中国人は異民族が唱えた仏教を、なぜ理解できたのか。
老荘の思想をたくみに受容器につかいつつ、
そこで「無」から「空」への変換をはかったからだ。
が、それだけではなかった。その老荘思想を
逆にとりこんで、浄土教や禅に発展させていった。
往時の長谷川如是閑の老子論に始まっている。
とんでもなく痛快な見方だ。
昔は、こういう傑物の見方というものがあったのだ。
今は、仏教議論がせせこましくなっている。
そろそろタオイズムと浄土教と禅とを、
仏教と道教と儒教とを串刺しにしてみる必要がある。
1437夜『老荘と仏教』森三樹三郎
松岡正剛の千夜千冊
Seigo Matsuoka Jan 25, 1944-
電気抵抗がゼロになり原理的に送電中の熱ロスがなくなることから、省エネルギー化につながるとして
期待される超電導技術。さらなる普及に向け超低温まで冷却せずに超電導状態を得られる物質の開発が
進んでいる。理化学研究所などの研究グループは新たな物質設計の指針となる研究成果を公開(2015.12.
01)。
理化学研究所と産業技術総合研究所の研究グループは、高温超電導銅酸化物の高圧力下電気抵抗測定の
結果から、より高い超電導臨界温度を実現する物質設計に新たな指針を示した。 超高速で走るリニア
モーターカーや病院での検査に用いるMRI(磁気共鳴画像)装置は、超電導と呼ばれる現象を応用してい
る。超電導状態になると電気抵抗がゼロになり、原理的には送電中の熱ロスが全くなくなる。また、従来
と同じ太さの電線に大量の電流を流せるという利点もある。そのため超電導体は、情報化社会において肥大化し
つづけるエネルギー消費を抑えることができる材料として研究開発が進められてきた。ただ、超電導状態の発現
には超電導臨界温度(Tc)まで冷却する必要があり、この温度をいかに上げるかが実用化への重要な課
題。
研究グループは、現在、大気圧下で最も高いTcを示す水銀系超電導銅酸化物のHg1223とHg1212のTcをさ
らに上昇させる試みを行った。理研のキュービックアンビル型高圧発生装置(高温用)を用いて、従来
のHg1223とHg1212よりも粒子間の結合が密接で強度が高く、高圧力下でひびなどが入らない試料を作成。
これは高圧力下での物理的性質の正確測定に重要なものとなる。また、適切な熱処理を行いキャリア量
を制御してさまざまなTcを持つHg1223とHg1212を得た。さらにHg1223とHg1212の異なるキャリア量を持
つ試料ごとに、圧力によるTcの変化を調べた。その結果、大気圧下で最も高いTcを示す化学組成を持つ
試料よりもキャリア量の少ない組成を持つ試料の方が、高圧力下でより高いTcを示す。大気圧でTcの最
高値はマイナス147度だったが、6万気圧では、Tcの最高値はマイナス134度C、Δp(大気圧下で最も高い
Tcを示す試料のキャリア量をゼロとし、その値からの差)はマイナス0.025となった。さらに12万気圧
でのTcの最高値はマイナス125度、Δpはマイナス0.051だった(上図)。この傾向はHg1223にも見られ
たという。
共同研究グループは、Tcを室温レベルまで引き上げることができれば、エネルギーロスを極限まで抑えることが
でき、より高い超電導臨界温度を実現する物質設計の新しい指針を得た。今後この研究をきっかけに超電導臨
界温度をより高める実験的および理論的研究が促進され、“超省エネルギー社会”の実現につながる室温超電
導体の開発が加速すると期待されるが、商用化はだいぶん先の話になる。
Nov 27, 2015
【京セラ滋賀、年間5700メガワット時の節電で地球温暖化を防止 】
京セラは太陽電池セルを生産する「滋賀野洲工場」において、工場屋根スペースへの太陽光発電システ
ムの設置や、製造設備の省エネ化、未利用エネルギーの活用といった省エネ活動に取り組んでいる。こ
れにより年間5659メガワット時の使用電力量と約43388トンの二酸化炭素の削減に相当。
京セラの滋賀野洲工場が、環境省が実施する「平成27年度 地球温暖化防止活動環境大臣表彰をこのほど
受賞。同表彰は、環境省が地球温暖化対策を推進する一環として、08年から毎年、地球温暖化防止月
間にあたる12月に、地球温暖化の防止に顕著な功績のあった個人や団体をたたえるもの。京セラは、
10年度(から今回6年連続受賞となる.
