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かたちを変えた祝福

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         64  流転やまず  /  火水未済(かすいびせい)    

                                   

 

      ※ 既済(きせい)の卦は完成美の象徴であった。しかし、易はそこでは
        終わらない。完成で終わっては易(変化)ではない、完成もまた流転
        の一相なのである。「初めは吉にして終りは乱る」(既済)――その
        混乱の時代にあって、危難(坎:かん)をおかして光明(離:り)を
        求めてゆくのがこの卦である。挫折もある。苦しみも多い。なすべき
        ことがつぎつぎやってくる。それを一気に片づけようとせず、粘リ強
        く、柔軟に対処してゆくことだ。各爻は正位をはずれてはいるが、す
        べて正応している。一致協力して難関を切り抜けることが大切である。
        それができれば剛仰の気あふれる「乾:けん」にもどるのである。

      ※ 「運命を切り開く努力を促す」易経は、今回で終了する。次回からは
        『荘子』を再読する。                          

  

    
 読書録:村上春樹著『騎士団長殺し 第Ⅰ部』      

     7.良くも悪くも覚えやすい名前 

 「ずいぶんたくさんオペラのレコードをお持ちなのですね」と免色はコーヒーを飲みながら言っ
 た。「オペラがお好きですか?」
 「そこにあるレコードは、ぼくの持ち物じやありません。家の持ち主が置いていったものです。
 おかげでここに来てからずいぶんオペラを聴くようになりました」
 「持ち主というのは南田典彦さんのことですね?」
 「そのとおりです」
 「あなたには、とくに何か好きなオペラはありますか?」
  私はそれについて考えてみた。「最近は『ドン・ジョバンニ』をよく聴いています。ちょっと
 した理由があって」
 「どんな理由ですか? もしよろしければ聞かせていただけますか」
 「個人的なことです。大したことではありません」
 「『ドン・ジョバンニ』は私も好きで、よく聴きます」と免色は言った。「一度プラハの小さな
 歌劇場で『ドン・ジョバンニ』を聴いたことがあります。たしか共産党政権が倒れて、まだ間も
 ない頃のことでした。ご存じだとは思いますが、プラハは『ドン・ジョバンニ』が初演された街
 です。劇場も小さく、オーケストラの編成も小さく、有名な歌手も出ていませんが、とても素晴
 らしい公演でした。歌手は大歌劇場でやるときのように、大きな声を張り上げる必要はありませ
 んから、とても親密に感情表現を行うことができるんです。メトやスカラ産ではそうはいきませ
 ん。名の通った声の大きな歌手が必要とされます。アリアは時として、まるでアクロバットみた
 いになります。でもモーツァルトのオペラのような作品に必要なのは、室内楽的な親密さです。
 そう思いませんか? そういう意味ではプラハの歌劇場で聴いた『ドン・ジョバンニ』は、ある
 意味 理想的な『ドン・ジョバンニ』だったかもしれません」

  彼はコーヒーを一口飲んだ。私は何も言わずに彼の動作を観察していた。

 「これまで世界中いろんなところでいろんな『ドン・ジョバンニ』を聴く機会がありました」と
 彼は続けた。「ウィーンでも聴いたし、ローマでも、ミラノでも、ロンドンでも、パリでも、メ
 トでも、東京でも聴きました。アバド、レヴァイン、小澤、マゼール、後は誰だったかな……ジ
 ョルジュ・プレートルだったか、でもそのプラハで聴いた『ドン・ジョバンニ』が不思議に心に
 残っています。歌手や指揮者は名前も聞いたことがない人々でしたが。公演が終わって外に出る
 と、プラハの街に深い霧がかかっていました。当時はまだ照明も少なく、夜になると街は真っ暗
 になりました。人気のない石畳の道をあてもなく歩いていると、そこに古い銅像がぽつんと建っ
 ていました。誰の銅像だかはわかりません。でも中世の騎士のような格好をしていました。そこ
 で私は思わず彼を夕食に招待したくなりました。もちろんしませんでしたが」

