● 人命は鴻毛より軽し Ⅱ
チュニジアの首都チュニスのバルドー博物館で18日、銃を持った武装集団が外国人観光客らを襲撃
し、同国のハビーブ・シド首相によると、日本人3人を含む外国人17人とチュニジア人2人が死亡
したという(朝日新聞、2015.03.19)。目的のためには手段を選ばぬ"聖戦"とはなんたる虚無(イス
ラム的)かと唖然となる。これに先立つ、ロシア国営放送によると、昨年のウクライナ危機でのクリ
ミア併合時、核兵器の準備をしていたことを明らかにした。プーチン大統領は「 核兵器の準備をせ
ざるをえなかった 」との発言に対し、長崎県平和運動センター被爆者連絡協議会の川野浩一議長が
「新たな被爆地を作ろうというのか。核兵器廃絶を達成しようとする国際的な流れに逆行する発言で、
憤りを感じる」と訴え抗議文を送っている(2015.03.19「読売新聞」)。このプーチン発言もなんた
る虚無(スラブ的)かと驚き、うかうかしていられないのでは?と、身を引き締められる思いに駆ら
れる。
● 『吉本隆明の経済学』論 27
吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
資本主義の先を透視する!
吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも異
なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったその思
考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何か。資
本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫る。
はじめに
第1部 吉本隆明の経済学
第1章 言語論と経済学
第2章 原生的疎外と経済
第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
第4章 生産と消費
第5章 現代都市論
第6章 農業問題
第7章 贈与価値論
第8章 超資本主義
第2部 経済の詩的構造
あとがき
第1部 吉本隆明の経済学
第4章 生産と消費
2 消費論
Ⅲ
ボードリヤールは、1965年度において(フランスでは)行政機関等からの第三者支出され
た消費予算は全消費の17%で、その内容は、
食料品と衣類 1%
住居、運輸、通信施設 13%
教育、文化、スポーツ、厚生部門 67%
だと述べている。わたしたちの文脈に洽っていえば大衆の生活必需支出にたいして14%、選択
サービス支出にたいして67%が補充されている消費社会の実態への国家の寄与をしめしている
ことになる。この効果を選択的サービス支出である教育について、かれは確かめている。
ボードリヤールによれば、フランスでは17歳の少年少女の就学率は、全体で52%だとされ
る。その内訳は、
上級管理職、自由業、教員の子供 90%
農民、肉体労働者の子供 40%
また、高等教育にすすむ機会
上級管理職、自由業、教員のばあい 3分の1以上
農民、肉体労働者のばあい 1,2%
そこで行政機関等による第三者支出が、階層の固定化をゆるめ、教育の不平等をなくし、教育
費を再分配する効果は、ほとんどないとボードリヤールはのべている。この数値が正確ならば、
フランスにおける階層の固定化はたしかに強固なものだとうけとれる。だが第三者消費支出の効
果をこれで測ることはできないはずだ。たぶんフランスでは国家が産業社会に規制力を発揮して
いる(法律、法規などを介して)割合はもともと30%くらいだとおもえる。その制約のもとで
第三者消費予算17%のうちの、また六七%にあたる教育、文化、スポーツ、厚生などの割当て
が個々の教育支出に寄与できる率は、はじめから取るにたりないことは、わかっているからだ。
因みに日本のばあいについて、教育の階層別の均等、不均等に言及してみる。
『白書』(『国民生活白書』昭和六三年度)によれば、全階層を1分校からV分校まで所得にし
たがって分ける。1分院がいちばん所得がすくなく、V分校がいちばん所得がおおい階層とする。
これらの分院のそれぞれについて、大学生の子供をもつ家庭の割合をみると、
つまりはっきりと選択消費支出が半分を超えて、わが国が消費社会と呼べるようになったとい
える昭和61年をとれば、第1分院と第V分院、いいかえれば消費社会の最低の生活程度と最高
