自ら足れりとし、自らよしと するのは、夜郎自大というて、
最も固陋(ころう)、最も鄙吝(ひりん)な態度なのじゃ。
南国回天記
【再生可能エネルギー百パーセント時代 Ⅰ】
● エタノールから電力変換できる触媒ができたって?
バイオエタノール燃料をディーゼルエンジンなどの内燃機関で燃焼させて電力を得るためには、
数百度の高温で空気と燃料を反応させ、窒素酸化物や一酸化炭素など有害排気ガスが発生する。
クリーンなエネルギーをえるには、エタノールを用いたポリマー電解質膜燃料電池の研究が進め
られてきた。これは、水素やメタノール、エタノールなどの燃料分子を電気化学的に酸化し、化
学エネルギーを電力の形で取り出すことで、酸化分解すると無害な水や二酸化炭素に変わるため
有害な排気ガスが発生しない。
エタノール型の燃料電池Cの開発がなかなか進まなかった要因の1つに エタノールが持つ「炭素
ー炭素結合」を効率よく切断できる触媒がなかった(上図/上)。今回、物質・材料研究機構の
阿部英樹らの研究グループは、常温常圧でエタノール燃料から効率よく電力を取り出せる触媒の
開発に成功する。発見した新たな触媒は、タンタル(Ta)と白金(Pt)で作るTaPt3合金ナノ粒子
で、常温・常圧でエタノール分子の炭素ー炭素結合を切断して電力を取り出すことに成功(上図
/中)。 このTaPt3ナノ粒子を触媒として使用し、常温常圧の水溶液中のエタノール燃料の酸化
実験を行い、高いエタノール酸化電流密度を実現(上図/左下)。また、TaPt3ナノ粒子を組み込
んだ燃料電池は、従来触媒のよりも高い出力密度を実現できたという(上図/右下)。
今後の解題は、まず、TaPt3ナノ粒子の合成収量向上――現時点の合成収量は数10ミリグラムだが、
これをPEMFC1スタックに必要な数グラムレベルに引き上げる――をめだすとのこと。それにして
もどう言うことだ、10数年前の事業開発としてバイオエタノールに焦点を当て調査した頃を考え
ると、そのころの事業絞り込み調査の全てが順調に進展しているではないか。これは驚きだ。
ところで、タンタルとの関わりを考えていたら、写真製版適用技術の1つのプロセスであるレジス
トの架橋剤のクロム酸廃液のリサイクルの減圧濃縮装置にチタン+ステンレスの蒸発缶に使ったこ
とを思い出した。いまもあるかどうか分からないが昭和鉛鉄という会社に発注した記憶がある(※
2004年に株式会社SPFに社名変更している)。
「古賀の乱ってなんだ "I am not ABE"」(『進撃のヘーリオス Ⅱ』2015.04.04)で 触発され
るように、積んでおいた本を取り出し読みはじめた。そして、この国の政体を考えみよう。その
結果、どのようになろうとも未来志向できる手がかりを明らかにしたという動機から掲載してい
きたい。まずは第5章から読み進める。
福島のメルトダウンは必然だった…政府閉鎖すら起こる2013年の悪夢とは!?家族の
生命を守るため、全日本人必読の書。「日本の裏支配者が誰か教えよう」。経産省の現役幹
部が実名で証言。発電会社と送電会社を分離する発送電分離。このテーマについて本気で推
進しようとした官僚が何人かいた。あるいは核燃料サイクルに反対しようとした若手官僚も
いた。しかし、ことごとく厚い壁に跳ね返され、多くは経産省を去った。私も十数年前、発
送電分離をパリのOECDで唱えたことがあるが、危うく日本に召喚されてクビになるとこ
ろだった。その理由とは何だったのか――。(「序章」より)。改革が遅れ、経済成長を促す
施策や産業政策が滞れば、税収の不足から、政府を動かす資金すらなくなる。そう、「政府
閉鎖」すら起こりかねないのだ。いや、そうした危機感を煽って大増税が実施され、日本経
済は奈落の底へと落ちていくだろう。タイムリミットは、ねじれ国会を解消するための参議
院議員選挙がある2013年、私はそう踏んでいる。(「まえがき」より)
古賀 茂明 著『日本中枢の崩壊』
