好悪(こうあく)をもって内その身を傷(やぶ)らず、常に自然によりて生を益さず
徳充符(とくじゅうふ)
※ 情問答:恵施が「聖人は情をもたぬというが、人間が情をもたぬことが
可能だと考えているのか」と荘子に議論をふっかける場面で、「情をも
たぬと言ったのは、情にとらわれぬということだ。好悪の念にとらわれ
て、われとわが身を損うことなく、いっさいを自然にまかせて、人為的
なつけ加えをしないということだ」と答える。
A caterpillar that eats and digests plastic in record time | Science | DW.COM | 24.04.2017
【ZW倶楽部:続・マイクロプラスチック問題に光り ?】
一昨日、この話題を取り上げたが、26日、ナショナルジオグラフィック日本版の「プラスチック食
べる虫を発見、ごみ処理には疑問」で、米国のウッズホール海洋研究所の海洋生物学者トレイシー・
ミンサーの見解――プラスチックごみの問題を解決するためには、生産量を減らし、リサイクルの量
を増やすことに重点を置くべきだとしている。ポリエチレンは高品質な樹脂で、より価値の高いさま
ざまな製品に“アップサイクル”できる。1トンにつき5百ドルで売れることもあるが(今回の研究
は学術的な研究としては大変すばらしい)、ポリエチレンの処分法として望ましい解決策とは思わな
い。これではお金を捨てるようなものだ――を引用している。
✪大きさ5ミリメートル以下のプラスチック(➲ "マイクロプラスチック”)。世界中から海に流れ
出るプラスチックの量は、推計最大1300万トン。それが砕け目に見えないほど小さくなり海に
漂っている。“マイクロプラスチック”は、海水中の油に溶けやすい有害物質を吸着させる特徴を
持ち、100万倍に濃縮させるという研究結果も出ていて、生態系への影響(➲マイクロプラスチ
ックと残留性有機汚染物質)が懸念されている。
ハチノスツヅリガ
結論めいたことを言えば「マイクロプラスチック問題」は、マイクロプラスチックが野生生物と人間
の健康に及ぼす影響は、科学的に十分に検証されていないが、現在使用されているポリエチレンポリ
リン酸樹脂などの生分解性プラスチックへの完全代替で根源対策となる。問題は環境に拡散したこれ
をどのように回収するかということになる。ところで、関連技術情報によると(➲Evidence of polyeth-
ylene biodegradation by bacterial Strains from the guts of plastic-eating waxworms.Yang, J., Yang, Y., Wu, W.-
M., Zhao, J., and Jiang, L. Environ. Sci. Tech. 2014; 48: 13776–13784)、ポリエチレン(PE)は数十年間非
生分解性だと考えられてきたが、細菌培養によるPEの生分解は、ワックスワーム/インディアナミツ
バチ(Plodia interpunctellaの幼虫)がPEフィルムを噛み食べることを見出だされている。 Enterobacter
asburiae YT1およびBacillus sp.YP1から、PEを分解する2つの菌株をこの虫の腸から単離している。PE
フィルム上の2つの菌株の28日間のインキュベーション期間にわたり、生存可能なバイオフィルム
が形成され、PEフィルムの疎水性が減少。 走査型電子顕微鏡(SEM)および原子間力顕微鏡(AFM)
を用いて、PEフィルムの表面にピットおよび空洞(深さ0.3〜0.4μm)を含む損傷が観察されている。
カルボニル基の形成は、X線光電子分光法(XPS)および微量全反射/フーリエ変換赤外(マイクロA
TR / FTIR)イメージング顕微鏡を用いて検証したところ、YT1/YP1(10 8細胞/ mL)の懸濁培養物は、
60日間のインキュベーション期間にわたって、PEフィルム(100mg)のそれぞれ約6.1±0.3%および
10.7±0.2%を分解する。 残留PEフィルムの分子量はより低く、12種の水溶性娘生成物の放出もまた
検出。その結果、ワックスワームの腸内にPE分解細菌が存在することが示され、環境中のPEの生分解
に関する有望な証拠が得られている。
✓ Studies on the waxmoth Galleria mellonella, with particular reference to the digestion of wax by the larvae.
Dickman, R. J. Cell. Comp. Physiol. 1933; 3: 223–246.
