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元和偃武再考

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● エボラ出血熱 富士フィルムのアビガン錠で死亡率が半減!

西アフリカのギニアでエボラ出血熱治療に関する臨床試験を行っている医療慈善団体は、富士フ
イルムグループの富山化学工業が開発したインフルエンザ薬「アビガン」(一般名:ファビピラ
ビル)について、一部患者の死亡率が半減したとし、西アフリカ全域で使用されるべきだとの見
解を明らかにした。ギニア南東部Nzerekoreの治療センターでアビガンの臨床試験を行っている国
際医療活動連盟(ALIMA)は、血中のウイルス量が低・中レベルの患者では、死亡率が30
%から15%に低下したと発表。ただ、ウイルス量が多ければ効果はみられないという条件がつ
く(ロイター 2015.02.23)。

尚、この結果の詳細は、シアトルで開催されているConference on Retroviruses and Opportunistic Infe
ctions(CROI)会議にて2月25日(現地)に発表される。




※「抗インフルエンザ薬がエボラ出血熱に効く理由は?」(『今夜の3つの疑問』2014.08.27)
※「エボラ出血熱に対する「アビガン®錠200mg」の臨床試験(中間解析)で有効性が示唆」(富
  士フィルム ニュースリリース 2015.02.24)

● 『吉本隆明の経済学』論 Ⅸ

   吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!  

 吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズと
 も異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかっ
 たその思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造
 とは何か。資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の
 核心に迫る。


 はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 第4章 労働価値論から贈与価値論へ
 第5章 生産と消費
 第6章 都市経済論
 第7章 贈与価値論
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき 

 
 第7章 贈与価値

  Ⅲ

      

   一週間か二週間して小さなヤムは栽園から部落へ運ばれる。ついで男女子供など多くの
  協力者が動員され、贈物として姉妹の夫のところにとどけられる。大抵は同じ地区内でも
  距離がある。贈物を届ける人達はなかば祭の時のような衣裳をつけ、化粧し、花を飾り、
  全く愉快な一隊をなして出かける。彼らはまず栽園中を歩き廻り、作物を見まわしながら、
  ほめたり批判したりする。まぐれでもあるいは人一倍の努力によってでも、優れた作物をつくった
    男の「名声」が拡められるし、有名な牧園師が住む部落では彼の作物を見学したり(傍点
    筆者)、以前のできと比較したりする。時には一村内でないしはいくつかの村の間で「品
  評会」をやることもあり、誰もが自分や自分の村の面目にかけて最善をつくす。散傷心の
  あまり昔はよく戦争や争いが起るほどであった。

   この時期、栽回は活気がみなぎり祭のようになる。ヤム芋の山が無花果や葡萄のような
  大きい葉と一緒にあちこちの地面に散乱しており、その間に村人達がたむろしてヤム芋を
  奇麗にしたり並べたりしている。一方では華やかに着飾った見物人の一団が、散らかった
  葉の間を行ったりきたりする。皮膚の赤銅色と、祭に使うペチコートの赤と黄金色、本楯の本
   の深紅色、タコ銀子の淡黄色、そして長い葉の緑色など、これらがあるいは陶酔的あるいは牧歌
   的な南海の田園風景をかたちづくっている。

                        (マリノウスキー『未開人の性生活』泉靖丁蒲生正男・島澄訳)


  これは父(夫)から出自のおなじ氏族に属するじぶんの姉妹の家族にたいする贈与物を運
 ぶ祭のような風俗と示威の有様だ。この祭りの風俗と示威の中心には、正体のわからぬ〈霊
 威〉にたいする贈与と返礼がかくされている。だがわたしたちが現在かんがえるような正体
 のわかった〈権力〉が介在するためにはどうしても贈与が、婚姻関係から解脱しなくてはな
 らない。婚姻関係の内部で父(夫)が実の子どもに与えたい所有物と母(妻)の側の氏族か
 ら父(夫)に与えられる贈与物とが均衡するためには、交叉いとこ婚をとるはかないことは、
 さきにも述べた。
 
  では、婚姻関係を保ちながら贈与が父(夫)系と母(妻)系とのあいだで拡大するために
 は、父(夫)が母系の氏族と多重な贈与関係をむすぶのがいいことになる。この複数の母系
 氏族との多重な婚姻関係によって父(夫)は富を蓄積するとともに漠然としてではあるが複
 数の母(妻)系の複数の氏族を内包した版図ともいうべきものを獲得する。そして母(妻)
 系の氏族の系譜を継時的に存続させるために必要な母(告示の開祖の〈霊〉と交換される複
 数の〈威力〉を、父(夫)は獲得することになる。





