先週、昼食に出された、味の素の和風だしで刻み青ネギを添えただけの、"にしんそば"が大変美味
しので「すごく美味かったよ」と褒めた。和風だしが大変美味しくなっているのよという返事が返
ってきた。何と喩えたらいいのかわからないが、蕎麦に鰊のさっくとした食感と特有のアミノ臭の
芳しさと、だしの効いたさっぱりとした醤油味との絶妙な釣り合いが、即席料理(ファーストフー
ド)でありながら、その喉越し後に不思議な奥深さと上品さを残す。この一品を口にすることで幸
福感に包まれる。その印象が残っているのか、昼に、毎週火曜の午前中に車で訪問販売に来るピザ
パンを予定していたのだが、彼女がこの"にしんそば"を運んでくる。
「美味い!」。
ところで、このブログの「にしん」を検索すると数多く掲載していことに気づく――例えば、『に
しんと熟鮓祭り』(2010.02.12)/『キングサーモンの原動力』(2012.10.18)/『コーヒカップ
でビールを』(2012.02.25)で掲載している。こんなにも愛しているんだ。
● 『吉本隆明の経済学』論 15
吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
資本主義の先を透視する!
吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも
異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったそ
の思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何
か。資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫
る。
はじめに
第1部 吉本隆明の経済学
第1章 言語論と経済学
第2章 原生的疎外と経済
第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
第4章 労働価値論から贈与価値論へ
第5章 生産と消費
第6章 都市経済論
第7章 贈与価値論
第8章 超資本主義
第2部 経済の詩的構造
あとがき
第1部 吉本隆明の経済学
第1章 言語論と経済学
解説
1970年代は政治の季節であり、言語論の時代であった。思想の領域では言語論を武
器とした構造主義が大きな影響力をふるっていた。思想的諸問題を解く鍵は言語論に隠さ
れているという共通の認識が、さまざまな分野に広がっていた。経済学とくにマルクス主
義経済学の分野では、『資本論』を言語論のスキームで読み返す試みが西欧でも日本でも
始められていた。そういう試みではたいがい、言語をコミュニケーションの構造としてと
らえ、それを交換価値の表現としての貨幣や貨幣による資本増殖の理解に利用した。
そういう時代にあって、吉本隆明はこのような言語の「機能主義」的理解にまっこうか
ら立ち向かう、独自な思想展開をおこなっていた。「機能主義」こというのは吉本の言い
方によるが、言語がなにかの対象を指示したり、有意味なメッセージを伝える働きの面を
前に押し出した言語理解をさしている。ソシュール言語学などについての当時の一般的理
解も、その程度ですまされることが多かった。吉本隆明は「詩人性」の思想家として、こ
のような言語論を根底から否定しようとしていた。
機能主義では対象を指示する言語の働きが第一に考えられる。ところがそれは人間がじ
っさいに用いている言語の実情にあわない。言語は「指示表出」の働きばかりではなく、
彼が「自己表出」と呼んだ心の内面の潜在空間からの力の表現との組み合わせとしてでき
ており、この二つの軸は垂直に交わっている。自己表出の軸にあらわれる表現は、対象を
外に分離して対象化する指示表出の働きとは違って、無意識といわれる心の深層や身体性
や情動の深みにつながっている。このような言語図式を自ら手に入れた吉本隆明は、それ
を駆使して詩歌や小説など広く「文学」の領域の理論的探求を深めていった。
この鮪自のけ語図式の形成に大きな影響をゾえていたのが、『資本論一の価値形態論で
ある.したがって古本隆明の探求が文学から進んで経済学の領域に突人することになった
のは、けだしとうぜんである,吉本の言語図式は最初から言語に内在する「意味増殖」の
能力を中心に据えてつくられていた。指示大出に白ピ表出が結びつくとき、意味の増殖が
起こり、文学はこの言語の意味増殖機能によってはじめて可能となる。経済において同じ
メカニズムから「価値増殖」が発生し、資本主義の基礎をなす、ここを出発点にして「資
本論・の従来の理解を覆していくことができるのではないか このような思想が「吉本隆
明の経済学」の原初の発想の泉となった。
1 幻想論の根抵-言葉という思想
以前からじぶんのなかで、漠然と『言語にとって美とはなにか』『心的現象論序説』『