目 次
序 章 福島原発事故の裏で
第1章 暗転した官僚人生
第2章 公務員制度改革の大逆流
第3章 霞が関の過ちを知った出張
第4章 役人たちが暴走する仕組み
第5章 民主党政権が躓いた場所
第6章 政治主導を実現する三つの組織
第7章 役人―その困った生態
第8章 官僚の政策が壊す日本
終 章 起死回生の策
第1章 暗転した官僚人生
中曽根元総理の「これは革命だよ」
さて、その後、安倍政隆は渡辺大臣の奮闘の成果である国家公務員法改正を成し遂げたも
のの、民主党の消えた年金攻撃の前に支持率が低下、参議院議員選挙に惨敗し、最後は安倍
総理の体調不良も重なって、2007年8月17日に退陣に追い込まれる。
その後を継いだ福田康夫総理は奇をてらう政策を嫌うオーソドックスな自民党の政治家で
ある。われわれ改革漱は、公務員制度改革は大きく後退するだろうと予想した。案の定、福
田総理は公務昌制度改革についてはほとんど熱意を示さないばかりか、むしろ官僚の側につ
いて渡辺大臣の改革案の実現に抵抗したようである。
安倍内閣のときに「公務員制度の総合的な改革に関する懇談会」(有識者懇談会)という
総理の諮問機関ができていた。有識者懇談会には堺屋太一、尾山太郎、佐々木毅といった改
革に熱心な論者が参加。堺犀氏が官僚を排除し、その後の公務員制度改革の基本構想を報告
書としてまとめ上げた。後の『国家公務員制度改革基本法」のベースになるものだ。
官僚から見ると驚天動地の内容を含んだ究極の改革案に対して、おそらく官邸官僚にその
危険性を吹き込まれたのだろう福田総理は、その報告書の案を渡辺大臣に示されたときに受
け取りを拒否したほどだったという。最後にはこの報告書を受け取るのだが、そのときも、
「日本は政治家が弱いんですよ。こういう国では官僚は強くなければいけないんですね」と
いう迷言を残したそうだ(この間の経緯は渡辺喜美氏の著書『絶対の決断』に詳しい)。
この間、官邸の官僚はもちろん全省庁の官僚か敵に回ったのは当然としても、政府内でも
官房長官などが官僚側に立って、渡辺大臣の改革の足を引つ張ったという。自民党の行政改
革推進本部も同様だった。つまり、政府与党が官僚と.体となって渡辺人臣の改革をつぶし
にかかったのだ。
詳しいことは後に述べるが、国家公務員制度改革基本法は、抜本的な公務員制度改革の哲
学を示すとともに、「国家戦略スタッフの創設」「内閣人事局の創設」「キャリア制度の廃
止」「官民人材交流の促進」などを柱とし、実際に改心すべき項目そしてスケジュールを網
羅的に盛り込んだものだ。
公務員制度改革の歴史のなかで、ここまで踏み込んだ改革の議論がなされたことはない。
中首根康弘元総理か「これは革命だよ」といったそうだが、霞が関の旨抗は並大抵でなく、
福田政権で孤軍奮闘、公務員制度改革を推進する渡辺喜美大臣の周囲には悲壮感さえ漂って
何度も頓挫しそうになりながらも、渡辺大臣の情熱と原袖佐官らの緻密なサポート、マスコ
ミを巻き込む作戦が功を奏して、国家公務員制度改革基本法は、なんとか成立にこぎつける。
2008年6月6日、この法律が衆議院内閣委員会で可決された後のインタビューで、渡
辺大臣が涙をこぼしたのを見ても、この法律の誕生がいかに難産であったか、想像がつこう
というものである。
渡辺大臣と仙谷大臣の違い
国家公務員制度改革基本法の成立は、堅く閉ざされた伏魔殿の扉をようやくこじ開け、こ
れから続くであろう茨の道の出発点にやっと立てたという段階に過ぎない。大きな一歩では
あつたが、本当の.正念場がやってくるのは成立後だった。そして、その茨の道を、私が一
人で歩くことになるとは夢にも思っていなかった。
基本法では、総理をトップとする閣僚クラスで構成される国家公務員制度改革推進本部を
設置し、そこに顧同会議という外部有識者の会議を設けて具体化への検討を始めることにな
っていた。また改や進本部には参務局を設け、その作業をサポートする体制となっていた。
