彦根藩二代当主である井伊直孝公をお寺の門前で手招き雷雨から救っ
たと伝えられる"招き猫"と、井伊軍団のシンボルとも言える赤備え。
(戦国時代の軍団編成の一種で、あらゆる武具を朱塗りにした部隊編
のこと)の兜(かぶと)を合体させて生まれたキャラクタ。愛称「ひ
こにゃん」。
【今日のひとり鍋ランチ ④:身欠き饂飩ひとり鍋】
そばをやめ冷凍うどんで「身欠き饂飩和風本だしひとり鍋」を5分で
調理し頂く。冷凍饂飩は、こしがありのど越しがよい。スープは和風
本だしパウダーと薄口醤油。具材は、ニシンと青ネギスライスとヨゴ
ミ切り餅とスパイスは一味と胡麻辛油を加えと、時短ランチ。最高!
但し、ニシンの後を引く魚臭を打ち消すため植物由来のホットミルク
を飲む(途中、米酢を加え酸辣湯風にアレンジする)。麺原料や調味
料・スパイス如何で、中華風・タイ風・ベトナム風・韓国風にもアレ
ンジできる。ヨモギかき餅を加えたの正解。寒い冬はスープたっぷり
でホカホカで節電になる余り物の即興レシピでした。
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✺ 核融合で「投入量を上回るエネルギーを生成」
核融合を起こすために投入したエネルギーを上回る量のエネルギーを
発生させる核融合点火に初めて成功したと、米国のローレンス・リバ
モア国立研究所が発表。悲願ともいえる目標の達成は「大きな科学的
進展」だが、実用化という真のブレークスルーへの道のりには課題が
山積。北カリフォルニアの研究所にある金メッキのドームの内部で、
ある科学者のグループが太陽にエネルギーをもたらす物理現象を短時
間ながら再現してみせた。2022年12月上旬の深夜に実施されたこの実
験は、水素原子を充填したコショウ粒ほどのペレットが入ったカプセ
ルに、192本のレーザーを照射。これらの原子は通常は反発し合うも
のだが、その一部がぶつかり合うことで融合し、エネルギーが発生す
るという仕組みだ。地球上の核融合反応のレベルからすれば、とてつ
もないエネルギーとなる。
■ 核融合に用いるエネルギー量の現実
問題はレーザーの効率が悪いことだ。NIFが用いた方法で核融合エネル
ギーを発生させるには、ホーラム(空洞)と呼ばれる金の筒に何十本
ものビームを打ち込み、300万℃以上に加熱することが必要になる。
レーザーが燃料を直接狙うわけではない。つまり、NIFが回収できた
エネルギーは、投入したものよりはるかに少ない。この意味でブレー
クイーブンは、もっと、はるか先の話。それは何十年も先の話。もし
かしたら、半世紀も先になるかもしれない(Dmitri Orlov, a research
scientist at the University of California, San Diego )。
【関連技術情報】
1.The Real Fusion Energy Breakthrough Is Still Decades Away,| WIRED
2022.12.13 11:11
2.“核融合実験 効率よく十分なエネルギー発生に成功” アメリカ , NHK
2022.12.14 16:28
【完全クローズド太陽光システム事業整備ノート ⑲】
【再エネ革命渦論 75: アフターコロナ時代 273】
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コンパクトでスマートでタフな①光電変換素子と②蓄電池及び③水電
解に④水素系燃料電池、あるいは⑤光触媒由来有機化合物合成と完璧
なシステムが実現し社会に配置されようとしている。誰がこれを具体
的に想定しただろうか。その旗手に常に日本や世界の若者達の活躍が
あった。
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● 技術的特異点でエンドレス・サーフィング
再生可能エネルギー革命 RE100 ➢ 2030 78
中世期最大の詩人のひとりであり、学問と識見とで当代に数すない実
朝 の心を訪れているのは まるで支えのない奈落のうえに、一枚の布
をおいて坐っているような境涯への覚醒であった。本書は、中世初の
特異な武家社会の統領の位置にすえられて、少年のうちからいやおう
なくじぶんの<死の瞬間>をおもい描かねばならなかった実朝の詩的思
想をあきらかにした傑作批評。
【目次】
1 実朝的なもの
2 制度としての実朝
