ぼくはきみたちの標本箱のなかで死ぬわけにはいかない。
吉本 隆明『その秋のために』
Takaaki Yoshimoto 25 Nov, 1924-16 Mar, 2012
● ロ-リングストーズ・イン・キューバー
The Rolling Stones are coming to Cuba!
さすが、ヘミングウェイが愛したキューバ。何でも気楽に受け入れる国柄。キューバ危機はいまや隔世の感。劇的に変わっ
ていくのだろうか?所得格差や環境破壊や犯罪がだけがガン細胞のごとく浸潤していく社会になっいくのか?そんな心配
事はさておき50万人の観客が熱狂する。
● 目 次
解題
秦
斉
楚
趙
魏
韓
燕
西周・東周・宋・衛・中山
魏
中原にあって"天下の枢(くるる)"と称された魏は、戦国初期、他国に先がけて国内の改革に着手した結果、当
時最強の国にのしあがった。最初、安邑に都したが、前三六一年、大梁に遷都してからは、"梁"とも呼ばれる
ようになった。中原は文化も開けていたが、反面、戦乱に巻き込まれる回数も少なくなかった。魏はそれで急
速に国力を消耗する。とくに決定的な損害を受けたのは、斉に大敗した「馬陸の戦い」(前三四一年)である。
その翌年には、商君の率いた秦の軍にも敗れ、時代の指導権を秦、斉にあけわたした。
「悖(もと)れる者の患(うれ)いは、まことに悖らざる者をもって悖れりとなすにあり」
「王の動いよいよ数(しばしば)せば、王を離るることいよいよ遠からのみ。楚に至らんとして北行するがご
とし」
「天子の怒りは、伏屍百万、流血千里なり」
● 無茶な話
魏の公叔痤(こうしゅくざ)病む。恵王往きてこれに問いて曰く、「公叔、病もし諱むべからずんば、まさに
社稜をいかんせんとする」。公叔痤対(こた)えて曰く、「痤に御庶子(ごきょし)・公孫鞅(こうそんおう)
あり。願わくは王、国事をもってこれに聴け。もし聴くこと能わずんば、境を出でしむるなかれ」。王応えず、
出でて左右に謂いて曰く、「あに悲しからずや。公叔の賢をもってして、寡人に、必ず国事をもって鞅に聴け
と謂う。悖らずや」。公叔痤死す。公孫鞅これを聞きて出奔し、西して秦にとく。孝公受けてこれを用う。秦
果して日にもって強く、魏、日にもって削らる。これ公叙の悖れるにあらず、恵王の悖れるなり。悖れる者の
思いは、まことに悖らざる者をもって悖れりとなすにあり。
大秦帝国
〈公叔座〉 魏の功臣で、宰相の地位にあった。公孫骸の才能を見込み、いずれ恵王に推薦するつもりで自分
の手元に引き留めておいたのである。このころが魏の全盛時代で、これ以後魏の勢力は下降線をたどって行く。
〈公孫鞅〉 のちの商君。衛の国王の一族、衛鞍ともいう。かれが魏を出奔したことによって、かれ自身の運
命だけでなく、その後の歴史を大きく変えた。すなわちかれはこのあと秦に行って孝公に仕えるが、そのとき
行なった改革は"商君の変法"といわれ、法治主義の立場に立って、強力な中央集権国家をつくりあげたもので、
後年、秦が富強をなす礎石となった。しかし、あまりにも厳しく法を執行したので、人々の恨みをかい、次の
恵王の代に、謨言にあって車裂きの刑に処せられる。前三三八年のことである。
秘密裏に遂行される「世界覇権100年戦略」
マイケル・ピルズベリー 著
野中香方子 訳
ニクソン政権からオバマ政権にいたるまで、米国の対中政策の中心的な立場にいた著者マイケル・ピルズベリーが
自分も今まで中国の巧みな情報戦略に騙されつづけてきたと認めたうえで、中国の知られざる秘密戦略「100年マラ
ソン( The Hundred-Year Marathon )」の全貌を描いたもの。日本に関する言及も随所にあり、これからの数十年先の
世界情勢、日中関係そして、ビジネスや日常生活を見通すうえで、職種や年齢を問わず興味をそそる内容となって
いる。
【目次】
序 章 希望的観測
第1章 中国の夢
第2章 争う国々
第3章 アプローチしたのは中国
第4章 ミスター・ホワイトとミズ・グリーン
第5章 アメリカという巨大な悪魔
第6章 中国のメッセージポリス
第7章 殺手鍋(シャショウジィエン)
第8章 資本主義者の欺瞞
第9章 2049年の中国の世界秩序
第10章 威嚇射撃
第11章 戦国としてのアメリカ
謝 辞
