第34章 主 人 顔
「道」は天地に満ち満ちていて、四方八方くまなく行きわたっている。万物は、「道」の現われとして生
ずる。しかも「道」は、万物を生じながら、万物を支配しようとしない。大事業を成し遂げながら、功績
を主張しない。万物を養いながら、主人顔をしない。
このように、「道」は、つねに無欲であるから、小さいともいえる。万物を包んで主人顔をしないから、
大きいともいえる。
だが「道」は.、大であろうと小であろうとかけかまわず、ただただ自然にまかせきっている。だからこ
そ、「道」は大きいのだ。
第35章 「道」は用いてこそ価値がある
万物の根元たる「道」にのっとって政治をとれば、摩擦はいっさい起こらず、天下は平穏である。
快い音楽が聞こえ、うまいご馳走が目につけば、道行く人は足を止めるだろう。だがこの「道」たるや、
語って聞かせてもまことに淡白で、味もそっけもない。眼を喜ばせることもなければ、耳を楽しませるこ
ともない。「道」は、用いられてこそ、尽きぬはたらきを示すものである。
淡として味なし 「道」は学問の対象ではない。「道」を認識する人間が貴いのは、「道」を実践に生か
せるからである。知識のための知識は、老子の排斥するところであった。
【オールバイオマス事業篇:最新リグニンのない木質形成技術】
10月2日、産業技術総合研究所らの研究グループは、リグニンを含まない一次細胞壁――植物の細胞壁
は、どの細胞にも普遍的な一次細胞壁と、強度を必要とする細胞(道管や繊維細胞)に蓄積する二次細胞
壁(木質)に大別できる――の形成を制御する遺伝子としてERF転写因子群を発し、二次細胞壁を形成し
ないシロイヌナズナ変異体に導入し、リグニンがなく酵素糖化性の高い一次細胞壁に似た細胞壁を繊維細
胞に高蓄積させることに成功ことを公表。今回発見した転写因子を利用した木質改変植物の開発により、
木質バイオマス利用す工程で必要なエネルギーや化学薬品を減らせ、二酸化炭素排出削減への貢献。さら
に今回発見した遺伝子の機能解析を進め、いまだ多くが未解明の一次植物細胞壁の形成機構が明らかにな
り、植物の「植物らしさ」を解明することにつながる。
今後、発見した一次細胞壁形成因子のより詳細な機能解明を進め、肥厚させた一次細胞壁に通常木質に含
まれる細胞壁成分を追加蓄積させ、天然の木質に近い性質を持ちながら産業利用に適した木質を生産でき
る改良技術開発を目指す。またポプラやユーカリなどの木本植物や、ソルガムやネピアグラス、スイッ
チグラスといった大型単子葉植物への適用も検討。このことで石油資源のバイオマス資源への置換えを促
進し、地球温暖化の抑制に貢献させる。
”Anytime, anywhere ¥1/kWh Era”
● いつでもどこでも1キロワットアワー1円時代 Sep. 13, 2018
● 今週、カルフォルニア州 無炭素排出エネルギー目標設定
カリフォルニア州は、今週、新しい、より高い「ゼロ・カーボン」のエネルギー目標を設定し、再生可能
エネルギー資源の使用と温室効果ガス排出量の削減と地球温暖化の抑制に向けて、米国および世界的リー
ダとしての州の評判を刷新。17年初頭にジェリー・ブラウン知事は、カリフォルニア州がドナルド・ト
ランプ大統領の国家エネルギーと環境戦略を破棄し、化石燃料のない経済と社会への道筋を築いていくと
約束。上院法案100(SB 100)に署名したことは大きな前進となる(カリフォルニア州は、世界で最も野心
的なクリーンエネルギー政策の成立に向けて壮大な一歩を踏み出す。ブラウン知事と議会は、SB 100を達
成に大きな功績となる――米国太陽エネルギー産業協会会長兼CEO、アビゲイル・ロス・ホッパーSEIA)
――と記者会見で語った。「米国最大の太陽光発電市場の同州は、すでに、再生可能エネルギーへの投資
が雇用と経済・環境面で大きなメリットをもたらすことを実証している。SB100の制定により指数関数的
に拡大すると見込まれている。
SB 100の制定は、気候変動に対処し、カーボンフリーで環境にやさしいエネルギー資源に移行の立法措置
促進させ、9月12~14日、サンフランシスコでの「地球気候行動サミット」を開催。カリフォルニア