  彼はまたそこで笑った。

 「外国にはよくお出かけになるのですね?」と私は尋ねた。
 「仕事でときどき出かけます」と彼は言った。そして何かに思い当たったようにそのまま口を閉
 ざした。仕事の具体的な内容に触れたくないのだろうと私は推測した。
 「それでいかがでしょう?」と免色は私の顔をまっすぐ見て尋ねた。「私はあなたの審査をパス
 したのでしょうか? 肖像画は描いていただけるのでしょうか?」
 「審査なんてしてはいませんよ。ただこうして向かいあってお話をしているだけです」
 「でもあなたは画作に入る前に、まずクライアントと会って話をする。意に染まなかった相手の
 肖像画は描かない、という話を耳にしましたが」

  私はテラスに目をやった。テラスの手すりには大きなカラスが一羽とまっていたが、私の視線
 の気配を感じたように、艶やかな羽を広げてすぐに飛び立った。
  私は言った。「そのような可能性もあるかもしれませんが、幸運なことに今のところ、そこま
 で意に染まない方にお目にかかったことはありません」
 「私が最初の一人にならないといいのですが」と免色は微笑んで言った。でもその目は決して笑
 ってはいなかった。彼は真剣なのだ。 

 「大丈夫です。ぼくとしては喜んで、あなたの肖像画を描かせていただきます」
 「それはよかった」と彼は言った。そして一息間を置いた。「ただ勝手なことを申し上げるよう
 ですが、私の方にもちょっとした希望があります」
  私はあらためてまっすぐ彼の顔を見た。「どのようなご希望でしょう?」
 「もしできることなら私としてはあなたに、肖像画という制約を意識しないで、私を自由に描い
 ていただきたいのです。もちろんいわゆる肖像画を描きたいということであれば、それでかまい
 ません。これまで描いてこられたような一般的な画法で描いていただいてけっこうです。しかし
 そうじゃない、これまでにない別の手法で描いてみたいということであれば、それを私は喜んで
 歓迎します」
 「別の手法?」
 「それがどのようなスタイルであれ、あなたが好きなように、そうしたいと思うように描いてい
 ただければいいということです」
 「つまり一時期のピカソの絵のように、顔の片側に目が二つついていてもかまわない、というこ
 とですか?」
 「あなたがそのように私を描きたいのであれば、こちらにはまったく異存はありません。すべて
 をおまかせします」
 「あなたはそれをあなたのオフィスの壁にかけることになる」
 「私は今のところオフィスというものを持ち合わせておりません。ですがらおそらくうちの書斎
 の壁にかけることになると思います。もしあなたに異存がなければですが 

 Picasso' Self Portrait 89 years old(1971)

   もちろん異存はなかった。どこの壁だって、私にとってそれはどの違いはない。私はしばらく
 考えてから言った。

 「免色さん、そのように言っていただけるのはとてもありかたいのですが、どんなスタイルでも
 いい、自由に好きなように描けと言われても、具体的なアイデアが急には浮かんできません。ぼ
 くは一介の肖像両家です。長いあいた決められた様式で肖像画を描いてきました。制約をとって
 しまえと言われても、制約そのものが技法になっている部分もあります。ですからたぶんこれま
 でどおりのやり方で、いわゆる肖像画を描くことになるのではないかと思います。それでもかま
 いませんか?」

  免色は両手を広げた。「もちろんそれでけっこうです。あなたがいいと思うようにすればいい。
 あなたが自由であること、それが私の求めるただひとつのことです」

 「それから、実際にあなたをモデルにして肖像画を描くとなると、このスタジオに何度か来てい
 ただいて、長く椅子に座っていただくことになります。お仕事がお忙しいとは思いますが、それ
 は可能ですか?」
 「時間はいつでもあけられるようにしてあります。実際に対面して描いてほしいというのは、そ
 もそもこちらが希望したことですから。ここに来て、できるだけ長くおとなしくモデルとして椅
 子に座っています。そのおいたゆっくりお話しできると思います。話をするのはかまわないので
 しょうね?」
 「もちろんかまいません。というか、会話はむしろ歓迎するところです。ぼくにとってあなたは
 まさに謎の人です。あなたを描くには、あなたについての知識をもう少し多く持つ必要かあるか  
 もしれませんから」

