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ネバダ!長崎!福島!

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       日本がアジア諸国の独立を促したというけれど、
                  占領地の民衆に対してどんなふるまいをしたのか、
                  それはひでえことをしたってことを、
                  ちゃんと裏にくっつけておかないとダメなんです。   
      
                                 吉本 隆明

 

  

● 日中食品汚染 17 中国の食品汚染地図  

【目次】 

   第1章 見えない食品の恐怖
 第2章 中国の食品汚染
 第3章 食品汚染のヒトへの影響
 第4章 なぜ汚染連鎖が絶ちきれないのか
 第5章 重金属汚染という新たな難題
 第6章 日本の食品は安全といえるか  


 第4章 なぜ汚染連鎖が絶ちきれないのか

  "忌農’農民

  農民の高齢化と後継者不足は日本と同じで、今後さらに強まることが確実だ。最近の
 農民の平均年齢は50歳程度に上がり、力のいる農作業を敬遠したり、大根や白菜、キ
 ャベツなどの重涼野菜を栽培することもなくなり、ホウレンソウ、チングン栗、ニラや
 生姜、ニンニクや落花生、人参などの軽い葉物野菜や根菜に目を向けるようになった,
  今や農民は何を作っても自由だ。また、大豆のように作りにくく収穫の面倒な作物を
 栽培しなくなり、その結果として、遺伝子組換え大豆の輸入が急増するなどの影響をも
 たらしている。
 
  こうしたことが土づくりをますます面倒な作業におとしめ農民の土離れ、土壌汚しを
 広めていった。ただ増産のために化学肥料をまくだけまき、農薬も使いたいだけ使い、
 現金収入を高めたいというのが農民に共通の思いである,
  使命感が消え、仕方なく農業をする農民が増えているのだ。
  背景には、農民の所得や社会保障制度が不十分で、都会に住む者とのさまざまな格差
 が拡大し、しかも共産党や地方政府の幹部の中にはあまりにも農民を蔑視する者が増え
 てきたことへの反感もある,この反感には、あらゆる社会的権利を失っている農民によ
 る非暴力の異議申し立て、あるいは抵抗という色彩も否定できない。

  さきごろ中国政府は2012年の「信訪」(土地を奪われた農民などが、その取り消
 しや補償を求めて、より上級の政府へ直訴すること)件数が全国で600万件に及んだ
 ことを公表した,政府が隠してきたデータを公表したのは何らかの狙いがあってのこと
 だが、農民の不満は、そのまま農業という自分たちの職業に対する不満でもある。農業
 を忌避する農民すなわち、”忌農”が増加しているのだ。
  ”忌農”の特徴は農業から一刻も早く足を洗いたいと願っていること、息子や娘には
 絶対に農業を継がせたくないと思っていることだ。忌農の増加は農民の社会的モラルの
 低下や欠如をもたらしている。しかしだからといって、彼らを責めることができようか? 

  問題は、忌農からくるモラルの低下が、土壌や農産物の汚染に関心を向けなくさせて
 いることである。
  農民たちは、農地が自分たちのものではないことを実感するようになっている。所有
 権という言葉があることは知っていても、それを使ったことは一度もないという農民の
 なんと多いことか。このことばの意味さえ知らない農民もいる。
  ひと頃までは農民に聞くと、この農地は自分のものだと答える者が多かった。ところ
 が最近は政府のものだ、と明瞭に答える農民が増えた。農地は国からの借り物という農
 地請負制度の趣旨を農民自身がようやく理解するようになったのではないか。自分のも
 のでもないのに、投資をしたり、土壌保全をする気は起きないというのだ。農地は汚れ、
 その結果、農産物も農薬や雑菌で汚れるのは自然の理だ。

  このような現状を打開する決め手はないが、まずは農地請負制度を転換し私有化を認
 めることだ。中国でも、わたしと同じ意見を持つ勇気ある学者が徐々に増えている。こ
 のことは、農民のため、ひいては国民のためにも望ましいことではないだろうか。

                          薬食同源の文化が災いに?