州が630年までに1990年比で温室効果ガス排出量を40%削減する目標を実現するには年間約10
ギガワットの太陽光、風力またはその他のカーボンフリー発電能力の導入が必要と資産。最新のIRP( Inte-
grated Resource Plan )でCECが予測ペースを把握し実現する必要がある。SB 100の目標達成にこれまで以
上の重要性が増している。
● ユビキタスエネルギー社と旭硝子 ソーラーパネル用ガラスの共同開発
7月17日、、窓用薄膜太陽光発電(PV)コーティング技術を保有するユビキタスエナジー社は、世界最
大のガラス製造能力は年間80億平方フィート以上の旭硝子と戦略的開発契約を締結しとこを公表。 今回
の実用的な太陽エネルギー変換効率は10パーセント以上で、可視透過率が90パーセント。 例として、
シアトルのダウンタウンにある30階建てのビルは、地元の0.5~1メガワット容量のソーラーファーム
が毎年生産できる電力よりも多くい発電量を生み出す。同社は透明性の高い薄膜PVガラスコーティング技
術の商業生産化の最終段階にある。現在、同社は製品の性能を検証し、製造プロセスを拡大し、透明性の
あるカラーニュートラルな太陽光塗装建築用ガラス製品の製造を目的とした商業パートナーシップの構築
に注力。旭硝子には差別化された建築用ガラス製品の市場投入実績が背景としてある。12年にMITから
スピンアウトし、シリコンバレーのパイロット生産施設で透明性と効率の高い太陽電池を生産していまる。
19年には初期の試作量産し、その後数年間で本格的な商用生産が見込む。
July 17, 2018
● 読書日誌:カズオ・イシグロ著『忘れられた巨人』 No.14
第3章
「わたしは別に心配していませんでしたよ、あなた。今夜のうちに会いに行けと言ったのは、あなたのほ
うですよ」
「ま、会えてよかった。どちらが心配していたにせよ、もうその必要はなくなったんだから」
ベアトリスはアクセルの腕をほどき、揺り椅子をそっと後ろに揺らした。「アクセル」と呼んだ。「薬師
からある修道僧のことを聞いたの。自分よりずっと賢い人だと言っていました。この村にも助けてもらっ
た人は多いそうですよ。ジョナスという名の老修道僧で、東への山道を一日登ったところの修道院にいる
んですって」
「東への山道か」アクセルは、アイバーが半開きにしたまま出ていったドアに向かって歩き、暗闇をのぞ
き込んだ。「
「なあ、お姫様。明日は森の道を行く予定だったが、山道に変えてもいいんじやないか」
「山道は大変ですよ、アクセル。登りばっかりだもの。旅の日程が少なくとも一日は延びます。息子がわ
たしたちの到着を首を長くして待っているのに」
「そうなんだが……残念な気がする。せっかく近くまで来て、賢い修道僧に会わずに去るのはな」
「薬師はね、わたしたちが東に向かうと知っていて、それならついでに、って思っただけなんですよ。息
子の村は森の道を行ったほうが簡単だからと言ったら、よけいな時間をかけてまで行くことはないって薬
師も言っていました。もともと年齢にともなう痛みだけで、ほかはどこも悪くないんですから」
アクセルは戸口から暗闇を見つめつづけた。「それでもだ、お姫様。もう少し考えてもいいんじやないか。
おっと、アイバーが戻ってきた。苦虫を噛み潰した顔だ」
アイバーがぜいぜい言いながら入ってきて、毛皮を何枚も積んである幅広い椅子にどすんと腰をおろした。
杖が音を立てて足元に転がった。
「若いばか者が、柵の外側を悪鬼がよじ登るのを見た、もう柵のてっぺんからこっちを見ている、と言い
おる。それで大騒ぎよ。わしはどうすればいい。何人か集めて、ほんとうかどうか見にいかせるよりある
まい?もちろん、やっか指し示す場所になど、夜空以外に何もありはせん。なのに、悪鬼だ、悪鬼だ、こ
っちをにらんでいると言い張る。ほかの連中は怖気づいて、子供みたいにこのわしの背中に隠れるしまつ
だ。手の鍬や槍は何のためだ。やつめ、最後には白状しおった。見張りの途中で居眠りして、夢の中で悪
鬼を見たらしい。だが、そう判明したからって、連中が急いで持ち場に戻るか?
