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営農林管理ドローン技術

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    いま天下義をなす者なければ、子われに勧むべきに、何の故にわれを止むる。

                                                               墨子

 

 




● 日本は世界一の農業立国 ?!

25日投開票された宮城県議選(定数59)で、共産党が改選前の4議席から8議席(現職3、新人
5)に倍増。9月の国会で成立した安全保障関連法や、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)の
大筋合意などへの批判が、共産党の議席を押し上げた格好。改選前に28議席だった自民党は、石巻・
牡鹿選挙区(定数5、石巻市、女川町)や加美選挙区(定数1、色麻、加美町)で現職が落選。公明
党は4議席を維持した(朝日新聞デジタル 2015.10.26)。

このニュースをみて、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)批判の先鋒の三橋貴明の主張を思い
だした。彼の主張には大筋同意できるものの、農産品大国ニュージランドは広大な大地で生産でき価
格では日本は及ばずカナダですら太刀打ちできないと発言していたが(「おはよう寺ちゃん活動中」
2015.10.14)、これには不同意である。確かに、平野部が狭く、山間部が多いことは指摘される通り
だが、それは技術的に克服可能だと考えている。

尚、彼は特定のイデオロギーをもたないとするが、オールドケインズ主義的な傾向が看られ、「戦争
(=軍備拡張)は有効需要」と見なすような言動が気になるところだが、第二次安倍内閣をレントシ
ーキング(=特殊利益追・超過利潤追求)内閣と批判するなどは面白い。 

  High Tech Farming

その1つが、今朝の「NHKニューズ7」で放送された、久保幹立命館大学教授らの土壌分析技術の
可能性。これはすでにブログ掲載している(『人工培土工学』2014.09.15/上図クリック)。また、
その実証は、守山市(滋賀県)やアフリカでの例が同テレビ放送で紹介されていた。


 これまでの一般的な土壌診断手法は、土壌中の窒素・リン酸・カリなど、化学的性質を調べるも
 のがほとんどで、土壌中での有機物など生物的性質を調べる評価手法は難しかった。 しかし、
 久保教授の研究チームが開発したSOFIXは、土壌中の微生物量や微生物による窒素やリン酸
 などの分解・循環活性などを定量的に調べることで、世界で初めて生物的性質を使った分析を可
 能にした。従来の土壌診断では、対象となる農作物が違えば同じ土壌でも異なる処方箋が必要だ
 ったが、SOFIXで示される指標は、「その土壌で育つ植物の活性を示すものであり、どんな
 農作物でも、さらには樹木などでも、栽培する品種ごとに異なる処方箋は必要ない」というメリ
 ットがある。
           
                   「微生物で土壌の肥沃度を測定」(『人工培土工学』)  
                    

   

これは農作物が対象だけれど、放牧地の開拓に応用できる。例えば、山間部に牛・馬・羊・鶏など放
牧畜養する場合、あらかじめ飼料の草穀物育成に肥沃な培土(=土壌)に転換するためのツールとし
て同上技術を適用し土壌改良し放牧すれば、最小農地で、高品質な畜養・畜牧が可能だ。何だったら
ソーラーシュアリング酪農・牧畜に応用展開させれば、再生可能エネルギーを同時に得ながら、牛乳
やバター、チーズの生産も可能だし、果樹栽培、森林栽培へと応用できる。要は"クール・アグリカル
チャー"というわけだ。久保教授らの事業化は、全国に裕福な農業従事者を育成輩出する教育機構でも
あり、自ずと世界一の競争力を備えることになるから、海外から買い求めにくることも時間の問題だ
ろう。

 
Forest Value Investment Management S.A.

ところで、野菜が5、6割高いということだが、これへの対応も簡単だ。まず、(1)土壌が押さえられれば 、次は
(2)農業用水これは干魃・乾燥には欠かせない、地下水から、ダム貯水から揚水し、特殊な散水設備を考案し、
栄養分や病原菌対策を施した農業・牧畜用水を最適散布すればよい。洪水、特に近年のゲリラ豪雨や竜巻な
どの異常気象には、大きくて頑丈なグラスハウス(温室)が必要となるが、農協のような相互会社(民営化)、あ
るいは、品種特化した食用物を栽培する株式会社(民間化)で対応し、キャシュフローの軽減産助政
策を、前普及期に法整備・税金投入すればよいだろう。さらに、営農林管理ドローン技術を駆使し、
土壌分析用サンプリングシステムなどの開発も併せてやって。以上、これらは、「第二の農地解放」
を意味している。もっとクールに。



 

  

● 折々の読書 『職業としての小説家』26   

  よく「小説の登場人物に、実在する人をモデルとして使いますか」という質問をされます。答
 えはおおむね「ノー」でありますが、部分的には「イエス」です。僕はこれまでけっこうたくさ
 ん小説を書いてきましたが、最初から意図して「このキャラクターは現実のこの人を念頭に置い
 て書いた」ということは二、三度しかありません。「これはこの人がモデルでしょう――と誰か
 に 見透かされたりしたら――とくにその誰かが本人である場合にはいやだなといくぶん心配し
 ながら書いたのですが(どれもちょっとした脇役でした)、幸いにしてそういう指摘を受けたこ
 とはまだ一度もありません。その人物をいちおうモデルに据えてはいるものの、モれなりに用心
 深くみっちり作り替えて書いているので、まわりの人にはたぶんわからないのだと思います。お
 そらくは本人にも。

