分を越えぬ生活ほど感動的な威厳のあるものはなく、
また、これほどりっぱな独立もない。
アメリカ30代大統領 カルビン・クーリッジ (『自叙伝』)
Therc is no dignity quite so impressive,and no
independence quite so important, as living within
your means.
※ no・・・so・・・as・・・「・・・ほどそんなに・・・な・・・・はない」
John Calvin Coolidge, Jr
July 4, 1872 – January 5, 1933
ハーディング大統領の下で副大統領を勤めた が、清廉をもって知られ、ハーディング
の急死後、大統領に昇任、再選。自由放任主義を貫き、アメリカ繁栄の最盛期を作った。
「量子ドット・ナノサイズを制すれば世界の産業を制す」(『2015年から未来を見
つめる Ⅱ』)で紹介したオランダのアイントホーフェン工科大学らの研究グループが
開発したガリウムリンナノワイヤ太陽燃料電池水電解デバイスのレポートを元に米国と
日本の関連特許を調べった。欧米での「太陽光燃料電池(Solar fuel cell)」の呼称を日
本で用いられている「水分解用光触媒電極」「水分解用光電極」を考慮して「光水分解
工学」と仮称することとした。アイントホーフェン工科大学らの研究は、太陽光エネル
ギーで光電気化学水素製造し、クリーンで持続可能な燃料ができ、高価な平坦なⅢ /Ⅴ
族材料系は最高の効率をもつことがわかっているが、ウルツ鉱型ガリウムリンをナノワ
イヤ化させることで少ない材料で代用できる。これは理想的なバンドエッジをもち、太
陽光吸収を最大化させ完全な水分解できる。p型のウルツ鉱リン化ガリウムナノワイヤー
の光電面で水電解を行い、電気抵抗を低減させ、光吸収を高め、表面を多段的白金堆積
させ、高電流密度で、開回路電位が達成できることを実証したが、下図の本田技研工業
の米国特許では、プロトン伝導隔膜を通して対極側に炭素含有溶液――アルコール、ア
ルデヒド、アルカン、アルケン、アルキン――を供給し、貴金属、卑金属、またはカル
コゲナイド含有する材料触媒などで有機化合物を合成する特許である。つまり水素、酸
素ガスを製造するものでは方法である。
・特開2015-179768 水分解用光触媒電極
・特開2015-200016 水分解用光電極
・特許5456785 ガス生成装置およびガス生成方法
・特許5517805 可視光応答型光触媒、水分解光触媒、水素生成デバイス及び水分
解方法
・特許5540554 光触媒装置及びガス発生装置
・特許5490042 水分解用光触媒及びそれを含む水分解用光電極
特許の大半は電極の組成――照射光の吸収帯を広げるなどで効率向上など――であり、構造・構成に
関するものは下図の本田技研工業の「特許5540554 光触媒装置及びガス発生装置」の1件である。
実用化から普及(市場形成)に移行にあともう少しかかるだろうか(残件扱い)。
● 折々の読書 『法然の編集力』 5 松岡 正剛 著
【目次】
第一部 法然の選択思想をよむ
忘れられた仏教者
六字名号の伴/宗教は「編集」されてきた/法然に吹く風
専修念仏への道
父の遺言/浄土思想との出会い/末法を生きる/法然の読暦法ノ専修念仏の確
信/山から町へ/乱想の凡夫として
法然のパサージュ
兼実の「仰せ/「選択」とは何か/法然のブラウザトプリテラシーとオラリティ
「選択」の波紋
南都北嶺の逆襲/浄土でつながる……多重な相互選択/親鸞と空也
第二部 絵伝と写真が語る法然ドラマ
法然誕の地ノ突然の夜討ちノ時田の遺言/比叡山入山∠宝ヶ池越しに比叡山
を望む/18歳での遁世/浄土信仰の象徴/一向念仏則に帰す/吉水での説
法/念仏宛洋の地/善導との夢中対面/大原問答/大原問答の地/九条兼実
の帰依ノ朗婉の計画ご弟fの死罪/遊女教化/法然の臨終/法然の眠る場所
第三部 特別対談 松岡正則×町田宗鳳
大震災を経て/辺境から生まれる希望/仏教の土着化/日本仏教の系譜/仏
教とイメージ/法然の引き算/仏教を再読/「悪人」とは誰か/仏教におけ
る死
● 専修念仏への道
専修念仏の確信
では、話を法然の生涯に戻しますが、叡山を下りた二十四歳のが年法然は求法の