  免色は笑って静かに首を振った。彼が首を振ると、真っ白な髪が風に吹かれる冬の草原のよう
 に柔らかく揺れた。

 「どうやらあなたは、私のことを買いかぶりすぎておられるようだ。私にはとくに謎なんてあり
 ませんよ。自分についてあまり語らないのは、そんなことをいちいち人に語してもただ退屈なだ
 けだからです」

  彼が微笑むと、目尻の皺がまた深まった。いかにも清潔で裏のない笑顔だった。しかしそれだ
 けではあるまいと私は思った。免色という入物の中には、何かしらひっそり隠されているものが
 ある。その秘密は鍵の掛かった小箱に入れられ、地中深く埋められている。それが埋められたの
 は昔のことで、今ではその上に柔らかな緑の草が茂っている。その小箱が埋められている場所を
 知っているのは、この世界で免色ひとりだけだ。私はそのような種類の秘密の持つ孤独さを、彼
 の微笑みの奥に感じとらないわけにはいかなかった。

  免色とはそれから二十分ばかり向かい合って話をした。いつからモデルとしてここに通ってく
 るか、どれくらい時間の余裕があるか、そういう実務的な打ち合わせを我々はおこなった。帰り
 際に、玄関口で彼はまたとても自然に手を差し出し、私も自然にそれを握った。最初と最後に堅
 い握手をするのが、免色氏の習慣であるらしかった。彼がサングラスをかけ、ポケットから車の
  キーを取りだし、銀色のジャガー(よく躾けられた大型の滑らかな生き物のように見える)に乗
  り込み、その車が優雅に坂を下っていくのを私は窓から見ていた。それからテラスに出て、彼が
 おそらくこれから帰っていくであろう山の上の白い家に目をやった。

  不思議な人物だと私は思った。愛想は決して悪くないし、とくに無口なわけでもない。しかし
 実際には彼は、自らについて何も語らなかったも同然だった。私か得た知識は、彼が谷間を隔て
 たその順治な住宅に住んでいることと、ITが部分的に関係する仕事をしていることと、外国に
 出ることが多いということくらいだ。また熱心なオペラのファンでもある。しかしそれ以外のこ
 とはほとんど何もわからない。家族がいるのかいないのか、年齢はいくつなのか、出身地はどこ
 なのか、いつからその山の上に住んでいるのか? 考えてみれば、ファーストネームさえ敢えて
 もらっていない。

  そもそも彼はなぜそこまで熱心に、この私に自分の肖像画を描いてもらいたいのだろう? そ
 れは私に揺るぎない絵の才能が具わっているからだ、見る人が見ればそんなことは自明ではない
 か――できればそう思いたかった。しかしそれだけが彼の依頼の動機ではないことは、わかりき
 った話たった。たしかに私の描いた肖像画は、ある程度は彼の興味を惹いたかもしれない。彼が
 まったくの嘘をついているとは私には思えなかった。しかし彼の言いぶんをそのまま真に受ける
 ほど、私は無邪気な人間ではない。 

  

  それでは免色という人物はいったい何を私に求めているのだろう? 彼の目的はどこにあるの
 だろう? 彼はどのような筋書きを私のために用意しているのだろう?
  実際に彼と会って、膝をまじえて話をしても、私にはその答えがまだ見当たらなかった。むし
 ろ謎は逆に深まっただけだった。だいたいどうして彼はあれほど見事な白髪をしているのだろ
 う? その白さには何かしら尋常ではないところがあった。エドガー・アラン・ボーの短編小説
 の、大渦巻きに遭遇して一夜で髪が白くなったあの漁師のように、彼も何かとても深い恐怖を体
 験したのだろうか。

  日が落ちると、谷間の向かい側の白いコンクリートの屋敷に明かりがついた。電灯は明るく、
 数もふんだんにあった。電気料金のことなど考えもしない強気な建築家が設計した家のように見
 えた。あるいは極端に暗闇を恐れる依頼主が建築家に、隅々まで明々と照らし出される家を作る
 ように要請したのかもしれない。いずれにせよその家は遠くから見ると、夜の海を静かに進んで
 いく豪華客船のように見えた。

  私は暗いテラスのデッキチェアに横になり、白ワインをすすりながらその明かりを眺めていた。
 免色氏がテラスに出てこないかと期待していたのだが、彼はその日はとうとう姿を見せなかった。
 でも彼が向かい側のテラスに出てきたから、それでどうだというのだ? こちらから大きく手を
 振って挨拶でもすればいいのか?
  そのうち自然にいろんなことがわかってくるだろう。それ以外に私に期待できることは何もな
 かった。