  それよりはむしろ、僕が誰のことも念頭に置かずに、頭の中で勝手にこしらえた架空のキャラ
 クターについて、「この人がモデルなんでしょう」みたいに決めつけられることの方がずっと多
 いです。場合によっては「このキャラクターは自分がモデルになっている」と堂々と主張する人
 まで出てきます。サマセット・モームはある小説の中で、まったく面識のない、名前を聞いたこ
 とさえない人から「自分が小説のモデルにされた」と訴訟をおこされて困惑した話を書いていま
 す。モームは小説の中で、一人一人のキャラクターをありありとリアルに、ある場合にはかなり
 意地悪く(よくいえば風劇的に)描くので、そういうリアクションも強いものになってくるので
 しょう。彼の書くそのような巧妙な人物描写を読んでいて、あたかも自分が個人的に批判された
 り、からかわれたりしているように感じる人が出てくるのかもしれません。

 William Somerset Maugham

  多くの場合、僕の小説に登場するキャラクターは、話の流れの中で自然に形成されていきます。
 「こういうキャラクターを出そう」と前もって決めることは、僅かな例外を別にすれば、まずあ
 りません。書き進めていくうちに、出てくる人々のあり様の軸みたいなものが自然に立ち上がり、
 そこにいろんなディテールが次々に勝手にくっついていきます。磁石が鉄片をくっつけていくみ
 たいに。そのようにして全体的な人間像ができあがっていきます。あとになって思うと、「ああ、
 このディテールはあの人のこういう部分にちょっと似ているかもしれない」みたいなことはしば
 しばあります。でも最初から「よし、今回はあの人のこの部分を使ってやろう」と決めてキャラ
 クターを作っていくことはまずありません。多くの作業はむしろ自動的におこなわれます。つま
 り僕はそのキャラクターを立ち上げるにあたって、脳内キャビネットからほとんど無意識的に情
 報の断片を引き出し、それを組み合わせている、ということになるのではないかと思います。 

  そういう自動的な作用を、僕はきわめて個人的に「オートマこびと」と名付けています。僕は
 だいたいずっとマニュアル・ギアの車に乗っているのですが、初めてオートマティ″ク・ギアの
 車を運転したとき、「このギアボックスの中にはきっとこびとが何人か住んでいて、そいつらが
 手分けしてギアの操作をしているに違いない」と感じました。そしていつかそんなこびとたちが
 「ああ、他人のためにこんなにあくせく働くのにもう疲れた。今日はちょっと休むぜ」みたいな
 ストライキを起こして、車が高速道路の上で急に動かなくなったりするんじやないかと、うっす
 らとした恐怖さえ感じました。

  僕がそういうことを言うとみんな笑うんですが、でもまあとにかく「キャラクター立ち上げ」
 みたいな作業に関しては、僕の中に生息している無意識下の「オートマこびと」たちが、今のと
 ころ(ぶつぶつ文句を言いつつも)なんとかあくせくと働いてくれるようです。僕としてはそれ
 をせっせと文章に書き写しているだけです。もちろんそうやって書かれたものがそのまま作品に
 組み込まれるということではなく、それは後日何度も書き直され、かたちを変えていきます。そ
 ういう書き直し作業は自動的というよりはもっと意識的に、ロジカルにおこなわれます。しかし
 原型の立ち上げに関して言えば、それはかなり無意識的で、直感的な作業になります。というか、
 ならざるを得ません。そうしないと、どこかしら不自然な、生きていない人間像ができてしまっ
 たりします。ですからそういう初期プロセスは、「オートマこびとにおまかせ」みたいなことに
 なるわけです。

  小説を書くには何はともあれ多くの本を読まなくてはならない、というのと同じ意味合いにお
 いて、人を描くためには多くの人を知らなくてはならない、ということがやはり言えると思いま
 す。
  知るといっても、相手を理解したり、よくわかったりするところまで行く必要はありません。
 その人の外見やら言動の特徴やらをちらっと目に留めておくだけでいいんです。ただ自分が好き
 な人も、それほど好きではない人も、はっきり言って苦手な人も、できるだけ選り好みせずに観
 察することが大事です。というのは自分の好きな人、自分が関心を持てる人、理解しやすい人ば
 かり登場させていたら、その小説は(長期的に見ればということですが)広がりを欠いたものに
 なってしまうからです。いろんな異なったタイプの人々がいて、そういう人たちがいろんな異な
 った行動をとって、そのぶつかり合いによって状況に動きが出て、物語が前に進んでいきます。
 だから一目見て「こいつは気にくわないな」と思っても目を背けたりせず、「どのあたりが気に
 入らないか」「どういう風に気に入らないか」といった要点を頭に留めておくようにします。