解 説 ピルズベリー博士の警告を日本はどう受け止めるべきか
森本敏(拓殖大学特任教授・元防衛大臣)
第4章 ミスター・ホワイトとミズ・グリーン
趁火打却(ちんかだこう)――火に趁(つけこ)んで却(押し込み)を打(はたら)く
『兵法三十六計』第五計
ニクソンが1972年に対中交渉を始めて以来、アメリカは、中国に対する立ち位置を変え、それほど薔薇
色でもない光の中で中国のリーダーシップを見つめ直す機会を得た。しかし、アメリカ政府はその機会を生か
そうとせず、安定した米中関係をできるだけ早く取り戻そうとした。学生たちが虐殺され、リベラルな改革派
が排除され、穏健派のトップが失脚した後でさえ、ブッシュ大統領は以前からの誤解にしがみついた。自宅軟
禁に置かれているかつての改革派指導者、趙紫陽や、趙に先立つ機知に富む指導者、胡耀邦を讃えようとする
人は、アメリカ政府にはいなかった。両者がそれぞれ亡くなった時も、アメリカ政府はその悲運を嘆こうとは
しなかった。彼らこそ真の改革者だったのでは、と推測する人はいなかった。そもそも、彼らがトップにいた
時に進めようとした改革の内容を誰も知らなかった。その情報は後に、かつて胡と趙のもとで政治の民乳化に
取り組んだ亡命者によってもたらされた。
当時のわたしは相変わらず、小平と江沢民は真の改革者だと思っていた。だがまもなく、偽の改革者を支
援し、真の改革者を事実上見捨てたことは、アメリカにとって取り返しのつかない過ちだったことを悟った。
報告を完全なものにするため、わたしはパリに派遣された,逮捕を逃れ、フランス政府に保護されている多
数の党幹部に会って話を聞くためだった。彼らは天安門事件の後に国外に亡命し、反体制組織を築いて、「民
主中国陣線」と命名した。民主中国陣線は、10カ条の綱領を採用し、亡命政府として西側諸国に受け入れら
れることを夢見て指導者を選出した。しかし、ブッシュ大統領は、その組織も、10カ条も、その指導者の厳
家其も無視した。厳は回想録の中で、政治改革を求める苦闘や、アメリカ式のシステムを採用しようとする努
力について、詳しく述べている(注17)。嚴は趙紫陽直属の部下であり、彼の記述は別の亡命者で、胡耀邦直
属の部下だったk銘の回想録の内容と一致する(注18)。だが、彼らの声はあまりに小さく、また、アメリカ
に届くのがあまりに遅かった。結局のところ、鄭小平はフォード、カーター、プッシュ大統領をもてなし、タ
イム誌の表紙を二度飾った。ミズ・グリーンによると、が選んだ後任者は、エルビス・プレスリーの歌まで
歌うという。
「民主主義の力は、天安門広場での不幸な出来事を乗り越えると確信する」と、ブッシュ大統領は語り(注18)
さらには国防総省に中国への魚雷、レーダー、その他、契約済みの軍需品の出荷を命じた。ニクソンの中国政
策と深く関わっていたため、ブッシュには中国を新たな光の中で見ることができなかった,その立ち位置をア
メリカのピジネスリーダーはよしとした。彼らは、いずれ世界最大の市場になるはずの中国とのつながりを深
め、ピジネスの機会を拡大することを熱望していたからだ。
中国の「擁護者]というブッシュのスタンスを、後任のビル・クリントンは痛烈に非難した。1992年の
大統領選でクリントンは、就任した暁には、中国に対し、ブッシュより厳格な姿勢をとると約束した。そして、
ブッシュに勝って大統領になると、アイゼンハワー、ケネディ、ジョンソン以来、どの大統領より強硬な対中
路線を敷いた。
クリントンは、中国を訪れたことがなく、アーカンソー州知事時代に、四度、台湾を訪れている。大統領選
のさなかには、「ブッシュ大統領は北京の肉屋を甘やかしている」と攻撃した(注20)。クリントンが大統領
に就任するとすぐ、国務長官のウォーレン・クリストファーは、上院外交関係委員会でこう宣言した。
「わたしたちの政策は、経済力の強化と政治の自由化を後押しして、中国における共産主義から民主主義への
広範で平和的な移行を手助けすることだ」
このような取り組みに、前大使、ウィンストン・ロードも加わったが、彼は大安門の大虐殺と、中国のリー
ダーシップについての長きにわたる自らの読み違いに大いに衝撃を受けており、アメリカにおける最も容赦な
い中国批判者のひとりになった。当時、国務次官哺(東アジア・太平洋担当)だったロードは、中国に厳しい
