東洋ゴム工業が製造販売した建物の揺れを抑える免震装置に国に認定された性能を満たしていない製
品があった問題で、装置が使われていた建物では、建物の建設工事を一時中断するなど、影響や懸念
が広がっているという(NHK「NEWSWEB」2015.03.16 上図クリック)。ニュースを耳目し、組織
的な不正事件なのかと考えてみたが、免震ゴム機能の規定あるいはその評価方法について全くの無知
であることに気付かされ、不正かどうかの判断の先送りと、組織犯罪などを含めた現代的犯罪学につ
いて俯瞰の必要性に迫られたというわけだ。
建築物の基礎免震、橋梁や高架道路などの支承に、ゴム組成物と鋼板などの硬質板とを交互に積層し
た免震構造体が用いる。この免震構造体は、上下方向には高い剛性、せん断方向には低い剛性をもち
地震の振動数に対し固有振動数を低減し、振動の入力加速度を減少し、被害を最小限にするため、免
震構造体用ゴムは高い減衰性能が要求される。一般的に、ゴム組成物中に樹脂成分の配合量を増量す
れば減衰性能は向上する一方で、樹脂成分の配合量の増量に伴い、ゴム組成物の混練・ロール加工時
の加工性が悪化する傾向があり、ゴム組成物の加工性と、加硫ゴムの減衰性能は二律背反関係にある。
この対策として、ジエン系ゴムを含有するゴム成分100重量部に対し、ノボラック系のフェノール
変性キシレン樹脂を10~80重量部配合し、加硫ゴムの減衰性能とゴム組成物の加工性とをバラン
スを改善し、ジエン系ゴムとして、天然ゴムおよびブタジエンゴムの併用系を使用する新規考案が提
案されている(下図参照)。
● 『吉本隆明の経済学』論 28 反ボードリヤールの経済学
吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
資本主義の先を透視する!
吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも異
なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったその思
考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何か。
資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫る。
はじめに
第1部 吉本隆明の経済学
第1章 言語論と経済学
第2章 原生的疎外と経済
第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
第4章 生産と消費
第5章 現代都市論
第6章 農業問題
第7章 贈与価値論
第8章 超資本主義
第2部 経済の詩的構造
あとがき
第1部 吉本隆明の経済学
第4章 生産と消費
2 消費論
Ⅱ
いままでみてきたところからもあきらかなように、産業の高次化は、必需的な消費(または生
産)支出の百分率が低下すること、それとは遂に遅延的な支出(または生産)いいかえれば選択
的な支出(または生産)の百分率が伸びてゆくことと対立している。だがわたしたちが手易くみ
られる著書では、どんな様式をとりながら産業は高次化してゆくのかについて、はっきりした画
像をあたえているものはない。そこでわたしたちの考察の流れにそってこれを集約してみたい。
第一にわたしたちは産業の高次化を、生産と消費の空間的な遅延、時間的な遅延化そのもの、お
よび空間的な遅延と時間的な遅延の交差するところでおこる価値の高次化を意味すると規定でき
るとかんがえる。もうすこし具体的にこの画像をはっきりさせてみたい。例えば、選択的な商品
消費(生産)支出のひとつの分野、自動車産業のばあいをかんがえてみる。これを『白書』のわ
け方にしたがってつぎのいくつかに類別してみる。
(1)高付加価値化
まずクルマの大型化とか、高機能のエンジンをつけて高い機能をもたせるばあいには、自
動車産業の高次化という画像はほとんどかんがえなくていい。だがこの車に情報機能を高
度にもたせようとして、電信、電話、受像、送信の設備をつけたとする。このばあいには
はっきりと情報関係の機器を生産する他の分野の産業との連結がおこる。この連結は車の
生産というところからは付加価値をつけくわえたということだが、他の分野の産業との網
状化結合という視点からは、自動車産業が高次化する契機をはらんでいるといえよう。こ
れは消費支出の側からもいうことができる。車が高い情報機能をうることによって、共詩