この顧問会議と事務局がいねば実行部隊である、ここが今度は霞が関との激しい攻防の場と
なる。
基本法に則った改革が成功するか否か、その一つの鍵を握っているのは、改革推進本部事
務局のメンバー選定だった。普通、事務局は各省から出向した官僚で構成する。しかし、事
が公務員制度改革ゆえ、官僚中心の事務局であれば、改革は骨抜きにされかねない。
それが痛いほど分かっている渡辺大臣は、民間出身者を数多く起用するなど、民間の活力
を入れた。しかし、霞が関のこするいやり方を知らない民間出身者かいくら束になってかか
っても、官僚スタッフにうまくやられる恐れが強かった。
そこで渡辺大臣が事務局幹部の一入として強力に推薦したのが私だった。当時、急進的な
改革派とのレッテルを貼られている私の抜擢には、官邸や財務省に根強い拒絶感があったと
聞いている。
渡辺大臣に当時間いた話では、福田総理も私の登用に難色を示したという。私は耳を疑っ
た。私は福田総理とは一度も会ったことかなかった。二橋正弘官房副長官か反対していると
も聞いたが、ニ橋氏とも面識はなかった。つまり、二橋氏以外の官邸宮原が私の採用を阻止
しようとしたのだ。後に仙谷行政刷新担当大臣が私を登用しようとして断念したのと酷似し
た状況である。
にもかかわらず、私の起用が決まったのは、渡辺大臣の熱意が勝つたからだ。官僚の差し
金を跳ね返しての強攻策である。後に述べる通り、仙谷行政刷新担当大臣は当初、私を登用
しようとしたが、霞が閲の反対に遭うと、あっさりと方針を転換したという。ここが仙谷大
臣と渡辺大臣の力の差である。覚悟の違いといってもいいだろう。
改革を成し遂げる人と妥協で道を誤る人。両方を私は目の前で見たことになる。貴重な体
験だ。
卑劣な手段に出た元総務次官
かくして私は、2008年7月に発足した国家公務員制度改革推進本部事務局の審議官に
就任した。しかし、その出だしか、実は私の官僚人生暗転の始まりだとは、夢想だにしてい
なかった。
官邸でのすったもんだがあったため他の幹部はすでに着任しており、私だけ遅れて7月こ
8日に着任した。事務局内の管理職で改革派とはっきり分かっていたのは、原英史、石川和
男(元経済産業省)、機谷俊夫(元オリックス球団代表)、菅原品子(経済同友会部長)各
氏(いずれも企画官)と、その他.部の民間人と数名の若予言愕くらいである。後はほとん
どが守旧派または事なかれ派だとすぐに分かった。五分話せば分かるほどはっきりしていた
といっていい。各省か既得権確保のために送り込んだ、いわば精鋭部隊だ。
もちろん若手には、他にも改革の気概に燃えている者がいたかもしれないし、議論してい
けば改革の意味を理解してくれる人もいただろう。しかし、守旧派のオルグも徹底していた。
いずれにしても少数派に甘んじるしかない。それでも、渡辺大臣のりIダーシップのもとで
少数派か主導権を鯉る、それが私の作戦だった。
ところが、である。それから数日も経たない8月1日、福田政権の内閣改造によって渡辺
大臣は退任させられてしまうのだ………
守旧派の防波堤の役割を果たしてくれるはずの渡辺大臣の退任が決まって、払は途方に暮
れた。当時の気分を振り返れば、無人島に島流しにされたような、といえばいいか。気を取
り直して改革派を中心にして一から議論を始めたものの、すぐさま官邸内の守旧派官僚の激
しい抵抗に晒された。
しかも、政策論争ではない。霞が関の上層部がこぞって敵に回り、事務局内でも、改革派
官僚の旗頭と見られていた私へのゆえなき誹謗中傷が始まったのだ。
「古賀の主張は全部、経産省の陰謀だ。古賀は一部の官僚に特権を与える仕組みを作ろうと
画策している」との趣旨の資料がカラーコピーされ、マスコミや労働組合だけでなく、驚い
たことに民間から出向していた事務局員にまでばら撒かれたのだ。
加えて、そんな卑劣な手段に出たのが事務局次長の一人(元総務省次官)と知って、私は
一層、暗澹たる気分に陥った.
