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引き寄せられる混沌

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● 『吉本隆明の経済学』論 12

   吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!  

 吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズと
 も異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかっ
 たその思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造
 とは何か。資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の
 核心に迫る。

  はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 第4章 労働価値論から贈与価値論へ
 第5章 生産と消費
 第6章 都市経済論
 第7章 贈与価値論
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき 

 第2部 経済の詩的構造

  3 詩的構造を持った経済学

  このときアニミズム的な「同一なもの」によって駆動されていた「ものがたり」としてのリカ
 ード経済学は、人間だけが舞台に登場して確執を演じる「ドラマ」へと変貌をとげることになっ
 た。「穀物比率」という「同一のもの」は、「社会的必要労働時間」という別の「同一のもの」
 に置き換えられ、「利潤率は、もはや、生産中に使いはたされた穀物にたいする生産された穀物
 の比率ではなくて、そのかわりに、一国の総労働にとっての必需品を生産するために要する労働
 にたいするその国の総労働の比率によって、決定されることになった」(邦訳『デイヴィド・リ
 カードウ全集』[雄松堂書店、1969-99年)に収録されたスラッファによる「編者序文」
 より)。アダム・スミスからマルクスまでの古典派経済学の転形を、吉本隆明は「うた」から「
 ものがたり」をへて「ドラマ」へと移り変わっていく過程として理解し描き出そうとした。その
 とき彼は、転形が起こるたびに科学理論としては緻密になっていったが、思想としてはしだいに
 潤いがなくなっていった、とも語っている。
 
  私はこの過程を、詩的構造の原始性からの乖離の度合いとして理解しようと思う。そのことを
 理解するには、アダム・スミスの前に重農主義の思想家ケネーを付け加える必要がある。アダム・
 スミスが経済の「うた」を歌ったとすれば、ケネーは何をしたか。ケネーの『経済表』はマルク
 スによって人類にとっての「スフィンクスの謎」と呼ばれた。
  ところで人類学は「なぞなぞ」が「うた」に先行するより原始的な文芸形態であることをあき
 らかにしてきた。それは裸にされた詩的構造そのものである。吉本隆明のおこなった理論教判の
 図式に、私はケネーの「なぞなぞ」を加えて、図式を完成させたいと思う(図3)。



  マルクスの経済学からじつに多くのことを学び取りながら、吉本隆明はそれにものたりないも
 のがあると考えている。私はその「ものたりなさ」が、人間の脳り心の原初的な働きのおおもと
 をつくっている詩的構造からの「造さ」にあると考えている。それは資本主義経済そのものかた
 どり着いた、詩的構造からの「造さ」をもあらわしている。
  それでは、脳=心の詩的構造により「近い」ところにある経済の形態であるとか、詩的構造に
 密着した経済学などというものが果たして存在しうるのだろうか。20世紀の経済学者の中に、
 そのような試みに取り組んだ人がいた,スラッフアである。

  スラッファの『商品による商品の生産』(菱山泉・江草忠充訳、有斐閣、1962年)は詩的
 言語の構成をもって舎かれた経済学舎である。全体のトーンを決定しているのは価値増殖の原理
 であり、各産業部門の内部ではすべての構成部分が有機的なつながりを保ちつつ全体運動をおこ
 なっている。ある構成部分の変化は全体に波及していき、全体の変化が各構成部分に跳ね返って
 きては、新しい変化をつくりだすように考えられている。そこではケネーの精神が躍動し、リカ
 ードの穀物比率の思想がよみがえり、マルクスの平均剰余価値率の理論に款いの船が出されてい
 る。



  しかも私にとってそれ以上に重要なことは、それが生起と喩のメカニズムを明示的に組み込ん
 でいる、現代ではほとんど唯一の経済理論であるということである。
  スラッファがあげているもっとも簡単な「小麦(農業部門)と絹(農業以外のすべての産業)
 からなる二部門モデル」を見てみよう。産業全体を第▽次産業とその他の産業(第二次産業、第
 三次産業……)の一一部門に分ける原始的モデルである。
  小麦であらわした絹―箱の価格をカ、二つの部門に共通の利潤率(=増殖率)をyとする。小
 麦産業は200クォーターの小麦を「資本」として投入し、300クォーターの小麦を産出する。
 絹生産部門は80クォーターの小麦を「資本」として投入して、15箱の絹を産出するものとする。
 二部門からなる生産体系のモデルは、つぎの連立方程式であらわされる(図4)。

