63 完成美 / 水火既済(すいかきせい)
※ 既済(きせい)とは、万事成る、事がすべて成就したことである。この
卦は、各爻すべて正位にあり、みな正応するものがある。易の理論から
言えば、もっとも理想的な形なのである。苦難の努力の果てに、すべて
の人が相応の地位を得て安定し、一致協力して平和を守っている状態な
のだ。しかし易とは、やむなきこと変化であり、完成は同時に崩壊のは
じめである。完成してしまえば創造のエネルギーは乏しくなる。いまは
新しい事業に手を出すことなく、ひたすら現状維持に意を注ぐことが大
切である。
● 3つのノバ:世界初、生物由来の蓄電型太陽電池
【RE100倶楽部:太陽光最前線編】
写真1.画期的な試作電極(右)/太陽電池一体型蓄電池(左)
先月31日、北米のシダをヒントに RMIT大学研究グループは、エネルギーソリューションとして画
期的な生物由来の蓄電型太陽電池開発に成功する。その特徴は、既存の蓄電池の何と30倍以上の容
量が蓄電でき、グラフェン基材としたこの試作品は、建物、自動車、スマートフォン、ラップトップ、
スマートフォンに使用できる薄膜/可撓/蓄電一体型の太陽電池への開発に新たな道を切り開いたこ
とにある(上写真ダブクリ参照)。新しい電極は、従来の電池よりもはるかに速く充電/放電可能な
スーパーキャパシタ構造で動作。スーパーキャパシターは太陽電池の一体型(オールインワン)で、
容量に制約がある。グー教授は、「フラクタル」と呼ばれる複雑な自己繰り返しパターンによって、
新しいデザインが自然の独自の天才的な解決策を引き出し、最も効率的な方法でスペースを埋めると
いう課題に取り組んだという。西部剣シダ(Western Sword Ferns)に密集する葉脈にエネルギーを蓄
え、植物の周りに水を輸送するのに非常に効率的だ。この電極は、雪片内部のミニ構造に似た自己複
製するフラクタル形状を基に、ナノレベルの太陽エネルギーが貯蔵できるよう効率的設計に利用した
ことで、試作機では、現在の容量限界の30倍以上という大幅に増やすことができたため、この電極
をスーパーキャパシタと組み合わせ使用している。さらに、この容量増強されたスーパーキャパシタ
ーは、長期信頼性と短時間で充電/放電が可能であり、このフラクタルデザインは、北米西部産の西
部剣シダの葉脈の自己反復形状取り入れ、フラクタル対応のレーザー還元型グラフェン電極は貯蔵電
荷を最小限の漏れで長く保持できるとと話す。
Mar. 31, 2017
写真3.開発したリティ・テッカケラ博士とミン・グー教授
この研究グループのリティ・テッカケラ博士は、フレキシブルな薄膜なので、潜在的な用途は無限に
あり、最も興味を惹くことは、この電極を太陽電池とともに、オンチップ型の発電と貯蔵のトータル
ソリューションできる。近い将来、フレキシブルな薄膜太陽光技術と試作器を統合することで、フレ
キシブル薄膜ソーラーは、建物の窓、スマートフォン、スマートウォッチまで、考えられるところは
どこにでも使用でき、ハイブリッド車の充電ステーション、あるいは電話の充電バッテリーを必要と
しなくなる。この柔軟な試作電極を使用して、課題の蓄電部分を解決し、太陽電池の性能に影響を与
えることな、どのように動作するかを呈示した。今や、フレキシブルな太陽エネルギーに焦点を当て
完全に太陽光だで自立した電子工学のビジョン達成に取り組むことができると話す。
Mar. 31, 2017
写真2.北米産西部剣シダ(Western Sword Ferns)葉脈のフラクタルパターン(×400倍)
Titol: Bioinspired fractal electrodes for solar energy storages、Scientific Reports 7, Article number: 45585 (2017)