の生活程度の階層のあいだの高等教育にすすんだ子供の割合は、十の校のおなじオーダーにあっ
て、ほぼ同等といっていい。わたしにはこの数値のほうが消費社会の実態に適っているとおもえ
る。フランスの社会が特殊で階層の固定化が強く、どうにもならない社会という画像が与えられ
る。
たぶん30年以前には第1分校では、家庭の生活経済がゆるさないから、大学進学をあきらめ
ろと子弟にいう親はありえた。またすこしでもはやく働いて家計を肋けよという親もありえた。
第V分校ではそのころでも、子弟はすべて大学教育をうけるのがあたりまえということはあった。
この格差は「無」と「有」の格差だといえよう。現在では数値のしめすところで、第1分校と第
V分院のあいだに、教育費の支出について格差はほとんどないことをしめしている。ここには消
費社会の本質が描き出されている。
ひと口にいえば、すでに飽和点に達した生産的消費の分野では、格差は縮まって相対的な平等
に近づいているということだ。もっと判りよくいえば、子弟を大学に進学させるという分野で一
家族が100人の子弟をもつことなどありえない。たかだか数人で子弟教育費は極大に達する。
そういう分野では最低所得の階層と最高所得の階層が、格差を縮め、平等に近づく可能性が生じ
るということだ。消費社会というのは、こういう飽和点に達した生産的消費の産業分野から、し
だいに高次化してゆく社会のことをさしている。これを消費社会の定義としてもいいくらいだ。
消費社会(高次産業化社会)にたいする肯定も否定も、この本質を本質としておいたうえでなさ
れるのでなければ、まったく無意味だといえる。この意味ではボードリヤールの消費社会論は、
意味をなさない。
わたしたちはだんだんとボードリヤールの理念の批判の核心に近づいていく。
ボードリヤールは、凡庸な左翼進歩知識人の誰でもがいうこととおなじことを、繰返しいいは
じめる。消費社会は(ほんとうは高次産業社会はといいなおすほうがいい)平等な消費可能性へ
万人を近づけ、格差をなくしていった。テレビ、車、ステレオなどは以前は特権的な階層だけに
しか手に入らなかったのに、いまでは万人が(一般大衆が)誰でも手に入れられるようになった。
これはただのありふれた事実だが、ボードリヤールによればこの平等への格差の縮まりは、うわ
べだけで、社会的矛盾や、不平等の内在をおしかくしていることになる。だがわたしにはそんな
馬鹿げた言い草はないとおもえる。テレビ、車、ステレオなどが以前は一部の特別な階層だけが
自由に購買できたのに、いまでは万人(一般大衆)が誰でも購買できるようになったということ、
いいかえれば選択的な商品の消費支出に財力をまわすことができるようになった消費社会の出現
は、あきらかに弱者のボードリヤールのいう「平等」な消費の「幸福」にむかって格差を縮めた
ことを意味している。形式も表面的もなければ、社会の内在する不平等をおしかくしてもいない。
これはたんなる事実の問題だ。この事実を否定的な言辞で迎えるのは左翼インテリ特有の根拠の
ない感傷と大衆侮蔑的な言辞にすぎない。たとえば上級管理職は車3台をもつことができるのに、
肉体労働者や農民は車1台しか購買できないといった格差は、すべての選択消費についてありう
るだろう。だが車3台を特権的な上級職は購買できるのに、農民や肉体労働者は車をもつことが
できないといった格差とは雲泥の質のちがいなのだ。何となれば上級管理職がどんなに財の余裕
があっても乗用車を10台も20台ももつことはまったく無意味だからだ。そうだとすれば消費
社会は、車の購買について上級管理職と肉体労働者のあいだに車3台と1台の格差以上のものを
消滅させてしまったことを意味する。すくなくともそう理解するのが実態にかなっている。もち
ろんテレビ、車、ステレオ以外のものについて、消費社会はまだたくさんの社会的矛盾や不平等
を残存させている。それは解決されなくてはならない。
だがこのことはボードリヤールのいうような、テレビ、車、ステレオのような消費財の購買に
ついての「平等」はうわべだけのもので、社会的矛盾や不平等の深刻な内在には手が届かないな
どということとは、まったくちがっている。テレビ、車、ステレオについての不平等の解消は、
社会的矛盾や不平等のうちの一部分が解消されたことにほかならないのだ。
ボードリヤールはだんだんと馬鹿げた言説の核心に近づく。肉体労働者と上級管理職の支出の
間の差異は、(フランスでは)生活必需品で100対135にすぎないが、住居設備では100
