● ルート66は緑寿だった。
明日は大晦日。ことしを振り返ると母が他界したこともあり、疲労の色に支配された年だった。そん
なこともあり百名山登破は一岳のみ終わったが、時の趨勢にも助けられテーマの再生可能エネルギー
のミッション(調査研究領域)は一応達成された(参考『オールソーラーシステム完結論 35』)。
ところで、今年で緑寿を向かえていたこについ最近気ついた。緑寿は他の長寿の祝いと異なり、2002
年9月に日本百貨店協会から提唱された商業主義的なお祝いとか。数え年の66歳は高齢世代で介護
も必要な<、現役世代と高齢世代の節目と世間では考えられているといるため、新たな社全活動への参
画を促すスタートラインに泣置づけられ21世紀が「環境の世紀」といわれることから「緑」をイメージ
し、66歳なので「緑縁寿」となるところを簡潔にしたものであると説明されている。長寿大国の日本
では、長寿祝いを行う機会も多く、一言で長寿のお祝いと言っても様々だが、ニューカマーな祝いだ
が、現代社会にマッチし、どんどん浸透していきそうだとも言う。
"66"から最初に連想したのは米国のテレビドラマ「ルート66」(米国では1960年のCBSテレビ
で放映)。この時の主題歌がジャズ・ピアニストでソングライターのボビー・トゥループが1946年に
作詞・作曲。もとはナット・キング・コールがヒットさせたスタンダード・ジャズだ。「ルート66」
とは、イリノイ州シカゴとカリフォルニア州サンタモニカを結ぶ国道66号線。テレビではルート6
6をひた走るコルベット・スティングレーで突っ走る二人の若者が、途中の町々での出来事を様々に
物語る、友情・愛・恋をテーマにしえいる。尚、ローリング・ストーンズはデビューアルバムA面の第1曲
目に挿入している。その次に浮かんだのが、近年、『三国志演義』の影響によって悪役としての評価
が定着した曹操であるが、1950年代以降に入ってからは逆転し再評価されているという曹操。
● 揺れ動く評価 曹操は英傑?!
近代の中国においては、西欧の進出に対してその劣位が明白になり、幾度となく近代化を目指しては失敗した
背景として、思想的な儒教・華夷思想への偏重などがあったと反省され、思想的な枠組みを超えて合
理性を追求した曹操の施策が、魯迅など多くの知識人によって再評価されてくる。特に曹操再評価を
盛り上げたのは毛沢東で、彼の主導の下、曹操再評価運動が大々的に行われた。郭沫若が戯曲におい
て曹操を肯定的に評価したのもこの頃である。また、文化大革命の時の批林批孔運動でも、反儒教の
人物として肯定される、永寿元年 - 建安25年にかけ活躍した中国後漢末の武将、政治家。詩人、兵法
家の曹操が没したのも66歳といわれている。
歴史学的には、まず郭沫若らの曹操論争があって文学的な評価が進み、その流れを受けて日本で、京
都大学の谷川道雄、川勝義雄らによる曹操集団および曹魏政権に対する再評価が進む。曹操の政策と
して知られる九品官人法は魏晋南北朝時代の貴族制度の前史として言及されることが多く、川勝らの
曹操(曹魏政権)、魏晋南北朝理解に対し、1950代~1970年代の間に議論があり、後漢が建国の経緯
から豪族・知識人糾合政権であり、統治機能が失われた黄巾の乱以降に、いち早く豪族・知識人を糾
合に成功させた曹操と袁紹であり、曹操が袁紹に勝利した要因には上述の九品官人法のような現実的
な人材登用制度の採用がある。また屯田制は豪族による土地と農民の所有制度の対抗のために導入。
結果、全ての土地が曹氏に収奪される(=地公民制度の端緒)。しかし、1990年代以降、行き過ぎた
