● 『吉本隆明の経済学』論 19
吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
資本主義の先を透視する!
吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも
異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったその
思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何か。
資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫る。
はじめに
第1部 吉本隆明の経済学
第1章 言語論と経済学
第2章 原生的疎外と経済
第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
第4章 労働価値論から贈与価値論へ
第5章 生産と消費
第6章 都市経済論
第7章 贈与価値論
第8章 超資本主義
第2部 経済の詩的構造
あとがき
第1部 吉本隆明の経済学
第2章 原生的疎外と経済
Ⅱ 文明とは手を加えられた自然史-マルクスとの同一の方法
マルクスから学んだ言語論
ぼくがマルクスから学んだことに、もうひとつあります。それは言語論です。まだ粗雑ではあ
りますが、ぼくはじぶんの言語論をもっています。丸山圭三郎さんたちがされているように、い
まはソシュールの言語論が主流をしめています。これがいちばんかっこよくて、受け入れられて
いるわけです、ぼくの言語論の体系はソシュールとはちがうんですが、ただ言語論の視点では共
通するところもあります。つまり経済学における貨幣のふるまい方、あるいは価値物としての金
銭のふるまい方が言語のふるまいとよく似ているという視点です)ソシュールが近代経済学から
言語論をつくっている、ということがぼくにはよくわかります。
『一般言語学講義』がソシュールの主著とすれば、そのなかでソシュールは貨幣に言及しなが
ら、ある言語の価値を決めるばあいにおなじ種類のものとくらべられ、またちがう種類のものと
もくらべられるというふたつの性格は、経済における貨幣の性格に対応している、という意味の
ことをいっています。つまり5シリングは1シンリングとくらべられ、また異質のものとも、た
とえば観念ともくらべられる。あるいは商品のような、貨幣とは異質のものともくらべられる。
このふたつの性格が価値の概念化には必要だ、とソシュールはいっています。ぽくは、だから近
代経済学から考え方を借りてきたんだな、とおもうわけです。ぼく自身の言語論は、マルクスの
『資本論』の価値形態論から作りあげました。しょっぱなから見ると、どうもおれの方がいいん
じやないか(笑)、とおもうんですが、いかんせんぽくのは細部が粗雑で、ソシュールの方がい
いんです。価値には使用価値と交換価値とがあるんですが、交換価値こそが価値だというわけで
す。商品の価値は何か、交換できることだ、つまり何時間の労働と交換できるか、というのが価
値なんだ、というとらえ方です。
言語論にじつはこの考え方をもっていくことができるとおもうんです。言語は、自己表出と指
示表出というふたつの表出からできています。そして、潜在化した指示表出を通った自己表出が
言語の価値です。それはまさに、マルクスが交換価値が要するに価値なのだといってるのとおな
じことで、自己表出が価値なんです。指示表出というものは潜在化されていて表に出ず、自己表
出されて長に出たものが言語の価値となりますドたから、文学作品の価値も文体となったところ
にある、といえます ばくの考え方の基本はここにあり、この点てソシュールとは大変ちがって
います。
ソシュールは、喋言ることが目に見えないことだとかんがえています。だから、耳から入って
くる聴覚映像と聴覚概念、つまり聴覚映像の系列と概念の系列が何らかの契機によって結びあわ
さることによって言語になる、というのがソシュールの理解です。かれはとても根本的なことを
かんがえているわけです。しかしぼくは、文学に必要な言語領域だけでいいとおもったものです
から、文字に書かれた以後の文学論になりうる言語論を展開したわけです。そこからあとのこと
で三木さんから受けた影響が物をいうとかんがえました。自己表出と指示表出という考えはマル
クスに負っていますが、ところがおなじ考え方を三本さんもしているんです。
三木成夫から学んだ言語論
三本さんの書かれたものを読んでいるうちに、この大の考え方とぽくの言語論とを対応させる
ことができるんじゃないか、と気がつきました。やや乱暴にまとめますと、三木さんは人間につ
