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未知の遭遇に感謝祭

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             公孫丑(こうそんちゆう)篇 「浩然の気」とは   /   孟子   

                                            

      ※ 斉を去る:孟子が斉の国を去った。そのことで斉の尹士が友人に話した。
       「われわれの宣王は、湯王や武王の真似のできるお方じゃない。孟子がそ
       れを知らないでこの国に来だのなら、明き盲だ。もし、承知の上で来だの
       なら、封禄にありつこうとしたのだ。わざわざ遠方からやって来て、結局
       王と意見が合わないから出て行った。しかも帰りぎわになって昼(ちゅう)
       の村に三日も泊まって、やっと故郷に向かったということだ。未練がまし
       いにもほどがある。わたしはそんな奴は大きらいだ」

       高子(孟子の弟子)がこの話を孟子に伝えた。孟子は言った。

       「尹士などにわたしの気持がわかるものか。遠方から王に会いに来だのは、
       催かにわたしの希望からだ。しかし意見が合わないために国を去ったのは、
       けっしてわたしの希望ではない。やむを得なかったのだ。昼の村に三日も
       泊まって出発したが、わたしの気持にしてみれば、まだ早すぎるくらいで
       あった。わたしは『王がどうか態度を改めてくれればよい。もし改めれば、
       かならずわたしを呼びもどしに来る』と思っていたのだ。昼の村を出発し
       ても王は追って来なかった。そこで思い切って国へ帰る気になったのだ。
       しかしながら王に失望したわけではけっしてない。まだまだ善政のできる
       お方だ。もう一度わたしを使うなら、斉の人民ばかりでない、天下の人々
       の生活が安定するのだ。王よ、どうか態度を改めてくだされ。それを祈っ
       てやまない。わたしは小人のような真似はしない。君主を諌めて聞き入れ
       てもらえなければ、復立ちまぎれに国を去るに当たって、あてつけがまし
       く、陽のあるかぎり歩けるだけ歩くようなことはしないのだ」

       尹士はこれを問いて言った。「本当にわたしは小人であった」     

       【解説】孟子はついに斉を去った。この八年間、これこそわが積年の理想
       を実現しうる人拘だと、かれが大きな期待をかけてきた宣王も、王道政治
       を行なえるだけの器量を備えながら、結局戦国の一雄として終わらざるを
       得なかった。王道政治を行なうにはあまりに時代の病根が深かったのであ
       る。血を吐くような言葉を残して斉の都を離れてゆく孤高の人、孟子の後
       姿を思えば、なにか人の胸を打つものがある。前三312年のことである。
      
       斉を去るにいたった直接の動機は、おそらく燕占領政策の変更を迫った孟
       子の進言が受け入れられなかったことであろう。燕はその後、昭王の下で
       有名な「まず傀より始めよ」の人材招致政策をとり、楽毅を総帥として斉
       を攻撃する。斉は支えきれず、たちまちのうちに七十余城を奪われてしま
       った。力で支配する背が力で恢復されたのである。 

 

    No.103

【サーモタイル事業篇:高性能な熱電材料設計指針】

● 青色LED材料を活かして、熱を電気に変換

11月27日、北海道大学らの研究グループは、青色発光ダイオード材料の窒化ガリウム
(GaN)半導体の電子の動き易さを活かした半導体二次元電子ガスが、従来の熱電変換材料
に比べ2~6倍も大きな熱電変換出力因子を示すことを発見。ここで、二次元電子ガスとは、
電子が溜まったナノメートル(nm)オーダーの極めて薄い層。今回の発見は、温度差を電気
に直接変換する熱電材料を高性能化するために有力な材料設計指針となる。将来、工場や火
力発電所、自動車からの廃熱を電気に変えて有効利用技術となりうる。



それによると、一般に、半導体GaNの導電率を高めるためには、Siなどの不純物を混ぜ込む。
この時、SiはGaN結晶中でイオン化し、電気伝導を担う伝導電子が生じる。このような半導体
GaNに温度差を与えると、熱起電力が発生し、外部回路に接続することで電子が高温側から
低温側に流れますが、イオン化したSiが電子の流れを妨げるため、結果的にあまり導電率は
高められず、一般的な半導体GaNでは大きな熱電出力は得られない。