3 頼家という鏡
4 祭祀の長者
5 実朝の不可解さ
6 実朝伝説
7 実朝における古歌
8 〈古今的〉なもの
9 『古今集』以後
10.〈新古今的〉なもの
11 〈事実〉の思想
実朝における古歌
補遣 実朝年譜
【著者略歴】 吉本隆明(1924-2012年)は、東京生まれ。東京工業大
学電気化学科卒業。詩人・評論家。戦後日本の言論界を長きにわたり
リー ドし、「戦後最大の思想家」「思想界の巨人」などと称される。
おもな著書に『言語にとって美とはなにか』『共同幻想論』『心的現
象論』 『マス・イメージ論』『ハイ・イメージ論』『宮沢賢治』『
夏目漱石を読む』『最後の親鸞』『アフリカ的段階について』『背景
の記憶』などがある。
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Ⅷ〈古今的〉なもの
定案は、このあとのところで、秀歌とおもわれる例をあげてい
るが、とくに本歌としてとるべき歌として、
君こずばひとりやねなむさゝの葉の
み山もそよにさやぐ霜夜を (清輔朝臣)
難波人すくもたく火の下こがれ (清輔朝臣)
上はつれなき我身なりけり
思ひきやしぢのはしがきかきつめて (俊成卿)
百夜も同じまろねせむとは
あたら夜を伊勢の浜荻折りしきて
いもこひしらにみつる月かな (基俊)
これらの作品は、たしかに優れた力量をもった歌人が、言葉を
練りつくしてつくったものにちがいなく、それなりにぴたりとき
まっている。ただこれらの〈秀歌〉のもっている白黒写真でのぞ
いた薄暮のような、あせた芭はなにによるのだろうか。いずれも
恋歌であるが、けっして明るいものではない。あるいは恋歌には
ちがいないが、いずれも恋の喪失のうたであるといってもよい。
恋人がこなければ、ささの葉が山にそよそよと葉擦れの音をたて
ている霜夜をひとり寝ようというのが、じっさいの失恋のうたで
あろうと、空想歌であろうと、聴いているのは耳ではなく〈心〉
が聴いている。いいかえれば象徴詩であって、経験的な現実との
つながりを、言葉は絶ちきっている。
実朝にこれをそのまま学べといっても無理であった。これらの
作品が〈秀歌〉であることは洞察できても、実朝の喪失感はもっ
と生々しい武門勢力のあつれきのなかから、直接にやってくる性
質のものであった。いきおい実朝の本歌取りは、定家のいう〈規
範〉にはあまり従っていなかった。
実作からもはっきりみてとることができる。ただ実朝はきわめ
て初歩的な歌作上の注意と、歌の創造をまず徹底的な模倣からは
じめよということを学んだといってよい。定案は、風ふり、雪ふ
き、うき風、はつ雲などというような簡単なことをまちがえたり、
つづかないのを、無理につづかせたりするのは見ぐるしいものだ
というような、初歩的なことも教えている。
定家が実朝にいっていることは、寛平以前の古歌をもとにして
本歌とりをやれということにつきるといってよかった。ただ、定
案の歌論は、もっと深みにまで達していたが、まだ実朝の詩才を
みぬくだけの材料がなかったのである。この問題は、定案のもっ
とも優れた歌論である「毎月抄」などで、もっとつっこんで展開
されている。
万葉よりこのかたの勅撰集をていねいによんでみて、変って
ゆく歌体のあとをのみこむようにすべきです。そのばあい勅撰
集の歌だからといって、必ずどの歌もいちいち学ぶのはよくあ
りません。人にともない世にしたがって歌の興りすたりがあり
ます。万葉は時代も古く、人の心もさえていて、現在のものが
まなんでも及ぶものではありません。ことに初心のときに古体
をこのむことはあるべきではありません。ただし、修練心つみ
かさねてじぶんの歌休心さだまったあとでは、万葉の風体を知
らない歌詠みはよいとは申せません。修練をつんだあとで万葉
を詠みならうとしても気をつけなければなりません。すべて詠
むべきでない歌体も歌詞もあります。よむべきでないすがた言
葉というのは、あまりに俗にちかかったり、また奇をみせるよ
うなたぐいのことを言います。
常に心ある体の歌を心がけて下さい。ただし、いつもこの体
が詠みうるとはかぎりません。服気がさして心底が動揺してい
るときは、いかによもうとおもっても、有心体ができません。
それを詠もうくと執していると、ますます性根もよわって正し
い風体がなくなることがあります。
そういう時は、まず景気の歌といいましょうか、歌体も言葉
も気をひきたたすように詠うと、心はなくとも、なんとなくよい