  わたしたちがこの考え方に固執する根拠は、贈与が婚姻関係(母系氏族外婚制)を離脱し
 たあとまで拡張されたときに未開、原始の次の段階に想定されるアジア的な社会で贈与制度
 はいねば不変的な贈与ともいうべき貢納制に転化され、それと一緒に父(夫)は普遍的な〈
 霊威〉の集積ともいうべきアジア的な〈専制〉を獲得するようになる。アジア的な〈専制〉
 を強制的な収奪体制とかんがえ、貢納を恐怖にふるえる民衆の贈与という像でかんがえるこ
 ともできよう。だがこういう像にはすぐに仁慈にあふれ、政治にじかにはかかわらない、む
 しろ宗数的にだけ存在する専制の父(夫)と、すすんで貢納を献上する外部の他者としての
 民衆という述の像がついてまわる。

  わたしたちはアジア的な専制を、普遍化された多重な〈霊威〉の集積とみなし、普遍化さ
 れた多重な贈与としての貢納に対応するとみなした方が妥当な気がする。

 『古事記』神話のなかの伝承の初期天皇群は、記述の位置からいえば複数の母(妻)系の氏
 族と婚姻関係をもつことでそれぞれの氏族から多重な贈与をうけ、父(夫)としての〈霊威〉
 を多重化した者たちに該当している。記述の通りいえば、初代の神式は日向にいたとき阿多
 の小梅の君の妹にあたる阿比良比売と婚して二人の子どもが生れる。また大和に入ってから
 は三輪の狭井河の上に住む母系氏族の象徴(祖)伊須気余理比売のもとに通い、三人の子ど
 もが生れる。

 神武が死んだあと、日向で産んだ二人の子どもの兄の方が庶母にあたる伊須気余程比売に入
 婿する。そして神武が大和で伊須気楽程比売に産ませた三人の子どもが邪魔になり殺そうと
 するが、遂に殺される。そこで伊須気余程比売の母(妻)系の氏族は安泰で、三輪の地方に
 版図をもち、三人の子どもの末子が、この氏族を背景に次期天皇(綏靖)になる。ただ神武
 が畝大の白梼原に住んでいたのにたいし、葛城の高岡に住むようになる。これは母(妻)系
 への入婿制でありながら住居は父(夫)系に依存するかたちであるようにみえる。また母(
 妻)系氏族とじぶんの氏族との中間点に択ばれたともうけとれる。綏靖は師木の県主の母(
 妻)系氏族の首長(祖)である河俣毗売と婚してひとりの子どもが生れる。この子どもが三
 代目の天皇(安寧)ということになる。

 そして住居は片塩の浮穴にかわる。この安寧は河俣毗売の兄の娘である阿久斗比売と婚して、
 三人の子どもを生む。この三人の子どものうちまん中の子どもが四代の天皇(懿徳)になる。
 かれは軽の境岡に住居を定める。ところで三人の子のうち末っ子は二人の子を生む。そのう
 ちのひとりの子は淡道(淡路島)の御井に住居して二人の娘が生れる。なぜここで末子のこ
 とが記載されているのか。ふたつ理由がかんがえられる。ひとつは淡道に住居を定めたとい
 うことで、この母(妻)系の氏族の版図がはじめて大和地方を離れた遠隔に及んだことを暗
 示していることだ。

 もうひとつあるとすれば、この末子のふたりの娘(姉の名は蝿伊呂泥、妹の名は蝿伊呂抒)
 の系譜が格別の意味を神話時代にもったからだとおもえる(孝言記の記載では妹の蝿伊昌行
 の母系は播磨に版図をもった)。

 この伝承の初期天皇群は、はじめから特定の社会的な地位を占めていたものとみれば、母系
 優位の氏族制をもった初期社会の一般的な村落庶衆のあり方と同じに見なすことはできない
 だろう。だが婚姻の相手である母(妻)系の氏族を多重し、地域的に遠隔化することで版図
 が拡大される父(夫)の位置をうかがうことはできる。初期天皇群の相手として記載された
 それぞれの母(妻)系の氏族の祖(女首長)は、それぞれに親族と家族をもっていた。そし
 てこの親族や家族と多重化された婚姻関係をもった父(夫)とのあいだの媒介概念は贈与と
 いうより貢納というべきものに転化していったとおもえる。父(夫)の〈霊威〉の概念が贈
 与に対応するとすれば、貢納に対応する概念は、特異な〈霊威〉の集積としての〈専制〉と
  みなされる。