一方、半導体二次元電子ガスの場合は、不純物を混ぜ込むのではなく、静電気によってGaN
の中の電子を薄い領域に寄せ集めることで導電率を高める。不純物を一切含まないので、二
次元電子ガスの電子は高速で動くことができ、大きな熱電出力を示す。半導体GaN二次元電
子ガスの熱電変換出力因子は最大で約9 mW m-1 K-2であり、一般的な半導体GaN(1 mW m-1 K-2
以下)の10倍以上であり、既に実用化されている最先端の熱電変換材料(1.5~4 mW m-1 K-2)
の2~6倍に相当。この研究成果は、半導体二次元電子ガスのように高い電子移動度を維持
しながら電子濃度を制御できる構造が、熱電材料の高性能化の鍵であることを明確に示すも
ので、今回使用したGaNの半導体二次元電子ガスは、非常に高価な単結晶基板の上にしか作製
できないことに加え、熱伝導率が大きいことから、そのまま実用化に繋がるものではないが、
本モデルは、実用化を控えた熱電材料を高性能化するための材料設計指針となる。

 Nov. 24, 2017

【実験方法】

上図2aに、研究で作製した半導体二次元電子ガスの模式図を示す。今回、窒化アルミニウム
ガリウム(AlGaN)/GaNの半導体二次元電子ガスの上に、静電気力を変化させる絶縁体層(酸
化アルミニウム、厚さ30 nm)を乗せ、熱電効果計測用のソース、ドレイン、ゲート電極を備
える3端子の薄膜トランジスタ構造を作製。ゲート-ソース電極間にマイナス電圧を加える
と、二次元電子ガスの電子濃度が減少し、逆にプラス電圧を加えると二次元電子ガスの電子
濃度が増加させる。トランジスタ特性と熱電効果は、上図2bに示す非常に小さな材料の計測
が可能な自作装置で計測。ゲート-ソース間に一定電圧を加え、二次元電子ガス電子濃度制
御した状態で、2つのペルチェ素子を用いて2次元電子ガスに温度差を与え、ソース-ドレ
イン電極間に発生する電圧(熱起電力)を電圧計で計測する。

【実験成果】

半導体二次元電子ガスの電子濃度を、静電気力(ゲート電圧)を変化させることで制御し、
その時の電子移動度を計測しました(図3a)。予想どおり、シート電子濃度注5)を高めて
も半導体二次元電子ガスの電子移動度は減少せず、1012 cm-2から1013 cm-2の範囲では1000 cm2
V-1 s-1を超える大きな電子移動度が維持されることがわかる。一方、熱電能は一般的な半導
体に見られる傾向と同様に、シート電子濃度の増加に伴いその絶対値が減少しました(図3
b)。既に報告されている一般的な半導体窒化ガリウムの熱電能と電子濃度の関係から、2次
元電子ガスの正味の電子濃度を求め、計測した移動度と掛け合わせて導電率σを算出。

図4aに半導体二次元電子ガスの熱電変換出力因子の電子濃度依存性を示す。半導体二次元電
子ガスの出力因子は最大で約9mW m-1 K-2と、極めて大きいことがわかります。これは、一
般的な半導体窒化ガリウム(1 mW m-1 K-2以下)の10倍以上であり、既に実用化されてい
る最先端の熱電変換材料(1.5~4 mW m-1 K-2)の2~6倍に相当。このように大きな出力因
子が得られたのは、一般的な半導体では不純物濃度の増加に伴って電子移動度が大きく減少
してしまうのに対し、半導体二次元電子ガスでは大きな電子移動度を維持する(図4b)。

尚、青色発光ダイオードの材料として知られる窒化ガリウム(GaN)の高い電子移動度を活
かした二次元電子ガスに着目(上図1)。一般に、半導体窒化ガリウムの電気の流れやすさ
(導電率)を高めるには、ケイ素などの不純物を混ぜ込む。この時、ケイ素は窒化ガリウム
結晶中でイオンになり、それにより電気伝導を担う電子が生じ、このような半導体窒化ガリ
ウムに温度差を与えると、電圧(熱起電力)が発生し、電子は暖かいほうから冷たいほうに
流れ、イオン化したケイ素が電子の流れを妨ぎ、結果的にあまり導電率は高められず、一般
的な半導体窒化ガリウムでは大きな熱電出力は得られず。一方、半導体2次元電子ガスの場
合は、不純物を混ぜ込むのではなく、静電気によって窒化ガリウム結晶の中の電子を薄い領
域に寄せ集めることで導電率を高め、不純物を一切含まないので、2次元電子ガス電子は高
速移動でき、大きな熱電出力を示すのではないかと推測しているという。

以上、実用化までの道のりはこの先にあるとのことだが、気体を使用するため事前安全評価
が重要課題となる。

   

高橋洋一 著 『戦後経済史は嘘ばかり』  

   第2章 高度経済成長はなぜ実現したのか? 

