淡き光立つ俄雨
いとし面影の沈丁花
溢るる涙の薗から
ひとつひとつ香り始める
それはそれは空を越えて
やがてやがて迎えに来る
春よ遠き春よ瞼閉じればそこに
愛をくれし君のなつかしき声がする
作詞/作曲 松任谷 由美
「春よ、来い」(はるよ、こい)は、松任谷由実の26枚目のシングル。1994年10月24日に東芝EMIか
らリリース。また、同名のNHK朝の連続テレビ小説主題歌。自身のシングルとしては『真夏の夜の夢』、
『Hello, my friend』に続いて3番目に売れたシングル。2011年03月11日に発生した東北地方太平洋
沖地震(東日本大震災)の被災地を支援に、ユーミンとNHKは共同で「(みんなの)春よ、来い」プロ
ジェクトを行う。ユーミンは『第62回NHK紅白歌合戦』に本曲(「(みんなの)春よ、来い」)をもっ
て出場している。
● 『吉本隆明の経済学』論 17
吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
資本主義の先を透視する!
吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも
異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったそ
の思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何
か。資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫
る。
はじめに
第1部 吉本隆明の経済学
第1章 言語論と経済学
第2章 原生的疎外と経済
第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
第4章 労働価値論から贈与価値論へ
第5章 生産と消費
第6章 都市経済論
第7章 贈与価値論
第8章 超資本主義
第2部 経済の詩的構造
あとがき
第1部 吉本隆明の経済学
第1章 言語論と経済学
2 言語と経済をめぐる価値増殖・価値表現の転移
文学の価値を決める文学理論
Aという作品と、Bという作品があり、どちらが文学的に価値ある作品であるかということを
決めたいんだ、という場合、普通、文学をやっている人や、文学を批評している人の考え方から
すると、そんなことはそれぞれ一人一人違うのだよ。一人一人、これの方が良いという人と、こ
ちらの方が良いという人は全部違っちやう。批評もそうで、ある人はこちらの方が良いと言うし、
ある人はこっちの方が良いと言い、そんなことはI人一人違うのだというところでストップです
し、それで結構良いわけです。
具体的な世界ではそれで通っていくわけです。僕は、文学の価値は決められるのではないか。
Aという作品と、Bという作品があって、これには百人百様の評価がある。でも、究極的にはど
ちらが良いか、絶対にわかるのだ。そういう理論が作りたかったわけです。
この欲求は、ロシアのマルクス主義が同じことをやりたかったのだと思います。でも、そのた
めにどういうことをしたかというと、政治的価値というものと(それは高揚性と言ってもいいの
ですけれども)、芸術的価値というものを考えて、それがピシャリと融合して、どちらも良い作
品があるとしたら、それは良い作品としようじゃないか。言ってみればそういう考え方です。
しかし、もしロシアのマルクス主義者たちが政治的価値と言っているものが、ちっとも政治的
な価値がなかったとか、マイナスだったらどうなるのかという疑問が絶えず喚起するわけです。
駄目だということになったらどうなるのか。ここ数年間でそうなったと思いますけれども、あの
政治は駄目じゃないか、つまり、ブルジョア的と彼らが言っていたものよりも、もっと悪いじゃ
ないかというふうに政治的価値がなっちゃったら、どうなのだと言った場合、そういう理論のた
て方は全部駄目だということになるわけです。駄目なことはすぐにわかるのですけれども、こう
いう焦燥感は一度、左翼思想に惹かれた人のなかにどうしてもあるのです。つまり、何か決めて
しまわないと納まりがつかないというのがあるわけです。僕もそうで、納まりがつかない。ロシ
ア・マルクス主義の言う、政治的価値と芸術的な価値を作って、これがうまくマッチしていたら
良いとしようというものほどアホらしい考え方はないということに途中で気が付いたわけです。
これでは駄目だということになり、そこで考えようということになっていったわけです。
言葉の内在的な価値