共同幻想論』は別のものでないといった感じ方がありました。今日はこの感じ方をいくら
かでもはっきり整序させてみたいとおもってやってきました。うまくこの三つの領域が関
連づけられ、ひとつの鎖でつながる場所はみつけられないか、そういうモチーフがすこし
でもはっきりさせられたらよいとおもうのです。
まず言語(言葉)というところからはいっていきます。言語はたれがかんがえても、た
れがみても、すぐにわかる現われ方の特徴があります。言語は音声や文字で表現されます
が、音声とか文字はそれ自体としてみたら(物質としてみたら)、それは空気の振勣だと
か活字になった妙な形をした記号だとかいうことで、裏からみても、表からみても、どう
ひっくり返しても、それだけのものです。しかし人間の内的な意識のある表現だとして、
あるいは文字に固定された記号としてみたら、言葉はある価値づけの対象になるといって
よいでしょう。つまり慨なる物あるいは音波にしかすぎないものが、何か価値がつけられ
るものになります。
言葉が価値の対象になれると申しましたが、この価値は言葉がある事がらを指し示し、
それを伝えるという目然な機能に基いていることはすぐに理解されます。けれどもこの言
葉の自然な機能も、ある事がらを指し示し、それをたれかに伝えようという話し手や、書
き手の意志との関連でかんがえはじめますと、自然な機能も、ある事がらを指し示し、そ
れをたれかに伝えようという話し手や、書き手の意志との関連でかんがえはじめますと、
自然な機能のほかの何かがつけ加わります。それはある事がらをぼんやり指し示そうとか、
よりはっきりと指し示そうとか、ここは強調して伝えようとか、あいまいに伝えようとか
いう意図が、音声やいい廻しのリズムを変化させることになります。そうしますと、言葉
が価値の対象となるとき、すでにこのことは勘定にいれておいたほうがよいことになりま
しょう。
どういうことかと申しますと、言葉は話し手や書き手の意識や意志と関連させてかんが
えるとき、ある事がらを指し示し、それを伝えようとする無意識の、あるいは意識された
モチーフがあるのですが、このモチーフや目的とはさしあたりかかわりない、ある普遍的
な表出を実現しようとするものだということです。いいかえれば、言葉は〈指し示し〉〈
伝える〉という機能を実現するのに、いつも〈指し示さない〉〈伝えない〉という別の機
能の側面を発揮するということなのです。わたしたちが、ときとして何かを指し示し、伝
える必要がありながら、話したり書いたりすることがおっくうであったり、苦痛だったり
するのは、この〈指し示さない〉〈伝えない〉言葉の機能の側面を使わなければならない
からです。
こういうものがほかにないかとかんがえてみます。すると、ある意味でそれとよく似た
性質をもったものがあります。それは流通過程にある商品というものです。商品とは素材
的にいえば、(鑵ジュースを示して}単に金属でつくった鑵で、なかに液体が入っていて
というだけで、それ以外の意味は何もつけられません。これを人間の社会的な労働によっ
てつくられたものだとかんがえていきますと、商品はある価値づけができることになりま
す。もちろん価値づけは、この鑵ジュースが商品だということのなかに、いいかえれば〈
……のために〉使われるということのなかに、すでにふくまれています。そのときに鐘の
なかの液体は、化学的なある液状の成分ではなくて、飲みものだということから生れる価
値づけがなされたことになります。いいかえれば使用性あるいは飲料として美味しいもの、
栄養のあるもの等々の役に立つ性質としての価値づけです。
けれどもこの錐ジュースが本来的な価値としての価値づけがなされうるのは、たれかの
手によってこのものが製造されたということのなかから生じます。そう見倣すときにはじ
めて鑵ジュースが、金属の容器のなかにはいった化学的な液体成分という物質的な規定を
〈ヘカッコに入れ〉たあとにも露出してくる特性、飲んで美味しい、栄養がある等々の、
すくなくとも人間が関与してくるとき生れる普遍的な特性が与えられるからです。
これは飲んで美味しい、栄養がある等々のくために、鑵ジュースが製造されたり、使わ
れたりするのだということとちがいます。むしろ飲んで美味しい、栄養がある等々〈とし
ての〉鑵ジュースということに近いといってよいとおもいます.〈・・・・・・・としての〉と
いう特性 のもとにあらわれる物質ということから関与される、人間のある関与の仕方
のなかに、ひとつの価値づけの本来性があるようにみえます。
ここでわたしたちは、商品が社会の経済的なメカニズムの網状態を介して、そのなかで
流通していくのとおなじように、眼に視えない観念の上層のところに、やはり言葉があた
かも商品とおなじように、眼に視えないが類推のきく形でさまざまに錯綜して存在してい