  Rembrandt van Rijn

    8.かたちを変えた祝福

  水曜日の絵画教室で、夕方に一時間ばかり成人クラスを指導したあと、私は小田原駅の近くに
 あるインターネット・カフェに入り、グーグルに接続して、「免色」という言葉を入力して検索
 してみた。しかし免色という姓を持つ人物は、ただの一人も見当たらなかった。「運転免許」と
 「色弱」という単語を含んだ記事が山ほど出てきただけだった。免色氏についての情報は世間に
 はまったく出回ってはいないようだ。彼が「匿名性を大事にしたい」と言っていたことはどうや
 ら本当らしかった。もちろんその「免色」という名前が本名であればということだが、そこまで
 の嘘はつかないだろうというのが私の直観だった。住んでいる家の場所まではっきり教えて、そ
 れでいて本名を教えないというのは筋が通らない。それにもし架空の名前をでっちあげるなら、
 よほどの理由がない限りもう少し一般的な目立たない名前を運ぶことだろう。

  家に帰ってから、雨田政彦に電話をかけてみた。ひととありの世間話をしたあとで、谷間の向
 かい側に住んでいる免色という人物について何か知らないかと尋ねてみた。そして山の上に建て
 られた白いコンクリートの屋敷の説明をした。彼はその家のことをぼんやりと記憶していた。
 
 「メンシキ?」と政彦は言った。「いったいどういう名前なんだ、それは?」
 「色を免れる、と書く」
 「なんだか水墨画のようだ」
 「白と黒も色のうちだよ」と私は指摘した。
 「理屈から言えば、そりゃそうだが。免色ねえ……その名前は耳にしたことがないと思うな。だ
 いたい、谷をひとつ隔てた向こうの山の上に往んでいる人のことまで、おれが知るわけはないよ。
 こっちの山に往んでいる人のことだってぜんぜん知らないんだから。で、その人物が何かおまえ
 と関係があるのか?」

 「ちょっとしたつながりみたいなのができてね」と私は言った。「それで、君が彼について何か
 知らないかと思ったんだ」
 「インターネットで調べてみたか?」
 「ケーブルはあたってみたが、空振りだった」
 「フェイスブックとか、SNS関係は?」
 「いや。そのへんのことはよく知らない」
 「おまえが竜宮城で鯛と一緒に昼寝をしていたあいだに、文明はどんどん前に進んでいるんだよ。
 まあいい、こっちでちょっと調べてみよう。何か分かったら、あとでまた電話をかけるよ」
 「ありかたい」

  それから政彦は急に黙り込んだ。電話口の向こうで、彼が何かを思い巡らせている気配があっ
 た。

 「なあ、ちょっと待ってくれ。メンシキって言ったっけ?」と政彦は言った。
 「そうだよ。メンシキ。免税店の免に、色彩の色だ」
 「メンシキ……」と彼は言った。「前にどこかで、その名前を耳にしたような記憶があるんだが、
 ひょっとしたらおれの錯覚かもしれない」
 「あまりない名前だから、コ夜間いたら忘れないんじやないかな」
 「そうなんだ。だからこそ頭の隅にひっかかっていたのかもしれない。でもそれがいつだったか、
 どういう経緯だったか、記憶が辿れない。なんだか、喉に魚の小骨がひっかかっているみたいな
 感だ」

  思い出したら知らせてくれと私は言った。そうすると政彦は言った。

  私は電話を切って、軽く食事をとった。食事の最中に、つきあっている人妻から電話があった。
 明日の午後そちらに行ってかまわないか? かまわないと私は言った。

 「ところでメンシキという人について何か知らない?」と私は尋ねてみた。「この近くに往んで
 いる人なんだけど」
 「メンシキ?」と彼女は言った。「それが苗宇なの?」

