莽蒼(もうそう)に適(ゆ)く者は、三飡(そん)して反(かえ)れば腹なお
果然たり。百里に適く者は、宿に糧を舂(つ)く。千里に適く者は、三月糧を
聚(あつ)む。
大鵬図南(たいほうとなん) /「逍遙遊」(しょうようゆ)
※ 旅をするにしても、郊外に出かけるのなら、食糧は一日分準備すれば十分だ
が、百里の先に出かける特は前の日から米をつき、千里の旅をする特は三月
前から準備を始める。 つまり、図南の心誰か知る? と、この内篇で反質される
わけだが、その逆の「大」は屡々(しばしば)、「小」の心を見落すのでは
ないかと杞憂する。
【RE100倶楽部:エネルギーハーベスティング篇】
● 世界初、船舶用バイナリー発電機の実用へ
神戸製鋼などは、船舶エンジンに適用できるバイナリー発電システム――未利用熱を活用して発電で
き、エンジンの過給器の排熱を活用して発電し船舶の補助電源などに利用し省エネを図る――の実用
にめどをつけ、19年度から本格的に販売を開始することを公表。これは、さまざまな熱源を利用し
沸点が低い媒体を加熱し、得られた蒸気でタービンを回して発電する「バイナリー発電」で70℃程
度と比較的低温の熱源でも発電が行えるため、温泉や工場の排熱を利用した発電に活用されている。
こうしたバイナリー発電機の製造を手掛けている神戸製鋼は、新たに船舶用バイナリー発電システム
を開発し、実用化のめどをつけた。旭海運、三浦工業と2014年4月から共同開発を進めてきたもので、
16年12月に実船搭載での海上試験に合格し、日本海事協会の認証を取得。
開発したシステムは、船舶用エンジンに付属する「過給機(ターボチャージャー)」からの排熱の有
効利用を目指したもの。これまでそのまま捨てられていた排熱を活用して発電し、船舶の補助電源な
どに活用する。船舶用エンジンの過給器を利用したバイナリー発電システムは世界初。旭海運が所有
するバルク船「旭丸」を利用して実施した海上試験では、エンジン出力7500キロワット時に、125
キロワットの発電性能を確認。これは、船舶の発電機における使用燃料の約20~25%に相当、船
舶の排熱を利用した発電量としては最大規模である。
船舶の出力は運行パターンによって変動する。そこで、開発したシステムは低負荷から高負荷まで幅広いレ
ンジで発電できる仕様とした。さらに既存船への導入も考慮し、システムの各部品は船体構造を切断すること
なく、パーツハッチから搬入可能できる。 船舶を運行する場合、変動費の大半は燃料費が占める。エネルギ
ー効率を改善し、そのコストを数%でも改良することができれば、事業者側へのメリットは大きい。
● 特許事例:特開2016-200048 熱エネルギー回収装置
特開2014-194210 バイナリー発電装置の運転方法及びバイナリー発電装置
従来、船舶用の内燃機関が発生する熱エネルギーを回収する装置が知られている。この装置の一例と
して、特許文献1の排熱回収型船舶推進装置は、第1循環ポンプにより、高圧蒸発器、発電用のパワ
ータービン、および凝縮器の順に有機流体を循環させる第1サイクルと、第2循環ポンプにより、低
圧蒸発器、パワータービン、凝縮器の順に有機流体を循環させる第2サイクルとから構成する排熱回
収発電装置を備える。低圧蒸発器は、ディーゼルエンジンのジャケットを冷却するジャケット冷却水
により第2循環ポンプからの有機流体を加熱し、高圧蒸発器は、排ガスエコノマイザから供給され、
ディーゼルエンジンからの排ガスとの熱交換により第1循環ポンプからの有機流体を加熱。そして排
熱回収発電装置では、低圧蒸発器からの有機流体の熱落差と高圧蒸発器からの有機流体の熱落差によ
りパワータービンが回転駆動し、パワータービンに接続された発電機による電力の生成が行うが、
ガスエコノマイザが生成する蒸気は、排熱回収発電装置とは異なる船舶の蒸気の需要先、例えばバラ
ストタンク、積荷室、甲板等の洗浄を行うスートブロー装置などに優先的に供給され、これにより、
排ガスエコノマイザから排熱回収発電装置(熱エネルギー回収装置)の蒸発器への蒸気の供給量が低