京セラは工場のある滋賀県の太陽光発電の普及にも積極的に寄与し、滋賀・矢橋帰帆島メガソーラー発
電所(草津市、8.5(MW)、野洲・吉川メガソーラー発電所(野洲市、1.8MW)では太陽電池モジュ
ールの供給および運営を担当し、滋賀食肉センター(近江八幡市、2.0MW)へは太陽電池モジュールを供
給(上図)。工場の屋根スペースでの太陽光発電システムの設置に加えて、工場内での冷却用の冷凍機、
空気圧縮機の台数制御とボイラーの小型化による運転効率の改善、シリコン鋳造炉の断熱強化による高
効率化での省エネを実施している。また、太陽電池セル製造工程や、空気圧縮機からの排熱を温水や純
水製造設備の熱源として利用するなど、エネルギーの再利用も推進中だ。これらの取り組みにより、年
間約5659メガワット時の使用電力量と、約4388トンの二酸化炭素削減を実現。
また、この他に地球環境保護への貢献活動も実施。地元の小学校に出向き、子どもたちに、太陽電池を教材に
未来の環境を考える機会を提供する環境出前授業の開催や、国際湖沼環境委員会を通じてアジアアフリカ地域
の将来の環境政策を担う若手技術者へ太陽電池の製造方法、設置事例紹介や排水処理方法などを知ってもら
う機会を提供している。この先、この企業はノーベル平和賞を授賞することが約束されているように思えるニュー
ズだ。
【ペロブスカイト太陽電池の不安定性を改善】
ペロブスカイト太陽電池は、無機材料にもかかわらず有機薄膜太陽電池のように室温で有機溶媒に溶け
てインクのように扱えるため、印刷や塗布で作ることができるという製造面での大きな特長があります。
このため従来のシリコン太陽電池に比べて、はるかに安価に大量生産が可能になると期待され、次世代
の太陽電池として世界中で研究されている(宮坂力教授はノーベル賞に一番近い?)ます。現在、エネ
ルギー変換効率は20%を超えるものが報告されるようになったものの、製膜条件により発電特性にば
らつきが見られたり、電圧掃引方向によって異なる発電特性を示す(ヒステリシス)という現象が見ら
れるなど、再現性が悪く、発電機構の定量的な研究を系統的に行えなかったっが、近年急速にその改善
が進んでいる。
ばらつきの主な原因は、(1)無機結晶材料を溶液からの塗布プロセスにより急速に製膜による緻密で平滑なペ
ロブスカイト結晶の膜を再現良く作製するのが難しいこと、(2)緻密で平滑な結晶膜を作る比較的品質の良い結
晶を得る手法が開発――す。例えば、PbI2とCH3NH3Iが溶けたジメチルホルムアミド(DM
F)溶液からCH3NH3PbI3ペロブスカイトをスピンコート法により製膜する際に、クロロベン
ゼン溶液をスピンコート中に滴下することで、緻密で平滑なペロブスカイト膜が得られれている。(3)
急速な結晶化を促進することから高速結晶堆積法注の開発で、ペロブスカイト太陽電池の素子特性のば
らつきやヒステリシスはかなり抑制され、15%程度の変換効率が再現良くなってきている。
以上の結果では、(1)光電流発生過程には変換ロスはないが、電圧はトラップを介した再結合のロス
(変換ロス)が存在する。(2)この電圧ロスを抑制にはトラップなくす必要がある。(3)しかし、
ペロブスカイトの単結晶の作製でトラップ密度が1010cm−3程度であることがわかっている。(4)
このことからVOCは1.27 Vにまで向上できそうで、理論限界値に近い値であり、ペロブスカイト太
陽電池の(5)トラップ密度を単結今回の解析結果を基に、これまでに報告されている中で最もトラッ
プ密度の低い単結晶ペロブスカイトレベルにまでトラップ密度を下げることができたと想定した時のVOC
の予測ではほぼ理論限界値にまで向上する。(6)ペロブスカイトは再結合以外の新たなロス機構が関与
も考えられるが、(7)シリコン太陽電池に迫るエネルギー変換効率25%のペロブスカイト太陽電池の
実現も可能だと考えられる。これは益々面白くなるそうだ。
