成ると虧(か)くるとあるの故は、昭氏の琴を鼓するなり
「成」と「虧」/「斉物論」(さいぶつろん)
※ 昭文が琴をかきならせばメロディーが成立するが、背後の無限のメロディーの
一つにすぎない。つまり、彼がいかに努力しようとも、無限のメロディーが残
され、メロディーを「成す」ことで無限のメロディーを「虧(うしな)う」。
すべてのメロディー(無声の声)を聴くとは、琴をかきならさぬということで
ある。だからこそ聖人は、思考を離れた無心の状態を最高の知恵と考え、選択
を行わず事物を自然のままにまかせる。「明」によるとはこのことである。
※ 太古の人こそ、最高の知の所有者だったといえるのではなかろうか。なぜなら
ば、かれらは自然そのままの存在であり、かれらの意識は、主客未分化の、い
ねば混沌状態だったと考えられるからである。この混沌こそ、もっとも望まし
いありかたなのである。時代が下ると、人々は自己を取りまく世界を意識しは
じめた。こうして認識作用が生まれたが、客体としての事物に区別は立てなか
った。さらに時代が下ると、人々は事物の区別を意識するようになったが、ま
だ価値概念は発生しなかった。しかし、やがて価値概念が発生するや、「道」
は虧われた。そして、「道」が虧われると同時に、人間の執着心が成ったので
ある。だが、果して「道」には、成虧の別があるのだろうか。
※ ここで、レヴィ=ストロースの『野生の思考』が脳裏を過ぎることとなる。
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【量子ドット工学講座35】
☑ 最新アトマイザー成膜工学
先回の取り上げた「超音波噴霧緻密膜のペロブスカイト太陽電池製造技術」(『完全電動自動車時代
』2017.04.08)をうけ、最新の超音波液体噴霧式塗工(コーティング)技術をリサーチ。ここで、基
板上に薄膜を成膜する方法には、化学気相成長(CVD)法などがあるが、化学気相成長法では真空
下での成膜を必要とし、真空ポンプなどに加えて、大型の真空容器を用いる必要がある。さらに、化
学気相成長法は、コストの観点等から、成膜される基板として大面積のものを採用することが困難で
あった。そこで、大気圧下における成膜処理が可能なミスト法が注目されている。
● 技術事例:特開2017-020076 成膜装置及び成膜方法
【符号の説明】
1 霧化器 2 超音波振動子 3 ミスト搬送管 4 ミスト噴射ヘッド部 4e 排気用空洞部
4m ミスト空洞部 4S 噴射面 5 原料ミスト噴出口 6 排気口 7 補助部材 8 マイ
クロ波発生器 9 反射板 71 貫通口 90 載置部 M1 原料ミスト SP7 中空部
【要約】
基板10が載置される載置部90と、載置部90に載置されている基板10の上面に向けて、噴射面
4Sの原料ミスト噴出口から原料ミストを噴射するミスト噴射機構(霧化器、ミスト搬送管及びミス
ト噴射ヘッド部)と、ミスト噴射機構の噴射面4Sと基板10の上面との間に形成される反応空間と
なる補助部材7の中空部SP7にマイクロ波を導入するマイクロ波発生器8とを備え、補助部材7の
上面及び下面はそれぞれ、原料ミスト噴出口から噴射される原料ミストが中空部SP7内を通過して
基板10の上面に到達可能な複数の貫通口71を有している成膜装置で、比較的低い温度環境下で薄
膜を成膜することができる成膜装置。
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ミスト法を利用した成膜の従来技術として、たとえば、特許文献に開示された技術がある。これによ
ると、❶金属を含む原料溶液をミスト化させる工程と、❷基板を加熱する工程と、❸加熱中の基板の