下し、有機流体が十分に加熱されずにパワータービンに供給されるおそれがあり、作業者が停止操作
を行うことで熱エネルギー回収装置の動作を停止させるが、作業者が熱エネルギー回収装置の停止操
作を適切なタイミングで行うことは難しく、また作業者が熱エネルギー回収装置の動作を停止し忘れ
るおそれもある。なので、下図のように、熱エネルギー回収装置の動作を適切なタイミングで停止さ
せる熱エネルギー回収装置が提供されている(詳細は下図ダブクリ参照)
低圧の蒸気は、十分な潜熱を有しているとはいえ、飽和状態の蒸気に対して圧力や温度を若干高くし
た程度のものに過ぎない。この飽和状態から若干高い程度の圧力や温度では、圧力や温度が少しでも
変動すれば蒸気の熱エネルギも大きく変動する。それゆえ、上述した低温の蒸気を用いた場合には圧
力や温度が少しでも低下すると、作動媒体側に十分な熱エネルギが熱交換されなくなって、蒸発器の
出側で作動媒体が2相流状態となり、発電量が不安定になる。そのため、低圧の蒸気を用いて発電を
安定して行う為には、蒸気の圧力や温度の変動に合わせて、作動媒体の循環量を迅速且つ精確に調整
することが必要不可欠となる。蒸発器に供給される蒸気の圧力や温度の変動に応じて作動媒体の循環
量を迅速に且つ精度良く調整することで、低圧の蒸気を再利用しても安定した発電を行うことができ
るバイナリー発電装置の運転方法及びバイナリー発電装置が下図(詳細はダブクリ参照のように提案
されている。
9.お互いのかけらを交換し合う
「ところであなたは日本画に詳しいですか?」と免色が私に尋ねた。
私は首を振った。「門外漢も同然です。大学時代に美術史の講義で学んだことはありますが、
知識といえばそれくらいです」
「とても初歩的な質問ですが、日本画というのは、専門的にはどのように定義されているのでし
よう?」
私は言った。「日本画を定義するのは、それほど簡単なことではありません。一般的には膠や
顔料と箔などを主に用いた絵画であると捉えられています。そしてブラシではなく、筆や刷毛で
描かれる。つまり日本画というのは、主に使用する画材によって定義される絵画である、という
ことになるかもしれません。もちろん古米の伝統的な技法を継承していることもあげられますが、
アバンギャルドな技法を用いた日本画もたくさんありますし、色彩も新しい素材を取り入れたも
のが盛んに使用されています。つまりその定義はどんどん曖昧になってきているわけです。しか
し雨田典彦さんの描いてきた絵に関して言えば、これはまったく古典的な、いわゆる日本画です。
典型的な、と言ってもいいかもしれません。もちろんそのスタイルは紛れもなく技独白のもので
すが、技法的に見ればということです」
「つまり画材や技法による定義が曖昧になれば、あとに残るのはその精神性でしかない、と
ことになるのでしょうか?」
「そういうことになるかもしれません。しかし日本画の精神性となると、誰にもそれほど簡単に
定義はできないはずです。日本画というものの成り立ちがそもそも折衷的なものですから」
「折衷的というのは?」
私は記憶の底を探って、美術史の講義の内容を思い出した。「十九世紀後半に明治維新かおり、
そのときに他の様々な西洋文化と共に、西洋絵画が日本にどっと入ってきたわけですが、それま
では『日本画』というジャンルは事実上存在しませんでした。というか『日本画』という呼称さ
え存在しませんでした。『日本』という国の名前がほとんど使われなかったのと同じようにです。
外来の洋画が登場して、それに対抗するべきものとして、それと区別するべきものとして、そこ
に初めて『日本画』という概念が生まれたわけです。それまでにあった様々な絵画スタイルが、
『日本画』という新しい名のもとに便宜的に、意図的に一括りにされたわけです。もちろんそこ
から外されて衰退していったものもありました。たとえば水墨画のように。そして明治政府はそ
の『日本画』なるものを、欧米文化と均衡をとるための日本文化のアイデンティティーとして、