doi:10.1038/srep45585, Published online:31 March 2017
● 3つのノバ:室温プロセスでフィルム型色素増感太陽電池の事業化
【RE100倶楽部:太陽光最前線編】
1つめの新星につづき、2つめは太陽電池の製造技術である。この2つが融合することで、1つめで
記載したオールインワン型発電/蓄電システムが実現する。
先月29日、積水化学工業株式会社は、世界で初めてフィルム型色素増感太陽電池生産プロセス(ロ
ール・ツー・ロール量産技術を完成させ、パイロット生産機を導入したことを発表。今後、①低照度
でも発電(照度500ルクス以下)、②薄い(1mm以下)、③軽い(ガラスの1/10以下)、④
曲がる、⑤貼れるというフィルム型色素増感太陽電池の特長を活かし、屋内(住宅、事務所)・車内
・地下街など様々な場所で使用されるエネルギーハーベスト向け独立電源として事業化していき、ま
ず、電子広告およびIoTセンサー分野の独立電源として17年度に発売。将来的には、25年度に
売上高100億円規模に事業拡大する。
● 3つのノバ:世界初 スペインの革命的なデジタル編み機
良い縫製! スペインのデザイナー、ジェラール・ルビオは革命的なデジタル編み機で現場に戻り、レ
ノジェイド社(Kniterate)と改名。3D印刷に触発されたこの機械は、ユーザーフレンドリーなソフトウ
ェアで操作してニット衣服を一から作成し、テンプレートをデザイン、編集し、服飾のイメージをア
ップロードするだけで縫製する。
ルビオ氏は形やサイズを独自にデザインできるようにとひらめきこの編み機の開発のきっかけとなっ
た。革新的な製品は、従来の方法でセーターを編む余裕がなく、衣装を別注したい人を対象とし、あ
るいは、独立デザイナーや既存の衣類ブランドにも新しい収益源の機会を提供するとともに、大型小
売業で発生する膨大な廃棄物を削減することにも貢献するものとして発案される。このようにレノジ
ェイド社では、基本的に伝統的な編み方を現代的に転換。何百ものコンピューター制御ニードルを装
備したニットウェアを生み出す各々のループパターンを作成し、その形状、色、サイズは使いやすい
ソフトウェアプログラムで事前に作成する。開発者のルビオ氏は、このソフトウェアはまだ開発継続
中であるが、開発チームはプロトタイプのウェブベースのアプリを制作。これでにより、アクセス権
を持つユーザが独自のパターンをデザインすることがきる。
この種の発明は、縫製だけでなく、再生医療に応用展開できる(ex.US 9603698 B2,Biocompatible mesh
implant, Mar.28,28) 、この分野の事業家も3Dプリンタ事業と同じく成長していくだろう。これは面白い。
7.良くも悪くも覚えやすい名前
東京のエージェントとのあいだで何度か電話のやりとりがあり、翌週の火曜日の午後にその謎
のクライアントと顔を合わせることになった(その時点でも相手の名前はまだ明らかにされなか
った)。最初の日には初対面の挨拶をし、一時間ほど会話をするだけで、実際に絵を描く作業に
はかからないという私の従来の手順は認めてもらった。
肖像画を描くために必要なのは言うまでもなく、相手の顔の特徴を的確にとらえる能力だが、
それだけでは十分とは言えない。それだけだとただの似顔絵になってしまいかねない。生きた肖
像画を描くために必要とされるのは、相手の顔だちの核心にあるものを見て取る能力だ。顔はあ
る意味では手相に似ている。もって生まれたものというよりはむしろ、歳月の流れの中で、また
