● 東日本震災4年目考
罹災から早や4年となる。復興住宅建設の進捗率16パーセント、復興予算残り約2兆6千億円。一
方、福島原発事故では、使用済み燃料・同デブリ(飛散片)の取り出しは、計画から5年遅れの2025
年。中間貯蔵場(地権者2365人と交渉中)・県外最終処分場は目途立っていない。この進捗度に対し
て激変したのは、菅直人元首相(政府)と孫正義(民間)などの強烈なリーダーシップでデジタル革
(=再生可能エネルギー)の1つあでる太陽電池の劇的な普及(下図)と、消エネの優等生である発
光ダイオード(LED)の普及でいまでは設置後1年で償却できてしまうほどだ。ただここに来て、
太陽光以外の再エネのウエイトシフトしている。その間、個人的には騒擾靴下と揶揄されそうだが、
「オールソーラーシステム」と「オールバイオマスシステム」の2つの完結論をブログアップしてい
る。
【オールソーラーシステム完結論 39】
● 太陽光による高付加価値品製造工学
「それかのらの完結論シリーズ」でもよいだろうか。関連最新技術について適宜掲載していこう。
さて、今期は、産業技術総合研究所が多孔質の酸化タングステン(WO3)などを積層した半導体光電極
を用い、太陽光エネルギーで水を分解し、水素製造と同時にさまざまな高付加価値の化学薬品を効率
良く製造する技術を開発(2015.03.06)。化学薬品としては過硫酸や次亜塩素酸塩、過酸化水素、過
ヨウ素酸塩、四価セリウム塩などの酸化剤を製造できる。太陽光エネルギーを水素と過硫酸として化
学エネルギーに変換・蓄積する反応では、ほぼ100 %の選択性で過硫酸へ変換でき、非常に高い太陽光
エネルギー変換効率2.2パーセントを達成。太陽光エネルギー利用で水の電気分解の電解電圧を著しく
低減しながら、水素エネルギーと多様な有用化学薬品を同時に製造できる技術であり、将来の経済性
の高い新規プロセスの実用化が期待される。
● 『吉本隆明の経済学』論 18
吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
資本主義の先を透視する!
吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも
異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったその
思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何か。
資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫る。
はじめに
第1部 吉本隆明の経済学
第1章 言語論と経済学
第2章 原生的疎外と経済
第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
第4章 労働価値論から贈与価値論へ
第5章 生産と消費
第6章 都市経済論
第7章 贈与価値論
第8章 超資本主義
第2部 経済の詩的構造
あとがき
第1部 吉本隆明の経済学
第1章 言語論と経済学
2 言語と経済をめぐる価値増殖・価値表現の転移
価値の普遍的な源泉としての言葉
僕の考えから言いますと、貨幣は価値の普遍的な源泉としてイメージできないと考えていて、
できるのは唯一言葉だけだと思います。表現された言葉、あるいはそれが絵や字に書き留められ
たものは価値の普遍的な基盤にはなりうる。しかし、貨幣というものは価値概念を作る場合の基
盤にあまりならないのではないかという考え方になっていくと思います。これはマルクスが度外
視した、いくつかの特徴をとらえればアジア的ということで片付けられたところで考えられる価
値概念は、どうしても言葉しかない。言葉ならば、アジア的というところでも、西欧的な社会で
も共通に何かを言えるということかありうるのではないか。言葉の価値を作れるのではないか。
貨幣というと、どうもはっきりしすぎる感じがどうしても僕には伴うんです。価値概念の形成す
る場合の貨幣の意味、存在の意味はそこではあまり大きな伜組みになってこないと思えちゃうわ
けです。
別な言葉で言うと、貨幣に西欧で通用するような普遍的な価値概念がつけられるのは、日本で
は明治以降からです。その前に貨幣として、大判・小判とか、中国を模倣した貨幣があるわけで
すが、それが実質的に単一の市場で通用することはなかなかなくて、藩で違う貨幣を作ったり違
