● 世界一福祉立国をめざせ!
超高齢・少子社会時代に突入し、「老老介護」「シングル介護」「認認介護」「460万人が認知
症 予備軍も400万人」という言葉が踊る昨今。世界にほこる福祉立国・日本の誇りもかすんで
しまうような惨事も後を後を絶たない。少子化でひとりの子女が両親を介護する社会が常態化する。
もうこれは家族では支えることができない。いまこそトータルに社会福祉することが避けられない。
しかしここは、"ピンチがチャンス!"と変換するしかない。
● 尿から電気、「発電するトイレ」を開発 英研究
英国の科学者チームは5日、尿のなかにあるエネルギーを解放して発電するトイレを開発したと発
表。難民キャンプなどの遠隔地の照明への利用が期待されている。西イングランド大学と国際支援
オックスファムの共同研究チームが開発。この発電トイレは、同大の学生と職員らに使用してもら
うことを目的に試作品がキャンパス内に設置されているとか。この装置の燃料電池には、尿に含ま
れる化学物質を分解するバクテリアが使われ、分解過程で放出されたエネルギー(電気)は、電池
内のコンデンサーに蓄えらる。防災用・イベント用向けに添加できそうだ。
● 『吉本隆明の経済学』論 16
吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
資本主義の先を透視する!
吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも
異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったそ
の思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何
か。資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫
る。
はじめに
第1部 吉本隆明の経済学
第1章 言語論と経済学
第2章 原生的疎外と経済
第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
第4章 労働価値論から贈与価値論へ
第5章 生産と消費
第6章 都市経済論
第7章 贈与価値論
第8章 超資本主義
第2部 経済の詩的構造
あとがき
第1部 吉本隆明の経済学
第1章 言語論と経済学
いま、「二十レエレの亜麻布は十ポンドに値する」といういい方をかんがえると、目的部に
くる物(商品)が消えてしまって、商品でみれば普遍的で抽象的な貨幣になっています。
そこでは等価物に共通化と抽象化が同時におこなわれているわけです。
この等価物の状態が言語のうえでかんがえられるとすれば、言語の〈概念〉とみなしている
もののところに、根源があることほまちがいありません。けれど具体的に美としての言語文学
的な言葉についてその状態を探りあてることは難かしいことがわかります。
さきに「美しい亜麻布は天使の上衣(のよう)だ」という直喩と暗喩のところに等価的な言
葉の状態をかんがえました。この「天使の上衣(のよう)だ」というのは、おなじ〈概念)を
暗示するような無数の喩で代えることができます。「虹の切れはし(のよう)だ」、「孔雀の
羽(のよう)だ」、等々すくなくとも〈美しい〉という〈概念〉にあたる言葉は、どれでも使
うことができるはずです。これらの無数にかんがえられる言葉を、表象しうる言葉はあるでし
ょうか。それは何でしょうか。それは「美しい亜麻布は美しい」ではないことは確からしくお
もわれます。そして〈美しい〉というへ概念〉のまた〈概念〉(の冪乗)をあらわすもののは
ずです。これにあたるものが何かをいうことができませんが「二十エレの亜麻布は十ポンドに
値する」というマルクスの範例、というよりも普遍的等価形態としての貨幣という概念が、対
応を言語に要求するものとすれば、それはすでに存在しているはずであり、また可能なはずで
あり、けれどそれを具体的にいうことができないようにおもわれます。
『資本論』のな品があると、それをお金でもって買う、そしてそれがまた商品に転化される、と いう過程
です。これは次のような図式です。
