そして架空のことであるというのは、夢の中で起こっているというのと同じ
ことですから。夢というのは――それが眠りながら見ている夢であれ、目覚
めながら見ている夢であれ――ほとんど選択の余地がないものなのです。
村上春樹 『職業としての小説家』
● 中傷
墨子は程子にいった。
「儒者の説く"道"には、天下を滅亡に迫いやる要素が四つある。
第一に、天や鬼神の存在を疑い、それについて説明しないこと。これは天下を滅亡に追いやるもの
である。
第二に、死者に対する考え方である。葬儀を盛大にし、長いあいだ喪に服す。二重につくった棺を
用い、おびただしい副葬品をいれる。死者を送るさいには、引越しでもするような騒ぎである。そし
て、三年間も悲しんで喪に服するから、しまいには疲れ果てて、立つにも歩くにも、人の扶けや杖を
必要とするようになる。耳は遠くなるし、目はかすか。こういう風習は、天下を滅亡に迫いやるもの
である。
第三には、音楽に熱中することだ。これも天下を滅亡に追いやるものである。
第四には、宿命論だ。貧乏と裕福、長寿と短命、秩序と混乱、これらは運命ずけられたものであり、
人の力ではどうしようもないと考える。これでは、為政者は国を治めようとしなくなるし、人民は働
こうとしなくなる。これも天下を滅亡に迫いやるものである」
「そんなにまで儒者を中傷しなくてもいいではありませんか」
「いや、事実でないのに、こういったのであれば、それは中傷にもなろう。しかし、実際にあること
を取りあげたのだから、中傷にはならない」
程子はあいさつもしないで帰りかけた。
「待ちなさい」
と墨子が声をかけた。
席に戻って、程子はいった。
「承服できません。あなたのような言い方をすれば、潟のような聖王でも、ほめるに価しない人物に
なるし、梁や糾のような暴君であっても、非難できないことになる」
「それはまちがいだ。そんなわかりきったことをもち出して、あれこれ議論するくらいなら、沈黙し
て相手にしないほうが賢明だ。あなたが真剣に議論すれば、わたしも真剣に答える。しかし良い加減
な議論ならば、わたしも良い加減にあしらう。
わかりきったことをあれこれ議論するのは、車のながえでアリをつぶすようなものだ。バカバカし
くて本気になれない」
※ 〈程子〉程繁ともいう。儒家と爾家の二派の学問を治めた人であるらしい。
スマートフォーンや4K・8Kなどの高精細カラーディスプレ装置に有機エレクトロルミネサンス、い
わいる、オーレッド(OLED)・有機ELの時代がやってきている。真面目にOLEDGを出してい
こうという風にメーカが変わってきた。液晶をやっている所は、部材屋も完成品メーカーも流通も、ど
こも儲かっていないのが正直なところ急激な価格低下にある。液晶が出始めた頃は40インチで20万
円くらいだったが、今では5万円でお釣りがくる。いくらなんでもここまで安くなるものなのか?とい
う疑問さえ浮か昨今だが、これは、韓国や中国の"現代版モノづくり完全模倣追随輸出政策"――定義の
確認は必要だが――の影響が大きい。さらに、一旦下がった価格は、付加価値を入れないとメーカ側が
上げたくてもなかなか上がらず、3Dや4K、曲面などで付加価値をつけてもすぐに価格は下る。液晶
はどこのメーカーでも参入できるため差別化ができな状況にある。
これに対し、オーレッド(OLED)はデバイスそのものが異なり、圧倒的な付加価値をもつ差別化―
自己発光で、ディスプレイの性能は液晶とは比較にならないできる。加えて、ここにきて圧倒的に安く
オーレッド(OLED)を作れるようになった。それを担える企業として韓国の二社に加え、パナソニ
ックは自社の知財、企業技術――大型インクジェットプリンタによる画素形成技術、画質の不安定、暗
部諧調が悪い、全体の均一性、カラーシフトなどの問題解決――を保有しているので、LG社との事業
提携などの動きはプラスの方向に動く。後は、撤退したソニーやパイオニアの動きが気になるところ。
ともあり、いろいろ言ってみたいことも書いてみたいこともあるが、わたしが調査研究をはじめ20年