曹操の再評価に対して抑制がかかる。
さて、建安25年(220)、病のため死去。「戦時であるから喪に服す期間は短くし、墓に金銀を入れ
はならず」との遺言を残した曹操。死後、息子の曹丕が後漢の献帝から電城禅譲を受け皇帝となり、
太祖祖武帝と追号された。そして。2009年に曹操の陵墓が発見、その真偽を確かめるために、復旦大
学では、被葬者の男性のDNAと全国の曹姓の男性のDNAを照合するが、漢民族では姓は男系で継承され
るため曹姓の男性は曹操のY染色体を継承する考えられるためである。曹髦の66代目の子孫、曹操か
ら数えて70代目の直系子孫にあたると伝えられる曹祖義が遼寧省東港市に住む。最近発見された曹操
の墓の真偽判定のため、復旦大学で DNA鑑定を受ける一方、曹操の墓の発見を受けて曹操の子孫を名
乗る人々も現れている。なかには司馬氏の迫害を逃れるために「操」姓に改姓したという「操氏」の
人々もいるとか。
● 曹操のイメージを変えた 西高穴2号
西高穴2号墓は、中国の河南省安陽市安陽県安豊郷西高穴村に位置する後漢末期の墓。2009年12月27
日、河南省文物局によりその発見が公表、後漢末の権臣曹操の墓であると認定。曹操高陵とも称され
る。2010年6月11日、国家文物局により西高穴村墓は2007年12月に盗掘に遭い、2008年秋に盗掘団が
摘発されて画像石などの遺物が押収された。同年11月、河南省文物局は地下文物の保護のために緊急
発掘をおこなうことを決定し、国家文物局の認可をえた。同年12月6日より河南省文物考古研究所に
よる発掘が開始された。2009年4月、発見された2基の墓に1号墓・2号墓と番号がふられた。同年11月、
河南省文物考古研究所は専門家を招聘して発掘成果について協議した。同年12月、西高穴後漢大墓発
掘専門家論証会が開かれ、討論の末に西高穴2号墓の墓主は曹操であろうと結論される。
2号墓の墓葬平面は甲字形を呈し、スロープ状の墓道をもつ多室磚室墓である。西から東向きで、方
向は110度。墓道・墓門・甬道・前室・後室および4つの側室からなる。墓道の長さは39.5メートル、
幅は9.8メートル、最深部は約15メートルの深さがある。墓口平面は梯形で、墓室の面積は約380平方
メートル、墓の総面積は約736平方メートル。前室は方形で、四角錘状の天井をもち、平面長方形の南
北側室がある。後室平面も方形で、四角錘状の天井をもっている。平面長方形の南北側室があり、ド
ーム状の天井をもつ。側室はみな石門で封じられていた。
2号墓の墓室からは3人分の遺骨と3組の棺材が発見されており、遺骨の内訳は男性1人と女性2人で
ある。男性の頭骨は前室の前部から出土し、中国社会科学院考古研究所の王明輝の鑑定では60歳前後
あるいは60歳以上である。ひとりの女性の頭骨は後南側室付近から出土し、鑑定では50歳あるいは50
歳以上である。もうひとりの女性の頭骨は後北側室付近から出土し、鑑定では20歳から25歳である。
女性ふたりには出産経験の痕跡が認められる。2号墓の副葬品は男性用のものが主であり、墓主は男
性であると考えられるという。
● 文人・詩人としての曹操
曹操は「槊を横たえて詩を賦す」と後世に言われたように、政治・軍事に多忙な中、多くの文人たち
を配下に集めて文学を奨励すると同時に、自身もすぐれた詩人であった。彼は建安文学の担い手の一
人であり、子の曹丕・曹植と合わせて「三曹」と称され30数年間、昼は軍略を考え、夜は経書の勉強
に励み、高所に登れば詩を作り、詩ができると管弦にのる。曹操は軍隊を率いることせ音楽の歌詞に