   

  
  この連立方程式を解くと、y=50%、ρ=8クォーター。一般的利潤率yは、小麦部門だけか
 ら(300-200)÷200=50%と、価値評価とはかかわりなしに、穀物収量の増殖率であ
 る穀物比率で完全に決定されてしまっている。他方、絹1箱の価格カは、小麦部門の内部で完全
 に決まってしまっていたy=50%の利潤率によって調整されて、従属的に1箱あたり8クォータ
 ーに決まってしまう。
  これはケネーの『経済表』にしめされた「純生産」の原理と同じ思考法である。農業部門で利
 潤率yといえば、穀物価値の増殖率を示す穀物比率yにほかならない。このyは、農業部門に特
 有なやり方で決定される。そこでは農業という産業システムの内部に植物を介して→外生的」な
 エネルギーが取り込まれ変換されることによって、価値の増殖が起こる。システムの外からのエ
 ネルギー流人がおこなわれるのはここだけであるから、増殖率をあらわすyによって、他産業の
 生産物の価格は先決的に決められてしまうことになる。これは言い方を替えると、「賜物」であ
 る純生産によって決められる贈与価値というものが、あらゆる価値論の基礎に据えられるべきも
 のであり、商品というものをつくりだす交換価値の概念では、価値増殖にもとづく資本主義の本
 質をとらえることはできない、という主張になる。

  重農主義はたんに農業を富の生産の基礎に据える思想などではない、ということがこれからも
 わかる。それは詩的構造を備えた最初の経済学であり、外生的なエネルギーを内部に導き入れる
 生起のメカ平スムを持ち、相互連関のネットワークを形成する喩的な機構を整備して、資本主義
 の発達を準備したものである。資本主義の初期と終末期に、詩的構造を持つこの経済学への要求
 が高まる。それが資本主義経済のアルファでありオメガであるからだ。
 贈与価値は資本主義の始原にあらわれ、そののち表面からは姿を消すのであるが、長い年月のの
 ちふたたび、資本主義の終末期である消費資本主義の中にその姿をあらわすのである。そのこと
 に関連して、吉本隆明はつぎのように語っている。


   贈与価値っていうのが問題になってくるだろう。ぼくらがかんがえる消費資本主義っていう
  のの分析は、交換価値っていう概念じやなくて、贈与価値っていう価値が、どういうふうに、
  何か本質なのかって、それを基盤にしなければ、価値論を形成できないでしょう。

                          (本書第一部第ヒ章「消費資本主義の終焉から贈与価値論へ」)


   ケネーからスラファヘと向かう学的な系譜から生まれたこの経済学では、交換価値ではなく贈
 与価値にもとづく価値増殖が、理論全体の基礎に置かれている。贈与価値は、生起の過程を通し
 てシステムの内部にあらわれ、喩のメカニズムによって組織される価値である。それは詩的構造
 を備えた価値とも言える。このような構造をもった概念によらなければ、消費資本主義以降の価
 値論は形成できないだろう。詩的構造をもつ経済学は、その意味では未来に属していると言える。 
 吉本隆明が折々の思考の断片をとおして表現しようとしていたのは、そのような未来の経済学の
 スケッチである。

   4 詩的経済の革命

  吉本隆明は農業の未来についてもユニークな考えを持っていた。資本主義は現在あきらかに高
 度な消費資本主義の段階に入っている。それに連動して産業としての農業は、先進国では軒並み
 たちいかなくなっている。自然を相手にしている産業者はますます貧困から脱出できない。近未
 来に農業人口は先進国では限りなくゼロに近づいていくだろう、その結果として、いわゆる第三
 世界とアジアの一部が世界の「農産物担当地域」になる。これは自然史過程である、というのが
 吉本隆明の考えである。

  あらゆるものを商品につくり変えていく資本主義の運動が進むと、交換価値だけでできた世界
 ができあがっていく。貨幣価値に変えることができるものならば、水でも空気でも、なんでも商
 品化して儲けることができる。ところが農業のように「天然自然を相手にしている産業」では、
 生産のもっとも重要な部分が地球システムにつながっていく自然の循環的サイクルと直結してお
 こなわれるために、価値の増殖が広い意昧での「自然の贈与」としておこなわれることになる。
 この部分は貨幣と交換ができない。つまり農業は交換価値として扱うことのできない部分を、自
 分の核心部としてもっている産業なのである。