条件(人権擁護と民主的選挙の面で進歩が見られなければ、貿易上の特別待遇はなくなる)を突きつけること
を、上院外交関係委員会に約束した。1993年、下院のナンシー・ペロシと上院のジョージ・ミッチェルの
ふたりの民主党員の尽力により、中国に対する一連の条件が定められた(注21)。1980年代に見られた、
中国の改革に対する楽観的期待は消滅したように思われた。
1993年5月28日、クリントン大統領はホワイトハウスにダライ・ラマの代理人と、天安門広場で抵抗
した学生のリーダーを含む40名の反体制派中国人を招待し、クリントン政権の中国に対する厳しい姿勢はピ
ークに達した。中国政府はこれを、中国繁栄に必要な米中関係のすべてを脅かす、前例のない批判と見なした。
そこで彼らは仕事に取りかかった。
中国の情報源との接触を維持していたミスター・ホワイトによると、中国の諜報局はクリントン政権内部に
中国の扱いを巡る対立があることに気づいていたので、アメリカ政府内に強力な親中派グループを築く戦略を
立てた。そして、中国に対して好意的な国家安全保障担当補佐官のトニー・レイクと、副補佐官のサンディー
バーガーに目をつけた,また、当時、国家経済会議議長だったロバート・ルービンを、グローバリゼーション
と自由経済を擁護するその立場ゆえに味方と見なし、経済諮問委員会議長のローラ・タイソン国際問題担当の
財務次官でハーバード大学の経済学者、ローレンス・サマーズもその同調者だと判断した。
中国はあらゆる手を使って、これらの人々を中国寄りの財界人と接触させた,合わせて、影響力あるアメリ
カの財界人に、商取引をちらつかせた。クリントンの選挙戦を経済的に支援した有力者たちは、クリントンに
直訴して、中国にボーイング航空機を売り込むのを邪魔したり、アメリカの商業衛星を中国のロケットで打ち
上げる計画(アメリカにとって数百万ドルの節約になると見込まれた)を妨げたりしないことを求めた。有権
者の経済的利益を守るという名目のもと、アメリカ連邦議会では、中国に味方する議員が増えていった。
そしてついに1993年末、中国が現在、「クリントン・クーデター」と呼ぶものが起きた。中国に同調す
る面々が大統領に、反中姿勢の緩和を認めさせたのだ。クリントンがかつて約束したダライこフマとの新たな
会談は実現しなかった。対中制裁は緩和され、後に解除された。クリントン政権内の親中派の多くは、先見性
のある政治的手腕と、中国の意思決定者たちとの接近により、中国政府に「中国の友人」と呼ばれるまでにな
った。その間、中国では静かに、反体制派に対する厳しい弾圧が進んでいた(注22)。
すべてが元通りになった、あるいはそのように見えた,再び、アメリカは中国を同盟国らしきものと見なす
ようになった。アメリカ側は、大安門の弾圧は不幸な、そして一時的な後退にすぎないと解釈した。必要なの
は、あとしばらくの辛抱だ、と。しかし中国側の反応はまったく違っていた。彼らは、いにしえより覇権国が
挑戦者をどう扱うかを熟知していた。
United States bombing of the Chinese embassy in Belgrade, May 7, 1999
クリントン政権の2期目の終わりに近い1997年5月7日金曜日、アメリカはNATO同盟国を率いて、
セルビアとその代理国に軍事攻撃をしかけた。2機のB2爆撃機がミズーリ州ノブ・ノスターのホワイトマン
空軍基地を離陸し、セルビアの首都、ベオグラードに向かった。パイロットは、「ベオグラードー番倉庫」と
(表示?)されたものにJDAM(衛星誘導爆弾)を5発、投下した。標的のデータを提供したのはCIAで、
データは二度検証されていた。しかし、その情報は残念ながら、そして悲劇的に、誤っていた。爆弾は深夜、
ベオグラードの中国大使館の南側に命中し、3名の大使館員が亡くなった。
この誤爆が起きたのは、わたしがミスター・ホワイトと出会ってから10年ほどたった頃だった。彼はミズ・
グリーンほど信頼性は高くなかったが、愉快な人なので、わたしは好ましく思うようになり折に触れて会って
いた。中国大使館が爆撃を受けた夜、クリントン大統領の謝罪に中国がどう反応するか、見通しを尋ねるため
にミスター・ホワイトに接触した。