近くなるがやっと長いトンネルを抜け出したという思いが去来する。これは愉快だ。
● 関連特許事例
発光素子を含む画素回路を有するアクティブマトリクス型の表示装置は、発光素子のVI(電流電圧)
特性やIL(電流光出力)特性のばらつきにより、発光素子に一定電圧や一定電流を印加しても輝度ム
ラ(luminance unevenness)による画質劣化が発生。この発光素子のVI特性やIL特性のばらつきは、
例えば、発光素子の製造時のばらつきや、発光素子の経時劣化のはらつきなどにより生じる。発光素子
の製造時のばらつきによるVI特性やIL特性のばらつきは、(1)輝度ムラの発生の要因となり、
(2)発光素子の経時劣化のはらつきによるVI特性とIL特性のばらつきは、焼き付き(イメージス
ティッキング(Image Sticking)の発生の要因となる(下図、三星ディスプレイ株式會社/最下図、ソニ
ー株式会社クリック)。
この問題を解決するため、発光素子を含む画素回路を複数有し、表示データに基づき供給されるデータ
信号に対応する画像を表示する表示部と、表示期間における発光素子の発光と、センシング期間の発光
素子のセンシングとを、画素回路ごとに制御する制御部と、表示データを補正する補正部とを備え、補
正部は、センシング期間において、対象画素回路に対するセンシングが行われる場合に、対象画素回路
に対応する補正後の表示データに基づく、対象画素回路の発光素子の発光量が、対象画素回路に対応す
る補正前の表示データに基づく表示発光量から、センシング発光量が減算された発光量となるように、
対象画素回路に対応する表示データを補正することで、発光素子のVI特性がセンシングされる際に生
じうる画質の劣化を防止することが可能な、表示装置、および制御方法を提案している。
【図面の簡単な説明】
【図1】本発明の実施形態に係る表示装置における制御方法に係る処理の一例を説明するための流れ図
【図2】本発明の第1の実施形態に係る表示データと、画素回路が有する発光素子の発光状態との一例
【図3】第1の実施形態に係る表示装置における動作のタイミングチャート(timing chart)の一例
【図4】第1の実施形態に係る表示装置の構成の一例
【図5】第1の実施形態に係る表示装置の構成の一例
【図6】第1の実施形態に係る1垂直期間におけるタイミングチャートの一例
【図7】第1の実施形態に係る画素回路の基本動作の一例
※
● 折々の読書 『職業としての小説家』 28
ともあれ二〇〇〇年代に入ってから、僕は三人称という新しいヴィークルを得たことで、小説
の新たな領域に足を踏み入れることができるようになりました。そこには大きな開放感がありま
した。ふとまわりを見回してみたら壁がなくなっていた、みたいな感じです。
言うまでもないことですが、キャラクターというのは、小説にとってきわめて重要な要素です。
小説家は現実味があって、しかも興味深く、言動にある程度予測不可能なところのある人物をそ
の作品の中心に――あるいは中心の近くに――据えなくてはなりません。わかったような人々が、
わかったようなことばかり言ったり、わかったようなことばかりやっている小説は、あまり多く
の読者の手に取ってもらえないのではないでしょうか。もちろん「そういう、あたりまえのこと
をあたりまえに書いた小説が優れているんだよ」とおっしやる方も中にはおられるでしょうが、
僕としては(あくまで個人的な好みとしてですが)、そういう話にもうひとつ興味が持てません。
でも「リアルで、興味深く、ある程度予測不可能」という以上に、小説のキャラクターにとっ
て重要だと僕が考えるのは、「その人物がどれくらい話を前に導いてくれるか」ということです。
その登場人物をこしらえたのはもちろん作者ですが、本当の意味で生きた登場人物は、ある時点
から作者の手を離れ、自立的に行動し始めます。これは僕だけではなく、多くのフィクション作
家が進んで認めていることです。実際そういう現象が起きなければ、小説を書き続けるのはかな
