日本人の中からサドとかバタイユのような、そういう作家を求めようとしても難しい。
みんな何かにすり替わっている。
吉本 隆明
Takaaki Yoshimoto 25 Nov, 1924-16 Mar, 2012
● ルックスが全てじゃない、遺伝子の宝くじに当たっただけ!
毎年大規模な世界的講演会を主催している非営利団体TEDの公開ビデオの驚異的なアクセス数を記録するキャメ
ロン・ラッセル――87年6月14日米国ボストンに生まれ、16歳のときスカウトされ、モデルとなる。身長1
メートル75センチ、黒めのブロンズの髪の毛、茶色の瞳、趣味はチョロ演とカンフー――は、彼女自身が「遺伝
子の宝くじ」に当たったと認めている。彼女は長身で美しいファッションモデル。下着モデルとしても有名だが、
外見だけで判断してはいけないと、彼女はこの勇気ある誠実なトークで、自身を育てたモデル業界の実情をセルフ・
デリジョンにシニカルに暴き、「ルックスが全てじゃない、遺伝子の宝くじに当たっただけ!」と語り注目を浴び
る。たしかに、生命を授かる確率が2百数十兆分の1といわれるなかのでのことと考えれば彼女の言い分通りだが、
数億分の1の頂点に立つ現実はいかんし難く、「ルックスも全て!」と 見惚れている男がいることも事実。しかし
ながら、高価なプレデンターション料を支払っても出演する裏には、ヒラリークリントンに見倣い女性大統領を目
指すつもりか、あるいは、新しい企業家を目指すのかそれはわからなが、それはさておき、米国はTEDのように
プレゼンテーション事業のプラットフォームを開発する国柄であると感心するビデオである。
● 目 次
解題
秦
斉
楚
趙
魏
韓
燕
西周・東周・宋・衛・中山
韓
中原の、しかも中心にありながら、そのためにかえって強くなれなかった国、それが韓だ。強国に囲まれて外
交に腐心し、この国出身の韓非子に「外交にぽかり気をとられて内政の充実を忘れるとは!」と叫ぱしめたゆ
えんである。韓は、現在の河南省中部から山西省にかけて位流し、都を鄭においた。魏・趙とともに晋を三分
して独立し、前四〇三年、諸侯として認められる。七雄の中では、国土も狭く国力もふるわなかった。地理的
に、まともに秦の圧力を受けたので、滅ぼされたのも六ヵ国の中では一番早い(前二三〇年)。
「それ尽くるあるの地をもってして、已むなきの求めを逆(むか)うるは、これいわゆる怨(うらみ)を市(
う)りて禍を買うなり」
「むしろ鶏口となるとも、牛後となるなかれ」
「禍を造(な)して福を求むるは、計戊くして怨深し」
「唇掲(つ)くればその歯寒し」
燕
戦国時代の刺客には、後世の"暗殺者""殺し屋"のくらいかげはない。あるものは。"意気"に感じ、"義"を行な
う悲壮感である。有名な刺客・荊軻の故事をうんだ燕は、戦国七強のうち、最も北にあった。北方の勇猛な未
開民族と南の強国にはさまれ、よく八百年にわたって存在をつづけたが、そのフィナーレは悲壮であった。
「臣の不信は、これ足下の福(さいわに)なり」
「指を詘(く)してこれに事え、北面して学を受けば、己れに百する者至り、先だち趨(はし)りて後れて息
(いこ) い、まず問うて後に嘿(もく)せば、己れに什する者至り、……恣睢(しすい)奮撃し、呴籍叱咄
(くせきしつとつ)せば、徒隷の人至らん。これ……士を致すの法なり」
「死馬すらかつこれを五百金に買う。いわんや生馬をや」
「王、まことに士を致さんと欲せば、まず閥より始めよ」
「風は蕭々として易水寒し、壮士ひとたび去りてまた還らず」
● 先ず隗より始めよ
前四世紀末、燕は内乱がおこり、これに乗じた斉の侵略を受けて壊滅状態となった。そのさなかに即位した昭
王は……。
燕は敗戦で荒廃していた。そのとき、王位についたのが昭王である。
昭王は、敗戦の恥をすすぐため、礼をつくし、禄を厚くして、人材を招こうとした。
そこでまず郭隗先生に相談した。
「わが国は、内乱に乗じられて斉に破れた。この恥をすすぎたいが、小国の悲しさ、力不足はいかんともしが
たい。この際、人材を招き、その協力を得て先代の恥をすすぎたいが、ついては、先生の考えを、お聞かせ願
いたい」
郭隗先生は答えた。
「帝王はよき師をもっております。また王者はよき友を、覇者はよき臣をもっているもの。しかるに燕国を滅
ぼす王は、つまらぬ臣をかかえているものです。人材を招きたいとおっしゃるが、それにはいくつかの方法が
あります。
礼をつくして相手に仕え、謹しんで教えを受ける。これならば、自分よりも百倍すぐれた人材が参ります。
相手に敬意を表し、その意見にじっと耳を頓ける。これならば、自分よりも十倍すぐれた人材が集まります。
