜発酵液を所
定量組み合わせもつ葉面散布型の硝酸低減剤の提供にある。
読書録:村上春樹著『騎士団長殺し 第Ⅱ部 遷ろうメタファー編』
第61章 勇気のある賢い女の子にならなくてはならない
階段を下りたところは地下二階で、そこにはメイド用の部屋があった。それに隣接して洗濯室
があり、その隣に貯蔵庫があった。つきあたりには運動機械の並んだジムがあった。騎士団長は
メイド用の部屋を示した。
「諸君はしばらくその部屋に身を隠しているのだ」と騎士団長は言った。「そこを免色くんが訪
れることはまずあらない。一目にコ茨は洗濯をしたり、運動するためにここに下りてくるが、メ
イド用の部屋まではいちいちのぞかない。だからそこでおとなしくしておれば、見つかることは
まずあらない。部屋には洗面所もついておるし、冷蔵庫もある。地震に備えてミネラル・ウオー
ターと食品が貯蔵庫に十分ストックされている。だから飢えることもあらない。諸君はここで比
較的安心して日にちを送ることができる」
ヒニチを送る? とまりえはスリッポン・シューズを手にさげたまま、驚いて(でも声には出
さず)尋ねた。ヒニチを送る? つまり、私は何日もここにいるということなのかしら?
「気の毒ではあるが、諸君はすぐにここを出ることはかなわない」と騎士団長は小さな首を振り
ながら言った。「ここは警戒の厳しい場所なのだ。いろいろな意味合いで、しっかり見張られて
いる。そればかりは、あたしにもなんともならない。イデアに与えられた能力にも残念ながら限
りがある」
「どれくらい長くなるのでしょう?」とまりえは小さく声に出して尋ねてみた。「早く家に帰ら
なくちやなりません。そうしないと叔母が心配します。行方不明になったとして、警察に連絡し
たりするかもしれません。そうするととても面倒なことになります」
騎士団長は首を振った。「残念ではあるが、あたしにはいかんともしがたい。ここでじっと待
つしかあらないのだ」
「免色さんは危険な人なのですか?」
「それは説明のむずかしい問題だ」と騎士団長は言った。そしていかにもむずかしそうな顔をし
た。「免色くん白身はべつに邪悪な人間というわけではあらない。むしろひとより高い能力を持
つ、まっとうな人物といってもよろしい。そこには高潔な部分さえうかがえなくはない。しかし
それと同時に、彼の心の中にはとくべつなスペースのようなものがあって、それが結果的に、普
通ではないもの、危険なものを呼び込む可能性を持っている。それが問題になる」
それがどういうことを意味するのか、まりえにはもちろん理解できなかった。普通ではないも
の?
彼女は尋ねた。「さっきクローゼットの前にじっと立っていた人は、免色さんだったのです
か?」
「それは免色くんであると同時に、免色くんではないものだ」
「免色さん自身はそのことに気づいているのですか?」
「おそらく」と騎士団長は言った。「おそらくは。しかし彼にもそれはいかんともしがたいこと
であるのだ」
危険で普通ではないもの? あるいは彼女の見かけたスズメバチもその形のひとつなのかもし
れない、とまりえは思った。
「そのとおり。スズメバチにはくれぐれも気をつけた方がいい。それはどこまでも致死的な生き
物であるから」と騎士団長は彼女の心を読んで言った。
「チシテキ?」
「死をもたらしかねないもの、ということだ」と騎士団長は説明した。「今は諸君はここにじっ
としているしかあらない。今、外に出るとやっかいなことになる」
「チシテキ」とまりえは心の中で繰り返した。その言葉にはとても不吉な響きが感じられた。
まりえはメイド室のドアを開けて中に入った。そこは免色の寝室のクローゼットよりも少し広
いくらいのスペースだった。簡易キッチンが付属してあり、冷蔵庫と電気のコンロがあり、コン