りぎすぎすした、つらく苦しい作業になってしまうはずです。小説がうまく軌道に乗ってくると、
登場人物たちがひとりでに動きだし、ストーリーが勝手に進行し、その結果、小説家はただ目の
前で進行していることをそのまま文章に書き写せばいいという、きわめて幸福な状況が現出しま
す。そしてある場合には、そのキャラクターが小説家の手を取って、彼をあるいは彼女を、前も
って予想もしなかったような意外な場所に導くことになります。
具体例として、最近の僕の小説を引き合いに出させていただきます。僕の書いた長編小説『色
彩を持だない多崎つくると、彼の巡礼の年』の中に、木元沙羅というなかなか素敵な女性が登場
します。実を言いますと、僕はもともと短編小説にするつもりでこの小説を書き出しました。原
稿用紙にすればだいたい六十枚くらいのものになるだろうと予想して。
筋を簡単に説明しますと、主人公の多崎つくるは名古屋の出身で、高校時代にとても親しくし
ていた四人のクラスメートから「もうおまえとは会いたくない。口もききたくない」と言われま
す。その理由は説明されません。彼もあえて質問しません。彼は東京の大学に入って、東京の鉄
道会社に就職し、今では三十六歳になっています。高校時代に友人だちから理由も告げられず絶
交されたことは、心に深い傷を残しています。でも彼はそれを奥に隠し、現実的には穏やかな人
生を送っています。仕事も順調だし、まわりの人々には好意を持たれているし、恋人も何人かつ
くりました。でも誰かと深い精神的な関係を結ぶことができません。そして彼は二つ年上の沙羅
と出会い、恋人の関係になります。
彼はふとしたきっかけで、高校時代に親しくしていた四人の親友から拒絶された体験を、沙羅
に語ります。沙羅はしばらく考えてから、あなたはすぐに名古屋に帰って、十八年前にいったい
そこで何かあったのかを調べなくてはならないとつくるに言います。「(あなたは)自分が見た
いものを見るのではなく、見なくてはならないものを見るのよ」と。
実を言うと僕は、沙羅がそう言うまで、多崎つくるがその四人に会いに行くことになるなんて、
考えもしませんでした。僕としては、自分の存在が否定された理由もわからないまま、多崎つく
るがその人生を静かに、ミステリアスに生きていかなくてはならないという、比較的短い話を書
くつもりだったのです。でも沙羅がそう言ったことで(彼女がつくるに向かって口にしたことを
僕はそのまま文章にしただけです)、僕は彼を名古屋に行かせないわけにはいかなかったし、そ
して果てはフィンランドにまで送り込むことになりました。そしてその四人がいかなる人々であ
るのか、それぞれのキャラクターを新たに立ち上げなくてはなりませんでした。そして彼らの辿
ったそれぞれの人生を、具体的に描かなくてはなりませんでした。その結果として、当然のこと
ながら、物語は長編小説という体裁をとることになりました。
つまり沙羅の口にした一言がほとんど一瞬にして、この小説の方向や性格や規模や構造を一変
させてしまったのです。それは僕自身にとっても大きな驚きでした。考えてみれば彼女は、主人
公である多崎つくるに向かってではなく、実は作者である僕に向かって語りかけていたのです。
「あなたはここから先を書かなくてはいけない。あなたはそういう領域に足を踏み入れているし、
それだけの力を既に身につけているんだから」と。つまり沙羅もまた、僕の分身の投影であった
ということになるかもしれません。彼女は僕の意識のひとつのアスペクトとして、僕が今ある地
点で留まっていてはいけないということを、僕白身に教えていたわけです。「もっと先まで突っ
込んで書きなさい」と。そういう意味ではこの『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』
は、僕にとっては決して小さくない意味を持つ作品になっているかもしれません。形式的に言え
ばいわゆる「リアリズム小説」ですが、水面下ではいろんなものごとが複合的に、またメタフォ