  僕はずっと昔三十代の半ばくらいだったと思うのですが-ある人に「あなたの書く小説には悪
 い人が出てきませんね」と言われたことがあります(あとになって知ったことですが、カート・
 ヴォネガット・ジュニアも亡くなる前のお父さんにまったく同じことを言われたそうです)。
 そう言われて僕も「考えてみればたしかにそうかもしれないな」と思い、それ以来意識して、ネ
 ガティブなキャラクターを小説の中に登場させようと試みました。でもなかなか思うようにいき
 ませんでした。当時の僕は、物語を大きく動かすというよりは、自分の私的な――どちらかとい
 えば調和的な――世界を構築していくことの方に気持ちが向かっていたからです。荒々しい現実
 の世界に対抗するシェルターとして、まずそういう僕自身の安定した世界を確立しなくてはなら
 なかった。

  Kurt Vonnegut Jr.

  でも年齢を重ねるにつれて――(人間として作家として)成熟するにつれてと言ってしまって
 もいいかもしれませんが――徐々にではあるけれど、自分の書く物語にネガティブな、あるいは
 非調和的な傾向を持つキャラクターを配することができるようになってきました。どうしてそれ
 ができるようになったかというと、まず第一に自分の小説世界の形がいちおうできあがり、そこ
 そこ機能するようになり、次の段階としてその世界をより広く深く、よりダイナミックなものに
 することが重要な課題になってきたからです。そのためには、そこに登場する人々をよりバラエ
 ティー豊かなものにし、人々のとる行動の振幅をより大きいものにしていかなくてはなりません。
 そういう必要性を強く感じるようになってきたわけです。

  それに加えて、僕自身が実生活でいろんな種類の体験をくぐり抜けた――くぐり技けないわけ
 にはいかなかった――ということもあります。三十歳でいちおう職業的小説家になり、存在がパ
 ブリックになったことで、好むと好まざるとにかかわらず、正面からかなり強く風圧を受けるよ
 うになりました。僕自身は決して進んで表に出ていく性格ではないのですが、心ならずも前に押
 し出されてしまう場合があります。やりたくないことも時としてやらなくてはならなかったし、
 親しくしていた人に裏切られてがっかりすることもありました。利用するために心にもない賞賛
 の言葉を並べる人もいれば、意味もなく――としか僕には思えないのですが――罵声を浴びせか
 けてくる人もいます。あることないことを言われたりもします。そのほかいろいろ普通では考え
 られないような奇妙な目にもあってきました。

  僕はそんなネガティブな出来事に遭遇するたびに、そこに関わってくる人々の様子や言動を子
 細に観察することを心がけました。どうせ困った目にあわなくちゃならないのなら、そこから何
 か役に立ちそうなものを拾い上げていこうじゃないかと(「何はともあれ元は取らなくちゃ」と
 いうことですね)。そのときはもちろんそれなりに傷ついたり落ち込んだりしましたが、そうい
 う体験は小説家である僕にとって少なからず滋養に満ちたものであったと、今では感じています。
 もちろん素敵なこと、楽しいことだってけっこうあったはずなんですが、今でもよく覚えている
 のはなぜか、どちらかといえばネガティブな体験の方です。思い出して楽しいことよりは、むし
 ろあまり思い出したくないことの方をよく思い出します。結局のところ、そういうものごとから
 の方が、学ぶべきことは多かったということになるのかもしれませんね。



  考えてみると僕の好きな小説には、興味深い脇役が数多く登場する小説が多いようです。そう
 いう意味合いでまずぱっと頭に浮かぶのは、ドストエフスキーの『悪霊』ですね。お読みになっ
 た方はわかると思うんですが、あの本にはなにしろ変てこな脇役がいっぱいでてきます。長い小
 説ですが、読んでいて飽きません。「なんでこんなやっか」と思うようなカラフルな人々、けっ
 たいなやつらが次々に姿を見せます。ドストエフスキーという人はきっとものすごく巨大な脳内
 キャビネットを持っていたのでしょう。

 

  日本の小説でいえば、夏目漱石の小説に出てくる人々も実に多彩で、魅力的です。ほんのちょ
 っとしか顔を出さないキャラクターでも、生き生きとして、独特の存在感があります。そういう
 人たちの発する一言や、表情や動作が不思議に心に残ってしまったりします。漱石の小説を読ん
 でいていつも感心するのは「ここでこういう人物が出てくることが必要だから、いちおう出して
 おきます」みたいな間に合わせの登場人物がほとんど一人も出てこないことです。頭で考えて作
 った小説じゃない。しっかりと体感のある小説です。言うなれば、文章のひとつひとつに身銭が
 切られています。そういう小説って、読んでいていちいち信用できてしまうところがあります。
 安心して読めます。


                        「第九回 どんな人物を登場させようか?」
                             村上春樹 『職業としての小説家』


飽きないですね~ぇ。ほんと! 次回も第九回のつづき。


                                      この項つづく

 

 

 

 


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