的に複数の用途をなしとげることができるし、車にいて移動しながら複数の指令を送った
り受けたりすることができるようになる。このばあいは空間的な遅延や時間的な遅延の多
数回を一回化することによって、価値の高次化をうみだしているとみていい。
(2)生産工程の改善
組みたての工程を超自動化することで、たくさんの品種を少量生産するシステムをつくっ
たとすれば、このシステムは他の分野のおなじシステムの連結によって組みたてられるか、
あるいは他の分野のおなじようなシステムを組みたてるために、連結されて使用されるこ
とになる。この連結はまえの図とおなじように車の組みたて産業の高次化の起源をなすと
みなされる。
(3)技術開発
たとえばカー・エレクトロニクス装置を開発したり、セラミック製のエンジンを開発して
り付けたりすれば、エレクトロニクス産業や高度なセラミック機械化の産業との連結が
おこなわれることになる。これは自動車産業の流れとしては付加価値化にあたっていると
みなせるが、他のエレクトロニクスやセラミックの産業との連結という面からかんがえれ
ば、産業の高次化への萌芽をもっていると理解される。
(4)多角化
たとえばカー・エレクトロニクス装置を車につけることで、他の情報関連のサービス業と
連結して、使用の目的を多様にすることができる。この使用の多様化はそれ自体が高次産
業そのものである。また他の産業分野との連結という面でも産業の高次化の契機をもって
いるといっていい。
このばあいレストランや外食産業と連結して料理の宅配にこの車が使用されたとすれば、
この使用目的の多角化は、第一次、第二次産業との連結として実現したことになる。また
情報関連産業と連結して空間的な遅延や時間的な遅延を其詩的に重層化するために使用さ
れたとすれば第三次産業との連結が実現されたことになる。
こういった考察は、わたしたちに産業の高次化とはなにか、それはどんな局面でおこるかにつ
いて示唆を与えている。さまざまな言い方ができるだろうが、わたしたちはつぎの二つに要約
することができる。
(1)ひとつの産業分野のなかで生産の工程の改善や付加によって、生産と消費との空間的な
遅延や時間的な遅延を共時化することで価値をうみだそうとするときは、産業の高次化
の契機をもつ。またそのばあい遂に他の分野の産業と連結することで空間的な遅延や時
間的な遅延を産出するとき、その遅延の産出は産業の高次化の契機をもっている。
(2)ひとつの産業分野が他の分野の産業と連結されて網状化かすすんだあげく、本来の産業
分野よりも網状化の支脈のほうがあたかも本来のような比重を占めるようになったとき、
それを産業の高次化とみなすことができる。
この(2)のばあいについては、売上げ高の面からみた図表をみつけることができる(図11
参照)。この図表をみてゆくと精密機械の分野だけは、非本業的な売上高が50%をこえている
ことがわかる。売上高はかならずしも生産の比重と一致しないともいえるが、およそのところ
で売上高の大小は生産の比重の大小と対応するとみなせる。すると精密機械の製造の分野では、
はっきりと産業の高次化がすすんでいるといえる。傾向としていえばすべての産業の分野は現
在に近づくほど非本業化の比率はおおきくなっている。繊維と非鉄金属の分野で非本業化か50
%をこえることは時間の問題だといっていい(図12参照)。
わたしたちは産業の高次化する契機を、他の分野の産業とのあいだの連結と、もうひとつその
連結によっていままで本流でなく非本業的な支脈だとみなしていた連結の流れが50%をこえてし
まって、その方が本流のように変容してきたとき、様式としてありうるものとかんがえてきた。
だがおなじような連結は、おなじひとつの産業分野のなかでもおこりうる。
たとえばひとつの自動車産業を具体例としてこれをかんがえてみる。トヨタの自動車産業にお
いて従業員の数はジェネラル・モータースの約70万人にたいしてわずか6万人くらいであると
いわれる。しかしながらこのトヨタの第一次下請の中小企業の数は600強というデータになっ
ている(榊原英資『資本主義を超えた日本』)いいかえれば下請は高度に分業化されている。
そしてこの第二次下請のそれぞれの企業は、第二次下請の納入業者数百と取引きしているとされ
る。いいかえればトヨタ自動車の単独の企業として600のまた数百倍の下請企業と毛細管のよ
うに連結をひろげていることになる。これを一般化して図示すれば図Bのようになる。
おなじ企業系列のあいだのこの微細で膨大な網状組織は、それ自体が産業の高次化の契機をも