言うなれば『国民芸術』として確立し、育成しようとしました。要するに『和魂洋才』の和魂に
相応するものとして。そしてそれまで屏風絵とか襖絵とか、あるいは食器の絵付けなどの生活デ
ザイン、工芸デザインとされていたものが、額装されて美術展に出展されるようになりました。
言い換えれば、暮らしの中の自然な画風であったものが、西欧的なシステムに合わせて、いわゆ
る『美術品』に格上げされていったわけです」
私はそこでいったん話をやめ、免色の顔を見た。彼は真剣に私の話に耳を傾けているようだっ
た。私は話を続けた。
「岡倉天心やフェノロサが当時のそのような運動の中心になりました。これはその時代に急速に
行われた日本文化の大がかりな再編成の、ひとつの目覚ましい成功例と考えられています。音楽
や文学や思想の世界でも、それとだいたい似たような作業が行われました。当時の日本人はずい
ぶん忙しかったと思いますよ。短期間にやってのけなくてはならない大事な作業が山積していた
わけですから。でも今から見ると、我々はかなり器用に巧妙にそれをやってのけたようです。西
欧的な部分と非西欧的な部分の、融合と積み分けがおおむね円滑に行われました。日本人という
のはそのような作業にもともと向いていたのかもしれません。日本画というのは本来、定義があ
ってないようなものなのです。それはあくまで漠然とした合意に基づく概念でしかない、と言っ
ていいかもしれません。鍛初にきちんとした絵引きがあったわけではなく、いねば外圧と内圧の
接面として結果的に生まれたものです」
Fenollosa's grave
免色はそれについてしばらく真剣に考えているようだった。そして言った。「漠然とはしてい
るが、それなりの必然性のあった合意、ということですね?」
「そのとおりです。必要性に従って生み出された合意です」
「固定された本来の枠組を持たないことが、日本画の強みともなり、また同時に弱みともなって
いる。そのように解釈してもいいのでしょうか?」
「そういうことになると思います」
「しかし我々はその絵を見て、だいたいの場合、ああ、これは日本画だなと自然に認識すること
ができます。そうですね?」
「そうです。そこには明らかに固有の手法があります。傾向とかトーンというものがあります。
そして暗黙の共通認識のようなものがあります。でもそれを言語的に定義するのは、時として困
難なことになります」
免色はしばらく沈黙していた。そして言った。「もしその絵画が非西欧的なものであれば、そ
れは日本画としての様式を有するということになるのでしょうか?」
「そうとは限らないでしょう」と私は答えた。「非西欧的な様式を持つ洋画だって、原理的に存
在するはずです」
「なるほど」と彼は言った。そして微かに首を傾げた。「しかしもしそれが日本画であるとすれ
ば、そこには多かれ少なかれ、何かしらの非西欧的な様式が含まれている。そういうことは言え
ますか?」
私はそれについて考えてみた。「そう言われてみれば、たしかにそういう言い方もできるかも
しれませんね。あまりそんな風に考えたことはなかったけれど」
「自明ではあるが、その自明性を言語化するのはむずかしい」
私は同意するように肯いた。
彼は一息置いて続けた。「考えてみれば、それは他者を前にした自己の定義と通じるところが
あるかもしれませんね。自明ではあるが、その自明性を言語化するのはむずかしい。あなたがお
っしやったように、それは『外圧と内圧によって結果的に生じた接面』として捉えるしかないも
のなのかもしれません」
免色はそう言ってほんの少し微笑んだ。「とても興味深い」と彼はまるで自分に言い聞かせる
ように、小さな声で付け加えた。
我々はいったい何の話をしているのだろう、と私はふと思った。それなりに興味深い話題では
ある。しかしこんなやりとりが彼にとって、いったいどんな意味を持つというのだ? それはた
だの知的好奇心なのだろうか? それとも彼は私の知力を試しているのだろうか? もしそうだ
としたらいったい何のために?