  そのために、資本主義が進んでくると、先進国では農業はしだいにふるわなくなる。農業のお
 こなった原始的蓄積が近代資本主義を可能にした。いねば農業は資本主義の母なのである。しか
 し交換価値にもとづいてあらゆる事物を商品にする資本主義の発達につれて、農業は遅れた産業
 なる。
  一方で資本主義は交換価値だけに依拠した都市型社会を拡犬していく。生産拠点を進上国に移
 転して、先進諸国は国内では消費資本主義を発達させていく。その資牛王義はとうぜん金融型の
 資本主義でもある。こうして世界は二つのブロックに分かれていく。交換価値のみに依拠する先
 進諸国と、「天然自然」がもたらす贈与型価値増殖を本質とする農業に頼っている達上国である。
 吉本隆明はこれを、資本主義の必然的な自然史過程と見なしている。

  このような思想は、人類の増殖性脳の本質を考えるとき、自然な流れとして出て来る考えであ
 る。ニユーロンネットワークに生成と喩の機構を生み出す連接網をつくりだした現世人類の脳=
 心は、本質的に詩的構造としてつくられている。この詩的構造から最初に生まれてくる交換は贈
 与型の交換であり、そこでは意味や価値の増殖がかならず交換にともなって現象する。
  喩のメカニズムが動くたびに、潜在空間Xへの沈み込みと浮かび上がりがくりかえされる。人
 間は世界を、このような見えない潜在空間を介しながら、「ホモロジー」的に認識しているわけ
 である。

  ところが意識化か進むようになると、無意識の領域から意識領域にもたらされる情報が遮断さ
 れるようになる。そうするとしだいに喩に関与する潜在空間の影響が小さくなる。すると喩の構
 造に変化が生じてくる。項目同士の喩的なつながりが失われて、孤立するようになり、孤立した
 項目のそれぞれは抽象的な連続依の上に置かれることによって、見かけの連続性を回復したよう
 になる。この過程を通して、生起の運動をはらんだ「ハウ」は、抽象的な「社会的必要労働時間」
 に変化していくのである。

  吉本隆明の思考は、人間の脳=心の本質をつくっているこのような詩的構造の自己運動にたい
 する認識から生まれたものである。増殖性脳は贈与価値から交換価値へ向かう強い傾向性を、自
 分の中に内蔵している。長い間それにはストッパーがかけられていたが、いったんそれがはずれ
 るとそちらの方向に進んでいく自然史過程が始まってしまう。この過程は誰にも止めることがで
 きない。そこからつぎのような認識が生まれる。
  

    ぼくは、第一次産業が先進資本主義でもってゼロに近づいていくことを避けることはでき
   ない、つまり歴史の必然だって、おもっています。それはいかなる政策をとっても避けられ
   ないでしょう、遅くする早くするはできますよね、でも必然的にそういくってことは避けら
   れない。そこは価値論の終わりのところで、同時に贈与価値論を基礎に据えなければ分析な
   んかできない段階です。

  では、その贈与価値論とはどのようなものか。

   贈与価値詣ってのは何かって大雑把にいっちゃえば、かたっぽは物でも貨幣でも信用でもい
   いんですけど、それをいわゆるただでやっちゃうわけですよ。いわゆる交換価値詣でいえば、
   ただでやっちゃうわけだけど、その代わり、なにかしら無形の何かをこっちがもらってくる、
   それと交換するってことになるとおもうんです。その無形の価値ってことはモースのいうよ
   うな、未開の原始社会での贈与とね、高度社会における贈与は違うとおもうんです。(……)
   交換価値の代わりに贈与価値論を形成する場合に、無形の価値を勘定にいれた原理、そうい
   う価値論を形成しない限りは未開社会じゃなく、高度に意識化された贈与ですから(……)

                           (本書第一部第七章「贈与価値論」)

   資本主義はあらゆるものを交換価値に変えていく運動を進行させることによって、自分の内部
 から第一次産業を滅ぼしていく。それは農業のような第一次産業が根底に自然との間に交わされ
 る贈与価値論的な要素を、自分の本質として含んでいるからである。しかし交換価値のみによっ
 てなりたつ先進的な消費資本主義も、食料がなければ死んでしまう。そこで先進資本主義はこの
 不均衡を解消するために、食料生産地域に無償の贈与をおこなう。