うやり万をしちゃって、片遍的な価値としての貨幣とはなかなかならない、大宝律令で作った貨
幣の存往が上部の貴族層とか、その周辺では通用しても、その他ではなかなか通用しない。普遍
的な価値があると思って使われて、慣れたのは明治以降であり徳川時代末期までは、農家だって
農産物は物納でやればいいということになっていて、金銭でやるということにはなっていない。
金銭で税金を納めても良いことになったのは明治以降で、そのために単一の農業市場ができるよ
うになってきました。そこではじめて貨幣の持っている普遍的価値の象徴が日本人に考えられる
ようになった。こういう長い間、マルクスの言うアジア的という段階が存在したことを考えると、
何となく貨幣に討する具体的なイメージは湧いてこなくて、物で納めれば良いのだろうとか、
物々交換すれば良いだろうというイメージの方が多くなってきます。南のオセアニアの島々では
石が貨幣として通用したり、日本や中国では宝貝が貨幣として通用したということがあったわけ
で、そういうことは自分のなかで割と大きな問題になっているわけです。
たぶん、言葉だけが普遍的な価値概念の形成の基準になりうる。そうすると、価値概念がとて
も内在的なものと関わりあうものとなっていって、外在化がなかなかできなくなっちやう。大体、
そこいらへんから価値概念の作り方の意識は分かれるのではないかというふうに考えます,マル
クスの考え八のなかにひとりでに、人類の発展イコール西欧社会への発展、あるいは西欧仕合の
価値概念イコール人類の価値概念と言えば済む、それで通ってきたことがあると思いますが、そ
れには賢論があります。
第2章 原生的疎外と経済
解説
吉本隆明の創造した言語図式では、指示表出と自己表出という二軸の交わりから多様な表現が
生み出される。指示表出に関係する面については、現象学をはじめとする西欧の啓蒙性を本質と
するさまざまな学問が、その本質をあきらかにしてきた。しかし無意識や情動や身体性の領域に
深く根を下ろしている自己表出に関わる面については、フロイトやユングの学問のような少数の
例外者を除いては、西欧ではじゆうぶんに深められることがなかった。
吉本隆明が『心的現象論』の仕事に取り組んだのは、ヘーゲル精神現象学やフッサール現象学
の限界を超えて、表出性の深い闇の中にまで現象学の基礎を拡張しようとしたからであろうと思
われる。この試行を実行するために、彼は精神病理学や古代言語論や考古学などのような、心の
深層性の学問に関わる領域に大胆に踏み込んでいった。
しかし身体内部への探求が深められる途上で、言語的理性は内臓的領域に触れたあたりで自ら
の限界に達してしまうのである。無意識の領域あたりまでは饒舌におしゃべりを続けていた身体
が、内臓に踏み込んだあたりで急におしゃべりを止めてしまうのである。心的現象論の底はもっ
と深いはずだと直感していた吉本隆明にとって、内臓的領域の沈黙を破ってくれる学問がどうし
ても必要だった。
そのとき彼の前に、三木成夫の研究が出現したのである。彼は驚愕した。この孤独な解剖学者
のおこなった探求は、内臓の諸活動に数億年におよぶ生物進化の記憶が刻印され保存されている
ことをあきらかにしようとしていた。またそこには、吉本の言う自己表出に関わる無意識や情動
の源泉までもが、内臓的諸活動と関運づけられて、マッピングされていた。
ヘーゲル精神現象学には、人間の精神が過剰を抱えることによって、自分を取り巻く世界環境
から疎外され、そこから精神の運動が発生してくるさまが、巧みに描き出されているが三木成夫
の研究はそれよりもさらに原初的生命レベルでおこっている「原生的疎外」の横道を示そうとし
ていた。このような深化した「超疎外論」に立つとき、資本主義の理解にも根底的な拡張が必要
になるだろう そのような思想に導かれて、吉本隆明の心的現象論にもとづく経済学は、深めら
れていった。
1 三本成夫の方法と前古代言語論
Ⅰ 宇宙のリズムと文明
三木成夫さんの著作に接するようになって、まだ数年しか経っていませんが、はじめて読んだ
ときはほんとうにおどろきました。なぜかと申しますと、三木さんの方法論が、価値形態論にお
けるマルクス、国文学研究における析口信夫とおなじだとかんじたからなんです。そこで『胎児
の世界』をはじめとして、論文や講演にいたるまで三木さんの考え方にふれ、じぶんのやってき
たこととの関連で、学ぶことができるところはどこかとかんがえました。ぼくは、文字で表現す