とんでもない。震えるばかりで動こうともせん。ぶちのめすぞ、家族の目にもマトンと見分けがつかんほ
どに-そう脅してやっとだ」アイバーはまだ荒い息遣いのまま、あたりを見回した。「お相手できなくて
すまんな、お二人さん、わしは中のあの部屋で眠らせてもらう。少しは眠らんとな。何もして差し上げら
れんが、適当にくつろいでくれ」
「とんでもない、長老」とアクセルが言った。「こんなに居心地のいい家にお招きいただいて、感謝して
います。もっといい知らせで呼び出されたのならよかったのに、残念でした」
「待つしかあるまい。もっと夜遅くか、朝になるかもしれん。お二人さんは、明日、どちらに向かわれる
のかな」
「明朝、東に向かい、息子の村を目指します。きっと首を長くして待っていることでしょう。ですが、そ
のことでちょっとお知恵を拝借したい。妻とわたしは、いま、どの遣を行くか話し合うていたところです。
山道を行けば、修道院でジョナスという賢人に会えると聞きました。意見を参考にしたいちょっとした問
題かありまして」
「わしは直接会ったことはないが、ジョナスは確かに敬われておるよ。ぜひ会いに行くといい。ただ、こ
れは心得ておかれよ。修道院への道のりはそうやさしくない。終日ほとんど上りばかりだ。ようやく平ら
になってからも、今度は道に迷わないよう注意が必要だ。そこはもうクエリグの国だからな」
「クエリグとは、あの雌竜のことですか。長いこと噂を聞きませんでした。このあたりではまだ恐れられ
ているのですか」
「もう山を離れることはめったにない。近くを通る旅人を何かの拍子で襲ったりすることもあるようだが、
襲撃の噂のほとんどは別の獣か山賊の仕業だろう。わしの見るところ、クエリグの脅威なるものは、実際
に何をやったかより、存在していること自体から来ている。あれが自由の身であるかぎり、国のいたると
ころで悪が-ありとあらゆる悪が、流行り病のようにはびこる。たとえば、今夜の騒ぎのもとになってい
る悪鬼どもにしてもそうだ。いったいどこから来たものか。あれはただの鬼ではない。ここでは、これま
であんなやつらを目にしたこともなかった。なぜここに来て、川沿いになど腰を落ち着けたものか。クエ
リグ自身はめったに姿を現さないとしても、多くの賄い力があの竜から生じている。いまだに殺されてい
ないのは、じつに嘆かわしい」
「でも、アイバー、そんな竜に桃みたい人がいるのかしら」とベアトリスが言った。
「クエリグってすごく獰猛なんでしょう?険しい場所に潜んでいるとも聞くし」
「そのとおりだ、ベアトリスさん。恐るべき難事業だな。じつはアーサー大王の時代からの生き残りで、
昔、当の大王からクエリグ退治を命じられた騎士がいる。山道を行けば、出会うかもしれんな。会えぼ、
すぐわかるよ。錆だらけの鎖帷子を着込んで、くたびれた馬にまたがり、人を見ればわが身に下された神
聖なる使命について語らずにおられん男だ。だが、わしが見るところ、あの老いた間抜けに雌竜が不安を
覚えたことなど、これまでに一瞬もあるまいよ。あいつが義務を果たすのを待っていたら、わしらはいっ
たいいくつになることか。というわけで、お二人さん、修道院にはぜひ行きなされ。だが、くれぐれも注
意を怠らず、日暮れまでには安全な場所に身を隠しなされ」
アイバーは中の部屋に向かったが、ベアトリスが不意に起き直って言った。
「アイバー、さっき霧の話をしていたでしょう?霧の原因について何か聞いたっていう話?途中であなた
に用事ができて、それきりになったけど、そのお話、もう少し詳しくうかがえないかしら」