第一の主面上にミスト化された原料溶液である原料ミストとオゾンを供給する工程とを備え、オゾン
を供給することで、➀原料ミストの反応性を高め、基板に対する加熱処理における➁加熱温度の抑制
を図る。しかし、前出の特許文献の技術は、基本的に熱エネルギーを利用して薄膜を成膜する方法で
あり、薄膜の成膜に際し加熱処理により溶媒の蒸発や溶質の分解、酸化等の化学反応を進行させる必
要があり、比較的低い温度環境下で薄膜の成膜の実現は不可能である。
この技術の成膜装置は、薄膜原料を溶媒により溶解させた原料溶液をミスト化して得られる原料ミス
トを大気中に噴射し、基板が載置される載置部と、基板上面に向けて、噴射面から原料ミストを噴
射するミスト噴射機構に、ミスト噴射機構の噴射面と基板の上面との間に形成される反応空間にマイ
クロ波を導入するマイクロ波発生器とを備える。マイクロ波発生器により反応空間にマイクロ波が導
入され、溶媒を沸点以下の状態で蒸発させり、比較的低温な温度環境下で基板の上面に薄膜を成膜す
ることができるというものであり(実施事例記載なし)、従って、超音波アトマイザー方式ではない。
● 技術事例:US 9533323 B2 Ultrasound liquid atomizer:超音波液体噴霧装置
【符号の説明】
1.圧電トランスデューサ本体 1a応力集中ゾーン 1b変形増幅ゾーン 2.単一ピエゾ圧電セラミック
3.微小穿孔膜 4.液体を含むキャビティ 5.後部質量 6.プレストレスネジ 7.電極 8.リンク部材
9.多層圧電セラミック1 0.ベルマウス 11.電気接地リターン 12.トランスデューサカバー
13.リザーバ 14.プラグ 15.モジュール 16.先端 17.開口部またはバルブ1 8.電源ケーブル
19.電子モジュール20.電気コネクタ 21.同軸管 22液体存在センサー 23.センサー戻りケーブル
図1Aの圧電トランスデューサは、好ましくは 50kHz~200kHzの範囲で振動する圧電変換器本体1を備
える。図1Bは、同じアトマイザーを示しているが、アトマイザーの様々な部分の長手方向の変位の最
大振幅を示す曲線が並んで図示されている。圧電トランスデューサ本体1は、2つのゾーン、即ち、
応力集中ゾーン1aと変形増幅ゾーン1bとによって特徴付けられる。
【要約】
開口部と第2の端部とを画定する第1の端部を有する硬質圧電変換器本体(1)と、圧電変換器本体
(1)の内側に、霧化される液体を収容するための空洞を含む超音波液体噴霧器、その対称軸をさら
に備える本体(1)と、 第1の端部に取り付けられ、開口部を覆う微小穿孔膜(3)と、 圧電振動子
本体を振動させるように構成された圧電部材と、 圧電振動子本体(1)をその対称軸に平行な方向に
振動させる、圧電部材(2,9)が第2端部に向かい配置されていることを特徴とする。
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US9533323
図12 噴霧装置の振動挙動のモデル図
● 技術事例:US 39607,889 B2 Forming structures using aerosol jet.RTM. deposition:
エアロゾルジェット(登録商標) 堆積
1つ以上の物理的、電気的、化学的または光学的特性において5%以下の許容差を有する受動構造の
直接描画のための方法および装置。本装置は、堆積時間を延長することができる。この装置は、補助
のない動作のために構成されてもよく、センサおよびフィードバックループを使用してシステムの物
理的特性を検出し、最適なプロセスパラメータを識別および維持する。
以上、アトマイザー方式噴霧塗工装置及び方法に関する最新技術動向を、ロールツーロール製造方式