      第3節 「1ドル=360円」の楽勝レートが高度成長の殼大の要因

  私は、日本の高度成長を支えた最大の要因は「1ドル=360円」の有利な為替レー
 トだったと見ています,
  産業界には、ものづくりの技術を高めたことが日本の産業を発展させたと考えている
 方が多くいらっしやいますから、「為替レートが有利だったから、日本の産業が伸び
 た」というと、必ずお叱りを受けます。
  もちろん、ものづくりの努力が産業を支えてきたことは私も十分に承知しています
 し、そうした要因があったことも間違いないことなのですが、しかし、為替データを見
 る限り、為替要因が圧倒的に大きかったことがわかるのです。

  身近な例でいえば、2009年からの民主党政権時代(2009年9月~2011年
 12月)には、過度な円高が放置されたために、日本の産業界は非常に苦しめられまし
 た。技術力は世界最高レベルであるにもかかわらず、大手メーカーが赤字となり、リス
 トラを余儀なくされました。不利な為替レートだと、どんなに技術力が高くても利益を
 上げられません。為替要因はしばしば技術要因を上回ります。

  経済理論の中には、適正な為替レートを計算する理論がいくつかあります。経常収支
 によって決まってくるときもありますが、変動相場制のような自由な為替相場の世界で
 は、マネタリーアプローチによって計算できます。2国のマネタリーベースの比をとる
 と、均衡レートが出てきます。
  途中を省いて単純化していうと、円の総量/ドルの総量で、円ドルの均衡レートが計
 算できます。「完全に自由な為替相場だったとしたら」と仮定した場合の計算上の為替
 レートです,どんな物でも量が増えると相対的な価値が減少します。それと同じで、円
 の量を増やすと円安になると考えていただくとわかりやすいかもしれません。

  図1を見て下さい。1986年以降の円ドルレートは、計算上の均衡レートとほとん
 ど同じ水準です。のちほど「プラザ合意」のところで詳しく説明しますが(湖沼参
 照)、1985年のプラザ合意以降は為替介入をしなくなりましたので、計算上の均衡
 レートと実際の為替レートがだいたい一致するようになりました。 

  均衡レートは、1971年までさかのぼって計算することができます。1970年代
 における均衡レートは、1ドル=140円程度です。それ以前の均衡レートは私の試算
 ですが、1970年代と大きくは違っていないはずです。
  グラフを見ていただくと、1ドル=360円時代が日本の輸出産業にとっていかに有
 利な為替レートだったかがわかります。1ドル=140円程度のところを1ドル=36
 0円で取引できるなら、「楽勝レート」です。1960年代の高度成長期には、非常に
 有利なレートで輸出をすることができました。


  1ドル=360円のレートは、1949年に設定されて以来ずっと続きました。なぜ
 アメリカが日本にとって有利な為替レートにしてくれたのかはよくわかりません。かつ
 て田中角栄が「円は360度だから、1ドル360円だ」と冗談めかしていったという
 話はありますが、Iドル=360円に決めてくれた人に感謝するしかおりません。日本
 のことをアメリカがナメていたのかもしれません,
  この有利な為替レートが戦後の高度経済成長の最大の要因です。1960年代の高度
 成長期は、高いゲタを履かせてもらっていましたので、輸出企業の競争力が圧倒的に高
 まり、高収益を土げることができました。

  日本の輸出企業は圧倒的に有利な為替レートの恩恵を受けていました。もちろん、日
 本企業に基礎的な技術力があったのも事実です。いくら為替レートが有利でも、粗悪品
 をつくっていたのでは海外では売れません。
  昔は日本製品は低品質と見られていましたが、徐々に技術力が高まり、アメリカ製品
 と似たようなレベルの物をつくることができるようになりました,その過程で、海外か
 ら多くの技術を学んでいます。海外企業と提携して技術力を高めた企業もたくさんあり
 ます。

  もちろん、実力を超えた円安の時代ですから、海外から技術を導入する経費は大変な
 ものでした。本田技研は、あまりに高額の工作機械を購入したことも響いて資金難に陥
 り、倒産しかかっています。松下電器がフィリップスと提携したときも、イニシャル・
 ペイメント(前払い実施料)55万ドル、株式参加30%、ロイヤルティー(技術指導料)
 7%を要求されました。松下幸之助が、この技術指導料に対して「経営指導料」を逆に
 要求したことは有名な話です。結果としてフィリップスの技術指導料4・5%に対し
 て、松下電器の経営指導料3%で契約が成立しています。



