万事、義より貴きはなし。 / 墨子
昨夜の話の続き。種橋さんの戦争体験伝承の間、実はわたしも母や伯母の大阪大空襲――世界大戦末
期にアメリカ軍が繰り返し行った、大阪市を中心とする地域への戦略爆撃(=無差別爆撃)。45年
3月13日翌深夜から日未明にかけ、最初の大阪空襲が行なわれ、その後、6月1・7・15・26
日、7月10・24日、8月14日に空襲が行なわれ、この空襲で一般市民 1万人以上が死亡――
の体験談を語る。このようにじっくりと話しをしたのは彼とが初めてであったが、戦争の悲惨さと指
導者たちへの戦争責任に対する吽形像のごとく双方了解しあった。
空襲後の大阪市街
偶然にも翌日、BS放送でマイケル・ケイトン=ジョーンズ監督の手になる90年制作のイギリス映
画『メンフィス・ベル』(原題:Memphis Belle)を観ることとなる。あらすじは割愛するが爆撃目標
のブレーメンの飛行機工場。容赦ない攻撃で友軍機が墜ちていく。上空に達したが、煙幕で目標が見
えず、国際ルールを遵守し無差別爆撃を避けるため、操縦士のデニスは見えるまで危険な白昼の旋回
を続けることを決意煙幕が晴れ任務を貫徹させるシーンが印象的。
なお、第二次世界大戦中、英国に駐留し、独国に対する昼間爆撃任務の米国第8空軍は、25回の出
撃を達成した爆撃機の搭乗員が帰国できるようにしていた。この25回達成を広報利用に、陸軍少佐
として映画監督のウィリアム・ワイラーを従軍させる。撮影準備中、第303爆撃航空群第358爆
撃飛行隊のB-17FF「ヘルズ・エンジェルス」号(シリアル・ナンバー41-24577)が25回を達成。
「メンフィス・ベル」号(第91爆撃航空群第324爆撃飛行隊所属 シリアル・ナンバー41-24485)
が撮影に使われることになる。実はメンフィス・ベル号が25回の出撃を達成したのは、43年5月
17日。搭乗員は、英国王ジョージ6世の参列する式典に参加し、6月6日に凱旋帰国、戦時国債の販
売促進のため全米を巡るが、全ての乗員がメンフィス・ベル号で全25回の任務を遂行したわけでは
なく、機長のモーガン大尉は20回、副操縦士のヴァーニスは1回しかメンフィス・ベル号で出撃し
ていない。
国策映画として作製したものだが、リメイク版のこの作品は人道的側面から撮影されていて、一昨年
々末の日本映画の『永遠の零』とこれも、深夜に鑑賞したNHKのBSプレミアム映画『戦火の馬』
とオーバーラップ。こみ上げるものがあり涙する。
● 『あさが来た』が問いかける広岡浅子伝
大阪の大空襲の残像を追っかけていると、ふと、NHKの朝の連続ドラマ『あさが来た』で女優の波
留が演じるヒロインのモデルの広岡浅子を思い浮かべ、建築士の実弟が前田建設のスタジオ104で
米国領事館の梅田新道への移転プランが採用されたバブルまっ只中当時のエピソードにフィクサーな
どの笹川(良一)・広岡(?)・田岡(一雄)・林(正之助)など登場するがその連関をたぐるも不
祥のため打ち切るが、ここで曾根崎小学校一年のときメレル・ヴォーリズの設計による大同生命ビル
や住友銀行のビルを肥後橋で休憩をとりながら眺めていた記憶と広岡浅子――京都油小路出水・三井
家出身。大阪の豪商(両替商)加島屋で知られる広岡家新宅の嫡子信五郎と結婚。明治維新の動乱で
広岡家の家運が傾くと事業再建に奔走。九州の炭鉱経営、加島銀行、大同生命の創設・経営に参画。
晩年、日本女子大学創立など女子教育や、キリスト教活動に注力――と交錯する。
ネット上に彼女の生い立ちなどの情報があふれているので、屋上屋を避けるが、明治を代表する、豪
気・英明な天性から「一代の女傑」と称えられるペンネームが九転十起生(きゅうてんじっきせい)
の女性実業家である。晩年日本女子大学設立後も女子教育に対する情熱は衰えるず14年(大正3年)
から死の前年(18年)までの毎夏、避暑地として別荘を建設した御殿場・二の岡で若い女性を集め
た合宿勉強会を主宰し、参加者には若き日の市川房枝や『あさが来た』の前々作の『花子とアン』の
ヒロイン村岡花子も参加しているが、明治維新と文明開化・富国強兵、彼女が没した大正八年に亡き
父が誕生し。メンフィスベルが活躍した第二次世界大戦で日本が連合軍に敗北したの後、47年に広
岡恵三が第二会社を設立した翌年にわたしが誕生し、78年加島屋久右衛門家は10代で終焉するこ
とになるが、広岡浅子が存在しなければ加島屋久右衛門家は早くに衰退していただろう。このように