それぞれの環境の中で徐々に形作られてきたものであり、同一のものはひとつとしてない。
火曜日の朝、私は家の中をきれいに片付け、掃除をし、花瓶に庭で摘んできた花を飾り、『騎
士団長殺し』の絵をスタジオから客用の寝室に移動し、もともとかけられていた茶色の和紙で色
んで見えないようにしておいた。その絵を他人の目に洒すわけにはいかない。
一時五分過ぎに一台の車が急な坂道を上ってきて、玄関前の車寄せに停まった。重く野太いエ
ンジン音がしばらくあたりに響き渡った。大きな動物が洞窟の奏で満足げに喉を鳴らしているよ
うな音だ。おそらく排気量の大きなエンジンだろう。それからエンジンが停止し、谷間に再び静
寂が降りた。銀色のジャガーのスポーツ・クーペだった。ちょうど雲間からこぼれた太陽の光が、
よく磨かれた長いフェンダーに眩しく反射していた。私はそれほど車に詳しくはないので、型式
まではわからない。しかしそれが最新型のモデルであり、走行キロ数はまだ四桁に留まっており、
その価格は私か中古のカロ土フ・ワゴンに払った額の少くとも二十倍はするだろうという程度の
ことは推測できた。しかしとくに驚くような話ではない。自分の肖像画にそれだけの大金を出す
ことができる人物なのだ。たとえ大型ヨットに乗ってやってきたところで何の不思議もない。
車から降りてきたのは身なりの良い中年の男だった。濃い緑色のサングラスをかけ、長袖の真
っ白なコットンのシャツに(ただ白いだけではない。真っ白なのだ)、カーキ色のチノパンツを
はいていた。靴はクリーム色のデッキシューズ。身長は百七十センチより少し高いくらいだろう。
顔はむらなく、ほどよく目焼けしていた。いかにも清潔そうな雰囲気が全体に漂っていた。しか
し彼に関して最初に私の目を惹いたのは、なんといってもその髪たった。軽くウェーブのかかっ
た豊富な髪は、おそらく一本不残らず白髪だった。灰色とかごま塩とか、そういうのではない。
とにかくすべてが積もりたての処女雪のように純白なのだ。
彼が車を降りて、ドアを閉め(高級車のドアを無造作に閉めるときの、独特の小気味良い音が
した)、ロックはせずに車のキーをズボンのポケットに入れ、うちの玄関の方に歩いてやってく
るのを、私は窓のカーテンの隙間から見守っていた。とても美しい歩き方だった。背筋がまっす
ぐ伸ばされ、必要な筋肉が隅々までまんべんなく使われている。きっと日常的に何か運動をして
いるのだろう。それもかなりしっかりと。私は窓の前を離れ、居間の椅子に腰を下ろし、そこで
玄関のベルが鳴るのを待った。ベルが鴫ると、ゆっくり玄関まで歩いて行って、ドアを開けた。
私かドアを開けると、男はサングラスをはずし、シャツの胸ポケットに入れ、それから何も言
わずに手を前に差し出した。私もほとんど反射的に手を差し出した。男は私の手を握った。アメ
リカ人がよくやるような、力強い握手だった。私の感覚からいうと少し力が強すぎたが、痛いと
いうほどではない。
「メンシキです。よろしく」と男は明瞭な声で名乗った。講演会の最初に、講演者がマイクのテ
ストを兼ねて挨拶をするような口調だった。
「こちらこそ」と私は言った。「メンシキさん?」
「免税店の免に、色合いの色と書きます」
「免色さん」と私は頭の中で二つの漢字を並べてみた。なんとなく不思議な字の組み合わせだ。
「色を免れる」と男は言った。「あまりない名前です。うちの親族を別にすれば、ほとんど見か
けません」
「でも覚えやすい」
「そのとおりです。覚えやすい名前です。良くも悪くも」と男は言って微笑んだ。頬から顎にか
けてうっすらと無精祭がのびていたが、おそらく無精聚ではないのだろう。正確に数ミリぶんわ
ざと剃り残されているのだろう。型は髪とは違い、半分くらいは黒かった。髪だけがなぜそれほ