WーGーW
(商品)-(お金)ー(商品)
この過程がいくら繰返されて続いても、基本的な形は、商品-お金―商品という循環のなか
で決定されます。
この図式は言葉で説明してみますと、たとえば亜麻布を十ポンドで売って、十ポンドを手に
しか者が、今度は十ポンドで聖書を買ったということです。すると「亜麻布は十ポンドである
」と「十ポンドは聖書である」とがこの図式に該当するわけです。そうすると、商品が流通す
る基礎的な形態と、ふたつの文章がある関連づけがされたことはおなじことだ、つまり対応す
ることができるといってよいでしょう。
流通過程のところで、「亜麻布は十ポンドであるIということと、「十ポンドは聖典である」
ということとは、G(お金)の担い手がおなじ人物でなければ、本来的には何の関係もない過
程です。同様にこのふたつの文章は本来は何の関係もないはずの文章です,けれど、もしGの
担い手が同一人物(人格)であるとすれば、商品は流通の基本的な最小の過程をとることがで
きおなじようにふたつの文章は、十ポンドの担い手が同一人物(表現者)ならば、関連させる
ことができるわけです。
そうしますとここでは、まだ依然として、商品の流俑(交換)形態とご言葉の流通(交換)
形態とは対応づけが可能だということがいえます。
ところで、ここでさまざまな考え方がわかれる分岐点があります。それは言葉の美的な表現
のいちばん秘密の部分に属するところであり、また商品の流通過程としても最初のマジックに
みちた過程になるところです。マルクスはしばしばそういう表現を使っていますが、商品が資
本に転化する流通の仕方をかんがえますと、その基本的な図式は次のようになります。
G-WーG’(G’=G+α)
商品が資本としての過程で流通していくときの図式は、結局この過程の無限の連続になりま
す。つまり商品が資本的な流通過程にはいるということは、最初にお金があり、次に商品(物
)を買い、その商品(物)がまたお金に変わる、ということです。この最初のお金と後のお金
とのあいだにはふたつの問題がでてきます。ひとつは、後のお金のほうが最初のお金より大で
ある。少なくとも後のお金に代えられたときには、プラスαがついているということです。も
うひとつは、重要なことですが、一度商品が資本の過程に入ったばあい、その根本的な衝動と
は、中間に商品という媒介がありますが、その本質的な過程とはたんにGからG’だというこ
とです。
つまりGからG’、G”を産みだし、それがいつでもプラスαがくっついているということ
です。
どうしてGはg”に変わるのでしょうか、たとえば、ここに十円があってこれはどう頑張っ
ても十五円にはなりません。これが十五円になったらマジックを演じたことになります。とこ
ろが中間に商品が介在し、しかもそれが資本主義的な過程に入ると、十円が十五円になってし
まうということです。もしマジックや念力で十円が十五円にかわるのなら、資本主義は終わっ
てしまうはずです。すなわち、マジックが成りたつかどうかは別として、マジックを目的意識
として資本主義は成りたっているといえましょう。つまりこの過程の本質はGからじというマ
ジックであり、それがすべてなんだということです。それは『資本論』の「商品」の項の基本
であるし、たぶん全体の基本だとおもいます。
ここが問題になるわけですが、現実形態としてはかならず貨幣があり、商品が売買され、ま
た、お金に代えられるという最初の基本過程を確実に踏んでゆきます。
しかし本質過程は単にGからび(つまりお金からお金)へというそれだけのことです。ここ
のところで、本質過程(形態)と現実過程(形態)とのあいだに分裂、分離がおこるというこ
とができます。
この本質過程と現実過程との分裂、分離は〈疎外〉とみなされます。そして〈疎外〉という
ことはそのまま〈表現〉だとかんがえることができます。さきに、わたしたちは〈指し示す〉
〈伝える〉という言葉の使用性は、そのような機能を実現するために、ある普遍的な水準で言
葉を行使することになり〈指し示さない〉〈伝えない〉という機能の側面を含み込んでしまう
ということを述べました。そして言葉が美的な次元に跳躍するということはこの非指示的な、