パクトな電子レンジがあり、蛇口と流し台があった。小さなバスルームがあり、ベッドがあった。
ベッドはむき出しだったが、戸棚には毛布と布団と枕が用意されていた。ささやかに食事ができ
る簡便な食卓と椅子のセットが置かれていた。椅子はひとつしかない。谷間に向けて小さな窓が
ひとつあった。カーテンの隙間からは谷開か見渡せた。
「もし誰にもみつかりたくなかったら、ここでおとなしくして、できるだけ音を立てないように
するのだよ」と騎士団長は言った。「わかったかね?」
まりえは肯いた。
「諸君は勇気のある女の子だ」と騎士団長は言った。「いくぶん無謀なところはあるけれども、
とにかくも勇気はある。そしてそれは基本的によろしいことだ。しかしここにいる限り、しこた
ま注意をしなくてはならない。くれぐれも油断してはならないよ。ここはそんじょそこらの普通
の場所ではあらないのだから。やっかいなものが徘徊しているのだから」
「ハイカイ?」
「うろつきまわっているということだ」
まりえは肯いた。ここがどのように「そんじょそこらの普通の場所」ではないのか、いったい
どんなやっかいなものがここをハイカイしているのか、それについてもっと知りたかったが、う
まく質問をすることができなかった。あまりにわからないことが多すぎて、いったいどこから手
をつければいいものかわからない。
「あたしはもうここに来ることがかなわないかもしれない」と騎士団長は秘密を打ち明けるよう
に言った。「これからほかに行かなくてはならない場所があるし、ほかにやらなくてはならない
ことがある。それはとても大事な用件なのだ。だからまことに申し訳あらないが、この先もう諸
君を手伝ってあげることはできそうにない。あとは諸君がなんとか自分の力で切り抜けるしかあ
らないのだ」
「でも、わたしひとりだけの力で、どうやってこの場所から抜け出せるかしら?」
騎士団長は目を細めてまりえを見た。「よく耳を澄ませ、よく目をこらし、心をなるたけ鋭く
しておく。それしか道はあらない。そしてそのときが来れば、諸君は知るはずだ。おお、今がま
さにそのときなのだ、と。諸君は勇気のある、質い女の子だ。注意さえ怠らねば、それは知れ亘
る」
まりえは肯いた。私は勇気のある、質い女の子でいなくてはならない。
「元気でおりなさい」と騎士団長は励ますように言った。それからふと思いついて付け加えた。
「心配しなくてよろしい。諸君のその胸はやがてもっと大きくなるであろうから」
「65のCくらいまで?」
騎士団長は困ったように首をひねった。「そう言われても、あたしはなにしろ▽弁のイデアに
過ぎない。ご婦人の下着のサイズのことまではよく知識を持だない。でもとにかくも、今よりは
もっとずっと大きくなることは間違いあらない。心配することはあらない。時がすべてを解決し
てくれるであろう。かたちあるものにとって、時とは偉大なものだ。時はいつまでもあるという
ものではあらないが、あるかぎりにおいてはなかなかに効果を発揮する。だからずいぶん楽しみ
にしておりなさい」
「ありがとう」とまりえは礼を言った。それは間違いなくひとつの明るいニュースだった。そし
て彼女はそういう自分を勇気づけてくれるものを、ひとつでも多く必要としていた。
それから騎士団長はふっと姿を消した。やはり水蒸気が空中に吸い込まれるみたいに。騎士団
長が目の前から消えてしまうと、あたりの沈黙がいっそう重くなった。騎士団長にもう二度と会
えないかもしれないと思うと、寂しい気持ちがした。私にはもう頼れるものもないのだ。まりえ
はメイクをしていない裸のベッドに横になり、天井を見つめた。天井は低く、白い石膏ボードが
貼られていた。その真ん中に蛍光灯の照明がついていた。しかしもちろん彼女はそれをつけなか
った。明かりをつけるわけにはいかない。
あとどれくらい長くここにいなくてはならないのだろう? そろそろ夕食の時刻が近づいてい