ために都の各所をまわり、嵯峨清涼寺の釈迦堂に参拝したり、南都に学匠たちを訪
れます。
この時期、救いの答えを求めて多くの未見のテキストにあたった法然ですが、な
かでも永観の『往生拾因』に強く惹かれました。国宝の「山越阿弥陀図」にでも有
名な京都の永観堂は、この僧の名にちなんでいます。私も子どものころにしばしば
永観堂で遊んだものです。永観堂は通称で正しくは禅林寺というのですが、ここは
浄土宗西山脈西谷流のセンターとなった寺院でした。
永観という人は文章博士の源国経の子で、十一歳のときにその禅林寺の深観の弟
子になって修行して、のちには東大寺の別当職にまでなっています。私も著作を読
んでみましたが、なかなかの編集力の持ち主でした。とくに中国の浄土教を発展さ
せた善導や道綽の教えを拾っているポイントがたいへんに鋭い。法然もそこにイン
スパイアされたのでしょう。
ことに法然が永続の『往生拾因』のなかで気にかけたのぱ「一心専念」という一
節でした。そこには善導が著した『観経疏』についての要点が説明されていたので
す。『観経疏』というのは、浄土三部経のひとつ『観無量寿経』の注釈書で、正式
には「観無量寿経疏」という著作です。永観の解説によれば一心に阿弥陀仏の名を
念ずれば必ず往生できる、そしてその念仏方法は「もし口称せば即ち一心に専らか
の仏を称し、もし讃歎供養せば即ち一心に専ら讃歎し供養す」というものでした。
法然が目を聞かれたのは、ここで解説されている念仏の捉え方が、それまで読ん
だテキストとはずいぶん異なるものだったということでした。たとえば源信の『往
生要集』が強調していた「観勝称劣」とはちがって、口称念仏の重要性を阿弥陀仏
の願いとダイレクトにつなげていた。その点が画期的だったのです。
法然はかなりはっとしたはずです。けれども、永観の孫引きだけではまだ納得で
きません。南都の学匠たちへのインタヴューから戻った法然は、善導の原本テキス
トをさがし求め、ついに宇治平等院の経蔵(あるいは黒谷青龍寺の経蔵か)で『観
経疏』に出逢います。
こうして『観経疏』を初読・二読した法然は、しだいに胸中で何かが嘉くのを感じ
たようです。そして所伝によれば、ついに三読目に忽然とします。次に引用する箇
所が決定的でした。
一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問わず、念念に捨
てざる者、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるが故に。
(『観経疏』「散善義」)
ここには、いかなるときでも念仏を昨えることが、往生への正しい道であり、そ
れは阿弥陀仏の本願に準じていることだ、とμいてあるのです。
法然は狂喜し、いよいよ決断します。『選択本願念仏集』には、このときの様子
が次のように書かれています。
静かに以んばかれば、善導の観経疏は、これ西方の指南、行者の目足なり。
しかればすなわち西方の行人、必ずすべからく珍敬すべし。(中略}
ここにおいて貧道、昔この典を披閲して、ほぼ素意を識る。たちどころに余
行を舎めて、ここに念仏に帰す,
(『選択本願念仏集』)
この「たちどころに余行を舎めて、ここに念仏に帰す」という決断こそが、日本
の仏教史を大きく変えた法然の「選択」でした。
先に引用した『観経疏』の記述はごくごく短いものですが、法然がここまでたど
り着いたのはむろん偶然ではありません。一貫して「救い」の方法を求めていた法
然は、どんな経典にもその根拠となるロジックやフレーズを探っていました。法然
は、浄土三部経・一切経・天台三人部から源信・永観・善導にいたるまで、大半の
テキストを同じ”注意のカーソル”で読みこんでいたのです。かくして膨大な読書
経験は法然の編集的縮約力によって網目の結び目のように残され、逆にその結び目
を重ねあわせながら眼前のテキストを読むことをくりかえすことによって、核心へ
と近づいていきました。いわば、これまでの全読書が篇目のような役目をはたして、
多重に読みこむことかできたのだと思います。
散善義 観経正宗分散善義 巻第四
法然にとって『観経疏』のわずか数行は数行ではなかったのです。その数行はそ
れまでの全読激‥過程の集約であり、それゆえ極光のように光を放つ思想結晶だっ