  たしかに、当時の名経営者たちはこのような果断な判断を次々と下し、技術力を格段
 に向上させていったのです,1950年代は価格の安さが最大の売りだったのでしょう
 が、利益を上げながら品質を高め、1980年代には日本製品の品質は世界最高レベル
 になっています,
  それを端的に物語っているのが、アメリカの映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」
 です。主人公が1985年から1955年にタイムスリップするストーリーですが、1
 985年のシーンでは、身の回りの家電製品は日本製ばかりです。主人公の少年があこ
 がれる自動車もトヨタのビックアップトラックです。
  ところが、30年前の1955年のシーンはまったく追います。シリーズ3作目で、
 1955年当時の人物が、「メイド・インyジャパンじゃ、壊れても不思議はない」と
 いうのに対し、1985年から来た主人公が、「何をいっているんだい。日本製は最高
 だよ」というシーンがあります。1950年代の日本製品と1980年代の日本製品で
 はまったくイメージが追っています。

  ともあれ、果断な経営判断と、不断の努力で製品の品質を上げていったことが、日本
 製品の最終的な勝利を招来することになったわけですが、日本企業の躍進を支えた大き
 な要因は、やはり「Iドル=360円」の為替レートだったことは間違いないでしょ
 う。有利な為替レートのおかげで、「品質の良いものを、割安の値段で売る」ことがで
 きたのです。おかげて、日本製品はどんどん海外で売れました。さらにいえば、当時の
 経営者たちが果敢に決断できた背景に、「1ドル=360円」という為替レートがもた
 らしてくれる高収益に対する安心感があったことも、間違いありません。


        第4節 通産省の役人よりも一枚も二枚も企業は上手だった

  まして、「高度成長時代は、通産省が日本の産業を牽引してきた」というのは、多く
 の人の思い込みにすぎません。城山三郎の小説「官僚たちの夏」は、通産省が日本の産
 業を引っ張ってきたというストーリーでテレビドラマにもなりました。通産官僚がヒー
 ロー的に描かれていますので、そのような物語の影響もあるのかもしれません。
  しかし実際のところは、日本の産業を発展させたのはあくまでも民間企業であって、
 通産省はそれに少し力を貸しただけです。それどころか通産省が民間を妨害したケース
 もあります。代表的な例が本田技研の四輔車参入です。
 「官僚たちの夏」の主人公として描かれている通産次官は、自動車メーカーは数社あれ
 ばいいと考えて、二輪車専業だった本田技研の四輔車への参入を認めようとしませんで
 した。それに対して、本田宗一郎は真っ向から反論して、通産省に逆らって四輔車に参
 入しました。今振り返ってみれば、通産次官と本田宗一郎のどちらが正しかったかは明
 らかです,

  そもそも、通産省の役人に産業を見分ける力はありません。一方、企業は自分たちの
 生き残りがかかっていますので、役人よりはるかに真剣に取り組んでいます。
  企業は常に研究開発を続けていて、どこよりも早く新しいものをつくろうとしていま
 す。その情報を通産省に少し横流しすると、通産省は「今度はこれだ」として、政策と
 して打ち出すというのが通常のパターンです。
  通産省の業界指導がいかに意味のないものだったのかを私が明確に認識したのは、1
 980年代後半に公正取引委員会で仕事をしていたときだったことは、すでに述べまし
 た。公取はカルテルなどを取り締まる役所ですから、業界指導をする通産省とは、ある
 意味で敵対していたからです。本章では、もう少し詳しく、このときの経験を紹介する
 ことにしましょう,

  私のいた部署は経済部調整課でした。調整課は、各省庁が立案した法律案や口頭指
 導・行政指導によって、自由な競争が制限されたり阻害されたりしないように、各省庁
 と調整をするのが仕事です。
  通産省の役人も呼んで、「こういう行政指導はカルテルになるからやめて下さい」と
 指摘します。しかし通産省の人は、業界を指導するのが自分たちの仕事だと思っていま
 すから、「産業政策」と称して業界指導するための根拠法をつくろうとします。公取は
 「そういう法律をつくると、独占禁止法に抵触します」と伝えるわけですが、通産省の
 役人にしてみれば、自分たちのレゾンデートル、つまり存在理由にかかわることを公取
 に否定されるので、公取と通産省はよく対立していました。

  この構図をうまく使ったのが業界の人たちです。彼らのほうが役人より一枚も二枚も
 上手です,
  業界を保護してほしいときには、通産省に「ぜひ、ご指導を」といって業界指導を頼
 みに行きます。しかし、通産省の業界指導が気に入らないときには、「カルテルになら
 ないでしょうか」と公取に駆け込んできます,こうして、うまい具合に役所を使い分け
 ているのです。
  私は、いつも業界と通産省の間に立って調整をしていました。業界の人にうまく利用
 されていたのだと思います。いや、逆にいえば、民間はそれだけ「したたか」だという
 ことです,
  ただし、両者の間に入って、双方からホンネを間いていましたので、業界指導がどう
 いうものなのか本当のことがよくわかりました。