そして非伝達的な側面を強調したり誇張したりするためにのみ、言葉を行使するということを
強いられる所以についても言及しました,そしてこのような分賢をまねくのは、言葉の〈概念〉
の構造のなかに使用性ではない要素が存在するためだということにも触れました。
もしそうだとすればひとつの《概念〉に対応するどんな言葉でも、すでにそれが行使された
ときに本質過程と現実過程との分裂、分離、疎外の過程に入っているとかんがえてもよろしい
はずです。そして、たしかにそのとおりで、わたしたちはことさらに美的な言語、いいかえれ
ば文学の言葉を囲いをつくってかんがえる必要はないはずです。けれども商品の流通過程Wー
G-WーとG-W-G’とが、すくなくともこの過程の主人公にとって動機、衝動、モチーフ
がちがっているとみなしてよいように、モチーフのちがいをかんがえても許されるとおもいま
す。W-G-Wの過程の主人公は、ある商品をお金に代えて、そのお金で別の必要な商品を買
いたいというモチーフをもつとみなしてよいでしょう。G-W-Gの過程の主人公は、お金を
商品に代えて、その商品をまた売ってお金に代えることで、お金を増殖したいというモチーフ
をもっているとみなされます。
おなじように、通常の網の目をなしている言葉は〈指し示す〉〈伝える〉ために言葉がつか
われ、その過程に美的な工夫がなされることがあっても、よりよく〈指し示す〉〈伝える〉こ
とがモチーフの言葉だということになります。これにたいして美的な言葉はただ言葉の価値の
ために、そして価値増殖のモチーフをもって、はじめから行使される言葉だとかんがえること
ができるでしょう、この過程は使用価値ではなく、価値そのものなんです。価値の自己増殖と
いうことが自ビ目的です。
だからこの過程に対応する言葉の世界は、文学の世界だけだろうとかんがえていったとおも
います。
ただ、ここまできて言葉の表現が文学になっていく基本的な形との類推ができるようになっ
たとおもいます、つまり自己増殖ということがあくまでも本質的な過程であり、これを文学に
類推すると、(ぼくは「自己表出」という言葉を使っていますが)文学がなぜ生みだされたの
かといったばあい、決して使用価値といったものが第一義的にあるのではなく、価値の自己増
殖こそが文学(言語の美)の本質的な衝動なんだということです。この自己増殖の過程を言葉
を媒介として成就していくということが、たぶん文学の芸術性の基本的な形になるだろうとお
もいます。
そうしますと、現在の文学の過程はきわめて高度なものですから、あとは言葉の表現の問題
に則して、その具体的な在り方を緻密に辿っていくことになってきます。すると、現在では言
葉の表現の芸術(文学)がどうなっているのかは、ひとつの大きな関連のもとで組みたてるこ
とができます。
最初にいいましたように、何か文学の姿を成りたたせているのかといいますと、社会におけ
る商品の流通生産過程の眼に視えないネガみたいなもののひとつの態様としての言葉の世界が
相互に関連したり、錯綜したり、山や谷のようにうねって飛びかっている、そういうイメージ
で描かれる言葉の世界のうち、とくに言葉が美としてでてくる形態がかんがえられてきました。
そうしますと、それ以外に言葉が単なる記号としてでてきたり、あるいは伝達目的のための
表現であるとか、さまざまな形で言葉は錯綜しています。
これらの世界は、いったん美的な言葉の世界のようなある普遍的な価値づけの世界に入りこ
みそれをいわば目的なき目的、あるいは使用性なき剔出、そして剔出それ自体の世界からみる
ようになりますと、すべてが言葉の〈概念〉のある水平線をもとに、高低が描かれるような起
伏ある陰画、あるいは不旺視のうねりの地表に変貌してしまいます。商品の世界といえども、
いったん価値それ自体が追求されるところでは、このような言葉の〈概念〉の水準のうえに浮
かぶ普遍的な価値のうねりに転化してしまうのです。普遍的な言葉、あるいは本質的な言葉と
いうものが目指される世界からは、すべては言葉のうえに浮遊するようにみえるという謎にみ
ちた構図が、世界図にちかいものとなります。このような現代の言葉と物の世界の意味を、わ
