外部から喝采ばかりを求める人は、自分の幸福
のすべてを他人の保管に委ねているのである。
オリヴァー・ゴールドスミス
He who seeks only for applause from without
has all hls happiness in another's keeping.
Oliver Goldsmith
● "売りこみ”は悪徳か
公孟子が墨子にいった。
「すぐれた者は、かならず人に知られます。巫女をごらんなさい。予言がよく当たれば、じ
っとしていても、供え物が集まってきます。美女にしても、じっとしているから、降るよう
に縁談が持ちこまれるのです。"たしは美人です"とふれ歩いたのでは、相手にされないでし
ょう。あなたが、あらこちに出向いて、自説を説いているのは、骨折り損だと思います」
墨子はこたえた。
「今の世の中をみるがいい。美女をほしがる男は多い。だから、美女はじっとしていても、
縁談の口がかかってくるだろう。
だが、今の世の中に仁や義をほしがる人は、ほとんどいないのだ。こちらから出向いて説
かなければ、関心をもたせることはできない。
それでなくも、たとえばここに占い師が二人いて、ひとりは街角に立って多くの人を相手
にしもうひりは家にいて客を待っているとしたら、どちらのみいりが多いだろう」
「むろん、街角に立つほうです」
「仁義の道も同じことだ。こちらから出向いて人に説いたほうが、はるかに効果があるし、
しかも多くの人に説くことができる。決して骨折り損ではない」
秘密裏に遂行される「世界覇権100年戦略」
マイケル・ピルズベリー 著
野中香方子 訳
ニクソン政権からオバマ政権にいたるまで、米国の対中政策の中心的な立場にいた著者マイケ
ル・ピルズベリーが、自分も今まで中国の巧みな情報戦略に騙されつづけてきたと認めたうえ
で、中国の知られざる秘密戦略「100年マラソン(The Hundred-Year Marathon)」の全貌を描い
たもの。日本に関する言及も随所にあり、これからの数十年先の世界情勢、日中関係、そして
ビジネスや日常生活を見通すうえで、職種や年齢を問わず興味をそそる内容となっている。
【目次】
序 章 希望的観測
第1章 中国の夢
第2章 争う国々
第3章 アプローチしたのは中国
第4章 ミスター・ホワイトとミズ・グリーン
第5章 アメリカという巨大な悪魔
第6章 中国のメッセージポリス
第7章 殺手鍋(シャショウジィエン)
第8章 資本主義者の欺瞞
第9章 2049年の中国の世界秩序
第10章 威嚇射撃
第11章 戦国としてのアメリカ
謝 辞
解 説 ピルズベリー博士の警告を日本はどう受け止めるべきか
森本敏(拓殖大学特任教授・元防衛大臣)
第1章 中国の夢
天無二日 土無二王――天に二日無し、土にニ王無し
『礼記』曾子問
2013年3月、習近平が主席に就任した時、アメリカの中国ウォチャーの間で、習の
評価はまだ定まっていなかった。中国のタカ派は習を高く評価していたが、西側の観測筋
に広まっていた見方は、「この黒い髪をふさふさとはやし、温和な笑みをたたえた害のな
さそうな60歳の男は、ゴルバチョフのような改革者で、古くからの警戒を解き、西側が
長く夢見てきた民主主義の中国をついに実現するだろう」というものだった。しかし、ま
もなく彼には彼の夢があることがわかってきた。世界のヒエラルキーにおいて中国にしか
るべき地位を取り戻させるというものだ。それは、1949年に権力を掌握して以来、共
産党が渇望してきたことでもある。その1949年に100年マラソンは始まった、と中
国の指導者たちは考えている。習主席は、タカ派が掲げる「復興之路」というスローガン
を採用した。主流から外れたナショナリズム的なグループのものだった表現が、この新た
な主席の公約になったのだ。その含意が表面化するまでに長くはかからなかった。
北京の天安門広場の端に、1949年に毛沢束の命を受けて作られたピルの10階ほど
の高さのオベリスクが立っている,中国政府に認可され監督されている公認ツアーガイド
は、通常、そこへ外国人を案内しようとしない。仮に西側の人間が自分でそこへ行ったと
しても、大理石と花肖岩からなるオベリスクに彫られた中国語には、英語の案内が添えら
れていないので、意味はわからないだろう,実のところ、このオベリスクは、マラソンを
最初から支配していた思想を詳しく語っている。
この巨大なオベリスクは、ネット上では「人民英雄記念碑」とありきたりな名前で紹介
されているが※、実際には、ヨーロッパの列強に強いられた「百年の屈辱」による「中国
の嘆き」の象徴と見なされている。1939年の第一次アヘン戦争では、清朝との貿易摩