に最適な技術動向を、ペロブスカイト型太陽電池だけでなく、電子デバイス全般を対象に調べてみた
が、噴射量の制御法としてパルス制御で精密塗出できるものならば量産化の主流になっていく可能性
が高い。
12.あの名もなき郵便配達夫のように
免色が帰ったあと、その午後ずっと私は台所に立って料理をしていた。私は過に一度、まとめ
て料理の下ごしらえをする。作ったものを冷蔵したり冷凍したりして、あとの一週間はただそれ
を食べて暮らす。その日は料理の日だった。夕食にはソーセージとキャベツを葬でたものに、マ
カロニを入れて食べた。トマトとアボカドと玉葱のサラダも食べた。夜がやってくると、私はい
つものようにソファに横になり、音楽を聴きながら本を読んだ。それから本を読かのをやめて、
免色のことを考えた。
彼はどうしてあれほど嬉しそうな顔をしたのだろう? 彼は本当に私の役に立てることが嬉し
いのだろうか? どうして? 私にはよくわけがわからなかった。私はただの名もなき貧乏な画
家だ。六年間一緒に過ごした妻に去られ、両親とも不仲で、住むところもなく、財産らしきもの
もなく、友だちの父親の家の留守番をとりあえずさせてもらっている。それに比べて(わざわざ
比べるまでもないのだが)彼は若くしてビジネスで大きな成功を収め、この先ずっと不自由なく
暮らせるほどの財産を手に入れた。少なくとも本人はそう語っている。顔立ちは端正で、英国車
を四台所有し、とくに仕事らしい仕事もせず、山の上の大きな家にこもって優雅に日々を送って
いる。そんな人間がなぜ私みたいなものに個人的な興味を持つのだろう? なぜ私のためにわざ
わざ夜中の時間を割いてくれるのだろう?
弦楽四重奏曲第15番 ト長調
私は首を振って読書に戻った。考えても詮無いことだ。どれだけ考えたところで結論が出るわ
けではない。もともとピースが揃っていないパズルを解こうとしているようなものだ。しかし考
えないわけにはいかなかった。私はため息をつき、また本をテーブルの上に置き、目を閉じてレ
コードの音楽に耳を澄ませた。ウィーン・コンツェルトハウス弦楽四重奏団の演奏するシューベ
ルトの弦楽四重奏曲十五番。
私はここに住むようになってから、毎日のようにクラシック音楽を聴いている。そして考えて
みたら、私が耳を傾けている音楽の大半はドイツ(及びオーストリア)古典音楽だった。雨田典
彦のレコード・コレクションはおおむねドイツ系古典音楽で占められていたからだ。チャイコフ
スキーもラフマニノフもシベリウスも、ブィヴァルディもドビュッシーもラヴェルも、お義理の
ようにひととおり置いてあるだけだった。オペラ・ファンだからもちろんヴェルディとプッチー
ニの作品はいちおう揃っていた。しかしそれもドイツ・オペラの充実した陣容に比べれば、それ
ほど熱意の感じられない揃え方だった。
おそらく雨田典彦にとっては、ウィーン留学時代の思い出があまりに強烈だったのだろう。そ
のせいでドイツ音楽に深くのめり込むようになったのかもしれない。あるいは逆かもしれない。
彼はもともとドイツ系の音楽を深く愛していて、そのせいで留学先をフランスではなくウィーン
にしたのかもしれない。どちらが先なのか、私にはもちろん知りようがない。
しかしいずれにせよ私は、この家の中でドイツ音楽が偏愛されていることに対して、苦情を言
い立てられるような立場にはなかった。私はただのこの家の留守番に過ぎず、そこにあるレコー
ド・コレクションを厚意で聴かせてもらっているだけなのだ。そして私は、バツハやシューベル
トやブラームスやシューマンやベートーヴェンの音楽を聴くことを楽しんだ。それからもちろん
モーツァルトを忘れてはならない。彼らの音楽は深みのある優れた、美しい音楽だったし、そう
いう種類の音楽をゆっくり腰を据えて聴く機会を、私はそれまでの人生においてもったことがな
