森林資源の豊富な宮崎県が新しく生まれ変わろうとしている。地域の未利用材だけを燃料に使
うバイオマス発電所が運転を開始した。山林に残された未利用材から、一般家庭で1万1千世
帯分の電力を作り出すことができる。発電所の構内には木材をチップに加工する設備を備えて、
年間に7万2千トンを燃料に利用する事業が2月1日より運転を開始。都農町内で2009年に設
立したグリーンバイオマスファクトリーが建設運営し、発電能力が5.75メガワットで 年間
4千万キロワットアワーhの電力が供給できる。発電設備には木質バイオマスでも高い燃焼効
率を発揮する「循環流動層ボイラー」を採用した。ボイラーの中で高温の砂を循環させながら
燃焼させる方式で、化石燃料と比べて燃えにくい木質チップでも効率よく燃焼させることがで
きる。450℃以上の蒸気を発生し、発電機のタービンを高速に回転する仕組み――ボイラ最
大連続蒸発量:毎時25トン、主蒸気圧力:5.4メガパスカルゲージ――という。
● 住友-フォスターウイラ型CFBボイラ技術の特徴
流動床式ボイラ(「CFBボイラ」ともいう)へのバイオマス燃料の適用が求められている。
バイオマス燃料のうち、モミ殻やEFB(Empty Fruit Bunches)などの低品位のバイオマス燃
料はアルカリ成分を多く含み、このアルカリ成分は低融点の化合物が生じる。低融点の化合物は流
動材(「ベット材」ともいう)に付着し流動不良を引き起こす可能性があり、炉内温度を低融点の化合物
が生じない程度、具体的には750℃以下に維持するなどの制御が必要である。一方で、流動床式ボ
イラの流動材中に酸化マグネシウム(MgO)を添加すると、低融点の化合物の生成を抑えることがで
きるが、酸化マグネシウムを直接に流動材中の添加は一般的ではないため、通常は、炭酸マグネシウ
ム(MgCO3)や水酸化マグネシウム(Mg(OH)2)を供給する。このため、バイオマス燃料を用いる
CFBボイラの燃焼方法で、フェロニッケルスラグをバイオマス燃料に加えて流動床式ボイラ
で燃焼することで、フェロニッケルスラグ中には酸化マグネシウムが含まれているため、アル
カリ珪酸塩の生成が抑制でき、低融点化合物の生成に伴う流動不良発生の虞が低減し、CFB
ボイラの高温の運転ができるため、エネルギー回収効率の向上を図り易くなるということを特
徴としたボイラーシステムである(下図参照)。
循環流動層ボイラは、高温で流動する固体粒子を循環させながら、燃料を燃焼し、蒸気を発生
させることができる。このような循環流動層ボイラを支持する方法として、例えば鉄骨架構を
設け循環流動層ボイラを吊り下げる方法が採用されているが、据え付け工事上、鉄骨架構を設
置場所と大きな鉄骨架構を設ける必要があり、工期が長期化してしまう。下図のように、循環
流動層ボイラでは、複数の主要ユニットには、設置面に向かって延びる脚部がそれぞれ設けら
れていて、、脚部に支持することで、複数の主要が、設置面で自立可能となり、鉄骨架構など
を設けることなく、脚部を各主要ユニットを設ける作業も容易に、短期間で行える新規考案で
ある。
日本有数の活火山である阿蘇山から北へ約30キロメートルの一帯に「わいた温泉郷」が広がっ
ている。豊富な湯量を誇る温泉街で、地元の住民26人が地熱発電を目的に「合同会社わいた会」
を2011年に設立して、発電所の建設計画を進めてきた。その地熱発電所の完成が迫っている。
導入する発電設備の能力は2メガワットで、3月中に運転を開始する予定だ。地熱発電の設備利
用率(発電能力に対する実際の発電量)は標準で70%と高く、太陽光や風力と比べて安定した
電力源として使うことができる。2メガワットの発電設備で年間の想定発電量は1200万キ
ロワットになり、一般家庭で3千4百世帯分の使用量に相当。
熊本県の再生可能エネルギーは沿岸部の豊富な日射量を生かして太陽光発電が先行してきた。
それに続く形で地熱や水力、さらにバイオマスの導入プロジェクトが県内の各地に広がり始め
ている。中でも地熱と小水力は固定価格買取制度の認定設備の規模がいずれも全国で第2位に
躍進する。
地熱発電の導入量で全国トップの大分県では、地域の森林資源を生かした木質バイオマス発電のプ