ど見事に真っ白になれたのか、私には不思議だった。
「どうぞお入りください」と私は言った。
免色という男は小さく会釈をし、靴を脱いで家に上がった。身のこなしはチャーミングだが、
そこにはいくらか緊張が含まれているようだった。新しい場所に連れてこられた大きな猫のよう
に、ひとつひとつの動作が用心深く柔らかで、その目は素遠くあちこちを観察していた。
「快適そうなお住まいですね」と彼はソファに腰を下ろして言った。「とても静かで落ち着いて
いる」
「静かなことはとても静かです。買い物とかをするには不便ですが」
「でもあなたのようなお仕事をなさるには、きっと理想的な環境なのでしょうね」
私は彼の向かいの椅子に腰を下ろした。
「免色さんもこの近くにお住まいと聞きましたが」
「ええ、そうです。歩いて来ると少し時間はかかりますが、直線距離でいうならかなり近いで
す」
「直線距離でいうなら」と私は相手の言葉を繰り返した。その表現がどことなく奇妙に響いたか
らだ。「直線距離でいうなら、具体的にどれくらい近くなのでしょうか?」
「手を振れば、見えるくらいです」
「つまりここからあなたのお宅が見えるということですか」
「そのとおりです」
どう言えばいいのか遠っていると、免色が言った。こっちをご覧になりますか?」
「できれば」と私は言った。
「テラスに出てかまいませんか?」
「もちろんどうぞ」
免色はソファから起ち上がり、居間からそのまま続いているテラスに出た。そして手すりから
身を乗り出すようにして、谷間を隔てた向かい側を指さした。
「あそこに白いコンクリートの家が見えるでしょう。山の上の、陽を受けてガラスが眩しく光っ
ている家です」
そう言われて私は思わず言葉を失った。それは私が夕暮れにテラスのデッキチェアに寝転んで、
ワイングラスを傾けながらよく眺めていた、あの瀟洒な邸宅だった。私の家の右手はす向かいに
ある、とても目立つ大きな家だ。
「少し距離はありますが、大きく手を振れば、挨拶くらいはできそうです」と免色は言った。
「それにしても、ぼくがここに住んでいると、どうやってわかったんですか?」と私は手すりに
両手を置いたまま彼に尋ねた。
彼はわずかに戸惑ったような表情を顔に浮かべた。本当に戸惑っているわけではない。ただ戸
惑っているように見せているだけだ。とはいえそこには演技的な要素はほとんど感じられなかっ
た。彼は受け答えに少し間を置きたかっただけなのだ。
免色は言った。「いろんな情報を効率よく手に入れるのが、私の仕事の一部になっています。
そういうビジネスに携わっています」
「インターネット関連ということですか?」
「そうです。というか正確に言えば、インターネット関連も私の仕事の一部に含まれているとい
うことですが」
「でもぼくがここに往んでいることは、まだほとんど誰も知らないはずなんですが」
免色は微笑んだ。「ほとんど誰も知らないというのは、逆説的に言えば、知っている人が少し
はいるということです」
私はもう一度谷間の向かい側の、その白い豪華なコンクリートの建物に目をやった。それから
あらためて免色という男の姿かたちを眺めた。おそらく彼があの家のテラスに、毎夜のように姿
を見せていた男なのだろう。そう思って見てみると、彼の体型や身のこなしは、その人物のシル
エツトにぴたりとあてはまるようだった。年齢はうまく判断できない。雪のように真っ白な髪を
見ると、五十代後半か六十代前半のようにも見えたが、肌は艶やかで張りがあり、頼には皺ひと
つなかった。そしてその一対の奥まった目は三十代後半の男の若々しい輝きを放っていた。それ
らをすべて総合して実際の年齢を算出するのは至難の業だった。四十五歳から六十歳までのどの
年齢だと言われても、そのまま信用するしかないだろう。