る。七時半までに帰宅しなければ、叔母はきっと絵画教室に電話をかけるだろう。そして私か今
日教室を欠席したことを知るだろう。そのことを考えるとまりえの胸は痛んだ。叔母はずいぶん
心配するに違いない。私の身にいったい何か起こったのだろうと。なんとか叔母に自分か無事で
あることを知らせなくてはならない。それから上着のポケットに携帯電話が入っていることには
っと気がついた。でもスイッチは切ったままにしてある。
まりえは携帯電話をポケットから引っ張り出し、スイッチを入れた。両面には「バッテリーが
不足しています」という表示が浮かび上がった。電池の残量はきれいに空白だった。そして間を
置かずに両面が消滅した。彼女はもう長いあいだそれを充電するのを忘れていたから(彼女は日
常的に携帯電話をほとんど必要としなかったし、その機械に対してとくに好意も関心も抱いてい
なかった)、バッテリーが枯渇してしまっていてもとくに不思議はないし、また文句も言えなか
った。
彼女は深いため息をついた。少なくともときどき充電くらいはしておくべきだった。何か起こ
るかわからないのだから。しかし今さらそんなことを言い出してもしかたない。彼女は息を引き
取ってしまったその携帯電話を、またブレザーコートのポケットに突っ込んだ。しかし何かがふ
と気になってそれをまた引っ張り出した。そこにいつもつけているペンギンのフィギュアが見当
たらない。それは彼女がドーナッツ・ショップでポイントを貯め、景品としてもらって、ずっと
お守り代わりにしていたものだった。たぶんストラップが切れたのだろう。しかしいったいどこ
で落としたのだろう? 彼女にはそんな心当たりがなかった。なにしろ電話をポケットから出し
たこともほとんどなかったのだから。
その小さなお守りをなくしたことは、彼女を不安な気持ちにさせた。しかし少し考えて思い直
した。ペンギンのお守りはとこかでうっかりなくしたのかもしれない。でもその代わり、あのク
ローゼットの中のイフクが、新しいお守りとなって私を助けてくれたのだ。そしてあの奇妙なし
ゃべり方をする小さな騎士団長が、私をここまで導いてくれた。私はまだちゃんと何かに護られ
ている。あのお守りがなくなったことを気にするのはやめよう。
彼女がそれ以外に身につけているものといえば、財布と、ハンカチと、小銭入れと、家の鍵、
半分残ったクールミントのチューインガム、それくらいだ。ショルダーバッグの中には筆記具と
ノートと教科書が何冊か入っている。彼に立ちそうなものは何も見当たらない。
まりえはそっとメイド室を出て、貯蔵庫の中身を点検してみた。そこには騎士団長の言ったと
おり、地震に備えた非常食がたっぷり蓄えられていた。小田原のこの山間部は地盤が比較的しっ
かりしているので、地震の被害はそれほど多くないはずだ。一丸二三年の関東大震災のときにも
小田原市内は大きな被害を受けたものの、このあた.りの被害は比較的軽微なものにとどまった
(彼女は小学校のときに夏休みの研究課題として、関東大震災のときの小田原近辺の被害状況を
調査したことがあった)。しかし地震の直後には食料と水を手に入れるのがむずかしくなる。と
くにこのような山の上では。だから免包は災害に備えて、その二つを怠りなく保管しているのだ
ろう。どこまでも用心深い人だ。
彼女はその貯蔵庫からミネラル・ウォーターのボトルを二本と、クラッカーの包みをひとつと、
チョコレートを一枚取り、それを持って部屋に戻った。それくらいの量なら持ち出しても、きっ
と気づかれないはずだ。いくら綿密な免包でもミネラル・ウオーターのボトルの数まで数えては
いないだろう。彼女がミネラル・ウオーターのボトルを持ってきたのは、できれば水道を使いた