かった。日々の仕事に追われていたし、またそれだけの経済的な余裕もなかったからだ。だから
私はそういう機会を自分がたまたま手にできているあいだに、ここに揃えられた音楽をできるだ
けしっかり聴いてしまおうと心を決めていた。
十一時過ぎに私はソファの上でしばらく眠った。音楽を聴いているうちに眠りに落ちたのだ。
眠っていたのはたぶん二十分くらいだろう。目覚めたときレコードは既に終わって、トーンアー
ムは元の位置に戻り、ターンテーブルは停止していた。居間には勝手に針が上がるオートマティ
ックのプレーヤーと、マニュアル式の本格的なプレーヤーの二台があったが、私は安全を期して
――つまりいつ眠り込んでもいいように――だいたいオートマティックの方を使うようにしてい
た。私はシューベルトのレコードをジャケットに入れ、それをレコード棚の所定の位置に戻した。
開け放した窓の外からは虫たちの声が盛大に聞こえた。虫たちが鳴いているからには、まだあの
鈴の音は聞こえてこないのだ。
私は台所でコーヒーを温め、クッキーを少し食べた。そしてあたりの山を覆う夜の虫たちの販
やかな合唱に耳を澄ませた。十二時半少し前にジャガーが坂道をそろそろと上ってくる音が聞こ
えた。方向転換をするときに一対の黄色いヘッドライトが窓ガラスを大きく横切った。やがてエ
ンジン音が止み、車のドアが閉められるいつものきっぱりとした音が聞こえた。私はソファに座
ってコーヒーを飲みながら呼吸を整え、玄関のドアベルが鳴るのを待った。
13.それは今のところただの仮説に過ぎません
我々は居間の椅子に腰を下ろしてコーヒーを飲み、その時刻が近づくのを待ちながら時間つよ
しに話をした。最初はあてもない世間話のようなものだったが、沈黙がひとしきり二人のあいだ
に降りたあと、免色はいくぶん遠慮がちに、しかし妙にきっぱりとした声で私に尋ねた。
「あなたには子供がいますか?」
私はそれを聞いて少しばかり驚いた。彼は人に――まだそれほど親密とは言えない相手に――
そういう質問をする人物には見えなかったからだ。どう見ても「君の私生活には首を突っ込まな
いから、そのかわりこちらの私生活にも首を突っ込まないでくれ」というタイプだ。少なくとも
私はそのように理解していた。しかし顔を上げて免色の真剣な目を見ると、それがその場でふと
思いつかれた気まぐれな質問でないことがわかった。彼は前からずっと、そのことを私に尋ねた
いと思っていたようだった。
私は答えた。「六年ばかり結婚していましたが、子供はいません」
「作りたくなかったのですか?」
「ぼくはどちらでもよかった。でも妻が望まなかったのです」と私は言った。彼女が子供を作り
たくなかった理由については、あえて説明しなかった。それが本当に正直な理由だったのかどう
か、今となっては私にもよくわからなかったからだ。
免色はどうしようか少し迷っているようだったが、やがて心を決めたように言った。「こんな
ことをうかがうのは、失礼にあたるかもしれませんが、ひょっとして、奥さん以外の女性がどこ
かで、密かにあなたの子供をもうけているかもしれないという可能性について考えてみたことは
ありますか?」
私はもう一度まじまじと免色の顔を見た。不思議な質問だった。私はいちおう記憶の抽斗をい
くつか形式的に深ってみたが、そういうことが起こり得る可能性にはまったく思い当たらなかっ
た。私はこれまでそれほど多くの女性と性的な関係を持ったわけではないし、もし仮にそんなこ
とが起こっていたとしたら、きっと何らかのルートを通じて私の耳に届いているはずだ。
「もちろん理論的にはあり得るかもしれませんが、現実的には、というか常識的に考えて、そう
いう可能性はまずないと思います」
「なるほど」と免色は言った。そして何かを深く考えながら、コーヒーを静かにすすった。