たしたちはよく知っているわけではありませんが、そこを生きていることになります。
2 言語と経済をめぐる価値増殖・価値表現の転移
無形の価値概念
僕は、言語の考え方については、三浦つとむさん、時枝誠記さん、マルクスの『資本論』の
価値形態論からの影響を受けて、自分なりの文学価値論を作っていったと思います。六〇年を
ちょっと過ぎた頃から、数年かかってやったことです。
ここ数年は、自分なりに価値論の変え方を少し考えて『ハイ・イメージ論』でやってきまし
た文学論だけに関わらない形です。マルクスの言う価値論は労働価値説なのですが、労働価値
説から出てくる価値論をもっと広げることができないかと考えたわけです。広げて価値概念を
作るときに、そのなかに文学・芸術から、娯楽とか芸能とか、つまり人間の楽しみとか、遊び、
余裕、そういうものを含めて通用する価値論を出したいと思ったわけです。
主観的に言いますとマルクスの価値論は息苦しいじゃないかという感覚が、自分のなかに旺
盛に出てきたわけです。その息苦しさはどこからくるか、またこの息苦しさを間かせるには、
どんな価値論を作れば良いのか、そういうモチーフから出発しました。この考え方に何か根拠
があるか強いて後からくっつけますと、日本の社会がとても高度な産業社会になっていきまし
て、消費関係、つまり娯楽とか遊びとか余裕とか芸能とか、そういうものの占める、生活過程
での比重が大きくなってきました。そんな社会状況を背景にして、自分なりに反映させたと考
えると、根拠づけになります。
マルクスの労働価値説では、商品の価値は労働時間の大小によって決められてしまいます。
その他のものは無視しようとすれば無視することができる。例えば男女で同じものを作る時、
女性の方が多く時間がかかることはありうるではないかとか、身障者と健常者がいて、同じ製
品を作る場合、身障者の方が余計に時間がかかるじゃないか、それならば、身障者の方が労働
価値説から言えば、製品の価値が大きくなるじゃないかとか、理屈をこねればそうなりますが、
その差異は一切捨象されます。その程度の違いは資本主義的な商品と価値の循環の全体を考え
れば、無視して、ただ労働時間に還元できるというのがマルクスの考え方です。多少そんな格
差があっても資本主義全体の循環過程を考えれば、無視できる程度の違いにすぎない。そうい
うのがマルクスの考え方です。
それで、労働時間の大小で価値が決まるという価値論の基本を、少し拡張して考えればどう
なるかと言いますと、人間が自分の実際の身体を使って、あるいは頭を使って、ある対象を加
工するとか、あるいはある対象に普段使っているよりも精神を集中させて、ある所定の時間を
経たとします。労働という概念を拡張して考えますと、人間が対象に対して、(その対象は、
精神的な対象でも、肉体的な対象でもよろしいのです)精神や肉体を働かせることが広い意昧
での労働と考えることができます。
言い換えれば、人間がある対象に向かって行なう、心身の行為が労働だと考えますと、労働
という概念を単に商品を作るということからもっと拡大して対象化行為全体に及ぼせることに
なります。まずそこのところで、労働という概念を一番極端なところまで開いておこうじゃな
いかということです。つまり、人間がある対象に向かって、つまり、自然に向かって対象的な
行動をする,それを労働と考えると、商品の価値に限定しないで、広い価値という概念を作れ
るのではないかと、まずは考えるわけです。それを広い言い方で言っちゃいますと、人間が周
囲の自然に対して、何か行動をしたり、精神を働かせたりすると、したところから自然は全部
価値化されていく。そう拡張できることになります。
僕の理解の仕方では、それが息苦しいんじゃないかな、と思えます。つまり、人間は歩いた
って、何か考えたって、その対象は全部価値になってしまう、価値化されちゃう。そんなこと
をしなければ、ただの天然自然だったり、人工の自然だったり、ただ環境としてそのままある
のにそこに何か考えを集中したり、手を加え加工するといった心身の行為をすると、今まで価
値概念とは関係なくそこにあった天然自然も、人工自然も全部価値化されてゆく。それだから