いて、植物神経系の内臓――大腸とか肺とか心臓といったものですが――の内なる動きと、人間
の心情という外なる表現は対応するし、また動物神経系の感覚器官と、脳の表面の働きは対応し
ているとかんがえています。そうかんがえたうえで三木さんは、植物神経系の内臓のなかにも動
物神経の系統が侵大していくし、遂に血管という植物神経系の臓器も動物神経系の感覚器官の周
辺に介入している、といっています、植物神社系の内臓のなかにも動物神経の系統が介入してい
るんですから、内臓も脳とのつながりを持っていることになります。
何らかの精神的なショックを受けて冒が痛くなるとか、心臓がドキドキするとかいうことがあ
るのはそのためで、そのとき人間は、動物神経と植物神経の両方にまたがる行為をしているわけ
です。植物神経系と動物神 神経とが連結して脳につながると、三木さんはいっておられるとお
もうんです。
ぼくがはっとしたのはそこのところで、それならばぼくのいう言語における自己表出というも
のは、内臓器官的なものを主体とした動きに対応するのではないか、とおもったのです。対象を
感覚が受けとめたり見たりすることがかならずしもなくても、内臓器官の動きというものはあり
うるし、人間の精神の動きとか表現というものもありえます。つまり植物器官を主体とした表現
を自己表出といえばいいのではないか、そうかんがえました。では指示表現は何かということに
なりますが、指示表現というのは、目で見たり耳で聞いたりしたことから出てくる表現ですよね。
たとえばぼくが誰かの顔を見て、あいつの人相は悪いと表現したとすれば、それは指示表出で
す。そしてこれを三本さんの考えと結びつけていえば、指示表現は感覚器官を動かしている表現
である、ということになります。
そういうふうにかんがえていきますと、じぶんはこれまで文字で表現された以降の言語論ばか
りしてきたけれども、じぶんにも、文字で表現される以前の言葉だとか、赤子のような言葉がな
いときの表現というものまでも含めた言語論ができるのではないか、べつにソシュールの言語論
の向うを張る気はありませんし、ソシュールのような大才はもっていないんですから、向うを張
ろうにも張れませんが、じぶんの言語論の体系を文字以前のところまで拡張することができるん
じゃないか、と気がついたわけです。そのヒントになったのがまさしく三本さんの方法でした。
三本さんからは穀大の恩恵を受けたという感じがします、ぼくが言語論を始めたのは三〇代の前
半でしたが、もしもその頃、三木さんの本を読んでいたら、もしかすると俺はソシュールくらい
になれたんじゃないか(笑)、とおもえるくらいで、ああ、遅かったなあ、というのがじぶんの
本音のところです。それくらい、三木さんっていう人は、ぼくにものすごいものを与えてくれた
んです。
超文明と超原始
世界中の国家で、天然自然を相手にする農業、漁業、林業などに従事する人々の数は減少し、
その収益も減少しています。これは、一種の自然史的な成り行きだとおもうんです。文明と自然
との関連の問題は、大都市と地方、先進国と発展途上国との不均衡な関係にもあらわれていますI
そこで、不均衡を解消する唯一の方法は、ぼくは贈与であるとかんがえています。意識的な贈与
というか、平等とか均衡を保つ仕方をつくりだすべきではないでしょうか。また、現代文明が超
文明にすすんでゆくことが不可避の事態ならば、逆に天然自然のもっとも原初的な情況を、農業
や漁業以前の情況を、つまり超未開とか超原始を追究することがしつは必要なのではないかとお
もうんです。超文明と超原始とを見つけだすことはおなじなのだという観点をどこかでっくりた
い、そこに結局は帰するんじゃないでしょうか。
(………)文明化と価値の問題ですが、交換価値だけが価値だという考え方はやはり否定できな
いとおもうんです。マルクスが労働価値説をこしらえた時代は、まだ牧歌的で、農業と工業の対
立しかなかったわけで、空気とか水のように使用価値だけあって、交換価値がないというものが
あった。けれども現在はそうではない。第三次産業といわれるところに、労働者がうつっている
わけです。天然水も商品として売り出されていますよね。使用価値と交換価値とが、心臓と脳じ
ゃないけれども、どこかで相通じるみたいな、そういう段階の価値なんです。使用価値と交換価
値とを機能的に区別できないのが、現在です。経済学も無意識にそれを知っているのでしょう。
使用価値のみを価値とみなし、その大小だけをかんがえています。時代はたしかにそういう段階
にあるんだけれども、それだとちょっとまちがえちゃうよ、とおもうんです。使用価値に差異論
と機能論をあてはめるから大小をいうけれども、ほんとうは使用価値に大小なんてないんです。