歴史を手繰ると生きている奇跡を感じる。
さて、実在したB-17(F)型「メンフィス・ベル」とは、テネシー州の港町メンフィスから来た
美人(ベル)という意味でジョージ・ペティが描いたイラストでこれを機首に搭乗員のスターサー伍
長に描かせた――因みに、ロバート・モーガン機長は、このイラストモデルのマーガレット・ポーク
と恋に墜ちるが、このロマンスは実らず、43年12月にドロシー・ジョンソンと結婚――B-17
は武装強化され、帰還回数が25回から35回まで延長されているほどのタフな爆撃機であったが、
そのタフさという意味で、"あさ"こと広岡浅子はタフな英傑であったと感心するほどだ。なお、この
シリーズのシリーズの視聴率も25%~35%を維持されんことを祈る。
● 折々の読書 『職業としての小説家』25
たとえば二〇一一年三月の、福島の原子力発電所事故ですが、モの報道を追っていると、『こ
れは根本的には、日本の社会システムそのものによってもたらされた必然的災害(人災)なんじ
ゃないか」という暗喩とした思いにとらわれることになります。おそらくみなさんもおおむね同
じような思いを抱いておられるのではないでしょうか。
原子力発電所事故のために、数万の人々か住み慣れた故郷を追われ、そこに帰るめどさえ立た
ないという立場に追い込まれています。本当に胸の痛むことです。そのような状況をもたらした
ものは、直接的に見れば、通常の想定を超えた自然災害であり、いくつか重なった不運な偶然で
す。しかしそれかこのような致命的な悲劇の段階にまで押し進められたのは、僕が思うに現行シ
ステムの抱える構造的な欠陥のためであり、それが生み出したひずみのためです。システム内に
おける責任の不在であり、判断能力の欠落です。他人の痛みを「想定」することのない、想像力
を失った悪しき効率性です。
「経済効率か良い」というだけで、ほとんどその一点だけで、原子力発電か国策として有無を
言わせず押し進められ、そこに潜在するリスクが(あるいは実際にいろんなかたちでちょくちょ
くと現実化してきたリスクが)意図的に人目から隠蔽されてきた。要するにそのつけが今回我々
にまわってきたわけです。そのような社会システムの根幹にまで染み込んだ「行け行け」的な体
質に光を当て、問題点を明らかにし、根本から修正していかない限り、同じような悲劇かまたど
こかで引き起こされるのではないでしょうか。
原子力発電は資源を持たない日本にとってどうしても必要なんだという意見には、それなりに
一理あるかもしれません。僕は原則として原子力発電には反対の立場をとっていますか、もし信
頼できる管理者によって注意深く管理され、しかるべき第三者機関によって運営が厳しく監視さ
れ、すべての情報か正確にパプリックに開示されていれば、そこにはある程度の話し合いの余地
かあるかもしれません。しかし原子力発電のような致命的な被害をもたらす可能性を持つ設備が、
ひとつの国を滅ぼすかもしれない危険性をはらんだシステムが(実際にチェルノプイリ事故はソ
ビエト連邦を崩壊させる一因となりました)、「数値重視]「効率優先」的な体質を持つ営利企
業によって運営されるとき、そして人間性に対するシソパシーを欠いた「機械暗記」「上意下達」
的な官僚組織かそれを「指導」「監視]するとき、そこには身の毛もよだつようなリスクが生ま
れます。それは国土を汚し、自然をねじ曲げ、国民の身体を損ない、国家の信用を失墜させ、多
くの人々から固有の生活環境を奪ってしまう結果をもたらすかもしれません。というか、それか
まさに実際に福島で起こったことなのです。
話がいささか広がってしまいましたか、僕か言いたいのは、日本の教育システムの矛盾は、そ
のまま社会システムの矛盾に結びついているのだということです。あるいはむしろモの逆かもし
れませんが。いずれにせよそのような矛盾をこのまま放置しておくような余裕はもはやないとい
うところまで来てしまいました。
とにかく、また学校のことに話を戻します。
僕か学校時代を送った一九五〇年代後半から六〇年代にかけては、いじめや登校拒否は、まだ
それほど深刻な問題にはなっていませんでした。もちろん学校や教育システムに問題かなかった
というのではないのですか(問題はけっこうあったと思います)、少なくとも僕自身に関してい
えば、自分のまわりにいじめや登校拒否の例を目にすることはほとんどありませんでした。いく
