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打見山々頂のテラス

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彦根藩二代当主である井伊直孝公をお寺の門前で手招き雷雨から救っ
たと伝えられる"招き猫"と、井伊軍団のシンボルとも言える赤備え。
(戦国時代の軍団編成の一種で、あらゆる武具を朱塗りにした部隊編
のこと)の兜(かぶと)を合体させて生まれたキャラクタ。愛称「ひ
こにゃん」


1.セントポーリア 2.デントロビューム 3.ナンテン 
4.ヒビスカス 5.ピラカンサ

【園芸植物×短歌トレッキング:デンドロビューム】

             咲くべくもおもはで有を石蕗花つわぶき   蕪村

 
「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」は蕪村の辞世の句。大阪で生
まれ京都にて没す(1716~1784)享年六十八。松尾芭蕉、小林一茶と
並び称される江戸俳諧の巨匠の一人、江戸俳諧中興の祖といわれる。
また、俳画の大成者でもある。写実的で絵画的な発句を得意とした。
独創性を失った当時の俳諧を憂い「蕉風回帰」を唱え、絵画用語であ
る「離俗論」を句に適用した天明調の俳諧を確立させた。 


 円柱状茎がまの節ふしごとに花咲けるデンドロビュームに春は来にけり
                                                   北沢郁子

無髄(ムズイ)短歌を詠んでしまったと思案し、「円柱状茎」を「が
ま」と読み、デンドロビュームの花歴をたどり「春は来にけり」で破
調をソフトランディングさせた歌人の卓抜さを観想する。




デンドロビウム(ノビル系)は、現在日本での品種改良が世界のトッ
プレベルを誇るラン。節のある茎状のバルブをほぼ直立に伸ばして生
育する。毎年、数本のバルブを伸ばし、節々に花芽をつけ開花する。
ノビル(Dendrobium nobile)という原種をもとに交雑育種が行われた
ので、ノビル系(ノビルタイプ)と呼ばれ、近年は日本原産のセッコ
ク※(Den.moniliforme)との交雑も進み、小型のノビル系もふえつつあ
る。耐寒性に富み、株そのものが凍らないかぎり枯死することのない
丈夫なラン。園芸店では冬に満開の株が販売されているが、通常の開
花期は春。栽培法や品種により、落葉してから開花するものと、葉を
つけたまま開花するものがあるが、いずれの場合も葉は1年程度で落葉
する。



※セッコクは、日本や朝鮮半島に自生する、着生ランです。岩の上や大
木に着生して、花を咲かせます。デンドロビウムという蘭の7つある分
類の1つ、「ノビル系」に属し、長生蘭(チョウセイラン)という名前
でも知られている。 他にも、「岩薬(イワグスリ)」「少名彦薬根(
すくなひこのくすね)」と呼ばれ、薬用植物として有名です。漢方で
は、開花前の全草を乾燥させたものを「石斛(せきこく)」と呼び、
健胃、消炎、強壮などに有効な生薬として利用。セッコクという呼び
名は、この漢名がなまって定着したといわれる。
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【略歴】北沢郁子は、長野県松本市出身。松本高等女学校卒。1948年、
歌誌『古今』に参加、福田栄一に師事する。「女人短歌会」に参加し、
大西民子と交友を結ぶ。 1960年、森村浅香らと同人誌『藍』を創刊、
発行人となる。1984年、歌集『塵沙』で第9回現代短歌女流賞受賞。
2014年、歌集『道』で第48回迢空賞候補。