それでも政治か公務同制度改革に積極的ならば救いもあったが、政権与党の自民党の多数
派は霞か関寄りでやる気が感じられない。もちろん、自民党のなかには、中川秀直、塩崎恭
久、河野太郎、柴山昌彦、菅原一秀、衛藤晟一、山本一太、世耕弘成、丸川洙代、平将明、
そして、前大臣の渡辺喜美各議員といった熟心な先生方がいたものの、あくまで少数派でし
かなかった。
当時、われわれ改革派を援護してくれたのは、皮肉にも野党だった民主党である。民主党
の行政改革調査会の幹部は改革に熱心な議員が多く、なかでも「3M」と称されていた松本
則明(行革調査会長)、松井孝治{同会事務局長)、馬淵澄夫(同会天下り・談合拒絶担当
主査)の三氏による事務局守旧派の暗躍への糾弾で、少数漱だったわれわれが劣勢を跳ね返
した時期もあった。
だが、民主党の支持母体の一つでもある労働組合が真っ向から改革に異を唱え始めると、
行政改革調査会の幹部たちの声もトーンダウンしていく。
福田総理退陣の直後に
政府内では誰もやりたくない改歌を成し遂げるにはどうしたら良いか。世論を喚起するし
かない。これが私の考えだった。国民の支持、これが究極の支えである。
世論喚起の殼大の推進力が顧問会議だった。福田総理は当初、顧問会議について、官僚推
薦を中心とする穏健な人選を進めていたという。渡辺大臣の後任の茂木敏充大臣もそのライ
ンに乗りかかったが、渡辺大臣か、もし、いい加減な人選をするなら外から徹底攻撃するぞ
と脅しをかけてくれたそうだ。その結果、堺屋太一、屋山太郎という改革急先鋒がメンパー
に入ることになる。この他、佐々木毅学習院人教授、桜井正光経済同友会代表幹事が、その
後の改革の推進役になっていく。
守旧派は当然のことながら、この顧問会議に陽が出「たることは避けたい。発信力のある
メンバーに正論を見張されると、世論がそれになびく恐れが強い。なるべくその開催回数は
少なくしたいし、会議の内容もできれば隠したい。
そういう思惑で、第一回顧問会議は、高田総埋か退陣表明した2008年9月1日直後の
9月5日に行われた。福田総理の第回の会議での挨拶は、「私がその最初をこうやってお目
にかかって、おしまいになってしまうということは非常に残念でございまして申し訳なく思
いますけれども」という何とも気の毒なものになってしまった。要するに「こんにちは、さ
ようなら」とだけいわせたのだ。
内閣の力が一番落らているときを狙って、役所主導で進めようという魂胆が見え見えだ.
こんな会議をよくも強行したものだ。さらに驚いたことに、第二回は福田内閣総辞職の前日
の9月23日に行った。明日なくなる内閣の大臣ではやる気もないだろう、ということだ。
しかも、第一回の会議はわざとインターネット中継なしで行う。顧問会議から中継せよと
いわれると、分かりました、といって第二回は中継するというが、当日になると手違いで中
継できません、という。結局、中継は第三回からになった。
顧問会議か公開になると、今度はその下にできたワーキンググループを非公開にしようと
する、第.回は勝手に非公開にしたが、これもメンバーから異論か出て公開になった。
極めつきは、ワーキンググループのコントロールに失敗すると、ついに役人だけの検討会
議なるものを作ったこと。役人だけだからメンバーは誰も公開しろなどとはいわない。内密
に検討が進むことになった。すべてがこんな具合だ。
ちなみに、2010年に話題になった天下りの代わりに現役のまま独立行政法人や政府系
機関、民間企業に高齢職員を出向・派遣しても良いことにする案や、窓際の高給スタヅフ職
の創設などは、官僚だけで行うこの検討会で当時から密かに練られた案だった。しかも、実
はそのような検討を勝手にするのはけしからん、といって顧問会議に検討を止められていた
にもかかわらず、それを無詞して官僚の独断で進められた極秘作戦だつたのだ。
ここから分かる通り、公務員制度改革は、密室で官僚に案を作らせては決していけないの
だ。基本法とその政令ではっきり決めた通り、顧問会議という公開の場で、国民にすべての
議論を公開しながら進めなければならない。公開を没入が嫌がるということは、逆にいえば
公開することか効果的だということだ。
政隆交代後、民主党は公務員制度改革の案を作ったが、労働基本権の問題を除けば、まさ
に、密室で官僚が作った案をベースに話が進んだ。なぜ顧問会議を無視するのか。政令で設
置が決まっているのに、これを無視した。公開の場でやれば、組合に都合の悪い議論が出て