対245、交通費では100対305、レジャーでは100対39になっているとボードリヤー
ルはいう。そして「ここに、均質な消費に関する量的な差を見るべきではなくて、これらの数字
から、追求される財の質に結びついた社会的差別を読みとるべきなのである」(ボードリヤール
『消費社会の神話と構造』今村仁司・塚原史訳)と述べている。わかしには何と愚かなことを言
うのかとおもえる。肉体労働者と上級管理職の支出のあいだに、生活必需品で100対135の
格差しかないのは、食料品や光熱費などのような日常必需品では、たとえば上級管理職であろう
が肉体労働者であろうが、ひとの3倍も5倍も料理を食べることなど不可能だし、ひとの3倍も
5倍も上等な質の食料をいつも料理することなど意味をなさない。格差比率がすくなくなるりま
えだとおもえる。住居設備や交通費が2~3倍の格差をもつことも、そんなに深刻な意味をもち
えない。消費社会は賃金や所得の平等が実現した理想社会ではないなどとあらためていう必要が
どこにあろうか。また肉体労働者が10日間のレジャーをとることができた。上級管理職が39
日のレジャーをとったために、レジャー費の格差が100対390になった。ボードリヤールは
これが消費についての量的な差ではなく、社会的差別を読みとるべきだと主張する。
だがボードリヤールは消費社会を、所得の平等が実現した共産主義社会でなくてはならないと
おもっているのだろうか。わたしはひとかどの知識人がこういう言ってみるだけの欠陥の言説、
言説の欠陥を得々として語り、それによってスターリニズムの世界支配に寄与してきた歴史をか
んがえると肌に粟を生ずる。肉体労働者は一日のレジャーももちえないのに、上級管理職は39
日のレジャーをもつことができた。この「無」と「有」との格差を消費社会は「有」と「有」の
相対的な格差に変貌させた。わたしには肉体労働者をそこまで経済的に解放してきたことさえ、
「無」であったときに比較して格段の「平等」への接近だとおもえる。消費社会にたくさん残存
する社会的矛盾や不平等を批判するのに、所得が万人に平等な架空の社会を基準におくなど、ふ
ざけはてた言い草だとおもう。
ボードリヤールは消費の概念を、健康、空間、美、休暇、知識、文化など第三次産業の中心に
おかれた分野にまで踏みこんだうえで、おなじ倫理(というよりも固定観念)のほうへ誘導して
いる。
健康や空間や美や休暇や知識や文化への権利が口々にいわれている。これらの新しい権利が
出現するたびに、新しい官庁が生まれている(保健省、余暇利用省)-美観やきれいな空気
を保護する官庁というのも出てくるかもしれない。これは制度化された権利によって公認さ
れるだろう個人的かつ集団的な一般的進歩を表現しているらしいが、この現象の意味はあい
まいであり、そこに逆のものを読みとることが可能である。
空間への権利が生まれたのは、万人のための空間がもはや存在しなくなり、空間と静けさが
他人の犠牲の上に成り立つ一部の人びとの特権となった後のことであり、同様に「所有権」
が生まれたのは、土地をもたない人間が出てからのことであり、労働に対する権利が生まれ
たのも、分業の伜のなかで労働が交換可能な商品となり、その結果もはや特定の個人に属さ
なくなった後のことなのだ。同じく、かつて労働がそうであったように、「余瑕への権利」
の出現も、悠々自適の段階から技術的社会的分業の段階への移行、すなわち余暇の終焉を予
告しているとはいえないだろうか。
豊かな社会のスローガンや民主主義の宣伝ポスターとして吹聴されているこれらの新しい社
会 的権利の出現は、したがってそれらの権利に関連する諸要素が、階級(あるいはカースト)
の特権の差異表示記号の地位を得ることになったことの徴候である。「きれいな空気ヘの権
利」の意味するものは、自然の財産としてのきれいな空気の消滅とその商品の地位への移行、
およびその不平等な社会的再分配という事実である。したがって資本主義システムの進歩に
すぎないものを、客観的な社会の進歩(モーゼの律法衣に刻まれるような「権利」)ととり
ちがえてはならない。資本主義的システムの進歩とは、あらゆる具体的自然的価値が徐々に
生産形態、つまりド経済的利潤、・社会的特権の源泉へと変質することなのである。
(ボードリヤール『消費社会の神話と構造』今村仁司・塚原史訳)
わたしたちはボードリヤールのあやふやな論理にここまでつきあう必要はない。だがここが消