【男子厨房に立ちて環境リスクを考える:やみつきオイル】






新型コロナもありグルメ番組の多さに驚きながら、シンボリックな高
度消費社会制の側面を堪能しながら『電子レンジでひとり鍋』の実践
を準備するものの、夕食は"孔子の妻"の活躍で手が伸びずいた。そこ
で前々から食用オイルとハーブ、スパイス。健康増進薬味などのとの
の混成商品の自家開発をと考えていたやさき、次ぎ次ぎと市場投入さ
れる。つまり、日本は"味の素"、"カニカマ"などのように『加工食品
開発立国』であり、”グルメ過剰社会”などと苦笑する。そうなんだ、
クラフトビールや健康促進食品の開発はもう出しゃばる領域はないし
もう誰もが簡単にできる時代、それを消費し"グルメとケア"消費社会
を楽しんでいこう。

【小父さんの園芸奮戦記】
それから、ことしはミニトマトを栽培していたのだが、枝が伸びすぎ
て結実量も多く、日射量や気温がダウンしても熟成が悪く赤く色付き
が悪くても、逆に香り立ちがよく煮込みでもサラダとして食しても好
いことがわかり、来年は栽培期間及び栽培量を倍増させようと考えて
いる。本当!助かった。


 

 
【完全クローズド太陽光システム事業整備ノート ⑩】
【再エネ革命渦論 71: アフターコロナ時代 270】
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コンパクトでスマートでタフな①光電変換素子と②蓄電池及び③水電
解に④水素系燃料電池、あるいは⑤光触媒由来有機化合物合成と完璧
なシステムが実現し社会に配置されようとしている。誰がこれを具体
的に想定しただろうか。その旗手に常に日本や世界の若者達の活躍が
あった。
● 技術的特異点でエンドレス・サーフィング
   再生可能エネルギー革命 RE100 ➢ 2030  70    

✺ 歪ませた層状結晶に巨大な光起電力
分子間力の一種であるファンデルワールス力によって形成されるファ
ンデルワールス結晶は,その柔軟性から曲率構造や巨大な面内歪みを
容易に実現でき,それによって元の結晶にはない特徴的物性や機能性
の開拓が可能になる。グラフェンをはじめとするさまざまなファンデ
ルワールス結晶において、そのような歪みによる量子輸送特性や光機
能性の変調が報告されてはいるが、変形による結晶対称性の変化と新
奇物性の発現の可能性は注目されていなかった。


図1 歪み 3R-MoS2 デバイスの回路図とその特性

11月25日、東京大学と理化学研究所の研究グループは、正三角形の対
称性を持つファンデルワールス結晶である二硫化モリブデン(MoS2)
を歪ませることで,面内に電気分極とそれを反映した巨大な光起電力
効果が生じることを発見。結晶や岩石の割れ方がある特定方向へ割れ
やすい劈開性をもつMoS2薄片試料を二つの平行な段差構造電極に橋渡
しするように転写した歪みが無視できるデバイスでは,光を照射した
場合に電気伝導度の変化は観測されるが,印加電圧なしの状況下では
自発的な光電流は流れない。一方で,転写時に薄片試料を電極間の溝
にまで押し込むようにして転写することで一軸性歪みが印加されたデ
バイスを作製すると,①結晶対称性が低下して面内に分極が発現し、
そのようなデバイスに光を照射すると印加電圧なしの状況下で明瞭な
光電流が観測されること。②加えて、光電流の大きさが歪みの大きさ
を増大させていくに従って増えていく様子が観測され、分極と光電流
の大きさが密接に関係していることを示唆。③さらに、光電流の照射
光強度依存性や照射光エネルギー依存性等から、観測されたバルク光
起電力効果が、電子の波束の重心位置が光照射下で空間的に変化する
という量子力学的な機構によって説明できることを見出した。
【展望】
今後、歪み印加手法の改善により、より大きな歪みの実現と発電効率
の向上に期待する。
【関連論文】
掲載誌:Nature Nanotechnology
原 題:Giant bulk piezophotovoltaic effect in 3R-MoS2
D O I  :
10.1038/s41565-022-01252-8