    第4節 ただ民間の後追いをしてきただけという通産省の本当の姿

  民間企業は何かヒットするかわからないので、様々な分野で開発を進めています。通
 産省から話を間かれると、有望そうな分野のことを話して、通産省にデータを提供しま
 す。通産省はそのデータを利用して、政策目標として掲げていたのです。要するに、通
 産省は民間が出したビジョンの後追いをしていただけです。 

  さらに通産省よりも、けるかに遅れているのがマスコミです。通産省から何らかの情
 報が出されると、マスコミは「最新ニュース」だと捉えて、嬉々として飛びつきます。
 情報に疎いマスコミは、「通産省がこんな新しい目標を打ち出した」というニュアンス
 で大々的に報道してくれるのです。
  かくして、あたかも通産省が業界に先んじてすごい目標を打ち出し、業界を引っ張っ
 たかのように報道されるのですが、要は、マスコミは通産省の御用報道機関として利用
 されていたわけです。

  こういう情報を信じた人は、「通産省の業界指導が日本の産業を牽引した」とずっと
 思い込んできたのだろうと思います。通産省が目標を打ち出して、それに業界が従った
 かのように捉えられていますが、事実はまったくの逆なのです,
  業界の人たちが勝手に集まって話し合いをしたらカルテルになってしまいます。そこ
 で通産省は、法律をつくってカルテルを合法化していきました。業界の人たちは、法律
 に基づいて、通産省の人が出席している場で話し合いをします。そうすると、カルテル
 ではなく業界指導ということになります。
  外国から見たら完全なカルテルであり、公取から見てもカルテルの疑いが強いもので
 す。しかし、法律をつくって合法化し、通産省が関催している会議にすれば、ぎりぎり
 のところでカルテルとみなされにくくなります。通産省の業界指導というのは、いわば
 「偽装カルテル」だったといえます。

  では、偽装カルテルをつくったあとに、通産省が業界指導をできたのかというと、何
 もできませんでした。指導というのは、その業界のことをわかっている人でなければで
 きるものではありません,
  途中からは通産省の代わりに民間の人がカルテルを主導するようになります。民間の
 人は、自分の会社の都合のいいように話を待っていこうとしますから、結局、業界指導
 の名を借りたカルテルはすべて成り立だなくなっていきました。
  私が公取にいたころに造船業界のカルテルが認可されました。造船は運輸省が管轄し
 ており、運輸省がカルテル認可を求めていました。業界の人たちは、状況をよくわかっ
 ていますので「カルテルをしても意味がない」といっていて、カルテルをやりたがって
 いませんでした。

  一般的にいえば、船舶の世界はグローバルです。また、造船は世界の中で一番コスト
 の安いところでつくって、船籍は別の国にしておくことが多いので、日本でカルテルを
 しても意味かおりません。運輸省が強く求めたため認可しましたが、公取最後のカルテ
 ル認可になりました,
  結局、造船カルテルをつくったものの、各社は手間ばかりかかって何の利益もないた
 め、苦労されたようです。以降はカルテルの申請は一切なくなりました。

この戦後復興過程の評価はいささかの筆禍が含まれている。為替レートは戦後インフレが直
接原因(もの不足)で、決済手段の円のレート変動は影響ない。1ドル=360度、否、1
ドル=360円の固定相場は米国の世界支配の枠組み政策の反映――日本の従属、あるいば
庇護の現れであり――過大評価の嫌いがある。また、通産省に対する評価も、ここでは自動
車産業政策の瑕疵を指摘しているが、誤謬もあるものであり日米経済協議の "半導体不平等
条約”のように米国は日本の「官民のパートナーシップ」を取り入れ巻き返しを図っている
ほどであるが、造船不況は技術力を除く競争力の低下(港湾整備や低労働賃金など)もので
アプローチ(=通商戦略/戦術)を変更すれば巻き返しは可能である。

                                  この項つづく  

 ●今夜の一枚の写真

「感謝祭の夕食を科学する」(How to science up your Thanksgiving dinner | Science | AAAS)よ
り。日曜、梅田丸ビルで合同同窓会に出席。街は再開発で変貌をとげている。旧曾根崎小学
校跡は、来年より建設に入る。曾根崎警察署ビル横にあった旭屋書店はなくなっていた。い
ろいろ驚くこともあったが、相変わらず忙しい毎日で、この夜はこの辺で切り上げることに。


 

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