    2 消費資本主義の終焉から贈与価値論へ

 
                                    マルクスが分析しなかった未知の段階、消費資本主義

   日本の一次産業、農業みたいなものは、だいたい全産業の9%ぐらいだとおもうんです。
 専専業の農家は9%のそのまた14%ぐらいです。日本の農業は兼業農家になっている、と
 いうことです。もうひとつは産業の重点は第三次産業に移っています。流通とかサービス業
 とかそういうところに重点が移ってしまっている。六〇%ぐらいだとおもいます。こういう
 産業段階にあるっていうのは、世界でいえば日本とアメリカとそれからフランスなどECで、
 それが先進費本主義っていわれているなかにはいっているとおもいます。この段階の特徴は
 何かっていったら、ぼくは消費資本主義っていってるんですね。消費資本主義っていうのは
 定義しますと、個人所得でも法人所得でもどっちをとってもいいんですけど、その所得の半
 分以上が消費に使われている仕会っていうこと、それからもうひとつ、消費支出のうち50
 %以上が選択消費っていいましょうか、つまり必需消費ではなくて、選んで使える消費って
 のが50%以上になっていることです。

 このふたつの条件があれば、消費資本主義段限って呼べるとおもいます。要は第三次産業が
 主なる産業になってる段階だとおもうんです。ぼくの理解の仕方では、それはマルクスなん
 かが分析しなかった未知の段階です。だからこれは分析しなおさなくちゃならない。そうい
 うより、マルクスがいま生きてたら分析するだろうように分析しなければだめなのじゃない
 ですか。つまりいままでのマルクス主義ではだめということです。ここでの問題は、消費と
 は何かってことになるわけです。マルクスのいい方をすると、消費とは遅延された生産だっ
 てことです。いちばん簡単なのは、いまここで天然の本の実があって、とってこれを食っち
 ゃえば、生産と消費とは同時性があるってことになりますね。

 そうすると、消費社会、消費資本主義とは何かっていったら、遅延された生産が闇値以上に
 なってしまっている、つまり生産の遅延、遅れってことが空間的にも時間的にもある段階以
 上になってしまった社会なんだということです。闇値があって、マルクス的に、消費は遅延
 された生産だっていう理解の仕方で分析できる段階に、境界点があるとすれば、その限界か
 ら向こうにいっちゃうと、消費は消費としての浮遊状態にあり、生産は生産でまったく別だ
 っていうことを想定しなければならないことになります。

 消費ってのは遅延された生産だっていえるある闇値を超えちゃったら、消費資本主義だって
 いう以外ない。それがいちばんてきめんに現われるのは第三次産業なんです。それはまった
 く未知の段階で、本格的にいうと、誰もがうまく分析したり説明したりできないでいるって
 いうのが、現状だとおもいます。ここで生じてくる問題は、予想外のことが、どんどん突発
 的におこってくることです。そこでは、欠如とか欠乏を基準に考え組み立てていったら、だ
 めなんじゃないかとおもうんです。もちろん分析の組み立てもそうですが、倫理の組み立て
 も、欠乏を元にしか倫理はだめなんじゃないかとおもいます。

 そうすると、段階っていうのだけが問題なんだとおもいます。消費資本主義は大衆の窮乏、
 欠乏をだいたいにおいて解いてしまったわけです。でも段階はこれで解けないだろうとおも
 います。段階っていうのは、彼が所得百万なのに彼は二十万だったとかっていうこの段階の
 ちがいだけは、資本主義ではどんなに高度になっても解けないんじゃないかっておもいます。
 それで、これが解けないってことが明らかになった時に、たぶん資本主義っていうのは本当
 にピンチを迎えるだろうとおもいます。現在までのところでは、対立的に、資本主義はここ
 が欠陥だっていうようにいわれてたんだけど、その考えの党派性は、消費資牛王義の段階で
 は無効なんです。かたっぽに窮乏者がいて、かたっぽに富む者がいる、そういうスタンスの
 対立の考えではだめです。ちがう段階を基盤にした対立の取り方をしない限りだめなんじゃ
 ないか。そこらへんが、高度資本主義のいちばんきわどいところの分析になるんじゃないか
 とおもいます。