「ああ、霧な。霧とは言いえて妙だ。わしが間くことはどれも噂だから、どれほどの真実が含まれている
かわからんよ、ベアトリスさん。あれは去年、馬で通りかかって、ここに泊まっていった旅人が言ったこ
とだ。今夜の勇敢な客人と同じで、その人も沼沢地から来たと言っていたな。言葉に誂りがあって、なか
なか聞き取りにくかった。やはり、このぼろ屋に泊まってもらった。夜更けまでいろいろと話して、その
なかに、お二人の言う霧のこともあった。この村の不思議な病に興味を持ったようでな、根掘り葉掘り尋
ねてきて、そのうえで言った意見だ。
間いた直後はどうとも思わなかったが、その後、折に触れ思い出して、なんとなく考えるようになった。
その男が言ったのは、ひょっとして神ご自身がお忘れになったのではないか、ということだ。われらの過
去、遠くの出来事、今日のあれこれ――神ご自身が多くを忘れてしまったのではないか。神の頭に残って
いないんじや、命に限りある人間の頭に残るはずがない、とな」
ベアトリスはアイバーをじっと見つめた。「そんなことありうるかしら、アイバー。わたしたちはみな神のいとし子でし
ょう?わたしたちがしたこと、わたしたちに起こったことを、神が忘れるなんて……」
「わしもそう思って男に尋ねてみたよ、ベアトリスさん。で、男も笞えられなかった。だが、それ以来、あの男の言っ
たことをよく考えるようになった。お二人の言う霧の説明としては、ほかより劣るものではないかもしれん。さて、お二
人さん、失礼するよ。休めるうちに少しでも休んでおかんとな」
ベアトリスに肩を揺すられ、アクセルは目を覚ました。どれほど眠っていたのかわからない。あたりはま
だ培かったが、外で物音がしている。頭上のどこかでアイバーの声がした。「いい知らせであることを祈
ろう。村の最期でないことを」と。アクセルはすぐに起き直ったが、アイバーの姿はもうなかった。「急
いで、アクセル。どちらの知らせか見にいきましょう」とベアトリスが言った。
アクセルはかすむ目をこすりながら妻の腕をとり、一緒に夜の道によろめき出た。ともされている松明の
数がさきほどよりずいぶん多い。一部は冊の上部に置かれ、下の道を照らしていて、歩くのがだいぶ楽に
なっていた。いたるところに人の動きがある。犬が吠え、子供が泣いている。やがて、人の動きがしだい
に秩序だったものになり、一つの方向に急ぎ足で向かう流れができた。気がつけば、アクセルとベアトリ
スもそれに加わっていた。突然、流れが止まった。見ると、そこはもう中央広場だ。昨夜はアイバーの家
にたどり着くのにあれだけの苦労をしたが、どうやらもっとすんなりとたどれる道があったようだ。笥火
が昨夜にもまして盛大に燃えている。あまりの燃え盛りように、一瞬、火の熟さのために前に進めなくな
ったのかと思ったほどだが、そういうことではなさそうだ。居並ぶ人々の頭越しに前を見ると、そこにあ
の戦士の姿があった。相変わらず落ち着きはらっている。毎火の左側に立っていて、体の片側だけが光に
照らされ、反対側は影だ。冪火側の顔半分が小さな染みで覆われているのが見える。
あれは血だろうか………アクセルは、舞い上がる絹かな血しぶきの中を戦士が走り抜けていく姿を思い描
いた。長髪はまだ紐で結ばれているが、やや乱れ、濡れているようにも見える。服は泥で汚れ(たぶん、
血も混じっているだろう)、出発時に無造作に肩に放り上げられていたマントには、いくつもの破れ目が
ある。だが、戦士自身はまったく無傷のようだ。アイバーら、村の長老三人と穏やかに話している。腕を
曲げていて、肘の内側に何かを抱え込んでいるのが見えた。