「しかし、どうしてそんなことをぼくにお訊きになるのですか?」と私は思い切って尋ねてみた。
彼はしばらく目を閉じて窓の外を眺めていた。窓の外には月が出ていた。丁昨日の月ほど異様
に明るくはないが、じゆうぷんに明るい月だった。切れ切れになった雲が、海から山に向けて空
をゆっくりと流れていた。
やがて免色は言った。
「以前にも申し上げたように、私はこれまで一度も結婚したことかありません。この歳まで、ず
っと独り身でした。仕事が常に忙しかったということ心ありますが、それ以上に、誰かと一緒に
暮らすということが私の性格や生き方に合わなかったからでもあります。こんなことを言うと、
ずいぶん格好をつけているように思われるか心しれないが、良くも悪くも私は一人でしか生きら
れない人間です。血縁というようなものにもほとんど関心を持っていません。自分の子供を持ち
たいと思ったことも一度もありません。それには私なりの個人的な理由もあります。おおむね私
地震の子供時代の家庭環境によってもたらされたことなのですが」
彼はそこで言葉を切って、一息ついた。そして続けた。
「しかし数年前から、自分には子供がいるのではないかと考えるようになってきたのです。とい
うか、そう考えざるを得ないような状況に追い込まれた、と言った方がいいか心しれません」
私は黙って話の続きを待った。
「こんな込み入った個人的な話を、ほんのしばらく前に知り合ったばかりのあなたに打ち明ける
というのは、我ながらずいぶん奇妙なことに思えますが」と免色はとても談い微笑を口もとに浮
かべながら言った。
「ぼくの方はべつにかまいません。免色さんさえよるしければ」
考えてみれば、私にはまだ小さい頃からなぜか、それほど親しくない人から思いも寄らぬ打ち
明け話をされる傾向があった。もしかしたら私には、他人の秘密を引き出す特別な資質みたいな
ものが生まれつき具わっているのかもしれない。それともただ熟達した聴き手みたいに見えるの
かもしれない。いずれにしても、そのことで何か得をしたという覚えは一度もない。なぜなら、
人々は私に打ち明け語をしてしまったあとで、必ずそのことを後悔するからだ。
「こんなことを誰かに語すのは初めてです」と免色は言った。
私は肯いて語の続きを待った。だいたいみんな同じことを言う。
免色は語り始めた。「今から十五年ほど前のことになりますが、私は一人の女性と親しく交際
していました。当持私は三十代の後半で、相手は二十代後半の美しい、とても魅力的な女性でし
た。聡明な人でもあった。私なりに真剣な交際だったのですが、彼女と結婚する可能性がないと
いうことは、前もってきちんと相手に伝えていました。仏には誰とも結婚するつもりはないのだ
と。相手に空しい期待を抱かせるのは、私の望むところではありません。だからもし彼女に他に
結婚したいと思う相手ができたなら、私はいっさい何も言わずに身を引くと。彼女も仏のそうい
う気持ちを理解してくれました。でもその交際が続いているあいだ(二年半ほどですが)、我々
はとてもうまく、仲良くやっていました。目論ひとつしたことはありません。いろんなところに
も一緒に旅行もしたし、私のうちに泊まっていくこともしばしばありました。だから私のところ
には彼女の衣服がひと揃い置いてありました」
彼は何かを深く考えていた。そして再び口を開いた。
「もし私が普通の人間なら、というか、もう少し普通に近い人間であれば、何の迷いもなく彼女
と結婚していたことでしょう。私だって迷いがなかったわけではない。しかし―――、彼はそこ
で間を置き、小さな一息をついた。「しかし結局のところ、私は今あるような一人きりの静かな
生活を選び、彼女はよ健全な人生設計を選びました。つまり私よりは、もっと普通に近い男性と