※ "Photovoltaic Performance of Perovskite Solar Cells with Different Grain Sizes”(ペロブスカイト太陽電池
の発電特性の粒径依存性)doi :10.1002/adma.201504144
● 折々の読書 『法然の編集力』 1 松岡 正剛 著
【目次】
第一部 法然の選択思想をよむ
忘れられた仏教者
六字名号の伴/宗教は「編集」されてきた/法然に吹く風
専修念仏への道
父の遺旨/浄土思想との出会い/末法を生きる/法然の読暦法ノ専修念仏の確信/山か
ら町へ/乱想の凡夫として
法然のパサージュ
兼実の「仰せ/「選択」とは何か/法然のブラウザトプリテラシーとオラリティ
「選択」の波紋
南都北嶺の逆襲/浄土でつながる……多重な相互選択/親鸞と空也
第二部 絵伝と写真が語る法然ドラマ
法然誕の地ノ突然の夜討ちノ時田の遺言/比叡山入山∠宝ヶ池越しに比叡山を望む/
18歳での遁世/浄土信仰の象徴/一向念仏則に帰す/吉水での説法/念仏宛洋の地/善導
との夢中対面/大原問答/大原問答の地/九条兼実の帰依ノ朗婉の計画ご弟fの死罪/
遊女教化/法然の臨終/法然の眠る場所
第三部 特別対談 松岡正則×町田宗鳳
大震災を経て/辺境から生まれる希望/仏教の土着化/日本仏教の系譜/仏教とイメー
ジ/法然の引き算/仏教を再読/「悪人」とは誰か/仏教における死
忘れられた仏教者
六字名号の謎
ただ一心に「南無阿弥陀仏」と称えれば、往生が約束される――。
法然の「専修念仏」の教えをごこでまとめれば、このようになります。心して「
南無阿弥陀仏」と言えば極楽に行ける。ほかのことはせずとも、ひたすらそうしな
さい。法然はそう教えたわけです。
けれどもこれって、あまりにも簡単すぎる教えのようですし、それがお勤めだと
しても、とても安易な勤行のように感じます。実際にも、仏教界ではこのような方
法を「難行」に別して「易行にといいます。中国の六朝時代の僧・曇鸞の『往生論
註』などによる分類です。その「易行」を法然は選んだ。なぜそんな大胆なことを
思いついたのでしょうか。
たしかに数多ある仏道修行のなかでも、念仏はとても身近に感じることができる
ものだと思います。私は京都の具服屋に生まれ育ったのですが、日々の周りのいた
るところでこの念仏が称えられていました。とくに母はたいへんな浄土観の持ち圭
で、寝る前には必ず「ナンマイダ、ナンマイダ……」と呟いていましたし、何かあ
るたびに「ああ極楽や、極楽や」と言っていました。毎晩のように同じ念仏を聞か
されていた私は、私ども心に「ナンマイダって何やるな」と田心ったものですが、
その念仏こそが法然の「発明」で、まさに誰しもが日々のなかで実践できる勤行だ
ったのです。
しかしその一方で、なぜ「南無阿弥陀仏にと称えれば浄Lへと往生できるのか、
これを説明するとなるとたいへん難しい。あまりに簡潔であるがゆえに、かえっ
てその奥行きが覗きにくいのです。
だいたい「南無阿弥陀仏」にあたる用語は、サンスクリット文献やパーリ語の史
料にはまったく出てきません。また、この洋字六欠字を名号とするように示唆して
いる漢訳経典をさがしても、浄土三部経のひとつの「観無量寿経」にのなかでわず
か二箇所に出てくるだけなのです。
、
そこには「声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称す。仏名
を称するがゆえに、念念の中において八十億劫の生死の罪を除く」とあります。た
しかに口称念仏を重視していますが、それが宗旨の基本になるということなど、何
も説明されていません。それに本来、念仏とは「仏を念ずる」ということで、さま
ざまな仏のイメージを思い浮かべる「鰻念」)ことだったのです。その方法には
いろいろあって、多くは「観想の念仏’が中心だったのです。それをまとめて「観
仏」というのですが、口に名号を唱えるというのは、そういう多種な念仏のうちの
ひとつの手段にすぎませんでした。