  皮肉にも中国の食文化といわれる中にも、食品汚染を構造的に慢性化させる要因が潜
 んでいる。
  中国には古来から「薬食同源」(日本では「医食同源」というが、これは四文字熟語
 としては体をなさない)※、「四性五味」という食文化があり、食べ物は薬のように身
 体を癒し強くすると信じられてきた。現在でもこの考え方は変わっておらず、日本人以
 上に食へることにはこだわりがある。中国人にとって、食べることは空腹を満たすだけ
 のことではない。
  では、なぜ食品汚染問題が起きているのかといえば、食品とは薬と同義であり、ここ
 には汚染などはないものだという過信があったからだ。科学の発展が実は食品が汚染さ
 れていることを発見し、その危険性を啓蒙し始めたのは食品衛生法ができた1995年
 頃のことである,「薬食同源」という食文化が生み出した食品への過信が皮肉にも汚染
 を生んで、容易に改善されない状況を生んでしまったともいえる。

  四性五味の四性は冷たい、熱い、温かい、涼しい、の意味で、五味はやい、甘い、酸
 っぱい、苦い、塩辛いを指す。この点は、日本食にも当てはまる,
  ところが具体的な料理や食べものとなると、同じ四性五味でも、中国と日本では、相
 容れない結果になることがある。たとえば臭豆腐、鶏の足料理、犬肉などは日本人にと
 ってはそもそも食べものではないし、反対に、くさや、納豆、卵かけご飯、鶏の臓物の
 刺身などは中国人にとっては食べものであって欲しくないものだ,文化はよその国の文
 化で変えることはできずたがいに尊重すべき価値あるものだ。

  薬食同源、四性五味は食品の種類を増やし、四本足のものはテーブル以外、飛ぶもの
 は飛行機以外何でも食べると揶揄されるような中国の食文化を生み、一方で海に囲まれ、
 山林が国土面債の約70%を占め、温帯性気候の日本では、多種類の農林畜水産物を反
 映した食文化を生んできた。しかし、ある意味で共通するこの豊かさが、我われに食品
 汚染の構造的な罠をしかけているとはいえまいか。

  ※ 医食同源(左図の上をダブルクリック)


自然を相手とする農業は奥が深くて手間がかかり、工業製品とくらべ生産性は遙かに低い。
したがって「都市部」がら「農業部」に様々な「贈与経済的制度」を必要としていることに
正当性が認められのだが、それが「忌農」「蔑視」の温床となり、こころない政体がこれを
利用してきたことは、程度の差はあれど日中でも同様である。もっと、欧米によ反共封じ込
み戦略下での、中国は「大躍進」のような逆政策を取ったものの悲惨な経験をしているが、
欧米先進国では、国家安全保障として、農業の手厚く保護(関税・買取り・補助金・農業従
事者の準公務員化)保護され解消されている。いずれにしても、今世紀に入り植物工場に象
徴されるような農業の高次化により、消滅する段階に入っており、このような”忌農”は死
語となっていくだろう。


                                 この項つづく

 

 【縮原発論 Ⅱ: 核ごみ廃棄処理のススメ】

  目次

  第1章 日本人の体内でおそるべきことが進行している!
  第2章 なぜ、本当の事実が、次々と闇に葬り去られるのか?
  第3章 自然界の地形がどのように被害をもたらすか
  第4章 世界的なウラン産業の誕生
  第5章 原爆で巨大な富を独占した地下人脈
  第6章 産業界のおぞましい人体実験
  第7章 国連がソ連を取りこみはじめた
  第8章 巨悪の本丸「IAEA」の正体
  第9章 日本の原発からどうやって全世界へ原爆材料が流れ出ているのか

   第1章 日本人の体内でおそるべきことが進行している!

                  セント・ジョージで起こった恐怖の事件

  アメリカ合衆国ユタ州の町、セント・ジョージの葬債屋エルマー・ピケフトけ、町の
 異常に気づいていた。それは今を去るほぽ60年前、1956年のことだった。それま
 では、癌による死亡はどく稀だったが、その年になって突然、癌で死亡する人が増加し
 はじめた。それがただ増えはじめただけでなく、彼の手で埋葬される人がほとんど癌死
 者になってしまうという、驚くべき変化が起こってきた。まったく信じ難い事 態だっ
 た。

  ルビー・マティソン夫人は、夫ジョゼフの死について、こう語っている。
 「癌で死んでゆく人を見たことがなければ、決して分らないでしょう。あれは、おそろ
 しい死に方でした。最後にジョゼフは、あまりの辛さに自分の手の甲をかきむしり皮を
 すっかり剥ぎ取ってしまいました。血だらけKなりながら死んでいったのです」