したという。その記述の通り、現存する曹操の詩は、いずれも楽府という音楽の伴奏を伴った歌詞で
あり、代表的な作品として『文選』27巻 樂府上 樂府二首に収録された下に記す天下泰平に望み、そ
のため逸材を欲する歌である「短歌行」が有名である。
對酒當歌 酒に対して当に歌うべし
人生幾何 人生 幾何ぞ
譬如朝露 譬えば 朝露の如し
去日苦多 去りし日は苦だ多く
慨當以慷 慨して当に以て慷すべし
幽思難忘 幽思 忘れ難く
何以解憂 何を以て憂いを解かん
唯有杜康 唯だ杜康 有るのみ
青青子衿 青青たる子が衿
悠悠我心 悠悠たる我が心
但為君故 但だ君が為の故
沈吟至今 沈吟し今に至る
呦呦鹿鳴 呦呦と鹿鳴き
食野之苹 野の苹を食す
我有嘉賓 我に嘉賓有らば、
鼓瑟吹笙 瑟を鼓し笙を吹く
明明如月 明明として月の如きも、
何時可採 何れの時にか採るべし
憂従中來 憂いは中より来たりて
不可断絶 断絶すべからず
越陌度阡 陌を越え阡を度り
枉用相存 、枉げて用って相存す
契闊談讌 契闊談讌し、心念旧恩
月明星稀 月明らかに星稀に、
烏鵲南飛 烏鵲南に飛ぶ
繞樹三匝 樹を繞ること三匝、
何枝可依 何れの枝にか依るべき
山不厭高 山は高きを厭わず
海不厭深 海は深きを厭わず
周公吐哺 周公哺を吐きて
天下帰心 天下心を帰す
以上、"66”に拘った「ルート66と曹操」の話だが、天下統一を担える人物は、日本の源頼朝や
織田信長などと漸近すると言えよう。いや、寧ろ時代を、状況を切開しうる歴史上の英傑人物とは、
いかなる場合も同じだと言えるのではないか。ならば、政治権力の中枢の劇場外の、齢66とはい
かなるものだろうか。齢69で「生前葬コンサート」を行った小椋佳(神田紘爾)は自分のことを
次のように語っている。
いま、私自身が人生から過く時が来ている。資産のことでいえば、すでに妻や息子たちにその内
容を開示し、どう振り分けるべきかも言い伝えてある。妻も息子たちも、その人間としての誠実
さと優しさに私は満足している。一方で、私から見ると、それぞれ生きてゆくことに鷹揚過多で、
緊張感と貪欲さに欠けている点が少なからず心配であるが、いまさら私の説教など効果があると
も思われず、まあ「なるようになるさ」か、「なるようにしがならないさ」のいずれにせよ、こ
こにだけは、運命論とか決定論とかを採り、諦観達観を獲得しておくことにしよう。妻、息子そ
してその嫁さんたちに幸運が降り続きますように。
「落日、燃え」
西の空を紅く焦がし ことさら輝くあの落日
若い日なら顔を上げて 明日の憧れ映したもの
今はどこか舞い散る花 浴びる時の感傷のように
命ひとつ尽きる前の 名残りの祭りと視る
小椋 佳 箸 『前葬コンサート』
ある水準を持った個人が目標を達成し充足感に包まれ、放物線の落下を意識する。これを言い換える
と――往く道は精進にして、忍びて終わり、悔いはなし(酒井阿闍梨)――であり、侘び、寂びの非
対称的な欠落感覚と結界に匂う抹香の世界を強く意識する。それを彼は運命論と決定論とを採り語っ
ているが、わたしも、抹香臭くなっているのだろうか? それは自分でも分からない。
「便り届くなら」
・・・・・・・・・
今 僕の周りに 仲間もいるし 恋する人もいるよ
今 僕の心に 幾つか夢も 見えている けれど
時折眠い朝 あなたの声は無くて 僕を起こすよ 目覚まし時計
・・・・・・・・・
全てを僕の為に生きたあなたに便り届くなら
あなたにたった一言でも 幸せですと ただ一言でも