Aという作品とBという作品は、どちらが文学的な価値があると決められる文学理論、文学の
考え方を作りたくて、『言語にとって美とはなにか』を言きました。僕はこう考えていきました。
例えば、Aという批評家とBという批評家がいて、これがある作品と別の作品を比べて、どちら
が良いかで意見が違う。あるいは読者が百人いて、批評したら、三十人はAという作品が良いと
言い、あとの七十人はBという作品が良いと言った。さて、これをどうしてくれるのだというこ
とになるわけです。内在的に内側から決められる価値概念で、言葉の価値を決められれば、文学
としてこっちの方は価値があるけれども、こっちの方は価値がないと言えるはずだという考え方
を展開していきました。すると、百人のうち三十人がAという作品が良いと言い、七十人がBと
いう作品が良いと言うのはどのように判断したら良いのかということです。始めに一回だけ読ん
だ時は、「俺はこっちの作品の方が良いと思った」、「俺はこっちの作品が良いと思った」と百
人には百通りの評価があるということになります。でも、もし、その百人に、一回読んだ印象で
そう言わないで、百回読んでくれないかと要請したとします。百回というのはひとつの比喩です
が、その作品を無限に何回も読んだとすれば、必ず決まるはずだと僕は考えたわけです。一回だ
けの印象では、その人の好みから生い立ちから何から、読んでいる時の精神状態、そういうこと
が全部関わってきますから、一回読んだだけならば、百通り違うかもしれません。しかし、これ
を百回読んでくれ、あるいはこれを無限回読んでくれと言った場合は、明らかにAという作品よ
りもBという作品の方が良いということが決まるはずだというのが、僕らの考えたことです。
なぜ、そう決まっていくかというと、言葉の内在的な価値で決まっていく、人間が言葉を発す
る時、意味として言葉を使うか、価値として言葉を使うかということになるわけですけれども、
これは意味として使う時にも、価値として使っているのですけれども、意味の方が強度が強い形
で出てくる時に、意味として言葉を使っているということになります,それから、逆に価値とし
て言葉を使っている場合は、意味として使っている部分もあるのですけれども、その過程を通っ
て価値として使っている部分が強調された場合は、それは価値として言葉を使っていることにな
るのだ。そういう言葉の意味や価値の理解になっていきます。
例えば人間の精神のあり方というのを考えますと、自分はこれからご飯を食べようかなと心の
なかで考えて、本当にご飯を食べはじめた時、それはご飯を食べているというその人の行為、行
ないの意味になって現われます。しかしそれは明らかに価値として、つまり、ご飯を食べようか
なとか、このおかずよりも、俺はこのおかずの方が良いから、このおかずにしようかなという精
神だけの過程が元にありまして、それが行ないになって現われて、それを外から見るとこの人物
はこのおかずで食べはじめたという誰にでもわかる意味となって現われるわけです。その元にな
っているその人の内在的な心の働き方と行ないの関連を見れば、心の働きとしてご飯を食べよう
かな、よそうかなという過程とか、ご飯を食べるとすれば、何をおかずにしようかなという精神
のなかだけで考えられること、精神の表現というのがまずありまして、それから行ないになって
出てくる。こうなった時、その行ないの意味が人にも見えているということになります。
価値という場合はそうではなく、行ないはどうでもよくなります。肉体労働ではなく精神労働
に従事している人は机の前にぼんやりして、しかし、こういう考え方をしたら、仕事はうまくい
くだろうか、こういう考え方を出していけばうまくいくだろうかと絶えず精神のなかでやってい
て、人から見ると、机の前にうすぼんやりして何もしていないということになるのだけれども、
精神は活発に働いている,それは精神労働の本質なのであり、これは価値加護にでも使用価値あ
るいは指示価値にならないで、価値が内在化している過程だけで終わるとすれば、あるいはその
過程から労働時間かすれて、その三日後に行動として実現されたというふうに、製品の内部にい
ろいろ想いをめぐらせたということと、行動に現われたことは即座に働かない。
そういう心の働かし方は価値としての心の働かし方なのですけれども、それに達するには、使
用性として、これ をこういうふうにやったら、より有効性のあるものができるのではないかと
いうことがまず最初にありまして、それにはどうしたら良いかということを考えている。価値の