費社会と呼ばれている社会の産業的な構造でいえば、肝要な第三次産業の系列におかれた場面な
のだといえる。健康、空間(緑)、美(コスメティック)、休暇(レジャー)、知識、文化は高
次産業の中心にやってくるとともに、ボードリヤールのいうようにあたらしい国家官僚の職務が
登場してくるかもしれない。そしてかれの言うように健康が産業や国家責務となるのは不健康が
まんえんしたからだし、空間がそうなのは万人のための空間が存在しなくなり、余暇がそうなっ
たのは悠々自適の生活かおわったからだし、知識や文化がそうなったのは、叡知が失われたから
かもしれない。だがそのことの意味はボードリヤールのいうところとまったくちがう。ひとりで
に健康でひとりでに空間をとりもどし、美や休暇や知識や文化や空間や水でさえも、それを万人
(一般大衆)の平等な所有に近づけるためには、それを保護するのではなく、あたらしく造りだ
すよりはかないことを意味している。これが自然への働きかけが高次産業化することの本質なの
だ。
ボードリヤールのいうのとちがって、資本主義的システムの進歩といえども「客観的な社会の
進歩」だし、「具体的自然的価値」が高次生産化することもまた客観的な「社会の進歩」である
ことは論をまたず自明のことだ。わたしにはボードリヤールの理念は、誰がどうなればいい社会
なのか、まったく画像を失っているのに、なお不平のつぶやきが口をついて出るので、それをつ
ぶやいている常同症の病像にみえてくる。
ボードリヤールがせっかく果敢に消費社会の実体に踏みこみながら、一方で陥っている巨大な
空孔に、もうすこし先までふれていかなくてはならない。
あらゆる物質的(おょび文化的)欲求が容易に満たされる社会という、われわれが豊かな
社会について抱いてきた固定観念は放棄されなければならない。なぜなら、この観念は社会
的論理を一切捨象しているからである。その上で、マーシャル・サーリンズが「最初の豊か
な社会」についての論文で取り上げた見解に従わねばならない。それによれば、いくつかの
未開社会の例とは反対に、われわれの生産至上主義的産業社会は稀少性に支配されており、
市場経済の特徴である稀少性という憑依観念につきまとわれている。われわれは生産すれば
するほど、豊富なモノの真只中でさえ、豊かさとよばれるであろう最終段階(人間の生産と
人間の合目的性との均衡状態として規定される)から確実に遠ざかってゆく。というのは、
成長社会において、生産性の増大とともにますます満たされる欲求は生産の領域に属する欲
求であって、人間の欲求ではないからである。
そして、システム全体が人間的欲求を無視することの上に成り立っているのだから、豊か
さが限りなく後退しつつあることは明らかである。それどころではない。現代社会の豊かさ
は稀少性の組織的支配(構造的貧困)が優先するために、徹底的に否定される。
サーリンズによれば、狩猟=採集生活者たち(オーストラリアやカラハリ砂漠に住む未開の
遊牧民)は、絶対的「貧しさ」にもかかわらず真の豊かさを知っていた。未間人たちは何も
所有していない。彼らは自分の持ちものにつきまとわれることもなく、それらのものを次々
に投げ棄ててもっとよいところへ移動していく。生産装置も「労働」も存在しないので、彼
らは暇をみつけて狩をし採集し、手に入れたものをすべて彼らの間で分かちあう。何の経済
的計算もせず貯蔵もしないで、すべてを一度に消費してしまうのだから、彼らは大変な浪費
家である。
狩猟=採集生活者はブルジョアジーの発明したホモ・エコノミクスとはまったく無縁であり、
経済学の基本概念など何一つ知らずに、人間のエネルギーと自然の資源と現実の経済的可能
性の手前に常にとどまってさえいる。睡眠を十分にとり、自然の資源がもたらす富を信じて
暮すのである(これが未開人のシステムの特徴だ)。ところが、われわれのシステムの方は、
不十分な人間的手段を前にした絶望や、市場経済と普遍化された競争の深刻な結果である根
源的で破局的な苦悩になって(それも技術の進歩とともにますます強く)特徹づけられるこ
とになる。
(ボードリヤール『消費社会の神話と構造』今村仁司・塚原完訳)
このすぐあとでボードリヤールは、未開社会は集団全体として「将来への気づかいの欠如」と
「浪費性」があって、これが真の豊かさのしるしだといっている。また遂に貧しさというのは、
財の量がすくないことではなくて人間と人間との関係の問題だから、社会関係の透明さと相互扶
助があれば、飢餓状態でも豊かにくらすことができると述べている。