結婚することになったのです」
最後の最後まで、彼女は自分が結婚することを免色には打ち明けなかった。免色が最後に彼女
に会ったのは、彼女の二十九歳の誕生日の一週間後だった(誕生日に二人は銀座のレストランで
一緒に食事をしたのだが、そのとき彼女が珍しく無口であったことを彼はあとになって思い出し
た)。彼が当時赤坂にあったオフィスで仕事をしていると、彼女から電話がかかってきて、ちょ
っと会って話をしたいのだけれど、これからそちらに行ってかまわないかと言った。もちろんか
まわない、と彼は言った。彼女がそれまで彼の仕事場を訪れたことはコ皮もなかったが、そのと
きはさして不思議には思わなかった。それは彼と中年の女性秘書の二人だけしかいない小さなオ
フィスだったし、誰に気兼ねをすることもなかった。それなりに大きな会社を主宰し、多くの人
を使っていた時期もあったが、それは彼が一人で新たなネットワークを企画している時期にあた
っていた。企画を立ち上げる時期には一人で寡黙に仕事をし、それを展開する時期にはアグレッ
シブに広く人材を用いるというのが彼の通常のやり方だった。
恋人がやってきたのは夕方の五持前たった。二人は彼のオフィスのソファに並んで座って話を
した。五時になったので、彼は隣の部屋にいる秘書を先に帰宅させた。秘書を帰宅させたあと、
一人でオフィスに残って仕事を続けるのは、彼にとっては普段どおりのことだった。仕事に没頭
してそのまま朝を迎えることもよくあった。彼としては彼女と二人で、近くのレストランに行っ
て夕食をとるつもりだった。しかし彼女はそれを断った。今日はそれはどの時間がないの、これ
から銀座に出て人に会わなくてはならないから。
「何か話したいことがあるって電話で言ってたけど」と彼は尋ねた。
「いいえ、話なんてとくにないの」と彼女は言った。「ただちょっとあなたに会いたかっただけ」
「会えて良かった」と彼は微笑んで言った。彼女がそういう率直なものの言い方をするのは珍し
いことだった。どちらかといえば婉曲な表現を好む女性だった。しかしそれが何を意味するのか、
彼にはよくわからなかった。
それから彼女は何も言わずにソファの上で身体をずらせ、免色の膝の上に乗った。そして両腕
を彼の身体にまわし、口づけをした。舌をからめあう深い本格的な口づけだった。長い口づけが
続いたあと、彼女は手を伸ばして免色のズボンのベルトをゆるめ、彼のペニスを探った。そして
硬くなったものを取りだし、それをしばらく手に握っていた。それから身をかがめて、ペニスを
口にくわえた。長い舌先をそのまわりにゆっくり這わせた。舌は滑らかで熱かった。
その一連の行為は彼を驚かせた。なぜなら彼女はセックスに関しては、どちらかといえば終始
受け身だったし、とくにオーラルセックスに関しては――おこなうことに関してもおこなわれる
ことに関しても――いつも少なからず抵抗感を抱いているように見受けられたからだ。しかし今
日はなぜか、彼女は自分から積極的にその行為を求めているようだった。いったい何か起こった
のだろう、と彼はいぷかった。
それから彼女は急に立ち上がり、履いていた黒い上品なパンプスを放り出すように説ぎ捨て、
ワンピースの下に手を入れて手早くストッキングを下ろし、下着を下ろした。そしてもうコ皮彼
の膝の上に乗って、片手を使って彼のペニスを自分の中に導き入れた。それは既に十分な湿り気
を帯び、まるで生き物のように滑らかに自然に活動した。すべては驚くほど迅速におこなわれた
(それもどちらかといえば彼女らしくないことだった。ゆっくりとした穏やかな動作が彼女の特
徴だったから)。気がついたときには、彼はもう彼女の内側にいて、その柔らかい装が彼のペニ
スをそっくり包み、静かに、しかし躊躇なく締め上げていた。
この項つづく