● 電解反応途中のプロトン濃度を可視化
11月24日、熊本大学の研究グループは,厚さが約1nmのチタンニオブ
酸化物ナノシート(TiNbO5–)と希土類イオン(Eu3+,Tb3+)からなる
混合体(以下,TiNbO5–ナノシート/Eu3+,Tb3+混合体)について,紫外
線照射下の発光色が溶液中のプロトン濃度(水素イオン濃度)に応じ
て変化することを明らかにした。

図1.作製したTiNbO5 -ナノシート/Eu 3+・Tb 3+混合体: (a)モデル
図,(b)走査型電子顕微鏡(SEM)像, (c)酸性(pH 2)・中性(pH 6)・ア
ルカリ性(pH 12)水溶液中における発光を写した画像, (d)2.0 V電解中
の色変化を写した画像,左)電解開始10分時点,右)電解開始32分時点
(Pt/Pt 二電極式,左側が還元極,右側が酸化極)。

ミクロな世界では、環境の変化に応じて物性値が敏感に変化するよう
なナノ材料が新たに必要。一部の発光体は、周囲の温度や圧力、特定
のイオン濃度に応じて発光強度が変化するため、ナノメートル単位の
環境センサーとなる。発光体の材料としては、有機分子に発光中心を
配位させたものが多く、紫外線照射下の安定性や機械的強度に課題が
あった。そこで研究グループは、無機ナノ材料の一つである遷移金属
酸化物ナノシートに注目し、プロトン濃度(水素イオン濃度)に対し
マルチカラーに呈色する発光体の開発を目指した。
遷移金属酸化物ナノシートは、遷移金属原子と酸素原子からなる厚さ
約1nmの板状結晶が数μmに渡って横方向につながった構造を有してい
る。研究で使用したチタンニオブ酸化物(TiNbO5–)ナノシートでは、
チタン、ニオブ、酸素の3種類の原子が厚さ0.7nmの平面状に広がって
いる。TiNbO5–ナノシートはマイナスの電荷をもっているため,ユウロ
ピウムイオン(Eu3+)やテルビウムイオン(Tb3+)といったプラスの電
荷をもったイオンと混合すると、イオンがTiNbO5–ナノシート間にサン
ドイッチのように挟まれた構造体を形成する。
【展望】
本研究にて開発したプロトン濃度の可視化技術を用いることにより、
無機ナノ材料中のプロトン伝導メカニズムの解明が進み、水電解セル
や水素燃料電池 開発を支える優れたプロトン伝導膜の開発につなが
ることを期待。
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【関係論文】
掲載誌:Nanoscale
原 題:Multicolor luminescent material based on interaction between TiNbO5−
nanosheets and lanthanide ions for visualization
of pH change in inorganic gel electrolyte
D O I : 10.1039/D2NR03806D





メタセコイア並木: 高島市 2022.11.25


打見山々頂のテラス 2022.11.25


びわこテラス 背景:湖北(伊吹山) 
撮影:有山 節子 2022.11.25





中世期最大の詩人のひとりであり、学問と識見とで当代に数すくない
実朝 の心を訪れているのは まるで支えのない奈落のうえに、一枚の
布をおいて坐っているような境涯への覚醒であった。本書は、中世初
の特異な武家社会の統領の位置にすえられて、少年のうちからいやお
うなくじぶんの〈死の瞬間をおもい描かねばならなかった実朝の詩的
思想をあきらかにした傑作批評。
【目次】
1 実朝的なもの
2 制度としての実朝
3 頼家という鏡
4 祭祀の長者
5 実朝の不可解さ
6 実朝伝説
7 実朝における古歌
8 〈古今的〉なもの
9 『古今集』以後
10.〈新古今的〉なもの
11 〈事実〉の思想
実朝における古歌 補遣
実朝年譜
【著者略歴】 吉本隆明(1924-2012年)は、東京生まれ。東京工業大
学電気化学科卒業。詩人・評論家。戦後日本の言論界を長きにわたり
リードし、「戦後最大の思想家」「思想界の巨人」などと称される。
おもな著書に『言語にとって美とはなにか』『共同幻想論』『心的現
象論』『マス・イメージ論』『ハイ・イメージ論』『宮沢賢治』『夏
目漱石を読む』『最後の親鸞』『アフリカ的段階について』『背景の
記憶』などがある。
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  Ⅴ 実朝の不可解さ