  翌年の1957年になっても、痛死者の洪水は止まらなかった。
 ――セント・ジョージの町に、なKかが起こっているのではないか。
 1958、59、60年……おそるべき事態は続いた。セント・ジョージの癌死亡率は
 同じユタ州でのほかの地域に比べて、遙かかに高くなっていた。
  セント・ジョージの不幸は、葬儀屋エルマー・ピケット自身の不幸に変った。妻だけ
 ではなく、妹が、姪が、祖母が、4人の伯父が、妻の母が、妻の妹が、泊母が……と、
 果てしなく死んでいった。それは、すべて癌による不幸だった。そして結局、これまで
 に彼が失った家族と親類の数は11にも達しでいる。

  エルマー・ピケット自身、甲状腺に障害を来たしついに外科手術を受ける日を迎える
 ことになった。
  セント・ジョージの町に住むアーマートマス夫人の場合は、通りを一本へだてた家で、
 カールとヱルニーが癌で死に、カールの妻が発癌していた。
  その隣の家では、まだ小さな子供が白血病で死んでいた。
  その並びには、トマス夫人の妹が住んでいたが、彼女も乳癌で死に、その夫が発癌し
 ていた。
  ウィルフォードも癌になっていれば、妻のヘレンも胃癌で死んでいるのだ。 
  彼女の家の周囲わすか一区画だけで、30人が癌にかかり、そのうち10人が死亡し
 ていた。



  こうしてトマス夫人が自分のノートに記録し続けてきたセント・ジョージの癌患者は、
 1980年頃までに200人にものぼった。この200人がすべてトマス夫人の知人だ
 った。
  なお悲惨なことに、この”不幸なリスト”に書きこまれた名前のうちの半分に、赤い
 チェックの印が付いて忖してある。葬儀屋エルマー・ピケットの于に委ねられ、すでに
 埋葬された人びとの名前だった。しかしそれは、死亡年齢から見て、いずれも。早すぎ
 た”埋葬″に該当する。

  ジェフリー・ブラッドシーウは、25歳の若さで骨盤K価を生じ、外科手術で脾臓を
 取られ、脳腫瘍のためにほとんど視力を失っている。
  デイヴ・ティモシーは18歳の時に、悪性の甲状腺腫瘍を発病し、7回以上もの手術
 を受けながら、ようやく生きながらえているが……この青年の場合、2人の甥……3人
 の伯父が癌で死んでいる。デイヴ・ティモシーの治療に当たっていた医師2人も、癌の
 ために死亡している。

  アーマートマス夫人も、自分の昧と夫の妹が、どちらも癌のために死んでいる。それ
 は1964年のことだった。
  さらに夫が15年来の癌のため治療を受け、4人の娘のうち2入は子宮癌の疑いから
 子宮切除除の手術を受け、もう1人は三度の流産を休験し、最後の1人が重度の筋肉疾
 患に苦しんでいる。彼女のかつてのクーラスメイトのうち、70人もユタ大学病院で甲
 状腺の手術を受けたという。

  思い返してみよう、2001年9月11日にニューヨークで世界貿易センタービルに
 航空機が突っこみ、ビル大崩壊事件(9・11事件)か起こって、全米が衝撃を受けた
 翌年、2002年に厳戒態勢のなかで冬季オリンピックが開催された都市、それがユタ
 州の州都ソルトレイク・シティーである。そのソルトレイク・シティーのユタ大学病院
 では、ジョゼフ・ライオン博士らが、調査を続けていた。
 
  その調査内容は、”ユタ州の小児癌”に関する一論文として、ポストン発行の医学・
 誌(“The New Engrand Jounal of Medicine"1979年2月22日号)に発表された。
  ライオン博士らは、顕著な被害の出ているユタ州南西部を中心とする17の郡と、州
 内のほかの郡について、実に32年間という長い歳月を対象として、15歳以下の小児癌
 の発生状態を調べてみたのである。

※ "Childhood Leukemias Associated with Fallout from Nuclear Testing" The New England Jour-
         nal of Medicine " February 22, 1979 issue