リカルに進行している小説だと僕自身は考えています。
僕自身が意識している以上に、僕の小説の中のキャラクターたちは、作者である僕をせき立て、
励まし、背中を押して前に進めてくれているのかもしれません。それは『1Q84』を書いてい
るときに、青豆の言動を描きながらひしひしと感じたことでもありました。彼女は僕の中の何か
を強引に押し広げて(くれて)いるみたいだな、と。でも振り返ってみれば、僕は男性のキャラ
クターよりは女性のキャラクターに導かれたり、駆り立てられたりする場合の方がむしろ多いみ
たいですね。自分でもどうしてかはわかりませんが。
僕が言いたいのは、ある意味においては、小説家は小説を創作しているのと同時に、小説によ
って自らをある部分、創作されているのだということです。
ときどき「どうして自分と同じ年代の人間を主人公にした小説を書かないんだ?」と質問され
ることがあります。たとえば僕は今六十代半ばですが、なぜその年代の人間の物語を書かないん
だ。なぜそういう人間の生き方を語らないんだ? それが作家としての自然な営みではないか、
でももうひとつよくわからないのですが、どうして作家が自分と同じ年代の人間のことを書か
なくてはならないのでしょう? どうしてそれが「自然な営み」なのでしょう? 前にも申し上
げましたように、小説を書いていていちばん楽しいと僕が感じることのひとつは、「なろうと思
えば、誰にでもなれる」ということです。なのに僕がなぜその素晴らしい権利を、自ら放棄しな
くてはならないのでしょう?
『海辺のカフカ』を書いたとき、僕は五十歳を少し過ぎていましたが、主人公を十五歳の少年
に設定しました。そして書いているあいだ、自分が十五歳の少年であるように感じていました。
もちろんそれは現在、現役の十五歳の少年が感じているはずの「感じ」と同じものではないはず
です。それはあくまで僕が十五歳であったときの感覚を、「現在」に架空に移し替えたものです。
でも小説を書きながら、僕は自分が十五歳であったときに実際に吸った空気や、実際に目にした
光を、ほとんどそのままありありと自分の中に再現することができました。自分のずっと奥底に
長いあいだ隠されていた感覚を、文章の力によってうまく引きずり出すことができたのです。そ
れはなんというか、本当に素晴らしい体験でした。そういうのはあるいは小説家にしか味わえな
い感覚かもしれません。
でもその「素晴らしさ」を僕一人が単に楽しんでいるだけでは、それは作品として成り立ちま
せん。それを相対化させていかなくてはなりません。つまりその喜びみたいなものを、読者と共
有するかたちに持って行かなくてはならないのです。そのために僕は中田さんという六十代の〈
老人〉を登場させました。中田さんもある意味では僕の分身です。僕の投影です。彼の中にはそ
ういう要素があります。そしてカフカくんと中田さんが並立し、呼応し合うことによって、小説
は健全な均衡を獲得しています。少なくとも作者である僕はそのように感じましたし、今でも同
じように感じています。
いつか僕は自分と同じ年代の主人公が登場する小説を書くかもしれません。しかしそれが今の
時点で「どうしても必要なこと」であるとは思えないのです。僕の場合、まず小説のアイデアが
ぽっと生まれます。そしてそのアイデアから物語が自然に自発的に広がっていきます。最初にも
申し上げましたように、そこにどんな人物が登場することになるか、それはあくまで物語自身が
決めることです。僕が考えて決めることではありません。作家である僕は忠実な筆記者としてそ
の指示に従うだけです。
あるとき僕はレズビアンの傾向を持つ二十歳の女性になるかもしれません。あるとき僕は三十
歳の失業中のハウスハズバンドになるかもしれません。僕はそのとき与えられた靴に足を入れ、
それに足のサイズを合わせて行動を開始します。それだけのことです。足のサイズに靴を合わせ
るのではなく、靴のサイズに足を合わせるのです。現実にはまずできないことですが、小説家と