くなかったからだった。水道はどんな音を立てるかしれない。できるだけ音を立てないようにす
るのだよと騎士団長は言った。注意しなくてはならない。
まりえは部屋の中に入ると、内側からドアをロックした。もちろんどれだけドアをロックして
も、免色はこのドアの鍵を持っているだろう。しかしすこしくらい時間は稼げるかもしれない。
少なくともひとつの気休めにはなる。
食欲はなかったが、彼女は試しにクラッカーを何枚か啜り、水を欲んだ。ごく普通のクラッカ
ーと、ごく普通の水だった。念のために表示を確かめてみたが、どちらもまだ賞味期限内だった。
大丈夫、私がここで飢えるようなことはない。
外はもうすっかり暗くなっていた。まりえは窓のカーテンを小さく開けて、谷間の向かい側に
目をやった。そこには彼女の家が見えた。双眼鏡がなかったから、家の内部まではうかがえなか
ったが、いくつかの部屋に明かりがついているのが見えた。目を凝らせば人影も見えそうだった。
そこには叔母さんがいて、いつもの時刻になっても私が帰宅しないことで、きっとやきもきして
いるはずだ。どこかから電話がかけられないものだろうか? どこかにきっと固定の電話機があ
るはずだ。「私は無事だから心配しないでいい」、短くそれだけ言って電話を切ればいい。短く
済ませればおそらく、免色さんに気づかれることもないだろう。しかしその部屋の中にも、また
近辺のどこにも、電話機は見当たらなかった。
夜のあいだに、開に紛れてここを抜け出せないものだろうか? どこかで梯子を見つけ、塀を
乗りこえて外に出るのだ。庭の資材小屋で折りたたみ式の梯子を見かけたような記憶があった。
しかし彼女は騎士団長の言ったことを思い出した。ここは警戒の厳しい場所なのだ。いろい
ろな意味合いで、しっかり見張られている。そして「警戒が厳しい」と言うとき、彼はセキュリ
ティー会社のアラーム・システムのことだけを言っているのではないはずだ。
騎士団長の言うことを信じた方がいいだろう。まりえはそう思った。ここは普通の場所ではな
いのだ。いろんなものがハイカイしている場所なのだ。私は用心深くならなくてはいけない。ず
いぷん我慢強くならなくてはならない。軽率に強引にものごとを運ばない方がいい。騎士団長に
言われたとおり、しばらくのあいだはここに留まって、おとなしく様子をうかがっていることに
しよう。そして機会が訪れるのを待つのだ。
そのときが来れば、諸君にはわかるはずだ。今がまさにそのときなのだと。諸君は勇気のあ
る、賢い女の子だ、それは知れる。
そうだ、私は勇気のある賢い女の子にならなくてはならない。そしてしっかりと生き延びて、
この胸がもっと大きくなるのを見届けるのだ。
彼女は裸のベッドに横になったままそう思った。あたりはどんどん暗くなっていった。そして
より深い暗闇が訪れようとしていた。
この章も摩訶不思議な彼の世界だ! 異能者たちとはどのようなものか?謎が続く、さて、次は――
なんと言う”不思議の国のアリス”なんだろう――第62章へと移る。
この項つづく
●
今夜まで、ひどく体調が崩れた3週間を過ごしている。どうなることやら。どうにもならないことだが
予定は大きく狂ってしまった、これはフェイクでなくファクトだが。
● 今夜の一曲
「ANNIVERSARY」
なぜこんなこと気づかないでいたの
探し続けた愛がここにあるの
木漏れ日がライスシャワーのように
手をつなぐ二人の上に降り注いでる
あなたを信じてる瞳を見上げてる
ひとり残されてもあなたを思ってる
今はわかるの苦い日々の意昧も
ひたむきならばやさしいきのうになる
いつの日かかけがえのないあなたの
同じだけかけがえのない私になるの
明日を信じてるあなたと歩いてる
ありふれた朝でも私には記念日
今朝の光は無限に届く気がする
いつかは会えなくなると
知っていても
作詞/作曲 松任谷由実