つかあるにはあったけれど、それほど深刻なものではありませんでした。
戦後まだ間もない時代で、国全体かまだ比較的貧しく、「復興」「発展]というはっきりとし
た目標を持って動いていたせいかあるのだろうと僕は考えます。問題や矛盾を含んでいるにせよ、
そこには基本的にポジティブな空気がありました。子供たちの間にもおそらく、そういうまわり
の「方向性」のようなものは、目に見えず作用していたのでしょう。子供たちの世界にあっても、
ネガティブな精神モーメントが大きな力を持つことは、日常的にはあまりなかったように思いま
す。というか、「このままかんばっていれば、まわりの問題や矛盾はそのうちにだんだん消えて
いくのではないか」という楽観的な思いが基本にありました。だから僕も学校がそれほど好きで
はなかったけれど、まあ「行くのか当たり前」のこととして、とくに疑問も抱かず、わりに真面
目に学校に通っていました。
でも今では、新聞や雑誌やテレビの報道にそのような話題か出てこない日が珍しいというくら
い、いじめや登校拒否は大きな社会問題になっています。いじめを受けた少なくない数の子供た
ちか、自らの命を絶っています。これは本当に悲劇という以外に言いようがありません。いろん
な人かそのような問題についていろんな意見を述べ、社会的にいろんな対策かとられていますが、
その傾向が収まる気配はいっこうに見えません。
なにも生徒同上のいじめだけではありません。教師の側にもかなり問題かありそうです。けっ
こう前の話になりますが、神戸の学校で始業ベルとともに正門の重い扉を先生か閉めて、女生徒
がそこに挾まれて亡くなってしまったという事件がありました。「最近は生徒の遅刻があまりに
多く、そうせざるを得なかった」というのか、その教師の弁明でした。遅刻するのはもちろんあ
まり褒められたことではありません。しかし学校に数分遅刻することと、一人の人間の命とどち
らか重い価値を持つか、そんなのは考えるまでもないことです。
この先生の中では「遅刻を許さない」という狭い目的意識が頭の中で異様に特化して膨らんで、
世界をバランス良く見る視野が失われています。パラソスの感覚というのは教育者にとってとて
も大切な資質であるはずなのですが。新聞には「でもあの先生は教育熱心な良い先生だったから」
という父兄のコメントも載っていました。しかしそういうことをロにする――ロにできる――方
にもかなり問題がありそうです。殺された側の、押しつぷされた痛みはいったいどこにやられて
しまったのでしょう?
比喩的に生徒を圧殺してしまう学校というものは想像できるのですが、肉体的に実際に生徒を
圧死させてしまう学校となると、これは僕の想像を遥かに超えています。
そのよりな教育現場の病的症状(と言っていいと思います)は、言うまでもなく、社会システ
ムの病的症状の投影にほかなりません。社会全体に自然な勢いがあり、目標がしっかり定まって
いれば、教育システムに多少の問題かあったとしても、それはなんとか「場の力」でもってうま
く乗り越えられます。しかし社会の勢いが失われ、閉塞感のようなものがあちこちに生まれてき
たとき、それか最も顕著に現れ、最も強い作用を及ぼすのは教育の場です。学校であり、教室で
す。なぜなら子供たちは、坑道のカナリアと同じで、そういう濁った空気をいちばん最初に、最
も敏感に感じ取る存在であるからです。
さっきも申し上げましたように、僕が子供だった頃は、社会そのものに「伸びしろ」がありま
した。だから個人と制度のせめぎ合いみたいな問題も、そのスペースに吸収されていって、それ
ほど大きな社会問題にはならなかった。社会全体が動いていたから、そのモーメントがいろんな
矛盾やフラストレーションを呑み込んでいきました。別の言い方をすれば、困ったときに逃げ込
むことのできる余地や隙間みたいなものか、あちこちにあったわけです。しかし高度成長時代も
終わり、バブルの時代も終わった今となっては、そういう避難スペースを見つけることかむずか
しくなっています。大きな流れにまかせておけばなんとかなる、というようなおおまかな解決方
法はもはや成立しません。
そういう「逃げ場の不足した」社会かもたらす教育現場の深刻な問題に対して、我々はなんと
か新たな解決方法を見つけていく必要かあります。というか、順番から言いますと、その新たな
解決方法を見つけることのできそうな場所を、まずどこかにこしらえていく必要があります。
それはどのような場所か?