る、それはまるで社会構成における商品の陰画とおなじように、不可視の空間を飛びかい観念
的に錯綜し横行している、そういうイメージをおもい浮かべることができるとおもいます。
けれどこのイメージはただ〈商品〉という概念と〈言葉〉という概念とが対応づけられ
ただけの図表にすぎません。わたしたちの価値づけの世界を基にして、商品と言葉とがお
なじように網の目をつくっている状態を想像しますと、このふたつはいずれも、価値づけ
本来を海抜線とする山や谷や川や樹本のような起伏をもっか陰画の世界のようなイメージ
になります。ここでは商品も言葉も物質性を〈カッコに入れ〉られてしまいます。
言葉は、さまざまな次元の価値づけで流通しています。たんなる通信や連絡文、広告文などか
ら、まったく略称や記号や暗号の形をとることがあります。またとくに文学などをかんが
えますと、文学はそのなかでひとつの美的なものを生みだす、あるいは生みだされた美的
なものとして言葉が飛びかっているものを指します。そこに眼をつければ、杜会のなかで
さまざまに関連しながら横行している言葉の形態のなかで、美的な範躊としてかんがえら
れる言葉のさまざまな錯綜の仕方、あるいはそういう言葉の作られ方の考察が、文学の考
察になるのではないかというように類推してかんがえることができるとおもいます。
そのようにかんがえていきますと、文学への考察は言葉の解析からはじまって、言葉が
さまざまな関連性のなかで、どういうふうに生みだされたり流通したりするのかというこ
との追求が、ひとつの課題となって当然でてくるわけです。
はじめに対象をへ指し示すこと〉〈伝えること〉のために使われた言葉といえども、そ
のうちに〈指し示すこと)〈伝えること.》としての言葉という自体性格をもつようにな
ることは当然のことでしょう。そういう性格をもつようになるといういい方よりも、そう
いう側面からみることができるようになるといったほうが正確なのかもしれません。すく
なくとも意図のはじめには、〈のために〉言葉を使っても、使われた言葉は〈としての〉
性格を同時に具えていることになるからです。
その果てには意図的に、言葉をくとしての〉性格だけで使おうとする欲求が生れてくる
ことがありえます。これもまた言葉が本来的にもっている側面を強調あるいは誇張するこ
とにほかならないので、特別なことではないといえばいえるとおもいます。なぜそういう
欲求が生ずるのか、さしあたりよくわかりません。金鋸の刃で紙を裁断してみたいといっ
た、遊びの欲求からかもしれませんし、〈指し示すこと〉〈伝えること〉のために言葉を
使っているうちに、〈指し示さないこと〉《伝えないこと》という機能の外の言葉の性格
のなかに、すべて他の作られたものと共通する普遍的な性格をみつけられるようになった
からかも知れません。
商品にある価値づけがなされるのは、まずはじめに商品が使用価値として、さまざまな
用途にたいする欲求に当然みあう自然形態をもっているからです。もうひとつは共通の価
値基準でありうるような、そして計られ交換されうるような価値本体でありうるというこ
とです。このふたつが商品を商品たらしめている、つまりたんなる物質でない大きな特性
だとみることができましょう。
「二十エレの亜麻布は一着の上著に値する」という事実があるとします。このばあいに「
一着の上着」は「二十エレの亜麻布」の等価物です。もし「二十エレの亜麻布」はまた「
茶十ポンド」に値するとすれば、「二十エレの亜麻布」を主体にして「一着の上着」と「
茶十ポンド」とのあいだに等価物としての同等性の関係がひらかれます。もちろん「二十
エレの亜麻布」が「一着の上衣」の等価物であるという逆の関係もあります。この等価物
の形をとることができることもすべての商品に共通した特性です。そうだとすれば、すべ
ての商品が共通にになうことができる等価物としての役割の側面は、ある普遍的な等価形
態をもつ商品、そして等価物としての使用性だけが使用価値であるような普遍商品、つま
り貨幣によって代置されるはずです。
おなじことは言葉についていえないのでしょうか。
〈指し示す〉とか〈伝える〉とかいう用い方からできるだけ遠ざかったところで、ひたす
らある内的な状態の等価であるような側面においてだけ言葉を行使するようにするのです。
その言葉は使用性を喪失するような使用性であり、また普遍的な等価であるような価値表
現をもとめる言葉になります、そしてもしかすると現在、文学はこのばあいの言葉を、極
限としては視野のうちにいれているといえるかもしれません。
『資本論』の第一章「商品」のところで、マルクスは亜麻布と上着という例を、たとえば
「二十エレの亜麻布は一着の上着に値する」といういい方で考察の基準にしています。こ
の表現は等式的にいえば、次のようになります。
20エレの亜麻布=1着の上着
