Quantcast
Channel: 極東極楽 ごくとうごくらく
Viewing all 2435 articles
Browse latest View live

引き寄せられる混沌

$
0
0

 

 

 

● 『吉本隆明の経済学』論 12

   吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!  

 吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズと
 も異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかっ
 たその思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造
 とは何か。資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の
 核心に迫る。

  はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 第4章 労働価値論から贈与価値論へ
 第5章 生産と消費
 第6章 都市経済論
 第7章 贈与価値論
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき 

 第2部 経済の詩的構造

  3 詩的構造を持った経済学

  このときアニミズム的な「同一なもの」によって駆動されていた「ものがたり」としてのリカ
 ード経済学は、人間だけが舞台に登場して確執を演じる「ドラマ」へと変貌をとげることになっ
 た。「穀物比率」という「同一のもの」は、「社会的必要労働時間」という別の「同一のもの」
 に置き換えられ、「利潤率は、もはや、生産中に使いはたされた穀物にたいする生産された穀物
 の比率ではなくて、そのかわりに、一国の総労働にとっての必需品を生産するために要する労働
 にたいするその国の総労働の比率によって、決定されることになった」(邦訳『デイヴィド・リ
 カードウ全集』[雄松堂書店、1969-99年)に収録されたスラッファによる「編者序文」
 より)。アダム・スミスからマルクスまでの古典派経済学の転形を、吉本隆明は「うた」から「
 ものがたり」をへて「ドラマ」へと移り変わっていく過程として理解し描き出そうとした。その
 とき彼は、転形が起こるたびに科学理論としては緻密になっていったが、思想としてはしだいに
 潤いがなくなっていった、とも語っている。
 
  私はこの過程を、詩的構造の原始性からの乖離の度合いとして理解しようと思う。そのことを
 理解するには、アダム・スミスの前に重農主義の思想家ケネーを付け加える必要がある。アダム・
 スミスが経済の「うた」を歌ったとすれば、ケネーは何をしたか。ケネーの『経済表』はマルク
 スによって人類にとっての「スフィンクスの謎」と呼ばれた。
  ところで人類学は「なぞなぞ」が「うた」に先行するより原始的な文芸形態であることをあき
 らかにしてきた。それは裸にされた詩的構造そのものである。吉本隆明のおこなった理論教判の
 図式に、私はケネーの「なぞなぞ」を加えて、図式を完成させたいと思う(図3)。



  マルクスの経済学からじつに多くのことを学び取りながら、吉本隆明はそれにものたりないも
 のがあると考えている。私はその「ものたりなさ」が、人間の脳り心の原初的な働きのおおもと
 をつくっている詩的構造からの「造さ」にあると考えている。それは資本主義経済そのものかた
 どり着いた、詩的構造からの「造さ」をもあらわしている。
  それでは、脳=心の詩的構造により「近い」ところにある経済の形態であるとか、詩的構造に
 密着した経済学などというものが果たして存在しうるのだろうか。20世紀の経済学者の中に、
 そのような試みに取り組んだ人がいた,スラッフアである。

  スラッファの『商品による商品の生産』(菱山泉・江草忠充訳、有斐閣、1962年)は詩的
 言語の構成をもって舎かれた経済学舎である。全体のトーンを決定しているのは価値増殖の原理
 であり、各産業部門の内部ではすべての構成部分が有機的なつながりを保ちつつ全体運動をおこ
 なっている。ある構成部分の変化は全体に波及していき、全体の変化が各構成部分に跳ね返って
 きては、新しい変化をつくりだすように考えられている。そこではケネーの精神が躍動し、リカ
 ードの穀物比率の思想がよみがえり、マルクスの平均剰余価値率の理論に款いの船が出されてい
 る。



  しかも私にとってそれ以上に重要なことは、それが生起と喩のメカニズムを明示的に組み込ん
 でいる、現代ではほとんど唯一の経済理論であるということである。
  スラッファがあげているもっとも簡単な「小麦(農業部門)と絹(農業以外のすべての産業)
 からなる二部門モデル」を見てみよう。産業全体を第▽次産業とその他の産業(第二次産業、第
 三次産業……)の一一部門に分ける原始的モデルである。
  小麦であらわした絹―箱の価格をカ、二つの部門に共通の利潤率(=増殖率)をyとする。小
 麦産業は200クォーターの小麦を「資本」として投入し、300クォーターの小麦を産出する。
 絹生産部門は80クォーターの小麦を「資本」として投入して、15箱の絹を産出するものとする。
 二部門からなる生産体系のモデルは、つぎの連立方程式であらわされる(図4)。

   

  
  この連立方程式を解くと、y=50%、ρ=8クォーター。一般的利潤率yは、小麦部門だけか
 ら(300-200)÷200=50%と、価値評価とはかかわりなしに、穀物収量の増殖率であ
 る穀物比率で完全に決定されてしまっている。他方、絹1箱の価格カは、小麦部門の内部で完全
 に決まってしまっていたy=50%の利潤率によって調整されて、従属的に1箱あたり8クォータ
 ーに決まってしまう。
  これはケネーの『経済表』にしめされた「純生産」の原理と同じ思考法である。農業部門で利
 潤率yといえば、穀物価値の増殖率を示す穀物比率yにほかならない。このyは、農業部門に特
 有なやり方で決定される。そこでは農業という産業システムの内部に植物を介して→外生的」な
 エネルギーが取り込まれ変換されることによって、価値の増殖が起こる。システムの外からのエ
 ネルギー流人がおこなわれるのはここだけであるから、増殖率をあらわすyによって、他産業の
 生産物の価格は先決的に決められてしまうことになる。これは言い方を替えると、「賜物」であ
 る純生産によって決められる贈与価値というものが、あらゆる価値論の基礎に据えられるべきも
 のであり、商品というものをつくりだす交換価値の概念では、価値増殖にもとづく資本主義の本
 質をとらえることはできない、という主張になる。

  重農主義はたんに農業を富の生産の基礎に据える思想などではない、ということがこれからも
 わかる。それは詩的構造を備えた最初の経済学であり、外生的なエネルギーを内部に導き入れる
 生起のメカ平スムを持ち、相互連関のネットワークを形成する喩的な機構を整備して、資本主義
 の発達を準備したものである。資本主義の初期と終末期に、詩的構造を持つこの経済学への要求
 が高まる。それが資本主義経済のアルファでありオメガであるからだ。
 贈与価値は資本主義の始原にあらわれ、そののち表面からは姿を消すのであるが、長い年月のの
 ちふたたび、資本主義の終末期である消費資本主義の中にその姿をあらわすのである。そのこと
 に関連して、吉本隆明はつぎのように語っている。


   贈与価値っていうのが問題になってくるだろう。ぼくらがかんがえる消費資本主義っていう
  のの分析は、交換価値っていう概念じやなくて、贈与価値っていう価値が、どういうふうに、
  何か本質なのかって、それを基盤にしなければ、価値論を形成できないでしょう。

                          (本書第一部第ヒ章「消費資本主義の終焉から贈与価値論へ」)


   ケネーからスラファヘと向かう学的な系譜から生まれたこの経済学では、交換価値ではなく贈
 与価値にもとづく価値増殖が、理論全体の基礎に置かれている。贈与価値は、生起の過程を通し
 てシステムの内部にあらわれ、喩のメカニズムによって組織される価値である。それは詩的構造
 を備えた価値とも言える。このような構造をもった概念によらなければ、消費資本主義以降の価
 値論は形成できないだろう。詩的構造をもつ経済学は、その意味では未来に属していると言える。 
 吉本隆明が折々の思考の断片をとおして表現しようとしていたのは、そのような未来の経済学の
 スケッチである。

   4 詩的経済の革命

  吉本隆明は農業の未来についてもユニークな考えを持っていた。資本主義は現在あきらかに高
 度な消費資本主義の段階に入っている。それに連動して産業としての農業は、先進国では軒並み
 たちいかなくなっている。自然を相手にしている産業者はますます貧困から脱出できない。近未
 来に農業人口は先進国では限りなくゼロに近づいていくだろう、その結果として、いわゆる第三
 世界とアジアの一部が世界の「農産物担当地域」になる。これは自然史過程である、というのが
 吉本隆明の考えである。

  あらゆるものを商品につくり変えていく資本主義の運動が進むと、交換価値だけでできた世界
 ができあがっていく。貨幣価値に変えることができるものならば、水でも空気でも、なんでも商
 品化して儲けることができる。ところが農業のように「天然自然を相手にしている産業」では、
 生産のもっとも重要な部分が地球システムにつながっていく自然の循環的サイクルと直結してお
 こなわれるために、価値の増殖が広い意昧での「自然の贈与」としておこなわれることになる。
 この部分は貨幣と交換ができない。つまり農業は交換価値として扱うことのできない部分を、自
 分の核心部としてもっている産業なのである。

  そのために、資本主義が進んでくると、先進国では農業はしだいにふるわなくなる。農業のお
 こなった原始的蓄積が近代資本主義を可能にした。いねば農業は資本主義の母なのである。しか
 し交換価値にもとづいてあらゆる事物を商品にする資本主義の発達につれて、農業は遅れた産業
 なる。
  一方で資本主義は交換価値だけに依拠した都市型社会を拡犬していく。生産拠点を進上国に移
 転して、先進諸国は国内では消費資本主義を発達させていく。その資牛王義はとうぜん金融型の
 資本主義でもある。こうして世界は二つのブロックに分かれていく。交換価値のみに依拠する先
 進諸国と、「天然自然」がもたらす贈与型価値増殖を本質とする農業に頼っている達上国である。
 吉本隆明はこれを、資本主義の必然的な自然史過程と見なしている。

  このような思想は、人類の増殖性脳の本質を考えるとき、自然な流れとして出て来る考えであ
 る。ニユーロンネットワークに生成と喩の機構を生み出す連接網をつくりだした現世人類の脳=
 心は、本質的に詩的構造としてつくられている。この詩的構造から最初に生まれてくる交換は贈
 与型の交換であり、そこでは意味や価値の増殖がかならず交換にともなって現象する。
  喩のメカニズムが動くたびに、潜在空間Xへの沈み込みと浮かび上がりがくりかえされる。人
 間は世界を、このような見えない潜在空間を介しながら、「ホモロジー」的に認識しているわけ
 である。

  ところが意識化か進むようになると、無意識の領域から意識領域にもたらされる情報が遮断さ
 れるようになる。そうするとしだいに喩に関与する潜在空間の影響が小さくなる。すると喩の構
 造に変化が生じてくる。項目同士の喩的なつながりが失われて、孤立するようになり、孤立した
 項目のそれぞれは抽象的な連続依の上に置かれることによって、見かけの連続性を回復したよう
 になる。この過程を通して、生起の運動をはらんだ「ハウ」は、抽象的な「社会的必要労働時間」
 に変化していくのである。

  吉本隆明の思考は、人間の脳=心の本質をつくっているこのような詩的構造の自己運動にたい
 する認識から生まれたものである。増殖性脳は贈与価値から交換価値へ向かう強い傾向性を、自
 分の中に内蔵している。長い間それにはストッパーがかけられていたが、いったんそれがはずれ
 るとそちらの方向に進んでいく自然史過程が始まってしまう。この過程は誰にも止めることがで
 きない。そこからつぎのような認識が生まれる。
  

    ぼくは、第一次産業が先進資本主義でもってゼロに近づいていくことを避けることはでき
   ない、つまり歴史の必然だって、おもっています。それはいかなる政策をとっても避けられ
   ないでしょう、遅くする早くするはできますよね、でも必然的にそういくってことは避けら
   れない。そこは価値論の終わりのところで、同時に贈与価値論を基礎に据えなければ分析な
   んかできない段階です。

  では、その贈与価値論とはどのようなものか。

   贈与価値詣ってのは何かって大雑把にいっちゃえば、かたっぽは物でも貨幣でも信用でもい
   いんですけど、それをいわゆるただでやっちゃうわけですよ。いわゆる交換価値詣でいえば、
   ただでやっちゃうわけだけど、その代わり、なにかしら無形の何かをこっちがもらってくる、
   それと交換するってことになるとおもうんです。その無形の価値ってことはモースのいうよ
   うな、未開の原始社会での贈与とね、高度社会における贈与は違うとおもうんです。(……)
   交換価値の代わりに贈与価値論を形成する場合に、無形の価値を勘定にいれた原理、そうい
   う価値論を形成しない限りは未開社会じゃなく、高度に意識化された贈与ですから(……)

                           (本書第一部第七章「贈与価値論」)

   資本主義はあらゆるものを交換価値に変えていく運動を進行させることによって、自分の内部
 から第一次産業を滅ぼしていく。それは農業のような第一次産業が根底に自然との間に交わされ
 る贈与価値論的な要素を、自分の本質として含んでいるからである。しかし交換価値のみによっ
 てなりたつ先進的な消費資本主義も、食料がなければ死んでしまう。そこで先進資本主義はこの
 不均衡を解消するために、食料生産地域に無償の贈与をおこなう。

  無償の贈与を農業担当地域に与えることで、先進資本主義はそれをとおして「無形の何か」を
 得る。この「無形の何か」とは潜在空間に内蔵されているアモルフな力のことであり、この無償
 の贈与によって先進資本主義は、自分の中から失われてしまった詩的構造の全体性のいくぶんか
 を取り戻す。ここには、無償の贈与によらなければ、いったん断ち切られた交換価値と贈与価値
 の問にふたたび橋を架け渡すことはできない、という認識も含まれている。

  レーニンの国家論を思わせる、ユニークで過激な思考が展開されている。しかしその思考の奥
 底で詩的構造の図式が力強く作動しているのが、はっきりと見て取れる。その思考においては人
  間の増殖性脳かたどることになる自然史過程は、なんぴとも覆し得ない絶対的な進行を貫徹する。

   それによって、経済における詩的構造(それは増殖性脳の構造そのものでもある)は、二つの
 極の分裂を起こし、現象としては、農業ゼロの消費資本主義と第三世界とアジアの一部にできる
 農産物担当地域に、世界は分裂していく。この分裂と不均衡を解決できるのは、無償の贈与だけ
 であり、その とき交換価値論にもとづく資牛王義は贈与価値論にもとづく資牛王義への変化を
 おこさなければならない。これが実現されれば、グローバル(大局的)な構造として、世界経済
 における詩的構造が回復される。これが古本隆明の資本主義の未来に間する第一の見通しである。

 

    ※

  吉本隆明は資本主義の未来像として、これとは異なる第二、第三の見通しについても語ってい
 る。第二の見通しとして、吉本隆明は先進国での都市化の進行の必然性を語りながら、その都市
 の内部がつぎのようなハイブリッド構造に変わっていくという見通しを語っている。

 
   農村が都市化し、都市が高度化していく、つまり高度情報化していく、その流れには、自然
  史の延長としての文明史の必然だという部分があります。この部分は制度や権力で止めようと
  おもって法律をこしらえても、いくらか遅くなるか促進されるか反動が起こったり、という程
  度のものだとおもいます。 
   そうすると、都市は高度化し、文明はもっと高度化しということは、基本的なところでは不
  可避だとおもいます。何かできるのかといえば人工都市はできるんです。人工都市の中で自然
  と産業、つまり先ほどいいましたことから出てくる第一次産業、第二次産業、第三次産あるい
  は第四次産業、その産業の割合と、天然自然の割合とが理想的であるような人工都市をつくる
  という考え方です。だから都市のなかに農村をつくったり、公園をつくったり、森林をつくっ
  たり河川をつくったりという、それ以外の方法はありえないでしょう。 

                          (本書第一部第八章「超資本主義論」)

 

  この未来の人工都市では、「産業の割合と、天然自然の割合とが理想的である」ように設計さ
 れている。このような人工都市の「経済学」を考えてみよう。このような都市は、「天然自然」
 に回路を開いた第一次産業を「理想的な割合」で組み込み、他の高次産業と結合してつくられた
 ハイブリッド都市である。数種類の産業が相互連関と結合体系をなしている。このようなハイブ
 リッド型の都市の産業を分析するには、ケネーにはじまりスラッファによって確立されレオンチ
 ェフが発展させた産業連関分析モデルが最適である。

  スラッファのモデルによって、このような人工都市の「経済学」を措いてみよう。人工都市で
 あるから、すべてが商品によってできている世界と思っていい。そこの商品は「基礎財」と「非
 基礎財」に分類できる。基礎財というのは、フ直接的であるか間接的であるかを問わず)すべて
 の商品の生産にはいるかどうか」を判断基準にしたときの基礎財であるから、古典派経済学のい
 う必需品」、古本隆明のいう「必需的消費材」にあたる。そうでない商品が非基礎財、古典派で
  いう「奢侈品」、古本のいう「選択的消費材」がそれにあたる。

  基礎財として小麦と鉄の二つ、非基礎財として鎖からなる小型モデルを考えてみる。小麦、鉄
 鎖それぞれの単位価格をち、鳥、鳥として、一般的利潤率をyとすると、さきほどと同じように
 考えて次の式がなりたつ(図5)。

 
  このモデルを見るとすぐにわかるように、小麦と鉄はすべての商品の生産に直接投入されてい
 るから(小麦を耕作するためには鎌などのような鉄でできた製品を必要とするし、鉄製造労働者
 は小麦を消費して体力をぼっている)、あきらかな基借財である。これにたいして鎖をつくるに
 は小麦と鉄を必要とするが、小麦と鉄の生産に鎖は必要ない。つまり鎖はまぎれもない非基礎財
 であり、選択的消費材である。
 
  基礎財の価格は、利潤率yと基礎財の価格だけですべて決まってしまう。これにたいして、絹
 の価格鳥は小麦と鉄の価格鵜、鳥と利潤率yからなり、それは基礎財の「生産費」によって完全
 に調整されている(菱山泉『ケネーからスラッフアヘ』名古屋大学出版会、1990年)。
  この人工都市は消費資本主義を最高度に発展させた段階にある。そこの住民の消費の50パー
 セント以上は、選択的消費材(非基礎財)の購入と消費にあてられている。ところがその選択的
 消費材の価格は、基礎財のみからなる小宇宙=基礎財体系だけで決まる利潤率γに従属し、その
 yから決まる基礎財の価格によって決められるのである。

  ここで「基礎財のみからなる小宇宙」と呼ばれているものの内部をよく見てみると、そこには
 かならず農業部門が含まれる。そしてそこをつうじて、地球的な子不ルギー循環のシステムであ
 る「天然自然」が、この人工都市には深く結合されることになっている。ハイブリッド型都市で
 は、さまざまな高次産業の生産は相互に結合されることによって「高次化」が進んでいるが、そ
 の高次産業がつくりだす諸商品の価格すべてに、基礎財によって決められる均一の利潤率yとそ
 こから決まる基礎財の価格が、決定的な影響を及ぼすことになる。
 
  このように吉本隆明が未来につくられるべき人工都市として考えたハイブリッド型都市の最深
 部には、私が「経済の詩的構造」と呼んでいるプライマルな構造がセットされることになる。こ
 のような人工都市をネットワーク化したさらに高次の小宇宙についても事情は変わらない。そこ
 ではあらゆる生産は「商品による商品の生産」としておこなわれるが、その基底部では贈与価値
 論抜きには理解することのできないシステムが作勤している。商品化社会の中でいったんは消滅
 したかのように思われた贈与価値論が、産業の高次化と都市化の進行の果てによみがえってくる、
 という逆説的な事態が、ここにも起ころうとしているのである。

                            第二部 経済の詩的構造 中沢新一


第一次産業の農業を取り出し構造変換が科学技術的、社会学的に解説され、農業の高次化しとして「
第六次産業化」(=一次産業×二次産業×三次産業)するものとして流布されている。それだけでは
なく、林業、漁業、鉱業も同様に人工化が著しいスピードもって進展する『デジタル革命渦論』の時
代でありその代表的な例が、生物工学の遺伝子改変技術の登場で、ピンポイントに遺伝子を組み換え
技術を挙げることが出来る。もうひとつは環境精密制御技術が上がられる。これは稲作を例にとって
みよう。日本では二期作もきなくはないが限られているが、ベトナムでは三、四期作が当たり前であ
る。これに対しの稲の実の重量の多い嵩の小さい育種品を植物工場で多期作で収穫し、生産性の高い
工場製品生産類型の「1→N」(事例:石油精製、反対は自動車や家電製品の「N→1」型)に該当
する生産が将来実現可能であろう。工場生産するから環境変動を制御でき、高品質(安全)な生産シ
ステムでもある。但し、ピンポイント遺伝子改変技術を適用する場合、事前リスク評価システムを整
備しなければ「未体験ゾーンの拡大」によるリスク回避はできずこのバランス感覚が重要となる。

このように、第一次産業が高次化が変容し、極端な話、寧ろ、質的にV字回復していくだろう考えて
いる。また、遺伝子改変技術などの21世紀の物理学の見通しに対しても慎重な立場にいる。"人類
の欲望"の拡大はリスクを質量とも大きく変えていくだろと考えている。喩えれば、映画『ザ・フラ
イ』のように、「混沌」を引き寄せるかもしれない・・・・・・と。 ^^;。

                                           (この項続く)  




 

 


新再エネ立国九州論 Ⅱ

$
0
0

 

 

 

 

● 『吉本隆明の経済学』論 13 

  吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!   

 吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも
 異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったそ
 の思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何
 か。資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫
 る。 

 はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 第4章 労働価値論から贈与価値論へ
 第5章 生産と消費
 第6章 都市経済論
 第7章 贈与価値論
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき 

 

 第2部 経済の詩的構造 

  3 詩的構造を持った経済学
             
  しかしそれ以上に興味深いのは、吉本隆明が都市の第三の未来像として描いている、つぎの
 ような光景である。  


   それから、もうひとつつくれるところがあるんです。それは、ぼくがよくいっているアフ
  リカ的段階です。つまり草原・森林というのが依然として健在で、田畑、つまり開墾したり
  してないところがあるんです。開墾したらそれはアジア型の社会になってしまうんですが、 
  開墾されてない多くの森林や草原があるということは、自然と産業と理想の割り振りで人工
  都市をつくれる可能性があるということです。じっさいにその実力や権力がある人たちがつ
  くるかどうかはまったく別の問題です。たぶんつくらないとおもいます、放っておけばアジ
  ア的な社会になっていくとおもいます。だけど、やる気と見識があればほんとうはつくれる
  んです。
   つくれるところはふたつです。アフリカ的段階と、それからとても高度になった資本主義
  社会の段階とです。それがぼくの基本的な考え方です。(本書第一部第八章「超資本主義論」)


 ここで「アフリカ的段階」と言われているのは、「アジア的段階」の前の段階に属する人間社
 会のあり方をさすヘーゲルの歴史概念のことが前提になっている。新石器時代の後期になって
 アジアではいくつもの大きな国家が生まれている。そのほとんどの国家が大河川の流域の平地
 につくられている,平地に直流施設を設けて、そこで小麦や水稲のような穀物の単一栽培(モ
 ノカルチヤー)をおこなう農民たちを「納税者」として確保する。穀物は莫大な余剰生産物を
 産む。それを農民たちに強制的にあるいは自発的に貢納させることによって、アジアの各地で
 専制的な大することなく続行されたものである。


  5 「詩人性」の経済学

  ここまでくればもうご理解いただけたであろう、吉本隆明にあっては自分の中の「詩人性」
 と自分で納得のできる経済学をつくりだそうとする欲求とは、同じ一つの源泉から湧き出てい
 るのである。言語も経済も、マルクスの言う意昧での「交通(コミュニケーション)」であり、
 少なく見積もっても数万年の間、同じつくりをして同じ能力を持ってきた人間の脳=心が生み
 出したのである。その脳=心は初め詩的構造として生まれ、そののちもこの構造を深層に保ち
 続けてきた。

 吉本隆明はその根源的な詩的構造の場所に立ち続けることによって、希有な思想家となったの
 である。「詩人性」は彼の思想の揺るぎない土台であった。
 詩という文芸はその詩的構造が直接的に産出する文芸形態として、発生のときから現代にいた
 るまで、その本質を変えていない。おそらく将来においても変わらないだろう。ところが経済
 の領域では近代資本主義の形成とともに激変が生じることになった。詩的構造を経済的領域に
 写し取ってつくられた古い社会システムでは、交換価値と贈与価値の共生かいたるところで見
 出された。資本主義はその共生を壊して、ただ交換価値だけによる経済システムをつくり、こ
 れを伝染病のように世界中に広めていったのである。
  詩と経済を並べて、そのとき起こった変化の本質を示してみよう(図6)。             

 

   詩的言語は喩のメカニズムなしには発生しえないものであるから、詩という文芸形態が続い
 ているかぎりは、喩の働きは衰えない(+)。ところが物と物の交換を貨幣が仲立ちするよう
 になると、それまでの贈与の場を贈与物といっしょに動いていた「無形の何か」は消え去って、
 価値を表示するものとしての「数」が残る。このとき喩の構造の背後にあった潜在空間が消失
 する(-)。しかし数の体系そのものと計算技術は、脳内での喩の働きなしには作勤しえない
 (レイコフ+ヌーニュス『数学の認知科学』植野善明・重光由加訳、丸善、2012年)。そ
 こで数を用いた計算では喩のメカニズムの骨組みだけは働きつづけているとも言える(+)。


■目次

第 Ⅰ 部  基本的な計算能力の身体化
第 Ⅱ 部  代数、論理、集
第 Ⅲ 部  無限の身体化
第 Ⅳ 部  禁じられた空間と運動
第 Ⅴ 部  数理哲学への影響
第 Ⅵ 部  古典数学の認知構造の事例研究
古典数学の認知構造の事例研究
参考文献
索 引


   それに運動して、生起のメカニズムも消失する。詩的言語や贈与交換の場面では、潜在空間から現
 実世界へ向かっての力の生起が、さまざまな形で人々に感知されていた(+)。そのせいで、
 詩の発生や贈与交換をつうじて自然に、意味増殖や価値増殖が起こっているのを人間の心は知
 るのである。その生起のメカニズムが交換価値には組み込まれていない(こ。そのためにマル
 クスが明らかにしたように、資本主義では労働者の労働時間の延長や製造機織の技術革新によ
 ってしか 価値増殖をもたらすことはできなかった。

  こうして詩と経済それぞれのうちにセットしてある詩的構造の変化をつうじて、資本主義が
 開いた近代の本質が示されることになる。文芸としての詩は、いわゆる未開・古代から現代に
 いたるまで、深層の同一性を保ち続けている。そのため詩的言語にたいする吉本隆明の探求は
 万葉集から中島みゆきまでを同じ批評の俎の上で、詩性としての同一性を保っている表現とし
 て比較することができるのである。

  ところが経済的交換を生み出した詩的構造は、資本主義によって本質的な変化を披ることに
 なった。モースの「ハウ(霊)」がマルクスの「社会的必要労働時間」に変化するとき、価値
 形成をおこなう詩的構造の内部では、贈与価値を交換価値につくりかえ多様体を均質平面につ
 くりかえてしまう、本質的な変化が進行していたのである。脳内のニユーロン・ネットワーク
 の生物学的な基本組成には変化は起こっていない。つまり詩的構造そのものには変化は起きて
 いないが、そこから出てくる情報を再コード化するプログラムに根本的な変化が生じている。
 その結果、脳 =心の本質をなす詩的構造そのものは抑圧され、表立っての活動ができなくな
 る。

  こういういきさつによって、ハイデッガーや吉本隆明の言う「詩人性」は、脳=心の本質を
 なす詩的構造という不動の「鏡」となって、資本主義が歪めて映し出す世界の像を、もとの姿
 に戻して映し出す力を与えられるのである。それは過去と現在の資本主義の運動を正しく映し
 出す鏡であるばかりでなく、資本主義の先にあるものを見据え予見する力も持つ。
  あらゆる芸術作品は特定の社会の発展形態の中で生まれるが、それは時代を超え社会形態を
 超えた魅力を発揮することができる。このことの秘密は人間の心の本質をなす詩的構造のうち
 に隠されている。このことについてマルクスはつぎのように考えた。


   けれども困難は、ギリシャの芸術や叙事詩がある社会的な発展形態とむすびついているこ
  とを理解する点にあるのではない。困難は、それらのものがわれわれにたいしてなお芸術的
  なたのしみをあたえ、しかもある点では規範として、到達できない模範としての意義をもっ
  ているということを理解する点にある。
   おとなはふたたび子供になることはできず、もしできるとすれば子供じみるくらいがおち
  である。しかし子供の無邪気さはかれを喜ばせないであろうか、そして自分の真実をもう一
  度つくっていくために、もっと高い段階でみずからもう一度努力してはならないであろうか。
  子供のような性質のひとにはどんな年代においても、かれの本来の性格がその自然のままの
  真実さでよみがえらないだろうか?

  
           (マルクス「経済学批判 序説」『経済学批判』岩波文庫、1956年)


   芸術を生む詩的構造と社会的発展形態はこのような意味において、けして線形的ではないね
 じれた弁証法的関係で結ばれたものとして、じつに本質的なつながりをもつものである。その
 ことがはらむ問題をマルクスの後さらに深めることができたのは、ひとり吉本隆明という詩人
 =思想家のみであった。それゆえ、吉本隆明の経済学」は詩人性によって基礎づけられた経済
 学として、人間の学にとってユニークな意義をもつことになる。詩的構造は人間の学にとって、
 不動の鏡であり、不動の礎石である。詩的構造の場に立ち続けようとするものは、ときおり「
 世界を凍りつかせる」おそろしいことばを発しながら、孤独に耐えて思考し続けるのである。

                             第二部 経済の詩的構造 中沢新一


これで、第一部の「吉本隆明の経済学」の第7、8章と第二部の「経済の詩的構造」を読み進めて
まずは、思想のコアを押さえてきたが、次回からは、最初に戻りイントロ部の構成思想の詳細考察
に移ろう。

                                        (この項続く) 

 

● 新再エネ立国九州論 Ⅱ

                                               マグマだまり利用技術 地熱発電王国九州

先月20日に、九州最南端の温泉地として有名な指宿温泉に新しい地熱発電所が誕生(上図)。温泉
と医療の複合施設である「メディポリス指宿」の340万平方メートルに及ぶ敷地の中に、米国製の
地熱発電設備を導入して2月18日から運転を開始している。発電能力は1.5MW(メガワット)に達す
る。2012年7月に固定価格買取制度が始まって以来、1メガワットを超える地熱発電設備が運転は
初めて。年間の発電量は900万キロワットアワを見込み、これは一般家庭で2500世帯分の使用量に
相当。設備利用率(発電能力に対する実際の発電量)は68%になり、地熱発電の標準値70%と同等
の水準である(「買取制度で初めて1MW超の地熱発電、鹿児島の指宿温泉で運転開始」スマートジャ
パン、2012.05.20)。

地熱発電は天候の影響を受けずに安定した電力を供給できるため、再生可能エネルギーの中でも優先的
に電力会社の送配電ネットワークに接続することができる。特にバイナリー方式の発電設備は工事
が1年程度で完了する利点があり全国の温泉地域で導入計画が進んでいる。

 
ここで、地熱発電方式には(1)天然蒸気背圧タービン方式(2)天然蒸気復水タービン方式(3)
熱水分離復水タービン方式(4)2段フラッシュ蒸気タービン方式(5)バイナリーサイクル方式
があるか、(5)の、加熱源により沸点の低い媒体を加熱・蒸発させてその蒸気でタービン方式で、
加熱源系統と媒体系統の二つの熱サイクルを利用して発電することから、バイナリーサイクル(Bi-
nary -Cycle)発電と呼ばれ、地熱発電などで利用――低沸点媒体を利用することにより、媒体の加
熱源に従来方式では利用できない低温の蒸気・熱水を利用でき、同発電システムの加熱源には(1)
蒸気・熱水サイクルと(2)代替フロンを用いた媒体サイクルで構成、これに対して、従来方式は
蒸気・熱水サイクルのみで構成されている(下図参照)。


尚、2011年、火山など地熱資源のとぼしいドイツで、バイナリー発電がすでに実用化されている。
地下1キロでは30℃温度が上がり、深さ4キロの井戸を掘れば百℃の地熱エネルギーが得られる。
ドイツでは3ヶ所の地熱発電所が稼動している(List of geothermal power stations, Wikipedia)


                                日本列島には3千万キロワットの地熱資源

日本は「火山列島」とも「地震列島」とも呼ばれているが、脆弱な基盤に立地する日本だが、地熱
開発の視点で眺めると、これほど恵まれた国はなく、地熱は純国産の再生可能なエネルギー資源国。
日本列島の地下には、そこに取り残された800~1200℃のマグマだまりが、地下数キロメートルから
10数キロメートル程度の浅い所に横たわり、地震や噴火という自然災害の危険を抱える反面、地熱
資源に恵まれ、現在、国内に3千万キロワット前後の地熱資源があると推定されており、政府は「
斜め掘り」という方法に限って国立公園などの開発を認めていており、18カ所約54万キロワットの発電所
が稼働しているが、推定利用可能量の2%弱に相当するという。潜在力は2千万キロワット(原発20基
分に相当)と推定されている。

尚、掘削する井戸の直線距離で1~2キロメートルがコスト限界距離とされているが、『石油価格
下落の行方
』(2015.02.25)でも紹介したようにシェールガス生産コストも科学技術進歩によるそ
の限界コストが年々逓減しているように逓減可能だと考えられる。

 

                                                   最新の地熱発電技術

1.地熱発電用の蒸気発生装置

地熱発電システムは、地上から地熱帯まで延びる二重管構造の地熱吸収装置を備えることで、(1)高圧ポ
ンプにより加圧された水が、地熱吸収装置の内管を通して地熱帯に供給し熱水とし、地熱吸収器の内管と
外管との間を通して地上に取り出され蒸気に変換し蒸気タービンに供給されるものや(2)水が、地熱吸収
装置の内管を通し地熱帯に供給され熱水と蒸気との混合体になり、この混合体が、地熱吸収器の内管と外
管との間を通して地上に取り出され、気液分離装置で蒸気と熱水とに分離し、蒸気が蒸気タービンに供給
されるものがあるが、これらは(1)地熱帯から熱を吸収するのみで熱水を汲み上げないため、システム内で
流れる熱水や蒸気に地下のミネラル等が含まれず、蒸気タービンや配管等にミネラル等の不純物が付着せ
ず、(2)地熱帯の地下水系に影響を与えず温泉水を枯渇させる心配もないが、高圧ポンプが必要となる生
産コストが嵩む。

下図の新規考案では、蒸気タービンを回転させる蒸気を発生する地熱発電用の蒸気発生装置、水が地上か
ら地熱帯まで下降して地熱帯で熱を吸収する下降流路と、下降流路と下端で連通され熱水が下端から上昇
する上昇流路と、上昇流路の熱水の圧力を飽和蒸気圧以下に減圧する減圧部とを備えた構成で、熱水を汲
み上げず、蒸気発生させ、エネルギー効率を高め、ポンプ等のコスト増を抑制し、発電単価を低減する。

2.超臨界流体を用いた地熱発電装置

貯留された熱水利用方法は熱水の一部が蒸発で損失し、周辺の温泉等の地熱資源の熱水量や温度に影
響を与える可能性があるが、下図の新規考案では、高温岩体の貯留層に単一の井戸を通じて熱媒体を
圧入回収し発電する――貯留層に井戸を通じて、超臨界流体の熱媒体を圧入段階と、井戸内部を遮
断し、地熱により貯留層内で熱媒体を加熱する段階と、井戸の内部を開放し、貯留層内から熱媒体
を回収する段階と、熱媒体によりタービンを駆動発電する段階と、を備えている超臨界流体の熱
媒体を用いることで確実回収し発電効率を高められ構成である。


3.ロボットボーリングマシン

下図は、地熱発電井戸の掘削設備を自動制御で運転することにより、工期の短縮と省人と省エネ化
を図る新規考案である。回転ビットの駆動及び掘削管の昇降動力を回転駆動と昇降できるレール上
に一体構造にして、管の最上部に固定、管内部に掘削に必要な高圧水を接続、地上には管のねじ接
続時に回転固定クランプを設け、ビットの回転制御及び昇降運転に必要な運転情報と必要な運転出力
制御を同時に行い、少なくとも昇降動力にスピンドルモータ、またはサーボモータを使用、さらに
管との接続を地上で行うことを可能とするための水平方向への傾斜ができる蝶番機能を持たせた構
成のロボット掘削装置の新規考案である。



ここに記載した新規考案はほんの一部であるが、火の国九州にあるマグマだまりエネルギーを利用
して発電することで資源立国であることを宣言でき、万一、大噴火しても、原子力発電システムよ
り安全なシステムであることを世界に向けて発信できる。また、掘削距離を4キロメートル超に伸
ばす技術システムを速やかに確立することが重大開発目標であることをここで確認した。日照条件
が国内一で、森林が豊かな九州はいずれにしても魅力てきな「再エネ王国」であることも確認でき
た。これは面白い。

 

 

 

パピタブルゾーンの色

$
0
0

 


 

 

 

● ルームランニング記 Ⅱ


ウッドパウダー食品工学』(2015.02.24)で、ルームランナーを起動すると「LUBE BELT」が表
示されワックスがけの定期点検をすませ、徐々に負荷をかけはじめている。といっても、毎日3キ
ロメートル、最大斜度6、最大速度毎時6キロメートル、スクワット、スナップ付きのトレーニン
グ・メニューは同じなのだが、最大負荷のところの時間を長くするようにしているだけだが、この
とき重要なのが脈拍数の管理(下図参照)。 140以上の有酸素運動状態を続けても活性酸素が増
加し各機能細胞を傷つけることが分かっているためだ(これに関する新しい知見が報告されると覆
る可能性があるが)。さて次の定期点検までどう進化するか楽しみだ。

※ 特に高齢者はけっして”激しすぎる運動、キツイと感じる運動”は避けるべきです。それは老
  化原因となる活性酸素(active oxygen)が発生し、しかもそれを打ち消すSODという酵素の体
   内生産が 40歳ぐらいから少なくなり老化やガンの発生の扉を開けることになる。

 superoxide dismutase enzyme

 


 

 

● 宇宙太陽光発電システムとワイヤレス先端工学

天候の影響を受けない宇宙空間で太陽光発電を実施する夢のプロジェクトが実用化に向けて
動き出す。発電した電力を地上まで送るために、マイクロ波を使った無線による送受電の研究
開発が進み、地上の試験では最大1.8kWの電力を55メートルの距離で正確に伝送できるよう
になったという(「マイクロ波無線エネルギー伝送技術の研究」、宇宙航空研究開発機構、2015.
02.28)。2030年代にMW(メガワット)級のSSPSを実用化することが国の目標で、地上の実証
試験が進行している。

この「宇宙太陽光発電システム(SSPS:Space Solar Power System)」は静止軌道上に展開する太陽
光発電設備から地上まで、無線で電力を送る必要があり、その伝送方法が、通信衛星に使われてい
るマイクロ波で、発電した電力をマイクロ波に変換し地上に向けてビームを放射する方法。ただし、
高度3万6千キロメートルの静止軌道から地上の受電装置まで、高い精度で方向を制御してマイク
ロ波を伝送する必要があり、JAXAは送電用に巨大なアンテナを静止軌道に設置し、多数の送電モ
ジュールを配置する方法考案する。

この技術は、ワイヤレスの受電装置、送電装置、給電装置に応用でき、わたしたちの周り氾濫して
いるワイヤド(有線)器機環境を革命的(『デジタル革命』の基本特性第5則「イレージング」に
該当)に変えてしまう。この技術の研究開発する三菱電機は既に下図のような新規考案を公開して
いる。 



特開2014-143776 ワイヤレス受電装置、ワイヤレス送電装置、およびワイヤレス給電装置

【符号の説明】

1 送電装置、2 受電装置、3 高周波電源、4 整流回路、5 負荷 6 電圧検出器、6a 分圧回路、6b 加減
算器、6c 整流器、6d 加減算回路、6e 電圧検出回路、6f 絶対値回路、7 電流検出器、7a カレントトラン
ス、7b 平均化回路、8 制御器、8a 可変電圧設定器、8b 乗算器、9 比較器、10 ゲート回路、11 スイッチ、
12 平滑回路、L1 送電コイル、R1 送電コイルの抵抗、L2 受電コイル、R2 受電コイルの抵抗、L3 リアク
トル、C1 キャパシタ、C2 可変キャパシタ、C2a 第1のキャパシタ、C2b 第2のキャパシタ、C3 キャパシタ、
Vd 可変キャパシタの端子電圧、Id 可変シャパシタに流れる電流、Va 検出電圧、Vc 規格化電圧、Vt 基
準電圧、Sg 制御信号、Vg ゲート信号、f 高周波電源の駆動周波数。

受電コイルL2と可変キャパシタC2を備え、可変キャパシタC2は、第1のキャパシタC2aを備え、第2のキャ
パシタC2bと直列に接続されたスイッチ11とを第1のキャパシタC2aに対し、並列に接続し構成。かつ、可
変キャパシタC2の端子電圧Vdを検出し、検出した端子電圧Vdの大きさに基づき、スイッチ11のオン時と
オフ時の端子電圧Vdが共に同じ値となるタイミングでスイッチ11をオン/オフ制御する制御手段6~10を
備えることで、可変キャパシタの等価静電容量を自由な大きさに調整でき、送受電コイル間の給電を高効率
に行えるワイヤレス給電装置の新規考案である。

※ ワイヤレス給電は、非接触給電とも呼ばれ、送電コイルで発生させた磁界を利用して、空間を
  隔てて配置された受電コイルに電力を伝送するものである。一般に、ワイヤレス給電方式とし
  て、電磁誘導方式と磁界共鳴方式が知られているが、最近では電磁誘導方式と磁界共鳴方式は
  同一の原理に基づくものであるため、磁界共鳴方式は電磁誘導方式の一形態として扱われ、こ
  こでも、特に電磁誘導方式と磁界共鳴方式は区別せず同一のものとして扱っている。


また、同社は下図の新規考案を提案している。

 

送電器11と受電器31の間で共鳴方式により電力を中継する電力中継装置(中継器211,212,
…)であって、送電器11または他の電力中継装置から電力を受電する共振器201と、共振器
201が受電した電力の一部を負荷208に分配する受電コイル202と、受電コイル202に対
し、他の電力中継装置と同期したタイミングで負荷208への電力分配動作の開始および停止を指
示する制御回路234を備えた構成で、自身に接続された負荷へ分配する電力量および他の装置へ
中継する電力量の変更が可能で、かつ構成が簡易な電力中継装置を得られる新規考案である。

これまでの非接触給電は、電子機器の充電やICカードなど、すでに多くの分野で利用されている。
こうした非接触給電を用いる多くの電子機器は、電磁誘導方式と呼ばれる近距離電力伝送技術を利
用している。電磁誘導方式は、従来から多く利用されてきた技術であり、簡易に実装できるが、数
センチメートル程度の短距離の利用に限られる。こうした中、共鳴方式と呼ばれる無線電力伝送技
術が注目されている。共鳴方式は、電界または磁界の共鳴現象を利用することで、数十センチメー
トル~数メートル程度の中距離・高効率の電力伝送を可能にする。一方で、伝送距離が使用する周
波数と共振コイルの大きさに依存する、高効率な電力伝送を行うためには送電器と受電器の間で整
合条件を満たす必要がある、などの課題がある。また、実用化のためには、機器へ組み込み可能な
大きさで、長距離かつ複数機器へ同時給電できることが求められる。

この発明は、自身に接続された負荷で消費させる電力と受電器へ向けて中継する電力の分配比率を
動的に変化させることが可能で、なおかつ簡易な構成の電力中継装置を得ることができる、という
効果を奏するというもので、これ以上の詳細は専門的になる上図をクリックして参照願いたい。

 

 

● 般若心経を学ぶ Ⅱ

「般若心経 (三蔵法師玄奘訳/故花山勝友氏)を学ぶ Ⅰ」(『永続敗戦論と日本書紀』2015.02.
11)のつづき。夕食を終えて、お釈迦さんって凄く頭が良かったんだね。般若心教の「無」「空」
は宇宙物理学でいうところの"ビックバンと必然性"を語っているんだ。そして、「色」とは"パピ
タブルゾーン""の生命体の行動学ということになるなんだね。と、今日調べた感想をそう話すと暫
くして、生臭い坊主の寝言話ねと彼女がそう応じた。それはそれとして空覚えできるまで頑張る?
つもりだからその時は見直してもらえるにしても、ジョン・レノンや、スティーブ・ジャブズも
「般若心経」を学んでいたから凄いんだと改めて感心する。 



 

● 『吉本隆明の経済学』論 14 

  吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!   

 吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも
 異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったそ
 の思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何
 か。資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫
 る。 

 はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 第4章 労働価値論から贈与価値論へ
 第5章 生産と消費
 第6章 都市経済論
 第7章 贈与価値論
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき 

 
 はじめに

  吉本隆明は人間に関わることならなんにでも深い関心を持って、それについて考えたり、書
 いたり、語ったりしてきた。経済の現象やそれについての学問である経済学の場合も例外では
 なく多くの機会をとらえては、自分の独自な思考の対象にしてきた。ところが、文学や言語や
 心的現象を相手にした場合と異なって、経済学についてのまとまった体系的な著作を、彼は古
 かなかった。そのことを考えてみると、「吉本隆明の経済学」などというものは、存在してい
 ないように思える。ところが私たちが虚心になって、彼が析に触れて書いたり、講演会でしや
 べったり、インタヴューに答えて語ったものの中身をていねいに調べてみると、吉本隆明の思
 考の中に、潜在的なかたちで、独自の「経済学」の体系が実在しているのが見えてくるのであ
 る。

  それはまったく独自な経済学であり、強いてその精神において類似のものを探してみても、
 経済学をめぐるジョルジュ・バタイユの晩年の思考くらいしか、思い当たるものがない。吉本
 隆明は、言語や文学や心的現象の探求をとおしてつかみ取ってきた、あるいは自らあみ出した
 独自な思考の方法を、驚くほどに一貫したやり方で、経済現象にあてはめてみようとした。そ
 の結果そこからはマルクスのものとも近代経済学のものともケインズのものとも異なる、ほと
 んど類のない理論的な見通しが得られることになった。 

  リーマンショック以後にあらわになった、グローバル化しか現下の資本主義経済の混乱に直
 面して、多くの経済学者がこのような事態がもたらされた原因について事細かな分析をおこな
 いさまざまな対症療法を提案しているが、いずれも問題の根源に触れることができていないた
 めに抗ガン剤を投与して症状を静める程度の、短期的な対応しか果たせていないように思える。
 
  ところが吉本の経済学思考には、資本主義の全歴史とその未来を長大なスパンで見通す、す
 ばらしい透視力が備わっている。それは経済の現実を前にしたときの吉本隆明が、ほとんどす
 べての経済学者とは異なる地点に足場を据えて、経済的現実の本質を思考しようとしてきたか
 らである。

  私はこの本で、そのような「吉本隆明の経済学」をひとつの絵として、ひとつの像として、
 読者の前に出現させてみようと思う。ジグソーパズルにはいくつかのピースの足りない部分が
 残っており、荒いデッサンがほどこされただけで放棄されてしまっている部分もある。私はそ
 ういう部分を、思考の一貫性という基準を守りながら、補ってみることによって、どうにかし
 てこれをひとつの絵として完成に近づけようと試みた。

  そこでこの本は、吉本隆明自身の文章と、それらをつなぎあわせ矢けているピースを補おう
 とした私の文章とで構成されることになった。私はできるかぎりマルクスにたいするエングル
 スの役目を果たそうとはしたが、多くの共通点は持ちながらも二人の思考はスピノザとライプ
 ニッツほども異なっているので、再構成や補填作業の過程で、吉本の思考とは異質な私自身の
 思考が混ざり會ってしまうおそれが最後まで残った。そこで私はどうしても吉本自身の文章や
 言葉にいっさいの手を加えずに、できるだけそのままの形で採録するアンソロジーの部分に、
 大きな頁を割こうとした。そのためにこの本は、ずいぶん大部な本になってしまった。しかし
 彼の経済学思考が一冊にまとめられるのは、どうやらこれがはじめてであるらしいので、この
 ような「不経済」な本の構成も、読者にはお許しいただけるのではないかと思う。

  1970年代に陸続と出現した画期的な思想書の中でも、私は森嶋通夫の『マルクスの経済
 学』(東洋経済新報杜、1974年)から受けた興奮を、いまだに忘れられないでいる。森嶋
 はその本で、20世紀の経済学の現状に強烈かつ全面的な異議申し立てをおこなうことによっ
 て、マルクス主義の自己防衛的な停滞の中に閉じ込められていたマルクスの経済学を、現代的
 な経済学理論としても立派に通用する、創造的な思想として生き返らせようとした。
 
  吉本隆明もまた、森嶋とはまったく違う道をとおって、その独自の経済学思考をとおしてマ
 ルクスの創造的な読み替えを試み、それによってマルクスの経済学をマルクス主義のドグマか
 ら救い出そうとした。そのときに彼のとった闘いの方法から、私たちは多くのことを学びとっ
 ていく必要がある。このような本を書くことによって、私は21世紀の経済学、いや21世紀
 の思想全体の現状に、全面的な異議申し立てをしたかったのである。

  この本を最後まで読まれた方は、「吉本隆明の経済学」なるものの実在を納得されることで
 あろう、そしてそれが、意外なくらい現実の役に立つことも理解されるであろう。この経済学
 は、精神への高い効用性を持つという、じつにめずらしい思想なのである。

                                      中沢新一


経済構造の変容が急速に変化していることの解析とその対処方法にいかなる経済学者も成功してい
ないのは、学者や専門家も官僚でもない意識ある勤労国民なら承知している。そして、それがどこ
から来るのかを正確に言い当てている人間もこの広い世界に皆無であり、唯一、大きな枠組みでそ
れに漸近できていそうなのが吉本隆明であるが、科学進歩史から『デジタル革命渦論』としてアプ
ローチしているのもわたし一人であることをも承知している。それを確認するためにこの本を購読
したが、微妙な差異を確認しながら読み進めてきた。吉本亡き後、中沢新一が思想の遺産を汲み取
りどのように展開させていくのか楽しみにしている。
 

                                        (この項続く) 

  

  ● 今夜の一曲 


   Guess it's true,

   I'm not good at a one night stand

   But I still need love 'cause I'm just man

   These nights never seem to go to plan

   I don't want you to leave,

   Will you hold my hand ?


   Oh, won't you stay with me

   'Cause you're all I need

   This ain't love, it's clear to see

   But darling, stay with me
 
                                        
                                                                  Music writers  : Sam Smith, et al. 


サム・スミス(Sam Smith、1992年5月19日 - )は、イギリスのシンガーソングライター。ロンドン
生まれで、ロンドンの芸能学校であるナショナル・ユース・ミュージック・シアターに2007年に入
学し、ジャズバンドに参加しながら、ジャズボーカリストでピアニストのジョアンナ・エデンに歌
と作曲の技法を学ぶ。2012年10月08日に発売されたディスクロージャーのシングル『Latch』にゲス
トボーカルとして参加、全英11位を記録。2013年05月19日に発売されたノーティー・ボーイのシン
グル『La LaLa』に参加、同曲は全英1位。同年12月、英国レコード協会主催のブリット・アワード
で批評家賞を受賞。2014年1月に『BBC Sound of 2014』で、1位に選出。 同年5月にデビュー・
アルバム『In the Lonely Hour』をリリース。アルバムからグラミー賞の6部門にノミネート(2014年
12月)、 2015年2月8日、第57回グラミー賞授賞式で最多の4部門:優秀新人賞、年間最優秀レコー
ド賞、年間最優秀楽曲賞、最優秀ポップ・ヴォーカル・アルバム賞を受賞。

天性の透き通った声が、こころ深く響く心地よいラブソングとなっている。

 

ほんだし鰊蕎麦

$
0
0

 

 

 


● 旬な一品ランチ 鰊蕎麦

先週、昼食に出された、味の素の和風だしで刻み青ネギを添えただけの、"にしんそば"が大変美味
しので「すごく美味かったよ」と褒めた。和風だしが大変美味しくなっているのよという返事が返
ってきた。何と喩えたらいいのかわからないが、蕎麦に鰊のさっくとした食感と特有のアミノ臭の
芳しさと、だしの効いたさっぱりとした醤油味との絶妙な釣り合いが、即席料理(ファーストフー
ド)でありながら、その喉越し後に不思議な奥深さと上品さを残す。この一品を口にすることで幸
福感に包まれる。その印象が残っているのか、昼に、毎週火曜の午前中に車で訪問販売に来るピザ
パンを予定していたのだが、彼女がこの"にしんそば"を運んでくる。

「美味い!」。
 

ところで、このブログの「にしん」を検索すると数多く掲載していことに気づく――例えば、『
しんと熟鮓祭り
』(2010.02.12)/『キングサーモンの原動力』(2012.10.18)/『コーヒカップ
でビールを
』(2012.02.25)で掲載している。こんなにも愛しているんだ。

 

 

● 『吉本隆明の経済学』論 15 

  吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!   

 吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも
 異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったそ
 の思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何
 か。資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫
 る。 

 はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 第4章 労働価値論から贈与価値論へ
 第5章 生産と消費
 第6章 都市経済論
 第7章 贈与価値論
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき 

                                           第1部 吉本隆明の経済学

   第1章 言語論と経済学

   解説

   1970年代は政治の季節であり、言語論の時代であった。思想の領域では言語論を武
  器とした構造主義が大きな影響力をふるっていた。思想的諸問題を解く鍵は言語論に隠さ
  れているという共通の認識が、さまざまな分野に広がっていた。経済学とくにマルクス主
  義経済学の分野では、『資本論』を言語論のスキームで読み返す試みが西欧でも日本でも
  始められていた。そういう試みではたいがい、言語をコミュニケーションの構造としてと
  らえ、それを交換価値の表現としての貨幣や貨幣による資本増殖の理解に利用した。

   そういう時代にあって、吉本隆明はこのような言語の「機能主義」的理解にまっこうか
  ら立ち向かう、独自な思想展開をおこなっていた。「機能主義」こというのは吉本の言い
  方によるが、言語がなにかの対象を指示したり、有意味なメッセージを伝える働きの面を
  前に押し出した言語理解をさしている。ソシュール言語学などについての当時の一般的理
  解も、その程度ですまされることが多かった。吉本隆明は「詩人性」の思想家として、こ
  のような言語論を根底から否定しようとしていた。
 
   機能主義では対象を指示する言語の働きが第一に考えられる。ところがそれは人間がじ
  っさいに用いている言語の実情にあわない。言語は「指示表出」の働きばかりではなく、
  彼が「自己表出」と呼んだ心の内面の潜在空間からの力の表現との組み合わせとしてでき
  ており、この二つの軸は垂直に交わっている。自己表出の軸にあらわれる表現は、対象を
  外に分離して対象化する指示表出の働きとは違って、無意識といわれる心の深層や身体性
  や情動の深みにつながっている。このような言語図式を自ら手に入れた吉本隆明は、それ
  を駆使して詩歌や小説など広く「文学」の領域の理論的探求を深めていった。

   この鮪自のけ語図式の形成に大きな影響をゾえていたのが、『資本論一の価値形態論で
  ある.したがって古本隆明の探求が文学から進んで経済学の領域に突人することになった
  のは、けだしとうぜんである,吉本の言語図式は最初から言語に内在する「意味増殖」の
  能力を中心に据えてつくられていた。指示大出に白ピ表出が結びつくとき、意味の増殖が
  起こり、文学はこの言語の意味増殖機能によってはじめて可能となる。経済において同じ
  メカニズムから「価値増殖」が発生し、資本主義の基礎をなす、ここを出発点にして「資
  本論・の従来の理解を覆していくことができるのではないか このような思想が「吉本隆
  明の経済学」の原初の発想の泉となった。


                          1 幻想論の根抵-言葉という思想

   以前からじぶんのなかで、漠然と『言語にとって美とはなにか』『心的現象論序説』『
  共同幻想論』は別のものでないといった感じ方がありました。今日はこの感じ方をいくら
  かでもはっきり整序させてみたいとおもってやってきました。うまくこの三つの領域が関
  連づけられ、ひとつの鎖でつながる場所はみつけられないか、そういうモチーフがすこし
  でもはっきりさせられたらよいとおもうのです。

   まず言語(言葉)というところからはいっていきます。言語はたれがかんがえても、た
  れがみても、すぐにわかる現われ方の特徴があります。言語は音声や文字で表現されます
  が、音声とか文字はそれ自体としてみたら(物質としてみたら)、それは空気の振勣だと
  か活字になった妙な形をした記号だとかいうことで、裏からみても、表からみても、どう
  ひっくり返しても、それだけのものです。しかし人間の内的な意識のある表現だとして、
  あるいは文字に固定された記号としてみたら、言葉はある価値づけの対象になるといって
  よいでしょう。つまり慨なる物あるいは音波にしかすぎないものが、何か価値がつけられ
  るものになります。
 
   言葉が価値の対象になれると申しましたが、この価値は言葉がある事がらを指し示し、
  それを伝えるという目然な機能に基いていることはすぐに理解されます。けれどもこの言
  葉の自然な機能も、ある事がらを指し示し、それをたれかに伝えようという話し手や、書
  き手の意志との関連でかんがえはじめますと、自然な機能も、ある事がらを指し示し、そ
  れをたれかに伝えようという話し手や、書き手の意志との関連でかんがえはじめますと、
  自然な機能のほかの何かがつけ加わります。それはある事がらをぼんやり指し示そうとか、
  よりはっきりと指し示そうとか、ここは強調して伝えようとか、あいまいに伝えようとか
  いう意図が、音声やいい廻しのリズムを変化させることになります。そうしますと、言葉
  が価値の対象となるとき、すでにこのことは勘定にいれておいたほうがよいことになりま
  しょう。

   どういうことかと申しますと、言葉は話し手や書き手の意識や意志と関連させてかんが
  えるとき、ある事がらを指し示し、それを伝えようとする無意識の、あるいは意識された
  モチーフがあるのですが、このモチーフや目的とはさしあたりかかわりない、ある普遍的
  な表出を実現しようとするものだということです。いいかえれば、言葉は〈指し示し〉〈
  伝える〉という機能を実現するのに、いつも〈指し示さない〉〈伝えない〉という別の機
  能の側面を発揮するということなのです。わたしたちが、ときとして何かを指し示し、伝
  える必要がありながら、話したり書いたりすることがおっくうであったり、苦痛だったり
  するのは、この〈指し示さない〉〈伝えない〉言葉の機能の側面を使わなければならない
  からです。

   こういうものがほかにないかとかんがえてみます。すると、ある意味でそれとよく似た
  性質をもったものがあります。それは流通過程にある商品というものです。商品とは素材
  的にいえば、(鑵ジュースを示して}単に金属でつくった鑵で、なかに液体が入っていて
  というだけで、それ以外の意味は何もつけられません。これを人間の社会的な労働によっ
  てつくられたものだとかんがえていきますと、商品はある価値づけができることになりま
  す。もちろん価値づけは、この鑵ジュースが商品だということのなかに、いいかえれば〈
  ……のために〉使われるということのなかに、すでにふくまれています。そのときに鐘の
  なかの液体は、化学的なある液状の成分ではなくて、飲みものだということから生れる価
  値づけがなされたことになります。いいかえれば使用性あるいは飲料として美味しいもの、
  栄養のあるもの等々の役に立つ性質としての価値づけです。

   けれどもこの錐ジュースが本来的な価値としての価値づけがなされうるのは、たれかの
  手によってこのものが製造されたということのなかから生じます。そう見倣すときにはじ
  めて鑵ジュースが、金属の容器のなかにはいった化学的な液体成分という物質的な規定を
  〈ヘカッコに入れ〉たあとにも露出してくる特性、飲んで美味しい、栄養がある等々の、
  すくなくとも人間が関与してくるとき生れる普遍的な特性が与えられるからです。

   これは飲んで美味しい、栄養がある等々のくために、鑵ジュースが製造されたり、使わ
  れたりするのだということとちがいます。むしろ飲んで美味しい、栄養がある等々〈とし
  ての〉鑵ジュースということに近いといってよいとおもいます.〈・・・・・・・としての〉と
  いう特性  のもとにあらわれる物質ということから関与される、人間のある関与の仕方
  のなかに、ひとつの価値づけの本来性があるようにみえます。

   ここでわたしたちは、商品が社会の経済的なメカニズムの網状態を介して、そのなかで
  流通していくのとおなじように、眼に視えない観念の上層のところに、やはり言葉があた
  かも商品とおなじように、眼に視えないが類推のきく形でさまざまに錯綜して存在してい
  る、それはまるで社会構成における商品の陰画とおなじように、不可視の空間を飛びかい観念
   的に錯綜し横行している、そういうイメージをおもい浮かべることができるとおもいます。

   けれどこのイメージはただ〈商品〉という概念と〈言葉〉という概念とが対応づけられ
  ただけの図表にすぎません。わたしたちの価値づけの世界を基にして、商品と言葉とがお
  なじように網の目をつくっている状態を想像しますと、このふたつはいずれも、価値づけ
  本来を海抜線とする山や谷や川や樹本のような起伏をもっか陰画の世界のようなイメージ
  になります。ここでは商品も言葉も物質性を〈カッコに入れ〉られてしまいます。

     言葉は、さまざまな次元の価値づけで流通しています。たんなる通信や連絡文、広告文などか
   ら、まったく略称や記号や暗号の形をとることがあります。またとくに文学などをかんが
  えますと、文学はそのなかでひとつの美的なものを生みだす、あるいは生みだされた美的
  なものとして言葉が飛びかっているものを指します。そこに眼をつければ、杜会のなかで
  さまざまに関連しながら横行している言葉の形態のなかで、美的な範躊としてかんがえら
  れる言葉のさまざまな錯綜の仕方、あるいはそういう言葉の作られ方の考察が、文学の考
  察になるのではないかというように類推してかんがえることができるとおもいます。

   そのようにかんがえていきますと、文学への考察は言葉の解析からはじまって、言葉が
  さまざまな関連性のなかで、どういうふうに生みだされたり流通したりするのかというこ
  との追求が、ひとつの課題となって当然でてくるわけです。
 
   はじめに対象をへ指し示すこと〉〈伝えること〉のために使われた言葉といえども、そ
  のうちに〈指し示すこと)〈伝えること.》としての言葉という自体性格をもつようにな
  ることは当然のことでしょう。そういう性格をもつようになるといういい方よりも、そう
  いう側面からみることができるようになるといったほうが正確なのかもしれません。すく
  なくとも意図のはじめには、〈のために〉言葉を使っても、使われた言葉は〈としての〉
  性格を同時に具えていることになるからです。

   その果てには意図的に、言葉をくとしての〉性格だけで使おうとする欲求が生れてくる
  ことがありえます。これもまた言葉が本来的にもっている側面を強調あるいは誇張するこ
  とにほかならないので、特別なことではないといえばいえるとおもいます。なぜそういう
  欲求が生ずるのか、さしあたりよくわかりません。金鋸の刃で紙を裁断してみたいといっ
  た、遊びの欲求からかもしれませんし、〈指し示すこと〉〈伝えること〉のために言葉を
  使っているうちに、〈指し示さないこと〉《伝えないこと》という機能の外の言葉の性格
  のなかに、すべて他の作られたものと共通する普遍的な性格をみつけられるようになった
  からかも知れません。

   商品にある価値づけがなされるのは、まずはじめに商品が使用価値として、さまざまな
  用途にたいする欲求に当然みあう自然形態をもっているからです。もうひとつは共通の価
  値基準でありうるような、そして計られ交換されうるような価値本体でありうるというこ
  とです。このふたつが商品を商品たらしめている、つまりたんなる物質でない大きな特性
  だとみることができましょう。

  「二十エレの亜麻布は一着の上著に値する」という事実があるとします。このばあいに「
  一着の上着」は「二十エレの亜麻布」の等価物です。もし「二十エレの亜麻布」はまた「
  茶十ポンド」に値するとすれば、「二十エレの亜麻布」を主体にして「一着の上着」と「
  茶十ポンド」とのあいだに等価物としての同等性の関係がひらかれます。もちろん「二十
  エレの亜麻布」が「一着の上衣」の等価物であるという逆の関係もあります。この等価物
  の形をとることができることもすべての商品に共通した特性です。そうだとすれば、すべ
  ての商品が共通にになうことができる等価物としての役割の側面は、ある普遍的な等価形
  態をもつ商品、そして等価物としての使用性だけが使用価値であるような普遍商品、つま
  り貨幣によって代置されるはずです。
 
   おなじことは言葉についていえないのでしょうか。

  〈指し示す〉とか〈伝える〉とかいう用い方からできるだけ遠ざかったところで、ひたす
  らある内的な状態の等価であるような側面においてだけ言葉を行使するようにするのです。
  その言葉は使用性を喪失するような使用性であり、また普遍的な等価であるような価値表
  現をもとめる言葉になります、そしてもしかすると現在、文学はこのばあいの言葉を、極
  限としては視野のうちにいれているといえるかもしれません。

  『資本論』の第一章「商品」のところで、マルクスは亜麻布と上着という例を、たとえば
  「二十エレの亜麻布は一着の上着に値する」といういい方で考察の基準にしています。こ
  の表現は等式的にいえば、次のようになります。
 
    20エレの亜麻布=1着の上着

   これを文法的にみてみますと、「二十エレの亜麻布一は主語(主部)、「一着の上着」
  は目的語、目的部)、「値する」は主部と目的部をつなげる動詞の等価的表現になります。
  文法的にいいますと、主部があってそれがある目的部を誘いだし、それが「値する」とい
  う動詞で等価的に結びつけられている、というのがこの文章の構成です。

   けれどもこれを文法的な表現とみずに、文学的な表現とみなすすべをかんがえましょう。
  そのときには等価の意味はまた変わらなくてはなりません。今おなじ文法的な言葉の構造
  をもちながら、文学的な言葉として解するため、便宜上「二十エレの亜麻布」を「あの美
  しい亜麻布」に変え「一着の上衣」を「天使の上衣」と変えてみましょう。すると「あの
  美しい亜麻布は天使の上衣のようだ(に値することか「あの美しい亜麻布は天使の上衣だ
  (に値する)」という表現になります。この表現は等式的にいえば、まえとおなじく次の
  ようになります。

    美しい亜麻布=天使の上衣

   このばあい「天使の上衣のようだ」あるいは「天使の上衣だ」という直喩あるいは暗喩
  の表現が、たれにでもわかりやすい等価表現、いいかえれば本来的価値の側面で言葉を使
  おうとするための表現であることがわかります。
   ところで商品の価値形態論でいえば、主部に該当するものは相対的価値形態であり、目
  的部に該当するものは等価形態になります。しかし、相対的価値形態とか等価形態とかい
  ういい方は商品の流通過程をかんがえていくうえで必要な術語であって、それはさしあた
  ってどうでもいいことです。ようするに、二十エレの亜麻布があり、それを何かに較べよ
  うとするばあいの価値形態は、一着の上着がいねば等価の代償物としてあるから、はじめて資
  格というものが成りたつし、またまったくちがうふうにつくられたものが問連づけられる
  のはそういう価値形態をとるからだということで、こういう術語的表現が生れたわけです。
  問題はただ、どこで言葉が文法的な次元から文学的な次元に跳躍し、そのときの等価の
  概念がどう変貌するかということです。

  「二十エレの亜麻布は一着の上着に値する」という文章は数式的に表現することもできれ
  ば、価値形態論で問連づけることもできますが、美的な次元に跳躍させることもできます。
  つまり言葉の世界と商品が流通する世界とを、もし共通に対応づけられる論理があるとす
  れば、その鍵は、こういう簡単な文章構成のなかに基本的な問題が含まれることを意味し
  ています。そしてまたおなじように、言葉の美の考察は、言葉の考察から分離してゆかな
  くてはならないはずです。

  〈指し示すこと〉〈伝えること〉という言葉の使用性は、さしあたってそう意図するかど
  うかとはかかわりなく実現されてしまうものをさしています。けれども何ものかの等価形
  態のようにおかれる言葉は、そのように意図したときから〈指し示すこと〉〈伝えること〉
  という言葉の自然形態のようなものを忘れ去るというべきか、意図的にそれから離脱しよ
  うとするのではないでしょうか。それはある普遍言語が目指されるといってよいのかもし
  れません。

   けれどなぜ言葉がそれを発する人間の意識あるいは意図の状態とかかわるところでは、
  そういう非本来的なものを目指してしまうのか、その原衝動のようなものは定かではない
  ようにみえます。さしあたってわたしたちが言葉の〈概念〉とかんがえているものの本性
  のなかに、普遍性が目指されうる根拠が潜んでいるといえるでしょう。〈概念〉自体が普
  遍性をもつのではなく〈概念〉の構造のなかにその.要素が潜んでいるということだとお
  もいます。

                                            第一部 吉本隆明の経済学

  
  マルクスとエンゲルスの『資本論』と比類する、吉本と中沢の『超資本論』の源泉を丹念に
  読み進めているが、今夜は静かに写本するような作業となった。

                                       (この項続く) 


● シャープの再生は?

日本を代表する液晶パネルメーカー、シャープが苦悩している。昨年、巨額の赤字を出し、日本
国内の工場4カ所を閉鎖するなど大規模なリストラに着手。価格競争力で中国の同業に押された
ことが主因とみられているという(中国新聞 2015.03.03)。経営再建中のシャープの2015年3
月期連結決算で、純損益の赤字額が2千億円近くに膨らむ見通し。広島県にある電子部品の4工
場を閉鎖するなどリストラの追加を検討している。主要取引銀行に協力を要請し、借入金を株式
に振り替え「債務の株式化」の実施などで、計1750億円の資本増強を目指す。発光ダイオードな
どを生産する三原工場(三原市)と、センサーを手掛ける福山工場(福山市)の第1~3工場の
計4工場の閉鎖を検討する。その場合、福山は第4工場だけになる。

シャープの製品はほぼ全面的に「売れていない」、スマホ向け液晶も価格競争の波に飲まれた、
なぜ事業再編しなかったのか、夜郎自大だったとの声が上がるなか、"築城三年、落城三分"とは
ブログ掲載した言葉だが・・・・・。

バックアップ!老老介護。

$
0
0

 

 

● 世界一福祉立国をめざせ! 

超高齢・少子社会時代に突入し、「老老介護」「シングル介護」「認認介護」「460万人が認知
症 予備軍も400万人」という言葉が踊る昨今。世界にほこる福祉立国・日本の誇りもかすんで
しまうような惨事も後を後を絶たない。少子化でひとりの子女が両親を介護する社会が常態化する。
もうこれは家族では支えることができない。いまこそトータルに社会福祉することが避けられない。
しかしここは、"ピンチがチャンス!"と変換するしかない。 

 

● 尿から電気、「発電するトイレ」を開発 英研究

英国の科学者チームは5日、尿のなかにあるエネルギーを解放して発電するトイレを開発したと発
表。難民キャンプなどの遠隔地の照明への利用が期待されている。西イングランド大学と国際支援
オックスファムの共同研究チームが開発。この発電トイレは、同大の学生と職員らに使用してもら
うことを目的に試作品がキャンパス内に設置されているとか。この装置の燃料電池には、尿に含ま
れる化学物質を分解するバクテリアが使われ、分解過程で放出されたエネルギー(電気)は、電池
内のコンデンサーに蓄えらる。防災用・イベント用向けに添加できそうだ。

 

 

● 『吉本隆明の経済学』論 16 

  吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!   

   吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも
 異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったそ
 の思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何
 か。資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫
 る。  

 はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 第4章 労働価値論から贈与価値論へ
 第5章 生産と消費
 第6章 都市経済論
 第7章 贈与価値論
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき 

                                                       第1部 吉本隆明の経済学 

 第1章 言語論と経済学

  いま、「二十レエレの亜麻布は十ポンドに値する」といういい方をかんがえると、目的部に
  くる物(商品)が消えてしまって、商品でみれば普遍的で抽象的な貨幣になっています。
  そこでは等価物に共通化と抽象化が同時におこなわれているわけです。
   この等価物の状態が言語のうえでかんがえられるとすれば、言語の〈概念〉とみなしている
  もののところに、根源があることほまちがいありません。けれど具体的に美としての言語文学
 的な言葉についてその状態を探りあてることは難かしいことがわかります。

  さきに「美しい亜麻布は天使の上衣(のよう)だ」という直喩と暗喩のところに等価的な言
 葉の状態をかんがえました。この「天使の上衣(のよう)だ」というのは、おなじ〈概念)を
 暗示するような無数の喩で代えることができます。「虹の切れはし(のよう)だ」、「孔雀の
 羽(のよう)だ」、等々すくなくとも〈美しい〉という〈概念〉にあたる言葉は、どれでも使
 うことができるはずです。これらの無数にかんがえられる言葉を、表象しうる言葉はあるでし
 ょうか。それは何でしょうか。それは「美しい亜麻布は美しい」ではないことは確からしくお
 もわれます。そして〈美しい〉というへ概念〉のまた〈概念〉(の冪乗)をあらわすもののは
 ずです。これにあたるものが何かをいうことができませんが「二十エレの亜麻布は十ポンドに
 値する」というマルクスの範例、というよりも普遍的等価形態としての貨幣という概念が、対
 応を言語に要求するものとすれば、それはすでに存在しているはずであり、また可能なはずで
 あり、けれどそれを具体的にいうことができないようにおもわれます。

   『資本論』のな品があると、それをお金でもって買う、そしてそれがまた商品に転化される、と いう過程
 です。これは次のような図式です。

     WーGーW

   (商品)-(お金)ー(商品)

  この過程がいくら繰返されて続いても、基本的な形は、商品-お金―商品という循環のなか
 で決定されます。
  この図式は言葉で説明してみますと、たとえば亜麻布を十ポンドで売って、十ポンドを手に
 しか者が、今度は十ポンドで聖書を買ったということです。すると「亜麻布は十ポンドである
 」と「十ポンドは聖書である」とがこの図式に該当するわけです。そうすると、商品が流通す
 る基礎的な形態と、ふたつの文章がある関連づけがされたことはおなじことだ、つまり対応す
 ることができるといってよいでしょう。

  流通過程のところで、「亜麻布は十ポンドであるIということと、「十ポンドは聖典である」
 ということとは、G(お金)の担い手がおなじ人物でなければ、本来的には何の関係もない過
 程です。同様にこのふたつの文章は本来は何の関係もないはずの文章です,けれど、もしGの
 担い手が同一人物(人格)であるとすれば、商品は流通の基本的な最小の過程をとることがで
 きおなじようにふたつの文章は、十ポンドの担い手が同一人物(表現者)ならば、関連させる
 ことができるわけです。
  
  そうしますとここでは、まだ依然として、商品の流俑(交換)形態とご言葉の流通(交換)
 形態とは対応づけが可能だということがいえます。
  ところで、ここでさまざまな考え方がわかれる分岐点があります。それは言葉の美的な表現
 のいちばん秘密の部分に属するところであり、また商品の流通過程としても最初のマジックに
 みちた過程になるところです。マルクスはしばしばそういう表現を使っていますが、商品が資
 本に転化する流通の仕方をかんがえますと、その基本的な図式は次のようになります。
 
    G-WーG’(G’=G+α)

  商品が資本としての過程で流通していくときの図式は、結局この過程の無限の連続になりま
 す。つまり商品が資本的な流通過程にはいるということは、最初にお金があり、次に商品(物
 )を買い、その商品(物)がまたお金に変わる、ということです。この最初のお金と後のお金
 とのあいだにはふたつの問題がでてきます。ひとつは、後のお金のほうが最初のお金より大で
 ある。少なくとも後のお金に代えられたときには、プラスαがついているということです。も
 うひとつは、重要なことですが、一度商品が資本の過程に入ったばあい、その根本的な衝動と
 は、中間に商品という媒介がありますが、その本質的な過程とはたんにGからG’だというこ
 とです。
 
  つまりGからG’、G”を産みだし、それがいつでもプラスαがくっついているということ
 です。

  どうしてGはg”に変わるのでしょうか、たとえば、ここに十円があってこれはどう頑張っ
 ても十五円にはなりません。これが十五円になったらマジックを演じたことになります。とこ
 ろが中間に商品が介在し、しかもそれが資本主義的な過程に入ると、十円が十五円になってし
 まうということです。もしマジックや念力で十円が十五円にかわるのなら、資本主義は終わっ
 てしまうはずです。すなわち、マジックが成りたつかどうかは別として、マジックを目的意識
 として資本主義は成りたっているといえましょう。つまりこの過程の本質はGからじというマ
 ジックであり、それがすべてなんだということです。それは『資本論』の「商品」の項の基本
 であるし、たぶん全体の基本だとおもいます。

  ここが問題になるわけですが、現実形態としてはかならず貨幣があり、商品が売買され、ま
 た、お金に代えられるという最初の基本過程を確実に踏んでゆきます。
  しかし本質過程は単にGからび(つまりお金からお金)へというそれだけのことです。ここ
 のところで、本質過程(形態)と現実過程(形態)とのあいだに分裂、分離がおこるというこ
 とができます。
 
  この本質過程と現実過程との分裂、分離は〈疎外〉とみなされます。そして〈疎外〉という
 ことはそのまま〈表現〉だとかんがえることができます。さきに、わたしたちは〈指し示す〉
 〈伝える〉という言葉の使用性は、そのような機能を実現するために、ある普遍的な水準で言
 葉を行使することになり〈指し示さない〉〈伝えない〉という機能の側面を含み込んでしまう
 ということを述べました。そして言葉が美的な次元に跳躍するということはこの非指示的な、
 そして非伝達的な側面を強調したり誇張したりするためにのみ、言葉を行使するということを
 強いられる所以についても言及しました,そしてこのような分賢をまねくのは、言葉の〈概念〉
 の構造のなかに使用性ではない要素が存在するためだということにも触れました。

  もしそうだとすればひとつの《概念〉に対応するどんな言葉でも、すでにそれが行使された
 ときに本質過程と現実過程との分裂、分離、疎外の過程に入っているとかんがえてもよろしい
 はずです。そして、たしかにそのとおりで、わたしたちはことさらに美的な言語、いいかえれ
 ば文学の言葉を囲いをつくってかんがえる必要はないはずです。けれども商品の流通過程Wー
 G-WーとG-W-G’とが、すくなくともこの過程の主人公にとって動機、衝動、モチーフ
 がちがっているとみなしてよいように、モチーフのちがいをかんがえても許されるとおもいま
 す。W-G-Wの過程の主人公は、ある商品をお金に代えて、そのお金で別の必要な商品を買
 いたいというモチーフをもつとみなしてよいでしょう。G-W-Gの過程の主人公は、お金を
 商品に代えて、その商品をまた売ってお金に代えることで、お金を増殖したいというモチーフ
 をもっているとみなされます。

  おなじように、通常の網の目をなしている言葉は〈指し示す〉〈伝える〉ために言葉がつか
 われ、その過程に美的な工夫がなされることがあっても、よりよく〈指し示す〉〈伝える〉こ
 とがモチーフの言葉だということになります。これにたいして美的な言葉はただ言葉の価値の
 ために、そして価値増殖のモチーフをもって、はじめから行使される言葉だとかんがえること
 ができるでしょう、この過程は使用価値ではなく、価値そのものなんです。価値の自己増殖と
 いうことが自ビ目的です。

  だからこの過程に対応する言葉の世界は、文学の世界だけだろうとかんがえていったとおも
 います。

  ただ、ここまできて言葉の表現が文学になっていく基本的な形との類推ができるようになっ
 たとおもいます、つまり自己増殖ということがあくまでも本質的な過程であり、これを文学に
 類推すると、(ぼくは「自己表出」という言葉を使っていますが)文学がなぜ生みだされたの
 かといったばあい、決して使用価値といったものが第一義的にあるのではなく、価値の自己増
 殖こそが文学(言語の美)の本質的な衝動なんだということです。この自己増殖の過程を言葉
 を媒介として成就していくということが、たぶん文学の芸術性の基本的な形になるだろうとお
 もいます。

  そうしますと、現在の文学の過程はきわめて高度なものですから、あとは言葉の表現の問題
 に則して、その具体的な在り方を緻密に辿っていくことになってきます。すると、現在では言
 葉の表現の芸術(文学)がどうなっているのかは、ひとつの大きな関連のもとで組みたてるこ
 とができます。
  最初にいいましたように、何か文学の姿を成りたたせているのかといいますと、社会におけ
 る商品の流通生産過程の眼に視えないネガみたいなもののひとつの態様としての言葉の世界が
 相互に関連したり、錯綜したり、山や谷のようにうねって飛びかっている、そういうイメージ
 で描かれる言葉の世界のうち、とくに言葉が美としてでてくる形態がかんがえられてきました。
  そうしますと、それ以外に言葉が単なる記号としてでてきたり、あるいは伝達目的のための
 表現であるとか、さまざまな形で言葉は錯綜しています。

  これらの世界は、いったん美的な言葉の世界のようなある普遍的な価値づけの世界に入りこ
 みそれをいわば目的なき目的、あるいは使用性なき剔出、そして剔出それ自体の世界からみる
 ようになりますと、すべてが言葉の〈概念〉のある水平線をもとに、高低が描かれるような起
 伏ある陰画、あるいは不旺視のうねりの地表に変貌してしまいます。商品の世界といえども、
 いったん価値それ自体が追求されるところでは、このような言葉の〈概念〉の水準のうえに浮
 かぶ普遍的な価値のうねりに転化してしまうのです。普遍的な言葉、あるいは本質的な言葉と
 いうものが目指される世界からは、すべては言葉のうえに浮遊するようにみえるという謎にみ
 ちた構図が、世界図にちかいものとなります。このような現代の言葉と物の世界の意味を、わ
 たしたちはよく知っているわけではありませんが、そこを生きていることになります。




  2 言語と経済をめぐる価値増殖・価値表現の転移


                                  無形の価値概念

  僕は、言語の考え方については、三浦つとむさん、時枝誠記さん、マルクスの『資本論』の
 価値形態論からの影響を受けて、自分なりの文学価値論を作っていったと思います。六〇年を
 ちょっと過ぎた頃から、数年かかってやったことです。
  ここ数年は、自分なりに価値論の変え方を少し考えて『ハイ・イメージ論』でやってきまし
 た文学論だけに関わらない形です。マルクスの言う価値論は労働価値説なのですが、労働価値
 説から出てくる価値論をもっと広げることができないかと考えたわけです。広げて価値概念を
 作るときに、そのなかに文学・芸術から、娯楽とか芸能とか、つまり人間の楽しみとか、遊び、
 余裕、そういうものを含めて通用する価値論を出したいと思ったわけです。

  主観的に言いますとマルクスの価値論は息苦しいじゃないかという感覚が、自分のなかに旺
 盛に出てきたわけです。その息苦しさはどこからくるか、またこの息苦しさを間かせるには、
 どんな価値論を作れば良いのか、そういうモチーフから出発しました。この考え方に何か根拠
 があるか強いて後からくっつけますと、日本の社会がとても高度な産業社会になっていきまし
 て、消費関係、つまり娯楽とか遊びとか余裕とか芸能とか、そういうものの占める、生活過程
 での比重が大きくなってきました。そんな社会状況を背景にして、自分なりに反映させたと考
 えると、根拠づけになります。

  マルクスの労働価値説では、商品の価値は労働時間の大小によって決められてしまいます。
 その他のものは無視しようとすれば無視することができる。例えば男女で同じものを作る時、
 女性の方が多く時間がかかることはありうるではないかとか、身障者と健常者がいて、同じ製
 品を作る場合、身障者の方が余計に時間がかかるじゃないか、それならば、身障者の方が労働
 価値説から言えば、製品の価値が大きくなるじゃないかとか、理屈をこねればそうなりますが、
 その差異は一切捨象されます。その程度の違いは資本主義的な商品と価値の循環の全体を考え
 れば、無視して、ただ労働時間に還元できるというのがマルクスの考え方です。多少そんな格
 差があっても資本主義全体の循環過程を考えれば、無視できる程度の違いにすぎない。そうい
 うのがマルクスの考え方です。

  それで、労働時間の大小で価値が決まるという価値論の基本を、少し拡張して考えればどう
 なるかと言いますと、人間が自分の実際の身体を使って、あるいは頭を使って、ある対象を加
 工するとか、あるいはある対象に普段使っているよりも精神を集中させて、ある所定の時間を
 経たとします。労働という概念を拡張して考えますと、人間が対象に対して、(その対象は、
 精神的な対象でも、肉体的な対象でもよろしいのです)精神や肉体を働かせることが広い意昧
 での労働と考えることができます。

  言い換えれば、人間がある対象に向かって行なう、心身の行為が労働だと考えますと、労働
 という概念を単に商品を作るということからもっと拡大して対象化行為全体に及ぼせることに
 なります。まずそこのところで、労働という概念を一番極端なところまで開いておこうじゃな
 いかということです。つまり、人間がある対象に向かって、つまり、自然に向かって対象的な
 行動をする,それを労働と考えると、商品の価値に限定しないで、広い価値という概念を作れ
 るのではないかと、まずは考えるわけです。それを広い言い方で言っちゃいますと、人間が周
 囲の自然に対して、何か行動をしたり、精神を働かせたりすると、したところから自然は全部
 価値化されていく。そう拡張できることになります。

  僕の理解の仕方では、それが息苦しいんじゃないかな、と思えます。つまり、人間は歩いた
 って、何か考えたって、その対象は全部価値になってしまう、価値化されちゃう。そんなこと
 をしなければ、ただの天然自然だったり、人工の自然だったり、ただ環境としてそのままある
 のにそこに何か考えを集中したり、手を加え加工するといった心身の行為をすると、今まで価
 値概念とは関係なくそこにあった天然自然も、人工自然も全部価値化されてゆく。それだから
 息苦しいのだ。つまり、あまり価値、価値と言いたくない。
 
  それなら、息苦しくない方法をどう考えれば良いのかと考えるわけです。僕の考え方の経路
 において、手を加えれば対象は全部価値になってしまうという極端に広げた価値概念を息苦し
 くなくするには、遊びとか娯楽とか芸能とか、もちろん文学・芸能も広い意味では遊びであっ
 たり娯楽であったり、楽しみであったりとなるわけですが、そういうものを全部含めて、マル
 クスの言う極端に広げられた価値概念のなかに入れてしまえば、必ずしも息苦しいとは限らな
 いことになります。

  そのために価値という概念を変えることになります。マルクスが『資本論』でやっている価
 値概念は、労働時間の大小に依存します。そして、商品は目に見える労働で手を加えた時間を
 もとにしています。無形の、精神的な価値を変えたということが、『資本論』の価値概念には
 含まれていません。そこで価値概念は無形なものの価値まで広げるというモチーフから考えて
 みることになります。


                                     価値と意味

  それでは、無形の価値概念とは何なのかということです。商品の価値に、無形の価値概念を
 含めようとするとき、まず価値ということと、意味ということを厳密に分けて考えてみたいと
 思います,これは僕らが六〇年代の初め頃にやった、言葉のイメージするものが価値概念と結
 びつくところが出てきた考え方です,結局、マルクスが価値と言っていることは、価値という
 ことと意昧ということの両方に明瞭に分けないで曖昧なまま一緒になっていて、それが無形の
 価値までに拡大していく場合に不都合が生じる理由ではないかと思いました。
 
  僕なんかの価値概念は、言葉で言うと、指示表出というふうに何かを指す使い方と、自己表
 出という、自分の持っている表現性の元になっているものに対する表現の仕方、あるいは動物
 で言えば何かの叫び声あるいは呼び声みたいな、対象を指してというよりも、そのまま心のな
 かからひょいと出てきてしまう表現を考えたわけです。結局、価値というのは、相手を指示す
 る概念を潜在的には通って、自分が自分に対して叫びかけるとか、自分の叫び声が自分のなか
 から起こってくるというような自己表出、何かを指す概念が潜在的に裏に隠れて、自己が自己
 に対して表現を仕掛けるという概念に表現が移っていく、そういう経路を通っていったものを
 価値と考えれば良いか。逆に言いますと、自分が自分に叫びかけるという過程が裏側にありま
 して、相手を対象として指す表現が出てきたとき、それは意味であると考えたら良いので、そ
 う二つに分けられるべきと考えました。

 『資本論』で言いますと、マルクスは例えば空気や水は交換価値はないけれども、使用価値は
 ある。つまり、使えるものは皆、意味があるということで言えば価値がある。しかし、それ自
 体が取り替えることもできれば、何かと替えることもできるという意味の価値は、水や空気に
 はないと考えても良い、基本的にそうなるのです。僕が言葉の表現で言う価値と、言葉の意味
 というものは、ちょうどマルクスの使用価値という概念と、交換価値という概念に対応する形
 で考えることができます。そう考えることで、六〇年代頃にやった言葉の表現、つまり、文学
 の考え方というものと、一般にマルクスの価値論を普遍化してしまおうじゃないか、拡張しち
 ゃおうじゃないか、そのなかに休息も娯楽も、無形の精神的な行為も全部含める価値概念にし
 ちゃおうじゃないかという価値の拡張の仕方が、ある程度、結びつくことができます。そこで、
 価値の普遍化・拡大化という概念と、言葉の価値という概念を結びつけることができるという
 おおよその筋道ができあがりました。


                                              第一部 吉本隆明の経済学


今夜もここまで、なつかしく読み進めてきたが、当面このような作業が続きそうだ。


                                        (この項続く) 

 

● 八種一籠の工具セット

8種類のツールを含まれている工具箱。組み合わせ切り替えで、カットや穴あけなど、様々な大
工仕事をこなすことができる優れもの。18ワットのバッテリーを内蔵し、重さは16六キログ
ラム重量で、価格は約7万2千円だとか。春がそのまでやってきている、家庭菜園、日曜大工と
いかまら腕が鳴るなるDIY!

 

● 今夜のアラカルト ベトナム風パンケーキ

 


春よ 遠き春よ

$
0
0

 

 

 

   ● 今夜の一曲

 

   淡き光立つ俄雨

   いとし面影の沈丁花

   溢るる涙の薗から

   ひとつひとつ香り始める

   それはそれは空を越えて

   やがてやがて迎えに来る

   春よ遠き春よ瞼閉じればそこに

   愛をくれし君のなつかしき声がする


                       
                                          作詞/作曲  松任谷 由美

 「春よ、来い」(はるよ、こい)は、松任谷由実の26枚目のシングル。1994年10月24日に東芝EMIか
らリリース。また、同名のNHK朝の連続テレビ小説主題歌。自身のシングルとしては『真夏の夜の夢』、
『Hello, my friend』に続いて3番目に売れたシングル。2011年03月11日に発生した東北地方太平洋
沖地震(東日本大震災)の被災地を支援に、ユーミンとNHKは共同で「(みんなの)春よ、来い」プロ
ジェクトを行う。ユーミンは『第62回NHK紅白歌合戦』に本曲(「(みんなの)春よ、来い」)をもっ
て出場している。

 

  

● 『吉本隆明の経済学』論 17 

  吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!   

    吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも
 異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったそ
 の思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何
 か。資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫
 る。   

 はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 第4章 労働価値論から贈与価値論へ
 第5章 生産と消費
 第6章 都市経済論
 第7章 贈与価値論
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき  

                                                       第1部 吉本隆明の経済学 
 

 第1章 言語論と経済学

  2 言語と経済をめぐる価値増殖・価値表現の転移


                        文学の価値を決める文学理論

  Aという作品と、Bという作品があり、どちらが文学的に価値ある作品であるかということを
 決めたいんだ、という場合、普通、文学をやっている人や、文学を批評している人の考え方から
 すると、そんなことはそれぞれ一人一人違うのだよ。一人一人、これの方が良いという人と、こ
 ちらの方が良いという人は全部違っちやう。批評もそうで、ある人はこちらの方が良いと言うし、
 ある人はこっちの方が良いと言い、そんなことはI人一人違うのだというところでストップです
 し、それで結構良いわけです。
 
  具体的な世界ではそれで通っていくわけです。僕は、文学の価値は決められるのではないか。
 Aという作品と、Bという作品があって、これには百人百様の評価がある。でも、究極的にはど
 ちらが良いか、絶対にわかるのだ。そういう理論が作りたかったわけです。

  この欲求は、ロシアのマルクス主義が同じことをやりたかったのだと思います。でも、そのた
 めにどういうことをしたかというと、政治的価値というものと(それは高揚性と言ってもいいの
 ですけれども)、芸術的価値というものを考えて、それがピシャリと融合して、どちらも良い作
 品があるとしたら、それは良い作品としようじゃないか。言ってみればそういう考え方です。
  しかし、もしロシアのマルクス主義者たちが政治的価値と言っているものが、ちっとも政治的
 な価値がなかったとか、マイナスだったらどうなるのかという疑問が絶えず喚起するわけです。

 駄目だということになったらどうなるのか。ここ数年間でそうなったと思いますけれども、あの
 政治は駄目じゃないか、つまり、ブルジョア的と彼らが言っていたものよりも、もっと悪いじゃ
 ないかというふうに政治的価値がなっちゃったら、どうなのだと言った場合、そういう理論のた
 て方は全部駄目だということになるわけです。駄目なことはすぐにわかるのですけれども、こう
 いう焦燥感は一度、左翼思想に惹かれた人のなかにどうしてもあるのです。つまり、何か決めて
 しまわないと納まりがつかないというのがあるわけです。僕もそうで、納まりがつかない。ロシ
 ア・マルクス主義の言う、政治的価値と芸術的な価値を作って、これがうまくマッチしていたら
 良いとしようというものほどアホらしい考え方はないということに途中で気が付いたわけです。
 これでは駄目だということになり、そこで考えようということになっていったわけです。

 
                                 言葉の内在的な価値

  Aという作品とBという作品は、どちらが文学的な価値があると決められる文学理論、文学の
 考え方を作りたくて、『言語にとって美とはなにか』を言きました。僕はこう考えていきました。
 例えば、Aという批評家とBという批評家がいて、これがある作品と別の作品を比べて、どちら
 が良いかで意見が違う。あるいは読者が百人いて、批評したら、三十人はAという作品が良いと
 言い、あとの七十人はBという作品が良いと言った。さて、これをどうしてくれるのだというこ
 とになるわけです。内在的に内側から決められる価値概念で、言葉の価値を決められれば、文学
 としてこっちの方は価値があるけれども、こっちの方は価値がないと言えるはずだという考え方
 を展開していきました。すると、百人のうち三十人がAという作品が良いと言い、七十人がBと
 いう作品が良いと言うのはどのように判断したら良いのかということです。始めに一回だけ読ん
 だ時は、「俺はこっちの作品の方が良いと思った」、「俺はこっちの作品が良いと思った」と百
 人には百通りの評価があるということになります。でも、もし、その百人に、一回読んだ印象で
 そう言わないで、百回読んでくれないかと要請したとします。百回というのはひとつの比喩です
 が、その作品を無限に何回も読んだとすれば、必ず決まるはずだと僕は考えたわけです。一回だ
 けの印象では、その人の好みから生い立ちから何から、読んでいる時の精神状態、そういうこと
 が全部関わってきますから、一回読んだだけならば、百通り違うかもしれません。しかし、これ
 を百回読んでくれ、あるいはこれを無限回読んでくれと言った場合は、明らかにAという作品よ
 りもBという作品の方が良いということが決まるはずだというのが、僕らの考えたことです。

  なぜ、そう決まっていくかというと、言葉の内在的な価値で決まっていく、人間が言葉を発す
 る時、意味として言葉を使うか、価値として言葉を使うかということになるわけですけれども、
 これは意味として使う時にも、価値として使っているのですけれども、意味の方が強度が強い形
 で出てくる時に、意味として言葉を使っているということになります,それから、逆に価値とし
 て言葉を使っている場合は、意味として使っている部分もあるのですけれども、その過程を通っ
 て価値として使っている部分が強調された場合は、それは価値として言葉を使っていることにな
 るのだ。そういう言葉の意味や価値の理解になっていきます。

  例えば人間の精神のあり方というのを考えますと、自分はこれからご飯を食べようかなと心の
 なかで考えて、本当にご飯を食べはじめた時、それはご飯を食べているというその人の行為、行
 ないの意味になって現われます。しかしそれは明らかに価値として、つまり、ご飯を食べようか
 なとか、このおかずよりも、俺はこのおかずの方が良いから、このおかずにしようかなという精
 神だけの過程が元にありまして、それが行ないになって現われて、それを外から見るとこの人物
 はこのおかずで食べはじめたという誰にでもわかる意味となって現われるわけです。その元にな
 っているその人の内在的な心の働き方と行ないの関連を見れば、心の働きとしてご飯を食べよう
 かな、よそうかなという過程とか、ご飯を食べるとすれば、何をおかずにしようかなという精神
 のなかだけで考えられること、精神の表現というのがまずありまして、それから行ないになって
 出てくる。こうなった時、その行ないの意味が人にも見えているということになります。

  価値という場合はそうではなく、行ないはどうでもよくなります。肉体労働ではなく精神労働
 に従事している人は机の前にぼんやりして、しかし、こういう考え方をしたら、仕事はうまくい
 くだろうか、こういう考え方を出していけばうまくいくだろうかと絶えず精神のなかでやってい
 て、人から見ると、机の前にうすぼんやりして何もしていないということになるのだけれども、
 精神は活発に働いている,それは精神労働の本質なのであり、これは価値加護にでも使用価値あ
 るいは指示価値にならないで、価値が内在化している過程だけで終わるとすれば、あるいはその
 過程から労働時間かすれて、その三日後に行動として実現されたというふうに、製品の内部にい
 ろいろ想いをめぐらせたということと、行動に現われたことは即座に働かない。

  そういう心の働かし方は価値としての心の働かし方なのですけれども、それに達するには、使
 用性として、これ をこういうふうにやったら、より有効性のあるものができるのではないかと
 いうことがまず最初にありまして、それにはどうしたら良いかということを考えている。価値の
 考え方が後にやってきて、しかし、その前にこうやったら製品はもっと使用価値があるとか、商
 品としてもっと良いはずだという目的性が潜在的にあって、それにはどうすれば良いかを考えて
 いる過程があって、それが価値が表面に出てくる考え方と言いますか、人間の行ないの状態にな
 るわけで、これは外からはぼんやりして、何も考えていないのか、それとも活発に精神を働かし
 ているのかわからないところがあるのですが、価値というものの純粋な形はそういうものです。

 使用性と言いますか、これを便ったらどうするかと考える以前にその問題があって、ある考え方
 を思いめぐらすという ことが後から出てくる,これは価値を主体にした考え方、精神の考え方
 とすれば、そういう考え方になっている場合は価値の考え方となる。そういうふうに価値の考え
 方を考えれば、精神の憩いや休息、娯楽のために何かをした、消費したということでも、それは
 価値のなかに含めること ができると考えられるわけです。




                                   身体生理と言葉

  最近のことですが、これはつながりが考えられるなと思いだしたことがあります。それは人間
 の価値という考え方、僕の言葉の理論の言い方でいえば、自己表出とか自己表現を、人間の心身
 の相関わる領域に関連づけたいということがあるのですが、その間連づけに三木成夫さんという
  脳解剖学者の考え方が大変有効性を持っていることに思い到ったことです。

  人間の活動について心の働きという場合もあるし、精神の働きという場合もあるし、意識の働
 きという場合もあるし、無意識の働きという場合もありますし、感覚の働きというものもありま
 す。文学・芸術というのは心の働きと感覚の働きが一番基本的だと思いますが、心の働きと感覚
 の働きはどこが違うのかということです。心の働きと言うけれども、心って何なのだ。定義して
 みろと言われた場合、僕らはいくつかの考え方を持っていて、はっきりしなかったということが
 ありました。むしろ「心」というものの定義の仕方によるのではないかと考えたいくらいでした。

  しかし、三木さんの身体生理に関する考え方はものすごく参考になります。人間の器官には植 
 物神経系の働きで、自動的に動いている部分があります。それは内臓の働きです。喜怒哀楽とい
 う情念に関わる働きは内臓に関与しています。つまり内臓の働きに関与する精神の働きを特に心
 と呼んでいると理解すれば良いのだということは三木さんの解剖学的な考え方、形態学的考え方
 で、初めてはっきりしたなと思えたわけです、心の働きは内臓の働きである。心情の働き、哀感
 哀楽に関与する働きは内臓の働きに関与するものであり、それが表現となって出てくるものです。

  それから、人間の感覚器官、五感に関連する動きもあるわけです。人間には感覚的な精神の動
 きと、内臓の働きによる精神の動きがあり、ひとつを心と呼び、もうひとつを感覚作用、感官作
 用、知覚作用と考えれば良い。そして、内臓の働きも感覚器官を通っていて、内臓の働きが全面
 に出てきた時には心と呼べば良いし、内臓の働きが作用する精神の働きが背後に隠れて、感覚の
 働きが表に出てくるものを感覚作用、あるいは知覚作用と呼べば良いことがわかります。

  例えば憂鬱な時にある色彩を見るのと、朗らかな時にある色彩を見るのでは、同じ色彩を見て
 も感覚の受け取り方がだいぶ違います。なぜかというと、内臓器官に関与する精神の作用を潜在
 的に必ず通って、感覚器官の働きが全面に出てくるから、そういうことが起こりうるわけですし、
 また、心の働き、内臓器官の働きのなかにでも、例えば人間の死体を見てしまったからどうも胃
 腸の調子が良くないとか、心臓が思わしくなくなり、そして、あまり良い心の働きが出てこない
 ということがありえます。実際に出てくるのは、感覚の働きが潜在化されていって、内臓の働き
 である心の働きが全面に出てきたということです。どちらが潜在的になるかで、人間の精神の働
 きは強訓点が違ってしまうと考えられるということです。

  初めて、自分の言葉の価値と言葉の意味の考え方と、人間の生理器官の動きと結びつけること
 ができると、理論的に言えるようになったのではないか。人間の生理作用と心の働き・感覚の働
 きと、言葉の表現における言葉の価値と言葉の意味、マルクスで言えば経済的な価値論・価値概
 念を拡張して、一般的・普遍的な価値概念を作ることができるのではないか。そうすると、価値
 というのは必ずしも人間が行動すれば周辺は全部価値化されちゃうんだという息苦しさから逃れ
 られるのではないかというつながりが、おおよそつくようになったと、自分では思えてきました。


                          胎児以前に形成される無意識はあるか

  しかし、よくよく考えるとここは曖昧だったなと思える箇所があるわけです。それは生まれて
 から一歳未満の状態と、胎内にある状態は何も触れられていないじゃないかと言える箇所です。
 そこに触れている考え方が理屈上ありまして、フロイトとかユングに代表される無意識学説です
 大雑把に言うとノ言葉を発することはできず、自分では生きることができないから、母親・母親
 代理の人に栄養を取らしてもらって、おむつをあてがってもらったり、寝かしてもらうなど、母
 親的なものに頼って生きている時間が一歳未満まであるわけです。

  それから、胎内の時間、母親と肉体的関連性の時間があります。系統発生的な考え方をすれば、
 単細胞から魚を通って、両棲類になり、陸にヒがって哺乳類になり人間になり、外に出てくる過
 程が、胎内で十月十日あるわけです。その後半では感覚器官が相当整って、母親の影響を受けて、
 だんだんとわかっていって、その期間は人間にとっては無意識の作用として現われてくるわけで
 す。生まれてから一歳未満の間に形成されるのがフロイトの言う無意識や前意識になるわけです。

  ところが、それをもう少し胎内に拡張しないといけない。そこでは言葉はないけれども、コミ
 ュニケーションはあるこその状態をどのように意昧づける、価値づければ良いのかという問題が
 あり、それは今までの考え方ではちょっと出てこないということになるわけです。僕は自分でも
 そういうことは考えていないなとだんだん気に掛かってきて、そこのところを何とか考えてみた
 いと、テーマにのぼってきたわけです。

  極端なことを言いますと、宗教家たち、特に仏教系の影響を受けている宗教家たちは、前世・
 来世はこうだ、と言うわけです。一般に自然科学的な考え方からすると、前世はどうだったなん
 て山Lめにしようじゃないか。来世なんかはないとしようじゃないかという認識で、そこを捨象・
 切断してきているわけです。僕らが考えたことは、胎内から一歳未満までは考えどころだぜ、言
 葉がない時代の人間は考えどころだぜということです。言葉がないのならば考えなくてもいいじ
 ゃないかということになりそうですが、少なくとも一歳未満の子供は、母親が「アウアウ」と言
 うと、何となくわかって笑ったり、赤ん坊の方がそれを言ってもらいたいので、わざと泣いたり
 して細工をすることがあるわけです。

  少なくとも、母親にわかる程度にはコミュニケーションはついている。それは分節化された言
 葉じゃないが、コミュニケーションをとっているじゃないか。もっと極端に言えば、胎児の時代
 でも後半になれば、超音波で母親を驚かした時、胎児が身を縮めたりするのが映像化されて見え
 るようになっています、それをおし広げれば、胎児時代に教育すれば早期教育は可能なのだとい
 う考え方をするわけですが、僕らはそんな息苦しい考え方をしない方がいい、生まれる前から教
 育されたらかなわないと思います。

  要するに、宗教家が前世・来世と言っている考え方と、僕らの考え方は、胎児以前に形成され
 る無意識があるかどうかという問題に還元できるということなのです。生まれてから一歳未満ま
 でに形成される赤ん坊の心の働きを、無意識とフロイトやユングが規定しているとすれば、胎内
 にまで拡張して、胎内から生まれる以前、つまり、宗教家が前世と言うものまで拡張して考えま
 すと、受精以前の無意識は可能かということ、系統発生的な考え方は内在的に考えると、宗教家
 が前世と言っているところの無意識の問題になるのではないかという可能性はあるわけです。
 
  前世とか来世と言っているものはあまり馬鹿にしないようにしようじやないかと、僕はそう考
 えています。フロイトの言う無意識よりも、もっと入り込んだ無意識が人間にはあるんじやない
 か、それは解明できるんじやないか、潜っていけばもっとあるんじやないかということになりま
 す。

  無意識の形成の問題は、系統発生的なものと、個体発生的なものの両方から考えることとなっ
 ていますけれども、我々が系統発生的に考えて、原始に還る時代の、とても初期の人間の心はど
 ういう働きをしていたか考えることと、宗教家が前世というところ、フロイトの肘う無意識の無
 意識を考えることは同じである、融和してしまうのではないか。つまり、系統発生と個体発生が
 融和してしまうところの無意識までやれるのではないか。



                            言葉の発生の〈起源〉

  ある個人の言葉の表現は、その表現に先立って、親からの教育とか、零歳から一歳未満に移る
 時までにおける親からの言語教育とか、周辺に飛びかっている、すでに存在する言葉からの影響
 といったものから規定されて、言葉は表出する、表現するわけですから、あらかじめある時代に
 おけるある個人はある言語環境のなかに囲まれています。

  そういう言い方をしますと、フランス的な考え方というのは、僕が読むと全部この人たちは機
 能的な理解だよということになっちやうんです。マルクスの理解をやっているのを読んでも、機
 能的な理解の仕方だよということになっちゃうんですよ。機能的とは何なのかというと、すでに
 言葉自体が存在するもんだ、ある人間は、存在する言葉の環境のなかで、喋り言葉や書かれた言
 葉の環境のなかで生まれてくるんだということです。

  そうすると、生まれてきた時には言葉なんかなくて、言葉は一歳未満ならば母親との間で分節
 のない言葉をやっていて、その時には本当のことを言えば民族語の区別はそれほど重要ではなく
 て、フランス人の赤ん坊も日本人の赤ん坊も大体、アウアウと言っているんだよ、それでも母親
 には通じているんだよ、という言葉の発生の起源、つまり無意識のなかに入ってしまうようなも
 のは勘定にいれなくてすんでしまうわけです。僕らにはそれは不服で、それで済ましてしまう考
 え方は機能主義的であると言っちゃうわけです。

  アウアウと言うのは言葉じゃないじゃないか。ちっとも分節化されていないし、民族語にもな
 っていないじゃないか。こんなの言葉と認める必要はないという考え方にたいして、いや分節化
 されなくても、言葉は言葉としてあるということなんです。僕の言語論はそれでいい。民族語の
 区別もそれほど認めない。方言と民族語の違いも認めない。母音の個数の違いに意味があるとい
 うのも認めない。ただ、人間は音声というか、喉仏の上のところを加減することで民族語も皆違
 っちゃうんです。それはそうだけれども、言葉は内臓語だぞ。喉仏から下の内臓のところでしか
 言葉を発する根源は出てこない。言葉とは何ぞよというのは、心の働きを主体にして、それだけ
 言葉の価値概念は十分に成り立つ。しかし、その背後には現在から受け取っている感覚的機能も
 そこに入ってくるから、正確に言えばそう言わないといけないのだけれども、全面に出てくるの
 は、内臓の動き方に伴う心の動き方でもって、言葉は決まっちゃう。だから、分節化されるかさ
 れないか、民族語に分かれるか分かれないかは、お前の考え方からは出てこないと言われれば、
 それでも良いさとなってしまうんですね。

  民族語も喉仏から上で決まっちゃうんですよ。目がふたつ、鼻がひとつと同じように、喉仏か
 ら上ということは人類共通性で、そんなに違わない。もちろん、顔色の違いとか、顔の形の違い
 とか、口腔の違いとかはあるわけですけれども、あまり大した代わり映えはしない。そこで民族
 語は起こるわけですし、言語の分節化もそこで起こるわけですから、そんなことは根本的な問題
 ではない。例えば、聾唖者は音声や分節化された言葉をなかなか喋ることができないよ、唇の動
 かし方だけだよということになっちゃうけれども、それだって言葉は言葉だよということになり
 ますし、心がある限り、つまり内臓の動きがある限り、それに対応する動きを人間が自分の外に
 出したいという気持ちがあって、言葉は成り立ちます。



                                         個性的な無意識の表出

 
  僕らがそういう考え方をして、現在において危ないなと思うことがあるのは、現在はものすご
 くわからない時代で、現在では無意識のなかのある部分(それは意識と割合近い部分だと思いま
 すけれども)は区別がなくなってきつつあるんじやないかと思うんです。日本の九割の人が自分
 は中流だと言っていて、九割の人は生活状態が代わり映えしないとなっちやっている。知識教養
 も 今のところ日本人の40何%が男女共に大学卒になっていて、もう少し進めば60%以上に
 なって、それも代わり映えしない。生活性も代わり映えしない。そういう夫婦に育てられた子供
 の無意識は違うということは、ちょっと考えられないということになりますね。

  深い部分は違いますけれども、意識に近い部分は代わり映えしないということになります。代
 わり映えしない無意識というのは、ユングの言う意昧とはちょっと違うんですが、共同の無意識
 だということで、個人の無意識の累積ということを言えないといけないんじゃないかという危惧
 を感じるんです。現在の先進国では共同無意識のかなりの部分がこれから共通していると考えて
 はいけなくなっているんじゃないか。自分が今まで考えてきた考えを多少修正しないと通用しな
 いかなと思っている箇所なんです。そこらは僕らがはっきりと答えを出しかねているところです。
 現在が生み出している共通の無意識あるいは前意識の部分というのは、神話の逆であって、もし
 かしたら一種の作られるべき無意識の枠組みとそれを理解して、解析していかないと危ないんじ
 ゃないかなという感じがあるんです。

  




  これはフランス人は優秀だなと思うんですが、僕はドゥルーズ・ガタリの『アンチ・オイディ
 ブス』の邦訳の書評をしたので、丁寧に読んだのですが、あの人たちは無意識は作られるべきだ
 と言っています。フロイト的に、系統発生的に無意識はどうだとか、個人の無意識がどうだとか、
 エディプスがどうだということは通用しないと言っているんです。でも何でそんなことを言うの
 ということをちっとも説明しないんです。それで僕が代わりに説明すると、あの人たちの意図に
 反するかもしれませんが、現在の先進資本主義国では大して生活制度も代わり映えしない、知識
 教養も代わり映えしない。そういう両親から生まれる子供がある部分で代わり映えするはずがな
 いんだ。

  だから、この部分の無意識は除外して別に考えればいいんだ。どう考えればいいのか、それは
 わからないけれども、その枠組みは考えないといけない。その枠組みを考えることは、先進的な
 資本主義国が、今はこうだがこれからどうなっていくのかを考える枠組みとまったく同じだと、
 僕は考えます。個々の人に作られる無意識はとても個性的に作られなければならないけれど、枠
 組みだけは、そういうものとして作られるだろう。
 
  もっと極端なことを言いますと、先進的な資本主義がどこで死ぬかという問題もあるわけです。
 あまりに生活程度が高度になり、均質化された部分の無意識は、これからの社会の枠組みを考え
 ると、枠組みとしては同じことになっていくから、死を考えることも同じことに違いない。それ
 が作られると、かなりはっきりした見通しがつけられるんだということになっていて、フロイト
 とは違った意味で無意識を個性的に作っていくことが、とても重要な具体的な課題として出てく
 るだろうと、予想できます。

  僕らの系統発生的な考え方と、自己表出は自我ということを意味しないでも、個性・個人とい
 うことと関わりあるわけですから、そこに固執すると、これから間違うかもしれないという危惧
 は、いつでも持っているんです。そこは自分の考え方の曖昧さがあるような気がします。


                                 アジア的ということ

  僕の言語の価値に始まる価値論というのは、内在化されてしまっているということだと思いま
 す。だから、貨幣という表現、きちんとした枠組み、概念を与える考え方から見ると、副次的な
 ところを下にしているのだなと思うんですね。どうしてそうなったかと僕なりの理解をすると、
 マルクスを典型として、あるいは西欧の社会を典型として、貨幣という概念、つまり、ある価値 
 の普遍的な担い手である貨幣という概念をそこから出していった、観念の過程のなかには、西欧
 社会の段階を主にして、未開、原始の次にアジア的段階をなかに入れて、社会の段階論を展開し
 ています。

  このアジア的ということで括られている問題が、貨幣の問題に対して、とても大きな意味と言
 いますか、違いを生み出す根拠になっていることがひとつあると思うんです。

  アジア的という段階を原始、未開の次の段階から取ってしまえば、西欧社会の発展段階イコー
 ル人類の歴史の発展段階であると、どう文句を言おうが言えることになって、アジア的段階を除
 いてもヨーロッパ社会にはさしたる段所論を変更する影響はないわけです。西洋社会イコール人
 類の普遍的進展と言えてしまう。西洋社会が人類の発展段階であって、それは先進的だというの
 は間違いないわけだけど、でも本当によく考えると、それが人類の歴史であるというのには異論
 が出てきます。

  異論の第一はマルクスに言わせればアジア的、ヘーゲルに言わせればアジア的という段階とア
 フリカ的という段階を外に出していることです。アフリカ的段階について言えば、ヘーゲルによ
 れば宗数的にはアジア的段階は自然が宗教になっているけれども、アフリカ的段階は動物と同じ
 で、自然が宗教にまでなっていないで、動物とおなじように自然とまみれている段階ということ
 になっているわけです。貨幣の概念が西欧的にはっきりしすぎていて、それが価値論の決め于に
 なる考え方になっていくのは、たぶんアジア的とアフリカ的を外側にくくっていることではない
 か。つまり、あまりすっきりしすぎるんじゃないかな、それがもとなんじゃないかなと思うんで
 す。

                                第一部 吉本隆明の経済学


「現在の先進資本主義国では大して生活制度も代わり映えしない、知識教養も代わり映えしない。そ
ういう両親から生まれる子供がある部分で代わり映えするはずがないんだ」の件で圧倒され、思わず
瞳孔が大きく開き、目玉が飛び出さんばかり(瞠目)になった。実に面白い!

                                        (この項続く) 



東日本震災4年目。

$
0
0

 

 

 

 

 ● 東日本震災4年目考

罹災から早や4年となる。復興住宅建設の進捗率16パーセント、復興予算残り約2兆6千億円。一
方、福島原発事故では、使用済み燃料・同デブリ(飛散片)の取り出しは、計画から5年遅れの2025
年。中間貯蔵場(地権者2365人と交渉中)・県外最終処分場は目途立っていない。この進捗度に対し
て激変したのは、菅直人元首相(政府)と孫正義(民間)などの強烈なリーダーシップでデジタル革
(=再生可能エネルギー)の1つあでる太陽電池の劇的な普及(下図)と、消エネの優等生である発
光ダイオード(LED)の普及でいまでは設置後1年で償却できてしまうほどだ。ただここに来て、
太陽光以外の再エネのウエイトシフトしている。その間、個人的には騒擾靴下と揶揄されそうだが、
「オールソーラーシステム」と「オールバイオマスシステム」の2つの完結論をブログアップしてい
る。

   ● 日本全国の風力発電一覧地図

 

    ● 桜島噴火のリスクは?

 



【オールソーラーシステム完結論 39】

● 太陽光による高付加価値品製造工学

「それかのらの完結論シリーズ」でもよいだろうか。関連最新技術について適宜掲載していこう。
さて、今期は、産業技術総合研究所が多孔質の酸化タングステン(WO3)などを積層した半導体光電極
を用い、太陽光エネルギーで水を分解し、水素製造と同時にさまざまな高付加価値の化学薬品を効率
良く製造する技術を開発(2015.03.06)。化学薬品としては過硫酸や次亜塩素酸塩、過酸化水素、過
ヨウ素酸塩、四価セリウム塩などの酸化剤を製造できる。太陽光エネルギーを水素と過硫酸として化
学エネルギーに変換・蓄積する反応では、ほぼ100 %の選択性で過硫酸へ変換でき、非常に高い太陽光
エネルギー変換効率2.2パーセントを達成。太陽光エネルギー利用で水の電気分解の電解電圧を著しく
低減しながら、水素エネルギーと多様な有用化学薬品を同時に製造できる技術であり、将来の経済性
の高い新規プロセスの実用化が期待される。 

 

  

● 『吉本隆明の経済学』論 18 

  吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!   

    吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも
 異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったその
 思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何か。
 資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫る。   

 はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 第4章 労働価値論から贈与価値論へ
 第5章 生産と消費
 第6章 都市経済論
 第7章 贈与価値論
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき  

                                                       第1部 吉本隆明の経済学 
 

 第1章 言語論と経済学

  2 言語と経済をめぐる価値増殖・価値表現の転移


                      価値の普遍的な源泉としての言葉

  僕の考えから言いますと、貨幣は価値の普遍的な源泉としてイメージできないと考えていて、
 できるのは唯一言葉だけだと思います。表現された言葉、あるいはそれが絵や字に書き留められ
 たものは価値の普遍的な基盤にはなりうる。しかし、貨幣というものは価値概念を作る場合の基
 盤にあまりならないのではないかという考え方になっていくと思います。これはマルクスが度外
 視した、いくつかの特徴をとらえればアジア的ということで片付けられたところで考えられる価
 値概念は、どうしても言葉しかない。言葉ならば、アジア的というところでも、西欧的な社会で
 も共通に何かを言えるということかありうるのではないか。言葉の価値を作れるのではないか。
 貨幣というと、どうもはっきりしすぎる感じがどうしても僕には伴うんです。価値概念の形成す
 る場合の貨幣の意味、存在の意味はそこではあまり大きな伜組みになってこないと思えちゃうわ
 けです。

  別な言葉で言うと、貨幣に西欧で通用するような普遍的な価値概念がつけられるのは、日本で
 は明治以降からです。その前に貨幣として、大判・小判とか、中国を模倣した貨幣があるわけで
 すが、それが実質的に単一の市場で通用することはなかなかなくて、藩で違う貨幣を作ったり違
 うやり万をしちゃって、片遍的な価値としての貨幣とはなかなかならない、大宝律令で作った貨
 幣の存往が上部の貴族層とか、その周辺では通用しても、その他ではなかなか通用しない。普遍
 的な価値があると思って使われて、慣れたのは明治以降であり徳川時代末期までは、農家だって
 農産物は物納でやればいいということになっていて、金銭でやるということにはなっていない。

 金銭で税金を納めても良いことになったのは明治以降で、そのために単一の農業市場ができるよ
 うになってきました。そこではじめて貨幣の持っている普遍的価値の象徴が日本人に考えられる
 ようになった。こういう長い間、マルクスの言うアジア的という段階が存在したことを考えると、
 何となく貨幣に討する具体的なイメージは湧いてこなくて、物で納めれば良いのだろうとか、
 物々交換すれば良いだろうというイメージの方が多くなってきます。南のオセアニアの島々では
 石が貨幣として通用したり、日本や中国では宝貝が貨幣として通用したということがあったわけ
 で、そういうことは自分のなかで割と大きな問題になっているわけです。

  たぶん、言葉だけが普遍的な価値概念の形成の基準になりうる。そうすると、価値概念がとて
 も内在的なものと関わりあうものとなっていって、外在化がなかなかできなくなっちやう。大体、
 そこいらへんから価値概念の作り方の意識は分かれるのではないかというふうに考えます,マル
 クスの考え八のなかにひとりでに、人類の発展イコール西欧社会への発展、あるいは西欧仕合の
 価値概念イコール人類の価値概念と言えば済む、それで通ってきたことがあると思いますが、そ
 れには賢論があります。

 


 第2章 原生的疎外と経済


  解説

  吉本隆明の創造した言語図式では、指示表出と自己表出という二軸の交わりから多様な表現が
 生み出される。指示表出に関係する面については、現象学をはじめとする西欧の啓蒙性を本質と
 するさまざまな学問が、その本質をあきらかにしてきた。しかし無意識や情動や身体性の領域に
 深く根を下ろしている自己表出に関わる面については、フロイトやユングの学問のような少数の
 例外者を除いては、西欧ではじゆうぶんに深められることがなかった。

  吉本隆明が『心的現象論』の仕事に取り組んだのは、ヘーゲル精神現象学やフッサール現象学
 の限界を超えて、表出性の深い闇の中にまで現象学の基礎を拡張しようとしたからであろうと思
 われる。この試行を実行するために、彼は精神病理学や古代言語論や考古学などのような、心の
 深層性の学問に関わる領域に大胆に踏み込んでいった。 

  しかし身体内部への探求が深められる途上で、言語的理性は内臓的領域に触れたあたりで自ら
 の限界に達してしまうのである。無意識の領域あたりまでは饒舌におしゃべりを続けていた身体
 が、内臓に踏み込んだあたりで急におしゃべりを止めてしまうのである。心的現象論の底はもっ
 と深いはずだと直感していた吉本隆明にとって、内臓的領域の沈黙を破ってくれる学問がどうし
 ても必要だった。
 
  そのとき彼の前に、三木成夫の研究が出現したのである。彼は驚愕した。この孤独な解剖学者
 のおこなった探求は、内臓の諸活動に数億年におよぶ生物進化の記憶が刻印され保存されている
 ことをあきらかにしようとしていた。またそこには、吉本の言う自己表出に関わる無意識や情動
 の源泉までもが、内臓的諸活動と関運づけられて、マッピングされていた。

  ヘーゲル精神現象学には、人間の精神が過剰を抱えることによって、自分を取り巻く世界環境
 から疎外され、そこから精神の運動が発生してくるさまが、巧みに描き出されているが三木成夫
 の研究はそれよりもさらに原初的生命レベルでおこっている「原生的疎外」の横道を示そうとし
 ていた。このような深化した「超疎外論」に立つとき、資本主義の理解にも根底的な拡張が必要
 になるだろう そのような思想に導かれて、吉本隆明の心的現象論にもとづく経済学は、深めら
 れていった。

 

   1 三本成夫の方法と前古代言語論

    Ⅰ 宇宙のリズムと文明

  三木成夫さんの著作に接するようになって、まだ数年しか経っていませんが、はじめて読んだ
 ときはほんとうにおどろきました。なぜかと申しますと、三木さんの方法論が、価値形態論にお
 けるマルクス、国文学研究における析口信夫とおなじだとかんじたからなんです。そこで『胎児
 の世界』をはじめとして、論文や講演にいたるまで三木さんの考え方にふれ、じぶんのやってき
 たこととの関連で、学ぶことができるところはどこかとかんがえました。ぼくは、文字で表現す
 るところから始まる文学論を主体にやってきましたが、じぶんの言語論と文学論をむすぶ方法が
 ここにあるとかんじたわけです。文字以前の言語論が可能なのではないかとかんがえるようにな
 りました、それで、三木さんの方法に勇気づけられながら、つっかかり、つっかかりいままでや
 ってきたんです。三木さんの考え方のどこをどう補ったらいいか、あるいはここを袖いたいなあ、
 とおもったことから申しあげます。

 『胎児の世界』でまずびっくりしたのは、一週間から三二日目位で、人間の胎児は両棲類の段階
 から、陸へ上がって腿虫類みたいになる。それから胎児圧のようなものを経験して、母親がつわ
 りから感覚の変貌を一時的におこす、という条でした。魚類が陸棲したり、また海へ還ったりす
 る生物の進化が胎児の世界と重なり合っていることを知りました。生物というのは、宇宙の写し
 なんだという考えが根本にあるんです。植物はそれをそのまま受け入れていますが、人間などは
 個体のリズムというか、自我というか、そういうものを持とうとする、それも生物発展の段階な
 んだということです。宇宙はリズムと螺旋構造を基本にしていますが、生物がやってきたことは、
 考えた方がいい。ただ人間は器具を使ったり、自意識による表現などで、食の相と性の相を意識
 的に一致させようとしたりするから、この境界がはっきりしません。しかし人間の生理反応をつ
 きつめれば、やはりおなじことなのだと、三木さんはいいきっておられる。そういわれると、な
 さけないともおもうんですが、納得すざるをえない気持になるんです、
 
  三木さんの考え方というのは、やはり本質的な意昧でのナチュラリストなんだとおもいます。
  生物はナチュラルな宇宙から、だんだん逸脱していって、じぶん独自のリズムを築こうとして、
 やってきた果てが人間ということになります。そうすると宇宙のリズムに背くというかたちでし
 か人間は生きていない、ということです,けっきょく、天然自然に背くのはダメなんだ、という
 ナチュラリストの観点に収斂するのが、三木さんの考え方だとおもいます。人間はそれを底に沈
 めるようにして、宇宙のリズムを崩してしまう、これはダメなんだというのです。この考え方に
 欠落しているのは、文明史だとおもうんです。三木さんの考えをつきつめれば、文明が高度化す
 るのは、自然に反する行いの果てなんだということになります。三木さんの考えのいちばんの弱
 点は、ここなんじやないかとおもいます。補足すべきは、ここではないか。ぼくは、文明に所定
 の意味を与えるべきだとおもうんです。ぽくはエコロジストと喧嘩ばかりしているんですが、い
 つでもこの点で議論するんです。文明史は自然史の延長としてあるんだ、とおもうんです。文明
 が自然に反する、とはかんがえないんです。 


    Ⅱ 文明とは手を加えられた自然史-マルクスとの同一の方法

  ところでどうやって三本さんの考えを補足するかなんですが、おなじように文明化すなわち価
 値化である、ととらえた人にマルクスがいます。マルクスの視点にたてば補足できるとおもうん
 です,マルクスの考え方を拡張する方法が、ひとつだけあります。労働価値説といわれているも
 のですね。たとえば、野原にある林檎の本の実の価値をどうかんがえるかといいますと、この本
 によじ登って、林檎をもいで下りてくる、その間の労力を価値として金銭で見積もる、というこ
 とになります、マルクス的にいえば、それが林檎の価値です。それじゃ、林檎の植わっている土
 地が私有地ならどうなるか。そうなると、その土地の所有者の権利もかんがえなければなりませ
 んし、林檎の木を管理している者がいれば、その労賃も考慮され、さらに加工工場が林檎を缶詰
 にするとすれば、その労働も加味されます。つまり、マルクスによれば、原型的なものをまずか
 んがえ、つぎつぎに条件を複雑にしていくわけです。その方法は、三木さんと変わらないとおも
 います,

  人間は内臓器官の集約物である心臓と、感覚器官の集約物である脳と、これを連結する神経系
 からできている、というように、三木さんは、植物から動物へ、さらに人間へと条件をどんどん
 複雑にしていくんだとおもいますね。だから方法としてはマルクスとおなじで、はじめに原型を
 患い描いて、条件の複雑化に応じてどうなるかとかんがえるわけです。三木さんは、人間の腸管
 は入口と出口を結ぶもので、植物の幹とおなじものだとかんがえればわかりやすいですよ、とい
 っています、また人問の感覚器官は動物神経に支配されていて、神経系を通じて脳にいく。一方
 で、腸管は植物神経に支配されている、というわけです。マルクスとそっくりおなじです。ただ
 ちがうのは、三本さんの考え方で文明はどういうものかというと、悪いものなんです。

  マルクスはそうではありません。労働価値説を拡張し、抽象化しますと、人間が自然に手を加
 えるということ、実際に手で触れたり、目で見るだけでもいい、マルクス流にいうと対象化行為
 ですが、そうしたすべてが対象にむかう行為とかんがえると、行為が加えられた対象は価値犯さ
 れることになります。マルクスの考えを拡張すると、こうなります。

  つまりマルクスの労働価値説を経済に限定しないで普遍化すると、自然に何か働きかけをおこ
 なったときには対象になった自然の部分が価防犯される、というのがマルクスの柿本的な考え方
 です、そうすると価値という概念が生きてきます。つまり文明とは、人間が外界に何らかの手を
 加えた果てのものだとかんがえますと、マルクスの価値論は文明論に還元できることになります
 こういう同一化の概念が、三木さんにはないんです。文明はよくないんだ、ということになって
 しまう気がします。いまのエコロジストは、そういうことばっかりいってます。


  それじゃあ、自然のままで虫など採って裸のままでいればいいでしょ、といいたくなります。
 都市がいまさら農村にもどりっこないでしょう。文明とは、マルクス流にいえば、価値化を積み
 重ねた末に出来たわけで、自然に手を加えたうえの、人工的な自然なんです。つまり文明とは自
 然史の延長線上にある、手を加えられた自然史と理解することができます。こうしますと、三木
 さんやマルクスの発想に文明を取り入れることができます。文明はかならずしも自然のリズムと
 対立するわけではない、これも自然史の一段階で、これを逆さまにもできませんし、価値ありま
 せんよ、ともいえないんじゃないかとおもうんです。こうしますと、三木さんの考えを補えると
 おもうんです。かならずしも文明と自然とが対立することにはなりません。根底は自然の歴史で、
 それにどれだけ手を加えたか、自意識によりどれだけ加工された自然か、ということです。
 
  たとえば、もしも極端なエコロジストが日本国の政権を握りまして、自然を破壊したやつは全
 員死刑だという法律をつくったとします。そしたら自然破壊はやむか、つまり文明の発達はやむ
 かというと、そんなことはないんです。その程度でやむようだったら、とっくにやんでいるはず
 です。自然史の発展は必然だから、ぽくはやまないとおもいます。法律で規制して、文明史の発
 達を遅らせることはできても、最後までいけるとおもったらとんでもない間違いです。自然史の
 必然として文明が発達することは、絶対にこれを阻止できませんし、逆さまにもできない、とぼ
 くはかんがえるんです。三木さんの意図に反するかもしれませんが、これが、あの文明化イコー
 ル価値化というふうな、マルクスの概念の拡張で得られたぼくらの認識なんです。
 
  三本さんが生きておられたら、エコロジストの寵児というか、アイドルになっていたにちがい
 ありません。ぼくは、三木さんを偉いなあ、大変な人だなとおもうんですが、ふつうのエコロジ
 ストのいっている倫理的自然主義というようなものとくらべるとともかく徹底しているんですね
 あの宇宙のリズムとか、植物から動物へ、それから人間へという発展過程が、ことごとく発展史
 としてみごとに解剖されているところなどに、徹底ぶりがよくみられて、そのエコロジカルな主
 張も、ぼくには納得できてしまうんです。けれども、やはりぼくはちょっと補いを加えてみたい
 んです。方法論は三木さんとマルクスとはおなじですが、やっぱり文明史を解釈できるぞという
 のが、マルクスの『資本論』のいちばんのミソですから。ただもしも三木さんとマルクスが相対
 したとしたら、三本さんの方はマルクスに、文明信者でやっぱりおまえはダメたというだろうし、
 マルクスは三本さんに、そんなことばっかりいってるから人間はいつまでも貧乏してるんだ、と
 反論するでしょう(笑)。二人はそこがちがうんです。

                                第一部 吉本隆明の経済学


ここで、吉本隆明(マルクス流自然史観)と三木成夫(生態学共生史観?)の原理対立が垣間見られる。これに
関してのコメントは先送りする。


                                          (この項続く) 


  

  ● ジュブリルタンなモーニング

予定通り、月命日をすませ、松原のジュブリルタンへ。曇り空の琵琶湖を眺めながら二人で燻製サーモンを挟
んだパニーノとブレンドコーヒーを戴きき帰る。ゆとりは欲しいものです。

 

 

5つのパワーツウガス開発事業

$
0
0

 

 

 

  

● 『吉本隆明の経済学』論 19 

  吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!  

 

    吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも
 異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったその
 思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何か。
 資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫る。   

  はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 第4章 労働価値論から贈与価値論へ
 第5章 生産と消費
 第6章 都市経済論
 第7章 贈与価値論
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき  

 

                                                       第1部 吉本隆明の経済学 

 

 


 第2章 原生的疎外と経済

 

  Ⅱ 文明とは手を加えられた自然史-マルクスとの同一の方法


                             マルクスから学んだ言語論

  ぼくがマルクスから学んだことに、もうひとつあります。それは言語論です。まだ粗雑ではあ
 りますが、ぼくはじぶんの言語論をもっています。丸山圭三郎さんたちがされているように、い
 まはソシュールの言語論が主流をしめています。これがいちばんかっこよくて、受け入れられて
 いるわけです、ぼくの言語論の体系はソシュールとはちがうんですが、ただ言語論の視点では共
 通するところもあります。つまり経済学における貨幣のふるまい方、あるいは価値物としての金
 銭のふるまい方が言語のふるまいとよく似ているという視点です)ソシュールが近代経済学から
 言語論をつくっている、ということがぼくにはよくわかります。




  『一般言語学講義』がソシュールの主著とすれば、そのなかでソシュールは貨幣に言及しなが
 ら、ある言語の価値を決めるばあいにおなじ種類のものとくらべられ、またちがう種類のものと
 もくらべられるというふたつの性格は、経済における貨幣の性格に対応している、という意味の
 ことをいっています。つまり5シリングは1シンリングとくらべられ、また異質のものとも、た
 とえば観念ともくらべられる。あるいは商品のような、貨幣とは異質のものともくらべられる。
 このふたつの性格が価値の概念化には必要だ、とソシュールはいっています。ぽくは、だから近
 代経済学から考え方を借りてきたんだな、とおもうわけです。ぼく自身の言語論は、マルクスの
 『資本論』の価値形態論から作りあげました。しょっぱなから見ると、どうもおれの方がいいん
 じやないか(笑)、とおもうんですが、いかんせんぽくのは細部が粗雑で、ソシュールの方がい
 いんです。価値には使用価値と交換価値とがあるんですが、交換価値こそが価値だというわけで
 す。商品の価値は何か、交換できることだ、つまり何時間の労働と交換できるか、というのが価
 値なんだ、というとらえ方です。

  言語論にじつはこの考え方をもっていくことができるとおもうんです。言語は、自己表出と指
 示表出というふたつの表出からできています。そして、潜在化した指示表出を通った自己表出が
 言語の価値です。それはまさに、マルクスが交換価値が要するに価値なのだといってるのとおな
 じことで、自己表出が価値なんです。指示表出というものは潜在化されていて表に出ず、自己表
 出されて長に出たものが言語の価値となりますドたから、文学作品の価値も文体となったところ
 にある、といえます ばくの考え方の基本はここにあり、この点てソシュールとは大変ちがって
 います。

  ソシュールは、喋言ることが目に見えないことだとかんがえています。だから、耳から入って
 くる聴覚映像と聴覚概念、つまり聴覚映像の系列と概念の系列が何らかの契機によって結びあわ
 さることによって言語になる、というのがソシュールの理解です。かれはとても根本的なことを
 かんがえているわけです。しかしぼくは、文学に必要な言語領域だけでいいとおもったものです
 から、文字に書かれた以後の文学論になりうる言語論を展開したわけです。そこからあとのこと
 で三木さんから受けた影響が物をいうとかんがえました。自己表出と指示表出という考えはマル
 クスに負っていますが、ところがおなじ考え方を三本さんもしているんです。


                             三木成夫から学んだ言語論

  三本さんの書かれたものを読んでいるうちに、この大の考え方とぽくの言語論とを対応させる
 ことができるんじゃないか、と気がつきました。やや乱暴にまとめますと、三木さんは人間につ
 いて、植物神経系の内臓――大腸とか肺とか心臓といったものですが――の内なる動きと、人間
 の心情という外なる表現は対応するし、また動物神経系の感覚器官と、脳の表面の働きは対応し
 ているとかんがえています。そうかんがえたうえで三木さんは、植物神経系の内臓のなかにも動
 物神経の系統が侵大していくし、遂に血管という植物神経系の臓器も動物神経系の感覚器官の周
 辺に介入している、といっています、植物神社系の内臓のなかにも動物神経の系統が介入してい
 るんですから、内臓も脳とのつながりを持っていることになります。

  何らかの精神的なショックを受けて冒が痛くなるとか、心臓がドキドキするとかいうことがあ
 るのはそのためで、そのとき人間は、動物神経と植物神経の両方にまたがる行為をしているわけ
 です。植物神経系と動物神 神経とが連結して脳につながると、三木さんはいっておられるとお
 もうんです。

  ぼくがはっとしたのはそこのところで、それならばぼくのいう言語における自己表出というも
 のは、内臓器官的なものを主体とした動きに対応するのではないか、とおもったのです。対象を
 感覚が受けとめたり見たりすることがかならずしもなくても、内臓器官の動きというものはあり
 うるし、人間の精神の動きとか表現というものもありえます。つまり植物器官を主体とした表現
 を自己表出といえばいいのではないか、そうかんがえました。では指示表現は何かということに
 なりますが、指示表現というのは、目で見たり耳で聞いたりしたことから出てくる表現ですよね。

  たとえばぼくが誰かの顔を見て、あいつの人相は悪いと表現したとすれば、それは指示表出で
 す。そしてこれを三本さんの考えと結びつけていえば、指示表現は感覚器官を動かしている表現
 である、ということになります。
  
  そういうふうにかんがえていきますと、じぶんはこれまで文字で表現された以降の言語論ばか
 りしてきたけれども、じぶんにも、文字で表現される以前の言葉だとか、赤子のような言葉がな
 いときの表現というものまでも含めた言語論ができるのではないか、べつにソシュールの言語論
 の向うを張る気はありませんし、ソシュールのような大才はもっていないんですから、向うを張
 ろうにも張れませんが、じぶんの言語論の体系を文字以前のところまで拡張することができるん
 じゃないか、と気がついたわけです。そのヒントになったのがまさしく三本さんの方法でした。

 三本さんからは穀大の恩恵を受けたという感じがします、ぼくが言語論を始めたのは三〇代の前
 半でしたが、もしもその頃、三木さんの本を読んでいたら、もしかすると俺はソシュールくらい
 になれたんじゃないか(笑)、とおもえるくらいで、ああ、遅かったなあ、というのがじぶんの
 本音のところです。それくらい、三木さんっていう人は、ぼくにものすごいものを与えてくれた
 んです。

 
                                   超文明と超原始
 
  世界中の国家で、天然自然を相手にする農業、漁業、林業などに従事する人々の数は減少し、
 その収益も減少しています。これは、一種の自然史的な成り行きだとおもうんです。文明と自然
 との関連の問題は、大都市と地方、先進国と発展途上国との不均衡な関係にもあらわれていますI
 そこで、不均衡を解消する唯一の方法は、ぼくは贈与であるとかんがえています。意識的な贈与
 というか、平等とか均衡を保つ仕方をつくりだすべきではないでしょうか。また、現代文明が超
 文明にすすんでゆくことが不可避の事態ならば、逆に天然自然のもっとも原初的な情況を、農業
 や漁業以前の情況を、つまり超未開とか超原始を追究することがしつは必要なのではないかとお
 もうんです。超文明と超原始とを見つけだすことはおなじなのだという観点をどこかでっくりた
 い、そこに結局は帰するんじゃないでしょうか。
 
 (………)文明化と価値の問題ですが、交換価値だけが価値だという考え方はやはり否定できな
 いとおもうんです。マルクスが労働価値説をこしらえた時代は、まだ牧歌的で、農業と工業の対
 立しかなかったわけで、空気とか水のように使用価値だけあって、交換価値がないというものが
 あった。けれども現在はそうではない。第三次産業といわれるところに、労働者がうつっている
 わけです。天然水も商品として売り出されていますよね。使用価値と交換価値とが、心臓と脳じ
 ゃないけれども、どこかで相通じるみたいな、そういう段階の価値なんです。使用価値と交換価
 値とを機能的に区別できないのが、現在です。経済学も無意識にそれを知っているのでしょう。