考え方が後にやってきて、しかし、その前にこうやったら製品はもっと使用価値があるとか、商
品としてもっと良いはずだという目的性が潜在的にあって、それにはどうすれば良いかを考えて
いる過程があって、それが価値が表面に出てくる考え方と言いますか、人間の行ないの状態にな
るわけで、これは外からはぼんやりして、何も考えていないのか、それとも活発に精神を働かし
ているのかわからないところがあるのですが、価値というものの純粋な形はそういうものです。
使用性と言いますか、これを便ったらどうするかと考える以前にその問題があって、ある考え方
を思いめぐらすという ことが後から出てくる,これは価値を主体にした考え方、精神の考え方
とすれば、そういう考え方になっている場合は価値の考え方となる。そういうふうに価値の考え
方を考えれば、精神の憩いや休息、娯楽のために何かをした、消費したということでも、それは
価値のなかに含めること ができると考えられるわけです。
身体生理と言葉
最近のことですが、これはつながりが考えられるなと思いだしたことがあります。それは人間
の価値という考え方、僕の言葉の理論の言い方でいえば、自己表出とか自己表現を、人間の心身
の相関わる領域に関連づけたいということがあるのですが、その間連づけに三木成夫さんという
脳解剖学者の考え方が大変有効性を持っていることに思い到ったことです。
人間の活動について心の働きという場合もあるし、精神の働きという場合もあるし、意識の働
きという場合もあるし、無意識の働きという場合もありますし、感覚の働きというものもありま
す。文学・芸術というのは心の働きと感覚の働きが一番基本的だと思いますが、心の働きと感覚
の働きはどこが違うのかということです。心の働きと言うけれども、心って何なのだ。定義して
みろと言われた場合、僕らはいくつかの考え方を持っていて、はっきりしなかったということが
ありました。むしろ「心」というものの定義の仕方によるのではないかと考えたいくらいでした。
しかし、三木さんの身体生理に関する考え方はものすごく参考になります。人間の器官には植
物神経系の働きで、自動的に動いている部分があります。それは内臓の働きです。喜怒哀楽とい
う情念に関わる働きは内臓に関与しています。つまり内臓の働きに関与する精神の働きを特に心
と呼んでいると理解すれば良いのだということは三木さんの解剖学的な考え方、形態学的考え方
で、初めてはっきりしたなと思えたわけです、心の働きは内臓の働きである。心情の働き、哀感
哀楽に関与する働きは内臓の働きに関与するものであり、それが表現となって出てくるものです。
それから、人間の感覚器官、五感に関連する動きもあるわけです。人間には感覚的な精神の動
きと、内臓の働きによる精神の動きがあり、ひとつを心と呼び、もうひとつを感覚作用、感官作
用、知覚作用と考えれば良い。そして、内臓の働きも感覚器官を通っていて、内臓の働きが全面
に出てきた時には心と呼べば良いし、内臓の働きが作用する精神の働きが背後に隠れて、感覚の
働きが表に出てくるものを感覚作用、あるいは知覚作用と呼べば良いことがわかります。
例えば憂鬱な時にある色彩を見るのと、朗らかな時にある色彩を見るのでは、同じ色彩を見て
も感覚の受け取り方がだいぶ違います。なぜかというと、内臓器官に関与する精神の作用を潜在
的に必ず通って、感覚器官の働きが全面に出てくるから、そういうことが起こりうるわけですし、
また、心の働き、内臓器官の働きのなかにでも、例えば人間の死体を見てしまったからどうも胃
腸の調子が良くないとか、心臓が思わしくなくなり、そして、あまり良い心の働きが出てこない
ということがありえます。実際に出てくるのは、感覚の働きが潜在化されていって、内臓の働き
である心の働きが全面に出てきたということです。どちらが潜在的になるかで、人間の精神の働
きは強訓点が違ってしまうと考えられるということです。
初めて、自分の言葉の価値と言葉の意味の考え方と、人間の生理器官の動きと結びつけること
ができると、理論的に言えるようになったのではないか。人間の生理作用と心の働き・感覚の働
きと、言葉の表現における言葉の価値と言葉の意味、マルクスで言えば経済的な価値論・価値概
念を拡張して、一般的・普遍的な価値概念を作ることができるのではないか。そうすると、価値
というのは必ずしも人間が行動すれば周辺は全部価値化されちゃうんだという息苦しさから逃れ
られるのではないかというつながりが、おおよそつくようになったと、自分では思えてきました。
胎児以前に形成される無意識はあるか