  建保二年
  二月四目、己亥。晴。実朝将軍はいささか病悩あり、近習のも
  のたちがたも騒いだ。ただし、とくにどうというほどではなか
  った。これはもしかすると昨夜の酒宴の二目酔いであろうか。
  築上僧正栄西が加持折詰に呼びだされたが、このことをきいて
  良薬と称して寿福寺からもってきて茶一杯をすすめた。また一
  巻の書をそえて献上した。茶徳をたたえる書物である。実朝将
  軍はよろこんだ。先月のころ坐禅の合間にこの書物をぬき書さ
  したと申された。

  東大寺の大仏の修造に成功した陳和仰の名は、たぶん実質以上
 におおきく評価され、いわば南米文明を代表するひとりであるか
 のように、鎌倉に伝えられていたかもしれぬ。ほんとうは米を食
 いつめて、日本に渡ってきた一介の鋳物師・大工であったとして
 もよい。この程度の技工は本国にはごくありふれた存在だとみる
 のが穏当である。しかしこの種の文化的な錯誤は、現在でもおな
 じようなもので、三流の欧米詩人や思想家たちをかついで、有難
 がっている研究者も文学者もあとを絶ったためしはない。ただ、
 陳和物が、大仏の鋳造とそのために必要な組枠のつくり方に成功
 したとすれば、一気に渡米するほどの船を造ることにも成功する
 にちがいないと実朝は錯覚した。小船で生命がけで北九州から乗
 りだして人米するというのではなく、実質はともあれ、名目上は
 現在の征夷将軍とその扈従をのせて、安全に華南の寧波あたりま
 で航海するだけの規模を想定したとすれば、その船はべらぼうに
 巨きく設計されねばならなかったはずである。それをどんな方法
 でっくりあげたのかは、まったくわからない。大仏を鋳造するに
 は、足場を兼ねた組枠をつくり作業するだろうが、この方法は船
 のばあいには通用しない。まず浜辺を海面より深く椙ってドック
 をつくり、海水をせきとめて、船を浮ぶだけのところまで造り、
 そのあとで水門をさって船を浮べ、最後に船内の設備を完成させ
 るよりほかに方法がない。相対は海浜に大仏鋳造のときとおなじ
 ように、組枠をつくり、船を造りあげたあとで、枠をとりはらい、
 人夫に曳かせて、船をひきずりおろそうとしたのかもしれぬ。
  いずれにせよ、実朝は異常なまでに思いつめた渡米の計画を、
 船が浮ばぬままに断念するよりほかはなかった。この断念がなに
 を意味するかは、実朝には明瞭にみえていたにちがいない。
  『吾妻鎗』の記載するところでは、執権北条相模守義時の意を
 うけて、大江広元があまりにも位階の昇進をのぞみすぎるとして、
 実朝に諌言したのは建保四年九月二十日である。そして渡来をお
 もいたって陳相対に造船を命じたのは同年の十一月二十四目であ
 る。もし、この目付に因果の関係かおるとしたら、実州は最高の