して長く仕事をしていると、そういうことが自然にできるようになってきます。なぜならそれは
架空のことですから。そして架空のことであるというのは、夢の中で起こっているというのと同
じことですから。夢というのは――それが眠りながら見ている夢であれ、目覚めながら見ている
夢であれ――ほとんど選択の余地がないものなのです。僕は基本的にその流れに従うしかありま
ごく一般的な意味合いで言ってません。そしてその流れに自然に従っている限り、いろんな「ま
ずできないこと」が、自由にできるようになります。それこそが、小説を書くことの大きな喜び
なのです。
「どうして自分と同じ年代の人間を主人公にして小説を書かないのか?」と質問されるたびに、
そういう風に答えたいと思うのですが、それでは説明としてあまりに長くなりすぎるし、相手に
すんなり理解してもらえるとも思えないので、いつも適当にごまかしてしまいます。にこにこし
て、「そうですね、そのうちにそういうものを書くかもしれませんね」みたいなことを言って。
でもそれとは別に――小説に登場させるさせないとは別にも、「今ここにある自分」というもの
を客観的に正確に見つめることは、けっこうむずかしい作業になります。今の現在進行形の自分
というのは、なかなか把握しづらいものですよね。あるいはだからこそ僕は、いろんなサイズの
自分のものではない靴に自分の足を入れ、それによって今ここにある自分を総合的に検証してい
ることになるのかもしれません。ちょうど三角法で位置を測定するみたいに。
いずれにせよ、小説の登場人物について僕が学ばなくてはならないことは、まだまだたくさん
ありそうです。またそれと同時に、自分の小説の登場人物から僕が学ばなくてはならないことも、
まだまだたくさんありそうです。これからもいろんな変な、不思議な、そしてカラフルなキャラ
クターを小説の中に登場させ、息づかせていきたいと思っています。新しい小説を書き始めると
き、僕はいつもわくわくするのです。今度はどんな人々に巡り合えるのだろう、と。
「第九回 どんな人物を登場させようか?」
村上春樹 『職業としての小説家』
次は「第十回 誰のために書くのか?」です。
この項つづく
今朝は彼女が交通事故に合った。雨降る中その場所に出かけて帰ってきたが、大したことはなかったが、
寒さに当てられた?こともあり、午前中のスルーディプリンターを組み立て作業やあれこれやってると
急に空腹に襲われ、インスタントラーメン(「サッポロ一番 塩らーめん」サンヨー食品 115円/個
税抜き)があったのでそれをレンジで加熱して食べることに何とか急場をしのぐも、しばらくしても、
震えも空腹も収まらず、今度はまる餅(佐藤食品工業)を電子レンジで加熱し砂糖醤油なんとか落着く。
ここで興味を惹いたことは2つ。朝の事故立ち会おいによるちょっとした体調異変が1つ。もう1つは、
加工食品の品質の高さ――もっとも、加工度が上がれば添加剤(燐酸エステルなど)のリスクも心配さ
れるが。前者は前後の話を含めてボリュームが多くなるのでカット。後者は、ラーメンの具材(トッピ
ング)のこととグルテンフリーの2つ。家庭で手作り冷凍食品をつくっておけば便利なこと、たとえば
チャシューや煮卵を冷凍保存しておき、ラーメン加え、お気に入りの中華鉢にいただければこれはもう
絶品のラーメンに仕上がると、ブログでも掲載してきた作業の補強で、手作り冷凍品を調べてみたとい
うわけ。
ついで、ラーメンのグルテンリスクを考え、「大豆タンパク&繊維」の固まりの「おから&おからボー
ル」のレシピとその冷凍品化を考えたというわけだが、これまた「広大妄想&過剰反応」へと発展。と
ころが、そのことを彼女にすると「そうね、私につくってくれる?」っての反応が返ってきた。これは
どういうわけだ?厨房は彼女の専用テリトリではなかったのか?後は優先すべき時間を「新うちメシ」
創作に割り当てれればいいわけで、ネット掲載しストックし電子出版しながら、特許出願し、事業化構
想」を書き上げれば好いではないか?、止まれ、これまた「過剰適応症」だ。