  私は宇の説明をした。

 「聞いたこともない」と彼女は言った。
 「うちの谷を隔てた向かい側に、白いコンクリートの家があっただろう。あそこに往んでいる人
 なんだ」
 「その家のことは覚えている。テラスから見えるすごく目立つ家よね」
 「それが彼の家なんだ」
 「メンシキさんがそこに住んでいる」
 「そうだよ」
 「それで、その人がどうかしたの?」
 「どうもしない。ただ君がその人を知っているかどうか、知りたかったんだ」

  彼女の声が一瞬暗くなった。「それは何か私に関係したことなの?」
 「いや、君はまったく関係していない」
  彼女はほっとしたようにため息をついた。「じやあ、明日の午後にそちらに行く。たぶん一時
 半くらいに」

  待っていると私は言った。私は電話を切り、食事を終えた。
  その少しあとで政彦から電話がかかってきた。

 「という名前を持つ人は香川県に何人かいるみたいだ」と政彦は言った。「あるいはその免
 色氏は、なんらかのかたちで香川県にルーツを持っているのかもしれない。でも小田原近辺に現
 在存在している免色さんについての情報は、どこにも見当たらなかった。で、その人物のファー
 ストネームは?」
 「ファーストネームはま
だ敦えてもらっていない。職業もわからない。部分的にITのからんだ
 仕事をしていて、その暮らしぶりから見るに、ビジネスはかなり成功を収めているらしい。それ
 くらいのことしかわからない。年齢も不詳だ」

 政彦は言った。「そうか、そうなるとお手上げかもしれないな。情報というのはあくまで商品
 だからね、金さえうまく動かせば、自分の足跡をきれいに始末することも可能だ。とくに本人が
 ITの事情に通じていれば、それはなおさらやりやすくなる」
 「つまり免色さんはなんらかの方法を使って、自分の足跡を巧妙に消している。そういうことな
 のか?」

 「ああ、そういうことかもしれない。時間をかけていろんなサイトを調べてまわって、それでた
 だの一件もヒットしなかった。かなり珍しい目立つ名前なのに、まったく表に浮かび上がってこ
 ない。不思議といえば不思議だ。世間知らずのおまえは知らないだろうが、この世界で自分につ
 いての情報の流出を堰き止めるのは、ある程度の活動をしている人間にとっては相当にむずかし
 いことなんだ。おまえについての情報だって、おれについての情報だって、それなりに世間に出
 回っている。おれの知らないおれについての情報だって出回っているくらいだ。おれたちのよう
 な取るに足らない小物ですらそうなんだ。大物が姿を隠すのはまさに至難のわざだ。おれたちは
 そういう世の中に生きているんだ。好むと好まざるとにかかわらず。なあ、おまえは自分につい
 ての情報を目にしたことってあるか?」

 「いや、一度もない」
 「じやあ、そのまま見ない方がいい」

  見るつもりはないと私は言った。
  いろんな情報を効率よく手に入れるのが、私の仕事の一部になっています。そういうビジネス
 に携わっています。それが免色の口にした言葉だった。もし情報を自由に手に入れられるのなら、
  それを都合良く消すことだって可能かもしれない。

 「そういえばその免色という人物は、インターネットで調べて、ぼくの描いた肖像画を何点か見
 たと言った」と私は言った。
 「それで?」
 「それでぼくに自分の肖像画を描いてもらいたいと依頼してきたんだ。ぼくの描く肖像画が気に
 入ったと言って」
 「でもおまえは、もう肖像画の営業はしないと言って断った。そうだろ?」