るところから始まる文学論を主体にやってきましたが、じぶんの言語論と文学論をむすぶ方法が
ここにあるとかんじたわけです。文字以前の言語論が可能なのではないかとかんがえるようにな
りました、それで、三木さんの方法に勇気づけられながら、つっかかり、つっかかりいままでや
ってきたんです。三木さんの考え方のどこをどう補ったらいいか、あるいはここを袖いたいなあ、
とおもったことから申しあげます。
『胎児の世界』でまずびっくりしたのは、一週間から三二日目位で、人間の胎児は両棲類の段階
から、陸へ上がって腿虫類みたいになる。それから胎児圧のようなものを経験して、母親がつわ
りから感覚の変貌を一時的におこす、という条でした。魚類が陸棲したり、また海へ還ったりす
る生物の進化が胎児の世界と重なり合っていることを知りました。生物というのは、宇宙の写し
なんだという考えが根本にあるんです。植物はそれをそのまま受け入れていますが、人間などは
個体のリズムというか、自我というか、そういうものを持とうとする、それも生物発展の段階な
んだということです。宇宙はリズムと螺旋構造を基本にしていますが、生物がやってきたことは、
考えた方がいい。ただ人間は器具を使ったり、自意識による表現などで、食の相と性の相を意識
的に一致させようとしたりするから、この境界がはっきりしません。しかし人間の生理反応をつ
きつめれば、やはりおなじことなのだと、三木さんはいいきっておられる。そういわれると、な
さけないともおもうんですが、納得すざるをえない気持になるんです、
三木さんの考え方というのは、やはり本質的な意昧でのナチュラリストなんだとおもいます。
生物はナチュラルな宇宙から、だんだん逸脱していって、じぶん独自のリズムを築こうとして、
やってきた果てが人間ということになります。そうすると宇宙のリズムに背くというかたちでし
か人間は生きていない、ということです,けっきょく、天然自然に背くのはダメなんだ、という
ナチュラリストの観点に収斂するのが、三木さんの考え方だとおもいます。人間はそれを底に沈
めるようにして、宇宙のリズムを崩してしまう、これはダメなんだというのです。この考え方に
欠落しているのは、文明史だとおもうんです。三木さんの考えをつきつめれば、文明が高度化す
るのは、自然に反する行いの果てなんだということになります。三木さんの考えのいちばんの弱
点は、ここなんじやないかとおもいます。補足すべきは、ここではないか。ぼくは、文明に所定
の意味を与えるべきだとおもうんです。ぽくはエコロジストと喧嘩ばかりしているんですが、い
つでもこの点で議論するんです。文明史は自然史の延長としてあるんだ、とおもうんです。文明
が自然に反する、とはかんがえないんです。
Ⅱ 文明とは手を加えられた自然史-マルクスとの同一の方法
ところでどうやって三本さんの考えを補足するかなんですが、おなじように文明化すなわち価
値化である、ととらえた人にマルクスがいます。マルクスの視点にたてば補足できるとおもうん
です,マルクスの考え方を拡張する方法が、ひとつだけあります。労働価値説といわれているも
のですね。たとえば、野原にある林檎の本の実の価値をどうかんがえるかといいますと、この本
によじ登って、林檎をもいで下りてくる、その間の労力を価値として金銭で見積もる、というこ
とになります、マルクス的にいえば、それが林檎の価値です。それじゃ、林檎の植わっている土
地が私有地ならどうなるか。そうなると、その土地の所有者の権利もかんがえなければなりませ
んし、林檎の木を管理している者がいれば、その労賃も考慮され、さらに加工工場が林檎を缶詰
にするとすれば、その労働も加味されます。つまり、マルクスによれば、原型的なものをまずか
んがえ、つぎつぎに条件を複雑にしていくわけです。その方法は、三木さんと変わらないとおも
います,
人間は内臓器官の集約物である心臓と、感覚器官の集約物である脳と、これを連結する神経系
からできている、というように、三木さんは、植物から動物へ、さらに人間へと条件をどんどん
複雑にしていくんだとおもいますね。だから方法としてはマルクスとおなじで、はじめに原型を
患い描いて、条件の複雑化に応じてどうなるかとかんがえるわけです。三木さんは、人間の腸管
は入口と出口を結ぶもので、植物の幹とおなじものだとかんがえればわかりやすいですよ、とい