しかし、よくよく考えるとここは曖昧だったなと思える箇所があるわけです。それは生まれて
から一歳未満の状態と、胎内にある状態は何も触れられていないじゃないかと言える箇所です。
そこに触れている考え方が理屈上ありまして、フロイトとかユングに代表される無意識学説です
大雑把に言うとノ言葉を発することはできず、自分では生きることができないから、母親・母親
代理の人に栄養を取らしてもらって、おむつをあてがってもらったり、寝かしてもらうなど、母
親的なものに頼って生きている時間が一歳未満まであるわけです。
それから、胎内の時間、母親と肉体的関連性の時間があります。系統発生的な考え方をすれば、
単細胞から魚を通って、両棲類になり、陸にヒがって哺乳類になり人間になり、外に出てくる過
程が、胎内で十月十日あるわけです。その後半では感覚器官が相当整って、母親の影響を受けて、
だんだんとわかっていって、その期間は人間にとっては無意識の作用として現われてくるわけで
す。生まれてから一歳未満の間に形成されるのがフロイトの言う無意識や前意識になるわけです。
ところが、それをもう少し胎内に拡張しないといけない。そこでは言葉はないけれども、コミ
ュニケーションはあるこその状態をどのように意昧づける、価値づければ良いのかという問題が
あり、それは今までの考え方ではちょっと出てこないということになるわけです。僕は自分でも
そういうことは考えていないなとだんだん気に掛かってきて、そこのところを何とか考えてみた
いと、テーマにのぼってきたわけです。
極端なことを言いますと、宗教家たち、特に仏教系の影響を受けている宗教家たちは、前世・
来世はこうだ、と言うわけです。一般に自然科学的な考え方からすると、前世はどうだったなん
て山Lめにしようじゃないか。来世なんかはないとしようじゃないかという認識で、そこを捨象・
切断してきているわけです。僕らが考えたことは、胎内から一歳未満までは考えどころだぜ、言
葉がない時代の人間は考えどころだぜということです。言葉がないのならば考えなくてもいいじ
ゃないかということになりそうですが、少なくとも一歳未満の子供は、母親が「アウアウ」と言
うと、何となくわかって笑ったり、赤ん坊の方がそれを言ってもらいたいので、わざと泣いたり
して細工をすることがあるわけです。
少なくとも、母親にわかる程度にはコミュニケーションはついている。それは分節化された言
葉じゃないが、コミュニケーションをとっているじゃないか。もっと極端に言えば、胎児の時代
でも後半になれば、超音波で母親を驚かした時、胎児が身を縮めたりするのが映像化されて見え
るようになっています、それをおし広げれば、胎児時代に教育すれば早期教育は可能なのだとい
う考え方をするわけですが、僕らはそんな息苦しい考え方をしない方がいい、生まれる前から教
育されたらかなわないと思います。
要するに、宗教家が前世・来世と言っている考え方と、僕らの考え方は、胎児以前に形成され
る無意識があるかどうかという問題に還元できるということなのです。生まれてから一歳未満ま
でに形成される赤ん坊の心の働きを、無意識とフロイトやユングが規定しているとすれば、胎内
にまで拡張して、胎内から生まれる以前、つまり、宗教家が前世と言うものまで拡張して考えま
すと、受精以前の無意識は可能かということ、系統発生的な考え方は内在的に考えると、宗教家
が前世と言っているところの無意識の問題になるのではないかという可能性はあるわけです。
前世とか来世と言っているものはあまり馬鹿にしないようにしようじやないかと、僕はそう考
えています。フロイトの言う無意識よりも、もっと入り込んだ無意識が人間にはあるんじやない
か、それは解明できるんじやないか、潜っていけばもっとあるんじやないかということになりま
す。
無意識の形成の問題は、系統発生的なものと、個体発生的なものの両方から考えることとなっ
ていますけれども、我々が系統発生的に考えて、原始に還る時代の、とても初期の人間の心はど
ういう働きをしていたか考えることと、宗教家が前世というところ、フロイトの肘う無意識の無
意識を考えることは同じである、融和してしまうのではないか。つまり、系統発生と個体発生が
融和してしまうところの無意識までやれるのではないか。
言葉の発生の〈起源〉
ある個人の言葉の表現は、その表現に先立って、親からの教育とか、零歳から一歳未満に移る
時までにおける親からの言語教育とか、周辺に飛びかっている、すでに存在する言葉からの影響
といったものから規定されて、言葉は表出する、表現するわけですから、あらかじめある時代に