ベオグラードでの誤爆は、言うまでもなく悲劇的な事故だった。わたしには、それが中国政府からある補の
反応を引き出すことはわかっていた。だが、その大きさまでは予測できなかった,アメリカ側の情報アナジス
トの大半もそれを予測できず、中国の意図について別の筋から警告を受けたが、無視した。
ミスター・ホワイトは即座に、その誤爆は、かつて彼が語っていた新たな超ナショナリズムを実行するため
の絶好の機会を中国政府に提供した、と言った。「反米の暴動が起こり、何日も続くでしょう」と彼は予測し
た。
暴動? まさか。事故だったことが、これほど明らかなのに? すでに、アメリカ高官は謝罪していた。
しかし、ホワイトの確信は揺るがず、それには十分な理由があった。かねてより彼は中国政府内部で反米勢
力が力をつけつつあることを知っており、わたしたちにそれを警告していた。その頃、駐中国大使のジェーム
ズ・サッサーは、自分が包囲されていることに気づいた。
ミスター・ホワイトは、中国は誤爆を事故と見なさず、覇権国による「鼎の軽重を問う」行為として見ると
読んでいた。「中国側はこれをアメリカによる警告、中国の決意を問う行為と見るでしょう」と彼は語った。
暴動が始まったときサッサー大使は、ミスター・ホワイトの予測、つまり中国のタカ派と戦国時代から続く
考え方を軽視してはならないという信念に基づく予測について、何も知らなかった。またサッサーは、3マイ
ル西にある共産党中央政治局の秘密会議室で何が起きているかも、まったく把握していなかった。そこでは、
アメリカによる大使館の「攻撃]は、抗しがたい「開の声」であると結諭づけられた。爆撃から数時間のうち
に、何百人もの中国の市民が、アメリカ大使館の門前に集結し、その多くが石や卵、トマトを投げ込み、アメ
リカとNATOへの「復讐」を叫んだ。
その土曜の午後、サッサーは執務室にいた。まもなく彼は、大使館から安全に脱出できないことを悟った。
数日間で外の抗議者は数万人に増え、中国で最も高位にあるアメリカ人は事実上、中国大衆の囚人となり、着
替えもシャワーもできなかった。執務室に閉じ込められたまま、フリーズドライの軍用食を食べ、毛布もなし
に床で寝た。
翌5月9日、日曜の夜、デモ隊が大使館の割れた窓から火炎瓶を2本、投げ込んだ。燃え上がった火は、海
兵隊保安警備隊(各国の米大使館の警備にあたる部隊)が消火器で消した。さほど遠くない部屋には、コンク
リートの塊が投げ入れられたが、そこは大使の妻と息子が逃げ込んでいた居間だった。大使は、中国高官と電
話で話せないことに困惑していた。サッサーがニューヨーク・タイムズ紙に語ったように、「大使館の前で何
が起きているのかを、彼らが知っているかどうかもわからなかった(注23).
大使の主張、少なくとも希望に反して、中国の指導者たちは何が起きているかを正確に知っていた。中国で
抵抗運動が自発的に起きることは稀であり、10年前に起きた天安門広場での示威行動が、国の指導者たちを
怖がらせたのもそのためだ。大使館前の抗議行動を衷で操っていたのは中国情報部だった。その証拠に、多数
の僧侶、チベットの僧侶、道学者、カトリック、プロテスタント、イスラム教の指導者といった政府公認の主
要な宗教の代表もやってきて、デモ行進を始めた。
5月10日月曜は終日、警官が行進の参加者をアメリカ大使館の25フィート内に誘導した。多くの人が「
打倒、アメリカ帝国主義」と叫び、中国の国歌を歌った。若い男たちがヘルメットをかぶった民兵越しに大使
館の中ヘコンクリート片を投げ入れた(注24)。ある時点で、大使館貝は、抗議者たちが突入するのを恐れて、
重要書類をシュレッダーにかけはじめた。ついにその日の午後、中国外相の唐家蔵は、当惑するアメリカ大使
に電話をかけた。唐は「アメリカ率いるNATO」に四つの要求を突きつけた。それには誤爆に対する「公式
の謝罪」も含まれていた(注25)。
この項つづく
注18.Ruan Ming、with Nancv Liu. Peter Rand. and Lawrence R,Sullivan,eds.,Deing Xiaoping: Chronicle of an Empire
(Boulder,CO: Westview Press, 1994),140,50.