擦から、英国海軍が中国の港を占領し、破壊した。オベリスクに刻まれた碑文と彫り物は、
その後の中国の百年の歴史(少なくとも共産党政権から見た歴史)を、人々の抵抗と西洋
による占領、そしてゲリラ戦の末に1949年に毛沢東が輝かしくも中央人民政府主席に
就任し、中国の屈辱を終わらせた、と説明する。
※ "Monunlentto People’s Heroes," TraveIChinaGuide.com,http://www.travelchinaguide.com/
attraction/ beijing/tiananmen-square/People,heroes,rnonurnent.html
アメリカ人旅行者は毎日のようにオベリスクのそばを歩き、遠くから写真を撮るが、そ
こに肖かれているメッセージには気づかない。オベリスクが中国人民の愛国心の象徴にな
ったことは、わたしたちが見落としていたもう一つのシグナル、すなわち中国の正義の日
が近づきつつあるというシグナルを送ってくる。要するにオベリスクは、中国は悲嘆し、
アメリカは何も知らないという両者の関係を体現しているのだ。
中国は世界のヒエラルキーにおいて特別な位置を占めるという考え方のルーツは、中国
共産党の台頭よりはるか昔に遡る※。19世紀後半にヨーロッパの列強は、衰退しつつあ
るオスマン帝国の蔑称「ヨーロッパの病人」になぞらえて、中国を「東アジアの病人」と
呼んだ。中国の知識人の多くはその呼び名に立腹し、欧州列強をはじめとする諸外国への
怒りをさらに募らせた,「外国人はわたしたちのことを東アジアの「病人」と呼ぶ,野蛮
で劣等な民族と見なしているのだ」と、革命家の陳天華は1930年に苦々しげに書いて
いる※。その苦しみは、中国が世界のヒエラルキーの頂点というしかるべき地位を回復す
るまで癒やされないだろう。
※ James Rccvcs Pusey, China and Charles Darwin(Canlbridgc,MA: Harvard university Press,
1983),chapter 6; and xiaosui xiao. "China Encounters Darwinism: A Case of lntercultural
Rhetoric.” Quarerly Journal of Speech 81, no. 1 (1995).
※ 引用元は Guoqi xu,Olympic Drcarns: Chinaand Sports,1895-2008(Cambridgc,MA:
Harvard univcrsity Press, 2008),19.
20世紀初頭、中国の作家や知識人は、チャールズ・ダーウィンとトマス・ハクスリー
の著作に魅了された。特にダーウィンの生存競争と適者生存という概念は、中国が西洋諸
国に味わわされた屈辱に復讐する方法として共感を呼んだ。翻訳家にして学者、改革者で
もあった厳復は、ハクスリーの『進化と倫理』を最初に中国語に翻訳した人と考えられて
いる。しかし、彼は重大な間違いを犯した。「自然選択」を「排除」と訳したのだ。それ
がダーウィンの思想についての中国人の考え方を支配するようになった※。つまり、生存
競争で負けたほうは弱者と見なされるだけでなく、自然界であれ政治的世界であれ「排除」
される、と彼らは考えたのだ。「弱者は強者に飲込まれ、愚か者は賢人の奴隷になり、結
局生き残るのは(中略)時代と場所と社会環境に最も適した者だ※と厳復は書いている。
また彼は、「西洋は、劣等な民族はすべてよりすぐれた民族に滅ぼされるべきだと考えて
いる」とさえ書いている※,1911年に辛亥革命を起こし、「近代中国の父」と称され
る孫文は、民族の存続を基礎に置いた。それは列強との闘争を、白色人種による「人種の
絶滅」の脅威、つまり黄色人種を従属させ、抹殺さえしようとする動きに対する抵抗と考
えたからだ※。
※ Puscy,Chinα and Charles,190-91.ピュージーは次のように書いている。「中国の何より重
要な、革命の「科学的」理由は(中略)ダーウィンの最も重要な文章の誤りに基づいて
いる。責任を誰が負うべきかは、不明なままだ」(209)。
※ Riazat Butt, “Darwinism,Through a Chinesc Lcns,” Gardian, November 16, 2009 http://
www.theguardian.coi11/commentisfree//belief/2009/nov/16/darwin-evolution-china-politics.