っているといえる。もっと比喩的な言い方をすれば下請の膨大な数の分業システムのそれぞれが、
また膨大な数の分業システムと連結しているこの画像は、それだけで末端のところで生産が消費
に反転し、消費が生産に反転する契機を暗喩している。このような末端の連結システムをもつこ
とは、それ自体が産業の高次化を意味しているといってよい。そしてほんとうをいえば産業の組
織システムとしてこの標識は、究極にちかいものだといってもよい。この企業の内部系列におけ
る網状化のシステムには、もうひとつ連のばあいをかんがえることができる。ひとつの下請の中
小企業が、単独の親企業を指定するだけではなく、高度な部品メーカーーとして複数の親企業を
指定するばあいである(図14参照)。
このばあいにも網沃化自体が企業の高次の産業化の契機をもっていることが指摘される。ひと
つの産業分野を基幹にして下請の企業数が、幾何級数的に増殖してゆく画像は、究極的にはその
ひとつの基幹になっている産業が、裾野の方に微細な、高度な、ひとつの部品の生産に、ほとん
どひとつの企業が対応しているという画像に収斂してゆく。一台の自動車はそのあらゆる小さな
部品毎に一企業の高度な専門的な製造工程が対応しているという画像をいだかせることになる。
これはたとえば自動車産業を産業としての高次化という概念にぴたりと適合させずにはおかない
とおもえる。消費者がこのようにシステム細胞化された産業の集大成として、自動車にたいして、
選択的な商品として消費支出したとき、かれは部品企業の幾何級数的な増殖によってもたらされ
た空間的な遅延と時間的な遅延の細胞のように微細な網状の価植物を購買しているのだといって
よい。また遂に一下請の中小企業がほとんど一種類の高度な部品を製造しており、それが一基幹
となる産業ごとに幾何級数的な数で第一次下請から第二次下請の方にむかって増殖しながら分布
している産業の構成をかんがえると、製造(生産)の様式としては極限の形をもっていて、もは
や産業は第二次以後の高次な段階にすすむよりほかに、この製造(生産)の画像をこえる方途は
ないことを、暗示しているようにみえる。
わたしたちは意図的に生産し、そしてそれを消費する。たぶん動物は(ほとんど)意図的には
生産しないで、消費だけはやる。そして共時的にいえばこの過程で人間も動物も昨日とおなじ身
体状態を残余としてのこす。この残余を通時的にいえば生まれ、育ち、成熟し、老い、死ぬとい
う過程がのこることになる。なぜわたしたちは意図的には生産しないで動物一般のように消費だ
けをやって、残余として身体状態を昨日とおなじに保つということに終始しなかったのだろうか。
ここにはメタフィジックが関与しているようにおもえる。
わたしたちが分析し解剖したいのは、消費社会と呼ぶのがふさわしい高度な産業社会の実体な
のだが、この画像はふたたび動物一般の社会に似ているようにおもえる。動物一般の社会は(ほ
とんど)意図的な生産をやらないで消費行動だけをやって、あとに残余として昨日とおなじ身体
状態をのこす。わたしたちがそのなかに生活し、対象としてとりあげている高度な消費社会でも、
意図的な高度な生産をあたかも生産が(ほとんど)行われないかのように考察の彼方へ押しやり、
消費行動だけが目に立つ重要な行為であるかのようにあつかおうとしている。これはラセン状に
循環して次元のちがったところで動物一般の社会に復帰しているような画像にみえてくる。相違
はわたしたちのなかにメタフィジックが存在するということだけだ。このメタフィジックによれ
ば消費は遅延された生産そのものであり、生産と消費とは区別されえないということになる。
Ⅲ
消費社会の画像を、記号の象徴がとびかい、物に浸透して、物と空気のあいだのいちばん強固
な界面があいまいになった神話の世界にしてしまったのは、ボードリヤールだ。そこには大胆な
踏みこみといっしょに、ひどい判断停止があり、哲学と経済学の死に急ぎがつきまとっている。
いままでわたしたちが論議してきた文脈からいえば第三次産業に産業の重心が移ってしまった
社会(第三次産業が全産業の50%以上を占めてしまった社会)が、物質的な生産が終焉し、記号
が物のかわりに消費される社会とみなされている。これは現在の高次産業社会の実像とも、可能
な想像図ともまったくちがう。
減衰が死に、移行が分断におきかえられ、そこにボードリヤールの好みが集約されている。い
ちばん実像とちがうところは、第二次産業の社会(製造・エ業・建設業等)までで資本主義社会