  この連続した332年間を、A、B、Cの三つの期間に分けてみた。

  Aは、1944~50年の7年間
  Bは、1951~58年の8年間
  Cは、1959~75年の17年間

   という具合にである。
  このように分けたのは、真ん中のBの期間に、ライオン博士らの予測する"不幸の原
 因" が潜んでいると考えられたからだった。
  また、15歳以下の小児を調べてみたのは、その予測される”不幸の原因”が、とく
 に子供たちの体に対して急速に影響を与えると考えられたからである。成人では、発癌
 から死に至るまでに10数年という長い歳月を要することもあるが、小児では癌が急速
 に成長するので、被害があるとすれぱ短期間に集中し、因果関係を立証しやすいと判断
 された。

  この長い年月と、多くの小児を対象とした調査の結果はユタ州全土の親を戦慄させる
  ものとなった。また同時に、B期間の異常性を、数字の上からこれほど的確に証拠づけ
  たレポートもなかった。
  そのうちのひとつのデータを、わかりやすい形で表現すると、次のような結果が得ら
 れる。
 ――白血病をはじめとする小児ガンの発生率は、1年あたりの平均値に換算して、A、
   B、Cの三期間を比較してみた場合、ユタ州南西部(セント・ジョージを含む地域)
   では、AとCを100%とした時、B期間中にちょうど300%の高い率になる。
  これが、冷厳な結果だった。32年の長い歳月にわたる期間にもかかわらず、300%
 の明白な数字が浮かび上がってきた。
 、

 

   これは統計的な表現だが、小児ガンのために死んでいった子供たちの一人ずつを鏡の立
 場になって考えてみよう。たとえば、これはその中のわずか一例にすぎないが、セント・
 ジョージからすぐ近くの町、シーダー・シティーに住んでいたシピル・ジョンソンという
 女の子の場合、父親プレーン・ジョンソンはシピルの白血病を医師から宣告された時、「
 私の家から、たりた100メートルの範囲内に、7人もの白血病患者が出ているのは、単
 なる偶然のほかに、何か別の原因があるのではないでしょうか」と、医師に尋ねた。

  しかし医師は、あくまで偶然だと言い張り、彼の疑問を認めようとしなかった。
  そこで彼の要は、手当たり次第に一帯の調査を初めてみた。その結果、ついに100人
 にものぼる癌患者のリストができてしまった。これが統計的な調査ではなく、ジョンソン
 夫人がたまたま知ることのできた人たちの人名録だった、という点が大切である。氷山の
 一角が見えたにすぎない。少女シビル・ジョンソンが白血病のためこの世を去っていった
 のは1965年であった。

  セント・ジョージに住むシェルドン.ジョンソンは、息子のレインを愛し、楽しい家庭
 を築いていた。
  そのシュルドン・ジョンソンはある時、ふと疑問を抱いた。
  ――しかし、レインのほかにも、学校のひとつのクラスに、知恵遅れの子供かこんなに
 たくさんいるのは、なぜだろう――と。
 以前には、知恵遅れの誰が一人もいなかったことを考え合わせながら、この親はやがて、
 ひとつの事実に気づいたのだった。
  ――この子たちはみな、1952~57年の間に生まれたのだ――ということを。
  これと同じ事実を、葬儀屋のエルマー・ビケットも認めていた。
  ――この町の人間は、あの時が来るまではみんな元気で、癌になる者なんか、捜しても
 見つからなかったのだ――と。

  すでに説明したジョゼフ・ライオン博士の論文がB期間として設定したのは、1951
 ~58年だった。多くの障害児が出生した期間は、ちょうどこのB期間のなかに、ずつぼ
 り入りてしまう。小児ガンの発生率噌加とのあいだに、明瞭な相関性がみられる。

  これで謎ときの大きな手掛りが、四つまで明らかにされたことになる。
  第一は、被害者――小児から成人に至る膨大な数の人間
  第ニは、期間――1950年代
  第三は、位置――ユタ州セント・ジョージの周辺
  第四は、被害――小児ガン、小児白血病、成人の発癌、癌死の激増
  だれが(WHO)、いつ(WHEN)、どこで(WHERE)、なにを(WHAT)、
 という順序で考えるなら、第五の。いかにして(HOW)というパズルの答を出さなけれ
 ばならない。

               パズルを解いた男ポール・クーバー元軍曹

  自ら白血病におかされなから、このパズルを解いてみせた男がいる。アメリカ陸軍でか
 つて軍曹をつとめたボール・クーバーだった。
  1976六年、ソルFレイク・シティーにある退役軍人を扱う病院が、ポールークーパ
 ー元軍曹の白血病を知り、ひとつの疑いを抱いた。
  葬儀屋エルマー・ピケツトが”セント・ジョージ”の一集団について疑念を抱いたと同
 様に、すでにユタ州の人びとが口にしていた噂から、この軍人病院の疫学者グリーン・コ
 ードウェルは”退役軍人”の一集団に不審を感じたのだった。