これを文法的にみてみますと、「二十エレの亜麻布一は主語(主部)、「一着の上着」
は目的語、目的部)、「値する」は主部と目的部をつなげる動詞の等価的表現になります。
文法的にいいますと、主部があってそれがある目的部を誘いだし、それが「値する」とい
う動詞で等価的に結びつけられている、というのがこの文章の構成です。
けれどもこれを文法的な表現とみずに、文学的な表現とみなすすべをかんがえましょう。
そのときには等価の意味はまた変わらなくてはなりません。今おなじ文法的な言葉の構造
をもちながら、文学的な言葉として解するため、便宜上「二十エレの亜麻布」を「あの美
しい亜麻布」に変え「一着の上衣」を「天使の上衣」と変えてみましょう。すると「あの
美しい亜麻布は天使の上衣のようだ(に値することか「あの美しい亜麻布は天使の上衣だ
(に値する)」という表現になります。この表現は等式的にいえば、まえとおなじく次の
ようになります。
美しい亜麻布=天使の上衣
このばあい「天使の上衣のようだ」あるいは「天使の上衣だ」という直喩あるいは暗喩
の表現が、たれにでもわかりやすい等価表現、いいかえれば本来的価値の側面で言葉を使
おうとするための表現であることがわかります。
ところで商品の価値形態論でいえば、主部に該当するものは相対的価値形態であり、目
的部に該当するものは等価形態になります。しかし、相対的価値形態とか等価形態とかい
ういい方は商品の流通過程をかんがえていくうえで必要な術語であって、それはさしあた
ってどうでもいいことです。ようするに、二十エレの亜麻布があり、それを何かに較べよ
うとするばあいの価値形態は、一着の上着がいねば等価の代償物としてあるから、はじめて資
格というものが成りたつし、またまったくちがうふうにつくられたものが問連づけられる
のはそういう価値形態をとるからだということで、こういう術語的表現が生れたわけです。
問題はただ、どこで言葉が文法的な次元から文学的な次元に跳躍し、そのときの等価の
概念がどう変貌するかということです。
「二十エレの亜麻布は一着の上着に値する」という文章は数式的に表現することもできれ
ば、価値形態論で問連づけることもできますが、美的な次元に跳躍させることもできます。
つまり言葉の世界と商品が流通する世界とを、もし共通に対応づけられる論理があるとす
れば、その鍵は、こういう簡単な文章構成のなかに基本的な問題が含まれることを意味し
ています。そしてまたおなじように、言葉の美の考察は、言葉の考察から分離してゆかな
くてはならないはずです。
〈指し示すこと〉〈伝えること〉という言葉の使用性は、さしあたってそう意図するかど
うかとはかかわりなく実現されてしまうものをさしています。けれども何ものかの等価形
態のようにおかれる言葉は、そのように意図したときから〈指し示すこと〉〈伝えること〉
という言葉の自然形態のようなものを忘れ去るというべきか、意図的にそれから離脱しよ
うとするのではないでしょうか。それはある普遍言語が目指されるといってよいのかもし
れません。
けれどなぜ言葉がそれを発する人間の意識あるいは意図の状態とかかわるところでは、
そういう非本来的なものを目指してしまうのか、その原衝動のようなものは定かではない
ようにみえます。さしあたってわたしたちが言葉の〈概念〉とかんがえているものの本性
のなかに、普遍性が目指されうる根拠が潜んでいるといえるでしょう。〈概念〉自体が普
遍性をもつのではなく〈概念〉の構造のなかにその.要素が潜んでいるということだとお
もいます。
第一部 吉本隆明の経済学
マルクスとエンゲルスの『資本論』と比類する、吉本と中沢の『超資本論』の源泉を丹念に
読み進めているが、今夜は静かに写本するような作業となった。
(この項続く)
● シャープの再生は?
日本を代表する液晶パネルメーカー、シャープが苦悩している。昨年、巨額の赤字を出し、日本
国内の工場4カ所を閉鎖するなど大規模なリストラに着手。価格競争力で中国の同業に押された
ことが主因とみられているという(中国新聞 2015.03.03)。経営再建中のシャープの2015年3
月期連結決算で、純損益の赤字額が2千億円近くに膨らむ見通し。広島県にある電子部品の4工
場を閉鎖するなどリストラの追加を検討している。主要取引銀行に協力を要請し、借入金を株式
に振り替え「債務の株式化」の実施などで、計1750億円の資本増強を目指す。発光ダイオードな
どを生産する三原工場(三原市)と、センサーを手掛ける福山工場(福山市)の第1~3工場の
計4工場の閉鎖を検討する。その場合、福山は第4工場だけになる。
シャープの製品はほぼ全面的に「売れていない」、スマホ向け液晶も価格競争の波に飲まれた、
なぜ事業再編しなかったのか、夜郎自大だったとの声が上がるなか、"築城三年、落城三分"とは
ブログ掲載した言葉だが・・・・・。