きて、これに抵抗しにくくなるからではないかと思う。これではまともな改革などできない。
民孔党の政策決定のやり方はこういう例が多い。誰がどういう権限でどう決めていくのか、
はっきりしないことが多すぎた。
事業仕分けがその典型だ。仕分け人がどういう権限でどこまで決められるのかまったく分
からないまま、結局、最後はまったく無視されて、どうしようもないという床たらくである。
やはり、法律・政令でしっかり権限と組織を明確化して検討、決定すべきである。
税と社会保障も同じ。自民党政権時代に法定された経済財政諮問会議も法律は存在してい
るが、これも活用しなかった。その代わりに、法律に何も澄いていない様々な会議や組織か
権限等が不明確なまま、服要な政策立案・決定に携わってきたのだ。弁護士の仙谷由人氏や
枝野幸男氏など法律の専門家が多い割りに、はなはだ杜撰な国家運営だったといわざるを得
ない。
子細に知れば知るほど、小狡く鄙吝な集団?への暗澹な思いを禁じえない。
この項つづく
● ポスト大阪都構想論 Ⅱ
『改革反対の合従連衡派』
しが彦根新聞 押谷盛利
23日付「大阪の将来を潰した反対派」の時評は多くの読者から賛成の意見を頂いた。こ
のなかで、ぽくは橋下維新が圃いた大阪都は日没する大阪ではなく、東京と比肩する日本の
第2首都構想によるもので単なる大阪経済の地盤沈下対策ではないと書いた。そして、その
時評の末尾で、なぜ、自、公、共、民、社など与野党の混成集団が大阪都に反対したのか。
彼らを「井の中の蛙」集団ときめつけたぼくは「なぜ改革に反対したのか」と疑問を投げか
けながらも「それは現状の生温い湯に浸かって、自分たちの地位、利権にあぐらをかきたい
からである」、「彼らにはあしたの大阪がなく、あしたの自分が存在するだけである」、と
も書いた。
あらためて、なぜ、改革に反対したのか、所見を述べる。
歴史をさかのぼれぱ、日本に仏教が入るとき、これを歓迎するか、反対するか、大論争が
起き、反対派の物部氏が賛成派の蘇我氏に滅された。
後醍醐天皇が幕府から政権を奪回しようとした際、賛成派の新田、楠木を破って、最終的
に反対派の足利尊氏が幕府体制を継続した。
明治維新前夜、薩、長、土の反体制派(反幕派)の改革に対して、徳川方の石頭は近藤勇
などの暴力集団をつかって改革を阻止しようとした。
歴史が証明するように、改革には必ず反対勢力が立ちはだかるしかもその反対は共通して、
いままで通り、既往の路線継承だった。それは、改革によって自分たちの安住の場がくつが
えされるという自己保身からだった。
今回の大阪都構想は、安倍総理以下、政府も好意的、賛成派だった、にも拘わらず、大阪
の自民党は反対の旗振りをした。民主、公明、共産、社民はみな反対したが、これは大阪府
議栽大阪市議会で最大の組織を誇る維新を潰すのが、自分たちの生きる道につながる合掌連
合のさもしさである。
そこにあるのは、いままで通りの市会議員で幅をきかし、大阪都による市議失職を防ぐ自
己防衛心だけである。
ぼくは合従連衡という難しい言葉を出したが、これは古代中国の戦国時代に由来する言葉
で、そのときどきの状況に応じて、いくつかの勢力が結びあうことをいう。
要するに、自分たちの政治的生命を安定し、いついつまでも続けるには維新を叩くしたか
ない、というのが反対派の連合軍の真意であり、言葉を換えれば、改革によって、自分たち
の政治的ポストや力を失うことを恐れたからである。それは自分たちの保身優先で、国家や
大阪の将来への関心はゼロというべきだった。
大阪都構想は他の府県や市町では将来のあるべき姿として評価されていることも知らねば
ならぬ。
読売19日「滋賀販]によれば、三日月知事は「今回の投票は住民の意思を尊重するプロセ
ス自体は意義があった」「関西から元気な地方をつくっていこうとし、行政の改革に斬り込
もうとする志の根っこは通じるところがある」と好意的に述べている。また、大津市の越直
美市長は、「大阪がきっかけとなって地方自治体のあり方を考え直し、日本が変わる大きな
チャンスだったが残念」とコメントしている。連合軍の日本に与えた損失は計り知れない。
維新よ、国民の支持と期待を忘れるなかれ。
賢者は歴史から学ぶとは言い古された常套句で、ここでの用法が適切かどうかは読者に委ねると
して、この時評は真っ当だと考える。
4Kビデオを貴方の部屋に、デジタルディスプレイする。そんな時代が来ている。