たのです。気の遠くなるような読書も、「篇目を見て大意をとる」という読書法の
開発も、それに裏付けられた縮約力も、すべてはいまや「南無阿弥陀仏」と称える
ためにあった。そのように思いたくなる、法然の決着でした。
称名念仏による往生を法然に確信させた『観経疏』の文は、「散改善義」のなか
に収められていました。この「散善」という言葉にも法然の革新性を見ることがで
きますから、すこし補足したいと思います。
もともと『観無量寿経』は、古代インドのマガダ国の王子の阿闍世が提婆達多(
ディーヴアゲッタ)にそそのかされて父玉を段害したという悲劇を描いた経典とし
て行名で、ここから古澤平作の「阿闍世コンプレックス」という概念がとられて、
フロイトのエディプス・コンプレックスの東洋版あるいは日本版として話題になっ
たくらいに、そのドラマ性が強い経典なので、私はその注釈書もそういう延長だと
思っていたのです。
ところが善導の『観経疏』は、ポストモダン思想のテキスト解釈に匹敵するほど
徹底したもので、善導以前にどのように「観無縫寿経」が説明されていたかという
ことを、次々に論破しているのです。四部構成で、とくに定善義と散善義の章が圧
巻です。
どういうことを言っているか。結論だけ紹介しますと、われわれには、静まった
心で善をつむ「定善」と、乱れた心のままで善をつむ「定善」とがあるというので
す。もちろん天台などは「定善」を是とするわけですが、法然が着目したのは「敗
善」のほうでした。現実に乱れた社会に生きる民衆、とるにたりない自分のような
凡夫にとっては、「散善」である念仏のほうがいい、いや、それこそが重要だと見
たのです。これもまた法然の決定的な着眼点でした。
こういった見方は、それまでの日本仏教にはまったくなかったものです。ごくご
く簡単に仏教史を追えば、日本の仏教はまず氏族仏教として、次には鎮護国家のた
めの護国仏教として確立します。「律令のような仏教」です。一方、平安初期の最
澄や空海の仏教はニューシステムとしての仏教、いわば「王法に対応する仏法」で
す。世界の複雑さを包尽した独特の宗教的総合性をもっているという意味において
たいそうシステム的でした。緻密で圧倒的なものです。
しかし、日本仏教はそこからさらに移り変わっていった。それが時代の要請だっ
たのです。これまでもくりかえしてきたように、永承七年(一〇五二)を初年とし
て末法の時代が始まったことに加えて、源平争乱と飢餓の拡大が社会に乱逆と混沌
をもたらしていた。これでは王法にも仏法にも、むろんのこと社会のオーダーを決
める律令にも、一挙に総合システムをかぶせるわけにはいかなくなったのです。平
安末期の社会には「類の死」とともに「個の死」か迫リていましたから、国家や貴
族、ましてやいま勃興しつつある武士たちには、律令も玉法も仏法も知ったことで
はない。そんなこと、いっさい関係がないのです。
かくてここに期待されたのが「自分で選んだ仏教」あるいは「みんなで選べる仏
教」というものでした。けれども誰もが僧侶のように修行できるわけではないし、
学僧のように仏教の教義が理解できるはずもありません。多くの民衆はえ字も読め
ないし、往生の意義もわからない。でも、法然白身はその面倒な経輿の大饗に目を
通し、厳しい修行もやってきたわけです。それならその法然が選んであげればいい
のではないか。法然の「選択」がみんなのヒントになればいいのではないか。
おそらくはこんなふうな判断にちとづいて、選べる仏教にとしての専修念仏によ
る仏教を断固として「選択‘したのではないかと思います。それでどうなったのか
といえば、法然に始まった選択型仏教の潮流はとどまることを知らず、のちの道元
や日蓮もそのことに気がつくわけですから、これはまさにニューウェーブでした。
一人の念仏が、一人の座禅が、一人の題目がそれぞれ「選んだ仏教」になるという
ことの、スタートだったのです。
法然が「観経疏」から「散善」としての念仏を選ぴとったことには、おそらくは
以上のような背景があったにちがいありません。とはいえ、法然は短絡的に念仏に
走ったわけではありません。考えに考えたすえに、阿弥陀仏の本願を信じる称名念
仏を選んだのです。
この項つづく
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