歌いぶりのようにみなされます。そういう掛合のこととしてと
くに心得ておられるべきです。こういう歌を、四、五言、十首
と詠んでいると、朧昧の気味がふっきれ、根機もうるわしくな
って、本体に詠めるようになります。また、〈恋〉とか〈述懐〉
などのような題を与えられたときは、ひたすら有心の体で詠む
べきとおもいます。この体でなければよろしくないと申せまし
ょう。だからこの有心体は、そのほかの九体をおおうべきもの
です。そのわけは幽玄にも心があるべきですし、長高にもまた
心があるべきで、残りの体でもまたしかりです。まことにまこ
とにいずれの体でも、ほんとうは心なき歌はわるいものといえ
ます。いまわたしが歌の十体のなかに、有心体をならべて挙げ
ているのは、そのほかの体の歌にその心があるというのではあり
ません。ひたすら有心の体のみを前提としてよむべき体として
えらび出したのです。いずれの体のばあいも、ただ有心体を含
んでいなければなりません。
また歌で大事なことは言葉の取捨ということです。言葉につ
いて強弱大小があります。それをよくよくみたうえで書き、つ
よい詞をひたすらつづけて書き、よわい言葉をまたひたすらに
つらねてかき、このようにしながら思いかえし推敲をかさね、
ふとみもほそみもなく、なだらかにききにくくないよう詠みな
すことがきわめて大切なことです。いってみれば、すべて言葉
にはわるいところもよいところもないようにすべきです。ただ
つづけ方で歌詞の勝劣があります。幽玄言目薬に鬼拉の言葉を
つづけて詠んだりすると、とても見苦しいことになりそうです。
だから心をもとにして言葉を取捨せよと亡父悛故郷は申しおいた
のです。ある人が花と実のことを歌の比にとって、古歌はみな
実をもっているが花を忘れ、近代の歌は花だけを心にかけて実
には目もくれないと申しました。もっともなこととおもいます
し、そのうえ、古今集の序にもそういう考えがあります。そう
いうことにつけてもなおこのほかに、わたしのかんがえを思い
めぐらしてみますと、こういう点を注意すべきとおもいます。
ここで実というのは心のことであり、花というのは言葉のこ
とです。かならずしも古歌の言葉がつよくきこえることを実と
いうとはかぎりません。古人の詠作にも心がない歌を実無し歌
というのです。今の人の歌で玉麗わしくただしいものを実の有
る歌と申します。さて、心をさきにせよと教えれば、言葉を次
にせよというように考えられてしまいます。言葉こそ大切にす
べきだというと、心はなくともよいと思われがちです。所詮、
心と言葉とをかねそなえたものをよい歌と申すことができます。
心と言葉の二つはただ鳥の左右の麹のようであるべきと思いま
ナ。ただし心と言葉の二つをともにかねそなえることは大切で
すが、心を欠いているよりは、言葉の拙ないもののほうがよい
のです。
また本歌のとり方は、さきにも書いたようなもので、花の歌
をそのまま花に詠み、月の歌をそのまま月の歌として詠むこと
は、熟達したものの技術というべきです。春の歌をば、秋・冬
の歌などに詠みかえ、恋の歌をば〈雑〉や〈季〉の歌などに詠
みかえて、しかも本歌をとったものだとわかるように詠むべき
だとおもいます。また本歌の言葉をあまり沢山とってくること
はすべきではありません。そのやり方はこれだとおもう言葉を
二つばかりとって、創作しようとしている歌の上旬と下旬にわ
けてとりこむようにしたらどうかとおもいます。たとえば、〈
夕暮は雲のはたてに物ぞおもふ天つ空なる人をこふとて〉とい
う歌をとろうとするときは〈雲のはたてに物思のみ〉という言
葉をとって、上旬と下旬において、恋の歌ではない〈雑〉・〈
季〉の歌として詠むべきです。いまでもこの歌をとるとて、〈
夕ぐれ〉という言葉も取りそえて詠んでいるたぐいもあります。
〈夕ぐれ〉などはとり入れたとてどうということもなく、わる
い評判もありません。優れていてこれぞとおもう言葉を、それ
だけでとり入れることがわるいのです。また、あまりに少しし
か本歌をとらなかったので、その歌をとって詠んだともみえな
いのは、せっかくの甲斐もないことですから、よろしくこれら
のことを心得てしかるべきものと存じます。
吉本隆明全著作集(続)作家論Ⅰ
源 実朝 Ⅷ <古今的>なもの
筑摩書房刊
この項つづく
✔ 大河ドラマは最終回を迎えるというのにどうするか迷い、一旦、
『実朝論断想』に飛び、年明けから残りを読み進め、年末・新年明
けに係わる実務を優先する。