いつの間にか、また名前の連呼が始まっていた。最初はそっ、だがしだいに大きくなり、戦士が振り向い
て応えるまでやまなかった。戦士の物腰にはこれ見よがしの強がりなどない。
群衆に向かってなにやら語りはじめたときも、全員に聞こえる大きな声なのに、親しげな口調でそっと話
っている印象を与えた。重い内容を語るのにふさわしい口調に聞こえた。
群衆は静まり返り、一言も聞きのがすまいとじっと耳を傾けていた。ときおり、その口から共感の歓声や
恐怖の叫びが漏れた。話しながら戦士がついと後ろを振り向き、背後の一箇所に群衆の注意を向けさせた。
毎火がつくる光の輪の瑞に二人の男がすわっていた。それが戦士と同行した二人であることに、アクセル
はそのとき初めて気づいた。二人はまるで高いところから落ち、目がくらんで立ち上がれないといった様
子ですわっている。群衆が二人の名前を呼びはじめても、まったく気づかないふうで、目の前の虚空を見
つめつづけていた。
戦士はまた群衆に向き直り、何かを言った。その何かで、群衆の連呼の声が弱まり、やんでいった。戦士
は簿火に近づき、腕に抱えていたものを反対側の手に持ちかえて、空中に高々と差し上げた。
アクセルの目に顔のようなものが見えた。喉のすぐ下で切断された太い首と、それにのっている顔だろう
か。頭のてっぺんから黒い癖毛が垂れて、顔を縁どっているように見えるが、顔そのものには不気味なほ
どに凹凸が欠けている。両目と鼻と口のあるはずの場所には、ちょうど鷲鳥の羽根をむしったあとのよう
なぼつぼつのある肉があるだけで、頬とおぼしき場所からは鳥の綿毛のような房がいくつか下がっている。
群衆からうめき声が漏れ、同時に全員が一歩後ずさりしたように思えた。そのとき、いま自分が見ている
これは顔などではない、とアクセルは気づいた。これは人間に似てはいるか、何か異常に大きい生き物の
肩と上腕の一部だ………戦士はいま腕を二頭筋筋頭近くの切り口でつかみ、肩の部分が上になるようにし
て、戦利品のように謁げている。その状態で見ると、毛に見えたものも毛ではないことがわかった。あれ
は、切りロからぶら下がっている体内組織のあれこれだ……… 戦士はすぐに戦利品を下ろし、そのまま
手を放して足元に落ちるにまかせた。残骸の主への大きな蔑みを、これ以上は持ちつづけられないという
感じだろうか。群衆はまたI歩後ずさりしたが、気を取り直したように一歩前へ戻り、また戦士の名前を
呼びはじめた。だが、戦士がふたたび口を間くと、連呼はすぐにやんだ。戦士の言うことがまったくわか
らないアクセルにも、周囲の興奮がぴりぴりと肌で感じられた。ベアトリスが耳元でささやいた。
「英雄さんは、怪物を二匹とも殺したそうですよ。一匹は森に逃げ込んだけど、あの深手では夜を越せな
いだろうって。もう一匹は生意気にも立ち向かってきたから、罰として、いま地面に転がっている部分を
切り取ってきたんですって。ほかの部分は痛みを鎖めるために湖まで這っていって、そのまま黒い水底に
沈んだそうですよ。子供は見ましたの、アクセル?あそこにいる子供?」
篝火の向こう、ほとんど光が届いていないあたりに数人の女がいて、石の上にすわっている痩せた黒髪の
若者を取り囲んでいた。若者の背丈はもう大人と言っていいほどだが、いま身をくるんでいる毛布の下に
は、ひょろりとした少年の骨格があるのが見てとれる。一人の女が俑を持ち出し、顔と首から汚れを洗い
落としてやっているが、少年はまったく無関心だ。その目は自分の真ん前にいる戦士の背中に釘付けにな