要するに三本さん流に両方をからめあって、ミックスしている価値をとらえるべきなんです。
だから天然自然のことでいえば、自然よりいい自然をつくってしまえばいいともおもうほどです。
いまある森林を守るのではなく、いまのそれよりもっといい森をつくってしまう、ということで
すね。それが超文明的な意昧での自然だとおもうんです。
植物学でいえば、いい森林をつくるときにどの樹とどの樹をその土地で組み合わせればよいか、
ということはもうわかっていますよね。それならば、森林を守るという発想を転換して、植物学
のそうした知識を実践して、いい森をつくってしまう、自然の森よりも少なくともすこしいい自
然をつくれる、ということです。稲作の冷害がありましたが、宮沢賢治の童話にあるように、冷
害がきそうになったら天空の温度を少しあげる細工をしたらいいんですよ。今日、それは可能な
時代になっているとおもうんです。
ここで、「自然よりいい自然をつくってしまえばいいともおもうほどです。いまある森林を守るので
はなく、いまのそれよりもっといい森をつくってしまう、ということですね。それが超文明的な意昧
での自然だとおもうんです」との吉本自然文明史観がなぜエコロジストと一見すると対立するように
見えるのかが覗う知ることができる。「粗野で、野放図で、無知な人間の活動」が温暖化ガスを排出
しその反作用として、人間の活動に障害を与える気候変動与える時代の共同体の政策をめぐり抗争が
生起させているのだということを了解しているのなら、原理主義者のような態度や発言にならない―
―裏返せば、対処方法への説明が舌足らずではないかという反発を生んでいるのだとわたし(たち)
はそう考える。このように、例えば、90年前半に生起した地価高騰に、相続税を払えなくなり突然
国税庁による差し押さえられ、現金もまま成らず困り果てている勤労庶民に対し、そんなものはさっ
さと売却し転居すれば良いのだと言ってのける新自由主義者的な発言を目耳し違和感を憶えた経験か
ら、言ってしまえば、参考意見として拝聴しつゝも実行動は慎重でなければと考えたものた。これが
わたしの彼に対する不満らしきものだった。
第4章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
解説
これも1960年代から70年代にかけての頃であるが、若者は難しい本を臆せずによく読ん
でいた。彼らはマルクスの経済学がリカードの経済学から大きな影響を受け、その欠陥を正して
古典派経済学として完成を与えようとした、ということを知識としてよく知っていた。またリカ
ードの経済学がその前のアダム・スミスの経済学を基礎として、それを厳密な理論として発展さ
せようとしたものだということも、知識としては心得ていた。
しかしアダム・スミスの経済学がほんとうはどういうものであり、リカードがおこなった厳密化がじっさい
にはどういう手続きでおこなわれたか、そこから飛び立ったマルクスが経済学でおこなった創造の本質と
は何か、ということになると、その中でもっとも優れている(と思われていた)マルクスの経済学さえ理解し
ておけば、そこには先行者の業績がすべて呑み込まれているので、じゅうぶんだと思い込んでいた。
しかし吉本隆明はそうは考えなかった。後の時代に出現した者が先行者の思想を批判的に乗り越えた
と主張していても、それを鵜谷みにすることなどはできない。先行者を乗り越えたと思った瞬間、じっさい
には大切な要素が切り捨てられていて、貧困化を進歩と思い込んでいたことが、あとになってわかる。吉
本隆明はマルクスから大きな影響を受けたが、同時代の多くのマルクス主義者のようにマルクスを神格
化したりはしなかった。
彼は『国富論』を丹念に読むことから、経済学の勉強を始めた。スコットランドの大学の倫理
学教授たったアダム・スミスの本を読んで、彼はそこにたゆたっている資本主義創成期のおおど
かな雰囲気が、大いに気に入った。「まるで経済学のうたが歌われているようだ」と彼は詩人ら
しい感想を持った。つぎに取り組んだリカードの『経済学と課税の原理』は、さすがロンドンの
金融街で活躍していた現役の銀行家加害いた書物らしく、じつに収支決済の「始末」に行き届い
た配慮がされていた。アダム・スミスの害物の中でまだ「うた」のようなインプリシットな状態
にあった思考が、計算手順を持つエクスプリシットな思考として引き出されている。
「うた」が「ものがたり」につくり変えられたのである。そしてそのとき「うた」に合まれてい
た重要な美点のいくつか加消えていった。このときある部分では、経済学は貧困になったのであ
る。それならマルクスの場合はどうだったのだろう?