  ここで重要なことは、セント・ジョージの住民が、実は無関係の巻き添えを食った被害
 者だったのに対し、軍人病院の場合には肢ら自身がこの問題の当事者だった、という点に
 ある。
  答を明かせば、軍人が加害者だった。その加害者自身のなかに、ポールークーパーとい
 う被害者が出はじめたことによって、ようやく、軍人が自分たちの過去を洗い出してみよ
 うという気になったのだった。

  反骨精神を持ったポール・クーパー元軍曹が、ユタ州ソルトレイク・シティーの病院で
 診寮を受けたことも、パズルを解く鍵になった。これによって、やがてユタ州セント・ジ
 ョージの被害が、クーパーらの軍人が受けた被害と結びつけられるようになったからであ
 る。実は、クーバーが登場するずっと以前から、あちこちで結びつきが語られ、被害者は
 確区をつかんでいた。

  ポール・ジヱイコプスという一匹狼のジャーナリストは、B期間中に自分の足でユタ州
 南部を歩きまわり、住民と起居を共にしながら、子供たちの白血病をはじめとするさまざ
 まの肢害を調べあげた。それを”ザ・リポータ”という雑誌(1957年5月16日号)
 にくわしく報告し、のちには彼自身の体癌におかされ、59歳で死んでいった。1957
 年という早い時期にボール・ジェイコプスが伝えた事実は、エルマー・ピケットやアーマ・
 トマス夫人がのちにくわしく知った出来事を、すべて予言したものであった。

  だがそれらはどれも、公式の手続きにかけられると、”噂にすぎない”と一蹴され、涙
 を呑んでいた。
  ポールー・クーバーは立ち上がり、ついにマスゴミに対して宣言した。
  「私は1957年のネバダの核実験に参加したために、白血病になったのだ。間違いな
 い」核実験に参加して20年後、1977年4月のことだった。
 
  パズルは解かれはじめた。


膨大な英文資料に目を通すあるいはビデオを鑑賞するには、あんちょこに、斜め読みするしか
なかったが、それなりにうるところがあった。次回も第2章を読みすすめる。


                                    この項つづく
 

 

 出典:朝日デジタル 2015.07.29

長崎市の長崎原爆資料館に展示されている原爆「ファットマン」の原寸大模型が、これまでの
濃い緑色から黄色に塗り替えられて、28日公開された。近年の調査で実物は黄色だったこと
が確認され、被爆70年に合わせて塗り替えた(上写真)。ファットマンは1945年8月9
日、長崎に投下されたプルトニウム原爆。96年に資料館が開館した当時、アメリカの博物館
にある模型などを参考に濃い緑色にした。ところが2010年、有識者らでつくる原爆資料館
の運営協議会で委員から「本物の色と違うのではないか」との指摘があり、長崎市が報道機関
の所有するカラーフィルムを調べたり、米国の博物館に情報を求めたりして、黄色だったこと
がわかった。

戦後70年とひとことでは片付けられないことが、この一連の作業で――ネバダ砂漠の核実験
の影響、長崎投下されたパンプキン爆弾、そして福島第一原発事故に繋がる"黄色い糸"――単
なる偶然なのか、神の思し召しか?わからないが、あらためて確認することとなった。戦争を
知らない団塊世代ではあるが、幼い頃、神社の参道で傷痍軍人をおく見かけた。学校では、教
師から戦争体験を聞かされたり、耳を塞がんばかりの――一兵卒クラスは人肉を食事に与えら
れ食したとか(人肉が一番うまいという尾ひれもついている)、戦地で撮った惨殺・強姦現場
写真を見せられたり、逆に、大陸では日本軍人が唯一頼りになったとか、機関銃でたくさんの
中国兵を殺したという武勇伝を聞かされたり、手榴弾の破片を首筋に受け、九死に一生を得た
と傷口を見せた叔父の記憶などを通し理解しえた。「二百万人の血でもってあがなわれた戦利
品の憲法九条」(吉本隆明)を踏まえ、積極的な平和活動に資するには、いかなるチャレンジ
をすべきか?国民ひとりひとりが問われている「戦後70年」でもある。

                                      
                               




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