個人とシステムとかお互いに自由に動き、穏やかにネゴシエートしなから、それぞれにとって
最も有効な接面を見出していくことのできる場所です。言い換えれば、一人ひとりがそこで自由
に手足を伸ぼし、ゆっくり呼吸できるスペースです。制度、ヒエラルキー、効率、いじめ、そん
なものから離れられる場所です。簡単に言えば、温かな一時的避難場所です。誰でもそこに自由
に入っていけるし、そこから自由に出て行くことかできます。それは言うなれぽ「個」と「共同
体]との緩やかな中間地域に属する場所です。そのどのあたりにポジションをとるかは、一人ひ
とりの裁量にまかされています。とりあえずそれを僕は「個の回復スペース」と呼びたいと思い
ます。
最初は小さなスペースでいいんです。何も大がかりなものでなくていい。手作りみたいな狭い
場所で、とにかくいろんな可能性を実際に試してみて、もし何かがうまくいくようであれば、そ
れをひとつのモデル=たたき台として、より発展させていけばいい。そのスペースをだんだん広
げていけばいい。僕はそう考えます。時間はある程度かかるかもしれませんが、それかいちぱん
正しい、筋の通ったやり方ではないかと思います。そういう場所かいろんなところに、自然発生
的に生まれていけばいいなと思うのです。
最悪のケースは、文科省みたいなところか上からひとつの制度として、そういうものを現場に
押しつけることです。僕らはここで「個の回復」を問題としているわけですから、それを国家か
制度的に解決しようとしたりすれば、まさに本末転倒というか、一種の笑劇になりかねません。
僕個人の話をしますが、今から振り返って考えてみると、学校に通っていた頃の僕にとってのい
ちばん大きな救いは、そこで何人かの親しい友人を作れたことと、たくさんの本を読んだことだ
ったと思います。
本について言えば僕は、なにしろ実にいろんな種類の書物を、燃えさかる窯にスコップで放り
込むみたいに、片端から貪り読んでいきました。それらの書物を一冊一冊味わい、消化していく
だけで日々忙しく(消化しきれないことも多かったですが)、それ以外のものごとについて考え
を巡らせているような余裕もほとんどないような状態でした。僕にとってはそれかかえって良か
ったのかもしれないなと思うこともあります。自分のまわりの状況を見回し、モこにある不自然
さや矛盾や欺隔について真剣に考え、納得いかないことを正面から追及していったとしたら、あ
るいは袋小路みたいなところに追い込まれ、きつい思いをしていたかもしれません。
それとともに、いろんな種類の本を読み漁ったことによって、視野かある程度ナチュラルに
「相対化」されていったことも、十代の僕にとって大きな意味あいを持っていたと思います。本
の中に描かれた様々な感情をほとんど自分のものとして体験し、イマジネーションの中で時間や
空間を自由に行き来し、様々な不思議な風景を日にし、様々な言葉を自分の身体に通過させたこ
とによって、僕の視点は多かれ少なかれ複合的になっていったということです。つまり今自分か
立っている地点から世界を眺めるというだけではなく、少し離れたよその地点から、世界を眺め
ている自分自身の姿をも、それなりに客観的に眺めることかできるようになったわけです。
ものごとを自分の観点からばかり眺めていると、どうしても世界がぐつぐつと煮詰まってきま
す。身体かこわばり、フットワークが重くなり、うまく身勤きかとれなくなってきます。でもい
くつかの視点から自分の立ち位置を眺めることができるようになると言い換えれば、自分という
存在を何か別の体系に託せるようになると、世界はより立体性と柔軟性を帯びてきます。これは
人かこの世界を生きていく上で、とても大事な意味を持つ姿勢であるはずだと、僕は考えていま
す。読書を通してそれを学びとれたことは、僕にとって大きな収穫でした。
もし本というものかなかったら、もしそれほどたくさんの本を読まなかったなら、僕の人生は
おそらく今あるものよりもっと寒々しく、ぎすぎすしたものになっていたはずです。つまり僕に
とっては読書という行為が、そのままひとつの大きな学校だったのです。それは僕のために建て
られ、運営されているカスタムメイドの学校であり、僕はそこで多くの大切なことを身をもって
学んでいきました。そこにはしちめんどくさい規則もなく、数字による評価もなく、激しい順位
争いもありませんでした。もちろんいじめみたいなものもありません。僕は大きな「制度」の中
に含まれていなから、そういう別の自分自身の「制度」をうまく確保することかできたわけです。
僕がイメージしている「個の回復スペース」というのは、まさにそれに近いものです。何も読
書だけに限りません。現実の学校制度にうまく馴染めない子供たちであっても、教室の勉強にそ