息苦しいのだ。つまり、あまり価値、価値と言いたくない。
それなら、息苦しくない方法をどう考えれば良いのかと考えるわけです。僕の考え方の経路
において、手を加えれば対象は全部価値になってしまうという極端に広げた価値概念を息苦し
くなくするには、遊びとか娯楽とか芸能とか、もちろん文学・芸能も広い意味では遊びであっ
たり娯楽であったり、楽しみであったりとなるわけですが、そういうものを全部含めて、マル
クスの言う極端に広げられた価値概念のなかに入れてしまえば、必ずしも息苦しいとは限らな
いことになります。
そのために価値という概念を変えることになります。マルクスが『資本論』でやっている価
値概念は、労働時間の大小に依存します。そして、商品は目に見える労働で手を加えた時間を
もとにしています。無形の、精神的な価値を変えたということが、『資本論』の価値概念には
含まれていません。そこで価値概念は無形なものの価値まで広げるというモチーフから考えて
みることになります。
価値と意味
それでは、無形の価値概念とは何なのかということです。商品の価値に、無形の価値概念を
含めようとするとき、まず価値ということと、意味ということを厳密に分けて考えてみたいと
思います,これは僕らが六〇年代の初め頃にやった、言葉のイメージするものが価値概念と結
びつくところが出てきた考え方です,結局、マルクスが価値と言っていることは、価値という
ことと意昧ということの両方に明瞭に分けないで曖昧なまま一緒になっていて、それが無形の
価値までに拡大していく場合に不都合が生じる理由ではないかと思いました。
僕なんかの価値概念は、言葉で言うと、指示表出というふうに何かを指す使い方と、自己表
出という、自分の持っている表現性の元になっているものに対する表現の仕方、あるいは動物
で言えば何かの叫び声あるいは呼び声みたいな、対象を指してというよりも、そのまま心のな
かからひょいと出てきてしまう表現を考えたわけです。結局、価値というのは、相手を指示す
る概念を潜在的には通って、自分が自分に対して叫びかけるとか、自分の叫び声が自分のなか
から起こってくるというような自己表出、何かを指す概念が潜在的に裏に隠れて、自己が自己
に対して表現を仕掛けるという概念に表現が移っていく、そういう経路を通っていったものを
価値と考えれば良いか。逆に言いますと、自分が自分に叫びかけるという過程が裏側にありま
して、相手を対象として指す表現が出てきたとき、それは意味であると考えたら良いので、そ
う二つに分けられるべきと考えました。
『資本論』で言いますと、マルクスは例えば空気や水は交換価値はないけれども、使用価値は
ある。つまり、使えるものは皆、意味があるということで言えば価値がある。しかし、それ自
体が取り替えることもできれば、何かと替えることもできるという意味の価値は、水や空気に
はないと考えても良い、基本的にそうなるのです。僕が言葉の表現で言う価値と、言葉の意味
というものは、ちょうどマルクスの使用価値という概念と、交換価値という概念に対応する形
で考えることができます。そう考えることで、六〇年代頃にやった言葉の表現、つまり、文学
の考え方というものと、一般にマルクスの価値論を普遍化してしまおうじゃないか、拡張しち
ゃおうじゃないか、そのなかに休息も娯楽も、無形の精神的な行為も全部含める価値概念にし
ちゃおうじゃないかという価値の拡張の仕方が、ある程度、結びつくことができます。そこで、
価値の普遍化・拡大化という概念と、言葉の価値という概念を結びつけることができるという
おおよその筋道ができあがりました。
第一部 吉本隆明の経済学
今夜もここまで、なつかしく読み進めてきたが、当面このような作業が続きそうだ。
(この項続く)
● 八種一籠の工具セット
8種類のツールを含まれている工具箱。組み合わせ切り替えで、カットや穴あけなど、様々な大
工仕事をこなすことができる優れもの。18ワットのバッテリーを内蔵し、重さは16六キログ
ラム重量で、価格は約7万2千円だとか。春がそのまでやってきている、家庭菜園、日曜大工と
いかまら腕が鳴るなるDIY!