                       贈与価値論の形成に向けて

  それから農業の問題なんですが、農業ってのはイギリスが二%くらいなんですね。あるい
 は東京の農業ってのは0.2%なんですよ。まず、ここらへんぐらいまではいくとおもった
 ほうがよろしいってのが、ぼくの考え方なんです。地方のどんな都市でも東京並みになって
 いく。これはそこまでいくでしょう。農業っていうのはイギリスでいえば2%、東京をモデ
 ルにすれば0.31%、極端にいえば農業ゼロっていう段階にいくのが、理論的にはあると
 おもってます。つまりそこがどうかんがえても、資本主義の終焉、つまり資季王義がほんと
 うのピンチ、内在的なピンチを迎えるというふうにぼくはおもってます。そうすると、その
 時どういうふうになるだろうかっていうと、消費社会を世界的な規模で、アメリカ、日本、
 フランスなどEC、西欧をモデルにとれば、そこだけが農業ゼロに限りなく近づいていく。
 そうしたら、世界はどうなるかっていうと、第三世界、それとアジアのある一部が農産物担
 当地域になる。かたっぽは農業ゼロに近くなっていくっていうのが、自然な見通しになりま
 す。近未来っていうのは、そうなるでしょう。

  経済学の公理みたいなもので、つまり天然自然を相手にしている限りはその産業者は、貧
 困から脱出できない。残念ですけど、公理みたいなもんですね。そうしたらどうなるかって
 いったら、農業ゼロに近づいた先進地域は農業地域に対して贈与するしかない。(……)
 そしてこっちは必然的に農産物、世界の食糧生産物担当地域になっちやって、かたっぽは農
 業ゼロに近づいているっていう構図になって、その不均衡はどうなるんだっていったら、こ
 っちが贈与するしかないって、ぼくはおもってます。それは近未来にかんがえられる構図じ
 ゃないか。

 そうすると、その時は何か問題になるかっていったら、価値が消滅するってことなんですね。
 価値ってのは交換価値ですね。交換価値っていう概念は消滅する。贈与価値なんですよね。
 贈与価値っていうのが問題になってくるだろう。ぼくらがかんがえる消費資率王義っていう
 のの分析は交換価値っていう概念じゃなくて、贈与価値っていう価値が、どういうふうに何
 か本質なのかって、それを基盤にしなければ、価値論を形成できないでしょう。

 それを武器に分析し論理をつくる以外ない。でないとこの分析は不可能だと、ぼくはそうお
 もいます。ぼくがポイントポイントでかんがえてる近未来の構図は、そうです。ですから、
 あなたのいうことと違うんじゃないかとおもうんです。ぼくは、第一次産業が先進資本主義
 でもってゼロに近づいていくことを避けることはできない、つまり歴史の必然だって、おも
 っています。それはいかなる政策をとっても避けられないでしょう。遅くする早くするはで
 きますよね。でも、必然的にそういくってことは避けられない。そこは価値論の終わりのと
 ころで、同時に贈与価情誼を基礎に据えなければ分析なんかできない段階です。

 つまり贈与価値論ってのは何かって犬雑把にいっちゃえば、かたっぽは物でも貨幣でも信用
 でもいいんですけど、それをいわゆるただでやっちゃうわけですよ。いわゆる交換価値論で
 いえば、ただでやっちゃうわけだけど、その代わり、なにかしら無形の何かをこっちがもら
 ってくる、それと交換するってことになるとおもうんです。その無形の価値ってことはモー
 スのいうような未開の原始社会での贈与とね、高度社会における贈与は違うとおもうんです。
 おっしゃった知的所有権ってのは、当然それを合めた価値論になります。交換価値の代わり
 に贈与価値論を形成する場合に、無形の価値を勘定にいれた原理、そういう価値論を形成し
 ない限りは未開社会じゃなく、高度に意識された贈与ですから、おっしゃることは当然勘定
 にはいってなければならないようにおもいます。