の概念は終焉とみたてられており、商品生産物をめぐる価値法則、いいかえればスミスからマル
クスまでの古典学派のつくりあげた価値法則はおわり、象徴的な価値が構造体として流通すると
みなされていることだ。わたしたちはまったく高次産業社会にも、そのあとにもそんな画像をつ
くろうとしていない。可能性としてだけいえば第三次産業よりも高次の社会はかならず生産につ
いての価値法則を貫徹するし、マルクスの価値概念は拡張し、修理されなくてはならないとして
も、ボードリヤールのいうような象徴の記号と物との境界をおびやかす事態などどこにもありえ
ないとかんがえている。
これはわたしたちとボードリヤールとが根本的に消費社会の画像をちがえていることを意味す
る。第三次産業に重心をうつしてしまった社会を、資本主義社会の死と等価におき、生産の死、
労働の死、物の価値法則の死、象徴交換の神話と死を語るとき、ボードリヤールは、すこし早ま
ったラヂカリストにみえてくる。かれは壮大な物の体系の死から、ちょっとみると楼小にしかみ
えない物の氾濫と分布への転換を、産業社会のなかに崩壊作用として見つけたしてきた。鋭敏で
ユーモアに富んでいるが、いくらか死の画像におびえ、その論理化を急ぎすぎているように見う
けられる。
死はいつも向こうからこちらへやってこなければほんとうの死の像とはおきかえられない。だ
がそれでもボードリヤールほど本気に消費社会の絶体絶命の像を描こうとしたものはいないとお
もえる。そこでボードリヤールを批判的に通り過ぎることは、たぶんさまざまな消費社会の画像
を批判的にあつかうことを象徴するにちがいない。わたしたちは ちょうどそこまでやってきた。
ボードリヤールが挙げている消費社会の特徴を要約して順序不同に列挙し、必要ならば註釈を
つけることからはじめてみる。
(1)消費社会では、マス・コミュニケーションが三面記事的性格をもつ。いいかえれば一方
では当りさわりなく、どれもこれもおなじように表面だけしかないのに、他方では煽情
的、非現 実的な記号を、その表面に氾濫させて実像をわからなくさせている。このば
あいの一方と他方がなにをさすかは、以下の項目ですこしずつはっきりさせられる。
(2)消費社会では、物が消費されているようにみえながら、第一義としては象徴的な記号が
消費されている。現実の物を消費すること自体は二の次なのだ。こういうボードリヤー
ルの言い方は恰好がよくいっているが、かなりあいまいだ(あいまいで恰好がいいこと
はボードリヤールの高次社会像の本質的な特徴だといえ亘。わたしたちの言葉で註釈を
つければ、消費社会では選択的なサービス消費(娯楽・教養・文化・医療・旅行等)が
主体とかんがえられるべきで選択的な商品を購買するための消費支出、また日常必需品
の消費支出は第二義的なものだという意昧にうけとれる。
(3)現実の世界、政治、歴史、文化と消費社会の消費者との関係は、利害、投企、責任など
のかかわりをもたない。そうかといってまったく無間心な、かかわりのない位相だとも
いえない。もちろんよく認識されているという関係でもない。消費社会の消費者の典型
的な態度は、世界情勢、政治、文化などにたいして「否認」の関係にある。こういう言
い方から、だんだんと消費社会と、そのなかの一般大衆にたいするボードリヤールの描
いている像が姿をあらわしてくる。
(4)消費社会の一般的な大衆の生活は、政治、社会、文化の領域と「私生活」の閉じられた
領域とに分裂した日常生活になっている。べつの言葉でいえばじぶんたちの日常生活は
平穏無事であることを望み、そんな生活にひたりながら、ベトナム戦争とかアフリカの
飢餓とかが、情報や映像になっておくられてきて、記号と像の刺戟を与えてくれれば程
よい日常だとおもわれている。
(5)消費社会では、現実、社会、歴史のなかにおこる緊張から解除されて、弱者(一般大衆
のこと)が幸福であることが理想として目指される。そこでただ消費社会の「欲望と戦
略家」に左右されるだけの、苦労や心配事のない大衆の受動性が支配的な社会の雰囲気
になる。そしてこの受け身の平穏に、「罪の意識」を感ずることをまぬがれるために、
マス・メディアによって三面記事的なカタストロフに仕立てられた事件のあつかいが氾
濫する。ボードリヤー ルにいわせると自動車事故のニュースというのは、消費社会の
「日常性の宿命」をいちばん見事に具体化した象徴的な事件だということになる。車が
つぶれ血が飛び散るといった事件の映像が皮膚のちかくで出現するからだ。