ロジェクトが活発に始まっている。農林水産業と連携して地産地消型の再生可能エネルギーを拡大す
る取り組みだ。新電力も参画して、電力会社に依存しないエネルギー供給体制が着々と広がっている。
大分県は特性によって6つの地域に分けることができる(上図)。このうち木質バイオマスが
盛んなのは内陸部の3地域。特に西部の日田市南部の佐伯市を中心に大規模な発電プロジェク
トが相次いで立ち上がっている。日田市では地元の企業2社が共同で設立したグリーン発電大分
の「天瀬(あまがせ)発電所」が2013年11月に運転を開始した。発電能力は5.7メガワットで、
一般家庭の使用量に換算して約1万世帯分の電力を供給することができる。燃料に使う木材は
地域の森林事者17社で構成する協議会が供給する。森林には間伐材や根曲がり材などが大量に
発生、用途のない木材はC材やD材と呼ばれて山林の中に残置されている。こうした未利用の木
材を森林事業者が集約して発電所に供給する体制を作り上げる。
福岡県は2020年に向けて大規模な発電設備の導入計画を急ピッチで進めている。北九州市に太
陽光・風力・火力発電所を相次いで新設する一方、有明海の沿岸部ではメガソーラーの建設が
――特に急速に拡大しているのが太陽光発電だ。買取制度が始まってからの1年間でメガソー
ラーが40カ所も稼働して、発電規模は8万キロワットに達した。件数・規模ともに全国で第1
位である。さらに稼働予定の設備を含めると40万キロワットになり、これを加えただけで2020
年度の目標に届く――目白押しの状態だ。県が運営する治水用のダムに小水力発電設備を導入
するプロジェクトも展開する。さて、このように佐賀県、長崎県、沖縄県を含めた全地域の九
州は再生エネルギー導入の最先進地域となるになることは、あるいは、創意工夫を行うことで
世界一の地域となる右翼に位置しすると携帯される。
(この項続く)
● 『吉本隆明の経済学』論 11
吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
資本主義の先を透視する!
吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズと
も異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかっ
たその思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造
とは何か。資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の
核心に迫る。
はじめに
第1部 吉本隆明の経済学
第1章 言語論と経済学
第2章 原生的疎外と経済
第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
第4章 労働価値論から贈与価値論へ
第5章 生産と消費
第6章 都市経済論
第7章 贈与価値論
第8章 超資本主義
第2部 経済の詩的構造
あとがき
第2部 経済の詩的構造
2 言語にとって増殖とは何か
第二部 経済の詩的構造 中沢新一
こうして想像界(とさらにその上につくられた象徴界)をもつことによって人間の心では、
たえまない意味の増殖が起こるようになる。いやそれ以上に、現世人類型の脳に進化した人
間の脳=心は増殖性を本質とし、それを私たちは吉本隆明やハイデッガーとともに「詩人性」
と呼ぶのである。この「詩人性脳」には特有の構造が備わっている。それは生起と喩の過程
の結合としてその輪郭を描くことができる。
※
この詩的構造を備えた脳=心が、すべての交換現象を発生させるのである。言語能力では
コトバが用いられ、そのコトバは意味増殖の現象をいつでも引き出すことができる。コトバ
がはらむ意味増殖能力を最大限に引き出すために、詩という言語の組織体を人間は生み出し
てきた。同じ現象が、物の交換の現場でもおこるのである。物の交換の本質においても深層
では私の言うところの「詩的構造」が働いている。すなわち生起と喩の複合でできた一つの
構造が、あらゆる交換の現場で活動しているのである。