吉本隆明は古典派経済学を例にとって、思想史の読み解き方を若者たちに伝授しようとして
いる。思想に本質的な進歩などということはおこっていないのではないか。動物の世界でのよう
に、それぞれの思想は与えられた環境で完成を遂げているのかも知れない、という反省に誘われ
る。
Ⅰ. 経済の記述と立場Iスミス・リカード・マルクス
ただいまご紹介の吉本です。ぼくは日本大学に来るのはこれでニ度めです。一度めはすごいと
きで、バリケードのあいだを学生さんに案内されておしゃべりしたんです。そんなときですから
学生さんも知識に飢えているんじゃないかとおもって、ちょうど『言語にとって美とはなにか』
という本を出したばかりの頃だったので、言語がどうやってどんな形で「美」につながってゆく
のかというお話をしたと億えています。今日はそれをおもいだしながら、「経済の記述と立場」
という格好はいい題をもうけて、やれるところまでやってみます。
1.スミスの〈歌〉
スミスの思考法
まず、アダム・スミスはどういう〈歌〉をうたったのかというところからはじめていきましょ
う。時間があってうまくいきましたら、マルクスはどういう〈ドラマ〉を描いたのか、つまり、
「価値論」でどういう〈ドラマ〉を描いたのかというところまで、いけたらとおもいます。
アダム・スミスの『国富論』(あるいは『諸国民の富』)とか『国富論』の草稿を読みますと、
記述のしかたと着想とが、じつに牧歌にあふれているという感じをたれでもが持つんじゃないか
とおもいます。たとえば、スミスは『国富論』の草稿のなかで、〈今はまれになってしまったけ
れども、田園には風車とか水車とかが回っている。そして、風車とか水車を最初にかんがえて発
明した人はきっと哲学者だったにちがいない〉といっています。事物を綜合的にみれる哲学者が
はじめに風車とか水車を、動力に使うことをかんがえつきました。それからずっと技術にたずさ
わる人たちが、代々風車とか水車とかを手仕事で作ってきました。しかし、産業革命の時代には
いってからは、分業がとても細分化され、それにつれて、風車とか水車を発明した物をかんがえ
る人は、だんだん専門家にとって代わられてしまいました。つまり専門の大工や、専門の機械工
や、動力機を工作する人に分かれていってしまった、と述べています。
スミスの経済の学についての考え方がどこから始まったかを、この風車や水車の挿話はとても
よく象徴しています。
「分業」について、スミスの考え方はどういうものか申し述べてみます。はじめに外から強制さ
れて、つまり産業構造におされて、それぞれちがう職業の専門に細分化されていったというより
も、人間の本性のなかに、じぶんはこのことをやり、ほかの人はちがうことをやり、それでまた
別の人はまたちがうことをやり、というふうにやっていったら、そのうちに、じぶんの作ったも
ので、ひとが欲しいものがあったら、じぶんが欲しいものでひとが作ったものと取り加えようじ
ゃないかとかんがえるようになった。そこからはしまった。取引きするとか、交換するとかとい
う考え方が人間に出てくるのは、けっして外からの要因でじゃなくて、人間の本性のなかにそう
いうものがあるから、分業の細分化とか、交換みたいなことが起こるんだ。べつに意図して分業
のほうが都合がいいからとか、便利だからそうなったというより、むしろ人間の本性には分業の
考え方があるんだと見倣したほうがいいんだ。スミスはそういっています。