                  資本主義の高度化が世界を単一化させていく

  たぶん資本主義の高度化っていうのが、ひとりでに世界を単一化する方向に力をはたらか
 せていて、国家の粋が、だんだん連続的に壊されてくみたいな形で広がってる。それはいろ
  んな形でいえるんだとおもいます。また具体的にいえば、実質的には贈与っていえばいえる
 ほど、日本もアメリカも第三地域とかアジア地域とかにお金は貸してるけど、ちっとも返し
 てもらってないです。だからそれは累積するばかりになってきてるわけで、実質上はもうす
 ぐ限度を超えた交換ってことで、もう贈与と同じだよっていう境界に近づきつつあるとおも
 います。ぼくの中でマルクスの考え方が生きてる、あるいは生かしてるっていうようにおも
 えるのは、価値形態論でいくのはやめようじゃないか、生産論、再生産論でいこうじゃない
 かみたいなことです。もうひとつはマルクスは、消費ってのは遅延された生産なんだ、べつ
 のものじゃないんだってことを、「経済学批判」の序説のとこでいってるんだけど、その遅
 延っていう概念がどこまで時間的、空間的に伸びきったら遅延以上になっちゃったよってい
 えるだろうかっていうことを解明すれば、だいたいいけるんじゃないかとおもうところがあ
 るんです。

    価値形態論でいうとやかましいことになってきて、プリペイドカードみたいなのあるでし
  ょ。これ、どの範囲にいれようかっていうことになってくるんです。それよりもわかりやす
  いのは生産論、財生産論ですね。産業の次元の区別ってことで、そこんところでおさえてい
  って、第三産業ってのも原理的にいえば、第一次産業を含んでないようにみえて、ほんとは
 全部含んではいってるんですよね、遅延した農業なんですよね。原理的にはそうなってるか
 ら、その考え方のほうがわかりいいんじゃないかとおもって、それで、いったほうがいいんじゃない
  かとかんがえます。

                            (聞き手ー中川平・石塚誰人)

                                             第一部 吉本隆明の経済学


産業構造論とくに農業論についての見解はわたしとは大きくことなる。農本主義や土地本位制か
ら乖離する不可避性についても、第一産業の貨幣量指標で漸近ゼロ傾向になることも否定しない
が食糧安全保障や国土保全的側面からはなくなることはなく、寧ろ、逆に高付加価値化が進行し
ていく。また、農業の兼業化は高度な分業化日本的形態であると考える。民間や民営にによる高
付加価値化(大型農営と分散農営の同時進行)が進行する。これには政府による再投資(再生産
)促進が前提条件になる。つまり、先端技術と環境リスク本位制を社会背景として推測できるも
のだと考える。詳細事例はこのブログで掲載している(例えば「ロスト・スコアからTPP締結
まで」(『中東の地獄絵図』2015.02.08)。


                                    (この項続く)  

 


● 元和偃武再考


        王来自商、至于豊。乃偃武修文。 


                               『書経』周書・武功篇



元和偃武(げんなえんぶ)とは、慶長20年(元和元年/1615年)5月の大坂夏の陣において江戸
幕府が大坂城主の羽柴家(豊臣宗家)を攻め滅ぼしたことにより、応仁の乱(東国においてはそ
れ以前の享徳の乱)以来150年近くにわたって断続的に続いた大規模な軍事衝突が終了した事を
指す。江戸幕府は同年7月に元号を元和と改めて、天下の平定が完了した事を内外に宣したこと
を意味する。偃武とは、中国古典『書経』周書・武成篇の中の語「王来自商、至于豊。乃偃武修
文。(王 商自り来たり、豊に至る。乃ち武を偃(ふ)せて文を修む。)」に由来し、武器を偃
(ふ)せて武器庫に収める事を指している。

これにより、江戸幕府による全国支配体制の基礎が確立して、以後幕末に至るまで(一揆由来の
島原の乱と慶安の変を除く)大規模な軍事衝突が発生しなかった事を体制側が賞賛する意味で用
いられ、6月には既に一国一城制が定められ、改元後に幕府は武家諸法度の制定などによって、
支配体制の強化を図っていくことになったいう。このような歴史的事実を踏まえ、高度資本主義
化する単一世界の統治原理「人命は地球より重し」を宣言し、日本が率先垂範することが、「戦
後70年 「人命は鴻毛より軽し」を問う」(『人命は鴻毛より軽し』2015.02.22)で記載した
ように、わたしたち日本人が世界に向けて発進すべきだ原理だと祈念するものである。 


 


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