 使用価値のみを価値とみなし、その大小だけをかんがえています。時代はたしかにそういう段階
 にあるんだけれども、それだとちょっとまちがえちゃうよ、とおもうんです。使用価値に差異論
 と機能論をあてはめるから大小をいうけれども、ほんとうは使用価値に大小なんてないんです。
 要するに三本さん流に両方をからめあって、ミックスしている価値をとらえるべきなんです。

 だから天然自然のことでいえば、自然よりいい自然をつくってしまえばいいともおもうほどです。
 いまある森林を守るのではなく、いまのそれよりもっといい森をつくってしまう、ということで
 すね。それが超文明的な意昧での自然だとおもうんです。

  植物学でいえば、いい森林をつくるときにどの樹とどの樹をその土地で組み合わせればよいか、
 ということはもうわかっていますよね。それならば、森林を守るという発想を転換して、植物学
 のそうした知識を実践して、いい森をつくってしまう、自然の森よりも少なくともすこしいい自
 然をつくれる、ということです。稲作の冷害がありましたが、宮沢賢治の童話にあるように、冷
 害がきそうになったら天空の温度を少しあげる細工をしたらいいんですよ。今日、それは可能な
 時代になっているとおもうんです。


ここで、「自然よりいい自然をつくってしまえばいいともおもうほどです。いまある森林を守るので
はなく、いまのそれよりもっといい森をつくってしまう、ということですね。それが超文明的な意昧
での自然だとおもうんです」との吉本自然文明史観がなぜエコロジストと一見すると対立するように
見えるのかが覗う知ることができる。「粗野で、野放図で、無知な人間の活動」が温暖化ガスを排出
しその反作用として、人間の活動に障害を与える気候変動与える時代の共同体の政策をめぐり抗争が
生起させているのだということを了解しているのなら、原理主義者のような態度や発言にならない―
―裏返せば、対処方法への説明が舌足らずではないかという反発を生んでいるのだとわたし(たち)
はそう考える。このように、例えば、90年前半に生起した地価高騰に、相続税を払えなくなり突然
国税庁による差し押さえられ、現金もまま成らず困り果てている勤労庶民に対し、そんなものはさっ
さと売却し転居すれば良いのだと言ってのける新自由主義者的な発言を目耳し違和感を憶えた経験か
ら、言ってしまえば、参考意見として拝聴しつゝも実行動は慎重でなければと考えたものた。これが
わたしの彼に対する不満らしきものだった。



  第4章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」

   解説

  これも1960年代から70年代にかけての頃であるが、若者は難しい本を臆せずによく読ん
 でいた。彼らはマルクスの経済学がリカードの経済学から大きな影響を受け、その欠陥を正して
 古典派経済学として完成を与えようとした、ということを知識としてよく知っていた。またリカ
 ードの経済学がその前のアダム・スミスの経済学を基礎として、それを厳密な理論として発展さ
 せようとしたものだということも、知識としては心得ていた。

    しかしアダム・スミスの経済学がほんとうはどういうものであり、リカードがおこなった厳密化がじっさい
  にはどういう手続きでおこなわれたか、そこから飛び立ったマルクスが経済学でおこなった創造の本質と
  は何か、ということになると、その中でもっとも優れている(と思われていた)マルクスの経済学さえ理解し
  ておけば、そこには先行者の業績がすべて呑み込まれているので、じゅうぶんだと思い込んでいた。 
  
   しかし吉本隆明はそうは考えなかった。後の時代に出現した者が先行者の思想を批判的に乗り越えた
  と主張していても、それを鵜谷みにすることなどはできない。先行者を乗り越えたと思った瞬間、じっさい
  には大切な要素が切り捨てられていて、貧困化を進歩と思い込んでいたことが、あとになってわかる。吉
  本隆明はマルクスから大きな影響を受けたが、同時代の多くのマルクス主義者のようにマルクスを神格
  化したりはしなかった。

  彼は『国富論』を丹念に読むことから、経済学の勉強を始めた。スコットランドの大学の倫理
 学教授たったアダム・スミスの本を読んで、彼はそこにたゆたっている資本主義創成期のおおど
 かな雰囲気が、大いに気に入った。「まるで経済学のうたが歌われているようだ」と彼は詩人ら
 しい感想を持った。つぎに取り組んだリカードの『経済学と課税の原理』は、さすがロンドンの
 金融街で活躍していた現役の銀行家加害いた書物らしく、じつに収支決済の「始末」に行き届い
 た配慮がされていた。アダム・スミスの害物の中でまだ「うた」のようなインプリシットな状態
 にあった思考が、計算手順を持つエクスプリシットな思考として引き出されている。

 「うた」が「ものがたり」につくり変えられたのである。そしてそのとき「うた」に合まれてい
  た重要な美点のいくつか加消えていった。このときある部分では、経済学は貧困になったのであ
  る。それならマルクスの場合はどうだったのだろう?
    吉本隆明は古典派経済学を例にとって、思想史の読み解き方を若者たちに伝授しようとして
  いる。思想に本質的な進歩などということはおこっていないのではないか。動物の世界でのよう
 に、それぞれの思想は与えられた環境で完成を遂げているのかも知れない、という反省に誘われ
 る。


   Ⅰ. 経済の記述と立場Iスミス・リカード・マルクス

  ただいまご紹介の吉本です。ぼくは日本大学に来るのはこれでニ度めです。一度めはすごいと
 きで、バリケードのあいだを学生さんに案内されておしゃべりしたんです。そんなときですから
 学生さんも知識に飢えているんじゃないかとおもって、ちょうど『言語にとって美とはなにか』
 という本を出したばかりの頃だったので、言語がどうやってどんな形で「美」につながってゆく
 のかというお話をしたと億えています。今日はそれをおもいだしながら、「経済の記述と立場」
 という格好はいい題をもうけて、やれるところまでやってみます。


   1.スミスの〈歌〉

                                             スミスの思考法

  まず、アダム・スミスはどういう〈歌〉をうたったのかというところからはじめていきましょ
 う。時間があってうまくいきましたら、マルクスはどういう〈ドラマ〉を描いたのか、つまり、
 「価値論」でどういう〈ドラマ〉を描いたのかというところまで、いけたらとおもいます。
 アダム・スミスの『国富論』(あるいは『諸国民の富』)とか『国富論』の草稿を読みますと、
 記述のしかたと着想とが、じつに牧歌にあふれているという感じをたれでもが持つんじゃないか
 とおもいます。たとえば、スミスは『国富論』の草稿のなかで、〈今はまれになってしまったけ
 れども、田園には風車とか水車とかが回っている。そして、風車とか水車を最初にかんがえて発
 明した人はきっと哲学者だったにちがいない〉といっています。事物を綜合的にみれる哲学者が
 はじめに風車とか水車を、動力に使うことをかんがえつきました。それからずっと技術にたずさ
 わる人たちが、代々風車とか水車とかを手仕事で作ってきました。しかし、産業革命の時代には
 いってからは、分業がとても細分化され、それにつれて、風車とか水車を発明した物をかんがえ
 る人は、だんだん専門家にとって代わられてしまいました。つまり専門の大工や、専門の機械工
 や、動力機を工作する人に分かれていってしまった、と述べています。 
  
  スミスの経済の学についての考え方がどこから始まったかを、この風車や水車の挿話はとても
 よく象徴しています。

 「分業」について、スミスの考え方はどういうものか申し述べてみます。はじめに外から強制さ
 れて、つまり産業構造におされて、それぞれちがう職業の専門に細分化されていったというより
 も、人間の本性のなかに、じぶんはこのことをやり、ほかの人はちがうことをやり、それでまた
 別の人はまたちがうことをやり、というふうにやっていったら、そのうちに、じぶんの作ったも
 ので、ひとが欲しいものがあったら、じぶんが欲しいものでひとが作ったものと取り加えようじ
 ゃないかとかんがえるようになった。そこからはしまった。取引きするとか、交換するとかとい
 う考え方が人間に出てくるのは、けっして外からの要因でじゃなくて、人間の本性のなかにそう
 いうものがあるから、分業の細分化とか、交換みたいなことが起こるんだ。べつに意図して分業
 のほうが都合がいいからとか、便利だからそうなったというより、むしろ人間の本性には分業の
 考え方があるんだと見倣したほうがいいんだ。スミスはそういっています。

  これは、たぶんスミスの経済学的な思想の中心にある考え方だとおもわれます。スミスはそん
 な例をあげていますが、手足を便って身体を動かして仕事をする肉体労働の人と、哲学者みたい
 にもっぱら物事を加んがえるだけの人との本性の相異は、たとえば犬でいえば、愛玩用の犬と猟
 犬とのちがいほどにも差があるものではないんだ。ところが、そんなに差がないはずの人間のほ
 うが、かえってそれぞれの差異を専門として、それに従事するように分かれてしまった。逆にも
 ともと、猟犬と愛玩用の犬とは人間に較べればけるかに差があるにもかかわらず、犬のような動
 物は、それぞれの役割をもっと細分化して、協力したり交換したりしようと加んがえなかった。
 猟犬と愛玩用の犬と牧畜用の犬とがりそれぞれじぶんの得意とする役割を持ちながら、たとえば
 猟をするときに協力してやったらいい仕事ができるはずなのに、動物はみな、そういう意味あい
 では協力しないで、あくまでもじぶんが獲って、獲ったものを食べて、じぶんが生きていくこと
 しかしない。それではもちろん協業体制はできるはずないし、また逆に、分業して細分化するこ
 ともありえない。




  だからたぶん、人間と動物との最初のちがいは、分業をつくり出せるかどうかにあった。もと
 もと差異がそんなにない人間の本性から出発して、かんがえてみれば途轍もないほどちがった細
 分化された職業あるいは専門に分化してゆく。そのあげく全体としてはある協業体制を作れると
 ころに、人間的な本性があって、その本性のいちばん基本には、たぶん、じぶんにないものを対
 手から得るとか、対手にないものはじぶんが作ってあげるとか、また交換するとか、そういうこ
 とがあった。そこがいちばん根本じやないか、スミスはそういっています。スミスのこの考え方
 は、『国富論』みたいな主著のなかに、全体的にばら撒かれているといえましょう。

  スミスの考え方でもうひとつ特色をあげてみます。それは「起源」ということです。ものごと
 をかんがえるばあい、あることがらを「起源」のところまで遡ってかんがえますと、そのまま眺
 めたらどうしても本性がわからないことが見えてくることがあります。歴史的な起源であり、そ
 れから原型であるというところまで遡ってみると、本性がつかまえられ、また本性のところまで
 遡って把握されたものは、本質的なものだ、という方法がスミスにはあります。
  そしてこの「起源」に合まれるところまでの遡行性ということは、さきほどいいました人間の
 本性としてある分業性・交換性と合わせて、スミスの経済理念の根抵に横だわっているとおもい
 ます。

                                                                第一部 吉本隆明の経済学

                                                       (この項続く) 

 

【オールソーラーシステム完結論 40】

● 再エネから水素を作る「Power to Gas」プロジェクトが始動!

日本の将来に向けたエネルギー戦略で極めて重要な二酸化炭素2フリーの水素を活用するための技術開
発プロジェクト――再生可能エネルギーから水素を製造利用する「Power to Gas」――産業技術総合研
究所(NEDO)や有力企業や大学が5つのプロジェクトが始動する(スマートジャパン、2015.03.04)。
ここで、このような再エネ水素社会の実現プロジェクトが、"バンバン"と推進されることを祈念して
いる。



※ NEDO(新エネルギー・産業技術総合開発機構)が2017年度まで実施する「水素社会構築技術開
  発事業(水素エネルギーシステム技術開発)」の対象になるプロジェクト


 

 

 


最新炭素繊維複合材料工学

$
0
0

 

 

 

● 最新炭素繊維複合材料工学

東レ株式会社は、従来の一方向連続繊維を用いたプリプレグ(UDプリプレグ)と同等の力学特
性を維持し複雑形状への優れた成形性を達成した新規プリプレグシート UACS(Unidirectionally
Arrayed Chopped Strands)を開発。この製品の工学ポイントは、UDプリプレグに特定のパターン
で切込を挿入したこと。このことで、一方向に所定の繊維長の繊維束が制御されて配列したシ
ートの製造が可能となる。板金加工では実現できない急激な凹凸変化を有する3次元形状を成
形できる、幅広い用途への展開できるという。

尚、世界関連市場は、37千トン超(東レ 2011年推定)と見込まれている上に、東レはトッ
プランナーに立っている。さらに、「再生エネ=水素社会」事業のコア新材料である。

 


熱可塑性樹脂は優れた成形加工特性から種々の加工法(射出成形、ブロー成形、シート成形、
フイルム成形、異形押出成形、プレス成形)などにより成形され、電気・電子、OA、自動車、
機器、雑貨など広範囲な用途の製品製造に使用されている。その中、射出成形は生産性の高さ、
形状自由度の高さから、熱可塑性樹脂のメインの加工方法に位置する。またこの樹脂は、高い
強度、剛性、耐熱が求められる場合、繊維状充填剤を添加し改質する――例として熱可塑性樹
脂をペット化する際に、押出機で熱可塑性樹脂とガラス繊維や炭素繊維とを一緒に溶融混錬し
た繊維強化熱可塑性樹脂ペレットが挙げられる。

しかし、(1)前述の樹脂は繊維が不連続なため、強度、剛性の改良効果は限定的となり、強
度、剛性の成形材料には、一方向連続繊維強化熱可塑性樹脂板と、その製造方法には、ファイ
バープレースメント法があるが、強度、剛性が必要としない部分にも一方向連続繊維強化熱可
塑性樹脂板を使用するため成形体の価格が高価となる。(2)一方、軽量で高剛性と材料費を
バランスさせる方法には、炭素繊維複合板の表面に熱可塑性樹脂を射出成形して一体化した成
形品の製造方法があるが、炭素繊維複合板と射出成形する熱可塑性樹脂の成形収縮率差により
大きなソリが生じる欠点がある。

この熱可塑性樹脂板10と熱可塑性樹脂組成物20からできた複合成形体1で、樹脂板10の
繊維方向がリブ25と平行な付け根部分に積層構造をもつ複合成形体1の製造方法は、軽量で
強度、剛性が高い、ソリのない複合成形体が供給できる。このような方法で製造することで、
複合成形体の強度、剛性が優れに、反りが極めて少ない成形体が得られ、また、一方向連続繊
維強化熱可塑性樹脂板がリブ面に配置することで、表面外観を損なうことなく、自動車、航空
機、産業機器、スポーツ、レジャー用途に利用でき、特に電気、電子機器のハウジングやシャ
ーシ、ギア、自動車部品のフード、ドアパネル、ルーフ、バックドア、ドアインナー、ラジコ
アサポートなどに使用できる。

 

 

   IDT VIDEO

● ワイヤレス給電受電時代

IDT(Integrated Device Technology)は2015年3月6日、スマートフォンなどのモバイル機器でワ
イヤレス給電の送電機能と受電機能の双方を実現する技術「Wireless PowerShare」を発表。こ
れについては『パピタブルゾーンの色』(2015.03.03)でも紹介している。IMS Researchの 最
近のリポートによると、ワイヤレス給電製品の出荷数は今後数年間で高い成長を示し、2016年
には、3億台を超え、2018年には10億台に達すると予想されています。この市場が、2011年
まではほとんど存在していなかったことだから驚異的であろう。最も、光の部分より、陰の部
分であるマイクロ波、ミリ波などの電磁波障害(例えば、遺伝子傷害、白血病、脳腫瘍などの
疾病)に対する法整備が急がれる(引き寄せられる混沌:例、ピンポイント遺伝子改変、遺伝
子組み替え食物)。

これまで、ワイヤレス給電対応機器は、送電機能、受電機能のどちらか1つの機能のみの対応
に限られていた――スマートフォンなどモバイル機器であれば、受電機能だけを備えることが
一般的――が、Wireless PowerShare は、モバイル機器で送受電の両機能を実現でき、同技術対
応スマートフォンであれば、卓上ワイヤレス充電器から受電し、ウェアラブル端末に送電する
といった利用が可能になる。将来的には、同技術対応スマートフォン同士で、互いにワイヤレ
スで電力を融通できるようになる。

IDTでは、Wireless PowerShareを実現するICとしてP9700シリーズを製品化する方針。同シリー
ズとして、A4WP(Alliance for Wireless Power)、PMA(Power Matters Alliance)、WPC(Wireless
Power Consortium)の3つの主要ワイヤレス給電規格を、シームレスに利用できるようにする
という。出力は5~10Wで、プロプラエタリモードを備えるとのこと。


US8656080B2/20140218

 


● 消臭寝具市場動向


消臭寝具のネット、テレビでの露出が多くなっている。単刀直入に言うと、この手の。マイナ
スイオン・口臭・防菌/抗菌・防汚効果というものに何となく胡散臭いという気持ちが拭えな
い。例えば、添着成分の劣化寿命などの信頼性データという視点から見てみると資料が少ない。
ともあれ、これらの商品に関する知財を見てみた。例えば、「銀ナノ粒子の生体影響解析」(
三浦伸彦・小泉信也,第81回日本産業衛生学会予稿集,2008.6.24-27)に示される通り、安全
性に問題があり、また、天然酵素系抗菌剤は高コストの問題があり、また、光触媒抗菌剤には、
例えば、「高性能光触媒紙の開発研究」(愛媛県工業系研究報告No43,2005)等に記載される通り
高酸化力による基材劣化の問題があることが指摘されているが、抗菌フィルタは鉄、アルミニ
ウム、チタンおよびカルシウムを含む金属組成物などの抗菌剤を繊維性ろ材に添着して、抗菌
性を保有し、安全性、低コストを満足し、基材劣化の問題がないとして、金属組成物が、鉄10
~200ppm、チタン0.05~0.4ppm、アルミニウム15~200ppm、カリウム0.2~2
ppmでろ材に対して、2×10-5g/m2以上となるように添着し、金属組成物は赤黄土から無
機酸を用いて抽出したものが新規考案として提案されている。購入してみて効果があるのかど
うか検証したいと考えたが、スケジュール上、当面出来そうもないので残件扱いとする。

 
特開2012-091089 抗菌フィルタ


尚、調べてみて、触媒成分のサイズにより効果が異なるレポートが提出(下図)されている。
つまり、量子サイズとマイクロサイズの差異が議論になっていることである。そういうネオコ
ンバーテックな時代なのだ。

※ "Development of the antifouling, deodorant, antibacterial high-performance textile fabric by adhering
   Quantum Catalys" 


 

 

 『吉本隆明の経済学』論 20

$
0
0

 

 

 

  

● 『吉本隆明の経済学』論 20 

  吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!   

    吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも
 異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったその
 思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何か。
 資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫る。 

  はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 第4章 労働価値論から贈与価値論へ
 第5章 生産と消費
 第6章 都市経済論
 第7章 贈与価値論
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき   

                                                       第1部 吉本隆明の経済学  

 

  第4章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」

  Ⅰ.経済の記述と立場Iスミス・リカード・マルクス

 

   1.スミスの〈歌〉

                              スミスの思考法

  スミスの考え方を抽象的ないい方で中しますと、人間には、さまざまな異った外観、あるいは
 異ったもののなかから、何か共通に同▽なものをつかみ取る能力が具わっていて、それが人間に
 あって動物にはないいちばん重要なことだというのです。たぶんこの考え方がスミスの「交換」
 という経済概念の底にあるもののようにおもわれます。ここにはさきほどいいました、牧歌的な
〈歌〉をうたいながら、〈歌〉のなかで経済的な概念を創りあげていくという、スミスのやり方が
 実によく現われています。
 
  さまざまな場面で、スミスは、「起源」と「交換」というふたつの基本的な考え方のパターン
 から、興味深い経済的な概念を作りあげています。たとえば、取引き、「交換」ということ、い
 いかえれば、商品の販売や交換をかんがえてみます。それは、まずはじめのところでは、物々交
 換が行われ、そのかぎりではすべての人間は商人だということで、すべての人間が商人である社
 会は、いわば商業社会です。近代社会のなかの一部門で商業社会が成り立っているということじ
 ゃなくて、すべての人がはじめに、物々交換でじぶんにないものをじぶんが持つために、それか
 らひとがないものでじぶんが持っているものをひとにあたえるために、とかんがえはじめたとき、
 商業(資本)がはじまるという考え方です。

  そういうスミスの発想はたくさんあります。経済学の主要な概念について、スミスはそういう
 発想をひろげています。たとえば、「貨幣」とは何かかんがえてみます。はじめに物と物との交
 換が行われます。そのうちに、交換するしかたも種類も多岐にわたり、複雑になってきます。
 物々交換が煩雑で堪えられなくなったら、そのつぎの段階で人間はどういうことをかんがえるか
 というと、何かと交換しようといったばあい、この物ならたれでもそんなにいやだとはいわない
 というような、ある種の商品を、一定量たえず蓄えておくようになります。そして何かじぶんが
 欲しいものがあったら、〈これと換えないか〉というと、たいていの人は〈換えてやろう〉とい
 ってくれる確率がおおきいわけです。そういった大多数の人が欲しがる商品の種類を一定量蓄え
 ることを、人間は次第にかんがえていくでしょう。そのばあいの、これならばたれでもいやとは
 いうまいという蓄えられた商品が、貨幣の原型になるわけです。つまり貨幣の「起源」にあるも
 のは、そういうものだ、とスミスはいっています。

  ここにあるスミスの考え方には草原や森林の句いがします。とくにたれもが欲しくないとはい
 わない商品を蓄えて、物々交換に備えようとするとかんがえるところなど、そう感じます。牧歌
 のきこえてくるようなわかりやすい考え方で、貨幣の本性を説明しています。とても素朴で、人
 間の社会が、たぶん未開・原始の時代からやってきたことの面影を、ずっとすくい取りながら、
 貨幣という概念までもっていくスミスの発想は、じつに〈歌〉にあふれているといえます。経済
 学は面白くない学問だし、一般的につまらない記述の仕方で高度なことをいおうとしています。
 でも主著の『国富論』にあらわれたスミスは、じつに豊かなのびのびした記述をもっていて、み
 ごとだとおもいます。経済的な概念の作りあげ方が、じつに自然でスムーズにいっています。そ
 のなかで、スミスの考え方の特徴である「起源」という概念と「交換」の本性の概念がいつでも
 生かされています。

  そのなかで、いちばん興味深いのは、「価値」という概念を作っていくばあいの説明のしかた
 です。スミスは「価値」という概念を説明するのに、靴の例をあげています。靴というものは履
 いて歩くために使われる。そんな使われ方をするときは、靴は「使用価値」として使われている
 ことになります。しかし靴にはもうひとつの使われ方があります。それは、じぶんが欲しい何か
 別のものがあって、ひとがそれを持っていたとすれば、その靴をじぶんの欲しいものと換えたい
 ときに、その靴を使うということです。

  一般的にすべての商品はそんなふうに、それ自体として使われるばあいと、それをもとに別の
 欲しいものと換える、一種の購買力の代用品として使うやり方もあります。靴を履いて使う使い
 方が「使用価値」という概念の源にあります。そして、靴で購買力の代用をするばあいの使い方
 をかんがえれば、「交換価値」という概念が発生するといえましょう。スミスはそんな説明をし
 ています。



  ところで、スミスが「使用価値」と「交換価値」を説明するのに出してきた概念は、スミスが
 最初の発想ではありません。これは(マルクスも記していますが)、アリストテレスが『政治学』
 のなかですでに出している概念だといえます。ものの役立ち方にはふたつあって、ひとつはその
 ものとして役立たせるということだし、もうひとつはものをほかのものと換えて役立たせること
 だ、事物にはかならずこのふたつの役立たせ方があるというように、アリストテレスはのちの
 「使用価値」や「交換価値」の概念がすぐに出てくるような、はっきりしたいい方でいっていま
 す。スミスたちは、アリストテレスの概念をかりて、「使用価値」とか「交換価値」という概念
 を作り出しているとおもいます。

 
                                  〈牧歌〉の豊かさ

   スミスの「使用価値」とか「交換価値」という概念の作り方を、もっと元に戻してしまったら
  いったいどういうことになるでしょうか。つまり、スミスが『国富論』でやっているよりも、も
 っと元に、もっと白然のなかに、牧歌のなかに戻してしまうのです。それをちょっとかんがえて
 みます。

  何よりも「価値」という言葉でおもい浮かんでくる感覚的なこと、感情的なこと、論理的なこ
 と、その他なんでもいいから、ぜんぶおもい浮かべてみましょう。「価値」という言葉を聞いた
 ときに、たとえばみなさんはどういうことをおもい浮かべるでしょうか。「価値」って何だとお
 もうと訊かれたばあい、どういうものをおもい浮かべるかかんがえてみます。ひとそれぞれにち
 がうでしょう。「価値」という言葉を聞くと、すぐにダイヤモンドだとか、高価な貴金属をおも
 い浮かべる人もいるでしょうし、なんとなく〈貴重なもの〉という感情をおもい浮かべる人もい
 るでしょう。また〈大切なもの〉を具体的におもい浮かべる人もいるとおもいます。そのおもい
 浮かべ方はさまざまです。こういうさまざまなおもい浮かべ方のなかで、「価値」といわれると、
 なんとなくおおげさに感じながら、なんとなく心の中では大切なものなんだ、というものをおも
 い浮かべてみます。そういうことは、たぶん「価値」という言葉をおもい浮かべたときの根抵に
 ある感情、あるいは感覚なんじゃないか、とおもいます。その根抵には、なんか知らないが、具
 体的な何かというんじゃなくて、なんとなく大切なものなんだ。

  しかし、その大切なものをどういうものだというふうにしてしまったら、もう、大切なものが
 どこかで壊れてしまう。ましてや、それを「価値」という言葉でいってしまったら、とても重要
 なものがそこから抜け落ちてしまうような感じがする〉ということがあるとおもいます。

  そうすると、「価値」という概念を経済学のほうにではなくて、牧歌、あるいは自然感情、ま
 たは人間の自然本性のほうにどんどん放ってしまいますと、とても漠然としたくなんとなく大切
 なもの〉というところに源泉があるとこまでいってしまいます。そこまでいってしまえば、それ
 は、ほんとの古代の素朴な牧歌といいましょうか、そういうものになっていきます。つまり、な
 にか大切なもの、しかし形がなんだかってことはいえないし、それは外にあるものなのか、ある
 いは形のない心の中にあるものなのか、それもいえないというところまで、ずうっと牧歌的なも
 ののほうに概念を放してしまいます。そこのところがたぶん、「価値」という概念の「起源」に
 あるものだとおもいます。

  スミスもやはりそういうものからつぎつぎに、感覚とか感情とかをしぼりこみ、削り落して、
 「交換価値」とか「使用価値」という経済学上の概念を作っていったとおもいます。

 ところで問題なのは、スミスがそうして「価値」概念を作ってしまったとき、すでにもう人間が
 〈なにか知らないけれど大切なものだ〉というイメージでおもい浮かべるものから、なにか重要
 なものが抜け落ちています。こぼれ落ちてしまっているのです。そうすると、こぼれ落ちてしま
 ったものは、ふたたび経済的な範躊にたいしてどこかで逆襲(復讐)するにちがいありません。
 まずアダム・スミスが『国富論』で近代的な経済概念をはじめて作りあげた、そのところですで
 に、そういうこぼれ落ちていったものが、経済学的範躊を至上のもの、いちばん重要なものとし
 てかんがえる考え方にどこかで復讐することがある。そんなことがかんがえられます。 

  このばあいこぼれ落ちた部分をもとにして、それになにか別の形をあたえていったものが、た
 とえば文学であり、絵画であり、音楽であるといえましょう。それらが経済学、あるいは経済概
 念にたいして復讐をしているのか、または調和を求めているのかわかりませんが(それはさまざ
 まなばあいがありうる)、とにかくそういう形で経済の範疇から離れていって、別の分野を作っ
 ているといえるとおもいます。

  経済的な範疇というものをかんがえるばあいに、たえず経済的な範疇からこぼれ落ちたものか
 ら何か生まれたのか、あるいは何を生み出していったのか、そしてそれは経済的な範暗にどうい
 う復讐のしかたをしたり、どういう調和のしかたをしたり、どういう分かれ方をしたりしている
 のか、ということをおもい浮かべることは大切なことのようにおもわれます。その重要さを最初
 にみごとに保存して、経済的な概念とか範疇とかが作りあげられるところで何かこぼれ落ち、そ
 して何か残されたのか、それからまた経済的範疇というものをもともと〈歌〉のほうに放してみ
 れば、どういう人間的な〈歌〉が存在したのか、そんなことをいつでもおもい出させてくれるの
 が、アダム・スミスの大きな意昧だとおもいます。

  スミスのいちばん正統的な後継者であるリカードとか、リカードの正統的な後継者であるマル
 クスになってきますと、すでに、スミスが持っていた良さ、おおらかさ、いいかえれば「起源」
 の歌をたえずおもい浮かべさせてくれる、「起源」の感情、あるいは〈歌〉の感情のほうにいつ
 でも人間を引き戻してくれる、そういう方法的な豊富さはなくなってしまいます。スミスだけが、
 たぶん最初の経済的な概念をつくりあげただけでなく、同時に、その経済的な概念の残余、こぼ
 れ落ちたもののなかに何かあるのか、どういう〈歌〉があるのかを、たえずイメージに浮かべて
 いられたのだとおもいます。それが、スミスの特徴のようにおもいます。

  このスミスの特徴は、スミスの作りあげたおおきな経済的な範躊のひとつ、たとえば「地代」
 というようなものにも、反映されています。「地代」とは何かというばあい、原始・未開の時代、
 往んでいる土地がたれのものだという区別もないし、たれかが独占している土地でもなかったと
 きをかんがえてみます。そのとき、そこに値わっている本から本の実を食べるために十個もぎと
 っていったとします。そのばあい、本の実十個の価値は、本の実を十個採るために本に梯子をか
 け、登り、そして十個もぎ採り、そしてまた梯子をおりてきて、故に入れ、というようなことを
 した。つまりそのすべての労働、その労力が木の実十個にたいして支払った「労働の量」なはず
 です。ごく自然にかんがえて、ある生産物、ある採集物、ある商品の価値と、それが労働の量で
 はかられるということの、いちばん「起源」にあるのはそういう問題です。そこである土地には
 いって木の実を十個採れば、十個採るだけの労力を使ったということだけが支払いであり、それ
 が木の実十個の「価値」に該当するもので、原始・未開の、土地がたれのものでもなかった時代
 には、掛け値なしにそのとおりでした。
 
  ところが、本の生えている土地がたれかのものになると、そうはいかなくなります。だいたい、
 〈採らしてくれないか〉とことわったり、あるいはくおたくの木の実を採らしてもらいました〉
 とかくおたくの土地にはいらしてもらいました〉とかいうことで、そのなかから本の実二個分だ
 けは土地の持ち主にやらなければならない。あるいは十個分以外にいくらかのお金を支払わなけ
 ればならない、ということになります。そうすると、土地を持っている人に、十個採ったという
 労力だけじゃなくて、ほかにお金を支払った、それがそもそも「地代」のはじまりです。スミス
 はそんな「地代」の規定のしかたをしています。

  この「地代」の規定のしかたと、同時に、ある生産物あるいは採集物の「価値」とは何なのか、
 どこからかんがえても、水の実十個を採るために梯子をかけたり、登ったり、もいだり、また梯
 子をおりてきたりという労力、つまり値った労働力の量になるというのがいちばんいい考え方だ
 ということも提示しています。そういうのがスミスの考え方で、そこにも、スミスのなかにある
 〈歌〉を感じます。そこには牧歌的な精神、牧歌的な思考方法があふれています。後代の経済学
 の高度に発達した概念からいえば、まったく素朴で、ある意味でほまちがいやすく、あるいはい
 ろいろなことを混同しているともいえるわけです。

  しかし、そうではなくて遂に、その後の経済学がすぐに喪ってしまった、ある自然感情の響き
 といいましょうか、〈自然〉と〈人間〉との関わりあいのいちばん根抵のところを保存している
 ともいえます。スミスはそれを保存しながら、経済的な概念をつくりあげているのです。

  スミスの『国富論』を読めばすぐにわかりますが、スミスはとても聡明です。そして優しく、
 それで「起源」にたいする、もとになった自然感情にたいする思いいれの部分をいつでも含んで
 います。そのくせとても緻密な論理をそのなかに含んでいます。たいへんみごとな〈歌〉をうた
 っていることが、読むもののたれにでも感じられるとおもいます。この犬きさは、ちょっと後に
 はかんがえようもないんで、文学でいえばゲーテあるいはシェークスピアみたいな巨人の面影を
 持っているとおもいます。たぶん、それはスミスだけが持っているといってもいいとおもいます。

  あとのさまざまな経済学の巨人はスミスのような意味で〈歌〉を持っていません。経済学が
 〈歌〉をうたうことができなくなってしまったという時代的な趨向もありますし、さまざまな要
 因もあるんですが、スミスのような豊かな優しい〈歌〉をうたいながら、経済学の〈概念〉を作
 りあげていった者は、スミス以降には求めることはできないとおもいます。




  Ⅱ リカードの〈物語〉

                                    〈歌〉の喪失

  商品の「使用価値」とか「交換価値」とか「地代」とか、あるいは「利潤」とか、そういうも
 のについてのスミスの考え方を、いちばん忠実に、いちばんみごとに凝縮しているのは、リカー
 ドだとおもいます。リカードにはすでにスミスの持っていた〈牧歌〉はすこしも残されていない
 ということは、リカードの主著である『経済学および課税の原理』を読みますと、すぐに感じら
 れます。リカードの『経済学および課税の原理』とスミスの『国富論』とは、ほとんど同じ世代
 で、二〇年くらいしかちがっていません。しかし、スミスの持っている〈歌〉は、リカードには
 なくなっています。リカードは、文学でいえば、〈歌〉の時代、つまり抒情詩とか叙事詩の時代
 がすみやかに過ぎ去ってしまって、一種の味気ない〈散文〉の時代にはいったことの象徴になっ
 ています。リカードになってきますと、スミスの持っていた歌声はもうなにもきこえなくなって
 しまいます。また事物は「起源」を尋ねて、その「起源」のところでかんがえることが、その本
 性を把むもっともいい方法なんだというスミスの持っていた原理も、リカードでは、すでに断ち
 切られています。

  リカードが実現したのは、スミスの概念を緻密にし、もっと整えて、構成を格段に精密にした
 ことでした。〈歌〉はすみやかに失われてしまって、味気ない経済的概念と、現実の社会の経済
 的な勤きとの照応関係をどうかんがえるべきか、という問題がリカードの主な関心を占めるよう
 になっています。これはいってみれば〈散文〉、あるいは一種の〈物語〉の時代みたいなもので
 す。リカードが使った〈物語〉の材料は、スミスとまったく同じです。ある「商品」が生産され
 るためには「土地」と「資本」と「働く者」あるいは「働くこと」が要素として必要だ、という
 スミスの考え方は、リカードでもそのまま〈物語〉を作るために使われています。その同じ素材、
 あるいは同じ概念を使って、スミスのほうは一種豊かな優しい〈歌〉をうたったわけですが、リ
 カードのほうは同じ材料、同じ概念を使って、堅苦しい、息苦しい〈物語〉を作らざるをえなく
 なった、そういうことができます。

  リカードが関心を待ったのは、たとえば、働く者の「賃金」がある量だけ上昇した。そうする
 と、資本を待っている者の「利潤」にどれだけ影響をあたえるか、どれだけ「利潤」を減らすだ
 ろうか。「利潤」を減らせば、作られた商品の相対的な「価値」にたいして影響をあたえるだろ
 〈物語〉のなかに登場してさまざまなドラマを演ずる、それは「利潤」であり、「賃金」であり、
 商品の「価値」であったりするわけですが、片方の人物がすこし弱り目になったときにはあとの
 ふたりはどうなるんだろうかといった、物語としてかんがえて、たいへん息苦しいものが主題で
 した。

  一定の〈物語〉の枠組みと登場する人物はすでにきまっていて、ただ登場する人物の三者の関
 係がどういうふうにありうるだろうか。Aなる人物が強大になったときにはBとCはどうなるだ
 ろうかとか、Aなる人物が衰えたときにはBとCはどうなるだろうかというような、〈物語〉と
 して堅苦しい筋書きを描きつけるのが、リカードの経済学の経済的な関心の主要なものでありま
 した。


                           正しい経済学的〈物語〉

  ただ、そのなかに款いがあるとすれば、リカードは何か正しいのか(「正しい物語」というの
 はおかしないい方なんで、文学のばあいに〈正しい〉とか〈正しくない〉というのはないわけで
 すけども、経済学のはあいにはもしかするとそれがあるかもしれないので)つまり正しい経済学
 的物語はどういうものを指しているのかについて、リカードはじぶんなりの考え方を持っていま
 した。リカードの堅苦しい〈物語〉のなかで、そこに款いがあるといえばいえるとおもいます。
 
  たとえば「地主」と「資本家」と働く「労働者」という三者がいるとすれば、三者がどういふ
 うに会ったときにいちばん正しい〈物語〉といえるかといえば、三者が同じ「労働の量」に当す
 るだけの「価値」の分け前を受け取る形がとれたときです。この原理や哲学がリカードのいちば
 ん大きな〈理念〉です。つまりこの〈理念〉が、わずかに、堅苦しい経済学の〈物語〉にひとつ
 の人間らしさの糸口を与えているということができます。

  リカードは、スミスの経済的な概念を緻密にして、ほんとうの意昧での経済の学の諸概念の基
 礎を作りあげた人だとおもいます。しかし堅苦しくて、スミスが持っていた〈歌〉とか大きさと
 か豊かさとかいうものは、すでにリカードのなかにはなにもなくなってしまっています。そうい
 うことをかんがえますと、それはたいへん目の詰まった、抜け目のないことをかんがえざるをえ
 なくなっている社会的な現況とか、状態をたいへんよく反映していたとおもいます。経済学の
 「起源」にある「三大範疇」が、どういう分け前の受け取り方をしたらいいかというばあい、平
 等な「労働量」に該当するだけの「価値」の受け取り方をすることがいちばんいい、公正な受け
 取り方です。それが経済学が現実の経済的な動き、あるいは社会的な動きにたいしてなにかいえ
 ることがあるとすれば、そういうことです。そのことを、とても素朴な、堅苦しい緻密な概念を
 作りながら、はっきりさせていったのが、リカードがやったいちばん大きな仕事でありました。

  この仕事は、まったく〈散文〉的な、あるいは〈物語〉的な仕事で、この〈物語〉がうまく作
 られたからといって、現実がそのとおりになるわけではないのですが、現実がもしゆがめられて
 いたら、それを映す一種の鏡として、こういう形の〈物語〉が欲しい、現実にもそう展開される
 のがいちばんいい〈物語〉なのだ、ということを、リカードは、スミスの経済概念を緻密にしな
 がらはっきりさせていったといえましょう。そこが堅苦しさのなかでの款いではなかったかとお
 もいます。 

                                          第一部 吉本隆明の経済学

                                     (この項続く) 


● メルケル首相安倍首相と会談 過去総括、和解の前提

安部晋三首相は9日、首相官邸で来日中のドイツのアンゲラ・メルケル首相と会談。両首脳は混迷す
るウクライナ情勢への対応で連携することを確認したほか、両国経済の関係強化を目指すことでも一
致。メルケル首相は歴史認識についても触れ、会談後の記者会見では「過去の総括は和解のための前
提になっている」と語ったという。この中で東アジア情勢が取り上げられ、安倍首相が北朝鮮による
拉致・核問題などを説明した。メルケル首相は、東アジア情勢について「アドバイスする立場にない」
と前置きしたうえで、ドイツが戦前のナチスの行為を透明性を持って検証した経緯を紹介。会談後の
記者会見で、メルケル首相は「(ナチスドイツの)過去の総括は和解の前提になっている。和解の仕
事があったからこそ、EU(欧州連合)をつくることができた」と述べ、地域の安定には和解の努力
が不可欠であるとの認識を示したという。また、ウクライナ情勢について両首脳は、親ロシア派と停戦合
意したウクライナの平和と安定のため、積極的な役割を果たしていくことで合意。「力による一方的な現状変更
は許されない」との立場を確認する一方、平和的解決に向け、ロシアとの対話を継続する方針でも一致したと
も。

「侵略戦争」も容認しない政治委員グループだから和解も、また「原発推進」からの転換も難しいと
いうのがわたし(たち)の見解だ。ドイツは「ウクライナ紛争の平和解決」が中心で、武力介入する
ロシアへの牽制(あるいは、武力対決を主張する米国へも)がメインテーマであるからこの問題も微
妙(北方領土返還)な立場にある。ところでメルケルはロシア語が堪能である(彼女の経歴参照)。


●  高橋洋一  賃金が上昇するのはGDPギャップ解消の半年後 

完全雇用失業率が3~3.5パーセントであれば、最近のGDPギャップ拡大は消費増税が原因。ただし
見解が分かれる。金融政策効果が発揮されずに、実体経済への影響後、インフレ率と失業率に波及す
る時間差――インフレ率も失業率と、GDPギャップから半年程度のラグがある――インフレ率が2
パーセントに達しないと実害はないだろうとのこと(ダイヤモンドオンライン「」2015.03.06)。急
激なインフレが1年以内にインフレ率5パーセントは考えられないし、下図のGDPギャップとイン
フレ率からみると、GDPギャップがプラスになっても、インフレ率の上昇はない傾向がある――と
の結論はわたし(たち)た同じ立ち位置にある。

 


● 日本型富の偏在とは? 



森口千晶一橋大教授は、日本では所得上位10%にあたるのは年収580万円以上で、1990年代
以降、その層が国民所得に占める割合が増えているとの試算した。10日発売の中央公論に掲載され
る。森口教授は、格差問題を論じたベストセラー「21世紀の資本」の著者、仏経済学者トマ・ピケ
ティ氏と共同研究している。試算によれば、年収750万~580万円の層で、所得上位5~10%
に相当する。所得上位10%の中でも、特に上位1%が国民所得に占める割合が集中している米国と
は、格差の構造が異なる。日本の場合、所得上位1%は年収1270万円以上だ。 ピケティ氏は、
日本も所得上位10%の層が国民所得に占める割合が増えていると主張していた。中央公論で森口教
授と対談した大竹文雄阪大教授は「すごい金持ちが増えていないが、日本では非正規雇用の増大や、
勤続年数によって賃金が増える年功賃金の影響があるなどと指摘したという。このことはもっと世界
に発信してもいいのでと考えるが如何に? もっとも(1)リフレ政策、(2)所得税の累進制の是
正、(3)税の完全補足(マイナンバー制導入/歳入庁創設)の早期実施に(4)高い付加価値労働
の促進の4原則堅持との立場は揺るぎない。^^;。

 

● 今夜のアラカルト 韓国風葱パンケーキ


最後にエゴマ油を少し振りかけ、疲れた脳神経を癒し戴きましょう。


フォクスピーツウとブローカ野

$
0
0

 

 

 

周知の通り、燃料電池発電システムは、燃料である水素と酸化剤である酸素とを電気化学的に反応さ
せ直接電気を取り出す。このシステムは(1)高い効率で電気エネルギーを取りだせ、(2)静かで
(3)有害な排ガスを出さないという環境性に優れた特徴をもつ。最近では小型のPEFC(固体高
分子形燃料電池)が開発加速し、家庭用燃料電池発電システムが開始され普及。この家庭用や小規模
事業用向けの比較的小型の燃料電池発電システムは、電力と発電に伴う排熱を供給する熱電併給、い
わゆるコージェネレーション装置とし使用される。現在は、都市ガスやLPガス、灯油などの炭化水
素系燃料により発電する燃料電池発電システムを中心に開発、商品化が進み、将来的には水素供給基
盤整備の計画あり、水素循環型社会到来すると考えられ期待される。

今月9日に、東芝燃料電池システム株式会社らのグループは、次世代型の純水素型燃料電池を山口県
周南市内の徳山動物園と周南市地方卸売市場に設置し、21日から実証試験を順次開始すると公表。
このシステムは、た出力700ワット純水素型燃料電池で世界最高水準の50%超の発電効率を実現。
また、水素をそのまま燃料とするため二酸化炭素を全く発生せず、1~2分という短時間で発電を開
始することが可能。耐久性は8万時間(連続運転で約9年)だという。東芝燃料電池システム社では、
エネファームの発電効率が40%程度であるのに対、純水素型は水素をそのまま燃料に利用できるた
め50%を超える。2015年度中にも発電効率を55%まで引き上げる計画と話す。

家庭などの小規模事業用向けの燃料電池発電システムは、電力発電に伴う排熱を供給する熱電併給、
いわゆるコージェネレーションシステムとして使用される。このようなコージェネレーションシステ
ムでは、発電に伴う排熱は、貯湯タンクに蓄え、給湯や暖房に使用されているが、アノード排ガスと
カソード排ガスをボイラーで燃焼させ、貯湯タンクに熱回収システムでありた、都市ガスやLPガス
、灯油などの炭化水素系燃料により発電する燃料電池発電システムにおいて、貯湯タンクに蓄えられ
ている排熱量が不足している場合には、補助熱源器として備えているバックアップボイラーに炭化水
素系燃料を供給して、不足する熱を補う方法が一般的であるが、水素循環型社会では、バックアップ
ボイラーに供給する炭化水素系燃料を使用しないことが前提となる(下図参照)。

特開2011-054515 純水素型燃料電池システム


【符号の説明】

1…燃料電池パッケージ、2…燃料電池本体、41…燃料極、42…空気極、43…冷却流路、3…
空気フィルター、4…ブロワ、5…燃焼器、6…冷却水熱交換器、7…燃焼排ガス熱交換器、8…凝
縮器、9…排熱回収水ポンプ、10…電池冷却水ポンプ、11…燃料極入口遮断弁、12…燃料極出
口遮断弁、13…空気極入口遮断弁、14…空気極出口遮断弁、15…燃料極排気流量調整弁、20
…第1燃焼排ガス遮断弁、21…第2燃焼排ガス遮断弁、22…給湯加熱用熱交換器、23…燃料極
バイパス配管、24…燃料極バイパス遮断弁、25…燃料極バイパス配管流量固定オリフィス、26
…燃焼空気供給ブロワ、27…第2燃焼器、28…空気極バイパス遮断弁、31…貯湯ユニットパッ
ケージ、32…貯湯槽、34…給湯水温度調整三方弁、35…第1給湯配管、36…第2給湯配管、
37…排熱回収水温度計、44…水素供給源、45…水素供給配管、46…排熱回収水ライン、47
…空気供給配管、48…空気極バイパス配管、51…制御器、61…共用熱交換器

上図によると、外部の水素供給源44から純水素を供給されて電気および熱を外部に供給する純水素
型燃料電池システムに、燃料電池本体2と、水素供給源44から燃料電池本体2に延びる水素供給配
管45と、貯湯槽32と、貯湯槽32に熱を供給する排熱回収水ライン46と、排熱回収水ライン46
を流れる水に燃料電池本体2で発生した熱を伝達する冷却水熱交換器6と、貯湯槽32に貯えられた
水を外部に供給する給湯配管35,36と、水素を燃焼させる燃焼器5と、水素供給源44から燃焼
器5に延びる燃料極バイパス配管23と、給湯配管35,36を流れる水に燃焼器5の排ガスの熱を
伝達する給湯加熱用熱交換器22と、を備えた構造で、熱供給不足となる可能性を低減する新規考案
である。
 

  

 

● 『吉本隆明の経済学』論 21 

   吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!    

    吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも
 異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったその
 思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何か。
 資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫る。  

  はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 第4章 労働価値論から贈与価値論へ
 第5章 生産と消費
 第6章 都市経済論
 第7章 贈与価値論
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき    

                                                       第1部 吉本隆明の経済学   

  第4章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」 

  Ⅰ.経済の記述と立場 スミス・リカード・マルクス

    Ⅲ マルクスの〈ドラマ〉

                             対立の〈ドラマ〉

  リカードは、スミスが作りあげた経済的な〈概念〉をぜんぶ緻密に抜け穴のないように作りあ
 げてしまったのです。リカードが作りあげたものは、そのままでは、一種の現実の〈鏡〉として、
 これがいちばんいいんじやないかということを語っただけです。つまり〈物語〉としての〈鏡〉
 を提出したにとどまるといえます。しかし、リカードのいちばん忠実で正統な後継者であったマ
 ルクスが、こんどはリカードの〈物語〉にたいして、たとえていえば同じ経済学的な概念を使い
 ながら、〈ドラマ〉を打ち立ててみせたといえるとおもいます。

  マルクスの〈ドラマ〉の主要なテーマははっきりしています。それは、社会の経済的な範躊、
 あるいは経済的な過程というものは、自然の歴史の延長線にあるという考え方(それがいい考え
 方であるか、欠陥のある考え方であるか別として)です。これがマルクスの描いた〈ドラマ〉の
 枡組にある考え方です。社会の経済的な範躊は自然史の延長と同じなんだ、つまり、太陽のまわ
 りを地球が動くいているとか、地球上にはこれこれの元素があって、それがだんだん水素からさ
 まざまの過程を経て作られてきたものなんだ、というのと同じ意味で、まったく自然の過程の延
 長線に社会の経済的な過程が産みだされたという理念です。これがマルクスが描いた〈ドラマ〉
 の根本的な原理になっています。

  ですから、スミスが持っていた「価値」(「使用価値」あるいは「交換価値」)という概念も、
 マルクスはもっと緻密にしています。「価値」概念の出どころ、「労働」概念の出どころは何か
 といえば、根本的にいってしまえば、人間と人間以外の自然とのあいだの物質的な代謝関係です。
 人間は頭とか神経とか筋肉とかを使って身体を動かして何かを作ってるわけで、作ったものが
 「商品」として取引きされていきます。それは、いってみれば人間と自然の物質代謝(あるいは
 物質交換)なんだ、それは基本的に「価値」概念と「労働」概念の根抵にあるものだ、というこ
 とがマルクスの〈ドラマ〉でいちばん有力にかんがえられている原則です。

  マルクスが、根抵的に経済的な〈ドラマ〉の中心としてかんがえた「対立」という概念があり
 ます。人間が手を加え労働を積み重ねることで作りあげた「商品」は、スミスのいった「使用価
 値」とか「交換価値」というような「価値」の概念で眺めたばあい、このふたつに分裂するもの
 だ、とマルクスはみなしました。そのあげくは対立するにいたるというのがマルクスの〈ドラマ〉
 の基本的な概念です。

  それはどういうことかといいますと、マルクスは「価値」の概念を「等価概念」と「相対的価
 値概念」とに分けました。すべての「商品」は、そのときどきの役割で交換のはあいに「相対的
 な価値形態」となるか、あるいは「等価形態」となるか、どちらか、あるいは両方に分裂するも
 のだ、分裂して、そのふたつが葛藤するものだとかんがえたのです。簡単な例をあげてみます。

 スミスもマルクスもあげている例でいいますと、麻布があって、一反の麻布の「価値」は一着の
 上着に該当する、とかんがえたばあい、麻布のほうが「相対的な価値形態」なんだ。その「価値」
 は上着一着に該当する、というふうに役割をかんがえたばあい上着に該当するのが、「等価的価
 値形態」だといいます。逆にこんどは、一着の上着の「価値」は一反の麻布に等しいというばあ
 い、上着が「相対的な価値形態」であり、麻布が「等価形態」ということになります。

 マルクス流のいい方をしますと、「相対的な価値形態」というのは、能動的・積極的な形態で、
 それにたいして、「等価形態」は、消極的な、受動的な受身の形態だ、ということです。しかし、
 すべての「商品」は、まっぷたつに、相容れないふたつの価値形態にかならず分割することがで
 きますし、その分割されたものはけっして混同されることはなく、いわばそれが葛藤・ドラマを
 演ずるということが、マルクスの作りあげたいちばん重要な概念だとおもいます。





  このマルクスの〈ドラマ〉の概念を、現代言語学の基礎に据えたのがソシュールです。ソシュ
 ールは、「相対的価値形態」に当るものを「意味するもの」、「等価形態」に当るものを「意味
 されるもの」あるいは「概念」(ソシュール流のいい方をすれば一種の「聴覚映像」です)とか
 んがえました。ですから、「価値」の〈ドラマ〉を演じている「商品」の形は、記号としての言
 語が、社会のなかで流通しているしかたとまったく同じようにかんがえることができるとしまし
 た。そういうことが、ソシュールがじぶんの言語学を作りあげていった最初の起点になっていま
 す。起点になっていると書かれてあるわけではありませんが、ぼくはそうおもいます。ソシユー
 ルはじぶんの言語学をどこから持ってきたのかといえば、マルクスの『資本論』からだとぼくは
 おもっています。

 マルクスが経済的な〈ドラマ〉のいちばん主要なものとかんがえた商品の「相対的価値形態」と
 「等価形態」への分割の〈ドラマ〉には言葉が商品とおなじように演ずる〈ドラマ〉が秘されて
 いることを見つけて、ソシュールはじぶんの言語学の骨組を把んだのです。

 ついでに申しあげますと、ぼくは『言語にとって美とはなにか』の言語概念をどこから作ったか
 といいますと、おなじくマルクスの『資本論』から作りました。ぼくは、「価値形態」としての
 「商品」の動き方は、言語の動き方と同じなんだと、かんがえたのです。そして、ぼくはどこに
 着目したかというと、「使用価値」という概念が、言語における指示性(ものを指す作用)、そ
 れから「交換価値」という概念が、「貨幣」と同じで、万人の意識あるいは内面のなかに共通に
 ある働きかけの表現(自己表出)に該当するだろう、とかんがえたんです。言語における「指示
 表出」と「自己表出」という概念を、「商品」が「使用価値」と「交換価値」の二重性を持つと
 いうところで、対立関係をかんがえて表現の展開を作っていきました。

  そこでぼくの考え方はいい考え方だ、と今でもおもっていますが、残念ですが、たとえばソシ
 ュールとぼくと較べたら、能力とか緻密度が格段にちがうのです。ですから、ぼくはそれをよく
 展開しきれなかったんだとおもいます。それから、ぼくの『言語にとって美とはなにか』に凝縮
 された言語的な概念の展開のしかたに、あんまり魅力がなかったんだとおもいます。ですから、
 現在、皆さんがご承知のとおり、世界の語秀才はぜんぶソシュールの学徒になっているといってい
 いくらい、隆盛をきわめています。しかし、根本的な言語の「価値」概念、あるいは言語の
 〈美〉の概念を作りあげていく最初の考え方として、すくなくとも文学言語についてならば、今
 でもじぶんの考え方のほうが機能主義的でなくてよろしいとおもっています。残念ですが、あま
 り魅力がないものですから、たいしたことはないところで終わっているといっていいとおもいま
 す。

 
                          マルクスの達成とマルクス批判

  マルクスの描いたもっともおおきな経済的な〈ドラマ〉が、商品の価値形態が「相対的価値形
 態」と「等価形態」とにまっぷたつに割れて、両者の対立・葛藤が、経済的な〈ドラマ〉の主要
 な物語なんだという概念です。このふたつの葛藤が、社会の段階が進んだらどうなって行くだろ
 うか、とかんがえたのが、マルクスの『資本論』に該当するのです。

  マルクスの『資本論』は、リカードの〈散文物語〉に較べれば〈ドラマ〉に匹敵します。この
 〈ドラマ〉は緻密で、そしてある意味でやりきれないほど息苦しくなっているのです。なぜかと
 いいますと、すでに〈軟〉が失われてから散久しい年月が経っているということがありますし、
 スミスの時代に較べてマルクスの時代は、いわば資本主義の勃興期で、しゃにむに恣意的な経済
 競争をめざして、富む奴は極限まで富み、さきほどの三人登場人物でいえば、働いて報酬を得る
 人間がどんどん貧困になっていく情況にさらされました。

 もうひとつは、スミスの描いた「分業」という概念の牧軟性は、もうはるかに遠くなって姿を失
 うほど細分化と膨化かすすんだ時代に入ってしまったのです。そこでは、抜け遠を作ろうにも作
 りようがなくなってきますし、経済的な〈牧歌〉をうたおうとしても、経済学の範囲では〈歌〉
 をうたうことがもうできなくなります。マルクスの詰め方は緻密でみごとな詰め方ですし、マル
 クスが作っている「相対的な価値形態」と「等価形態」という概念の作り方も目覚しいのですが、
 どうすることもできません。

 マルクスは、すべての事物は同一でなければ差異であるというヘーゲルの作りあげた緻密な弁証
 法論理の体系を縦横に駆使していて、なかなか異論をはさむことができないほどです。とてもみ
 ごとな〈ドラマ〉なんですが、〈歌〉はすでにないわけです。

  この〈歌〉のなさということが、マルクスの経済学と、『資本論』以降現在に至るまで、マル
 クスの考え方の系統を踏む経済的な考え方にとっては、さまざまな意味で反撃をうけているとこ
 ろです。つまりマルクスの経済学には〈ドラマ〉はあるけれども〈歌〉がなくなっちやっている、
 それは致し方ないんだ、というような問題が、さまざまな意味あいで問われているのだといえま
 す。

  リカードの〈散文物語〉にたいして、マルクスの〈ドラマ〉がもうひとつやりとげたことを挙
 げてみますと、ただひとつだとおもいます。

 リカードが(アダム・スミスもそうですけども)、すべての分配の仕方は、それを作るために加
 えた「労働の量」の割合で分けられる、という考え方をしましたが、この「労働の量」という考
 え方を、マルクスは「労働の時間」というふうに変えることができたとおもいます。どうしてで
 きたかといいますと、分業があまりに緻密化し、膨大になっていったために、Aという分業にた
 ずさわることと、Bという分業にたずさわることと、Cという分業にたずさわることとは、分業
 の極限に達したとみなせば、区別しなくてもいい、ということに帰着します。スミスの概念では、
 動物とちがって人間は、それぞれに役割を果たし、専門化して分かれて、それぞれを補いあうこ
 とができるんだ、というのが「分業」概念の「起源」たったわけです。

 マルクスの時代にいたってば、分業があまりに微細化され、あまりに微細化されたため、いって
 みれば、Aという分業とBという分業を取り換えたって同じだ、ということになったのです。な
 ぜなら、あまりに細分化されれば、ぜんぶが均質だとみなしてもあんまりまちがわないからです。
 そうすると「労働の量」をいう必要はもうないので、「労働の時間」といえばいいことになりま
 す。つまり「労働の時間」が、できあがった商品の「価値」を決定する大きな要因なんだ、とマ
 ルクスはいい換えることができたのです。

  リカードにくらべてマルクスの時代がはるかに分業が発達し、細分化し、膨大になったという
 ことがそういわせたわけです。リカードの考え方をもっと追いつめて、人間が難しい仕事を1時
 間するのと、易しい仕事を1カ月するのとくらべると労働の「量」は、難しい仕事を1時間する
 ほうが多いんじゃないか、みたいな疑問はいたるところに存在するわけです。それにたいしマル
 クスは、そうじゃない、ひとりの個人のなかでそういうことはありうるけれど、つまり、難しい
 仕事を1時間やったときのほうが、易しい仕事を1カ月やったよりずっとくたびれたよとか、ず
 っと苦労したよ、ということは、個人個人の主観のなかではありうるけど、全般的な社会過程で
 微細な分業が行われ、細分化がすすみ、膨大な商品が作られるところでは、そういうことをいう
 必要はないので、もうただ「時間」をいえばいいことになります。「時間」が1時間かかってで
 きたものと、2時間かかってできたものとは、2倍の「価値」のちがいがあるんだ、といえばい
 いんだということを、マルクスははっきりさせることができたのです。それがもうひとつ、リカ
 ードの〈物語〉にくらべてマルクスの〈ドラマ〉が、抽象化・均一化を、いちだんと進めたゆえ
 んだとおもいます。

  マルクスの考え方は現在、さまざまな批判にさらされています。その批判は主としてどういう
 ところから起こっているかといいますと、スミスがはじめ経済学的な範躊としてかんがえた、
 「働いて賃金を得る者」という概念(労働者という概念)は、けっしてなまのままの労働者(つ
 まり社会的な労働者)という意味ではなくて、経済学的な範躊としての労働者なんだ、というこ
 とです。マルクスの労働者という概念には、しばしば経済的範躊の労働者と社会的な労働者との
 混同が起こっている、という批判のされ方がありえます。マルクスの「労働価値」概念と、実際
 に具体的な現実の市場での商品の価格とのつながりがうまくいかないという批判のされ方もあり
 ます。

  こういう批判のされ方の根抵にあるのは何かといいますと、いってみればマルクスの〈ドラマ〉
 が〈歌〉を喪失したということ、否応なく喪失してしまったところで作られた〈ドラマ〉であっ
 たということを、問いただされているんだ、といえばいえなくもないとおもいます。マルクスの
  作りあげた「価値」概念とか、経済学的な範躊にたいするあらゆる批判は、そういうところから
  起こっているので、いってみれば、その〈ドラマ〉には、自然の〈歌〉がもう聞こえないじやな
 いか、自然の〈歌〉はどこへ行っちやったんだ、という問題、あるいは自然の〈歌〉とその〈ド
 ラマ〉とのつながりは、いったいどうなるのか、あるいはそのあいだの空隙はいったいどうふう
 になっているんだ、ということです。

 マルクスの経済的な〈ドラマ〉にたいする批判の根抵にあるものはそれだとおもいます。その根
 抵にある問題は、最初にたぶんスミスが持っていたへ歌〉が、どこで失われ、どこでそれが回復
 できないのか、あるいは緻密化か進んだということで、それは回復できないのか、という問題と
 大きくつながっているとおもいます。


                                          第一部 吉本隆明の経済学

 


吉本が言語論と資本論との二重性をイメージし経済学を論じることの"正統性"が、ホモサピエンスの
進化生物学から――人類の心と行動を進化させた要因に(1)レイモンド・ダートの狩猟仮説や『ヒ
トは食べられて進化した』ドナ・ハートとロバート・サスマンらの捕食回避説があり、(2)デニス
・ブランブルとダニエル・リーバーマンの「腐肉食動物説」、あるいは、(3)はニコラス・ハンフ
リやロビン・ダンバーの「社会脳仮説」やスティーブン・ミズンの「心のモジュール説」があり(4)
二足歩が頭蓋骨を変化させ、頸部下部の声道や喉頭構造などが第二の進化と評される『言語の発達』
がブローカ野の拡張など――も支持されるかのようである。また、第7染色体の文法能力 を含む言語
発達との関連が示唆されているFOXP2遺伝子は、近年、自閉症と遺伝子は関係ないとの見方を覆す、あ
る事例報告され、言語機能獲得の意味でも。FOXP2が自閉症と関連しているという仮説が議論されてい
る。ここまで読み進め、ふと、"生命力の奇跡"を考えさせられ、これらのことも視野に入れ執筆され
たているのだと自分勝手におもった次第。ますます、面白くなりそうだ。






                                     (この項続く) 

  ● 旬なランチ 天麩羅うどん

ルームランナーのメニューを少し負荷をかけ、最大斜度6度、最大速度を毎時6.5キロメートル変
えたら、腰痛気味で、コルセットを着用する始末。それでも、雪が舞う朝は、メニューを6キロメー
トルに戻し室内ウォーキング。昼は、天麩羅うどんを戴き、午後からは作業の手を止め、スウィート
マジジョラーとタイプの2種類のハーブの種まきを行う。天麩羅うどんに旬な野菜を入れれば美味し
く戴けるが、衣の温度を冷蔵庫に入れるなどして低くする、かき混ぜすぎない、粘り気のルテンを作
らないようにするのが肝、天ぷら油は170~180℃が最適。雪の降る寒い日は格別。

 

 

集中から分散へ。

$
0
0

 

 

 

● 癌を匂いで早期発見できる?!

がんは、日本人の死因第1位で、医療費や早期死亡による経済的影響は数兆円(世界では百0兆円)
であり、がんの解決に早期発見が最も有効であり、手軽に安価に高精度に早期がんを診断できる技
術が期待されていた。このほど、九州大学大学の味覚・嗅覚センサ研究開発センタの研究グループ
(広津崇亮助教ら)は、がんの匂いに注目し、線虫が尿によって高精度にがんの有無を識別するこ
とをつきとめたという。この技術(n-nose)が実用化されれば、尿1滴でさまざまな早期がんを短
時間に安価に(教百円)高精度に(約95%)検出できるようになる。

※ がんによる死亡者数は全世界で年間820万人(2012年)、2030年には1300万人に増加すると言
  われ(WHO)、医療費や早期死亡、障害における経済的影響は百兆円にも上ると報告されて
  いる。我が国ではがんの影響はより深刻であり、1981年から死因第1イ立で、2人に1人がが
  んを経験し、3人に1人ががんにより死亡する。がんの医療費は年間3.6兆円(2011年) に
  も上る。 

がん患者には特有の匂いがあることに注目し、虫は、嗅覚受容体を約1200種(犬と同等)有する嗅
覚の優れた生物であり、匂いに対する反応も走性行動(回)を指標に調べることができる。まず、
がん細胞の培養液に対する線虫の反応を調べ→がん細胞の培養液に誘引行動を確認(下図)→がん細
胞に特有の分泌物の匂いに対して線虫が反応→血液等に比べ、尿尿に注目し、がん患者の尿20検体、
健常者の尿10検体について線虫の反応を調べ全てのがん尿には忌避行動があることを確認できたと
いう(図2)。

 

これは凄い発見ですね。 

   

● 『吉本隆明の経済学』論 22

    吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!     

    吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも
 異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったその
 思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何か。
 資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫る。  

   はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 第4章 生産と消費
 第5章 現代都市論
 第6章 農業問題
 第7章 贈与価値論
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき     

                                                       第1部 吉本隆明の経済学    

  第4章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」  

  Ⅰ.経済の記述と立場 スミス・リカード・マルクス

     Ⅳ 古典経済学の可能性

  現在の経済学的な範躊、あるいは概念は、たぶん〈物語〉も〈ドラマ〉もなくなっているんじ
 ゃないかとおもわれます。そこではさまざまな考え方がありうるわけですが、かつてスミスが自 
 然の〈歌〉から緻密に経済学的な範晴、あるいは概念を作りあげていったというような過程を見
 ることができません。そういう過程にある、強固さとか、道具を積み重ねる繊密さとかはまずま
 ず見ることができないのです。今はどうなっているのか、今をどうするのかとか、今の状態から
 経済学的な範瞬を作るとすればどうなるか、という問題だけではじまり、そしてそれで終わらな
 ければいけない、終わるはかないんだということです。そこでは、どんな〈物語〉も〈ドラマ〉
 も、もう作ることができません。そこに、現在の経済学的な考え方がぶつかっているとおもいま
 す。

  また、マルクスの〈ドラマ〉を継承しようとしている人たちは、マルクスの〈ドラマ〉が、ど
 うして、どこで狂ってしまったのか、どこで自然の〈歌〉を失ったことの復讐を受けつつあるの
 か、ということについて、もはやあんまりかんがえることができなくなっているとおもいます。
 そこでは〈ドラマ〉の自家中毒みたいなものが起こっていて、いつでも外に出ていくことができ
 なくてくすりこみ〉の循環ばかりしていることになっています。そこらへんのところで、マルク
 スの描いた〈ドラマ〉がいちばん大きな問題にさらされているんだとおもわれます。

  スミスとかリカードとかマルクスとかという人たちは、古典経済学といわれている範暗にあり
 ます。ところで、古典経済学という範暗は唯一の範暗ではないんで、さまざまな形の経済学的な
 主張、あるいは学説があるのですが、ぼくはこのスミスとリカードとマルクスの三者の三角形の
 あいだで作りあげている〈歌〉と、〈物語〉と、〈ドラマ〉と、それから〈歌〉の喪失と〈ドラ
 マ〉の運命、つまり、〈ドラマ〉が〈歌〉を失ったことから何を受難しているのかということを
 おもいめぐらすことが、経済学以外の範囲にあるものにとっていちばん刺激になる場所です。皆
 さんのばあいでも、たぶんここが刺激を受けるところだとおもいます。ここには根抵的な考え方、
 つまり「起源」あるいは発生論的な考え方も生きており、〈物語〉も、また〈ドラマ〉もありま
 すから、ここからさまざまな別の問題を引き出していく実りのある素材が、豊富に見つかります。
 じぶんもそうですけど、皆さんのほうも何度でもこの三つのつくる三角形から、汲み取って、じ
 ぶんの分野にひきつけて何か作れないか、思いをめぐらせることができるような気がします。
 
  たとえば、ぼくらは文学をもとにして文学を作ることもできますし、文学の歴史を確かめて文
 学の現状を見直すこともできます。もうひとつのやり方は、全然それとはちがうところに、ある
 横根的な考え方の原型があるとしますと、その原型を、じぶんなりの読み方をして、そこからあ
 ることを汲み取っていくという考え方も、また成り立ちうるのです。ぼくはじぶんの〈言語〉の
 美についての考え方を作りあげるばあいに、そういうことでマルクスの『資本論』からたくさん
 のことを得てきました。これはぼくだけじゃなくて、もっと較べものにならない優れた人ですが、
 ソシュールなども、マルクスの『資本論』からたくさんの言語学的な範躊を借りてきているとお
 もいます。だから、現在、言語学の検討をなされるばあいでも、もちろん言語学の著書によって
 もいいわけです。

 しかし、その著書によるばあいには、現在の言語学の言語は具体的には民族語ですから、ソシュ
 ールの言語学にはどうしてもインド=ヨーロッパ語をよく知っていないとうまく把めないところ
 があります。そこにいきますと、経済学的な範躊にはそういう特殊性がありません。言語学の概
 念を作りあげていくばあいでも、ドラマはどうやったら作れるんだ、あるいは戯曲を書くにはど
 うしたらいいんだということを作りあげていくばあい、あるいは、小説を書くにはどうしたらい
 いかということを作りあげていくばあい、あるいは歌はどう作ったらいいんだ、詩はどう作った
 らいいんだということをかんがえていくばあいでも、経済学のなかでは概念が民族語によってさ
 えぎられることはありませんから、ここから類推していかれると、たくさんの得るところがある
 んじゃないかとかんがえます。

  じぶんの体験から、それをいうことはできますし、また、じぶんがこれからやろうとすること
 にたいする、一種のヒントといいますか、そういうことからもそういうことがいえるんじゃない 
 かとおもいます。だから、皆さんのほうでも、「起源」を包括した、スミス、リカード、マルク
 スの経済学的な範躊からたくさんのことを得られるとおもいます。もし今日お話したことを機縁
 に、〈もう一回ちょっと見てみよう〉みたいな気を起こされることがありましたら、ぼくのお話
 した役割は果されるわけです。簡単ですが、時間がきたようですから、これで終わらせていただ
 きます。



  第4章 生産と消費

  解説

   1980年代の日本社会は、いよいよ成然した消費社会に入っていった。生活のために
   どうしても必要な「必需的消費」にたいして、外食や高級車や新型電化製品やファッショ
   ンなどにたいする「選択的消費」の家計の中で占める割合が、いちじるしく拡大していっ
  た。欲望の末端の微妙な違いに対応できる商品の多様化も進んだ。「欲しいものが欲しい
   わ」という広告が象徴しているように、消費資本主義はもはや欠乏をドライブとする社会
   ではなくなってきた。

   こういう段階に入った資本主義にたいしては、マルクスが『資本論』で与えた解明だけ
  では不十分になってしまった。近代経済学者の中にも、シュムペーターやハイエクのよう
  な少数の例外を除いては、消費資本主義の本質に触れることができている人は、ほとんど
  いなかった。そういうときにフランスの哲学者ボードリヤールだけが、「生産ではなく消
  費」という視点から、現代批判の論陣を張っていたが、それとても伝統的な左翼言説の限
  界内にあるように感じられてしかたなかった。誰かが消費資本主義に関する新しい『資本
  論』を書かなくてはいけなかったのだが、それを引き受けることのできる力量と情熱をも
  っていたのは、世界中で吉本隆明ただ一人であった。

   マルクスが知っていた資本主義では、「生産は同時に消費である」という命題によって、
  生産と消費の過程をほぼまんべんなく説明することができた。物の生産がおこなわれると
  き、労働力・設備ふ原料がまったく遅延なしに消費されていく。仕事を終えた労働者がレ
  ストランで食事をすると、労働で消費された体力や気力が再生産され元気が取り戻される。
  これらの場合、消費は必需的消背たけでできている。

   ところがウォークマンを買って仕事帰りの電車の中で好きな音楽を聴くことや、コム・
  デ・ギャルソンのデザインしたおしゃれな洋服を着ることや、エスノフードのレストラン
  を選んで食事をしたことで、「すぐさま」なにかの生産がおこなわれるわけではない。こ
  こでは消費がただちに身体の生産や生活の生産に結びついていく必需的消費の場合とちが
  って、時間や空間のずれ(遅延)が発生して、生産と消費の分離がおこっている。選択的
  消費では「生産にたいして大なり小なり時空的な遅延作用をうけることになる」。これが
  吉本隆明のじつにすぐれた着眼点だった。

   この「遅延」という概念を自在に使って、吉本隆明は現代における生産の現場にも大胆
  に踏み込んでいった。製品の多様化が進むと、部品も多様化し、その生産を受け持つ下請
  け工場の作業も細分化され、そうやって分化をとげた末端産衆評を巨大なネットワーク状
  につないでいく高度な組織がつくられる。こうやって消費資本主義は産業全体を高度化し
  ていく潜在力をもつことになる。
  
   とてつもなく強力な批判精神が、資本主義が高度化に向かって変貌をとげていくその「
  自然史過程」に強力にポジティブな解明をほどこした。動物は消費だけをおこない、人間
  だけが生産する。このような常識が覆されるような段階に、いまや資本主義は足を踏み入
  れているのである。


   Ⅰ エコノミー論

    1

     i  


  わたしたちが思いおこすあのふるい自由の規定は、現実が心身の行動を制約したり疎外したり
 する闇値のたかい環境のイメージといっしょに成りたっていた。こんな過去形をつかうのはそれ
 ほど深刻な意味からではない。ふるい自由とあたらしい自由という規定を、1960年代から1
 980年代のどこかで転換したイメージとしてかんがえたいからだ。そんな程度の気分からだ。

 わたしたちが現に実感している自由の規定は、現実は心身の行動をうすめ埋没させてしまうとい
 う環境のイメージといっしょに成りたっているものだ。ふるい自由のように制約や疎外を実感で
 きないので、まったく恣意的に振舞っていいはずなのに、と惑っているのだ。ほんとはちいさく
 部分的な制約や疎外でしかないものを、膨大に誇張して、いやまだ深刻で人類の運命にかかわる
 制約や疎外はあるとみなして、虫めがねをたずさえて探しあるき、世界苦のたねを発見しなくて
 はならなくなっている。発見できなかったら、でっち上げなければならないのだ。だがふるい自
 由のこの振舞い方は、現在から遠ざかっていくほかない。わたしたちが本格的にこの矛盾をとり
 あげるときがきっとやってくるとおもえる。ここではあたらしい自由の規定がぶつかっている余
 計に恣意的になってしまった環境、制約も疎外もいちようにのみこんでしまった現実が、わたし
 たちにあたらしい自由とはなにかを問いかけ、自由をまるで無意識を遠るように遠るとはどうす
 ることなのか解答を求めていることが大切なのだ。
 
  制約と疎外をのみこんで、ひとりでに増殖する生物のように、ありあまる恣意性(自由)を先
 き占めしてしまった現実に、あたらしい自由の規定が戸惑っているとすれば、いちばん要めにあ
 るのは、映像と、その対象になった現実とが、区別をなくし、同じになってしまったからだとお
 もえる。わたしたちはほんとをいえば制約や疎外にのみこまれてしまっているかどうかさえ把め
 ていない。にもかかわらず、制約や疎外の画像がたしかにのみこまれ、うしなわれているのは、
 映像と現実との区別が無意味になってしまったからだ。これはもうすこし正直な言い方ができそ
 うな気がする。たしかに物や貨幣や心像の制約や疎外は、いまでもひとつひとつの場面でわたし
 たちを悩ませたり患わせたりしている。なにひとつ解決されていないとみなせば、たしかに、な
 にひとつわたしたちの恣意になるものはない。無定形な逼迫感ならば、かえって現実が制約とみ
 え、それに抗うことが自由の獲得のようにおもえた時期よりも、膨大でとりとめもなく困難にな
 っているとさえみえる。

 ただ制約や疎外をもたらしている強度が、かつてのようにわたしたちの外部からやってくる強度
 ではなくて、自由そのものに貼りついていて、現実は自由の規定よりもはるかにおおきな許容性
 をもち、自由の振舞いを戸惑わせるほど先行していると感じられる。わたしたちの心身の振舞い
 には、いつもほんのすこし先行して制約や疎外や逼迫が貼りつき、それにとりつかれているよう
 におもえてくる。そしてよほど内省的な瞬間でないかぎり、心身の振舞いを制約し、存在を疎外
 する現実などは、どこにも実体を指摘できるほどの形態がないと感じられる。

 わたしたちは、何を求め、自由はどこに規定性を迫ってゆけばいいのか。これがさしあたって当
 面している問題だといえよう。ふるい自由の規定性が無意味にされてしまった現在は、またあた
 らしい自由の規定性がつくれないために、自由そのものを死にさらそうとしておし寄せてくる強
 度のことなのだ。

  現実の方が主観がつくる自由の規定性よりもっと過剰な自由をゆるしているようにみえること
 は、さしあたり現実を映像化してしまう。また心身の行為そのものに、制約や疎外が貼りついて
 離れないとおもえることは、わたしたちの映像が現実とおなじ属性をもった状態だということを
 意味している。こういう現実と映像とのおなじだとおもえる状態の核心にあるものは、ふたつだ。
 ひとつは、規定できる現実(これはまちがいなく現実だと呼べる条件)よりもあり余り、つみ重
 なった現実は、かならず映像化される(映像とおもわれて現実を離脱する)ということだ。もう
 ひとつは、構築された物の体系からできあがった現実が、天然(物の起源)を内包するところで
 は 差異が映像を生むということだ。このふたつの特異点によって、現実と映像とが同一になっ
 た。


 そしてそのふたつの要素が交換可能になった状態に、あたらしい自由の舞台をみていることにな
 る。何をなすべきかという問いが消滅して、そのおなじ場所にどう存在すべきかという問いが発
 生するのはそのためなのだ。 

 マルクスは「経済学批判序説」のなかでスピノザの Determinatio est negatio(規定することは否定
 することだ。規定性は否定性だ)という命題をあげて生産と消費の同一性を説明している。マル
 クスが論理として強調してやまないことは、否定が直接に事物の規定に付着するものだというこ
 とだ。この魔術的な概念はヘーゲルの論理学なしには生みだされなかった。わたしたちはその論
 理の方法(弁証法)の効力におどろき同時に何かがはぐらかされるような感じをうける。この実
 感だけが捨ててならないもののようにおもえる。

  マルクスの説明では、生産を規定(定義)しようとすることは、そのまま生産の否定(反対物)
 としての消費を規定しているのとおなじことになる。もっと具体的にいえば生産するとき、個人
 はじぶんの労働力を支出し、消費する。また生産手段(装置・道具)も消耗し消費される。また
 原料も消費される。そのほかさまざま消費されるものがあるだろうが、いずれにせよ何らかの消
 費を裏面につけなければ生産は、いつもまったく成り立だない。おなじことは消費についてもい
 える。

 たとえばわたしたちは金銭を支払ってレストランで食事をする。この消費の行動は、同時に身体
 の生産にあたっている。喰べた料理から摂取された栄養を吸収し、欠如をおぎない、身体の状態
 をととのえるという生産行為がレストランでの消費にはつきまとっている。またレストランでの
 食事が気分を快活にし、あたらしい意欲を生産することにもつながっているかもしれない。

 まだある。一緒に食事した人とのあいだに、あらたな親和感情が生産されるかもしれない。これ
 も数えあげれば無数にできるはずだ。

  生産を規定することは、裏面についた生産の否定としての消費を規定することとおなじだ。規
 定をもっとのっぴきならない場面にひっぱりだせば、ある人間の行為に術語的な規定をあたえる
 ことは、その行為の否定を規定することとおなした。わたしたちは何となくこんな言い方ではま
 だ物足りない気がする。もっと別な言い方をたくさんしてみることができる。ある術語的な規定
 (まちがいなく反復されると予想される規定)があったら、その背後にはその術語の規定に向き
 あって、相互に否定の関係がかならずみつけられるような二つの種類の人間的な行為が存在して
 いるといってもよさそうにおもえる。ただ、二つの種類の人間がという言い方はさしあたってで
 きそうもない。

  わたしたちはここで実感に立ちかえってみる。「生産は直接消費でもある」というマルクスの
 言い方には、おどろきの感じと、はぐらかされた感じとがふたつともつきまとう。おどろきの方
 からいってみれば、それは、生産という概念と消費という概念とはまったく正反対なもので別々
 にきり離して考察するよりはかないとおもっているわたしたちの常識が、虚をつかれるところか
 らきている。マルクスのこの言い方を正当づけているのは、あるものの規定は同時にその規定の
 否定性だという命題からはじまって、すべての規定の否定性はかならず関連するという命題が是
 認されるからであり、それが是認されるかぎりにおいてだといえる。これは図示できる(図1参
 照)。

  一方、わたしたちが「生産は直接消費でもある」というマルクスの言い方にはぐらかされた感
 じをもつのは、この考え方からすると、生産と消費はつきまとってどこまでいっても分離できな
 いことになるとおもえるからだ。ただ生産には、欲望を充たすため、衝動によって、あるいはあ
 る目的に役立たせるため、などどれであってもいいが、いつも人間(の必要)が介在しているよ
 うにおもえる。それから人間もほかの消費財も補給なしに無限にじぶんを消費することができな
 い。

  そこでマルクスは、なんだ生産といっても消費といっても、おなじことを表と裏から言ってい
 るだけじゃないか、というわりなさを、つぎのように回避している。ここであげた例でいえば、
 ある場面でひとりの人間が物の生産にしたがうことで、じぶんの身体の力を消費した。このばあ
 い生産(第一の生産と呼べば)しているあいだは、この人間はじぶんを物にかえて消費している。

  つぎにこの人間が身体力を回復し、栄養を補給するために、レストランヘ行き注文でつくられ
 た料理を喰べた。このばあいは料理という第一の生産物を破壊することで(ぐちやぐちゃに喘み
 くだくことで)、じぶんの身体を生産(回復)したのだ。この第二の生産では物(料理という)
 が人間化して身体の養分になったという言い方ができる。このようにして生産と消費とは人間と
 いう媒介によって関連づけられることになる。このばあい規定とそれにくっついた否定性とは、
 人間の物象化と物象の人間化のあいだにあらわれることになる。そしてこれは重要なことだが、
 生産と消費としてみられた社会像の深層に無意識として潜在することになる。

  マルクスはここから欲望や衝動について語る方向へゆくのだが、わたしたちは生産と消費の関
 連についてなおこだわりをもつことにする。じっさいにわたしたちがぶつかる社会の場面では、
 そこが生産の場所だという習慣や社会的通念や規則がある場所(たとえば製造工場)では、身体
 力や生産手段や原料の消費は表面からかくされ、連に消費の場所(たとえばレストラン)だとお
 もわれているところでは、生産物の破壊(料理を噛み砕く)とか身体力の生産とかいうことは表
 面からかくされ、しかも場所として隔離されてへだたっている。生産の場所で物の生産や身体力
 の消費がおわってから、消費の場所へ出かけることになっている。この分離はどうして起り、ど
 んな意味があるのだろうか? この場所の分離のために、交換とか分配とか流通とかがエコノミ
 ー世界の中間に介在することになる。

  もし場面を生産の側面からみて、否定としての消費を表面からかくす場面と、消費の側面から
 みて、否定としての生産を表面からかくす場面が隔離され(工場とレストランというように)、
 この隔離が自然な過程としてかんがえられるとすれば、そうなる理由はただひとつだとおもえる。
 生産がしだいに高度な質をもつようになり、また量的に膨大になったあげくに、生産の場所を特
 別に設備し、そこに生産の手段(装置や道具)をあつめ、生産(的消費)をやるたくさんの人員
 を具備するようにしたということだ。この生産の場面を特別につくり、生産の手段や人員をそこ
 に集中することは、他方の極に消費の場面と消費の手段(設備・建物)と消費する人間をあつま
 るようにすることと、おなじことになるはずだ。


この項ではマルクスの〈ドラマ〉を展開し経済の現代化を思考する。「そしてそのふたつの要素が交
換可能になった状態に、あたらしい自由の舞台をみていることになる。何をなすべきかという問いが
消滅して、そのおなじ場所にどう存在すべきかという問いが発生するのはそのためなのだ」と結ぶ。
蓋し名言であり、世界に残すこととなった。そうすれば、次に、"集中とは何か"と問われることにな
るが、すでにその解答がでているということになるのだが・・・・。

                                     第一部 吉本隆明の経済学 

                                     (この項続く) 

 

 

 

一歩前進!宇宙太陽光発電

$
0
0

 

 

 

「宇宙太陽光発電システムとワイヤレス先端工学」(『パピタブルゾーンの色』2015.03.03)でも掲載
した 宇宙太陽光発電システム(Space Solar Power System:SSPS)の中核技術として開発が進んでいる
無線送電技術の地上実証試験の長距離の無線送電に成功したことが報告された。具体的には、送電ユ
ニットから10kWの電力をマイクロ波で無線送電し、500m離れた受電ユニット側に設置した発光ダイオ
ドライトをその電力の一部を使って点灯させるもの。無線送電距離としては5百メートルは国内最長
で、10キロワット国内最大電力。また、ビームが受電ユニット以外の方向へ放射することのないよう
に制御する先進の制御システムの適用試験も実施し、問題のないことを確認できたという。

尚、SSPSは、太陽光パネルを地上から3万6,000キロメートルの宇宙空間に打ち上げ、静止軌道上の太
陽電池で発電した電力をマイクロ波/レーザーにより地上に無線伝送して、地上において再び電気エ
ネルギーに変換して利用するシステムです。クリーンかつ安全で枯渇しないエネルギーであることか
ら、エネルギー問題と地球温暖化問題を解決する将来の基幹エネルギーとして期待されていたもの。

宇宙太陽光発電システムを日本が一番最初に実現できれば、世界は人為的温暖化リスク回避でき贈与
経済のパイオニアになるだろう(参考@【オールソーラーシステム完結論 35】2014.11.28/『
エネが一番安い時代
』 )。これは目出度い話だ。

 
【要約】 無線電力伝送システム10は、電力をレーザビーム18に変換する光電装置である軌道上
モジュール12、及び軌道上モジュール12から発せられたレーザビーム18が照射される受電装置
である光電変換設備14を備え、光電変換設備14の受光面20は、レーザビーム18の目標中心位
置を挟んで対象に配置され、レーザビーム18の強度を計測するレーザ計測器を備えて、光電変換設
備14は、計測したレーザビーム18の強度の時間平均、及びレーザビーム18の強度の空間平均の
少なくとも一方を算出し、平均化したレーザビーム18の強度に基づいて、レーザビーム18の中心
位置を推定する(図1参照)。

上図のように、レーザビームにより送電する無線電力伝送システムが提案されている。従来技術には
マイクロ波ビームによる送電方法でクローズドループ制御――地上の受電システムがビームの位置ず
れ量を推定し、位置ずれ量に関する情報を送電システムに送信し、宇宙の送電システムが、受信した
位置ずれ量情報に基づきビーム送電方向を補正、地上でレーザビームの到達位置を検出する場合、レ
ーザビームのエネルギー分布からレーザビームの中心位置を推定。具体的には、レーザビームの目標
中心位置を挟んで対象(等間隔)に2つのパワーメータを配置し。レーザビームの強度を計測し、レ
ーザビームの中心位置が目標からずれていれば、ずれた方向に位置するパワーメータが他方に位置す
るパワーメータよりも高い強度を計測することとなる。これにより、レーザビームの中心位置を推定
するが、装置の設置場所の振動や大気の揺動によってレーザビームがゆらぎ、レーザビームの中心軸(
光軸)がずれる場合がある。また、大気中で送受光を行う空間光伝送装置は、装置の受光光軸の光軸
ずれに基づいて光軸方向可変部に光軸ずれ補正信号を送って受光光軸の方向を制御する際に、受光光
学系に設けたホログラムの回折格子によって1つの受光ビームから複数の回折光を発生させ、空間光
伝送装置は、受光ビームスポット位置検出受光素子の受光面上に複数の回折光スポットを形成し、自装
置のビーム取込口である入射瞳上の強度分布が不均一な場合でも、受光ビームスポットの光強度中心を光
束中心に近付けることによって光軸ずれの補正を行うが、回折現象を用いた光軸ずれ補正であり、無線電力
伝送システムに適用することは難しい。また、レーザビームは大気を通過する際に大気のレンズ効果により、
レーザビームの強度分布が乱れ、中心位置そのものを正しく推定できない場合があり、受電装置に照射され
たレーザビームの中心位置を高精度に検出でき、レーザ中心位置推定装置、無線電力伝送システム、及びレ
ーザ中心位置推定方法である。

 


   

 

● 『吉本隆明の経済学』論 23

     吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!      

    吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも
 異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったその
 思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何か。
 資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫る。  

 

   はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 第4章 生産と消費
 第5章 現代都市論
 第6章 農業問題
 第7章 贈与価値論
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき     

 

                                                       第1部 吉本隆明の経済学    

 第4章 生産と消費

   Ⅰ エコノミー論

    1

    

   マルクスが「生産は直接消費でもある」と言明したとき、生産と消費の規定性である否定は、
 凝集と反復を意味した。この否定性のもつ無類の、はじめての概念はヘーゲルが論理学で定立し
 たものだった。わたしはここで生産の裏面には否定性としての消費がつきまとっているというよ
 うな感覚的な言い方をした。だがこれはちっとも正確だといえない。ただいわんとしていること
 はわかるという反応を期待した言い方にしかすぎない。規定は否定のことだというスピノザの命
 題についてマルクスがやっている理解では、否定はただ凝集と反復から成り立っているといえる
 だけだ。生産の凝集と反復は否定としての消費を生産する。わたしたちの理解によれば、これが
 マルクスのいっている否定性の意味にほかならない。ところでいま生産の側面からみられる場面
 と、消費の側面からみられる場面とは隔てられたイメージをもつようになった。この場所的な隔
 離は、生産と消費のあいだの否定性を、どんなふうに何にむかって変化させるだろうか? すぐ
 にいえることは、凝集は分散に転化し、反復は方向性に変化するということだ(図2参照)。




  ひとつの事象の規定につきまとった凝集と反復からできた否定性は、場面が分離してはなれた
 ところでは、分散と方向性に転化する。生産とその否定性である消費のばあいには、分散は場面
 の距たりによって中間に介在する分配に、方向性は場面の距たりをふくんだ(いいかえれば流通
 をふくんだ)交換に転化されることになるといっていい。

  マルクスが指摘するように生産と消費の場面が距てられたあとでは、生産は消費の場面に外部
 からもたらされることになる。このことから消費の場面で生産は二重になってあらわれる。ひと
 つは消費がすなわちその否定性として身体の生産であったり、生活の生産であったりということ
 だし、もうひとつは外部からもたらされた生産を、像や欲望や衝動やそれらの統合されたものと
 しての生産にたいする願望や要求として、内面的な生産にするという二重性だ。

 このことはさきにあげた例をあくまでもつかえば、レストランで食事をするとき、それは栄養
 を摂取することで身体を生産し、生活を生産するといえるとともに、気分の解放であったり、人
 間関係の拡大や親和を生みだしたりすることだとかんがえたときにすぐに気づかれていいものだ
 った。もっと積極的なかたちで、さらに安くてうまい料理が欲しいとか、もっとくつろげるレス
 トランの環境をつくってもらいたいという願望や要求が生産されることは、当然だからだ。

  人間は意識と無意識のあいだで、身体の限度を気づかずに消費しながら生産することができる
 し、それをやりかねない存在だということは、リカードやマルクスを悩ませたエコノミーの課題
 だった。だが▽万でいままで法や道徳や神とかの外には住めなかった人間の精神の内屈性に、生
 産したい物のかたちのイメーージや、欲望や、衝動が、像としての消費の場面であらわれること
  もまた、マルクスにとってあたらしいエコノミーの発見だったかもしれない。わたしたちは無意
  識の深層のほうへおし込まれて潜在する陰の生産と消費のかたちを、どこかでいつかとりださな
  ければ、解放と自由の行方を語れないかもしれない。


  
 
   マルクスの生産と消費の否定性のつながりは、これは生産の場面、これは消費の場面というよ
  うに、習慣的にいっている社会像が、じつは省略をふくんだ近似的な概観にしかすぎなくて、ほ
   んとは生産の場面では否定性としての消費が、消費の場面では否定性としての生産がいつもつき
  まとっている社会像のほうが適確だということをおしえている。いいかえれば意識的にこしらえ
  られた生産の場面と意識的にしつらえられた消費の場面とが別々に距たりをもって分布し、その
  深層には無意識の生産と消費が対応して付着しているという社会像がほんとうにより近いという
 ことになる。そして消費の場面の深層の底のほうには、生産してほしい物についての願望や要求
 や欲望の内面的な像もまた二重にこしらえられている。

  ここまでの社会についてのエコノミー・イメージでは、まるで定常宇宙の像とおなじように、
 生産には、それと等量の否定性としての消費がつきまとい、消費にはそれと等量の否定性として
 の生産がつきまとい、直接の部分的な交換も、流通をふくめた総体としての交換も、等価と等量
 としておこなわれ、ただ消費の場面の内面にある生産についての願望や要求や欲望の刺戟のイメ
 ージだけが、方向性にあずかっているという像がえられるようにおもえる。わたしたちはこの社
 会像を現在が当面している社会像にかぎりなく近づければいいのだ。

  ここで、意識された生産の場面と、意識された消費の場面とから、供給と需要とが寄りあう単
 一の場面として市場の概念をつくりだし、また方向性のかわりに成長の概念をおきかえることは
 できるだろうか、と設問してみる。わたしたちの単純な対応意識からすれば、それは充分にでき
 そうにみえる。つまり犬切なのは生産とその否定態としての消費の場面の在り方からみた社会像
 と、総供給と総需要の場面としての市場の在り方からみた社会のエコノミー像のあいだに、ひと
 つの対応函数の関連をみつけることだといっていい。
 
  もし意識された生産と意識された消費のあいだに、あるいは企てられた総供給と企てられた総
 需要のあいだに、等量と等価の本態と否定態の関連が成りたち、それがゆるがないとすれば、活
 動的なエコノミーの関係はありえないことになる。またそれと同時に方向性という概念も無意味
 なものになってしまう。わたしたちはどこからとりだすにしろ生産と消費のあいだに、あるいは
 総供給と総需要のあいだに、たえず不等量か不等価の状態をもった場面をつくりだしていなけれ
 ば、エコノミーの活性化は成りたたないことになるだろうとおもえる。もうひとつある。方向性
 のもとになっている消費の精神的な内面性、いいかえれば生産すべき物にたいする欲望や、衝動
 や、願望や、要求を、はっきりした物の像の形態として創造してゆくことが問題になるはずとお
 もえる。

  またここには、すこしちがった考え方も成りたちうる。エコノミーはべつに活性化の状態にな
 くてもいいのではないのか。生産と消費とが等量と等価で交換の場面をもち、ただ方向性(ある
 いは成長)が、人間の身体や生活の再生産が充分にみたされるような食糧をあたえて、すくなく
 とも飢餓の状態にならないようにしながら、食糧以外の欲望や衝動や願望や要求のイメージを増
 大させる方向に(エンゲル係数が少なくなるように)移ってゆくとすれば、もはや何もほかに必
 要でないというような考え方はありうるようにおもえる。それはエコノミーの活性化や膨張がな
 くてより低い水準であっても、平等と充足がえられて、静謐な生が保てる保証がえられるならば、
 理想の社会像にあたっているとかんがえることとおなじだ。

  このふたつのすこしちがった考え方のあいだには、歴史が自然史から歩みはじめ、無意識の欲
 望や衝動を充足しようとしながら、ひとりでにつくりあげてしまった歴史の無意識の現在と、歴
 史を意識的に自然史の無機的な時期として再現したい願望とが、選択すべき社会像としてよこた
 わっている。そこにはとりもなおさず、生産と消費、あるいは総供給と総需要として問われるべ
 き問題が、ふくまれているとおもえる。そして歴史を意識的に企画しようとする試みは、現在ま
 でとられた方法では、ほとんど完全に失敗し、現在もとの木阿弥に当面していて、あらためてそ
 れをつくづくと眺めまわしている状態にあるといっていい。もちろん生産と消費、あるいは総供
 給と総需要とは、過剰と過少のあいだで波立っている。このもとの木阿弥の状態は、いまから四
 十年ほど前の状態にさし戻すとすれば、たいへん見事に描写された一枚のその画像をさがしだす
 ことができる。


   およそ資本主義は、本来経済変動の形態ないし方法であって、けっして静態的ではないの
  みならず、けっして静態的だりえないものである。しかも資本主義過程のこの発展的性格は、
  ただ単に社会的、自然的環境が変化し、それによってまた経済活動の与件が変化するという
  状態のなかで経済活動が営まれる、といった事実にもとづくものではない。この事実もなる
  ほど重要であり、これらの変化(戦争、革命等)はしばしば産業変動を規定するものではあ
  るが、しかもなおその根本的動因たるものではない。さらにまたこの発展的性格は、人口や
  資本の準自動的増加や貨幣制度の気まぐれな変化にもとづくものでもない。これらについて
  も右とまったく同じことがいえる。資本主義のエンジンを起動せしめ、その運動を継続せし
  める基本的衝動は、資本主義的企業の創造にかかる新消費材、新生産方法ないし新輸送方法、
  新市場、新産業組織形態からもたらされるものである。

 





   前章でみたごとく、たとえば1760年から1940年までの労働者の家計の内容は、単
  に一定線上での成長ではなく、質的変化の過程を経たものである。同様にして、輪作、耕耘、
  施肥を合理化しはしめたころから、今日の機械化された器具――エレベーターや鉄道と連絡
  して――にいたるまでの典型的な農場生産設備の歴史は、革命の歴史である。木炭がまから
  現在の型の溶鉱炉にいたる鉄鋼産業の生産装置の歴史、上射水車から現代の動力工場にいた
  る動力生産装置の歴史、駅逓馬車から飛行機にいたる運輸の歴史、みなしかりである。内外
  の新市場の開拓および手工業の店舗や工場からU・S・スチールのごとき企業にいたる組織
  上の発展は、不断に古きものを破壊し新しきものを創造して、たえず内部から経済構造を革 
  命化する産業上の突然変異――生物学的用語を用いることが許されるとすればの同じ過程を
  例証する。この「創造的破壊」(Creative Destruction)の過程こそ資本主義についての本質的
  事実である。

       (シュムペーター『資本主義・社会主義・民主主義』中山伊知郎・東畑精一訳)


  この画像がなぜ見事かは誰の眼にもはっきりしている。わたしたちが確かにそうだと実感でき
 る社会像が、生産と消費、総供給と総需要との政行してはまた傷をいやし、傷を回復しては政行
 する反復のイメージとして、とても根本的な、枝葉には足をとられない画像で記述されているか
 らだ。わたしたちはそのあと四十年間の経験的な事実をこの画像に補足すれば、現在に到達でき
 そうな気がしてくるほどだ。


   Ⅱ

    

  あらかじめふたつ注釈を入れてみる。生産と消費とは、たがいに否定しあう規定で、しかも同
 時におなじだという二重性をもっている。この奇異さをすでにある概念にできるだけちかづけて、
 理解の流れをつけたいというモチーフがはたらく。このモチーフをすこしはっきりさせたうえで、
 もうひとつ生産と消費との場面が、場所ごとに空間的に距たってゆくとき、「生産は直接消費で
 もある」というマルクスの命題、あるいは「規定することは否定することだ」というスピノザ的
 な命題に、人間が(身体が)関与する部分は、いったいどうなるのか、どうかんがえればいいの
 か、解明をすすめてみたいのだ。

  マルクスがいうように生産と消費がたがいに規定と否定性の間係にありながらくっつきあって
 いる状態の像から、なにはともあれ生産をおもてにする場面と、消費をおもてにする場面とが距
 たってしまったとき、この場所や空間の距たりは、分散と方向性を骨組みにもった市場と呼んで
 いたことになる。もちろんマルクスのような規定と否定性の関係からいえば、生産をおもてにす
 る場面と消費をおもてにする場面との距たりを、凝集し反復することで連結するもの(充たすも
 の)を市場と呼ぶといってもおなじことになる。エコノミーの通常の概念の流れからいえば、あ
  との言い方のほうが市場と呼ぶにふさわしい。なぜならば市場は生産された物をもつものが、べ
 つの生産された物をもつものと、その場所に集まり、物と物との交換をくりかえす場所としては
 しまったものだからだ。しかし市場をこんなふうに起源から規定すると片寄ってしまう。マルク
 スの「生産は直接消費でもある」という生産と消費の起源は、その規定からはまったく死滅させ
 られてしまうからだ。わたしたちは、生産と消費との場面の距たりそのものが市場だという規定
 を、あくまで固執しなければならない。そうまでいわなくても、何の根拠もなしに消去してしま
 うわけにはいかない。わたしにはこれはとても大切なようにおもえる。

  たとえば医者が治療の技術をもって患者に接し、患者はそれにたいして、病気をもってその場
 所(病院)へやってきて治療の技術や薬を買う場面を、市場と呼ぶことができる。また資本家が
 貨幣をもってあらわれ、労働者が労働力をもってあらわれ、これを資本家に売って貨幣をえる場
 面(会社)を市場と呼ぶこともできる。これらの場面の系列をすべて総合して、「さらに、全世
 界は社会的富の売買が行なわれる各種の個別市場によって形成せられる広大な一般的市場である
 と考えることができる」(ワルラス『純粋経済学要論』久武雅夫訳)。そんな言い方もできるは
 ずだ。

 だがわたしたちは市場について、こんな規定を無条件につかえるところからは出発しなかった。
 「生産は直接消費でもある」という命題でいえる生産と消費の規定と否定性が、水に溶けるよう
 に分離して、場所の距たりをもったとき、状態はどうかんがえたらいいのか。その像のゆくえを
 見うしなうわけにはいかない。



 
  市場を分散と方向性を特徴にした距たりとみなしても、その逆に凝集と反復を特徴とする交換
 の場面とみなしても、そこに市場人という人間が関与することを勘定に入れるかぎり、わたした
 ちは「生産は直接消費でもある」という規定とその否定性とがつきまとうのを、どうしても捨象
 できないようにおもえる。
  たとえばワルラスが、社会的富、市場、交換価値、商品にあたえている規定を簡単にいってみ
 ればつぎのようになる。

  (1)社会的富とは価値があって交換されうる有形無形のものの全体だと定義する。そして価
    値があって交換されるすべてのものは、効用があり(有用で)量が限られている。
  (2)交換価値は、あるものがもつ性質であって、無償で得られることも譲られることもなく
    て、売買され、他のあるものに対して一定の割合の量で授受される性質のことだ。そして
    交換価値という現象は、市場ではじめて生じるものだ。
  (3)値があって交換されるものは商品と呼ばれる。
  (4)市場とは商品が交換される場所のことをいう。

  こういう規定はそれ自体をとってきたら、どこにも不都合はないようにみえる。そのとおりで
  たぶん不都合はないのだ。しかしわたしたちがここでこだわってきた「生産は直接消費でもあ
 る」というマルクス起源の規定は、こういうワルラスの規定のなかにははいりこむ余地はない。

 その徴候はすでに「それゆえ交換価値という現象は市場において生ずるものであり」(ワルラス
 『純粋経済学要論』久我雅夫訳)という規定にあらわれているといえる。マルクスの「生産は直
  接消費でもある」という規定は、売りは直接買いでもあるという言い方になおせば市場での交換
  が売り手と買い手の「二つの売りと二つの買いとから成り立っている」というフルラスの規定に
 対応している。だがマルクスのこの命題を、本源的な特殊な商品としての労働力の売り手と、そ
 れを買う買い手のあいだの交換市場についていえば、フルラスの規定はそのまま通用はしても、
 この規定におさまりきれないものが露呈してくる。

 労働力という商品の所有者としてやってきた売り手労働者は、買い手と交換市場で交換過程にす
 ぐにはいれるが、労働力の表出者(生産者)としての労働者は、この過程にはいることができず、
 労働力の所有者としての労働者が、その市場で労働力を売ってえた貨幣をもって、べつの消費市
 場へ出かけてゆき、その貨幣で喰べたり、遊んだりして、身体を養い、体力を再び生産しなけれ
 ばならないし、そうするだろうことは間違いない。

 これを単純化して言っておけばワルラスのいう交換市場に売り手として登場した労働者は、労働
 力商品の所有者としての労働者であり、労働力の表出者(生産者)としての労働者は、ワルラス
 の市場概念からは弾きだされてしまう。これはべつの言い方をすれば、労働力市場における労働
 者は、労働力の所有者と表出者(生産者)とに分裂してしまう。そしてこの労働者の分裂は、資
 本家が労働力市場では貨幣の所有者(資本の所有者)と労働力の買い手(経営者)とに分裂する
 ことと対応している(図3参照)。



  この問題をもっとさきまで追ってゆくとすれば、さしあたってふたつの問いに象徴させること
 ができる。ひとつはワルラス的な市場から弾きだされた労働力の表出者(生産者)としての労働
  者は、どこをさまよい何をしていることになっているのだろうか? ということだ。そしてエコ
  ノミーの画像は、これをどう描写すればいいか、あるいは無視しても大過ないとかんがえるべき
 かということも、この問いのなかにふくまれる。もうひとつの問いは、「生産は直接消費でもあ
 る」というマルクス的な命題は、労働力という商品が人間の身体の表出(生産)という輪郭をで
 られないとみなすかぎり、市場を構成するだけの空間的な距たりや時間的な蓄積をもちえず、そ
 のかぎりではすべての市場(ワルラス的にいえば全世界)の陰に潜在するほかないのではないか?
 ということだ。

  市場で労働力の表出者(生産者)と労働力の所有者とに分裂したあと、労働力の表出者(生産
 者)としての労働者がさまよいあるく場所は、べつのところにある消費市場しかありえないだろ
 う。そしてその消費市場は、手にいれた貨幣を消費して、じぶんの身体を養うために喰べたり、
 精神や神経を養うために遊んだり、休息したりする場所をさしている。つまりかれは「消費は直
 接そのまま生産である」というようにマルクスの命題の逆をたどりながらマルクスの命題を保存
 することになる。

  ところで労働力の所有者とその表出者(生産者)との分裂は、労働力の市場における売り手で
 ある労働者にだけおこるのではない。労働力の買い手(経営者)として市場に登場する側にも、
 労働力の所有者と表出者(生産者)との分裂は、まったくおなじようにおこる。「二つのものの
 相互の交換はすべて、二つの売りと二つの買いとから成り立っている」(ワルラス『要論』)と
 いう言い方を真似ていえば、市場での労働力の売り手である労働者と買い手である経営者との差
 異は、たんにより多い売り手で同時によりすくない買い手である者(労働者)と、より多い買い
 手で同時によりすくない売り手である者(経営者)との差異にすぎない。もっとはっきりした画
 像でいえば、表むきで労働力の売り手であり、同時に深層で貨幣の買い手である者(労働者)と、 
 表むきで労働力の買い手であり深層で貨幣の売り手である者(経営者)との差異にすぎない。さ
 まざまな意味で、この市場で仲介の役目を負うことになる中間管理者(係長、課長、部長、局長
 等)が、この市場が混乱や対立や紛争になったとき戸惑うのは、労働力の所有者と表出者(生産
 者)としてのじぶんにとって、どちらがおもてでどちらが深層か判断しにくい場面に出あうから
 だ。

  このばあいおもてで労働力の売り手である者(労働者)よりもおもてで労働力の買い手である
 者(経営者)の方に近づくにつれて、給付される貨幣の量が逓増する傾向にある。そんな画像も
 つけ加えなければ、正確さを欠くことになるだろう。だがしかし、労働力の表出者(生産者)と
 しての労働者も、労働力の表出者(生産者)としての経営者も、この市場からはじきだされるこ
 とも共通しているし、さまよってゆく場所が消費市場で、そこでは貨幣を消費して、喰べたり、
 道んだり、休息したりして身体や精神を養う(生産する)ことも共通している。貨幣の所有者
 (資本の所有者)だけは、論理的な像だけからいえば、労働力の所有(者)と表出(者)(生産
 者)との分裂を体験しなくてもいいことになる。

 かれが消費市場で貨幣を消費して喰べたり、遊んだり、休息したりして身体を養う(生産する)
 ことは、そのまま貨幣を生産する行為と同一になっている。あるいはべつの言い方で、かれは消
 費市場で貨幣を消費せずに喰べたり、遊んだり、休息したりして身体を養う(生産する)ことが
 できるといってもおなじだ。なぜならその消費市場でも、かれは資本の所有者と等価だとみなす
 ことができるからだ。いままで述べてきたところから、いくつかの記憶していていい團像がのこ
 される。そして読者はどうか記憶していてほしいとおもう。


 (1)労働力市場では労働力の所有者である売り手(労働者)よりもその買い手(経営者)の方
   がよりよい給付をうける傾向がある。しかし売り手(労働者)から買い手(経営者)への移
   行の中間(仲介者)は連続的であって、断続的でも対立的でもない。
 (2)働力の市場では、労働者も労働力の表出者(生産者)と労働力の所有者(労働者、経営者)
   や貨幣の所有者(資本の所有者)に分裂する。
 (3)労働力の表出者(生産者)としては労働者も経営者も、労働力市場のそとに弾きだされて
   消費市場にさまよいでて身体を養う(生産する)ほかにすることはない。これとべつの挙動
   をとり、消費市場での消費がそのまま貨幣の生産行為でありうるのは、資本の所有者だけだ。

 

                                     第一部 吉本隆明の経済学  

                                     (この項続く)  

 

  

亜麻仁色のソーラープレーン

$
0
0

 

 

 



エゴマ油が脳神経細胞の保護に有効だということで通販購入しようとしていたら、日本製粉株式会社
のローストアマニ粉末を購入し放置したいことに気づきそれを早速試食する。食感風味は「きな粉」
味と擂り胡麻の中間に類似する。ところでアマニとは、アマ(亜麻)のニ(仁=種子)の意味で、英
語ではフラックスシード(Flaxseed)。アマ科(Linaceae)の植物であるアマ(亜麻)の学名は、
Linum usitatissimum で、Linumはケルト語で「糸」、英語ではリネンを意味し、usitatissimumはラ
テン語の形容詞usitaus(最も有益な)に由来。原産は欧州の地中海地方の自生植物で、人類が初め
て栽培した植物のひとつと。古くは、石器時代にスイスの湖畔に棲んでいた古代人(Swiss Lake Dwel
ler People)が、その繊維分と種子を利用していたとの記録が残る。食用としての認知は、西暦800年
代で、仏のシャルルマーニ大帝は、「臣民はアマニをとるべし」と、その健康上の価値を認め、法令化
している。 この頃には、種子から搾った油を食に供し、茎は布地(リンネル)や紙に利用。中世/
近世はアマニの栽培が欧州全域に広る。 アマニの栽培は、寒冷地に適しており、北米、特にカナダは
世界の生産量の1/3から半分を担う、最大の輸出国です。南半球ではオーストラリア・ニュージーラン
ド等が生産国。ところで、最新技術リチウムイオン二次電池用高せん断力の電極合材材料の混練にア
マニ油が用いられているという。これは驚きだった(特開2015-032554 リチウムイオン二次電池用負
極の製造方法)。  

 

 

● 『吉本隆明の経済学』論 24

 

     吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!      

    吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも
 異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったその
 思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何か。
 資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫る。  

 

   はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 第4章 生産と消費
 第5章 現代都市論
 第6章 農業問題
 第7章 贈与価値論
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき     

                                                        第1部 吉本隆明の経済学    

 

 第4章 生産と消費 

    

  すでにすこし触れたようにワルラスでは「交換価値という現象は市場において生ずるもの」と
  されている。だがマルクスではAという商品のある量とBという商品のべつのある量とが交換さ
 れるためには、価値の共通の基底がなくてはならず、その基底の条件をそなえているものは、そ
 れらの商品を生産するのに加えられた労働の量になる。そして帰するところは労働時間だとみな
 される。だとすれば、マルクスでは商品の価値はそのまま交換価値であり、交換価値という現象
 が市場において生ずるというフルラスの規定は、マルクスの(労働)価値イコール交換価値とし
 て商品に内在するという考えを意識して、それに異をたてるためになされた規定だといっていい。
 
  試みにワルラスが『要論』で市場の例として挙げているものを列挙してみると、

   (1)競争の点からいちばんよく組織されていて売買が取引員、仲買人、競売人のような仲介
    者によって行われる市場として、証券取引所、商品取引所、穀類取引所、魚市場等。
  (2)競争が多少制限されている野菜と果物の市場、家禽市場。
  (3)小売商店、パン屋、肉屋、乾物屋、服屋、靴屋などが並んでいる商店街。
  (4)医師や弁護士の仕事、音楽家や歌手の演奏などの世界。
  (5)そして最後に「全世界は社会的富の売買が行なわれる各種の個別市場によって形成され
    る広大な一般的市場」であるとみなせることになる。

  ワルラスのあげた市場の例のなかに、労働力市場はでてこない。医師や弁護士の仕事、音楽家
 や歌手の仕事の例がでてくるのだから、当然あげられていいはずなのだ。なぜでてこないのだろ
 うか?

  さいわいなことにワルラスは『純粋経済学要論』の第十六章で、スミスとセイの価値説を批判
 するという形でこれに触れている。
  まず、スミスが『国富論』でとっている労働が価値の源泉だとする考え方にたいしては、ワル
 ラスはつぎのようにいう。

   この理論(スミスの―註)に対する反論は一般に不適切であった。この理論は、要するに、
  価値があり交換せられるすべてのものは、労働が種々の形式をとったものであり、労働のみが
  社会的富のすべてを構成すると主張するものである。これに関してスミスを批判する人々は、
  価値があり交換せられても労働の生産物でないもの、すなわち労働以外に社会的富を構成する
  ものがあることを主張する。しかしこの反論は皮相的である。労働のみが社会的富のすべてを
  構成するか、または労働は社会的富の一部を構成するに過ぎないか、はわれわれの関心事では
  ない。種々の場合において、なにゆえに労働に価値があり交換せられるか。これがわれわれの
  取組んでいる問題であるが、スミスはこの問題を提起もしなければ、解決もしなかった。とこ
  ろで、もし労働が価値をもち交換せられるとすれば、それは労働が効用をもち、量において限
  られているからである。すなわち、それは稀少であるからである(101節)。ゆえに価値は
  稀少性から来るものであり、稀少なすべてのものは労働を含むと否とにかかわらず、労働のよ
  うに価値をもち交換せられる。すなわち、価値の原因を労働であるとする理論は狭過ぎるとい
  うよりは、全く内容のない理論であり、不正確な断定であるというよりは根拠のない断定であ
  る。

            (ワルラス『純粋経済学要論』第十六章「交換価値の原因についての
             スミスおよびセイの学説の解説とそれに対する反論」久武雅夫訳)


  おなじようにセイの『経済学問答』のなかの、効用性が価値の源泉だとする考えにたいしては
 ワルラスはつぎのようにいう。


   これは、少なくとも証明の一つの試みとはいえるが、極めて不十分である。「ものがもって
  いる効用はこのものに対する欲求を生ぜしめる」ことは確かである。「効用はこのものの獲得
  のために人々に犠牲を払うようにさせる。」これは一様にはいえない。効用は、人々がこの効
  用を得るために犠牲を払わねばならない場合にのみ、犠牲を払わさせるのである。「人の何の
  役にも立たないものを獲得するために、なにものをも与えようとはしない。」これは疑いもな
  くその通りである。「これに反し、自分が欲望を感ずるものを獲得するためには、自分が所有
  するもののある量を与える。」これには条件がある。それは、このものを得るためになにもの
  かを交換に与えなければならない場合に、ということである。それゆえ、効用だけでは価値を
  創造するのに不十分である。さらに、効用のあるものが無限量に存在せずすなわちそれが稀少
  であることを必要とする。この推理は事実によって確認せられる。呼吸せられる空気、帆船の
  帆を膨らませ、また風車を回転させる風、われわれを照らす太陽の光線と収穫と果実を実らせ
  る太陽の熱、水と熱せられた水が提供する水蒸気、その他多くの自然力は効用があり、また必
  要でもある。けれどもこれらのものは価値をもっていない。なぜなら、それらは無制限に存在
  しており、誰でもそれらが存在する場合にはなにものも与えることなく、またこれと交換に何
  らの犠牲を払うことなく、欲するままに得られるからである。
  
            (ワルラス『純粋経済学要論』第十六章「交換価値の原因についての
             スミスおよびセイの学説の解説とそれに対する反論」久武雅夫訳)


  これでは、スミスとセイにたいしては批判になっているかも知れないが、リカードをへてマル
 クスで完成に達した労働価値説にたいする批判にはなっていないとおもえる。フルラスの著書と
 マルクスの『資本論』とくらべると凡庸なその時代の秀才と世紀の天才ほどの違いがある。だが
 ワルラスが労働価値説の批判に深入りできなかった理由は、商品の交換価値(つまり価値)の源
  泉についてまるで発想がちがうからだとおもえる。フルラスは交換価値の現象は市場においては
 じめて発生するという言い方で、労働市場における労働力の売り手である労働者を、はじめから
 労働力商品の所有者(フルラスの言い方をすれば自然的資本の一種)とみなしていることを意味
 する。

 だが労働価値説の源泉は、とくにマルクスの『資本論』のような完成された論理の配慮があると
 ころでは、労働者の(人間の)身体が、労働力の表出者(生産者)として、無際限の反復に耐え
 るような底無しの価値体であるだけではなく、機能的な定常量の表出者ではなく主体的な状態に
 よっては、どこまでも定常量を超えても気づかない存在たというところに根拠をおいている。こ
 の人間の身体的な表出(生産)力の特殊な本質にたいするおどろきや不安や憂慮、いいかえれば
 超合理性にたいする気づきがないところでは、労働価値説はワルラスのいう市場では、いいかえ
 れば労働力の所有者としてのみ労働者が売り手として登場するところでは、捨象できるものでし
 かない。ワルラスが「全く内容のない理論」と呼んだのは、ほんとはワルラスにとって〈全く内
 容のいらない理論〉と呼ぶべきであった。

  ワルラスは「もし労働が価値をもち交換せられるとすれば、それは労働が効用をもち、量にお
 いて限られているからである。すなわち、それは稀少であるからである」という。だがこの考え
 は、市場ではじめて交換価値が発生するのだというワルラス自身の前提がなければ、まったく意
 味をなさないことははっきりしている。ある物の価値がそのものに加えられた労働の量によって
 きまるという考え方にたてば、労働が効用をもつか、あるいは稀少であるかということは、価値
 いいかえれば交換価値にとって、まったくどうでもいいことだ。



  
  

  いままでここで述べてきたいきさつからして、マルクスの労働の量によってきまる商品の価値
 (交換)の概念をとっても、ワルラスの市場ではじめて発生する交換価値という概念によるとし
 ても、おなじように労働力の表出者(生産者)としての労働者や経営者は、労働力の所有者とし
 ての労働者やその貨幣による買い手としての経営者を市場にのこしたまま、分裂して労働力市場
 からはじきだされ、消費市場にさまよいでなくてはならない。両者はひとしなみに身体を養う(
 生産する)ために貨幣を消費して喰べたり、道んだり、休養したりすることで、労働力市場での
 明日の労働にそなえなければならない存在であることはたしかだ。この存在はいったい何を意味
 し、どうなればいいのか?

  たしかにいままで述べてきた範囲でこうなればいいといった理想の存在が、ひとつだけかんが
 えられた。それは市場での労働力の買い手としての資本家(経営者)ではなく、資本の所有者(
 貨幣の所有者)としての資本家だ。なにが理想の像にかなうかといえば、かれだけは消費市場で
 身体を養う(生産する)行為そのものが、貨幣の生産(増殖)であるか、あるいはすくなくとも
 貨幣の消費を伴わないことができる存在とみなせるからだ。身を養うことが同時に貨幣の生産だ
 というほど理想の存在が、経済世界のなかでありえようか? 労働力の表出者(生産者)として
 の労働者も経営者も、こういう存在になれば申し分ないことになる。たしかにそうなのだろうか?

  この問いは疑いぶかい欲ばった問いだ。まだ何か外部的な解決すべきことがあるというのか。
 わたしたちにはもうただひとつの解決すべき問題しかのこされていないというべきではないの
 か? これらをめぐってまったく違う射程から参考にしていいことに言及しているシュムペータ
 ーの画像をみてみよう。


   およそ四〇年前までは、マルクスのほかにも多くの学者が次のように信じていた。資本主義
  過程は国民総所得のなかでの相対的分け前を変化させる傾きをもつ。したがってわれわれの平
  均増加率から導き出される明白な結論は、少なくとも相対的には富者がますます富み、貧者が
  ますます貧するということによって無効にされるであろう、と。しかしかような傾向は少しも
  ない。その目的のために工夫された統計的測定についていかに考えられようとも、次のことだ
  けは確実である。すなわち、貨幣で表わされた所得のピラミッド構成は、われわれの資料にも
  うらされている期間――イギリスで19世紀全般にわたる――には大きな変化を示していない
  こと、および賃銀プラス俸給の相対的分け前も、その期間をつうじて実質的には不変であった
  こと、これである。資本主義のエンジンがそのまま活動しつづけるとすれば、いかほどのこと
  をなしとげうるであろうかを論じているかぎり、所得分配、ないしわれわれの平均数値に間す
  る分散が、1978年には1928年のものと著しく相違するだろうと信ずべき根拠はまった
  くない。われわれの結論を示す一つの方法は次のごとくである。もし資本主義が1928年以
  降の半世紀間にその過去の成果をくりかえすとすれば、その場合には人□の最低層のあいだに
  おいてすら、現在の水準で貧乏と呼ばれうるいっさいのものが病理学的な場合だけは別である
    が――解消されるだろうということ、これである。
 
   ルイ14世ほどの人が欲しいと熱望しつつ、ついにもち得なかったようなもの――たとえば、
  近代歯科医術――でも、現代の労働者には利用できるものがいくつかあることは疑いない。だ
  が全体からみれば、そのような高いレベルの家計が資本主義の業績によって利益を享受すると
  いうことは、事実上問題にならないくらい少なかった。この上もなくもったいぶった紳士にと
  っては、旅行の迅速さなどもたいしたことだとは考えられなかったであろう。たくさんのお金
  に恵まれておって、十分なローソクを買い、それを世話する召使を雇うことのできる人にとっ
  ては、電燈でさえもたいして恩沢ではあるまい。資本主義生産の代表的な業績は、安価な衣料、
  安価な綿布、人絹、靴、自動車等であるが、それらは概して、金持ちにとって重要な意味をも
  つ改良ではない。なるほどエリザベス女王は絹靴下をもってはいた。
   けれども資本主義の業績は、典型的には女王たちのためにいっそう多くの絹靴下を用意する
  ことにあるのではなく、必要労働量をつねに滅ずる代償として絹靴下を女工たちの手の届くと
  ころにもたらすことにあるのである。

   現在では、社会立法に対する闘争の技術や雰囲気があるので、それがなければ明瞭なはずの
  次の事実がぼかされている。すなわち、一つには、この立法の一部が、以前の資本主義的成功
  (換言すれば、以前の資本主義的企業によって創造される富)を前提条件としているごとだ。
  二つには、社会立法が発展せしめ一般化せしめたものの多くは、以前は資本家階層自身の行為
  によって着手されていたということ、これである。この二つの事実は当然資本主義成果の総額
  に付加されねばならぬ。いま、資本主義体制がもしも1928年以前の60年間になしたこと
  をもう一度遂行して、人ロー人あたり1300ドルにまで実際に到達したとすればその時には、
  あらゆる社会改良家――多くの変わり種をも含めて、実際にはほとんど例外なしに――がいま
  までに夢みてきたいっさいの願望が自動的に満たされるか、もしくは資本主義過程に著しく手
  を加えることなしに満たされうるということがただちに了解されよう。ことに失業者を十分に
  世話するということも、そこでは単にがまんしうる程度の負担であることを通り越して、まっ
  たく造作のない負担になってしまうであろう。
  
                    (シュムペーター『資本主義∴社会主義・民主主義』
                        第二部・第五章、中山伊知郎・東畑精一訳)



                             
  この画像はとても高い水準で、現在の知的迷信に衝撃をあたえる力をもっている。そこで好ん
 で引用してみる価値があるのだ。おおく《良心的)知識人たちは《良心》を使う場所を間違えて、
 いまから40年まえですら、ロシア・マルクス主義(レーニン・スターリン主義)が塗ったくっ
 た誇張された画像のなかに《良心》を閉じこめていた。それはたんに20世紀に支配的な影響を
 知識人にあたえてきた知的な宗教と迷信でしかなかった。そういうよりも知識人という概念自体
 が倫理として登場するとき、それはこの知的な宗教が産みたしか副産物にほかならなかった。よ
 ほど鈍感でないかぎり知識人という自己覚醒の倫理は、大衆への嫌悪であり、同時にこの知的な
 宗教への帰依であるという矛盾を意味した。知識人のあいだに喜劇が悲劇として演じられたり、
 悲劇が喜劇として演じられたりしたのは当然たった。何しろ大衆をもっとも嫌悪して、大衆から
 自己感性を隔離したいと無意識に熱望している連中が、この知的な宗教に帰依せよと街頭布教し
 はじめたのだから。

  わたしたちがここで解明できたらとかんがえている画像は、シュムペーターの画像でも解明さ
 れているわけではない。ましてこれはどの巨匠にも迷信はなおあって、そのあと四十年の世界像
 は、たぶんかれの思いがけないものになっていった。わたしたちは労働力市場で、労働力の所有
 者としての労働者は売り手であるかぎりにおいて、労働力の買い手である貨幣の所有者(経営
 者)よりも貨幣の取得量において不利な傾向性があり、その中間は断続しているというより連続
 して移行するものだという画像を描いた。そして労働力の市場では、売り手としてあらわれる労
 働者とその買い手としてあらわれる経営者とのあいだのこの傾向性は、消費市場ではひとしく労
 働力の表出者(生産者)としてあらわれ、おなじように身体を養うために貨幣を消費することに
 なり、その差異は消費可能な貨幣額の差にあらわれるだけになる。この二重にあらわれる傾向性
 は、どの極限をとっても連続的で階級像を描き得ないようにみえる。それといっしょに経済市場
 を介してあらわれる社会像のなかで、わずかに消費可能な貨幣額の差異としてしかあらわれない
 労働者と経営者の姿は、どう描写されるべきなのか、マルクスの「生産は直接消費でもある」と
 いう命題はそれを要請しながら、それを自らに問うたことはないといっていい。



  Ⅲ

  

  労働力が売り買いされる市場で、買い手になってやってくる資本家(経営者)ではなくて、資
 本になる貨幣の所有者を経済からみた人間の理想像としてかんがえるべきだろうかと自問してみ
 た。そしてこの理想像の根拠をひとつ挙げて、かれだけは消費の市場で、身体を養う(生産する)
 ために遊んだり、休養したり、食べたりすることが、たんに手にした貨幣の消費ということにな
 らず、そのまま貨幣の増殖になる可能性をもった存在たというところにおいた。じじつ労働力の
 売り手である労働者は、それを売って手にした貨幣を消費して身体を養わなくてはならないし、
 労働力の買い手として登場した資本家(経営者)でさえ、消費市場で貨幣をついやして身体を養
 わなくてはならない。ただ貨幣の所有者で、いつどこでも貨幣を資本として提供できる可能性を
 もった者だけが、消費市場で身体を養うことが、そのまま貨幣の増殖になっている可能性を、い
 たるところで(貨幣を資本として提供したところではどこでも)もっているのだ。

  ふたたびわたしたちは自問する。この存在は経済人としてみられた人間の、いちばん理想の姿
 だろうか?そして万人が(ということは一般大衆が)この存在になる 率直にいってみれば、ポ
 リティカル・エコノミーやソシャル・エコノミーが、まだわたしたの外部にあるときは、たしか
 にそれは到達すべき目標であったり、ときどきはのどから手がでるほどの渇望の対象像であった
 り、とみなすことが妥当のようにおもえる。だがエコノミーが内在的になったときには、万人が
 (ということは一般大衆が)この理想像の経済人になりおおせたとしても、すこぶる浮かない多
 数の貌に出遇うだけのような気もする。わたしたちは、現在、単独で(個人的な努力で)この理
 想の経済人になっている存在を見つけようとすれば、少数だが見つけることができるに違いない。

  そしてかれらに問うてみれば、じぶんは経済人として理想の状態にあるかどうか、それぞれ答
 えてくれることは疑いない。その答えは、まちまちだろうが、ただひとつ共通な点が想像される。
 われらのなかでポリティカル・エコノミーやソシャル・エコノミーが、外部から内在へとスムー
 ズに連結されていないということだ。かれら資本としての貨幣の所有者の理想像は、マルクスの
 いうように収奪とだましによってそうなったとみなそうと、シュムペーターのいうように勤勉と
 たゆまない努力によってそうなったとみなしても、外部と内在とをむすびつける偶然と必然のな
 いまぜられた無意識が存在せずに、犬なり小なり意図と実現の断層をもっている点が共通してい
 るに違いない。そうだとすれば外部からどんな理想像にみえようとかれらはどこかで浮かない貌
 を見せている存在だといえそうな気がする。

  わたしたちは万人にとって(一般大衆にとって)理想の経済人の像とみえるこの存在を、もう
 すこし詳しくみてゆくべきだとおもえる。


  

  わたしたちが経済人としての理想像(みんながそうなればいいという意昧での理想像)と仮定
 してきた貨幣資本の所有者は、いままでのいきさつから労働力市場を例にとりつづければそこへ
 労働力の買い手としてやってくる経営者にたいして、貨幣を提供するとき〈貨しつけ〉という方
 法をとる。〈貨しつけ〉を交換の特殊なひとつの形としてみれば、貨幣を資本として〈貨しだ
 す〉ことで利潤をうみだすことを見越した分だけの使用価値で、貨幣を商品という性格で〈貨し
 つけ〉るのだ。けっしてもともとその貨幣が貨幣の額面どおりにもっている使用価値でつかわれ
 るのではない。

  マルクスが『資本論』(第五篇・第二十一章「利子生み資本」)でつくり、ヒルファディング
 が『金融資本論』で引用している具体例をとってみるともっとわかりやすい。
  いま年平均の利潤率が20%のところで、価値100ポンドの機械は、平均条件で資本として
 使用されると、20ポンドの利潤をうみだすことになる。いまAという貨幣所有者がこの100
 ポンドを一年間、Bという買い手資本家(経営者)に〈貨しだす〉とすれば、AはBに20ポン
 ドの利潤、いいかえれば剰余価値を与えたことになる。BはAに年末には、利潤のうちからたと
 えば5ポンドを、100ポンドの資本機能にたいして支払うとする。これはAの〈貨しだし〉に
 たいする利子と呼ばれることになる。



  いま最初Aが〈貨しだし〉だ100ポンドをGであらわし、AがBから利子として得た貨幣を
 ΔGとすれば、Aは最後は居ながらにしてG+ΔGを手にいれることになる。これを図示すれば
 つぎのようになる(図4参照)。
  貨幣資本の所有者の境涯に、万人が(一般大衆が)なりえたとして、経済的にみられた人間と
 しては理想像だとおもわれる根拠は、図式のようにかれが居ながらにして貨幣を多角的な場面に
 〈貸しだす〉だけで、はじめ〈貨しだし〉だGに、利子を加算されて、G+ΔGに増殖した貨幣
 を手にすることができることにある。
  これは見易い道理だし、誰だってそんな手品みたいな境涯は経済的に理想像として願望するに
 ちがいないとおもえる。
  もうすこしこの理想像に具象的なイメージをあたえてみることにする。さしあたってハイエク
  が「貨幣の理論と景気循環」でやっている例を装飾して使ってみる。それはできるはずだ。いま
  貨幣資本の所有者Aの〈貸しだし〉も、買い手の資本家(経営者)Bの〈借りだし〉も、銀行を
  介するものと仮定する。この仮定は事実像にいちばん近いはずだ。Aが〈貸しだし〉のために新
 しく銀行に預金した額のうち10%を支払い準備のために保持して、90%をBに貸しだしたと
 する。Bが買い手としての支払いを小切手でやり、売り手はその小切手をじぶんの銀行へ振り込
 んで現金に代えることにした。この銀行もまた預金の10%を準備金として保持し、90%を貸
 しだすとする。現金で引きだされないかぎりこの過程は第3の銀行、第4の銀行とつづくことが
 できる。こうして全部の銀行が、預金の90%を再貸しだしとして、別の銀行に同額の預金増加
 をひき起すとすれば、最初の預金は、初めの預金額の
 
                             

  いいかえればこの無限級数の和9、つまり9倍の信用を創造できることになる。いいかえれば
 貨幣所有者の境涯に、万人が(一般大衆が)なれたらという理想像は、はじめの9倍に高揚して、
 わたしたちの胸に希望をもってくることになる。

  ところでこの経済的な理想像にはどこにも弱昧はないのだろうか? わたしたちがどこかに経
 済的な浮かない感じをもつのはどうしてだろうか? こんどはアラをさがして、できるだけ数え
 あげてみなくては、公平でないことになる。資本として貨幣を〈貸しだす〉資本家(貨幣資本
 家)は貨幣を資本として、あるいは利潤をあげる商品として〈貸しだし〉ているあいだは、利子
 を手にすることができる。だがそのあいだ元金を自由に処分することはできない。かりに元金を
 回収できたとしても、資本としてあらたに〈貸しださ〉ないかぎりは、利子をうみだすことはな
 い。マルクスのいい方をかりれば「それが彼のてにあるかぎり、それは利子を生まず、資本とし
 ては作用しない。そしてそれが利子を生み、資本として作用するかぎりは、それは彼の手にはな
 い」(『資本論』)のだ。マルクス的にいえば、もっと嫌な言い方もできる。貨幣資本家から〈
 借りうけ〉て運営する資本家は、利子の歩合が、ゼロに近づいた極限のところでは自己資本を運
 営している産業(商業)資本家(経営者)の像に一致してしまう。一方で貨幣資本を〈貸しだし〉
 だけで利子を増殖できる貨幣資本の理想像を保とうとするなら利子歩合がゼロ・パーセントにど
  んなに近づいても、いつも産業(商業)資本に〈貨しだし〉をつづけなくてはならない。いま利
 潤をPとし利子をZとすれば、〈借りうけ〉だ貨幣資本を運営している資本家と自己資本で運営
 している資本家との差は、PとPマイナスZの連いで、Zがゼロに近づけばPマイナスZ=Pに
 なって、両者はおなじ立場にたつ。〈借りだし〉資本はいつも返済してあたらしく〈借りだす〉
 ことをつづけなければならないし、自己資本もまた、いつも資本をあらたに生産(商業)過程に
 投大していなくてはならない。また貨幣資本を〈貨しだし〉ている理想像の経済人も、どんなに
 利子がゼロに近づいても〈貨しだし〉をつづけなければ利子をうむことができないし、利子を生
 んでいるあいだは、眼のまえに貨幣の山を築いて、さて何に使おうか、使い連にこまるという場
 面を悦に大って満喫しているわけではない。おなじように絶えまのない貸借や生産や利潤の経済
  過程にはいっていなくてはならない。
 
  わたしたちの経済的な理想像には、もっと陰りをもたせることができる。というのは貨幣資本
 の所有者を、たんに産業(商業)資本家に貨幣を〈貨しだし〉て、利子を増殖して受けとる存在
 というところから連れだして、利子といっしょに経済人として必然の息苦しい場所にはめこんで
 しまうこだ。

                                第一部 吉本隆明の経済学  


と、ここまで、堅苦しさを伴いながら読み進めてきたが、さらにいま暫くこのように読み進めていく。

                                      (この項続く)  


● 亜麻仁色のソーラープレーン

 

 

 

  

 

 

 

 

宇宙太陽光発電システムとワイヤレス先端工学 Ⅱ

$
0
0

 

 

 

 

● 宇宙太陽光発電システムとワイヤレス先端工学 Ⅱ

「宇宙太陽光発電システムとワイヤレス先端工学」(『パピタブルゾーンの色』2015.03.03)、『一歩
前進!宇宙太陽光発電
』(2015.03.14)で掲載した無線給電システム技術に話題が2つ入ってきた。
その1つが、イスラエルのWi - Charge社が赤外線 LEDを利用したワイヤレス給電技術である。要は、
赤外発光ダイオードで電力を変換し給・送電し、受電側のモバイル/家電器機の光電変換素子パネル
で電力変換し充電するシステムで、(1)既存のワイヤレス給電技術よりも送電距離を長く取れて、
(2)位置合わせの自由度が高いという特徴をもつものの、(3)エネルギー効率が数値として公表
されていないが?悪いものと思われる(上図/上をクリック)。 

Wi - Charge社の新規技術は、レーザービームを使ってさまざまな機器を充電するトランスミッタとレ
シーバを開発(下図参照)。同社が今回披露したトランスミッタは電球やコンセントに適合する形状
になっていて、電磁波ノイズは出さない。また、赤外発光ダイオードと反射鏡を使いレーザービーム
を形成し、それを光起電力セルに当てる。具体的には、LEDを2枚の反射鏡で挟むと、LEDから放射
される光子が、その2枚の鏡の間で反射を繰り返し、狭ビーム(ナロービーム)を形成する。さらに、
レーザービームをピンポイントで受電側に照射しなければならず、送電/受電間で位置合わせの自由
度が低いという欠点があったが、(1)半透明の鏡を取り払い、レシーバを光起電力セルの近くに配
置、(2)反射鏡の表面(光子が反射する面)を曲面にしたカサグレンミラーを使用。これにより、
光子は、飛んできた方向と同じ方向に戻り、送電側の反射鏡とレシーバが平行でなくても給電可能と
なる。

 
もう1つは、宇宙空間で太陽光を反射させるために宇宙航空研究開発機構(JAXA)の求めに応じ
製作した反射膜に薄型ガラスを貼り付ける厚さ0.1ミリメートル、250グラム/平方メートルの
日本電気硝子の超薄型軽量ミラー技術(下図)。このミラーは、同計画の発電効率を上げるためのも
ので太陽光を反射させ、鏡がない時の2~3倍の光を集める。JAXAの要求に沿って、2.5キロ
メートル×3.5キロメートル程度の楕円形ガラス。宇宙空間で飛来物にぶつかってもガラスが飛散し
ないように同社独自の技術で樹脂を貼り付けて耐久性を上げ、発電に必要な光以外は透過させる。因みに、
宇宙太陽光発電は地上の1.4倍、常時集光という特徴がある。

 

 

  

● 『吉本隆明の経済学』論 25 

   吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!       

    吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも
 異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったその
 思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何か。
 資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫る。 

   はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 第4章 生産と消費
 第5章 現代都市論
 第6章 農業問題
 第7章 贈与価値論
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき     

                                                        第1部 吉本隆明の経済学    

 第4章 生産と消費 
 

  Ⅲ

  

  もし〈借りうけ〉る産業資本家がまったくいないとすれば、貨幣の所有者は貨幣を資本として
 〈貨しだす〉ことで利子を増殖する貨幣資本家にはなりえないで、たんに貨幣をもっているもの
 にすぎない。だが産業(商業)資本家という概念は、もともとそのある部分は〈借りだし〉だ資
 本を生産(商業)過程に投下する存在だという前提でしか成り立っていない。資本は、〈借りだ
 し〉だ貨幣のことだというのは経験的な事実だといっていい。このことは総利潤はいつでも利子
 と生産(商業)の企業者利得とに分裂すべく(用意されて)いることを意味している。

 このことはまた資本制以前の歴史的にもいいうることだ。極端なことをいえば未開や原始の社会
 でおこなわれる〈贈与〉のばあいでも、これを〈貨しだし〉の特殊なばあいのようにみなせば、
 それによって生みだされる無形の恩恵もまた利子の変種とみなすことができる。ほんとに「資本
 制的生産様式が実存しこれに照応する資本および利潤なる肖像が実存するよりもずっと以前に、
 利子生み資本が完成した伝来の形態として実存し、したがって利子が、資本によって生みだされ
 る剰余価値の完成した下位形態として実存する」(マルクス)といってもいいことになる。

 ここまでくれば利子が必然化されるとおなじように貨幣資本の所有者もまた必然化されるといっ
 てよい。いいかえれば産業(商業)資本家が自己資本を運営して生産(商業)過程にはいっても、
 〈借りだし〉資本を運営しても、それに対応する貨幣資本家の実存は必然化されてしまうし、利
 子もまた自立した剰余価値の形としてたしかな根拠をもって経済的な必然化の環のなかにはいる
 ことになる。

 利子は質としてみれば生産(商業)過程の外部にあってただ貨幣を所有しているだけでもたらさ
 れる剰余価値である。また量的には貨幣資本に対応して利潤のうちから利子になる部分は、利潤
 の犬きさによって、ひとつの利子率によってきまったものになる。ここまできまってくれば〈借
 りだし〉だ資本を運営する資本家と自己資本を運営する資本家とのちがいは、企業者所得だけを
 うる資本家と企業者所得と自己資金にたいする利子をじぶんで増殖分として元金といっしょにう
 けとる資本家との違いに還元されてしまう。

  わたしたち万人は(一般大衆は)そうなればいいのかと問うた経済人としての理想像(貨幣資
 本の所有者の像)は、捏ねくりまわしているうちに、しだいに浮かない姿をあらわしてきたよう
 におもえる。ただそれでも時代の平均的な欲望をとげるのには、格別不自由がないばかりか自在
 だという程度の利子の蓄積はできているということが、できないものに比べたら神の業にもひと
 しい。そうとみなすばあいは、話はまったく別なことになる。


  

  貨幣資本の所有者ほどではないが、それにつぐ理想的な存在である産業(商業)の資本家(経
 営者)は、利子をめぐって貨幣を〈賃しつけ〉る資本家と対立している。かれは総利潤のうちか
 ら利子を貨幣資本家に支払ったあとの企業者利得だけをうけとるのだし、この利得はそれが単純
 な労働者にくらべれば多いとしても、また必然である以上にもらいすぎた利得であったとしても、
 かれたって生産(商業)過程で労働したこと、いいかえれば労働者としてうけとったものだ。マ
 ルクス的にいえば「それ白身、労賃であり、監督賃であり、wages of superintendence of labour で
 ある」にほかならない。つまり賃労働者にくらべるといくらか複雑な労働だったり、じぶんでじ
 ぶんの労賃をいくらか白由にきめられたりするところからくる差異にすぎない。そればかりでは
 ない。貨幣資本を所有していることと、これを運営して生産(商業)過程に入るものとの対立と
 差異は、総利潤、いいかえれば剰余価値を、利子と企業者所得との二部分に分裂させる本性をも
 っている。

  この理想像として二番手であり「次」であり「亜」である産業(商業)資本家(経営者)の性
 格を、もうすこしつきつめてみる。かれは聡明なら労働力の性格と利子生み資本の性格とが深い
 類似性をもっていることに気がつくはずの存在である。どうしてかといえば、いままでみてきた
 ように、このふたつに深くじぶんが経験的にかかわってきた存在だからだ。かれが労働市場(会
 社)で労働力を買うのはそれが価値をうみだす能力だとおもうからだ。でも買った労働力を生産
 (商業)過程で使うかどうかは、どうでもいいことだ(私用でサービスにつかうこともありうる)。

 おなじように利子をうむ貨幣資本も、資本として使ってじっさいに剰余価値をうみだす活動をや
 るかどうかは〈借りだし〉だ資本家の勝手だ。かれは商品としての資本にふくまれる可能性とし
 ての剰余価値にたいして利子を支払うのだから。産業(商業)資本家は労働力の買い手としては
 労働者に貌をむけ、利子の支払い手(生み手)としては貨幣資本の所有者に貌をむけている。

 これはふたつの深淵に面しているようなものではないのか?かれは(経済)社会の循環器官や筋
 肉をもった社会的身体である資本と、循環器官や筋肉をもっか身体である労働力とに直面してい
 る。かれがこの息苦しさから脱出するには、左右の手を同時に別べつに行使できるような自己シ
 ステムを人工的につくりだすほかにありえない。そしてもちろんそれができるためには相手であ
 る貨幣資本の持ち主と労働力の持ち主である労働者の同位性がなくてはならないはずだ。貨幣資
 本も労働力も底知れない深淵の画像から底をもたないシステムの画像にかわることになるという
 ような。たとえば貨幣資本はシステムの代理体としての銀行に〈貨しだし〉を集約して、じぶん
 はシステムをのこしてたんなる画像になって消えたり現われたりする。

 この有様は具象的に描きだせるかどうかわからないが、やってみる価値はありそうにおもえる。


  

  貨幣(G)があって、それが生産(商業)の過程で物(W)をうみだし、それが売られて貨幣
 (ご)が手にのこる。そしてG'>Gになっていることは、資本の画像のかんたんな記述になって
 いる。それはG―W―G'とあらわされる。あいだをつないでいる「―」は、いちばん単純にかん
 がえて生産過程と流通過程を記号化したものだ。いま利子をうむ資本のばあいには、貨幣は、す
 くなくともじぶん自身ではこの生産過程と流通過程をへないからG-G'とあらわされていいは
 ずだし、しかもG>G'になっている。G―G'を実現する目的のためにだけ、貨幣は資本になる
 わけだから、中間の過程をへないでG―G'が実現することは、経済(人)としていちばんの理
 想像ではないのか。そして万人が(一般大衆が)みなこの理想像をつかんだ状態が究極の理想状
 態ではないのか? わたしたちはそういう問いから出発した。いままったくその通りだとすれば、
 利子をうむ貨幣の所有者は理想像だとみなされる。この状態はどうしたら実現されることになる
 のか? 

  すくない人数ならばいまでもこの理想状態にいるとみなせる人たちは存在している。かれらがと
 ても利殖の技術にたけていたのか、超人的な刻苦のはてに蓄財したのか、偶然の幸福にてあった
 のかは、さまざまでありうる。だが万人が(一般大衆が)そうなる状態はどうやって実現される
 のかは、現在まで存在している理想像の経済人をどんなに分析し、解剖してもわかるはずがない。
 
 かれらはそうなってしまった個々の、特殊な少数例にすぎないから、一般化できないし、一般化
 できる要素はあったとしても、すくないに違いないからだ。この経済人としての理想像を経済的
 な範躊であらわしたもの、すなわち利子をうむ貨幣資本について、マルクスがつぎのように述べ
 ている個所がある。


   利子生み資本として、しかも、利子生み貨幣資本としてのその直接的形態(ここで吾々に関
  係のない他の利子生み資本諸形態は、この形態から再び誘導されるのであって、これを内蔵す
  る)において、資本は、主体・売ることのできる物・としての純粋な物神形態G―G'を受け
  とる。 第一に、資本がたえず貨幣-この貨幣形態では、資本のすべての規定性が消滅し資本
  の現実的諸 要素が眼にみえなくなっている-として定在することによって。貨幣こそは、ま
  さに、そこでは 使用価値としての諸商品間の区別が消滅し、したがってまた、これらの商品
  とその生産諸条件とから成りたつ諸産業資本間の区別が消滅している形態である。

  貨幣は、そこでは価値――この場合には資本  が自立的交換価値として実存する形態である。
  資本の再生産過程では、貨幣形態は一つの消滅的形態であり、一つの単なる通過的契機である。
  これに反し貨幣市場では、資本はつねにこの貨幣形態で実存する。――第ニに、資本によって
  生みだされた。この場合にはやはり貨幣の形態でのこ刑余価値は、資本そのものに帰属すべき
  もののように見える。樹木の生長と同じように、貨幣を生むということ(トーホス〔生まれた
  もの転じて利子、の意〕)が、この貨幣資本としての形態をとる資本の属性のように見える。

  利子生み資本においては、資本の運動が簡略体に要約されている。媒介過程が省略されており、
  かくして一資本1000が、それ自体は1000であるが特定期間がたてば――あたかも、あ
  なぐらにおける葡萄酒が特定期間後にはその使用価値を改善するように――1000に転化す
  る物として、固定されている。資本はいまや物であるが、物として資本である。貨幣はいまや
  恋を宿している。それが貸付けられるか、または再生産過程に投下されれば(その所有者とし
  ての機能資本家にたいし、企業者利得とは別に利子をもたらす限りは)、それが睡っていても
  起きていても、家にいても旅していても、昼も夜も、それには利子がつく。かくして利子生み
  貨幣資本において(また、およそ資本は、その価値表現からみれば貨幣資本である。あるいは、
  いまや貨幣資本の表現たる意義をも言、貨幣蓄蔵者の敬虔な願望が実現したのである。

                        (マルクス『資本論』第五篇・第二十四章)


  この引用で万人が(一般大衆が)経済人としての理想像になればいいという願望をなし遂げる
 条件になりそうなのは「貨幣こそは、まさに、そこでは使用価値としての諸商品間の区別が消滅
 し、したがってまた、これらの商品とその生産諸条件とから成りたつ諸産業資本間の区別が消滅
 している形態である」と述べている箇所だとおもえる。なぜかといえばこういう言われ方が成り
 立つところでは、貨幣資本として〈貸しださ〉れて生産(商業)過程にまではいりこんだ貨幣は、
 たくさんの産業(商業)のあいだのどんな区別もなくなってしまった高度な抽象的な商品の象徴
 であり、そんな高度な抽象的な商品をうむためのだくさんの産業(商業)資本のあいだの区別も
 なくなった市場(貨幣市場)の象徴になっているからだ。

 いいかえれば貨幣がそんな象徴でありうるような高度な経済社会がやってくることが条件として
 かんがえられるか、それとも貨幣がそんな象徴でありうるような経済システムをつくりあげるこ
 とが、理想像の一般化のもとになるとみなされうるからだ。そこでは貨幣がさまざまな産業の抽
 象であること、そしてさまざまな産業が生産したものの抽象であることという画像がとび交う。
 マルクスがここで描写しているように利子をうみだす資本としての貨幣だけは、たしかに資本制
 のはじめからその徴候を受胎していたし、やがて金融資本として分娩し、成長しけじめ、思春期
 に達したときには、寝ても醒めても、昼も夜も利子を恋うまでに成熟した。でもそれはすべての
 場面における貨幣の姿ではなかった。

 シュムペーターがいいにくい言い方をして、でもはっきり言っているように、マルクスがいうほ
 ど少数だけが得恋し、大多数の貨幣は失恋のどん底に沈んだわけではなかった。ただ恋をする暇
 がなかったとか、ちいさな恋しかできなかったというだけだ。近似的にだけいうとすれば、たく
 さんの産業は、そのレプリカのなかに抽象の面影を宿し、たくさんの産業のだくさんの生産物(
 商品)は、その機能的な形態のなかに抽象の似姿をもっているかのようにおもわれてきた。貨幣
 がたくさんの産業やそれらの産業の抽象なのではなく、たくさんの産業やその生産物(商品)が、
 貨幣の抽象であるようにおもわれてきたのだ。わたしたちはふしぎな抽象の二重性を、貨幣とた
 くさんの産業や産業の生産物のあいだで体験している。そこではふたつの抽象の貌のうちどちら
 がほんとの得恋の貌なのか失恋の貌なのか、わからないのだ。もっと極端なことをいって仏頂づ
 らなのか欽びをおしかくした貌なのかわからない表情をして、人びとは巷を歩いている。読者諸
 氏においてもまた。

 (後略)

                                第一部 吉本隆明の経済学  

この「後略」された部分にも触れたい気がするが、そこは先送り?にしてさらに読み進めることに。

                                      (この項続く)  

   

 


中央日本周回新幹線構想

$
0
0

 

 



● 米国加州のエコカー規制は邦人メーカにはさらなるチャンス!

厳しい排ガス規制で知られる米カリフォルニア州で、ハイブリッド車(HV)が肩身の狭い思いをし
ている。もはや最新技術とはみなされず、エコカーの定義からも外された。流れは他の州にも及んで
おり、各メーカーは次世代エコカーの投入を急いでいる(朝日デジタル、2015.03.15)。HVは、も
はや最新の環境技術が使われた車ではない。と、規制を担当する州大気資源局のアルバート・アラヤ
副局長という。自動車メーカーに州内で売る新車の14%をエコカーにするよう義務づけているが、
17年からはここからもHVを外す。目的は、技術革新を後押しすることだ。義務がなかったら、自
動車メーカーは技術開発をしようと思わないだろう、とも。メーカーは義務に違反すれば1台あたり
5千ドル(約60万円)の罰金を科せられる。

多めにエコカーを販売した他社から「排出枠」を買い取ってしのぐこともできるが、多額の費用がか
かる。「環境保護に後ろ向きな会社」というイメージも背負ってしまう。カリフォルニアが環境規制
に熱心なのは、昔から車の数が多く大気汚染に苦しんだからだという。それにしても、エコカーの販
売そのものを義務づける規制は世界でも異例で、非現実的だ」との批判も根強い。充電施設などの)
インフラが整っておらず、消費者から望まれていない。メーカーがついていくのは難しいのではない
かとの声も上がっている。 ロサンゼルス・タイムズ紙によると、EVを1台売るごとに約1万ドル
(約120万円)の赤字が出る。大々的に販売させるのは、マゾヒズムの極みだとの激しい反発の声
もある。

※ ZEV(Zero Emission Vehicle)とは、排出ガスを一切出さない電気自動車や燃料電池車を指す。カ
  リフォルニア州のZEV規制は、州内で一定台数以上自動車を販売するメーカーは、その販売台数
  の一定比率をZEVにしなければならないと定めている。ただし、電気自動車や燃料電池車のみで
  規制をクリアすることは難しいため、プラグインハイブリッドカー、ハイブリッドカー、天然ガ
  ス車、排ガスが極めてクリーンな車両などを組み入れることも許容されている。

しかし、燃料電池、電気自動車普及にはハード&ソフトの両面からのスマートな行政のバックアップ
が不可欠だ。前者は水素ステーションの配置と法整備、後者は、幹線道路の非接触給電レーン(走行
中の非接触給電=既存電車の非接触給電化と同じような機能)や給電ステーションの整備が前提とな
るが、いずれにしても邦人メイカーには、このアゲインストは、ビックチャンスでもある。


 

● テラヘルツ技術を活用した太陽電池評価に成功

低炭素社会の実現に向け、世界中で再生可能エネルギーの活用が進んでいる。太陽光発電は、商用太
陽電池の約80%を占める結晶シリコン太陽電池は、発電時にさまざまなエネルギー損失が発生するこ
とが課題のひとつとなってるが、瞬間的な発電状態の変化が、エネルギー変換や損失に与える影響を
検証することができれば、発電効率を高める研究開発につながる。こうした理論を実証する有効な方
法として、SCREENホールディングスと大阪大学は2011年10月、LTEM 技術を用いて太陽電池から発
生するテラヘルツ波計測し、1兆分の1秒という極めて短い発電状態の変化を可視化することに世界
で初めて成功。このLTEM技術で太陽電池評価システムの装置化を実現し、再生可能エネルギー分野
の世界的な研究開発拠点「福島再生可能エネルギー研究所」に設置する。SCREENホールディングス
と大阪大学は、今回の取組みを通じて、「福島再生可能エネルギー研究所」での太陽電池分野の総合
的な研究開発に寄与するとともに、研究で蓄積されたノウハウを応用し、テラヘルツ波の検出・分析
技術を駆使した新たな分野への技術展開を目指す。

※ レーザーテラヘルツエミッション顕微鏡(LTEM):大阪大学レーザーエネルギー学研究センタ
  の斗内教授が開発した、テラヘルツ波応用解析装置。約百フェムト秒という極めて短い時間のレ
  ーザーパルスを半導体、超伝導体、強誘電体などの材料やデバイスに照射することにより、発生
  するテラヘルツ波を検出し可視化できる顕微鏡。(1フェムトは1千兆分の1秒)。

 

ところで、フォトデバイスは、材料として半導体及び金属が用いられるのが一般的である。特に、半
導体では、温度が高くなると、価電子帯の電子が、熱的にハンドギャップを超えて伝導帯に入る。電
子の分布は、いわゆるフェルミ分布に従う。電子及び正孔は、それぞれ熱の影響によって、ドナー準
位及びアクセプタ準位から、伝導帯及び価電子帯に移動する。温度によって、フォトデバイスの特性
が大きく変化する可能性があり、フォトデバイスの温度依存特性を検査する技術が求められていた。

上図1の検査装置100は、太陽電池パネル90を検査するための装置で、太陽電池パネル90から
電磁波パルスLT1を放射させるパルス光LP11を太陽電池パネル90に照射する励起光照射部12
と、パルス光LP11の照射に応じ、太陽電池パネル90から放射される電磁波パルスLT1を検出
する検出部13と、太陽電池パネル90における、パルス光LP11が照射される部分の温度を変更
する温度変更部31とを備えた構成で、電磁波検出に基づいたフォトデバイス検査において、フォト
デバイスの温度依存特性を検査できる。

● テラヘルツ技術でなにができるのか?

LTEM の原理、実験装置構成

LTEM の原理は、ある種の試料(半導体,超伝導体,強誘電体など)にフェムト秒レーザーパルスを
照射することで、THz 波が発生することが知られていたが、古典的な電磁気論によれば、THz波は電
流・分極の時間変化により発生する。半導体の場合、フェムト秒レーザーパルス照射により発生した
光励起キャリアは、p-n 接合、ショットキー接合などの内部電界、あるいは電極に電圧を印加したこ
とで外部電界によって加速しTHz 波パルスが発生。そのTHz 波を観測することで材料の局所特性が分
析できる。太陽電池の最も基本的な構成は、上図1に示すようにSi で作られた大面積のp-n 接合素子
いわゆるフォトダイオードで、太陽電池にフェムト秒レーザーパルスを照射し、光励起キャリアが生
成する。同キャリアは、太陽電池の空乏層領域で加速・分離されTHz 波パルスが発生する。上記は、
太陽電池にサブピコ秒オーダーの非常に短い時間の発電を引き起こすことを意味する。LTEM 技術を太
陽電池特性計測に応用することで、フェムト秒レーザーパルスによる発電状態をテラヘルツ波で捉え、
非破壊、非接触でイメージング可能となる。

レーザーテラヘルツ研究では、先進的なレーザー技術を利用したテラヘルツ帯の光源・検出器開発、
これを利用した基礎研究や応用技術の開発とテラヘルツ帯で動作する超高速量子デバイス等の開発に
取り組まれている。テラヘルツ帯(0.1~100THz)野電磁波は、その発生・検出が困難で、「未開拓電磁
波」とされてきたが、フォノンやプラズモン、分子の回転遷移など物質の多様な素励起の周波数に対
応し、物性研究で重要な役割を果たし、この分光特性を利用したイメージング、バイオ・医薬品研究、
危険物検知などさまざまな分野への応用が期待されている。

 

● 中央日本周回新幹線構想に向けて 

北陸新幹線長野−金沢間が14日開業し 東京から北陸への時間が大幅に短縮された。基本計画決定か
ら43年を経て実現した東京から金沢までの直通ルートの開通した。総工費約1兆7800億円をか
けた新しい動脈は、人の流れを大きく変えることが予想されている。東京から金沢へは、東京駅から
上越新幹線を利用し、越後湯沢駅で在来線特急「はくたか」に乗り換えるのが一般的だった。このル
ートの所要時間は最速で3時間51分。14日の開業で東京−金沢間は最速2時間28分となり 1時
間23分も短縮。東京−富山間も1時間以上短縮され、2時間8分で結ばれた。東京−金沢間の料金は
普通車指定席で1万4120円。

経済効果も試算されている。日本政策投資銀行は、首都圏からの観光客が増加し、石川県で年間12
4億円、富山県で同88億円の経済波及効果があると試算。富山県の石井隆一知事は「北陸全体にと
って百年に1度のビッグチャンス」と期待を示しているが、上越新幹線は北陸新幹線に乗客を奪われ
る格好となり、新潟市など沿線自治体で構成する「上越新幹線活性化同盟会」によると、上越新幹線
と、長野−金沢間が開業する前の北陸新幹線との乗客数の比率は60対40だった。金沢延伸後は45
対55に比率が逆転する見通しを示している。特に、毎日新聞(2015.03.05)によると、北陸新幹線
が開通したことにより、人の流れ激変し「JR8割、航空2割」予想とも報じている。

 

この動きに対し、2012年6月29日に北陸新幹線敦賀までの工事実施計画が認可された福井県は県民一
丸になり早期実現に期待が膨らんでいるだけでなく(大震災を経験した日本にとっても重要な国土政
策。政府はさらに、工期短縮を図るべきである―西川一誠福井県知事)、大阪や京都、奈良などの関
西圏の関係者もその影響予測を注視委している。そこで、考え方を変えてみた。敦賀から先のルート
は、フリーゲージトレイン(軌間可変電車)を使えば、敦賀―米原ルートが一番早く、しかも工費も
やすくなる上に、東海道本線の相乗りを考慮すれば敦賀-米原-大津-大阪-京都-奈良への負の影
響は払拭される上に、"琵琶湖ネックレス構想"の拡大版である、"中央日本周回新幹線構想"実現の夢
が現実味を帯びることになる。つまり、新潟港・富山港・敦賀港・舞港を基点として日本海経済圏
(朝鮮-中国-ロシア)との極東アジア経済圏構想も含め、大阪-名古屋-東京-新潟-金沢を新幹
線で結ぶこと可能となり、極東アジアのトップランナー広域経済圏が構築できる。これは面白い!
 

  

福井のグルメ二品

$
0
0

 

 

 

 

● へしこは海のチーズ

北陸新幹線の部分開業フィーバーをうけ、今夜はその延長の福井は若狭のグルメ二品にフットライト
を当てる。まず、へしこ。へしこは鯖を糠漬けにしたもので、福井を代表する特産品の一つで福井の
伝統的なスローフード。そのの昔、若狭湾で獲れた鯖は鯖街道と呼ばれる山道を通り、京都へ運ばれ
ていた。京の都人がこぞって求めたという質の高い若狭の鯖は、地元ではへしこに加工され、冬の貴
重なタンパク源として欠かせない存在。塩辛さの中に旨みがギュッと凝縮され、ビタミンB、鉄分な
どをバランスよく含みます。そのまま焼いてご飯にのせるだけで充分美味しいですが、特有の旨みは
パスタをはじめあらゆる料理の具材や調味料としても生かされている。長野圏には柿のゆべしのごと
く、蕪に挟めばへしこのミルフィーユにチェンジ。パスタにからめれば、チーズいらずのアンチョビ
風スパゲティに変身。勿論、うどん、ラーメン、丼にも仕えという保存食になり。世界の魚介類のチ
ーズとして展開できそうな"若狭のへしこは日本の伝統食品宝"である。

 

  

 

 ● 鮎がスイートフィッシュなら、ぐじはタイルフィッシュ

 若狭焼きで有名な若狭ぐじ(甘鯛)を御食国(みけつくに)、若狭焼きとは、一汐した若狭ぐじを鱗
を付けたままじっくり焼き上げたもので、京料理では若狭焼きの善し悪しが、板前の腕前の目安とさ
れるほどの伝統のある料理方法。若狭ぐじは和名をアカアマダイという。英語でタイルフィッシュと
飛ばれるほど、タイルのようにきらきら輝き美しい魚。福井県では夏場に刺し網漁で漁獲される他、
延縄(はえなわ)釣りで一年中漁獲される。その角張った頭の形から「屈頭魚(くつな)」と呼ば
れていまたが、それがなまり「くじ」「ぐじ」と呼ばれるようになる。若狭湾で獲れたすべてのぐじ
を「若狭ぐじ」と呼ばず「若狭ぐじ」と呼ばれるのには幾つもの高いハードルを越え命名される。

 

 

  

 

 

 

 

● 『吉本隆明の経済学』論 26 

 

   吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!       

 

    吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも
 異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったその
 思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何か。
 資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫る。 

    はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 第4章 生産と消費
 第5章 現代都市論
 第6章 農業問題
 第7章 贈与価値論
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき     

                                                         第1部 吉本隆明の経済学   

 第4章 生産と消費 

     2 消費論
    
     Ⅰ

     

  ヘーゲルの自然概念のかなめにあるのは、観察する理性にとって自然が段階化するという点で
 あった。この段時化によって自然は無機物や植物や動物に区分される。わたしたちが現代つかっ
 ている概念でいえば、ヘーゲルの段階化は、位相的な構造と順序の構造の結合を意味している。
 無機物は存在がそのものであり、それだけであるようなものだ。植物は存在が個別的であるだけ
 の存在だ。動物になると存在は個別的でありながら種としての区分をうけいれている。これは位
 相的な構造にあたっている。もうひとつ段所化は順序の構造をふくんでいる。生命の在り方とし
 て無機物・植物こ動物は順序的だとみなされる。また動物のうえに人間(ヒト)という順序を加
 えることもできる。もうひとつヘーゲルの段階化にはたいせつな特徴があった。これらの段階化
 された存在は、じぶんのまわりの外部の自然にたいして部分的な関係しかもちえないということ
 だ。

  いいかえれば段階化は自然との関係の部分化を意味した。ヘーゲルがあげた例をとれば、鳥類
 は天空がなければとぶことができない。だが天空という自然は鳥類がとぶためだけにあるわけで
 ない。だから鳥類の自然にたいする関係は部分的なものだ。おなじように魚類にとって水はなく
 てはならない生存の環境だ。だが水は魚類の生存のためだけにあるのではない。そこで魚類の水
 にたいする関係は全面的なものではない。これは獣類をとってきてもおなじだ。段階化された存
 在(自然)と、それ以外の自然との関わりは、こんなふうにいつも部分的なものだ。

  マルクスはヘーゲルの段階化の概念のうえに人間(ヒト)をかんがえた。順序でいえば動物的
 の上位に人間的をおいたといってもいい。そして人間とそれ以外の自然との関わりは部分的では
 なく全面的で普遍的なものとみなした。すくなくとも可能性としては人間だけが外部の自然にた
 いして、全面的な普遍的な関係をつくるものとかんがえようとした。これは道にいってもいい。
 じぶん以外の自然にたいして全面的で普遍な関係をもちうるものを人間(ヒト)と定義した。こ
 こで普遍的な関係は特定の構造でなくてはならない。マルクスはどうかんがえたかといえば、こ
 の普遍的な関係は、こまかくいえば直接に生存(生活)の手段である自然としても、また生存(
 生活)の行動の対象や材料や道具としての自然についても、全面的に自然を人間の非有機的な(
 無機物としての)肉体にしてしまい、またじぶん自身はそのとき有機的な自然(肉体)になって
 しまうという〈組み込み〉の関係によって、普遍的な関係は生みだされるとかんがえた。たとえ
 ば、道具や装置をあつかうばあいでも、農耕のように、ほとんど素手で耕すばあいでもおなじだ。

 道具や装置をつかって素材に手をくわえても、素手で地面に種子をまいても、人間は自然(物)
 を非有機的な肉体にしているのだし、このとき人間の方は筋力(の行使者)という有機的な自然
 に、じぶんを変化させていることになる。
 
  マルクスにとって、すぐにもうひとつの問題があらわれる。人間がまわりの自然とのあいだに
 この〈組み込み〉の関係にはいったとき、べつの言葉でいえば自然にたいして行動にうつったと
 き、この非有機的な肉体である自然と、有機的な自然であるじぶんの肉体との〈組み込み〉の領
 域から価値化されてゆくということだ。また価値という概念はここの領域のほかからは生みださ
 れないとみなされた。経済的なカテゴリーの言葉からこの関係を記述するとすれば、生産という
 概念をつかうか消費という概念をつかうほかに、この普遍的な関係はいいあらわせない。そして
 じっさいにマルクスは、生産という概念をつかって人間とのこりのぜんぶの自然との〈組み込み〉
 の普遍性をいいあらわそうとした。その極端ないい方の断片をいくつかあげてみる。


   宗教、家族、国家、法、道徳、科学、芸術等々は、生産の特殊なありかたにすぎず、生産の
   一般的法則に服する。

   歴史全体が、自然史の、人間への自然の生成の、現実的な部分である。人間にかんする科学
   が自然科学をそのもとに包括するように、自然科学はのちにまた人間にかんする科学をその
   もとに包括するだろう。すなわち、それは一つの科学となるであろう。

   思惟自体の基盤、思想の生命発現の基盤、すなわち言語は、感性的自然である。
   
                      (マルクス「経済学と哲学とにかんする手稿」)


  こういった断片的な文句は、マルクスの汎生産と汎自然とががっちりと組み込まれているとこ
 ろを、よく象徴している。たとえば宗教、家族、国家、法、道徳、科学、芸術などが生産の特殊
 な在り方だといわれると、嘘がいわれているのではないとしても、おおいに蹴いてしまう。そし
 て蹟く方が正常だといっていい。だがこのばあい生産という言葉は、自然と人間のあいだの関係
 という概念を経済学的な範時におきなおしただけの言葉なのだ。いいかえれば生産=関係を意味
 している。つよい直観的な論理がはたらいているので、たくさんの補いをつけなければならない
 としても、見事な判断になっている。だがわたしたちが言葉通りうけいれれば、だめなところが
 でてくる。もうひとつある。この方がたいせつなのだが、一種の論理のはぐらかしをうけた奇異
 な感じをいつもともなう。比喩的にいえば〈組み込み〉の概念が、二つのものがひとつに合体さ
 れたものであるため、余地、空隙、遊び、分離がなく、対立した概念がシステミック(組織がら
 み)に結合している印象をうけてしまう。人間とそのほかのぜんぶの自然との普遍的な関係は、
 人間の働きかけの面からは生産といっていいように、働きかけによって有機的な自然となった肉
 体(筋力)という面からいえば、消費にほかならない。じじつマルクスの消費の概念は生産にく
 つついた裏にあたっている。マルクスは書いている。


    消費は直接にまた生産でもあるが、それは、自然界において諸元素や化学的諸成分の消費
   が植物の生産であるのと同じである。たとえば消費の一形態である食物の摂取によって人間
   が自分自身の肉体を生産することはあきらかである。しかしこのことは、なんらかのやり方
   で人間を、なんらかの面から生産するものであれば、どんな種類のほかの消費についてもい
   えることである。消費的生産。しかしながら消費と同一のこの生産は、第一の生産物の破壊
   から生ずる第二の生産であると経済学はいう。第一の生産では、生産者が自分を物と化し、
   第ニの生産では、かれによってつくられた物が人間となる。だからこの消費的生産は――た
   とえそれが生産と消費との直接の統一であるとはいえI-本来の生産とは本費的にちがうも
   のである。生産が消費と、消費が生産と一致する直接の統一は、それらのものの直接の二元
   性を存続させる。  
                             (マルクス「経済学批判序説」)


  植物という自然の段階について、代謝の活動をここでは消費、すなわち生産だという〈組み込
 み〉の関係におき直している。自然界にたいして植物は諸元素や化学的な成分を提供されるよう
 に働きかける。そしてじぶんは酸素を提供しながら生長する。自然界は消費したのだし、植物は
 じぶんを生産したのだ。人間も段階として、おなじことをやっているというのが、このばあいの
 マルクスが言いたいことだ。 生産は同時に消費の行為であり、また逆に消費があるときかなら
 ず生産をモチーフとしていて、人間の行為はそれ以外のあらわれ方はしない。こういう生産と消
 費がシャムの双生児のようにひき離せない概念は、はじめにヘーゲルの自然の段所化をうけいれ、
 そのうえに人間とそれをとりまく自然とのあいだの相互行為をシステミック(組織がらみ)な〈
 組み込み〉として普遍化を企てたとき、どうしても避け難いものだった。

  古典派以後の経済学の概念では生産人という概念は生産行為に関係づけられ、消費人という概
 念は消費の行為に関係づけられ、それぞれが別の人間であることも、また同一の人間の別べつの
 局面での行為であることもできる。それは無意識に前提にされている。だがヘーゲルーマルクス
 的な考え方では、段階は観察する理性に関係づけられ、生産と消費の〈組み込み〉の関係は、人
 間の行為(行為的理性)に関係づけられるので、同一の人間の内部での区別にしかすぎない。

  具体的な例でいえば、ある一人の生産にたずさわる人間が、仕事以外の時間にレストランに出
 かけて料理を喰べた。この消費行為の局面では、かれは消費人だということになる。これはある
 一人の人間は生産にたずさわり、別の一人の人間がレストランで料理を喰べたとかんがえてもお
 なじことだ。だがマルクスのかんがえ方ではそうならない。ある一人の人間が職場で物の生産に
 たずさわった。このときかれは物を生産し、同時に生産する行為によって身体(のエネルギー)
 を消費したことになる。またある一人の人間がレストランヘ行き、料理を喰べて金銭を支払った。

  かれは消費行為をしたのだが、同時にそのことによって栄養を補給し、気分を安らかにするこ
 とで、かれの身体を生産したのだ。すくなくとも明日また職場で生産にたずさわれるほどに身体
 を生産したことになる。

 

  わたしにはヘーゲルーマルクス的な生産と消費の概念のほうが妥当なようにおもえる。生産人
 と消費人を人間のべつの局面とかんがえることは、近似的には差支えないようにおもえるが、あ
 くまでもげんみつにいえば、ヘーゲルーマルクス的な概念で生産と消費をかんがえざるをえなく
 なる。ただ人間は生産の場面でそれにたずさわっているときには、疲労がひどくこたえないかぎ
 りは、身体を消費していることには無意識だし、消費の場面では遂に、料理を喰べることによっ
 て、玉突きや、パソコン遊びをやることによって……身体や精神を生産していることは無意識に
 なっている。もうすこし留保すべきことがある。ヘーゲルーマルクス的な生産と消費は、どうか
 んがえても〈組み込み〉の息苦しさ、ぬきさしならない関係の感じがつきまとって、どこかで風
 穴をあけなくては我慢ならない気がしてくる。

  もうひとつあげれば、生産の行為の裏に身体の消費が附着していることは、その行為が理性的
 な内省の機会をもつか、あるいは身体の消費のあげく病的な症候を呈すれば気づくことができる
 が、生産の局面とそれに対応する消費の局面とが時間的にか空間的にあまりに隔っているばあい
 は、消費がいいかえれば身体の生産にあたることは、直接には指定できないことになる。このば
 あいには生産はすなわち消費であり、消費はすなわち生産であるというマルクスの概念は、一般
 的な抽象論の次元にうつされてしまう。そしてこのことは生産と消費の高度化にとって避けるこ
 とができないといっていい(図5参照)。

                                第一部 吉本隆明の経済学  

                                      (この項続く) 

 

 

 

  

 

 

グリッドパリティ達成!

$
0
0

 

 

 

● グリッドパリティ達成!

そも、グリッドパリティ(Grid parity)とは、再生可能エネルギーによる発電コストが既存の電力のコ
スト(電力料金、発電コスト等)同等かそれより安価になる点(コスト)を指す。つまり、太陽光発
電の発電コストが、従来の電力料金を下回ったことを意味し、再生可能エネルギーの実現に向けての
裏付けとアクションプランの策定と実行において成功したことを意味する。具体的には、システム価
格の低下を背景に2014年の発電コストが22円台/キロワットアワー(住宅用太陽光発電)を達成した
ことだ。

そこで、グリッドパリティ達成した後、市場拡大のために何を必要とすべきか、独立行政法人新エネル
ギー・産業技術総合開発機構(NEDO)が太陽光発電開発戦略をまとめ、20年までのシナリオを示して
いる。その太陽光発電開発戦略は、太陽光発電の大量導入時代を踏まえ、普及とともに社会を支えるた
めに何が求められるかを検討し、発電コストの削減だけでなく、社会から必要とされる課題を包括的に
捉え、座業としての基盤強化を盛り込んだシナリオを開示した。

同開発戦略は2013年までの数字を基にまとめているため、新たに2014年の住宅用の発電コストについて
試輝したところ、運転年数20年、割引率年利)3%、耐用年数(法定)17年、償却率/改定償却率0.
118/0.125を前提に、システム容量4キロワット、システム単価(工事費含む)を364千0円/
キロワットとし、年間0.36万円/キロワット/年の維持費で運転した場合、設備利用率を12%とす
ると発電コストは2014年度に20円台/キロワットアワーになった。NEDO斬エネルギー部太陽光発
電グループによると、住宅用の太陽光発電のシステム価格は、2013年に385千円/キロワットだった
のか2014年に364千円/キロワットと低下。電気料金も値上がりし、これらを理由にこれまで月割と
されていたグリッドパリティを達成したと説明している。国内での価格低減は、市場競争と技術開発
の成果だが、世界的な低価格傾向はシリコン原料価格の低下とモジュールの世界的な供給過刺にある。
また、設置設計でもバワコンとモジュールの比率を最適叱しており、これも発電コスト低減に寄与して
いるという。 

  

FIT(固定価格買取制)導入後の太陽光発電市場はメガソーラーなど産業用を中心に大幅な伸びとなり
全体の約74%を非住宅用システムで占めるようになった。住宅用も構成比こそ低いものの看実に増
加し2013度の導入量は導入量は130、7万キロワットになった。これは20112年度(FIT開始後7月~
3月)の96.9万キロワットに対し3割以上の伸びとなる。さらにFITによる認定容量(2013年7月~
2014年10月)も268.8万キロワットになっている。ただ、太陽光発電か大量に普及することにより
社会的課題も浮き彫りになったと同戦略では指摘している。

そのひとつか導入ポテンシャルの問題。住宅用は約2700万戸に潜在的なポテンンャルがあるとす
るが、そのうち導入可能な一戸住宅は約1200万戸で、残りの住宅およそ1200万戸は80年以前
の耐震基準しか満たしていない。さらにこのうち空き家か約150万戸を占め屋根形状からモジュー
ルを設置できない住宅もこの他約150万戸あるとされる。新たにモジュールを設置しようとするな
ら住宅の耐震強度を高めるために建て換えならず、導入可能とされる住宅でもすぺての一戸建ての屋根
に設置されるわけではなく、モジュールの軽量化や設置技術の改良などで潜在的なポテンシャルを高
める心配がある。また、新築の設置コストは364千円/キロワットが既築は400千円と開きがあり、
工事費の逓減が課題となる。

 

一方、太陽光発電の市場は発電事業施・発電支援などで事業を拡大させており、住宅市場でもFIT導入
後に発電支援など新たな○&M事業が注視され、需要のすそ野を広げている。O&Mは保守管理と性能
維持の二つに分けられ、これまで主に産業用の非住宅でニーズを吸収してきた。しかし住宅用でもオ
ペレションサービスやメンテナンス、アセットマネジメントなどに関心が生まれており、将来的な利
用も期待されている。例えばパワコンであればメンテナンス性を高めるため部品交換をしやすくした
り、バワコン専用の部品の開発でき、一般に10年とされているパワコンの寿命を20年に延長し低コスト
化にも繋げらることもできる。

また、モジュールの技術面からみた課題は発電の高効率化、低コスト化技術、信頼性の向上の3点で、結
晶シリコン型太陽電池の高効率化は製品レベルでモジュール変換効率20%を超えるものが販売され始
めたことから、20%以上の高性能セルの開発と量産化技術が求められるようになったとする。低コスト
化技術は基板薄切り型や切代(カーフロス)の低減で、製造プロセスの確立が急務。システム全体ではパ
ワコンや架台、設置工事などのコスト低減も必須と指摘した。このうちパワゴンはダウンサイジング
や変換効率、架台や設置工事は軽量化と施工性の向ト、が重要になるとしている。

 

 

● 『吉本隆明の経済学』論 27

   吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!       

  吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも異
 なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったその思
 考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何か。資
 本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫る。 

    はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 第4章 生産と消費
 第5章 現代都市論
 第6章 農業問題
 第7章 贈与価値論
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき     

 

                                                        第1部 吉本隆明の経済学   

 第4章 生産と消費 

     2 消費論
    
     Ⅰ

     

  この生産にたいする消費または消費にたいする生産の時空的な遅延については、もうすこし論  
 議をすすめることができそうだ。ここに個人的な消費が多様化してゆく動向を語るグラフがある。
 昭和55年(1980)年から昭和63(1988)年にわたる八年間の消費支出が多様化しな
 がら増加してゆく傾向をしめしたものだ。消費支出は高度(産業)化社会になるにつれて、必需
 的支出と選択的支出に分岐してゆき、その分岐の度合はますます開いてゆくことがわかる。そし
 てもうひとつ選択的支出のうち選択的な商品支出と選択的なサービス支出とが、また分岐してゆ
 くことがわかる(図6参照)。ここで、

  (1)選択的サービス支出  旅行、カルチャー・センター、外食等
  (2)選択的商品支出    家電製品、乗用車、衣料品等

 

   ここでもうすこしグラフについて立ち入ることができる。必需的支出、選択的サービス支出、
  選択的商品支出の割合はさきの図のようになる(図7参照)。
   この図は、さきのグラフとあわせてつぎのことを語っている。

    (1)必需的消費支出は、絶対量を増加させているにもかかわらず、割合(パーセント)とし
    ては 減少の傾向にあること。
  (2)選択的な商品支出と選択的なサービス支出は増加の傾向にあること。
  (3)さらに数字にこだわれば、必需的支出の割合は減少しながら半分(50%)の境界をこえ
    て、もっと低い割合に移ろうとする過渡にある。いいかえればわたしたちの消費生活は必
    需のだめの消費線からそれ以外のための消費線へと移行しつつあるといっていい。

  それ以外のための消費線とはなにか?わたしたちはなにのために消費生活をやっているのか?
  こう問われるべき段階にはいりつつあるのだから、それは問われなくてはならない。だがその
 まえに言うべきことがいくつかあるとおもえる。
  
  このばあいにマルクスのいう消費がすなわち身体の生産、生活の生産、生存の生産であるよう
 な消費は、このばあい表やグラフの必需的な消費支出にあたっていることがわかる。すると必需
 的な消費支出と生産とのあいだには時間的な遅延や空間的な遅延をかんがえなくても、対応が成
 り立つことがいえる。そこでさきの図5の生産と消費との関わりはすこし修正しなくてはならな
 いことになる(図8参照)。

  ここでは生産が同時に消費だというばあいの消費は必需的消費だけをさすことになり、選択的
 消費は生産にたいして犬なり小なり時空的な遅延作用をうけることになるといえよう。ところで
 ここでもうひとつ犬切だとおもわれることがある。それは遅延という概念だ。わたしたちはこの
 時空的な遅延が産業社会の高度化のカギをにぎっているものとみなしたい。なぜかといえば、こ
 の時空的な遅延のところで生産と消費のあいだの組み込みは、複雑な時空的なフラクダルに変容
 し、その結節点で価値化か起こるとかんがえることができる。そしてこの遅延の領域で産みださ
 れた価値は、生産が同時に消費であるというマルクスの価値領域にたいして、高次の価値領域と
 みなすことができる。高次の価値領域の成立はすなわち高次の生産業の成立を意味している。い
 いかえれば時間的な遅延を介してみられた空間的な遅延は価値を構成し、空間的な遅延を介して
 みられた時間的な遅延は意味を構成するといっていい。すこし具体的な例をつかってこの問題を
 より具体的に語ることができる。

  いまここに産業の高度化にいたるプロセスを掲げた表がある。産業の分野として、わかりやす
 くするため、さきにあげた選択的商品消費支出の品目に対応する家電と自動車の産業がどう高度
 化されるかを例として抽出してみる(図9参照)。
  ここで産業の高度化にあたるものは、高付加価値化、生産手段の高度化、関連技術の開発、多
 角化などに分類されていることがわかる。そしてこれらの生産の高度化は選択的な商品消費支出
 とのあいだの時空的な遅延のところで対応していて、そこで連結されている。高付加価値化や生
 産工程の改善はより時間的な遅延であり、技術開発や多角化はより空間的な遅延にあたっている。

 

  そしてもうひとつ犬切とおもわれることは、これらの産業の高度化の姿は、末端のところで、
 (サービスなどを介して)消費にひとりでにスイッチされているといえる。わたしたちはこの末
 端で消費にスイッチされる領域が、確定した輪郭をもちうるようになったとき、それを産業の高
 度化から、より高次産業への移行とみなす。そう定義できるようにみえる。

  ここであらためて産業の高度化と高次産業への転移、また高次産業の発生と成立とが、なにを
 意味するのかをかんがえてみる。わたしたちはたぶん常識でかんがえられないほどの高度化の契
 機にさらされている。

  第一に挙げられるのは、生産の多角化がいわば自然に移行するように、末端から選択的な消費
 につながっているところで、いつも高度化をかんがえることができる。もうひとつ第二にかんが
 えられることは、生産の本来の流れが自然に支流に移行しているときに産業の高度化とみなすこ
 とができる。たとえば製造業種を例にとってみる。するとこれらの全業種について、売圭尚から
 みた非本業比率の数字は与えられている。非本業とは、本来その業種の主流であるべきものから
 枝葉を多角化していった度合をあらわすとみなされる。昭和五四年度に全業種の非本業比率は、
 13.3%であった。昭和59年度には15.5%に上昇し、昭和61年度には19%になった。

  いいかえれば本来の業種の主流からの多角化がすすんでいったことを意味している。この多角
 化は高度化のひとつの支柱であることはいうまでもない。精密機械、繊維、非鉄金属、一般機械、
 鉄鋼などの分野で非本業比率は、全製造業種の非本業比率の平均売上高を超えている。いいかえ
 れば高度化が進行したことを意味している。とくに精密機械の分野では昭和六一年度に井本業比
 率は60%を超え、繊維分野では40%を超えようとしている。このことはいうまでもなく、売上
 高からみたばあい精密機械という分野が解体し、高次産業へ移行したことを意味している。たぶ
 ん使用価値として情報産業用の電子事務機器やOA機器や、高度情報装具、医療機器の部品とい
 ったような、高次(第三次)産業の次元へと解体し、転化してゆく過程をたどりつつあるとみな
 すことができよう。

  わたしたちはこの種の考察を堂々めぐりしながら、だんだんと高次産業についてひとつの像と
 輪郭をはっきりさせられるような印象をうける。ひと口にいえば産業の高次化(咄Ww)は素材
 を製造業の分野からあつめて、高付加価値化、生産手段の高度化、電子技術化、多角化などによ
 って空間的な遅延と時間的な遅延を産みだし、ひとつの構造に組み立てることを意味している。

 この組み立てはもちろん生産と消費とを連結することを目的にしている。そしてこの生産も消費
 もたぶん抽象的、井然性的なものだ。そしてそれにもかかわらず、わたしたちは人間の段階化さ
 れた自然のどの場面にも適応できる原型を、高次の自然(人工)と高次の人間(情報機械化)と
 のあいだに想定していることになる。

  Ⅱ

  

  消費社会と呼ばれているものはなにか。みたされない規定をわたしたちの考えてきた経路にそ
 って言いなおしてみなくてはならない。ある著書はこの言葉を、犬多数のひとびとが消費行動の
 ほうにこころを傾けている社会のようにうけとっている。またべつの著書は、ひとびとが消費を
 する社会の部分的な局面の意味に解している。そこではひとびとに消費をしいる設備や場所が集
 まっていて、おもに消費行動だけがおこなわれる。またべつの著書では、むしろ高次な産業社会
 とおなじ意味で消費社会という言葉がつかわれている。いままでとってきた考え方から消費社会
 をわたしたちなりに定義することができる。それをいってみれば、生産にたいする消費の時間的
 な、また空間的な遅延の割合が50%をこえた社会が消費社会ということになる。ちがう言い方も
 できる。

 必需的な支出(または必需的な生産)が50%以下になったのが消費社会だ。必需的な支出(また
 は生産)というのは、さきの消費論I図5、図6から食料、家賃・地代、光熱・水道通勤・通学
 の交通費など、日常生活として繰り加えし再生産するのにかかる支出(または生産)のことにな
 る。するとこの支出(または生産)は、マルクス的な概念による生産が消費である(または消費
 が生産である)部分、いい加えれば生産と消費が遅延なしに密着し組み込まれている部分にあた
 っていることがわかる。

  さきの図6(消費論I)の数値をみるとこの必需的支出は、夫婦の片方だけが働いているばあ
 い、昭和55年度で53.7%、昭和63年度で50.2%、また夫婦共働きのばあい、昭和55
 年度で50.1%、昭和63年度で47.2%となっている。すると共働きの夫婦のばあいをとれ
 ば必需的な支出は50%以下になっていて、わたしたちの規定の仕方では日本は消費社会にはいっ
 ていることがわかる。

  さきの図5(消費論I)はこの消費社会的な図像をしめしている。人口構成からいうと第一次
 産業(農・漁・林)は9.3%、第二次産業(製造・建設業など)は33.1%第三次産業(サー
 ビス・小売・卸・流通業)は57.3%となっていて、消費社会という呼び方は、第三次産業が
 50%をこえた社会の画像と対応していることがわかる。これは国内総生産の図像からもうらづ
 けることができる(図10参照)。



  もうすこし立ち入ってみる。約30年前の昭和31年をとると第二仄産業である農林水産業の
 国内生産の割合は約18%あり、それが30年間に3%まで減少している。第二次産業の主役で
 ある製造業は昭和32年には約19%だったが昭和62年には35%に増加している。また第二
 次産業を構成しているもうひとつの桂である建設業は、昭和32年から昭和62年まで大体8%
 から7%のあたりに固定している。一方で第三次産業のうち昭和32年から昭和62年にかけて
 30年のあいだに、はっきりと増加をしめしているのは小売卸業と金融保険業であり、減少して
 いるのはサービス業だといっていい。これをおおきく傾向としてとりだせばつぎのようになる。


  (1)第二次産業(農・漁・林業)は30年のあいだにはげしく減少している。
  (2)第二次産業の主役である製造業は、第二次産業(農・漁・林)の激減と建設業の現状維
    持をテコにして、割合としては30年間に増加している。
  (3)第三次産業(小売、卸業、金融、サービス、流通)は小売、卸業と金融保険業の増加な
    どをテコにして全体の50%をこえてきている。


  わたしたちは第二次産業の基幹である製造業の国内総生産はもっと比率がすくなく、また傾向
 としては現状維持か、すこしずつの滅少とかんがえていたが、むしろ増大していることは意外で
 あった。これは農業、漁業、林業などをはげしく喰いちぎって増加しつづけてきたことを象徴し
 ている。それならば製造業のうち何か増加のもとになっているのかを言ってみれば、昭和32年
 から昭和62年のあいだに、加工組立ての分野が11%から45%にはげしく増加していること
 がわかる。これと遂に、生活に関連した製造業は昭和32年の60%から昭和62年の18%に
 はげしく減少している。いってみれば必需的な生産にかかわる製造業は、はげしく減少し、組立
 て加工にかかわる製造業は、はげしく増加して第三次産業化へのかかわりの通路をつけてきたと
 いっていい。

                                  第一部 吉本隆明の経済学  

                                      (この項続く)  

 

  

 

反ボードリヤールの経済学

$
0
0

 

 

 

 

● 免震ゴムの何が不正なのか?