  無償の贈与を農業担当地域に与えることで、先進資本主義はそれをとおして「無形の何か」を
 得る。この「無形の何か」とは潜在空間に内蔵されているアモルフな力のことであり、この無償
 の贈与によって先進資本主義は、自分の中から失われてしまった詩的構造の全体性のいくぶんか
 を取り戻す。ここには、無償の贈与によらなければ、いったん断ち切られた交換価値と贈与価値
 の問にふたたび橋を架け渡すことはできない、という認識も含まれている。

  レーニンの国家論を思わせる、ユニークで過激な思考が展開されている。しかしその思考の奥
 底で詩的構造の図式が力強く作動しているのが、はっきりと見て取れる。その思考においては人
  間の増殖性脳かたどることになる自然史過程は、なんぴとも覆し得ない絶対的な進行を貫徹する。

   それによって、経済における詩的構造(それは増殖性脳の構造そのものでもある)は、二つの
 極の分裂を起こし、現象としては、農業ゼロの消費資本主義と第三世界とアジアの一部にできる
 農産物担当地域に、世界は分裂していく。この分裂と不均衡を解決できるのは、無償の贈与だけ
 であり、その とき交換価値論にもとづく資牛王義は贈与価値論にもとづく資牛王義への変化を
 おこさなければならない。これが実現されれば、グローバル(大局的)な構造として、世界経済
 における詩的構造が回復される。これが古本隆明の資本主義の未来に間する第一の見通しである。

 

    ※

  吉本隆明は資本主義の未来像として、これとは異なる第二、第三の見通しについても語ってい
 る。第二の見通しとして、吉本隆明は先進国での都市化の進行の必然性を語りながら、その都市
 の内部がつぎのようなハイブリッド構造に変わっていくという見通しを語っている。

 
   農村が都市化し、都市が高度化していく、つまり高度情報化していく、その流れには、自然
  史の延長としての文明史の必然だという部分があります。この部分は制度や権力で止めようと
  おもって法律をこしらえても、いくらか遅くなるか促進されるか反動が起こったり、という程
  度のものだとおもいます。 
   そうすると、都市は高度化し、文明はもっと高度化しということは、基本的なところでは不
  可避だとおもいます。何かできるのかといえば人工都市はできるんです。人工都市の中で自然
  と産業、つまり先ほどいいましたことから出てくる第一次産業、第二次産業、第三次産あるい
  は第四次産業、その産業の割合と、天然自然の割合とが理想的であるような人工都市をつくる
  という考え方です。だから都市のなかに農村をつくったり、公園をつくったり、森林をつくっ
  たり河川をつくったりという、それ以外の方法はありえないでしょう。 

                          (本書第一部第八章「超資本主義論」)

 

  この未来の人工都市では、「産業の割合と、天然自然の割合とが理想的である」ように設計さ
 れている。このような人工都市の「経済学」を考えてみよう。このような都市は、「天然自然」
 に回路を開いた第一次産業を「理想的な割合」で組み込み、他の高次産業と結合してつくられた
 ハイブリッド都市である。数種類の産業が相互連関と結合体系をなしている。このようなハイブ
 リッド型の都市の産業を分析するには、ケネーにはじまりスラッファによって確立されレオンチ
 ェフが発展させた産業連関分析モデルが最適である。

  スラッファのモデルによって、このような人工都市の「経済学」を措いてみよう。人工都市で
 あるから、すべてが商品によってできている世界と思っていい。そこの商品は「基礎財」と「非
 基礎財」に分類できる。基礎財というのは、フ直接的であるか間接的であるかを問わず)すべて
 の商品の生産にはいるかどうか」を判断基準にしたときの基礎財であるから、古典派経済学のい
 う必需品」、古本隆明のいう「必需的消費材」にあたる。そうでない商品が非基礎財、古典派で
  いう「奢侈品」、古本のいう「選択的消費材」がそれにあたる。

  基礎財として小麦と鉄の二つ、非基礎財として鎖からなる小型モデルを考えてみる。小麦、鉄
 鎖それぞれの単位価格をち、鳥、鳥として、一般的利潤率をyとすると、さきほどと同じように
 考えて次の式がなりたつ(図5)。