※ Puscy,China and Charles Darwin, 208.
※ Orville Schell and John Delury, Weaith and Power; China's Long March to the Twenty-First
Century(London: Little,Brown,2013),131. 中国人の人種やその関係についての考え方は、
例えば次を参照。 M. Dujon Johnson,Race and Racism in the Chinas: ChineseRacial
Attitudes Toward Africans and African-Americanss(Bloomington,IN: AuthorHouse, 2007);
Fredcrick Hung,"Racial Supcriority and lnfcriority Complcx," China Critic,January 9,1930,
http://www.chinaheritagequarterly.org/030/features/Pdf/Racial%20SuPcriority%20and%201nfcr
iority%20ComPlcx.Pdf: Nicholas D.Kristof,‘IChina's Racial unrcst Sprcads to Bciμng
CamPus." Ncw York Times, January 4, 1989, httP://www.nytimes.com/1989/01/04/world/
china-s-racial-unrcst-sPrcads-to-beijing-campus.html; Frank Dikottcr,The Discourse of Race in
Modern China (Syanford, CA:Stanford University Press; 1992); Frank Dikotter, Imperfect
Conceptions: Medical Knowledge, Birth Defects, and Eugenics in China(New York: Columbia
univcrsity Press: 1998).
このテーマは1949年に再び採用された。毛沢束の著作には、ダーウィン的な思想が
散見される。毛が影響を受けたある翻訳者は、ニつの人種、つまり黄色人種と白色人種が
将来戦うことになり、黄色人種が戦略を変えないかぎり、白人が「優勢」になるだろうと
結諭づけている。カール・マルクスの著作を知る前から、毛とその一派は、中国が存続す
るには、過激な長期的戦略によって中華民族の独自性を守らなければならない、と考えて
いた※。こうして中国共産党の戦略思考は、「容赦ない競争世界における生存競争」とい
う概念に支配されるようになった。
※ Puscy,China and Charles Darwin, 208.
1930年代に国民党軍に破れた紅軍(中国共産党)が行った有名な長征(徒歩での大
移動)の問、毛は本を1冊だけ携えていた。それは西洋には並ぶもののない、歴史を教訓
とする国政の指南潜、『資治通鑑』だった。英語圏では The Genera/ Mirrar for the aid of
Goverment 呼ばれる。その書の核となるのは戦国時代の兵法だが、紀元前4000年まで
遡る逸話や格言も収められている※。特に『礼記』に拠るものは、中国人が魅了されたダ
ーウィン的な思想と一致する。曰く、「天無二日」(天に二つの太陽はない※)。財界の
秩序は、本質的にヒエラルキーを成す。そして、その頂点には、常に唯一の統治者が存在
するのだ。
※ The Genereral Mirror(「資治通鑑』)の一部の英訳は以下の書を参照。Peter K. Bol, This
Culture of Ours; Intellectual Transitions in Tang and Song China (Stanford, CA: Stanford Univers-
ity Press, 1992), 233-46,例えば、蛮族との外交に関しては「彼らの残酷さは(われわれ
とは)異なる種類のものだが、損失よりも利益を選び、死よりも生を望においてわれわ
れと同じである。彼らを支配する『道』がわかれば、彼らは、それを受けいれ、服従す
るだろう。その道を失うならば、彼らは反逆し侵略するだろ(244)。
※ Carine Defoort,The Pheasant Cap Master(He Guan Zi);A Rhetorical Reading (New York; State
University of New York Prcss,1996).206
アメリカの中国専門家が犯した最大の問違いの一つは、この『賢治通鑑』を軽んじたこ