注19."Thc Prcsidcnt's N(nvsConfercnce," June 5、 1989,Thc Georgc Bush PresidentiaI Library, 以下のサイトで人手可能。
http://bushlibrary.tamu.edu/research/public_papers.php?id=494&ycar&month.
注20.Mann, About Face, 262.
注21.例えば次を参照。Constantine Menges,China: The Gathering Threat (Nashville,TN: Nclson Currcnt, 2005),124-25.
注22.Tylcr,Great Wall, 381-416.
注23.Elisabeth Rosenthal, “Envoy Says Stoning Will End. Ties Won’t, "New York Time, May 11, 1999, 以下のサイトで入
手可能。http://partners,nytimes.com/library/world/euroPe/05H99kosovo-china-sasscr.html.
注24. Erik Eckholm ”China Raises Then Lowers Tone in Anti-U.S. Protests at Embassy,¨New York Times,May 11. 1999,
以下のサイトで入手可能。 http://www.nytimes.com/1999/05/11/world/crisis-balkans,china-china-raises,then-lowers-
tone-anti,us-protests'embassy.html.
注25.同上。
終結合唱「われらは涙流してひざまずき:Wir setzen uns mit Tränen nieder」
昨日、安土駅に所用で車を走らせる。カーステの選曲は自動選曲で、何が出てくるかわからないが、偶然に、バッ
ハの『マタイ受難曲』が流れる。"心の中の乾き"に津波のごとく流れ込み聞き入る(運転のの不注意にならぬよう
にBGM感覚で)。
マタイ受難曲 (Matthäus-Passion) とは、新約聖書「マタイによる福音書」の26、27章のキリストの受難を題材にし
た受難曲。バッハのマタイ受難曲 (Matthäus-Passion) は新約聖書「マタイによる福音書」の26、27章のキリストの
受難を題材にし、聖句、伴奏付きレチタティーヴォ、アリア、コラールによって構成された音楽作品。正式なタイ
トルは「福音史家聖マタイによる我らの主イェス・キリストの受難 Passion unseres herrn Jesu Christi nach dem Evan-
gelisten Matthäus」となる。バッハが作曲したとされる受難曲は、マタイ受難曲(2作あったとされるが、2作目は
合唱が2組に分けて配置される)のほか、ヨハネ受難曲、ルカ受難曲、マルコ受難曲の4つあり、ルカ受難曲は真
作と見なされておらず、マルコ受難曲は台本のみが現存し、他は消失している。
ヨハネ受難曲(Johannes-Passion)は、新約聖書「ヨハネによる福音書」の18-19章のイエスの受難を題材にした受
難曲。多くの音楽家が作曲してきた。このうち最も有名なものはバッハ作品(BWV245)である。この二曲とも合唱
迫力に圧倒されてしまう。飽きるまでオペラや賛美歌など聴きいることに。
著作権法が改定あるいは強化され、ユーチューブも何となく疎遠な感じになっている。以前なら、作業の合間気分
転換に鑑賞できた楽曲類も素人がカバーする曲しか聴けなくなるわびしくなる。車のBGM用に本格的に聴くなら、
ダウンロードするかレンタルCDで簡単に聴けたのだが、これから、そうも行かなくなるのだろうか?不安だ。、
著作権が彼の創作した著作物に関して有する枠利には次の2種煩のものがある。 その1は、複製権,上演権,翻
訳権など著作者が著作物に対しもつ財産的利益を保護する権利――総称して著作財産権という。その2は、公表権,
氏名表示権,同一性保持権など制乍者がノ著作物に対して有する人格的利益を保護する権利――総称して著作人格権
または著作人格権という。この2種の権利相互の関係およびこれらの権利と著作権との関係いかんをめぐり、3つ
の見解が対立しているという。
見解。この説によれば,制乍者人格権は著作権の概念には包含されず、これとは全く別個の権利ということ
になる(a)。 著作者人格権を著作権の概念の中に含めはするが,その中で著作財産権と対立・併存するものと解する見解。
この説によれば,著作権は著作財産権と著作者人格権という性質の相容れない2種の権利の複合権となる(b)。 著作者人格権を著作権概念の中に含める点では第2説と共通であるが,著作財産権と著作者人格権とは相互
に密接な関係にあり、分離することは不可能であるとする見解である。この説によれば、著作権とは著作財
産権と著作者人格権権とが渾然一体となった単一の権利であるということになる(c)。
これらの3つの説は、a、bは二元的構成論、cは一弦的構成論として整理できるが本来的に一致できず、著作権
概念の統一的把握がいかに困難であるかを如実に物語っていると、『著作権概説』の著者は指摘しているが、粘り
強く合意形成しなければならない?ということらしいしい。