免色は居間のソファの上に戻り、私も居間に戻ってまた彼の向かい側に腰を下ろした。私は思
いきって切り出した。
「免色さん、ひとつ質問があるのですが」
「もちろん。なんでも訊いてください」と相手はにこやかに言った。
「ぼくがあなたの家の近くに往んでいることは、今回の肖像画のご依頼と何か関係あるのでしょ
うか?」
免色は少しばかり困ったような頼をした。彼が困ったような頼をすると、目の両脇に数本の小
さな皺が寄った。なかなかチャーミングな皺だった。彼の顔の造作は、ひとつひとつ見るととて
もきれいに整っていた。眼は切れ長で少しばかり奥まり、額は端正に広く、眉はくっきりと濃く、
鼻は細くて適度に高い。小柄な顔にぴたりと似合う目と眉と鼻だ。しかし彼の顔は小柄というに
は、いくぶん横に広がりすぎていて、そのせいで純粋に美的な観点から見ると、そこにいささか
のバランスの悪さが生じていた。縦横の均衡がうまくとれていないのだ。しかしその不均衡を一
概に欠点と訣めつけることはできない。それはあくまで彼の顔立ちのひとつの持ち昧になってお
り、そのバランスの悪さには、逆に見るものを安心させるところがあったからだ。もしあまりに
きれいに均整がとれていたら、人はその容貌に対して軽い反感を持ち、警戒心を抱いたかもしれ
ない。しかしその顔には、初対面の相手をひとまずほっとさせるものがあった。それは「大丈夫
です、安心してください。私はそれほど悪い人間じやありません。あなたにひどいことをするつ
もりはありませんから」と愛想良く語りかけているように見えた。
尖った大きな耳の先が、きれいにカットされた白髪の間から小さく顔をのぞかせていた。その
耳は新鮮な生命力のようなものを私に感じさせた。それは秋の雨上がりの朝、積もった落ち葉の
あいだからぐいと頭をのぞかせている、森の活発なキノコを思わせた。口は横に広く、細い唇は
きれいにまっすぐに閉じられ、いつでもすぐに微笑むことができるように怠りなく準備を整えて
いた。
彼をハンサムな男と呼ぶことはもちろん可能だった。また実際のところハンサムなのだろう。
しかし彼の顔立ちには、そのような通り二遍の形容をはねつけ、あっさり無効化してしまうとこ
ろがあった。彼の顔はただハンサムと呼ぶにはあまりに生き生さとして、動きが精妙だった。そ
こに浮かんだ表情は計算してこしらえられたものではなく、あくまで自然に自発的に浮かび上が
ってきたもののように見えた。もしそれが意図されたものであったとしたら、彼は相当な演技者
ということになるだろう。しかしたぶんそうではあるまいという印象を私は待った。
私は初対面の人の順を観察し、そこから様々なものごとを感じとる。それが習慣になっている。
多くの場合、そこには具体的な根拠のようなものはない。あくまで直観に過ぎない。しかし肖像
画家としての私を肋けてくれるのは、ほとんどの場合そのようなただの直観なのだ。
「答えはイエスであり、ノーです」と免色は言った。彼の手は両膝の上で、手のひらを上に向け
て 大きく開かれ、それからひっくり返された。
私は何も言わずに彼の次の言葉を待った。
「私は、近所にどのような人が往んでおられるのか、気になる人間です」と免色は続けた。「い
や、気になるというより興味を待つ、という方が近いかもしれません。とくに谷間越しにちょく
ちょく順を合わせるような場合には」
順を合わせるという表現にはいささか遠すぎる距離ではないかと私は思ったが、何も言わなか
った。彼が高性能の望遠鏡を所持しており、それを使ってこっそりうちを観察していたのではな
いかという可能性が順にふと浮かんだが、そのことももちろん口にはしなかった。そもそもいか
なる理由があって、彼がこの私を観察したりしなくてはならないのか?