れほど興味が持てない子供たちであっても、もしそのようなカスタムメイドの「個の回復スペー
ス」を手に入れることができたなら、そしてそこで自分に向いたもの、自分の背丈に合ったもの
を見つけ、その可能性を自分のペースで伸ばしていくことかできたなら、うまく自然に「制度の
壁」を克服していけるのではないかと思います。しかしそのためには、そのような心のあり方=
「個としての生き方」を理解し、評価する共同体の、あるいは家庭の後押しが必要になってきま
す。
うちの両親はどちらも国語の先生だったから(母親は結婚したときに仕事をやめましたが)、
僕が本を読むことについては、終始ほとんど一言も文句を言いませんでした。僕の学業成績に対
して少なからず不満は持っていても、「本なんか読まないで試験勉強をしなさい」とは言われな
かった。あるいは少しは言われたかもしれないけど、記憶には残っていません。まあその程度に
しか言われなかったのでしょう。それはやはり僕が両親に対して、感謝しなくてはならないこと
のひとつであるように思います。
もう一度繰り返しますが、僕は学校という「制度」があまり好きになれませんでした。何人か
の優れた教師に巡り合うことかできて、いくつかの大事なことは学べましたが、それを相殺して
余りあるくらい、ほとんどの授業や講義は退屈でした。学校生活を終えた時点で、「人生でもう
これ以上の退屈さは必要ないんじゃないか」と思えるくらい退屈でした。でもまあ、いくらそう
思ったところで、僕らの人生において、退屈さは次から次へと、容赦なく空から舞い降り、地か
ら湧いて出てくるわけですが。
でもまあ、学校が好きでしょうがなかった、学校に行けなくなってとても淋しいというような
人は、あまり小説家にはならないのかもしれません。というのは、小説家というのは、頭の中で
自分だけの世界をどんどんこしらえていく人間だからです。僕なんかも授業中は、授業なんかろ
くに聞かないで、ありとあらゆる空想に耽っていたような気かします。もし僕が今現在子供だっ
たら、学校にうまく同化できず、登校拒否児童になっていたかもしれません。僕の少年時代には
幸か不幸か、登校拒否みたいなことがまだトレンドにはなっていなかったので、「学校にいかな
い」なんていう選択肢そのものがなかなか頭に浮かぽなかったみたいです。
どんな時代にあっても、どんな世の中にあっても、想像力というものは大事な意味を持ちます。
想像力の対極にあるもののひとつが「効率」です。数万人に及ぶ福島の人々を故郷の地から追
い立てたのも、元を正せばその「効率」です。「原子力発電は効率の良いエネルギーであり、故
に善である」という発想か、その発想から結果的にでっちあげられた「安全神話」という虚構か、
このような悲劇的な状況を、回復のきかない惨事を、この国にもたらしたのです。それはまさに
我々の想像力の敗北であった、と言っていいかもしれません。今からでも遅くはありません。我
々はそのような「効率」という、短絡した危険な価値観に対抗できる、自由な思考と発想の軸を、
個人の中に打ち立てなくてはなりません。そしてその軸を、共同体=コミュニティーヘと伸ばし
ていかなくてはなりません。
とはいっても、僕か学校教育に望むのは「子供たちの想像力を豊かにしよう」というようなこ
とではありません。そこまでは望みません。子供たちの想像力を豊かにするのは、なんといって
も子供たち自身だからです。先生でもないし、教育設備でもありません。ましてや国や自治体の
教育方針なんかではない。子供たちみんながみんな、豊かな想像力を持ち合わせているわけでは
ありません。駆けっこの得意な子供かいて、一方で駆けっこのあまり得意ではない子供かいるの
と同じことです。想像力の豊かな子供だちかいて、その一方で想像力のあまり豊かとは言えない
――でもおそらく他の方面に優れた才能を発揮する子供たちがいます。当然のことです。それが
社会です。「子供たちの想像力を豊かにしよう」なんていうのかひとつの決まった「目標」にな
ると、それはそれでまたまた変なことになってしまいそうです。
僕か学校に望むのは、「想像力を持っている子供たちの想像力を圧殺してくれるな」という、
ただそれだけです。それで十分です。ひとつひとつの個性に生き残れる場所を与えてもらいたい。
そうすれば学校はもっと充実した自由な場所になっていくはずです。そして同時に、それと並行
して、社会そのものも、もっと充実した自由な場所になっていくはずです,
僕は一人の小説家としてそう考えます。まあ、僕が考えて、それでどうなるというものでもな
いのでしょうか。
「第八回 学校について」
村上春樹 『職業としての小説家』
この項つづく