おけるある個人はある言語環境のなかに囲まれています。
そういう言い方をしますと、フランス的な考え方というのは、僕が読むと全部この人たちは機
能的な理解だよということになっちやうんです。マルクスの理解をやっているのを読んでも、機
能的な理解の仕方だよということになっちゃうんですよ。機能的とは何なのかというと、すでに
言葉自体が存在するもんだ、ある人間は、存在する言葉の環境のなかで、喋り言葉や書かれた言
葉の環境のなかで生まれてくるんだということです。
そうすると、生まれてきた時には言葉なんかなくて、言葉は一歳未満ならば母親との間で分節
のない言葉をやっていて、その時には本当のことを言えば民族語の区別はそれほど重要ではなく
て、フランス人の赤ん坊も日本人の赤ん坊も大体、アウアウと言っているんだよ、それでも母親
には通じているんだよ、という言葉の発生の起源、つまり無意識のなかに入ってしまうようなも
のは勘定にいれなくてすんでしまうわけです。僕らにはそれは不服で、それで済ましてしまう考
え方は機能主義的であると言っちゃうわけです。
アウアウと言うのは言葉じゃないじゃないか。ちっとも分節化されていないし、民族語にもな
っていないじゃないか。こんなの言葉と認める必要はないという考え方にたいして、いや分節化
されなくても、言葉は言葉としてあるということなんです。僕の言語論はそれでいい。民族語の
区別もそれほど認めない。方言と民族語の違いも認めない。母音の個数の違いに意味があるとい
うのも認めない。ただ、人間は音声というか、喉仏の上のところを加減することで民族語も皆違
っちゃうんです。それはそうだけれども、言葉は内臓語だぞ。喉仏から下の内臓のところでしか
言葉を発する根源は出てこない。言葉とは何ぞよというのは、心の働きを主体にして、それだけ
言葉の価値概念は十分に成り立つ。しかし、その背後には現在から受け取っている感覚的機能も
そこに入ってくるから、正確に言えばそう言わないといけないのだけれども、全面に出てくるの
は、内臓の動き方に伴う心の動き方でもって、言葉は決まっちゃう。だから、分節化されるかさ
れないか、民族語に分かれるか分かれないかは、お前の考え方からは出てこないと言われれば、
それでも良いさとなってしまうんですね。
民族語も喉仏から上で決まっちゃうんですよ。目がふたつ、鼻がひとつと同じように、喉仏か
ら上ということは人類共通性で、そんなに違わない。もちろん、顔色の違いとか、顔の形の違い
とか、口腔の違いとかはあるわけですけれども、あまり大した代わり映えはしない。そこで民族
語は起こるわけですし、言語の分節化もそこで起こるわけですから、そんなことは根本的な問題
ではない。例えば、聾唖者は音声や分節化された言葉をなかなか喋ることができないよ、唇の動
かし方だけだよということになっちゃうけれども、それだって言葉は言葉だよということになり
ますし、心がある限り、つまり内臓の動きがある限り、それに対応する動きを人間が自分の外に
出したいという気持ちがあって、言葉は成り立ちます。
個性的な無意識の表出
僕らがそういう考え方をして、現在において危ないなと思うことがあるのは、現在はものすご
くわからない時代で、現在では無意識のなかのある部分(それは意識と割合近い部分だと思いま
すけれども)は区別がなくなってきつつあるんじやないかと思うんです。日本の九割の人が自分
は中流だと言っていて、九割の人は生活状態が代わり映えしないとなっちやっている。知識教養
も 今のところ日本人の40何%が男女共に大学卒になっていて、もう少し進めば60%以上に
なって、それも代わり映えしない。生活性も代わり映えしない。そういう夫婦に育てられた子供
の無意識は違うということは、ちょっと考えられないということになりますね。
深い部分は違いますけれども、意識に近い部分は代わり映えしないということになります。代
わり映えしない無意識というのは、ユングの言う意昧とはちょっと違うんですが、共同の無意識
だということで、個人の無意識の累積ということを言えないといけないんじゃないかという危惧
を感じるんです。現在の先進国では共同無意識のかなりの部分がこれから共通していると考えて
はいけなくなっているんじゃないか。自分が今まで考えてきた考えを多少修正しないと通用しな
いかなと思っている箇所なんです。そこらは僕らがはっきりと答えを出しかねているところです。
現在が生み出している共通の無意識あるいは前意識の部分というのは、神話の逆であって、もし
かしたら一種の作られるべき無意識の枠組みとそれを理解して、解析していかないと危ないんじ