 臣たちの諌言を押し切ったとき、すでに行くべ含ところがないと
 かんがえ、渡米をおもいたったことになる。
  ところで『北条九代記』の記載では、義晴の意をうけた広元の
 諌言は、陳和物に造船のことを指示したあとのことになっている。
 『九代記』の記載でいえば、〈近ごろ実朝将軍は渡米のことを思
 いたたれているが、はなはだこまったものである。いくら諌言を
 してみてもききいれない。なげかわしいことである。それだけで
 はない、まだ若く壮年にもならないのに位階の昇進をもとめるこ
 とが早きに失する〉という理容をつけて広元は実朝を諌めている。
 雲州には固有の論理があった。その論理からすれば、米にわたる
 うということと、どうせじぶんで源家三代におわるのだから位階
 の昇進をということは、べつではなかったはずである。このとき
  の実朝の泳四辺は制度的でもなく、〈宗門〉的でもなく、ただ宗
  族〉的である。宗門からいえば源氏一門は北条氏一族もふくめて、
  名跡が絶えるわけではない。太江広元がいう「只希くは、御子孫
  繁栄の御為には当官を辞して、征夷将軍の一戦を守り、御高年の
  後には、如何にも公卿の太織をも受け給へかし」というばあいの
  「御子孫」は、家門一族を意味している。けれど実朝が「謨諌尤
  甘心すべしといへども源氏の正統今この時に統りて、子孫更に相
  続し難し。然らば我飽まで官職を兼守り、家名を後代に輝さんと
  思ふなり」とこたえたときの「子孫」は、直接の〈家族〉を意味
  していよう。ここの論理では、広元も義時もなにもいうことはで
  きない。〈宗族〉としての頼朝の正統が実朝で絶えることは、か
 れらとてもしっていたはずである。ただ実朝の論理が幕府の統領
 の論理ではないこともよくしっていた。
  一国の征夷将軍が且従六十散人で唐突に渡来すれば、政治的亡
 命とみなされることは確実である。かりに陸相郷の造船が成功し
 たとして、そのあと実朝がどういう渡米の名分をたてるつもりで
 あったのかまったくわからない。宗教的聖地への巡拝を名目にす
 れば、国交をあたためるということになるかもしれないが、それ
 とても唐突の感をまぬかれないだろう。ここには、子供のような
 幼稚な思いつきといってはすまされない奇妙な暗さがある。だか
 らこの企ては義時にも広元にも理解するふりをするだけの理由が
 あったにちがいない。実朝は頼家が放蕩三昧と無茶苦茶な政治的
 横車といった形で獲得した私的生活に、もっと陰にこもった形で
 到達したのかもしれない。義晴と広元の評言を祁けたうえは、あ
 と実朝にのこされているのは〈死〉だけだということは、あまり
 にも自明であった。ただ、実朝にしてみれば、北条氏や母紋子や
 大江広元の諌言を祁けたうえは、自前の内的な論理をつきすすめ
 るよりほかなかったのである。