「それであなたがここにお往まいになっていることを知りました」と免色は話を続けた。「あな
たが専門的な肖像画家であることがわかり、興味をひかれてあなたの作品をいくつか拝見しまし
た。最初はインターネットの画像で見たのですが、それでは飽きたらず、実物を三つばかり見せ
ていただきました」
それを聞いて、私は首をひねらないわけにはいかなかった。「実物を見たとおっしやいます
と?」
「肖像画の持ち主、つまりモデルになった人々のところに行って、お願いして見せていただいた
んです。みんな喜んで見せてくださいましたよ。自分の肖像画を見たいという人がいると、描か
れた本人としてはずいぶん嬉しいものみたいですね。それらの絵を間近に見せていただき、そし
て実際のご本人の願と見比べていると、私はいささか不思議な気持ちになりました。絵と本物と
を見比べていると、だんだんどちらがリアルなのかわからなくなってきたからです。どういえば
いいのでしょう、あなたの絵には何かしら、見るものの心を普通ではない角度から刺激するもの
があります。一見すると通常の型どおりの肖像画なんですが、よくよく見るとそこには何かが身
を潜めています」
「何か?」と私は尋ねた。
「何かです。言葉ではうまく表現できないのですが、本物のパーソナリティーとでも呼べばいい
のでしょうか」
「パーソナリティー」と私は言った。「それはぼくのパーソナリティーなのですか? それとも
描かれた人のパーソナリティーなのですか?」
「たぶん両方です。絵の中でおそらくそのふたつが混じり合い、俯分けができないくらい精妙に
絡み合っているのでしょう。それは見過ごすことのできないものです。ぱっと見てそのまま通り
過ぎても、何かを見落としたような気がして自然に後戻りし、今一度見入ってしまいます。私は
その何かに心を惹かれたのです」
私は黙っていた。
「それで私は思ったんです。何かあってもこの人に私の肖像画を描いてほしいものだと。そして
すぐにあなたのエージェントに連絡をとりました」
「代理人をつかって」
「そうです。私は通常、代理人を用いていろんなものごとを進めます。法律事務所がその役をつ
とめてくれます。べつに後ろめたいところがあるわけじやありません。ただ匿名性を大事にして
いるだけです」
「覚えられやすい名前だし」
「そのとおりです」と言って彼は微笑んだ。口が大きく横に開き、耳の先端が小さく揺れた。
「名前を知られたくないときもあります」
「それにしても報酬の金額がいささか大きすぎるようですが」と私は言った。
「あなたもご存じのように、ものの価格というのはあくまで相対的なものです。需要と供給のバ
ランスによって価格が自然に決定されます。それが市場原理です。もし私が何かを買いたいと言
って、あなたがそれを売りたくないと言えば、価格は上がります。その逆であれば、当然ながら
下がります」
「市場原理のことはわかります。でもそこまでして、ぼくに肖像画を描かせることが、あなたに
とって必要なんですか? こう言ってはなんですが、肖像画なんてとりあえずなくて困るもので
もないでしょう」
「そのとおりです。なくて困るものではありません。しかし私には好奇心というものがあります。
あなたが私を描くとどのような肖像画ができるのだろう。私としてはそれが知りたい。言い換え
るなら、私は自分の好奇心に自分で値段をつけたわけです」
「そしてあなたの好奇心には高い値段がつく」
彼は楽しそうに笑った。「好奇心というのは、純粋であればあるほど強いものですし、またそ
れなりに金のかかるものです」
「コーヒーをお飲みになりますか?」と私は尋ねてみた。
「いただきます」
「さっきコーヒーメーカーでつくったものですが、かまいませんか?」
「かまいません。ブラックでお願いします」
私は台所に行って、コーヒーを二つのマグカップに往ぎ、それを持って戻ってきた。
「あそこに白いコンクリートの家が見えるでしょう」という依頼人の言葉に「主人公」が驚くシーン
にわたしも少なからず驚いた。なんだ、そういう筋書きかと。
この項つづく