 
  このモデルを見るとすぐにわかるように、小麦と鉄はすべての商品の生産に直接投入されてい
 るから(小麦を耕作するためには鎌などのような鉄でできた製品を必要とするし、鉄製造労働者
 は小麦を消費して体力をぼっている)、あきらかな基借財である。これにたいして鎖をつくるに
 は小麦と鉄を必要とするが、小麦と鉄の生産に鎖は必要ない。つまり鎖はまぎれもない非基礎財
 であり、選択的消費材である。
 
  基礎財の価格は、利潤率yと基礎財の価格だけですべて決まってしまう。これにたいして、絹
 の価格鳥は小麦と鉄の価格鵜、鳥と利潤率yからなり、それは基礎財の「生産費」によって完全
 に調整されている(菱山泉『ケネーからスラッフアヘ』名古屋大学出版会、1990年)。
  この人工都市は消費資本主義を最高度に発展させた段階にある。そこの住民の消費の50パー
 セント以上は、選択的消費材(非基礎財)の購入と消費にあてられている。ところがその選択的
 消費材の価格は、基礎財のみからなる小宇宙=基礎財体系だけで決まる利潤率γに従属し、その
 yから決まる基礎財の価格によって決められるのである。

  ここで「基礎財のみからなる小宇宙」と呼ばれているものの内部をよく見てみると、そこには
 かならず農業部門が含まれる。そしてそこをつうじて、地球的な子不ルギー循環のシステムであ
 る「天然自然」が、この人工都市には深く結合されることになっている。ハイブリッド型都市で
 は、さまざまな高次産業の生産は相互に結合されることによって「高次化」が進んでいるが、そ
 の高次産業がつくりだす諸商品の価格すべてに、基礎財によって決められる均一の利潤率yとそ
 こから決まる基礎財の価格が、決定的な影響を及ぼすことになる。
 
  このように吉本隆明が未来につくられるべき人工都市として考えたハイブリッド型都市の最深
 部には、私が「経済の詩的構造」と呼んでいるプライマルな構造がセットされることになる。こ
 のような人工都市をネットワーク化したさらに高次の小宇宙についても事情は変わらない。そこ
 ではあらゆる生産は「商品による商品の生産」としておこなわれるが、その基底部では贈与価値
 論抜きには理解することのできないシステムが作勤している。商品化社会の中でいったんは消滅
 したかのように思われた贈与価値論が、産業の高次化と都市化の進行の果てによみがえってくる、
 という逆説的な事態が、ここにも起ころうとしているのである。

                            第二部 経済の詩的構造 中沢新一


第一次産業の農業を取り出し構造変換が科学技術的、社会学的に解説され、農業の高次化しとして「
第六次産業化」(=一次産業×二次産業×三次産業)するものとして流布されている。それだけでは
なく、林業、漁業、鉱業も同様に人工化が著しいスピードもって進展する『デジタル革命渦論』の時
代でありその代表的な例が、生物工学の遺伝子改変技術の登場で、ピンポイントに遺伝子を組み換え
技術を挙げることが出来る。もうひとつは環境精密制御技術が上がられる。これは稲作を例にとって
みよう。日本では二期作もきなくはないが限られているが、ベトナムでは三、四期作が当たり前であ
る。これに対しの稲の実の重量の多い嵩の小さい育種品を植物工場で多期作で収穫し、生産性の高い
工場製品生産類型の「1→N」(事例:石油精製、反対は自動車や家電製品の「N→1」型)に該当
する生産が将来実現可能であろう。工場生産するから環境変動を制御でき、高品質(安全)な生産シ
ステムでもある。但し、ピンポイント遺伝子改変技術を適用する場合、事前リスク評価システムを整
備しなければ「未体験ゾーンの拡大」によるリスク回避はできずこのバランス感覚が重要となる。

このように、第一次産業が高次化が変容し、極端な話、寧ろ、質的にV字回復していくだろう考えて
いる。また、遺伝子改変技術などの21世紀の物理学の見通しに対しても慎重な立場にいる。"人類
の欲望"の拡大はリスクを質量とも大きく変えていくだろと考えている。喩えれば、映画『ザ・フラ
イ』のように、「混沌」を引き寄せるかもしれない・・・・・・と。 ^^;。

                                           (この項続く)  




 

 


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