東洋ゴム工業が製造販売した建物の揺れを抑える免震装置に国に認定された性能を満たしていない製
品があった問題で、装置が使われていた建物では、建物の建設工事を一時中断するなど、影響や懸念
が広がっているという(NHK「NEWSWEB」2015.03.16 上図クリック)。ニュースを耳目し、組織
的な不正事件なのかと考えてみたが、免震ゴム機能の規定あるいはその評価方法について全くの無知
であることに気付かされ、不正かどうかの判断の先送りと、組織犯罪などを含めた現代的犯罪学につ
いて俯瞰の必要性に迫られたというわけだ。

 

建築物の基礎免震、橋梁や高架道路などの支承に、ゴム組成物と鋼板などの硬質板とを交互に積層し
た免震構造体が用いる。この免震構造体は、上下方向には高い剛性、せん断方向には低い剛性をもち
地震の振動数に対し固有振動数を低減し、振動の入力加速度を減少し、被害を最小限にするため、免
震構造体用ゴムは高い減衰性能が要求される。一般的に、ゴム組成物中に樹脂成分の配合量を増量す
れば減衰性能は向上する一方で、樹脂成分の配合量の増量に伴い、ゴム組成物の混練・ロール加工時
の加工性が悪化する傾向があり、ゴム組成物の加工性と、加硫ゴムの減衰性能は二律背反関係にある。
この対策として、ジエン系ゴムを含有するゴム成分100重量部に対し、ノボラック系のフェノール
変性キシレン樹脂を10~80重量部配合し、加硫ゴムの減衰性能とゴム組成物の加工性とをバラン
スを改善し、ジエン系ゴムとして、天然ゴムおよびブタジエンゴムの併用系を使用する新規考案が提
案されている(下図参照)。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 


この件については、残件扱いとして、再度掲載する。 

 

  

● 『吉本隆明の経済学』論 28  反ボードリヤールの経済学


 吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!       

  吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも異
 なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったその思
 考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何か。
 資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫る。
 

   はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 第4章 生産と消費
 第5章 現代都市論
 第6章 農業問題
 第7章 贈与価値論
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき     

                                                         第1部 吉本隆明の経済学   

 第4章 生産と消費 

     2 消費論

  Ⅱ

   

  いままでみてきたところからもあきらかなように、産業の高次化は、必需的な消費(または生
 産)支出の百分率が低下すること、それとは遂に遅延的な支出(または生産)いいかえれば選択
 的な支出(または生産)の百分率が伸びてゆくことと対立している。だがわたしたちが手易くみ
 られる著書では、どんな様式をとりながら産業は高次化してゆくのかについて、はっきりした画
 像をあたえているものはない。そこでわたしたちの考察の流れにそってこれを集約してみたい。

 第一にわたしたちは産業の高次化を、生産と消費の空間的な遅延、時間的な遅延化そのもの、お
 よび空間的な遅延と時間的な遅延の交差するところでおこる価値の高次化を意味すると規定でき
 るとかんがえる。もうすこし具体的にこの画像をはっきりさせてみたい。例えば、選択的な商品
 消費(生産)支出のひとつの分野、自動車産業のばあいをかんがえてみる。これを『白書』のわ
 け方にしたがってつぎのいくつかに類別してみる。

 (1)高付加価値化

    まずクルマの大型化とか、高機能のエンジンをつけて高い機能をもたせるばあいには、自
    動車産業の高次化という画像はほとんどかんがえなくていい。だがこの車に情報機能を高
    度にもたせようとして、電信、電話、受像、送信の設備をつけたとする。このばあいには
    はっきりと情報関係の機器を生産する他の分野の産業との連結がおこる。この連結は車の
    生産というところからは付加価値をつけくわえたということだが、他の分野の産業との網
    状化結合という視点からは、自動車産業が高次化する契機をはらんでいるといえよう。こ
    れは消費支出の側からもいうことができる。車が高い情報機能をうることによって、共詩
    的に複数の用途をなしとげることができるし、車にいて移動しながら複数の指令を送った
    り受けたりすることができるようになる。このばあいは空間的な遅延や時間的な遅延の多
    数回を一回化することによって、価値の高次化をうみだしているとみていい。

 (2)生産工程の改善
 
    組みたての工程を超自動化することで、たくさんの品種を少量生産するシステムをつくっ
    たとすれば、このシステムは他の分野のおなじシステムの連結によって組みたてられるか、
    あるいは他の分野のおなじようなシステムを組みたてるために、連結されて使用されるこ
    とになる。この連結はまえの図とおなじように車の組みたて産業の高次化の起源をなすと
    みなされる。

 (3)技術開発
 
    たとえばカー・エレクトロニクス装置を開発したり、セラミック製のエンジンを開発して
    り付けたりすれば、エレクトロニクス産業や高度なセラミック機械化の産業との連結が
    おこなわれることになる。これは自動車産業の流れとしては付加価値化にあたっていると
    みなせるが、他のエレクトロニクスやセラミックの産業との連結という面からかんがえれ
    ば、産業の高次化への萌芽をもっていると理解される。

 (4)多角化
 
    たとえばカー・エレクトロニクス装置を車につけることで、他の情報関連のサービス業と
    連結して、使用の目的を多様にすることができる。この使用の多様化はそれ自体が高次産
    業そのものである。また他の産業分野との連結という面でも産業の高次化の契機をもって
    いるといっていい。
    このばあいレストランや外食産業と連結して料理の宅配にこの車が使用されたとすれば、
    この使用目的の多角化は、第一次、第二次産業との連結として実現したことになる。また
    情報関連産業と連結して空間的な遅延や時間的な遅延を其詩的に重層化するために使用さ
    れたとすれば第三次産業との連結が実現されたことになる。

  こういった考察は、わたしたちに産業の高次化とはなにか、それはどんな局面でおこるかにつ
  いて示唆を与えている。さまざまな言い方ができるだろうが、わたしたちはつぎの二つに要約
  することができる。


    (1)ひとつの産業分野のなかで生産の工程の改善や付加によって、生産と消費との空間的な
     遅延や時間的な遅延を共時化することで価値をうみだそうとするときは、産業の高次化
     の契機をもつ。またそのばあい遂に他の分野の産業と連結することで空間的な遅延や時
     間的な遅延を産出するとき、その遅延の産出は産業の高次化の契機をもっている。
  (2)ひとつの産業分野が他の分野の産業と連結されて網状化かすすんだあげく、本来の産業
     分野よりも網状化の支脈のほうがあたかも本来のような比重を占めるようになったとき、
     それを産業の高次化とみなすことができる。


   この(2)のばあいについては、売上げ高の面からみた図表をみつけることができる(図11
  参照)。この図表をみてゆくと精密機械の分野だけは、非本業的な売上高が50%をこえている
  ことがわかる。売上高はかならずしも生産の比重と一致しないともいえるが、およそのところ
  で売上高の大小は生産の比重の大小と対応するとみなせる。すると精密機械の製造の分野では、
  はっきりと産業の高次化がすすんでいるといえる。傾向としていえばすべての産業の分野は現
  在に近づくほど非本業化の比率はおおきくなっている。繊維と非鉄金属の分野で非本業化か50
  %をこえることは時間の問題だといっていい(図12参照)。
 

    


   

  わたしたちは産業の高次化する契機を、他の分野の産業とのあいだの連結と、もうひとつその
 連結によっていままで本流でなく非本業的な支脈だとみなしていた連結の流れが50%をこえてし
 まって、その方が本流のように変容してきたとき、様式としてありうるものとかんがえてきた。
 だがおなじような連結は、おなじひとつの産業分野のなかでもおこりうる。

  たとえばひとつの自動車産業を具体例としてこれをかんがえてみる。トヨタの自動車産業にお
 いて従業員の数はジェネラル・モータースの約70万人にたいしてわずか6万人くらいであると
 いわれる。しかしながらこのトヨタの第一次下請の中小企業の数は600強というデータになっ
 ている(榊原英資『資本主義を超えた日本』)いいかえれば下請は高度に分業化されている。
 そしてこの第二次下請のそれぞれの企業は、第二次下請の納入業者数百と取引きしているとされ
 る。いいかえればトヨタ自動車の単独の企業として600のまた数百倍の下請企業と毛細管のよ
 うに連結をひろげていることになる。これを一般化して図示すれば図Bのようになる。


  おなじ企業系列のあいだのこの微細で膨大な網状組織は、それ自体が産業の高次化の契機をも
 っているといえる。もっと比喩的な言い方をすれば下請の膨大な数の分業システムのそれぞれが、
 また膨大な数の分業システムと連結しているこの画像は、それだけで末端のところで生産が消費
 に反転し、消費が生産に反転する契機を暗喩している。このような末端の連結システムをもつこ
 とは、それ自体が産業の高次化を意味しているといってよい。そしてほんとうをいえば産業の組
 織システムとしてこの標識は、究極にちかいものだといってもよい。この企業の内部系列におけ
 る網状化のシステムには、もうひとつ連のばあいをかんがえることができる。ひとつの下請の中
 小企業が、単独の親企業を指定するだけではなく、高度な部品メーカーーとして複数の親企業を
 指定するばあいである(図14参照)。

  このばあいにも網沃化自体が企業の高次の産業化の契機をもっていることが指摘される。ひと
 つの産業分野を基幹にして下請の企業数が、幾何級数的に増殖してゆく画像は、究極的にはその
 ひとつの基幹になっている産業が、裾野の方に微細な、高度な、ひとつの部品の生産に、ほとん
 どひとつの企業が対応しているという画像に収斂してゆく。一台の自動車はそのあらゆる小さな
 部品毎に一企業の高度な専門的な製造工程が対応しているという画像をいだかせることになる。

 これはたとえば自動車産業を産業としての高次化という概念にぴたりと適合させずにはおかない
 とおもえる。消費者がこのようにシステム細胞化された産業の集大成として、自動車にたいして、
 選択的な商品として消費支出したとき、かれは部品企業の幾何級数的な増殖によってもたらされ
 た空間的な遅延と時間的な遅延の細胞のように微細な網状の価植物を購買しているのだといって
 よい。また遂に一下請の中小企業がほとんど一種類の高度な部品を製造しており、それが一基幹
 となる産業ごとに幾何級数的な数で第一次下請から第二次下請の方にむかって増殖しながら分布
 している産業の構成をかんがえると、製造(生産)の様式としては極限の形をもっていて、もは
 や産業は第二次以後の高次な段階にすすむよりほかに、この製造(生産)の画像をこえる方途は
 ないことを、暗示しているようにみえる。

  わたしたちは意図的に生産し、そしてそれを消費する。たぶん動物は(ほとんど)意図的には
 生産しないで、消費だけはやる。そして共時的にいえばこの過程で人間も動物も昨日とおなじ身
 体状態を残余としてのこす。この残余を通時的にいえば生まれ、育ち、成熟し、老い、死ぬとい
 う過程がのこることになる。なぜわたしたちは意図的には生産しないで動物一般のように消費だ
 けをやって、残余として身体状態を昨日とおなじに保つということに終始しなかったのだろうか。
 ここにはメタフィジックが関与しているようにおもえる。

  わたしたちが分析し解剖したいのは、消費社会と呼ぶのがふさわしい高度な産業社会の実体な
 のだが、この画像はふたたび動物一般の社会に似ているようにおもえる。動物一般の社会は(ほ
 とんど)意図的な生産をやらないで消費行動だけをやって、あとに残余として昨日とおなじ身体
 状態をのこす。わたしたちがそのなかに生活し、対象としてとりあげている高度な消費社会でも、
 意図的な高度な生産をあたかも生産が(ほとんど)行われないかのように考察の彼方へ押しやり、
 消費行動だけが目に立つ重要な行為であるかのようにあつかおうとしている。これはラセン状に
 循環して次元のちがったところで動物一般の社会に復帰しているような画像にみえてくる。相違
 はわたしたちのなかにメタフィジックが存在するということだけだ。このメタフィジックによれ
 ば消費は遅延された生産そのものであり、生産と消費とは区別されえないということになる。



    


  Ⅲ

  

  消費社会の画像を、記号の象徴がとびかい、物に浸透して、物と空気のあいだのいちばん強固
 な界面があいまいになった神話の世界にしてしまったのは、ボードリヤールだ。そこには大胆な
 踏みこみといっしょに、ひどい判断停止があり、哲学と経済学の死に急ぎがつきまとっている。

  いままでわたしたちが論議してきた文脈からいえば第三次産業に産業の重心が移ってしまった
 社会(第三次産業が全産業の50%以上を占めてしまった社会)が、物質的な生産が終焉し、記号
 が物のかわりに消費される社会とみなされている。これは現在の高次産業社会の実像とも、可能
 な想像図ともまったくちがう。

  減衰が死に、移行が分断におきかえられ、そこにボードリヤールの好みが集約されている。い
 ちばん実像とちがうところは、第二次産業の社会(製造・エ業・建設業等)までで資本主義社会
 の概念は終焉とみたてられており、商品生産物をめぐる価値法則、いいかえればスミスからマル
 クスまでの古典学派のつくりあげた価値法則はおわり、象徴的な価値が構造体として流通すると
 みなされていることだ。わたしたちはまったく高次産業社会にも、そのあとにもそんな画像をつ
 くろうとしていない。可能性としてだけいえば第三次産業よりも高次の社会はかならず生産につ
 いての価値法則を貫徹するし、マルクスの価値概念は拡張し、修理されなくてはならないとして
 も、ボードリヤールのいうような象徴の記号と物との境界をおびやかす事態などどこにもありえ
 ないとかんがえている。

  これはわたしたちとボードリヤールとが根本的に消費社会の画像をちがえていることを意味す
 る。第三次産業に重心をうつしてしまった社会を、資本主義社会の死と等価におき、生産の死、
 労働の死、物の価値法則の死、象徴交換の神話と死を語るとき、ボードリヤールは、すこし早ま
 ったラヂカリストにみえてくる。かれは壮大な物の体系の死から、ちょっとみると楼小にしかみ
 えない物の氾濫と分布への転換を、産業社会のなかに崩壊作用として見つけたしてきた。鋭敏で
 ユーモアに富んでいるが、いくらか死の画像におびえ、その論理化を急ぎすぎているように見う
 けられる。

  死はいつも向こうからこちらへやってこなければほんとうの死の像とはおきかえられない。だ
 がそれでもボードリヤールほど本気に消費社会の絶体絶命の像を描こうとしたものはいないとお
 もえる。そこでボードリヤールを批判的に通り過ぎることは、たぶんさまざまな消費社会の画像
 を批判的にあつかうことを象徴するにちがいない。わたしたちは ちょうどそこまでやってきた。

  ボードリヤールが挙げている消費社会の特徴を要約して順序不同に列挙し、必要ならば註釈を
 つけることからはじめてみる。

  (1)消費社会では、マス・コミュニケーションが三面記事的性格をもつ。いいかえれば一方
     では当りさわりなく、どれもこれもおなじように表面だけしかないのに、他方では煽情
     的、非現 実的な記号を、その表面に氾濫させて実像をわからなくさせている。このば
     あいの一方と他方がなにをさすかは、以下の項目ですこしずつはっきりさせられる。

  (2)消費社会では、物が消費されているようにみえながら、第一義としては象徴的な記号が
     消費されている。現実の物を消費すること自体は二の次なのだ。こういうボードリヤー
     ルの言い方は恰好がよくいっているが、かなりあいまいだ(あいまいで恰好がいいこと
     はボードリヤールの高次社会像の本質的な特徴だといえ亘。わたしたちの言葉で註釈を
     つければ、消費社会では選択的なサービス消費(娯楽・教養・文化・医療・旅行等)が
     主体とかんがえられるべきで選択的な商品を購買するための消費支出、また日常必需品
     の消費支出は第二義的なものだという意昧にうけとれる。

  (3)現実の世界、政治、歴史、文化と消費社会の消費者との関係は、利害、投企、責任など
     のかかわりをもたない。そうかといってまったく無間心な、かかわりのない位相だとも
     いえない。もちろんよく認識されているという関係でもない。消費社会の消費者の典型
     的な態度は、世界情勢、政治、文化などにたいして「否認」の関係にある。こういう言
     い方から、だんだんと消費社会と、そのなかの一般大衆にたいするボードリヤールの描
     いている像が姿をあらわしてくる。
  (4)消費社会の一般的な大衆の生活は、政治、社会、文化の領域と「私生活」の閉じられた
     領域とに分裂した日常生活になっている。べつの言葉でいえばじぶんたちの日常生活は
     平穏無事であることを望み、そんな生活にひたりながら、ベトナム戦争とかアフリカの
     飢餓とかが、情報や映像になっておくられてきて、記号と像の刺戟を与えてくれれば程
     よい日常だとおもわれている。

  (5)消費社会では、現実、社会、歴史のなかにおこる緊張から解除されて、弱者(一般大衆
     のこと)が幸福であることが理想として目指される。そこでただ消費社会の「欲望と戦
     略家」に左右されるだけの、苦労や心配事のない大衆の受動性が支配的な社会の雰囲気
     になる。そしてこの受け身の平穏に、「罪の意識」を感ずることをまぬがれるために、
     マス・メディアによって三面記事的なカタストロフに仕立てられた事件のあつかいが氾
     濫する。ボードリヤー ルにいわせると自動車事故のニュースというのは、消費社会の
     「日常性の宿命」をいちばん見事に具体化した象徴的な事件だということになる。車が
     つぶれ血が飛び散るといった事件の映像が皮膚のちかくで出現するからだ。

  (6)消費社会は「脅かされ包囲された豊かなエルサレム」たらんと欲している。ボードリヤ
     ールに言わせればこれが消費社会のイデオロギーだということになる。


  ひとまずこれくらいで中休みにして、註釈をつけよう。こういうボードリヤールの言説には批
 判的な感想をすぐ申し述べることができる。第一に、ボードリヤールが描いている消費社会の画
 像は、ひとびとが(一般大衆が)世界の情勢にも社会や政治や歴史の現状にもあまり関心をもた
 ず、じぶんの豊かな消費生活だけを大事に抱きこんで日常をおくっており、そのくせ何かドラマ
 テイックな惨劇や事件がじぶんたちの生活社会以外のところでは、映像や記事の象徴としておこ
 れば刺戟的だなどとかんがえている社会だとみなされている。

  つぎに言えることは、消費社会とは何か、はっきりした社会経済的な把握をしめさない(しめ
 せない)うちに、トリヴィアルな修辞的な断片をあげつらって、否定的な言説をつくっているこ
 とがわかる。現実、社会、歴史の緊張にあまり関心をむけずに、無数の弱者(一般大衆)が平等
 な幸福をめざし、せいぜい身近な日常生活の場面でおこる宿命的な大事件は、自動車事故くらい
 だ。こういう弱者(一般大衆)が受動的である社会が、どうして否定的な画像で描かれなくては
 ならないのか、どうしてみくだされなくてはならないのか、わたしにはさっぱりわからない。

  知識が体系をもち教養がはっきりした輪郭と厚昧を帯びているという錯視をもっか知識エリー
 ト意識からの愚痴話か、あるいは弱者一般大衆)を侮蔑し、自分をそこから択りわける知的エリ
 ートを気取りながら、弱者(一般大衆)の解放を理念として標榜して、実際は弱者のための地獄
 をつくってきたスターリニズム周辺の知識人という以外の像を、ボードリヤールのこの種の言説
 からみちびきだすのは不可能におもえるからだ。もしボードリヤールのいう「弱者の幸福」が否
 定やおちゃらかしの対象になるとすれば、すくなくとも政治的理念、社会的理念はいっさいこの
 世界に不要だということになる。

  弱者が知識人の知的専制下におかれた「知識エリートの幸福」を目指す社会などは政治的エリ
 ートの専制による「政治的エリートの幸福」を目指して、最近破産を露呈した社会主義の社会と
 おなじように、茶番にも何にもなりはしないのだ。わたしたちは消費社会の理論的解剖という現
 在の課題に踏みこみながら「消費社会は脅かされ包囲された豊かなエルサレムたらんと欲してい
 るのだ。これが消費社会のイデオロギーである」などと、落ちをもてあそぶわけにはいかない。

  消費社会とは何かという、解剖そのことが重要であり、消費社会にたいする否定的レッテルや
 肯定的レッテルなどは論理をはぐらかし、判断の停止の方に誘導してゆくほかに何の意味もなさ
 ない。

 こういう課題をボードリヤールが回避しているのは、まったく不可解というほかない。この種の
 手のこんだ倫理的判断停止ならば哲学者、社会学者、文学者の顔をして、世界中の文化の現状を
 牛耳りながら、その実スターリン地獄をいまも支えている連中が、いたるところでやっている。

 ボードリヤールは消費社会を誇張した象徴記号の世界で変形することで、資本主義社会の歴史的
 終焉のようにあつかっている。実質的にいえば産業の高次化をやりきれない不毛と不安の社会の
 ように否定するスターリニズム知識人とすこしもちがった貌をしていないとおもえる。わたしに
 は消費社会の画像が、わたしたちの感受性と理念に問いかけてくるものは、ボードリヤールがと
 きに落ちこんでいる退行による否定や欠如による否定とは似てもにつかぬものにおもえる。押し
 つけてくる肯定と、押しつけてくる格差の縮まり、平等への接近に、どんな精神の理念が対応を
 産みださなくてはならないか。ここではまったく未知のあたらしい課題が内在的に問われている
 とおもえる。

                                 第一部 吉本隆明の経済学  


ボードリヤード批判として、『松岡正剛の千夜千冊』(交貨篇 0639夜 「消費社会の神話と構造」)
の書評――それはひとつには、このように社会の価値の創発契機をシステムの中にことごとく落とし
てしまっているのは、言語学・経済学・精神科学などの人間科学そのものの体たらくでもあって、ま
ずはその「知を装う欲望消費」をこそ食い止める必要があるということである。しかしここには、い
ったい人間が発見してきた科学というものは何かという根底を批評するしかない覚悟と計画も含まれ
て、少なくともボードリヤールのロジックでは二進も三進もしない問題も待ちうける――が参考にな
った。

                                      (この項続く)  

 

人命は鴻毛より軽し Ⅱ

$
0
0

 

 

 

 

●  人命は鴻毛より軽し Ⅱ

チュニジアの首都チュニスのバルドー博物館で18日、銃を持った武装集団が外国人観光客らを襲撃
し、同国のハビーブ・シド首相によると、日本人3人を含む外国人17人とチュニジア人2人が死亡
したという(朝日新聞、2015.03.19)。目的のためには手段を選ばぬ"聖戦"とはなんたる虚無(イス
ラム的)かと唖然となる。これに先立つ、ロシア国営放送によると、昨年のウクライナ危機でのクリ
ミア併合時、核兵器の準備をしていたことを明らかにした。プーチン大統領は「 核兵器の準備をせ
ざるをえなかった 」との発言に対し、長崎県平和運動センター被爆者連絡協議会の川野浩一議長が
「新たな被爆地を作ろうというのか。核兵器廃絶を達成しようとする国際的な流れに逆行する発言で、
憤りを感じる」と訴え抗議文を送っている(2015.03.19「読売新聞」)。このプーチン発言もなんた
る虚無(スラブ的)かと驚き、うかうかしていられないのでは?と、身を引き締められる思いに駆ら
れる。



 

● 『吉本隆明の経済学』論 27

   吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!       

  吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも異
 なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったその思
 考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何か。資
 本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫る。 

   はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 第4章 生産と消費
 第5章 現代都市論
 第6章 農業問題
 第7章 贈与価値論
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき      

                                                         第1部 吉本隆明の経済学   

  第4章 生産と消費  

     2 消費論 

  Ⅲ

  

  ボードリヤールは、1965年度において(フランスでは)行政機関等からの第三者支出され
 た消費予算は全消費の17%で、その内容は、

   食料品と衣類            1%
   住居、運輸、通信施設       13%
   教育、文化、スポーツ、厚生部門  67%
 
 だと述べている。わたしたちの文脈に洽っていえば大衆の生活必需支出にたいして14%、選択
 サービス支出にたいして67%が補充されている消費社会の実態への国家の寄与をしめしている
 ことになる。この効果を選択的サービス支出である教育について、かれは確かめている。
  ボードリヤールによれば、フランスでは17歳の少年少女の就学率は、全体で52%だとされ
 る。その内訳は、

   上級管理職、自由業、教員の子供  90%
   農民、肉体労働者の子供      40%

  また、高等教育にすすむ機会

   上級管理職、自由業、教員のばあい 3分の1以上
   農民、肉体労働者のばあい     1,2%


  そこで行政機関等による第三者支出が、階層の固定化をゆるめ、教育の不平等をなくし、教育
 費を再分配する効果は、ほとんどないとボードリヤールはのべている。この数値が正確ならば、
 フランスにおける階層の固定化はたしかに強固なものだとうけとれる。だが第三者消費支出の効
 果をこれで測ることはできないはずだ。たぶんフランスでは国家が産業社会に規制力を発揮して
 いる(法律、法規などを介して)割合はもともと30%くらいだとおもえる。その制約のもとで
 第三者消費予算17%のうちの、また六七%にあたる教育、文化、スポーツ、厚生などの割当て
 が個々の教育支出に寄与できる率は、はじめから取るにたりないことは、わかっているからだ。
 因みに日本のばあいについて、教育の階層別の均等、不均等に言及してみる。
 
 『白書』(『国民生活白書』昭和六三年度)によれば、全階層を1分校からV分校まで所得にし
 たがって分ける。1分院がいちばん所得がすくなく、V分校がいちばん所得がおおい階層とする。
 これらの分院のそれぞれについて、大学生の子供をもつ家庭の割合をみると、

 

  つまりはっきりと選択消費支出が半分を超えて、わが国が消費社会と呼べるようになったとい
 える昭和61年をとれば、第1分院と第V分院、いいかえれば消費社会の最低の生活程度と最高
 の生活程度の階層のあいだの高等教育にすすんだ子供の割合は、十の校のおなじオーダーにあっ
 て、ほぼ同等といっていい。わたしにはこの数値のほうが消費社会の実態に適っているとおもえ
 る。フランスの社会が特殊で階層の固定化が強く、どうにもならない社会という画像が与えられ
 る。

  たぶん30年以前には第1分校では、家庭の生活経済がゆるさないから、大学進学をあきらめ
 ろと子弟にいう親はありえた。またすこしでもはやく働いて家計を肋けよという親もありえた。
 第V分校ではそのころでも、子弟はすべて大学教育をうけるのがあたりまえということはあった。
 この格差は「無」と「有」の格差だといえよう。現在では数値のしめすところで、第1分校と第
 V分院のあいだに、教育費の支出について格差はほとんどないことをしめしている。ここには消
 費社会の本質が描き出されている。

  ひと口にいえば、すでに飽和点に達した生産的消費の分野では、格差は縮まって相対的な平等
 に近づいているということだ。もっと判りよくいえば、子弟を大学に進学させるという分野で一
 家族が100人の子弟をもつことなどありえない。たかだか数人で子弟教育費は極大に達する。
 そういう分野では最低所得の階層と最高所得の階層が、格差を縮め、平等に近づく可能性が生じ
 るということだ。消費社会というのは、こういう飽和点に達した生産的消費の産業分野から、し
 だいに高次化してゆく社会のことをさしている。これを消費社会の定義としてもいいくらいだ。
 消費社会(高次産業化社会)にたいする肯定も否定も、この本質を本質としておいたうえでなさ
 れるのでなければ、まったく無意味だといえる。この意味ではボードリヤールの消費社会論は、
 意味をなさない。

  わたしたちはだんだんとボードリヤールの理念の批判の核心に近づいていく。
  ボードリヤールは、凡庸な左翼進歩知識人の誰でもがいうこととおなじことを、繰返しいいは
 じめる。消費社会は(ほんとうは高次産業社会はといいなおすほうがいい)平等な消費可能性へ
 万人を近づけ、格差をなくしていった。テレビ、車、ステレオなどは以前は特権的な階層だけに
 しか手に入らなかったのに、いまでは万人が(一般大衆が)誰でも手に入れられるようになった。
 これはただのありふれた事実だが、ボードリヤールによればこの平等への格差の縮まりは、うわ
 べだけで、社会的矛盾や、不平等の内在をおしかくしていることになる。だがわたしにはそんな
 馬鹿げた言い草はないとおもえる。テレビ、車、ステレオなどが以前は一部の特別な階層だけが
 自由に購買できたのに、いまでは万人(一般大衆)が誰でも購買できるようになったということ、
 いいかえれば選択的な商品の消費支出に財力をまわすことができるようになった消費社会の出現
 は、あきらかに弱者のボードリヤールのいう「平等」な消費の「幸福」にむかって格差を縮めた
 ことを意味している。形式も表面的もなければ、社会の内在する不平等をおしかくしてもいない。

 これはたんなる事実の問題だ。この事実を否定的な言辞で迎えるのは左翼インテリ特有の根拠の
 ない感傷と大衆侮蔑的な言辞にすぎない。たとえば上級管理職は車3台をもつことができるのに、
 肉体労働者や農民は車1台しか購買できないといった格差は、すべての選択消費についてありう
 るだろう。だが車3台を特権的な上級職は購買できるのに、農民や肉体労働者は車をもつことが
 できないといった格差とは雲泥の質のちがいなのだ。何となれば上級管理職がどんなに財の余裕
 があっても乗用車を10台も20台ももつことはまったく無意味だからだ。そうだとすれば消費
 社会は、車の購買について上級管理職と肉体労働者のあいだに車3台と1台の格差以上のものを
 消滅させてしまったことを意味する。すくなくともそう理解するのが実態にかなっている。もち
 ろんテレビ、車、ステレオ以外のものについて、消費社会はまだたくさんの社会的矛盾や不平等
 を残存させている。それは解決されなくてはならない。

  だがこのことはボードリヤールのいうような、テレビ、車、ステレオのような消費財の購買に
 ついての「平等」はうわべだけのもので、社会的矛盾や不平等の深刻な内在には手が届かないな
 どということとは、まったくちがっている。テレビ、車、ステレオについての不平等の解消は、
 社会的矛盾や不平等のうちの一部分が解消されたことにほかならないのだ。

  ボードリヤールはだんだんと馬鹿げた言説の核心に近づく。肉体労働者と上級管理職の支出の
 間の差異は、(フランスでは)生活必需品で100対135にすぎないが、住居設備では100
 対245、交通費では100対305、レジャーでは100対39になっているとボードリヤー
 ルはいう。そして「ここに、均質な消費に関する量的な差を見るべきではなくて、これらの数字
 から、追求される財の質に結びついた社会的差別を読みとるべきなのである」(ボードリヤール
 『消費社会の神話と構造』今村仁司・塚原史訳)と述べている。わかしには何と愚かなことを言
 うのかとおもえる。肉体労働者と上級管理職の支出のあいだに、生活必需品で100対135の
 格差しかないのは、食料品や光熱費などのような日常必需品では、たとえば上級管理職であろう
 が肉体労働者であろうが、ひとの3倍も5倍も料理を食べることなど不可能だし、ひとの3倍も
 5倍も上等な質の食料をいつも料理することなど意味をなさない。格差比率がすくなくなるりま
 えだとおもえる。住居設備や交通費が2~3倍の格差をもつことも、そんなに深刻な意味をもち
 えない。消費社会は賃金や所得の平等が実現した理想社会ではないなどとあらためていう必要が
 どこにあろうか。また肉体労働者が10日間のレジャーをとることができた。上級管理職が39
 日のレジャーをとったために、レジャー費の格差が100対390になった。ボードリヤールは
 これが消費についての量的な差ではなく、社会的差別を読みとるべきだと主張する。

  だがボードリヤールは消費社会を、所得の平等が実現した共産主義社会でなくてはならないと
 おもっているのだろうか。わたしはひとかどの知識人がこういう言ってみるだけの欠陥の言説、
 言説の欠陥を得々として語り、それによってスターリニズムの世界支配に寄与してきた歴史をか
 んがえると肌に粟を生ずる。肉体労働者は一日のレジャーももちえないのに、上級管理職は39
 日のレジャーをもつことができた。この「無」と「有」との格差を消費社会は「有」と「有」の
 相対的な格差に変貌させた。わたしには肉体労働者をそこまで経済的に解放してきたことさえ、
 「無」であったときに比較して格段の「平等」への接近だとおもえる。消費社会にたくさん残存
 する社会的矛盾や不平等を批判するのに、所得が万人に平等な架空の社会を基準におくなど、ふ
 ざけはてた言い草だとおもう。

  ボードリヤールは消費の概念を、健康、空間、美、休暇、知識、文化など第三次産業の中心に
 おかれた分野にまで踏みこんだうえで、おなじ倫理(というよりも固定観念)のほうへ誘導して
 いる。

 
   健康や空間や美や休暇や知識や文化への権利が口々にいわれている。これらの新しい権利が
   出現するたびに、新しい官庁が生まれている(保健省、余暇利用省)-美観やきれいな空気
   を保護する官庁というのも出てくるかもしれない。これは制度化された権利によって公認さ
   れるだろう個人的かつ集団的な一般的進歩を表現しているらしいが、この現象の意味はあい
   まいであり、そこに逆のものを読みとることが可能である。

   空間への権利が生まれたのは、万人のための空間がもはや存在しなくなり、空間と静けさが
   他人の犠牲の上に成り立つ一部の人びとの特権となった後のことであり、同様に「所有権」
   が生まれたのは、土地をもたない人間が出てからのことであり、労働に対する権利が生まれ
   たのも、分業の伜のなかで労働が交換可能な商品となり、その結果もはや特定の個人に属さ
   なくなった後のことなのだ。同じく、かつて労働がそうであったように、「余瑕への権利」
   の出現も、悠々自適の段階から技術的社会的分業の段階への移行、すなわち余暇の終焉を予
   告しているとはいえないだろうか。

   豊かな社会のスローガンや民主主義の宣伝ポスターとして吹聴されているこれらの新しい社
   会 的権利の出現は、したがってそれらの権利に関連する諸要素が、階級(あるいはカースト)
   の特権の差異表示記号の地位を得ることになったことの徴候である。「きれいな空気ヘの権
   利」の意味するものは、自然の財産としてのきれいな空気の消滅とその商品の地位への移行、
   およびその不平等な社会的再分配という事実である。したがって資本主義システムの進歩に
   すぎないものを、客観的な社会の進歩(モーゼの律法衣に刻まれるような「権利」)ととり
   ちがえてはならない。資本主義的システムの進歩とは、あらゆる具体的自然的価値が徐々に
   生産形態、つまりド経済的利潤、・社会的特権の源泉へと変質することなのである。   

              (ボードリヤール『消費社会の神話と構造』今村仁司・塚原史訳)

   わたしたちはボードリヤールのあやふやな論理にここまでつきあう必要はない。だがここが消
 費社会と呼ばれている社会の産業的な構造でいえば、肝要な第三次産業の系列におかれた場面な
 のだといえる。健康、空間(緑)、美(コスメティック)、休暇(レジャー)、知識、文化は高
 次産業の中心にやってくるとともに、ボードリヤールのいうようにあたらしい国家官僚の職務が
 登場してくるかもしれない。そしてかれの言うように健康が産業や国家責務となるのは不健康が
 まんえんしたからだし、空間がそうなのは万人のための空間が存在しなくなり、余暇がそうなっ
 たのは悠々自適の生活かおわったからだし、知識や文化がそうなったのは、叡知が失われたから
 かもしれない。だがそのことの意味はボードリヤールのいうところとまったくちがう。ひとりで
 に健康でひとりでに空間をとりもどし、美や休暇や知識や文化や空間や水でさえも、それを万人
 (一般大衆)の平等な所有に近づけるためには、それを保護するのではなく、あたらしく造りだ
 すよりはかないことを意味している。これが自然への働きかけが高次産業化することの本質なの
 だ。

   ボードリヤールのいうのとちがって、資本主義的システムの進歩といえども「客観的な社会の
 進歩」だし、「具体的自然的価値」が高次生産化することもまた客観的な「社会の進歩」である
 ことは論をまたず自明のことだ。わたしにはボードリヤールの理念は、誰がどうなればいい社会
 なのか、まったく画像を失っているのに、なお不平のつぶやきが口をついて出るので、それをつ
 ぶやいている常同症の病像にみえてくる。
 
 

    

  ボードリヤールがせっかく果敢に消費社会の実体に踏みこみながら、一方で陥っている巨大な
 空孔に、もうすこし先までふれていかなくてはならない。


    あらゆる物質的(おょび文化的)欲求が容易に満たされる社会という、われわれが豊かな
   社会について抱いてきた固定観念は放棄されなければならない。なぜなら、この観念は社会
   的論理を一切捨象しているからである。その上で、マーシャル・サーリンズが「最初の豊か
   な社会」についての論文で取り上げた見解に従わねばならない。それによれば、いくつかの
   未開社会の例とは反対に、われわれの生産至上主義的産業社会は稀少性に支配されており、
   市場経済の特徴である稀少性という憑依観念につきまとわれている。われわれは生産すれば
   するほど、豊富なモノの真只中でさえ、豊かさとよばれるであろう最終段階(人間の生産と
   人間の合目的性との均衡状態として規定される)から確実に遠ざかってゆく。というのは、
   成長社会において、生産性の増大とともにますます満たされる欲求は生産の領域に属する欲
   求であって、人間の欲求ではないからである。

    そして、システム全体が人間的欲求を無視することの上に成り立っているのだから、豊か
   さが限りなく後退しつつあることは明らかである。それどころではない。現代社会の豊かさ
   は稀少性の組織的支配(構造的貧困)が優先するために、徹底的に否定される。

   サーリンズによれば、狩猟=採集生活者たち(オーストラリアやカラハリ砂漠に住む未開の
   遊牧民)は、絶対的「貧しさ」にもかかわらず真の豊かさを知っていた。未間人たちは何も
   所有していない。彼らは自分の持ちものにつきまとわれることもなく、それらのものを次々
   に投げ棄ててもっとよいところへ移動していく。生産装置も「労働」も存在しないので、彼
   らは暇をみつけて狩をし採集し、手に入れたものをすべて彼らの間で分かちあう。何の経済
   的計算もせず貯蔵もしないで、すべてを一度に消費してしまうのだから、彼らは大変な浪費
   家である。
 
   狩猟=採集生活者はブルジョアジーの発明したホモ・エコノミクスとはまったく無縁であり、
   経済学の基本概念など何一つ知らずに、人間のエネルギーと自然の資源と現実の経済的可能
   性の手前に常にとどまってさえいる。睡眠を十分にとり、自然の資源がもたらす富を信じて
   暮すのである(これが未開人のシステムの特徴だ)。ところが、われわれのシステムの方は、
   不十分な人間的手段を前にした絶望や、市場経済と普遍化された競争の深刻な結果である根
   源的で破局的な苦悩になって(それも技術の進歩とともにますます強く)特徹づけられるこ
   とになる。

              (ボードリヤール『消費社会の神話と構造』今村仁司・塚原完訳)
 

  このすぐあとでボードリヤールは、未開社会は集団全体として「将来への気づかいの欠如」と
 「浪費性」があって、これが真の豊かさのしるしだといっている。また遂に貧しさというのは、
 財の量がすくないことではなくて人間と人間との関係の問題だから、社会関係の透明さと相互扶
 助があれば、飢餓状態でも豊かにくらすことができると述べている。

  どうもこういう言説には信じられないところがふたつある。だいいちはこれは幼児のときは憂
 いも苦しみもおぼえず邪気なくくらせて、過去も未来も思い患うこともなく豊かな生活をしてい
 たというのとおなじだ。だれでもそれを否定しないだろうが、そこへ逆行できないことも、再構
 成できないことも自己史と文明史にとって自明なのだ。もうひとつある。産業の高度化による豊
 かさと、選択的な消費における格差の締まりには、たしかにあるうさんくささの影がつきまとう。
 そのうさんくささは概していえば不安、頼りなさのようなものに帰着するといっていい。これは
 何に起源をもち、どこからやってくるのか。すくなくともボードリヤールの考えているような人
 類の未開の幼児期への賞賛などからはやってきはしない。わたしの考えでは産業の高次化が物(
 商品、製品)にたいする感覚的な働きかけから距たってゆくところからこの不安は主として由来
 するようにみえる。この感覚的な距たりは遅延として理性と理念を襲うにちがいないからだ。べ
 つの言い方を採用すればこの遅延は生産が消費に変貌する転換点なのだといえる。

  ボードリヤールによれば、はじめに選択的な消費支出の対象として洗濯機がえらばれて人手さ
 れたとする。これは衣類を洗濯する道具であるとともに、消費者の幸福感や威信の要素になり、
 このことのほうが消費に固有な領域だということになってしまう。この意味表示要素に視点がお
 かれるかぎり、さまざまな物が洗濯機にとってかわることができる。象徴の要素、記号の要素か
 らみれば、物(商品、製品)はどんな機能や欲求とも無関係だ(結びつきがない)とともにあら
 ゆる物(商品、製品)は固有の意味作用をもたずに、物と物との境界はあいまいなものになって
 しまう。これが消費社会(高次産業社会)の実状だということが、悲観的、否定的な重心をもっ
 て語られている。しかしわたしには消費社会(高次産業社会)の核心がそこにあるとはおもえな
 い。

  第三次産業以後において、わたしたちは生産が物(商品、製品)の手ごたえ、感覚的な反射か
 ら距てられたところからうまれる不定さ、視覚的、触覚的な物の、映像化による非実在感などに
 由来する不安に対応する方法をもちあわせていないこと。ボードリヤールの見解と反対に、消費
 行動の選択に豊かさや多様さ、格差の縮まりなどが生じていること。そこに核心があるようにお
 もえる。もっといえばこういう消費社会の肯定的な表象の氾濫に対応する精神の倫理をわたした
 ちはまったく編みだしておらず、対応する方途を見うしなっているところに核心の由来があると
 おもえる。わたしたちの倫理は社会的、政治的な集団機能としていえば、すべて欠如に由来し、
 それに対応する歴史をたどってきたが、過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知
 っていない。ここから消費社会における内在的な不安はやってくるとおもえる。

                                  第一部 吉本隆明の経済学  


この項の議論(反ボードリヤール経済学)に対し、現実の世界は、吉本の描いて見せた"高度消費社
会(前社会主義社会)" のイメージ通りだったのか?確かに、斉藤和義の唄ではないが、生活するう
えで欲しいものならなんでも手に入る時代でありながら、秋葉原通り魔事件が起きる"デフレ格差拡
大"社会――資本収益率(ほぼ4~5%)が所得成長率(ほぼ1%~2%)よりも高い、高所得者と高資
産保有者がますます富む時代――でもある。『21世紀の資本』の著者であるトマ・ピケティは、そ
の解決には、資本課税の強化を国際協調のもとですべての国で課税強化することを提案し、日本に対
しては、「財政面で歴史の教訓を言えば、1945年の仏独はGDP比2百%の公的債務を抱えていたが、
50年には大幅に減った。もちろん債務を返済したわけではなく、物価上昇が要因だ。安倍政権と日銀
が物価上昇を起こそうという姿勢は正しい。物価上昇なしに公的債務を減らすのは難しい。2~4%
程度の物価上昇を恐れるべきではない。4月の消費増税はいい決断とはいえず、景気後退につながっ
た」と評価し、(1)世界レベルの格差を減らすには経済の透明性が不可欠、(2)累進課税的なも
のにし若者・女性を優遇する税制、(3)パートタイム労働者、有期雇用労働者等がより良い社会保
障を得られるような構造改革――を提案している(2015.01.31/ログミー「若い世代に有利な税制を」
トマ・ピケティ氏、日本の課題と対策を提示」)ている。

 

 

                                      (この項続く)  

 

  

 

Viewing all 2435 articles
Browse latest View live