どうもこういう言説には信じられないところがふたつある。だいいちはこれは幼児のときは憂
いも苦しみもおぼえず邪気なくくらせて、過去も未来も思い患うこともなく豊かな生活をしてい
たというのとおなじだ。だれでもそれを否定しないだろうが、そこへ逆行できないことも、再構
成できないことも自己史と文明史にとって自明なのだ。もうひとつある。産業の高度化による豊
かさと、選択的な消費における格差の締まりには、たしかにあるうさんくささの影がつきまとう。
そのうさんくささは概していえば不安、頼りなさのようなものに帰着するといっていい。これは
何に起源をもち、どこからやってくるのか。すくなくともボードリヤールの考えているような人
類の未開の幼児期への賞賛などからはやってきはしない。わたしの考えでは産業の高次化が物(
商品、製品)にたいする感覚的な働きかけから距たってゆくところからこの不安は主として由来
するようにみえる。この感覚的な距たりは遅延として理性と理念を襲うにちがいないからだ。べ
つの言い方を採用すればこの遅延は生産が消費に変貌する転換点なのだといえる。
ボードリヤールによれば、はじめに選択的な消費支出の対象として洗濯機がえらばれて人手さ
れたとする。これは衣類を洗濯する道具であるとともに、消費者の幸福感や威信の要素になり、
このことのほうが消費に固有な領域だということになってしまう。この意味表示要素に視点がお
かれるかぎり、さまざまな物が洗濯機にとってかわることができる。象徴の要素、記号の要素か
らみれば、物(商品、製品)はどんな機能や欲求とも無関係だ(結びつきがない)とともにあら
ゆる物(商品、製品)は固有の意味作用をもたずに、物と物との境界はあいまいなものになって
しまう。これが消費社会(高次産業社会)の実状だということが、悲観的、否定的な重心をもっ
て語られている。しかしわたしには消費社会(高次産業社会)の核心がそこにあるとはおもえな
い。
第三次産業以後において、わたしたちは生産が物(商品、製品)の手ごたえ、感覚的な反射か
ら距てられたところからうまれる不定さ、視覚的、触覚的な物の、映像化による非実在感などに
由来する不安に対応する方法をもちあわせていないこと。ボードリヤールの見解と反対に、消費
行動の選択に豊かさや多様さ、格差の縮まりなどが生じていること。そこに核心があるようにお
もえる。もっといえばこういう消費社会の肯定的な表象の氾濫に対応する精神の倫理をわたした
ちはまったく編みだしておらず、対応する方途を見うしなっているところに核心の由来があると
おもえる。わたしたちの倫理は社会的、政治的な集団機能としていえば、すべて欠如に由来し、
それに対応する歴史をたどってきたが、過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知
っていない。ここから消費社会における内在的な不安はやってくるとおもえる。
第一部 吉本隆明の経済学
この項の議論(反ボードリヤール経済学)に対し、現実の世界は、吉本の描いて見せた"高度消費社
会(前社会主義社会)" のイメージ通りだったのか?確かに、斉藤和義の唄ではないが、生活するう
えで欲しいものならなんでも手に入る時代でありながら、秋葉原通り魔事件が起きる"デフレ格差拡
大"社会――資本収益率(ほぼ4~5%)が所得成長率(ほぼ1%~2%)よりも高い、高所得者と高資
産保有者がますます富む時代――でもある。『21世紀の資本』の著者であるトマ・ピケティは、そ
の解決には、資本課税の強化を国際協調のもとですべての国で課税強化することを提案し、日本に対
しては、「財政面で歴史の教訓を言えば、1945年の仏独はGDP比2百%の公的債務を抱えていたが、
50年には大幅に減った。もちろん債務を返済したわけではなく、物価上昇が要因だ。安倍政権と日銀
が物価上昇を起こそうという姿勢は正しい。物価上昇なしに公的債務を減らすのは難しい。2~4%
程度の物価上昇を恐れるべきではない。4月の消費増税はいい決断とはいえず、景気後退につながっ
た」と評価し、(1)世界レベルの格差を減らすには経済の透明性が不可欠、(2)累進課税的なも
のにし若者・女性を優遇する税制、(3)パートタイム労働者、有期雇用労働者等がより良い社会保
障を得られるような構造改革――を提案している(2015.01.31/ログミー「若い世代に有利な税制を」
トマ・ピケティ氏、日本の課題と対策を提示」)ている。
(この項続く)