  Ⅵ 実朝伝説

  ある人物が伝説上のひととなる条件は、ある自然物が伝説上の
 風土となる条件と似ている。その似ているところは、いずれも〈
 共同〉の〈観念〉があつまるということである。これが〈伝説〉
 と〈風評〉とがおなじようでいて、まったくちがうところでもあ
 る。ひとびとはこうかんがえがちである。かりにあるひとりの有
 力な人物や機関があって、ひとりの人物または自然物を〈聖化〉
 しようとして、作為的に〈風評〉をふりまくようにした。〈風評〉
 はひとの口から口へとつたえられ、機関から機関へとばらまかれ
 た。そしてついに固定した〈伝説〉になってしまう、と。しかし
 これはどうもちがうような気がする。作為的にふりまかれた〈風
 評〉が固定して〈聖化〉が定着することも、その逆に〈俗化〉が
 定着することも歴史のうえでありうるにちがいない。しかし、ひ
 とびとが時代と場所をこえて、その人物や自然物を〈伝説〉とし
 て保存するためには、対象とそれを対象にしつらえたひとびとの
 あいだに、〈共同〉の共鳴(共感ではなく響きあい)がひそんで
 いなければならない。そしてこの響きあいは〈個人的なもの〉の
 複数ではなくて、あくまでも〈共同のもの位相にあるというより
 ほかない。では、響きあうのか?               I
  ひとつはそのなかにある〈劇〉である。もうひとつは〈時代〉
  の象徴性である。そして〈伝説〉が成立つためには、ある人物ま
  たは自然物に〈劇としての時代的な象徴〉という性格がなければ
  ならない。これは、べつに歴史上に記録された〈仏説〉であるひ
  つようはない。名もない村落の片隅に鎮守された祠神の本体は石
  仏であった。この石仏は、ある目、漁に出た漁師の網にかかって
  引きあげられたものだが、睦にあげてみたら、石仏の貌が変って
  しまった。これは不思議であるというので祠神として小さな堂を
  たて、そのなかに祀った。この本体はそれからあとも雨が降る日
  と晴れた日とでは貌の表情がまるで変ってしまう。こういった〈
 伝説〉ならば、縁起譚にはどんな小さなものであっても、かなら
 ずつきまとっているはずである。
 〈伝説〉などは、どんな伝説でもすべてつまらない。これは例外
 なくそうであるといえる。しかし 〈伝説〉をつくりだすひとび
 との心も、それを信じたふりをして保存するひとびとの心も、い
 つも簡単に片づけられない問題をはらんでいる。簡単に片づけら
 れるのは、個々のひとびとがもっている迷蒙さだけだが、〈共同
 〉の迷蒙さはそうはいかないのである。なぜならばそれは〈時代
 〉の象徴としての不安、すがりつきたい〈共同〉の願望がいつも
 根抵に横だわっているからである。〈共同〉の迷蒙が〈伝説〉に
 かわるためには、かならずしも個々の人間が迷蒙であることを必
 要としていない。個々の人間がどんなに賢明であっても〈共同〉
 の迷蒙は成立するのである。ひとびとはここでもたぶん誤解しや
 すい。個々の人間が迷蒙だから共同の迷蒙が成立するのだという
 ように。こういう理念は、いつも個々の人間を啓蒙すれば共同の
 迷蒙はなくなるはずだと錯覚して啓豪家になる。
  この理念は途方もない虚偽にゆきつくほかはない。理念が逆立
 ちしているからだ。
  こういう理念は、個々の人間が賢明だからこそ、むしろ〈共同
 〉の迷蒙が成り立つのだということを解ろうとしないのだ。あら
 ゆる〈伝説〉が他愛ない嘘だとすれば、〈伝説〉を崩壊させるた
 めには、個々の人間の蒙を啓くよりも、〈共同〉の迷蒙の根拠を
 つき崩すよりはかに方法はない。
 『愚管抄』の著者である慈円は、洗熊が〈浄土教〉を流布しはじ
 めたとき、これを途方もない迷蒙だとかんがえた。そしてこの迷
 蒙にひっかかるものは無智蒙昧のやからだとおもったのである。
 しかし、後世の眼からみれば、慈円の信仰していた天台教は、す
 でに加持折詰で万物を勁かすことができると錯覚していた、途方
 もない迷蒙だが、決然の〈浄土教〉に宗教の時代的な必然と間明
 さをみることができる。浄土教を無智のやからに迷蒙を強いるも
 のとみる慈円の知識にとっては、知識を獲得しているものはけっ
 して迷蒙でありえないという奇妙な錯覚があった。たしかに知識
 を獲得することは個人を迷蒙から救出するかもしれないが、〈共
 同〉の迷蒙にたいして慈円の知識はまったく無防備なものにすぎ
 なかった。
 『愚管抄』はこう記している。