これは、たぶんスミスの経済学的な思想の中心にある考え方だとおもわれます。スミスはそん
な例をあげていますが、手足を便って身体を動かして仕事をする肉体労働の人と、哲学者みたい
にもっぱら物事を加んがえるだけの人との本性の相異は、たとえば犬でいえば、愛玩用の犬と猟
犬とのちがいほどにも差があるものではないんだ。ところが、そんなに差がないはずの人間のほ
うが、かえってそれぞれの差異を専門として、それに従事するように分かれてしまった。逆にも
ともと、猟犬と愛玩用の犬とは人間に較べればけるかに差があるにもかかわらず、犬のような動
物は、それぞれの役割をもっと細分化して、協力したり交換したりしようと加んがえなかった。
猟犬と愛玩用の犬と牧畜用の犬とがりそれぞれじぶんの得意とする役割を持ちながら、たとえば
猟をするときに協力してやったらいい仕事ができるはずなのに、動物はみな、そういう意味あい
では協力しないで、あくまでもじぶんが獲って、獲ったものを食べて、じぶんが生きていくこと
しかしない。それではもちろん協業体制はできるはずないし、また逆に、分業して細分化するこ
ともありえない。
だからたぶん、人間と動物との最初のちがいは、分業をつくり出せるかどうかにあった。もと
もと差異がそんなにない人間の本性から出発して、かんがえてみれば途轍もないほどちがった細
分化された職業あるいは専門に分化してゆく。そのあげく全体としてはある協業体制を作れると
ころに、人間的な本性があって、その本性のいちばん基本には、たぶん、じぶんにないものを対
手から得るとか、対手にないものはじぶんが作ってあげるとか、また交換するとか、そういうこ
とがあった。そこがいちばん根本じやないか、スミスはそういっています。スミスのこの考え方
は、『国富論』みたいな主著のなかに、全体的にばら撒かれているといえましょう。
スミスの考え方でもうひとつ特色をあげてみます。それは「起源」ということです。ものごと
をかんがえるばあい、あることがらを「起源」のところまで遡ってかんがえますと、そのまま眺
めたらどうしても本性がわからないことが見えてくることがあります。歴史的な起源であり、そ
れから原型であるというところまで遡ってみると、本性がつかまえられ、また本性のところまで
遡って把握されたものは、本質的なものだ、という方法がスミスにはあります。
そしてこの「起源」に合まれるところまでの遡行性ということは、さきほどいいました人間の
本性としてある分業性・交換性と合わせて、スミスの経済理念の根抵に横だわっているとおもい
ます。
第一部 吉本隆明の経済学
(この項続く)
【オールソーラーシステム完結論 40】
● 再エネから水素を作る「Power to Gas」プロジェクトが始動!
日本の将来に向けたエネルギー戦略で極めて重要な二酸化炭素2フリーの水素を活用するための技術開
発プロジェクト――再生可能エネルギーから水素を製造利用する「Power to Gas」――産業技術総合研
究所(NEDO)や有力企業や大学が5つのプロジェクトが始動する(スマートジャパン、2015.03.04)。
ここで、このような再エネ水素社会の実現プロジェクトが、"バンバン"と推進されることを祈念して
いる。
※ NEDO(新エネルギー・産業技術総合開発機構)が2017年度まで実施する「水素社会構築技術開
発事業(水素エネルギーシステム技術開発)」の対象になるプロジェクト