物を仲立ちにした交換の現象を二類型に分けることができる。商品の交換と贈与の交換のそ
れぞれとして、その1類型を描くことができる。物と物を商品として交換するときには、2
つの異なる物の間に等しいものがあると無意識のうちに考えられており、そのために「1ク
ォーターの小麦は、Xポンドの鉄と交換」できる。ここでは等価交換の原則が、交換をコン
トロールしている。この様子は『資本論』の中で詳細に分析されている。
これにたいしてマルセル・モースの研究した贈与的交換では、だいぶ事情が違っている。あ
る人ないし集団から何かの贈り物をもらった人ないし集団は、それにたいするお返しをしな
ければならないという、これまた無意識の要請にしたがって、贈り物をくれた人ないし集団
にそれ相のお返しを多くの場合はもらった物よりも価値のある物をお返しする。モースは贈
与交換の当事者が考えていることにしたがって、贈り物には「ハウ」の霊力が付着している
ので、贈り物をもらったら相手に別の物でお返しをして、その「ハウ」を贈り戻す必要があ
る、そのさいには、できるだけ「ハウ」を増殖させてお 返しするのがよい。そのためにも
らった物より価値の大きい物でお返しするのがよい、と考えた。贈与では交換を通して価値
は増殖するのである。贈与の慣習は、前資本王義社会で一般的におこなわれていた、古代以
来の交換形態である。これにたいして資本主義社会で一般的な商品交換においては、等価交
換の原則が貫徹されている。前者は交換に基づく価値増殖を前面に出し、後者では交換その
ものからは価値増殖はおきない。ところが資本主義システムでは、前資本主義社会をはるか
にしのぐ価値増殖が起こり、成長が実現されている。二つの交換形態は一見すると相反しあ
っているように見える。
贈与と交換というこの二つの交換形態は、一見するとまったく別のメカニズムがつくって
いる現象のように見えるが、じっさいには同一の「交換の詩的構造」の上で生起している双
対(Dual)現象にほかならない。そのことを人類学者のサーリンズはこう書いている。
この点て、モースは、『資本論』第二章のマルクスに、はるかにずっと似てくるようで
ある。こういったからといって、礼を失したことにはならないとおもうが、ずっとアニミ
ズム的なのである。1クォーターの小麦が、Xポンドの鉄と交換できる。これほど明白に
ちがっている、これら二つの物の間で、等しいものは何であるのか。まさしく、マルクス
にとって、問題は、これら二つの物のなかで、両者を一致させるものは何かにあったわけ
で、交換する二人の当事者について、ひとしいものが何であるかが、問題であるわけでも
なかった。同様に、モースにとっても、「与えられた物のなかに、受取人に返報させる力
があるのか」が問題だったのである。そして、それに本員的な固有性から、という同じよ
うな答えが、ひきだされる。マルクスにあっては、それは、社会的必要労働時間であった
とすれば、モースにあっては、ハウにほかならなかった。
マーシャル・サーリンズ『石器時代の経済学』山内和訳、法政大学出版局、1984年)
マルクスが彼の同時代や後のいわゆる「近代経済学者」と決定的に違っていたのは、交換
の背後で活動している「ひとしいもの」を問題にしたところにある。近代経済学者は「ひと
しいもの」の活動を問題にするかわりに、交換過程の反復のなかに発生する「均衡点」を問
題にした。これを私たちの視点にひきつけていえば、マルクスは交換を人間の言語と思考の
基礎にある「喩の過程」のうちに置こうとしたのにたいして、近代経済学者たちは喩のよう
な心的構造に基礎を据えるかわりに、言語や思考の外部でくりひろげられている物理的過程
として、交換現象の本質を理解しようとしたと言える。
この結果、労働価値説に基礎を置くマルクスの経済学は、近代経済学よりもはるかに「ア
ニミズム的」となったのである。しかしそのおかけで、『資本論』は現代の脳科学や認知科
学と同じ地盤の上に立つことになった。『資本論』の価値形態論は人間の脳=心の構造の理
解から、価値を発生させるメカニズムを探りだそうとしている。そのおかけでマルクスの経
済学は現代的な探求と共通の地盤に立つことになっている。