「ちなみに私は左利きです」と免色はある時点で、ふと思い出したように言った。「何かの役に
立つかどうかわかりませんが、それも私という人間に関する情報のひとつになるかもしれない。
右か左かどちらかに行けと言われたら、いつも左をとるようにしています。それが習慣になって
います」
やがて三時近くになり、我々は次回の日取りを決めた。三日後の月曜日、午後一時に彼はうち
にやってくることになった。そして今日と同じように二時間ほどをスタジオで一緒に過ごす。そ
こで私はもう一度、彼のデッサンを試みる。
「急ぐことはありません」と免色は言った。「最初にも言ったことですが、好きなだけ時間をか
けてください。私には時間はいくらでもありますから」
そして免色は帰って行った。私は彼がジャガーに乗って去っていくのを窓から見ていた。それ
から描き上げた錫杖かのデッサンを手に取り、しばらく眺め、首を振って放り出した。
家の中はひどく静かだった。私ひとりになると、沈黙が一挙に重みを増したようだった。テラ
スに出ると風はなく、そこにある空気はゼリーのように濃密で冷ややかに感じられた。雨の予感
がした。
私は居間のソファに座って、免色とのあいだに交わされた会話を順番に思い出していった。肖
像画のモデルになることについて。シュトラウスのオペラ『薔薇の騎士』。IT関係の会社を立
ち上げ、その株を売り払い、まとまった額の金を手にして、若くして引退したこと。一人きりで
大きな家に暮らしていること。ファーストネームは渉。川を渉るの「わたる」。ずっと独身で、
若い頃から白髪であったこと。左利きで、現在の年齢は五十四歳。雨田典彦の人生、その大胆な
転換、チャンスの尻尾を掴んで離さないこと。日本画の定義について。そして最後に、自己と他
者との関係についての考察。
彼は私にいったい何を求めているのだろう?
そしてなぜ私には彼をまともにデッサンすることができないのだろう?
その理由は簡単だ。私には彼の存在の中心にあるものがまだ把握できていないからだ。
彼との会話のあと、私の心は不思議なほど乱れていた。そしてそれと同時に免色という人間に
対する好奇心は、私の中でますます強いものになっていた。
三十分ほどあとで大粒の雨が降り始めた。小さな鳥たちはもうどこかに姿を消していた。
10. 僕らは高く繁った緑の草をかき分けて
私が十五歳のときに妹が亡くなった。唐突な死に方だった。彼女はそのとき十二歳、中学校の
一年生だった。生まれつき心臓に問題があったのだが、なぜか小学校の高学年になった頃には症
状らしい症状もあまり出なくなっていたので、家族はいくらか安心していた。このまま何ごとも
なく人生は続いていくのではないか、という談い期待を我々は抱くようになっていた。しかしそ
の年の五月頃から急に、動悸が不規則的に激しくなることが増えてきた。とくに横になるとよく
それが起こり、うまく眠れない夜が多くなった。大学病院で診察してもらったのだが、どれだけ
精密に検査をしても、これまでと変わったところを見つけることができなかった。根本的な問題
は手術によって既に取り除かれているはずなのだが、と医師たちは首をひねった。
「激しい運動はできるだけ避け、規則正しい生活を送るようにしてください。そのうちに落ち着
いてくるはずです」と医師は言った。たぶんそうとしか言えなかったのだろう。そして何種類か
の薬を処方してくれた。
しかし不整脈は治まらなかった。私は食卓をはさんで座った妹の胸に目をやって、そこにある
彼女の不完全な心臓をよく想像した。彼女はだんだん胸が膨らみ始めているところだった。心臓