「便り届くなら」は、若い日、母の死を悼んだ歌である。いまさら母を懐かしむ歳でもない
が今福ではいままであまり触れなかった母の一面について記そう。それは意図せず母の身に備
わった特技というべきもの。母は霊媒であった。
母にいわせればそれは彼女が19の厄年の折、厄落としにどこかの寺にお龍りをした折から身
についたものとのこと。母の場合、それは、目を閉じ20分ないし30分ほど手を合わせていると、
霊と呼ぶべきものが母の身体の中に入ってくるという現象。したがって母は、誰か特定の霊を
呼ぶという能力はなかった。なぜかということも、区別の基準も、私には分からないが、合わ
せた手が上へあがるといわゆる「偉い」人の霊が乗り移り、手が下がると、さほどでもない人
の霊、時には生霊であったりする。母のこの霊媒行為は、我が家では疑問ももたれずごく自然
に月にI度、多い時で数回行われていた。母は家族以外の人に頼まれてこの霊媒行為をやるこ
ともあったが、決して、それを商いにしたことはないし、礼金を取るということもなかった。
私はこの「憑依」という特殊超常現象を格段に異常なこととも思わずに何度となく体験して育
った。なかには、盗人の判明であったり、失踪人の居場所割り出しであったり、滑稽な死亡者
からの墓造り請求であったり、事件の予知であったり・・・。母の霊媒行為とその観察を通し
て私の中には、「通常われわれが魂と呼んでいるようなものが、現世の人には不可視状態で、
空間にうようよしていること、人間の魂はなぜか死後2年間くらいはこの世をうろうろしてい
るが、その後はとこか別の地へと移り行くこと」などの妙な感覚が植えつけられてしまってい
る。それはちょうど幼い日から毎週日曜日、教会に通わされる西洋人の多くが、知らぬ間にキ
リスト教徒になり、絶対神の存在を信じてしまうのと同じようなことであろうか。
私は、自分が特異な心情にとらわれている人間であることを告白したわけであるが、それで
もなお不可知論者であるといいたい。信仰の自由を否定する者ではないし、信仰者を蔑視する
者でもない。ただし、これからの日本人社会については、宗教信似非依存型社会の構築を、そ
れも言語練磨の上での独自の国民総意としての、曖昧でない「理」をもった社会の構築を標榜
したい。
「甘いオムレツ」
「ため息なんて、おつきじゃないよ」それがあなたの口癖だった
泣き虫を責められて 物置に閉じ込められて あなたを恐れていた7歳
酒と祭りと喧嘩大好き 絵に描いたような江戸っ子だった
宵越しの企もたず 計画を立てぬ買い物 あなたに はらはらした10歳
子供らが喜ぶという理由だけで 料理にはやたら砂糖を注ぎ込んでた
甘いカレー 甘いオムレツ
母として理想的かは知らないけど 懸命に愛のしるしを注ぎ込んでた
甘いカレー 甘いオムレツ
甘くなければカレーじゃないし 甘くなければオムレツじゃない
そう思う僕たちは紛れなくあなたの息子 あなたを失ってた25歳
・・・・・・・・・
何かしら疲れ感じて肩落とすとき 心にはため息つかない母の声
甘いカレー 甘いオムレツ
・・・・・・・・・
「甘いオムレツ」は母を歌った比較的長い詩の歌である。母は感情豊かに精一杯生命力を溢れさ
せて生きる様を息子らに遺して逝った。父は地味に思慮深く生き、母の死の10年後、こつこつと
貯めたしかるべき財産を(自らの愉しみに浪費すること一切なく)子どもたちに繋いで死んだ。
思えばありかたい父母であった。
小椋 佳 箸 『前葬コンサート』
今夜はこの歌を聴くことで、母と父の思いと彼の父母への思いを重ね、己の至らなさを思い知るこ
ととなった。
合掌