資本の本質である増殖の理解に近づくためには、生起と喩の合体した「詩的構造」として
つくられている人間の脳=心の本性にもとづいて、それを理解しなければならない。ところ
が近代経済学の学としての構造には、生起や喩を合む詩的構造についての理解がはじめから
排除されている。詩的構造が社会的現実の表面にあらわれてこないことが、そのもっとも大
きな原因でありまた近代科学がそれを扱う方法をまだじゅうぶんに確立できていないからで
ある。そのため近代緑済学は多くの場合社会的現実の追認に終わってしまい、たとえ目を開
いても「世界を凍りつかせる」ような事態にはいたらない。ところがマルクスや吉本隆明の
経済学では、それが起こってしまうのである。
人間に特有な増殖脳の理解には、詩的構造のモデルが不可欠である。増殖性を本質とした
その間の脳=心が資本主義を生み出したのであれば、マルクスや古本隆明がそうしようとし
たように、経済学にも詩的構造の組み込みが必要である。このような試みは古典派経済学の
冒険のあとでは、すっかり放棄されてしまっている。私は『吉本隆明の経済学』をつうじて
まだ未来に属しているそのような経済学への道筋をつけてみたい。
3 詩的構造を持った経済学
経済学的な価値増殖の問題を、真性な「詩的構造」としてとらえ直してみるためには、近
代資本主義システムの形成期にまで遡ってみる必要がある。そのとき経済システムの内部に
根本的な変化が生じて、私たちが「経済の詩的構造」と呼んでいるものの姿が、経済学の表
面から見えなくなっていくからである。
近代資本主義の発達を準備したのは、農業の発達がもたらした大きな原初的蓄積である。と
くにイギリスでは18世紀に入ると、家畜動物の力を利用した改良鋤が普及して広い農地の
開墾が進んだ。この影響はフランスにも及んでいき、大規模農地での機械化農業の時代に入
った。農業が蓄積した富をもとにして、資本主義的な工業生産の基礎が築かれた。それゆえ、
資本主義的な価値増殖の問題を考えるには、農業がもたらす富とその資本への転化が重要で
ある。
農業からもたらされる利潤には、きわめて興味深い特徴がある。それが商工業の場合の利
潤のように合理的計算にもとづく「いさおし」によるのではなく、一種の自然からの「賜物」
としてもたらされるからである。農業は地球システムの活動に技術を介して参加する。その
さいに地球システムとの協同によってより豊かな産出がもたらされるように工夫をこらす。
この産出量から投入量(労働力、種子、肥料などにかかった諸費用)を差し引いた分か、利
潤となる。
このように農業では人間の計算的思考の及ばない地球システムの活動が関わり、そこから
利潤=増殖分かもたらされるのであるから、言語の場合によく似て、増殖に潜在空間の生産
力が関与していることになる。しかも穀物量で測られた産出量(output)から 穀物量に換算
された役人量(input)を引いて得られる量から計算される「利潤率」は、経済学にとってき
わめて合理的な基礎を与えることになる。ここから最初の近代的な経済学としての「重農主
義(フィジオクラシー)」が生まれたのである。
しかしイギリスでは、その後「囲い込み運動」などが起こり、農業と農村の解体が始まる
ことになる。産業の中心が農業から工業へ移ってくる。囲い込み運動で土地を失った農民(
イギリスのファーマー、フランスのフェルミエ)は、プロレタリア化して都市部に移り住み
賃金労働者になっていった。そうなると、経済学の科学的基礎の作り替えが必要になってく
る。
重農主義は、私たちの言う「生起と喩」の二重構造に近い仕組みを組み込んである経済学
をつくった。穀物の増殖をもたらしたものの総体を「自然からの贈与」として概念化するこ
とによって、「生起=自然からの贈与」と「喩=交換システム」の組み合わせとして、初期
資本主義の本質を表現しようとした。つまりそこでは産業システム全体の中心に「穴」が開
いていて、そこから贈与的な力が流人してくるのである。この経済モデルは、詩的言語の構
造モデルときわめてよく似ている。重農主義に特有な牧歌性はそこから生まれる。
重農主義が創造したこのような経済学の理論モデルは、産業の中心が工業に移ったイギリ
スで新しい時代にふさわしい経済学を打ち立てようとしたアダム・スミスに大きな影響を与