相手と対等にふるまう。これでは自分と似たり寄ったりの人間しか集まりません。
床几(しょうぎ)にもたれ、杖をにぎって横目で指図する。これでは小役人しか集まりません。
頭ごなしにどなりつけ叱りとばす。これではもはや下僕しか集まりません。
これが人材招致の常識です。
いま、広く国内の人材を選んで教えを受ける。この贈が広まれば、天下の人材は、われもわれもと集まって来
ます」
「では、誰に教えを受けたらよかろう」
「こんな話を間いたことがあります。むかし、ある王が、千金を投じて千里の馬(一日に千里も走る名馬)を
さがし求めました。三年かかっても手に入れることができません。そのとき、『わたしがさがして参ります』
とお付きの者が申し出ました。王はこの男にまかせました。それから三月、男は、千里の馬の居所を聞き出し
たが、いざ行ってみると、馬はすでに死んでいたのです。男は馬の骨を五百金で買い取り、帰って王に報告し
ました。王は立腹し、『欲しいのは生きている馬だ。死んだ馬に五百金も出す馬鹿があるか』男は答えました。
『死んだ馬さえ五百金で買ったのです。生きた馬ならもっといい値で買ってくれる、ときっと評判になります。
馬はすぐにも集まって参ります』
はたして一年もたたぬうちに、千里の馬が三頭も集まってきたということです。
あなたも本気で人材を招こうとなさるなら、まずわたし、この傀からお始めください。わたしのような者でも
大切にされるとなれば、わたしよりすぐれた人物はなおさらのこと、千里の道も遠しとせずにやって参りまし
ょう」
そこで昭王は、邸宅を築いて郭隗に与え、師と敬って教えを受けることにした。すると魏の国からは楽毅が、
斉の国からは都府が、趙の国からは劇辛がはせ参じ、人材はぞくぞくと燕に集まった。昭王は、戦死者をいた
み、生存者の安否を気づかい、喜びも悲しみも人民と共にした。こうして二十八年、国力は充実し、休養十分
な兵卒は戦いを恐れなくなった。
時は来た。燕は楽毅を総大将にし、秦、楚、三晋の諸国と語らって斉に攻め入った。斉は破れ、閔(びん)王
は国外に逃亡した。
燕の軍は単独で、敗走する敵を追撃、斉の都臨溜に入城するや、斉の宝物をことごとく奪い、宮殿、宗廟を焼
き払った。斉の城で降らなかったのは、苢(きよ)と即墨(そくぼく)だけだった。
〈昭王〉 燕の三十九代目の君主。内乱と隣国背の侵略で疲弊しきった燕の王位を継ぎ、みごとに
国力を回復した。すなわち、在位三十二年(前三一一~前二七九年)のうち、二十八年間はもっ
ぱら内政の充実につとめ、前二八四年に至って韓・魏・秦・趙と同盟を結び、名将楽毅を起用し
て宿敵背を討ち、一時は首都まで陥落させた。
〈郭隗〉 昭王の師傅(しふ)。
〈楽毅〉 燕の名将。もと趙の武将だったが、燕の昭王があつく人を遇することを聞いて来たり仕
え、前ニ八四年、総司令官として背を討ち、全土を席巻した。しかし、この章の末尾にあるよう
に、菖と即墨の二城(ともに現在の山東省)は陥落せず、包囲戦は三年に及んだ。その間、楽毅
をねたんだ燕の太子が父の昭王に「楽毅は敵に恩を売り背王になろうとしている」と中傷したが、
王はかえって太子を笞で打ち、楽毅を占領地の王に任じようとした(韓非子流の見方をすれば、
王は楽毅の本心を試したことになろう)。もちろん楽毅は受けず、王の信頼は増した。が、前二
七九年、昭王が没すると、楽毅に不運が訪れた。かれに反感をもつ太子が王位をついだのである
(恵里という)。恵王は、敵国斉の田単が流したデマに乗せられて楽毅を罷免した。いらい燕の遠
征軍は振るわず、ついに全戦線で後退し、斉に失地回復を許した。恵王は再び楽毅を登用しよう
としたが、かれは受けず、生国の趙でぬいた。
相手は自己の投影 人材を得る基本は、人間の幅射作用にあるという発想は、きわめて合理的だ。
こちらに熱がなければ、相手も熱せられないはずである。その意味では、相手は自己の投影であ
る。
「死馬を買う」「まず傀より始めよ」という故事成句はこの章から出ている。死んだ馬を買う―
――人材を得るにも捨て石が要る、という文宇どおりの意味だけでなく、「無用の用」「ジグザ
グのコース」を示すゆとりの知恵をもくみとることができよう。
※ 余りにも有名エピソードは、現代ビジネスもそれは生かされているが、その逆もある。それ
が「シャープの凋落劇」でもある。ビジネスの栄枯盛衰も、結局は、そのコアにあるのは人
材の"情熱"(=アクショでありパッション)の塊の総合力である。インセンティブ、モチベ
ーション、報酬、教育、企業内外福祉、そして、ゴールと計画、人・もの・金・技術などの
再配分への腐心・・・・など全て収斂させ行動する。やつぱり一番は報酬? ^^;。