  私は黙っていた。

 「ひょっとしてそうでもない?」と彼は尋ねた。
 「実をいうと断らなかった」
 「どうして? 決心はずいぶん堅かったんじやないのか?」
 「報酬がずいぶんよかったからさ。それで、もうコ皮くらいは肖像画を描いてもいいかもしれな
 いと思った」
 「金のために?」
 「それが大きな理由であることは間違いない。しばらく前から収入の道はほとんど途絶えている
 し、生活のこともそろそろ考えなくちやならない。今のところたいして生活費はかからないけど、
 それでも何やかや出て行くものはあるから」
 「ふうん。それで、どれくらいの報酬なんだ?」
 私はその金額を口にした。政彦は電話口で口笛を吹いた。
 「そいつは大したものだ」と彼は言った。「確かにそれなら引き受ける価値はあるかもしれない
 な。金額を聞いておまえもびっくりしただろう?」
 「ああ、もちろん驚いたよ」
 「こう言ってはなんだけど、おまえの描く肖像画にそれだけの金を払おうというような物好きな
 人間は、この世の中に他にまずいないよ」
 「知ってる」
 「誤解されると困るんだが、おまえに画家としての才能が欠けていると言っているわけじゃない
 ぜ。おまえは肖像画のプロとして、きちんと良い仕事をしてきたし、それなりの評価を受けてき
 た。美大の同期で、今現在曲がりなりにも油絵を描くだけで飯を食えているのはおまえくらいの
 ものだ。どの程度のレベルの飯なのか、それはわからんけど、とにかく賞賛に値することだ。で
 もはっきり言わせてもらえば、おまえはレンブラントでもないし、ドラクロワでもないし、アン
 ディー・ウォーホールですらない」
 「それももちろんよく知っているよ」
 「それがわかっているとしたら、その提示された報酬の金額が常識的に考えて、法外なものであ
 ることは、もちろん理解できるよな?」
 「もちろん理解できる」
 「そして彼はたまたまおまえの家のかなり近くに往んでいる」
 「そのとおりだ」
 「たまたま、というのはかなり遠慮がちな表現だ」

 Andy Warhol The Art Story

  私は黙っていた。

 「そこには何か裏かおるのかもしれない。そう思わないか?」と彼は言った。
 「それについてはぼくも考えてみた。でもそれがどんな裏なのか見当がつかない」
 「でもとにかくその仕事は引き受けた?」
 「引き受けたよ。明後日から仕事を開始する」
 「報酬がいいから?」
 「報酬のことも大きい。でもそれだけじゃない。他にも理由かおる」と私は言った。「正直なと
 ころ、いったい何か起こるかを見てみたいんだ。それがもっと大きな理由だよ。相手がそれだけ
 の多額の金を払う理由を、ぼくとしては見届けてみたい。もしそこに何か裏の事情があるのなら、
 それがどういうものなのかを知りたい」
 「なるほど」と言って政彦はひと息ついた。「何か進展があったら知らせてくれ。おれとしても
 いささか興味がある。面白そうな話だ」

  そのとき私はふとみみずくのことを思い出した。

 「言い忘れていたけど、この家の屋根裏にみみずくが一羽往み着いているんだ」と私は言った。
 「小さな灰色のみみずくで、昼間は梁の上で眠っている。夜になると通風口から外に出て、餌を
 とりに行く。いつからいるのかは知らないが、どうやらここをねぐらにしているみたいだ」
 「屋根裏?」
 「ときどき天井で音がするので、昼間に様子を見に上がってみたんだ」
 「ふうん。屋根裏に上がれたなんて知らなかったな」
 「客用寝室のクローゼットの天井に入り目がある。でも挟いスペースだよ。屋根裏部屋というほ
 どのものじゃない。みみずくが住かにはちょうどいいくらいだけど」
 「でもそれはいいことだ」と政彦は言った。「みみずくがいれば、鼠や蛇が寄りつかなくなる。
 それにみみずくが家に往み着くのは吉兆だという語を、以前どこかで耳にしたことがある」
 「その吉兆が、肖像画の高い報酬をぼくにもたらしてくれたのかもしれない」
 「そうだといいけどね」と彼は笑って言った。「Blessing in disguiseという英語の表現を知ってい
 るか?」
 「語学は不得意でね」
 「偽装した祝福。かたちを変えた祝福。一見不幸そうに見えて実は喜ばしいもの、という言い回
 しだよ。Blessing in disguise。で、もちろん世の中にはその逆のものもちゃんとあるはずだ。理論
 的には」

  理論的には、と私は頭の中で繰り返した。

 「よくよく気をつけた方がいい」と彼は言った。

  気をつけると私は言った。


さて、広大深玄な春樹ワールドの提供するサスペンス、この後の展開はいかに。

                  自然における神の道は、摂理におけると同様に、わ
                  れら人間の道と異なっている。また、われらの造る
                  模型は、広大深玄であって測り知れない神の業(わ
                  ざ)にはとうていかなわない。まったく神の業はデ
                  モクリタスの井戸よりも深い。

                                       ジョオゼフ・グランヴィル                                          

                                                         この項つづく 

 

 




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