ところが、法然はその数ある念仏のなかの「称名念仏」のみに着目し、それを「
修念仏」にまでもっていった。あまりに革新的といっていい転換で、そこに帰着し
た根拠がすぐには思いつきません。
私は長らく、法然がなぜ「南無阿弥陀仏」という六字名号を祢える念仏だけで浄
上京をおこせたのか、わからなかったのです。きっと私が知らない経緯や思想があ
っただろうに、それがなかなかつかめません。けれども、しだいにその秘密が解け
てきました。この本ではその話をしたいと話をしたいと思います。
法然が先鞭をつけた鎌貪新仏教といえば、栄西、道元、口速などの数々の個性的な唱
導者が台頭してきたことで知られています。
法 然の弟子だった親鸞もその一人ですが、それまで日本の仏教者でもっとも論じ
られてきたのは、この親鸞にほかなりません。それは、浄土真字が今日最多の信徒
を抱える宗派であるというだけでなく、著作ほとんどない法然にくらべて、親鸞に
は「教行員証」や「歎異抄」にといったが著作あって、その言説にじかにふれられ
ること、ふれてみるとそのエクリチュールの華麗さや.「悪人正機説」に代表され
る逆説的不法に読み于を引きこむ魅力があって、それらに仏教思想という枠組みを
超えた奥行きや思想性を感じられるからです。
ひとことでこ言てしまえば、とても現代的なのです。とくにマルクス主義や実存
主義がはやっていか1960年代には、親鸞の思想が多くの文学者や思想家を剌激
し、知識人たちの関心を挙って親鸞へと向かわせました。曹洞宗の祖である道元も
論じられる機会の多い仏教者ですが、それもまた、足元の展開する時間哲学にアラ
ンやハイデガーをとうに凌駕する試作感じてのことでした。
その六〇年代に学生だった払も、爾多分にもれず俘在論や認識論のよ場から親鸞
今週元の思想に関心をもちました。あるいは、明恵や大日能忍や日蓮らがもつ過激
な言語的宗軟性に感応していた。そのなかにあって、ついつい法然をほったらかし
にしていたのです。仏教思想としても、現代思想想としても、あるいは世界観の豊
饒さからいっても、親鸞以降の仏教者だちから法然ヘル戻ることは難しかったので
す。そのために「後同し」にしていました。
ありていにいえば、法然っておとなしいのかと思っていたのです。さらにいうの
なら私の場合は親鸞や道元に加えて空海も好さだったのですが、どうもそれらにく
らべて法然は愚直な印象が強く、刺激矢欠けるように感じられかた。つまり、オン
トロジック(存在学的)な関心やエクリチュールっぼい関心では、法然を読むこと
がいまひとつ引っかかってこなかったというのが正直なところです。
とはいえ、そういった見方は海外でも同じだったように思います。海外での翻訳
が多いのもやはり親鸞のほうで、法然はずっと忘れられてきたといっていい。鎌倉
新仏教をめぐる議論では、あいかわらず親鸞や道元や目蓮、そうでなければ明恵や
一遍に強い関心が向けられてきました。鎌倉新仏教に「日本的霊性」を発見した鈴
本人拙ですら、そういう見方をしていました。
ところがそのうち、ちょっと考えを改めることになりました。ひょっとして日本
仏教における根底的な転換をはたしたのは法然その人なのではないか。決然の「専
修念仏」という先駆的確信には、何かよほどの理由かおるのではないか。ひょっと
するとそこには、たんなる頑囚一徹を超えるクリティカルな方法が躍如していたの
ではないか。それがのちのちの各派各祖をゆさぶったのではないか。だんだんそう
考えるようになっていたのです。
この本と出会ったのは昨日の市立図書館で偶然にみつけたもので、「ヘンダーリン」の
図書の貸し出し延長手続きで、ついでに、「存在と時間」(ハイデガー)、「地熱工学
入門」(江原幸雄・野田徹郎)を新たに貸し出し申請したのが切っ掛けであった。松岡
正剛の著書でなけれとむことは一生手にすることはなかぅたたろう。それにしてもどう
だ。書籍類のの焚書処分はいっこうに捗らず彼女にしかられるばかだ。
この項つづく