ゃないかなという感じがあるんです。
これはフランス人は優秀だなと思うんですが、僕はドゥルーズ・ガタリの『アンチ・オイディ
ブス』の邦訳の書評をしたので、丁寧に読んだのですが、あの人たちは無意識は作られるべきだ
と言っています。フロイト的に、系統発生的に無意識はどうだとか、個人の無意識がどうだとか、
エディプスがどうだということは通用しないと言っているんです。でも何でそんなことを言うの
ということをちっとも説明しないんです。それで僕が代わりに説明すると、あの人たちの意図に
反するかもしれませんが、現在の先進資本主義国では大して生活制度も代わり映えしない、知識
教養も代わり映えしない。そういう両親から生まれる子供がある部分で代わり映えするはずがな
いんだ。
だから、この部分の無意識は除外して別に考えればいいんだ。どう考えればいいのか、それは
わからないけれども、その枠組みは考えないといけない。その枠組みを考えることは、先進的な
資本主義国が、今はこうだがこれからどうなっていくのかを考える枠組みとまったく同じだと、
僕は考えます。個々の人に作られる無意識はとても個性的に作られなければならないけれど、枠
組みだけは、そういうものとして作られるだろう。
もっと極端なことを言いますと、先進的な資本主義がどこで死ぬかという問題もあるわけです。
あまりに生活程度が高度になり、均質化された部分の無意識は、これからの社会の枠組みを考え
ると、枠組みとしては同じことになっていくから、死を考えることも同じことに違いない。それ
が作られると、かなりはっきりした見通しがつけられるんだということになっていて、フロイト
とは違った意味で無意識を個性的に作っていくことが、とても重要な具体的な課題として出てく
るだろうと、予想できます。
僕らの系統発生的な考え方と、自己表出は自我ということを意味しないでも、個性・個人とい
うことと関わりあるわけですから、そこに固執すると、これから間違うかもしれないという危惧
は、いつでも持っているんです。そこは自分の考え方の曖昧さがあるような気がします。
アジア的ということ
僕の言語の価値に始まる価値論というのは、内在化されてしまっているということだと思いま
す。だから、貨幣という表現、きちんとした枠組み、概念を与える考え方から見ると、副次的な
ところを下にしているのだなと思うんですね。どうしてそうなったかと僕なりの理解をすると、
マルクスを典型として、あるいは西欧の社会を典型として、貨幣という概念、つまり、ある価値
の普遍的な担い手である貨幣という概念をそこから出していった、観念の過程のなかには、西欧
社会の段階を主にして、未開、原始の次にアジア的段階をなかに入れて、社会の段階論を展開し
ています。
このアジア的ということで括られている問題が、貨幣の問題に対して、とても大きな意味と言
いますか、違いを生み出す根拠になっていることがひとつあると思うんです。
アジア的という段階を原始、未開の次の段階から取ってしまえば、西欧社会の発展段階イコー
ル人類の歴史の発展段階であると、どう文句を言おうが言えることになって、アジア的段階を除
いてもヨーロッパ社会にはさしたる段所論を変更する影響はないわけです。西洋社会イコール人
類の普遍的進展と言えてしまう。西洋社会が人類の発展段階であって、それは先進的だというの
は間違いないわけだけど、でも本当によく考えると、それが人類の歴史であるというのには異論
が出てきます。
異論の第一はマルクスに言わせればアジア的、ヘーゲルに言わせればアジア的という段階とア
フリカ的という段階を外に出していることです。アフリカ的段階について言えば、ヘーゲルによ
れば宗数的にはアジア的段階は自然が宗教になっているけれども、アフリカ的段階は動物と同じ
で、自然が宗教にまでなっていないで、動物とおなじように自然とまみれている段階ということ
になっているわけです。貨幣の概念が西欧的にはっきりしすぎていて、それが価値論の決め于に
なる考え方になっていくのは、たぶんアジア的とアフリカ的を外側にくくっていることではない
か。つまり、あまりすっきりしすぎるんじゃないかな、それがもとなんじゃないかなと思うんで
す。
第一部 吉本隆明の経済学
「現在の先進資本主義国では大して生活制度も代わり映えしない、知識教養も代わり映えしない。そ
ういう両親から生まれる子供がある部分で代わり映えするはずがないんだ」の件で圧倒され、思わず
瞳孔が大きく開き、目玉が飛び出さんばかり(瞠目)になった。実に面白い!
(この項続く)