   また、建永年間に決然房という上人があった。おひざもとの
  京洛を依いとして、念仏宗一派を立て、もっぱら念仏を信ずべ
  きであるということから、専宗念仏と号して、〈ただ南無阿弥
  陀仏を称えよ、ほかの顕教密教の修法はしてはならぬ〉と流布
  して、思慮のない蒙昧無智の尼憎たちによろこばれ、この念仏
  宗はただならぬ勢いで蔓えんしだしたが、そのうちに泰経入道
  配下の侍で出家して安楽房と称し念仏の行者となったものがあ
  り、このものが往往と一緒になって、六時阿弥陀仏礼讃こそ善
  導和尚の意にかなう修行だと称えたして、尼たちに帰依渇仰さ
  れるにいたった。その勢いはなはだしく、極端にはしり、念仏
  に帰依すれば、女色を好むのもよい、魚や鳥のような生きもの
  を喰べるのもよい、阿弥陀仏はすこしもとがめることはない。
  ひたすら念仏宗に帰依して南無阿弥陀仏の称名だけを信じれば、
  かならず後生のお迎えはやってくるぞと説いて、京洛も田舎も
  あげて念仏ばやりになった。ところでここに、院の小御所の女
  房、仁和寺の御室の母御がまともにこれを信じて、晦日に安楽
  房などいうやからを招きよせて、宗義の説教などを聴講しよう
  としたところ、また同行のものたちも現われ、夜なども泊めた
  りする乱脈ぶりもでてくるようになった。そのうち怪しく妙な
  具合になってきて、とうとう安楽房、往往などを斬首に処せら
  れた。法然上人も京洛に往むことまかりならぬということで追
  放された。このような処置がとられたので、すこしく下火にな
  ったようにおもわれた。けれど決然はあまりおかまいなしとし
  て、ゆるされて最後に大谷という東山で死亡した。そこで〈往
  生ヽヽ〉ということで人々があつまったが、さしたることもな
  かった。臨終の有様も増賀上人などのようにはいわれることも
  なかった。こういうこともあったので、これは昨今まで尾をひ
  いて、魚息女犯の行いだけはやめようもないというわけか。山
  の修行僧たちは騒ぎだして空阿弥陀仏どもの念仏を追いちらそ
  うとて、逃げるのを追いちらしなどしたのだろう。東大寺の炭
  車厨は、じぶんを阿弥陀仏の化身だと云いだして、しぶんの名
  を南無阿弥陀仏の名をとって、すべての人の上に一字をおいて、
  空阿弥陀仏、法阿弥陀仏などと名づけ、これをじぶんの名にし
  た尼僧などおおく出た。そのあげく法然の弟子たちのうちでも、
  こういう気狂いじみたことをいうものもでてきた。まことに仏
  法の滅亡もうたがいなしという末世のきざしである。こういう
  ことをかんがえると、旅には順旅逆旅というものがあるものだ。
  この順魔が念仏宗のようなゆゆしいことを教えるのである。弥
  陀一放列物価増のまことに実現される世には、罪障がほんとに
  きえて極楽浄土へゆくひともいるかもしれない。そういう世が
  東てもいないで真言止観がさかんにされるべき時世に、順旅の
  教に帰依して得脱する人があろうはずがない。悲しむべき乱脈
  の世になってしまったものだ。