(6)消費社会は「脅かされ包囲された豊かなエルサレム」たらんと欲している。ボードリヤ
ールに言わせればこれが消費社会のイデオロギーだということになる。
ひとまずこれくらいで中休みにして、註釈をつけよう。こういうボードリヤールの言説には批
判的な感想をすぐ申し述べることができる。第一に、ボードリヤールが描いている消費社会の画
像は、ひとびとが(一般大衆が)世界の情勢にも社会や政治や歴史の現状にもあまり関心をもた
ず、じぶんの豊かな消費生活だけを大事に抱きこんで日常をおくっており、そのくせ何かドラマ
テイックな惨劇や事件がじぶんたちの生活社会以外のところでは、映像や記事の象徴としておこ
れば刺戟的だなどとかんがえている社会だとみなされている。
つぎに言えることは、消費社会とは何か、はっきりした社会経済的な把握をしめさない(しめ
せない)うちに、トリヴィアルな修辞的な断片をあげつらって、否定的な言説をつくっているこ
とがわかる。現実、社会、歴史の緊張にあまり関心をむけずに、無数の弱者(一般大衆)が平等
な幸福をめざし、せいぜい身近な日常生活の場面でおこる宿命的な大事件は、自動車事故くらい
だ。こういう弱者(一般大衆)が受動的である社会が、どうして否定的な画像で描かれなくては
ならないのか、どうしてみくだされなくてはならないのか、わたしにはさっぱりわからない。
知識が体系をもち教養がはっきりした輪郭と厚昧を帯びているという錯視をもっか知識エリー
ト意識からの愚痴話か、あるいは弱者一般大衆)を侮蔑し、自分をそこから択りわける知的エリ
ートを気取りながら、弱者(一般大衆)の解放を理念として標榜して、実際は弱者のための地獄
をつくってきたスターリニズム周辺の知識人という以外の像を、ボードリヤールのこの種の言説
からみちびきだすのは不可能におもえるからだ。もしボードリヤールのいう「弱者の幸福」が否
定やおちゃらかしの対象になるとすれば、すくなくとも政治的理念、社会的理念はいっさいこの
世界に不要だということになる。
弱者が知識人の知的専制下におかれた「知識エリートの幸福」を目指す社会などは政治的エリ
ートの専制による「政治的エリートの幸福」を目指して、最近破産を露呈した社会主義の社会と
おなじように、茶番にも何にもなりはしないのだ。わたしたちは消費社会の理論的解剖という現
在の課題に踏みこみながら「消費社会は脅かされ包囲された豊かなエルサレムたらんと欲してい
るのだ。これが消費社会のイデオロギーである」などと、落ちをもてあそぶわけにはいかない。
消費社会とは何かという、解剖そのことが重要であり、消費社会にたいする否定的レッテルや
肯定的レッテルなどは論理をはぐらかし、判断の停止の方に誘導してゆくほかに何の意味もなさ
ない。
こういう課題をボードリヤールが回避しているのは、まったく不可解というほかない。この種の
手のこんだ倫理的判断停止ならば哲学者、社会学者、文学者の顔をして、世界中の文化の現状を
牛耳りながら、その実スターリン地獄をいまも支えている連中が、いたるところでやっている。
ボードリヤールは消費社会を誇張した象徴記号の世界で変形することで、資本主義社会の歴史的
終焉のようにあつかっている。実質的にいえば産業の高次化をやりきれない不毛と不安の社会の
ように否定するスターリニズム知識人とすこしもちがった貌をしていないとおもえる。わたしに
は消費社会の画像が、わたしたちの感受性と理念に問いかけてくるものは、ボードリヤールがと
きに落ちこんでいる退行による否定や欠如による否定とは似てもにつかぬものにおもえる。押し
つけてくる肯定と、押しつけてくる格差の縮まり、平等への接近に、どんな精神の理念が対応を
産みださなくてはならないか。ここではまったく未知のあたらしい課題が内在的に問われている
とおもえる。
第一部 吉本隆明の経済学
ボードリヤード批判として、『松岡正剛の千夜千冊』(交貨篇 0639夜 「消費社会の神話と構造」)
の書評――それはひとつには、このように社会の価値の創発契機をシステムの中にことごとく落とし
てしまっているのは、言語学・経済学・精神科学などの人間科学そのものの体たらくでもあって、ま
ずはその「知を装う欲望消費」をこそ食い止める必要があるということである。しかしここには、い
ったい人間が発見してきた科学というものは何かという根底を批評するしかない覚悟と計画も含まれ
て、少なくともボードリヤールのロジックでは二進も三進もしない問題も待ちうける――が参考にな
った。
(この項続く)