に問題を抱えてはいても、彼女の肉体は成熟への道を着々と進んでいた。日々膨らみを増してい
く妹の胸を見るのは、なんだか不思議なものだった。このあいだまでほんの小さな子供だった妹
が突然あるとき初潮を迎え、乳房が徐々に形成されていく。でも私の妹はその小さな胸の奥に、
欠陥のある心臓を抱えているのだ。そしてその欠陥は専門医にも正確に突き止めることができな
い。その事実がいつも私の心を乱した。いつなんどきこの小さな妹を失ってしまうかもしれない
という考えを胸の片隅に抱きながら、私は少年時代を送ってきたような気がする。
妹は身体が弱いのだから大事に護ってやらなくてはならない、私は常日頃両親からそう言い聞
かされていた。だから同じ小学校に通っているときは、私はいつも彼女に目を往いで、何かがあ
ったときには身を挺して、彼女とその小さな心臓を護ってやらなくてはと決意を固めていた。そ
の上うな機会は実際には一度も訪れなかったが。
妹は中学校からの帰り道、西武新宿線の駅の階段を上っているときに意識を失って倒れ、救急
車で近くの救急病院に運び込まれた。私か学校から戻り、その病院に駆けつけたときには既にそ
の心臓は動きを停めていた。あっという間の出来事だった。その日の朝、食卓で一緒に朝食をと
り、玄関前で別れて、私は高校に行き妹は中学校に行った。そして次に顔を合わせたとき、彼女
はもう呼吸することをやめていた。大きな目は永遠に閉じられ、目は何かを言いたそうに小さく
聞かれていた。その膨らみ始めたばかりの乳房はもうそれ以上膨らむことをやめていた。
次に私か彼女を見だのは、棺に入れられた姿たった。お気に入りの黒いベルベットのワンピー
スを着せられ、薄く化粧をはとこされ、髪はきれいに校かれ、黒いエナメルの靴を履き、小振り
な棺の中に仰向けに横になっていた。ワンピースには白いレースの丸襟がついていて、それはほ
とんど不自然なくらい白かった。
横になった彼女は、ただ安らかに眠り込んでいるように見えた。身体を少し揺すったら今にも
起き上がりそうだ。でもそれは錯覚だ。どれだけ呼びかけても揺すっても、彼女がもう目を覚ま
すことはない。
私としては、そんな狭苦しい箱の中に妹の華奢な身体を詰め込んでほしくなかった。その身体
はもっと広々したところに寝かされているべきなのだ。たとえば草原の真ん中に。そして僕らは
高く繁った緑の草をかき分けて、言葉もなく彼女に会いに行くべきなのだ。風が草をゆっくりそ
よがせ、そのまわりでは鳥たちや虫たちが、あるがままの声を上げているべきなのだ。野生の花
たちがその租い匂いを、花粉と共に空中に漂わせているべきなのだ。日が沈んだら、無数の銀色
の星が頭上の空に鍾められるべきなのだ。朝になったら新しい太陽が、まわりの草の葉についた
露を宝石のように煌めかせるべきなのだ。でも実際には彼女は小さな、馬鹿げた棺の中に収めら
れていた。まわりに釣られているのは、鋏で切られ花瓶にいけられた不吉な白い花ばかりだった。
狭い部屋を照らしているのは色を抜かれたような蛍光灯の光だった。天井に埋め込まれた小さな
スピーカーからは、オルガン曲が人工的な音で流れていた。
私は彼女が焼かれるのを見ていることはできなかった。棺の蓋が閉じられてしっかりロックさ
れたとき、もう我慢できなくなって、火葬場のその部屋を出ていった。そして彼女の骨を袷うこ
ともしなかった。私は火葬場の中庭に出て、一人で声を出さず涙を流した。そしてその短い人生
の中で、ただの一度も妹を肋けてやれなかったことを心から悲しく思った。
この項つづく