っている。ときおり頭を傾け、戦士の両脚の向こうに視線を回り込ませて、地面に転がる例の異物を見て
いる。
少年の無事を見ても、アクセルの心には安堵も喜びも湧いてこなかった。ただ漠然とした不安だけが広が
り、なぜだろうと思った。生きたまま助け出され、大きな怪我もしていないようなのに、なぜ……? 最
初は、少年自身の振舞いが奇妙なせいかと思ったが、この状況のどこがおかしいのかにすぐ思い当たった。
つい昨夜まで、この少年の安否こそが村全体の晨大の関心事だったはずだ。なのに、この少年の迎えられ
方はどうだろう。とても関心の大きさに合っているとは言えない。村人の態度はどこかよそよそしく、冷
たいとさえ見える。村でマルタが行方不明になったときのことを思い出した。マルタ同様、この少年も忘
れられようとしているのだろうか。いや、あれとはやはり違う。村人たちは忘れたのではない。現にいま
少年を指差している。そして、少年の世話をしている女たちは、弁解がましい態度で村人をにらみ返して
「全部は聞き取れないけど、あの子のことで言い争いをしているみたいですよ、アクセル」とベアトリス
が耳冗で言った。
「無事連れ戻されたというのにね。それに、あの子だって、恐ろしいことを見たわりに驚くほど落ち着い
ているのに」
戦士はまだ群衆に向かって語りかけていた。その声には、いまや懇願の響きが混じっていた。ほとんど非
難にも近い口調に、群衆の雰囲気がしだいに変わっていくのが感じられた。畏敬と感謝の気持ちが薄れ、
徐々に別の感情に取って代わられていく。アクセルの周りで大きくなるざわめきは、混乱のざわめきだ。し
かも、恐怖さえ混じってきている。戦士がまた語りかけた。声に厳しさを響かせ、身振りで背後の少年を
指し示している。そのとき、アイバーが簿火の光の中に入ってきた。戦士の横に立って何かを言ったが、
群衆の一部から返された反応は、戦士のときより遠慮のない抗議のうなり声だ。アクセルの背後で何かを
叫ぶ声が起こり、それが合図だったかのように周囲のいたるところで言い合いが始まった。アイバーが声
を荒らげ、一瞬、静寂が生まれたものの、たちまち怒鳴り合いが戻った。光の届かないところでは小競り
合いすら起こっていた。
「ね、アクセル、急いでここを離れましょう。ここにはいられない」とベアトリスが耳元で大きな声を出
した。
アクセルはベアトリスの肩を抱き、人混みを掻き分けて進みはじめた。だが、何かを感じ、もう一度振り
返った。少年は先ほどの場所にそのまますわっている。目の前で起こっている騒ぎにも気づかない様子で、
相変わらず戦士の背中を見つめている。だが、世話をしていた女が少年から数歩離れ、不安そうに少年と
群衆とを見比べている。ベアトリスがアクセルの腕を引っ張った。「アクセル、お願いよ。連れて出て。
怪我をさせられたくない」
村人は、いま一人残らず広場に集まっているのだろう。アイバーの家に戻る道々、二人は入っ子一人見か
けなかった。ようやく家が見えたとき、アクセルはベアトリスに尋ねた。
「さっきはどんな話が交わされていたんだい、お姫様」
「よくわからないんですよ、アクセル。もともとよくわからないところに、一度に大勢がしやべるんです
もの。助けられた少年のことで何かあって、みんな鯛癩を起こして………でも、そのうちわかるでしょう。
とりあえず離れられてよかった」
カズオ・イシグロ著『忘れられた巨人』
※ 「The Buried Giantにおけるイシグロ文学の継承と発展」池園宏、2018.5.25
この項つづく
● 今夜の一曲
”Fortune Cookie in love”