   浄土教の新興を描いて生々しいが、慈円は、無智蒙昧のやか
  らだから、南無阿弥陀仏を称えれば浄土へゆけるというような
  蒙昧な言説に迷わされるのだと信じて疑わないため、そういう
  現象だけをつつき出している。しかし、内乱と飢餓のつづく世
  のなかで、ひとびとがどんな不安な心で生活を強いられていた
    か、また、信じられることがあるならば、どんなことでも信じ
    たいという切羽つまった心だけが、宗教の勣かしうる心である
    ということを、まったく理解しなかった。慈円の知識には律令
    朝廷の顕官や、大寺社の天台・真言の信仰はみえていただろう
    が、下層のひとびとの心はみ実朝の〈伝説〉化をくわだてたの
    もっぱら『吾妻鏡』であった。そして『吾妻鏡』の編著者えて
    かった。ひとびとの〈共同〉の迷蒙が、どんな根拠にたってい
    かを測ることができなかったのである。ひとびとが浄土教に燎
    火のようになびいていったその〈共同〉の迷蒙こそが、慈円の
    していた律令王権の制度的な迷蒙の鏡であるということが慈円
    に解けていたら、まずじぶんの天台・真言の知識を、いっさい
    制度〉から切り離そうとこころみたであろう。ちょうど道元が
    ように。知識は〈共同〉の迷順にたいして無力だが、知識はい
    いの〈制度的なもの〉からひき剥がすことによって、はじめて、
    づけの方向にむかうことができる。あたらしい宗派はこういう
    の仮面をかりて、金ぴかの開山〈伝説〉に転化するものだ、と
    ことを慈円は眼のあたりに如実に信っただろうが、そこからひ
    とが〈共同〉にもっている〈伝説)の深い契機をさぐる心をも
    かった。リアルな冷徹な眼が視うるものは、あらゆる〈伝説〉
    から貧寒な実体をさぐりだすことだが、問題はいつもそこでお
  るのではなく、そこからはじまるだけである。〈伝説〉が形成
   る契機となる民衆の〈共同〉の迷蒙は、その根拠を崩さなけれ
    ばけっしておわることはないといっていい。 
    実朝の〈伝説〉化をくわだてたのは、もっぱら『吾妻鏡』で
    あった。そして『吾妻鏡』の編著者に、実朝を〈伝説〉化する
    必要をおしえたのは、まだ浅い〈共同〉の伝統しかもっていな
    かった武門勢力であり、また実朝を〈伝説〉化するための方法
    をおしえたのは、たぶん、当時、おもに宗数的に常套になって
    いた聖徳太子説話だったのである。『吾妻鏡』を注意深くたど
    ると、いままで視えなかったものが視えてくるようにおもわれ
    る。

      元久元年
      四月十八日、辛亥。実朝将軍に夢のお告げかおり、岩泉観音
   堂に参詣があった。
      七月十四日、甲浅。末の刻、実朝将軍はにわかに痢病を発し
   た。
   十月六日、乙未。亥の刻大きな地震。
   十一月三日、辛酉。実朝将軍いささか病気の症状がある。
   建水二年
   四月十三日、戊午。浅の刻に実朝将軍体調悪くなる。
   四月十六日、辛酉。症状きわめて気色が悪く、相州義時の邸
   で折詰が行われた。鶴ケ岡八幡宮の供僧たちをたのみ、一日
   のうちに大般若経二郎を唱読せしめた。
   七月十四日、浅子。晴。月蝕(十分)かおり、また月がみえ
   るようになった。
   七月十九日、契巳。雨が降る。午と末のふたつの刻に大風が
   あり御所の百対屋がひっくりかえり、便所の掃除の女が二人
   がけがをした (中略)

   建保六年
   六月八日、戊申。晴。戊の刻、東方に白虹があらわれた。た
   だし片雲がたちならび、星のかげはまれである。夜半になり
   雨が降り、その変異はきえた。
   六月十一日、辛亥。くもり。卯の刻、西方に五色の虹があら
   われた。上一重は黄、次に五尺余ヘだてて赤色、つぎに青、
   つぎに紅柳色で、その中間は赤色が広くあつく、その色は空
   と大地に映り、しばらくしてきえて、雨が降った。
   十二月五目、契印。はれ。鶴ケ岡八幡宮の別当公暁は宮寺に
   参詣して、退出しない。また数ケの折詰を出し、除髪の儀を
   行わないので、人々はこれを径んだ。また白河左衛門尉義典
   をやって、大神宮に奉幣のため進発させた。その外、詰社に
   使節をたてた旨、今日御所に披露された。
                   (『吾妻鏡』より抄出)

                         この項つづく

風蕭々と碧い時代


Jhon Lennon   Imagine



● 今夜の寸評:(いまを一声に託す)



● 今夜の一枚の絵(水彩画): 2006.3 
  『ベッティちゃん』
   鶴岡 正博・作 





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