っています、また人問の感覚器官は動物神経に支配されていて、神経系を通じて脳にいく。一方
で、腸管は植物神経に支配されている、というわけです。マルクスとそっくりおなじです。ただ
ちがうのは、三本さんの考え方で文明はどういうものかというと、悪いものなんです。
マルクスはそうではありません。労働価値説を拡張し、抽象化しますと、人間が自然に手を加
えるということ、実際に手で触れたり、目で見るだけでもいい、マルクス流にいうと対象化行為
ですが、そうしたすべてが対象にむかう行為とかんがえると、行為が加えられた対象は価値犯さ
れることになります。マルクスの考えを拡張すると、こうなります。
つまりマルクスの労働価値説を経済に限定しないで普遍化すると、自然に何か働きかけをおこ
なったときには対象になった自然の部分が価防犯される、というのがマルクスの柿本的な考え方
です、そうすると価値という概念が生きてきます。つまり文明とは、人間が外界に何らかの手を
加えた果てのものだとかんがえますと、マルクスの価値論は文明論に還元できることになります
こういう同一化の概念が、三木さんにはないんです。文明はよくないんだ、ということになって
しまう気がします。いまのエコロジストは、そういうことばっかりいってます。
それじゃあ、自然のままで虫など採って裸のままでいればいいでしょ、といいたくなります。
都市がいまさら農村にもどりっこないでしょう。文明とは、マルクス流にいえば、価値化を積み
重ねた末に出来たわけで、自然に手を加えたうえの、人工的な自然なんです。つまり文明とは自
然史の延長線上にある、手を加えられた自然史と理解することができます。こうしますと、三木
さんやマルクスの発想に文明を取り入れることができます。文明はかならずしも自然のリズムと
対立するわけではない、これも自然史の一段階で、これを逆さまにもできませんし、価値ありま
せんよ、ともいえないんじゃないかとおもうんです。こうしますと、三木さんの考えを補えると
おもうんです。かならずしも文明と自然とが対立することにはなりません。根底は自然の歴史で、
それにどれだけ手を加えたか、自意識によりどれだけ加工された自然か、ということです。
たとえば、もしも極端なエコロジストが日本国の政権を握りまして、自然を破壊したやつは全
員死刑だという法律をつくったとします。そしたら自然破壊はやむか、つまり文明の発達はやむ
かというと、そんなことはないんです。その程度でやむようだったら、とっくにやんでいるはず
です。自然史の発展は必然だから、ぽくはやまないとおもいます。法律で規制して、文明史の発
達を遅らせることはできても、最後までいけるとおもったらとんでもない間違いです。自然史の
必然として文明が発達することは、絶対にこれを阻止できませんし、逆さまにもできない、とぼ
くはかんがえるんです。三木さんの意図に反するかもしれませんが、これが、あの文明化イコー
ル価値化というふうな、マルクスの概念の拡張で得られたぼくらの認識なんです。
三本さんが生きておられたら、エコロジストの寵児というか、アイドルになっていたにちがい
ありません。ぼくは、三木さんを偉いなあ、大変な人だなとおもうんですが、ふつうのエコロジ
ストのいっている倫理的自然主義というようなものとくらべるとともかく徹底しているんですね
あの宇宙のリズムとか、植物から動物へ、それから人間へという発展過程が、ことごとく発展史
としてみごとに解剖されているところなどに、徹底ぶりがよくみられて、そのエコロジカルな主
張も、ぼくには納得できてしまうんです。けれども、やはりぼくはちょっと補いを加えてみたい
んです。方法論は三木さんとマルクスとはおなじですが、やっぱり文明史を解釈できるぞという
のが、マルクスの『資本論』のいちばんのミソですから。ただもしも三木さんとマルクスが相対
したとしたら、三本さんの方はマルクスに、文明信者でやっぱりおまえはダメたというだろうし、
マルクスは三本さんに、そんなことばっかりいってるから人間はいつまでも貧乏してるんだ、と
反論するでしょう(笑)。二人はそこがちがうんです。
第一部 吉本隆明の経済学
ここで、吉本隆明(マルクス流自然史観)と三木成夫(生態学共生史観?)の原理対立が垣間見られる。これに
関してのコメントは先送りする。
(この項続く)
予定通り、月命日をすませ、松原のジュブリルタンへ。曇り空の琵琶湖を眺めながら二人で燻製サーモンを挟
んだパニーノとブレンドコーヒーを戴きき帰る。ゆとりは欲しいものです。