とだ。この本は、英訳されなかった。1992年になって初めて、わたしたちは『資治通
鑑』が毛沢東の愛読書だったことを知った。ニューヨーク・タイムズ紙の記者ハリソン・
ソールズベリーが、毛沢東は1935年当時のみならず、1976年に亡くなるまで、繰
り返しその本を読んでいたことを報じた(※)。小平や他の指導者もその本を読んでい
る。また、中国の高校生は、その本から抜粋した文章を書き写して学ぶ。そこには、戦国
時代から伝わる策略の用い方、敵の包囲を避ける方法、好機が訪れるまで既存の覇権国を
自己満足にひたらせておく方法などが記されている。こうしたことをすべて、わたしたち
は見逃していたのだ。
※ ソールズベリーは、中国の戦略思考を理解するためのこの重要な手がかりを、毛沢東秘
書で伝記作家の李鋭へのインタビューで知ったと報告している。Harrison E. Salisbury,
The New Emperors;China in the Era of Mao and Deng (New York Harper Perennial 1993),480,
n.17. ソールズベリーはこう報告する。「1973年のはじめ、小平のもとをひとり
の訪問者が訪れた。訪問者は、氏が「『資治過鑑』を熟読しているのを知った」(325)。
ソールズベリーはまた、1949年に中華人民共和国を建国するために北京に乗り込ん
だ毛沢東は『資治通鑑』を携えていた。「帝国を支配するには、過去の皇帝の知恵を手
引きにするべきだ」(9)。さらにソールズベリーはこうも言う。「毛沢東の時代を生き
延びた人が皆、毛が古代の国々の栄枯盛衰の歴史について広く読んでいたことを信じて
いるわけではない」(53)。
毛沢束は明らかにダーウィンの言葉を借用してこう言った。「社会主義を奉じるわれわ
れは、イデオロギーの戦いで最適者として勝ち残るために、あらゆる状況を利用しよう
(※)」 1950年代に、毛をはじめとする中国の指導者はしばしば世界支配について
語ったが、西側の人間はそれを、アイゼンハワーやケネディやトルーマンやニクソンがア
メリカを世界の最強国と見なすのとは追って、ただの誇大妄想か、ナショナジズムの熱を
かきたてるための無害な大言ぐらいにしか思っていなかった。また、中国共産党が大躍進
時代に掲げた、「英国を追い越し、アメリカに追いつく」というスローガンを、真剣に捉
えた人もほとんどいなかった(※)。
毛沢東が主席であった時代、アメリカの諜報機関の職員は、自らの先入観や偏見に支配
されており、彼らの多くは中国人を、過激な一派に率いられた素朴で遅れた国民と見てい
た。中国の道路には自動車ではなく自転車があふれ、製造業者は扇風機さえ作れず、外国
からの投資はごくわずかだった。毛が描く奇怪なナショナリズム的計画は、西側の人間か
ら見れば、ほんのお笑い草だった。毛は各国にいた中国の大使を引き上げさせた。農民を
助けようと、穀物をついばむスズメを軍隊に命じて駆除させた。偉大な指導者は、スズメ
が害虫を食べてくれていたことを知らなかった。その結果、バッタやイナゴが大量に発生
し、穀物生産は壊滅的な被害を受けた。
※ Butt,“Darwinism.Through a Chinese Lens.”
※ Xu Jianchu. Andy wilkes, and Janet sturgeon, “Offcial and Vemacular ldentifications in the
Making of the Modem World: Case Study in Yunnan, S.W. Chhina, " Center for Biodiversity and
Indigenous Knowledge (CBIK), October 2001, 4.
アメリカの諜報機関の職員は、中国がソ連の従属的パートナーという立場に満足してい
ない、という報告を信じようとしなかった。総じてアメリカ人は、中国のように遅れた国
がソ連のライバルになり、やがてはアメリカと対峙するなどという見方はばかげていると
思っていたのだ。しかし、それを笑わない人々がいた。ソ連の指導者たちだ。彼らはアメ
リカが気づくずっと前に、中国のたくらみを知っていた。100年マラソンについての最
初の情報はモスクワからもたらされた。
かって、社会主義とは、それを名乗る国だけ社会主義が存在した。マルクスの思想が唱える"社
会主義社会"にもっとも近いのは、日本などの先進国の高度消費社会諸国であるとわたし(たち)
は考えている。毛沢東の考える社会主義がいかなるものか?よもや「ロング・マーチ」(長征)
のゴール(2049年)が、各国のひとびとを抑圧する国であろうはずかないだろうと思いた
いが、本書でそれを長考していこう。
この項つづく
第70回ジュネーブ国際音楽コンクール(作曲部門)の決勝が、スイス・ジュネーブで8日あり、兵庫
県たつの市出身の現代音楽作曲家薮田翔一が優勝した。日本人では初めて。