えた。アダム・スミスは農業だけが生産的であるとする重農主義の考えを捨てて、工業生産
も生産的であることを示そうとしたのであるが、そこにはまだ農業世界に包囲されていた工
業に保たれていたある種の牧歌性が生き続けていた。
アダム・スミスの後を受け継いだリカードはもともとが銀行家であったから、アダム・ス
ミスが開拓した古典派経済学を、産業がもたらす論利潤をじっさいに貨幣価値で計算できる
経済学につくりかえるという、困難な仕事に取り組むことになる。このときとても興味深い
ことが起こる。
リカードは「のあらゆる産業の利潤を規定するものは、農業者の利潤である」(『利潤論』
1815年)と考え、それにもとづいて利潤計算の基礎づけをおこなおうとした。農業の産
業としての重要性を否定しておきながら、工業生産における利潤まで「穀物比率」で理解で
きると考えたのである。
農業は製造業と違って、生産過程の投大淵と産出側とに、同じ穀物商品があらわれるから、
農業における価値増殖は、労働者によって消費された穀物の超過分として、価値評価とは無
関係に把握される。つまり増殖率を「穀物比率」という物量比として直接に計算ができると、
リカードとその学派は考えた。
サーリンズの表現を借りれば、重農主義の底には穀物の生命という形をとおして表現され
た「アニミズム的なもの」が力強くセットされているが、農業の第一義性を否定して製造業
の重要性を唱えた古典派の理論にも、同じアニミズム的なものがあらゆる産業を通底する「
同一なもの」として流れ続けている。リカードはアダム・スミスのなかに潜んでいたこの考
えを顕在化させ、それを計算可能な量につくりかえたのである。
※
吉本隆明が『経済の記述と立場-スミス・リカード・マルクス』で問題にしていたのは、
このことであった。アダム・スミスの経済学の内部には素朴で牧歌的な「うた」が聞こえる。
このごった」はスコットランド民謡のような優しい詩性をたたえていて、たとえマンチェン
スターの殺風景で薄汚れた工場街でそれが歌われていたとしても、その「うた」には自然に
囲まれた落ち着いた生活の記憶が失われていない。
そののちロンドンの銀行家リカードは、このアダム・スミスの生み出した「うた」の詩性
をたたえた経済学を、複式簿記の計算に慣れた経済の実際家たちにも役立つ計算的な科学に
つくりかえることをめざした。リカードはアダム・スミスの「うた」を散文の「ものがたり」
に改造しようとしたのである。その際、「ものがたり」を駆動させる原理として、彼は『国
富論』が乗り越えたはずの重農主義経済学に由来する「穀物比率」という概念を再利用した。
リカードの時代に書かれていた物語がみなそうであったように、「ものがたり」を駆動させ
るには、自己変形しながら転形流動する「同一のもの」が必要で、『源氏物語』における御
霊のように、それはある種のアニミズム的な性質を帯びている。
マルクスはリカードの理論から出発しながらも、体系の要となる場所から「穀物比率」と
いうアニミズム的概念を取り除いて、古典派経済学を真の科学につくりかえようとした。そ
のときリカードの「ものがたり」は「ドラア」への変化を起こした、というのが吉本隆明の
考えである。 穀物は自分の内部に増殖性の原理を含み、それによって増殖し、利潤を発生
させる。したがって生命の増殖率にほかならない「穀物比率」を自分のうちに取り込んであ
る理論は、生起の過程を組み込んだ詩的構造の特徴を持つことになるが、これは製造業や運
輸業ではなりかたない。リカードはまだ「農業利潤の先決性」という考えにとりつかれてい
た。マルクスはこれを否定して「穀物利潤」の概念に変わる新しい概念を剔出することによ
って、増殖の現象の解明に向けようとした。
第二部 経済の詩的構造 中沢新一
資本の本質である増殖の理解に近づくためには生起と喩の合体した「詩的構造」として つくら
れている人間の脳=心の本性にもとづいて、それを理解しなければならない。ところが近代経済
学の学としての構造には、生起や喩を合む詩的構造についての理解がはじめから排除されている
――との件こそがコアだと告知される。ますます目が離せなくなる。
(この項続く)