Apr. 3, 2017
このように、ワックス生分解の分子的詳細はさらに研究が必要であるが、これらの脂肪族化合物のC-
C単結合は消化の標的の1つであり、PEフィルムをワックス虫と直接接触させたままの状態での孔の
出現および劣化したPEのFTIR分析は、C-C結合の切断を含むPEの化学分解を示し、G.メロネラ菌の炭
化水素消化活性が、生物自体に由来するか腸内細菌叢の酵素活性に由来するのか明確ではないものの
このような分解酵素などを、フィルターなどに担持じさせマイクロプラスチックを含んだ淡水/海水
と接触反応させこれを分解し、有害物質を除去分離できると考えるのでスケールは大きくなるが解決
可能だと考えている(このシステム特許申請対象該当する)。さらに、生分解専用人工酵素の開発、
あるいは、ナノグラフェン(上図参照)等の精密濾過法など憂苦だろう。参考までに「酵素担持フィ
ルタ及びその製造方法」の特許事例を掲載しておく。
✓ 特開2008-212824 酵素担持フィルタ及びその製造方法 東洋紡績株式会社
● 太陽光による完全自己充電型リチウムイオン電池
今月10日、マギル大学らの研究グループは、太陽光を色素増感型光電変換素子からの電子を貯蔵す
る自己充電型リチウムイオン電池を公表(Light-assisted delithiation of lithium iron phosphate nanocrystals
towards photo-rechargeable lithium ion batteries,Nature Communications 8, Article number: 14643 (2017) , doi:
10.1038/ncomms14643)。リチウムイオン電池は、電話機、タブレット、コンピュータなどのあらゆる
種類のモバイル機器の急速普及を実現させたが、これらはバッテリのエネルギー密度が限られ、頻繁
に再充電する必要がある。スマートフォンは、オフィス内を持ち歩け、あらゆる種類のアプリケーシ
ョンが搭載され、多くの電力を必要としている。今回の発明は、携帯型太陽電池型蓄電器開発につな
がる。これらのハイブリッドデバイスを実現するには、複雑な回路/パッケージ問題により小型化が
困難であったが、この問題解決に、マギル大学とハイドロ・ケベック研究所の科学者たちは、光電
変換し、貯蔵できる単一機器、つまり自己充電型電池開発へと繋がったいう。ここまでを簡単にまめ
とめると、宮坂勉教授らの「ハイブリット型色素増感型太陽電池、あるいは、瀬川浩司教授らの蓄電
機能内包型色素増感型太陽電池の知財をベースとし、受光面の反対側のアノード側にリチウムイオン
電池配置している点が異なってい点であるが。言い換えれば、大きなリチウム電池表面を密封フィル
ムが施されたハイブリッド型色素増感型光電変換イングが塗布されている構成/構造の2次電池であ
ると言えるだろう。
最初の光二次電池は、1976年に提案された3硫化カドミウム/硫黄/硫化銀(CdSe/ S / Ag2S)から構成
する3電極電池。1977年には、3元系のn-セレシウムセレン化テルル化物/硫化セシウム/硫化スズ(
CdSe 0.65 Te 0.35 / Cs 2 S x / SnS)が開発、1990年には、ヨウ化タングステン酸銀(Ag 6 I 4 WO 4)を用
いた半導体シリコン/酸化ケイ素(PI aSi / SiO x)電極上の光反応で、SiO x 表面上に光増感効果が観測さ
れている。2012年にハイブリッドチタニア(TiO2)/ポリ(3,4-エチレンジオキシチオフェン、PEDOT)光ア
ノードと過塩素酸塩(ClO4)ドープポリピロール対電極の太陽電池の提案があり、2014年、酸化還元
結合色素光電極アシストリチウム - 酸素(Li-O 2)電池が、2015年には、独立電解質区画内のレドッ
クス――三ヨウ化物/ヨウ化物(I >3- / I -)を使用するリン酸鉄リチウム(LiFePO4 ; LFP)/リチウム金
属セルを含む3電極システムにTiO2ベースの電極を組み込んみ、同年Li ベースのセル(LFPカソード/
Li 4 Ti 5 O 12アノード)と直列のペロブスカイトメチルアンモニウムヨージド(CH 3 NH 3 PbI 3)ベー
スの太陽電池を接続し、良好なサイクル安定性を観測。 また、TiN電極上で生成された光電子が電池
放電をアシストする一方で、硫酸ナトリウム(KFe [Fe(CN) 6]および窒化チタン(TiN)を使用する化
学的に再充電可能な光電変換蓄電池を、CdSe@ Pt光触媒をLi-S 電池が提案されている。さらに、I 3 /
Iベース陰極液を用いてTiO 2-色素光電極で、光 -充電式Li-iodideフロー電池が、同年にLi-O 2 電池
の充電電圧低下にグラファイト炭素窒化物(C3 N4)光触媒が提案される。
本論文では、N719色素をハイブリッド光電陰極、Li 金属を陽極、LiPF6 有機カーボネート溶媒(EC /
DEC/VC)電解液の存在下、光照射によるLFP/ナノ結晶の直接光酸化を含む2電極システムである。
LFPは安定性と安全性、および酸化還元電位が良好で、LFPをカソード材料しています。 後者の3.4V
対Li + / Liは、1991年にO'ReganとGrätzelにより発明された色素増感太陽電池セル――古典的なI 3 - / I -
酸化還元対(約 3.1V対 Li + / Li)に近い。 色素増感は、アノードでの固体電解質界面(SEI)の形
成における酸素還元を介し利用される陰極のFePO 4 (ヘテロサイト)へのLFP(トリフィライト)ナ
ノプレートレットの化学変換補の正孔と電子 - 正孔対を生成する炭酸リチウムベースで構成される。
LFPの光アシスト脱離は、定電流放電で可逆的な2電極装置の構成に基づき、光充電式リチウムイオ
ン電池の可能性をもつ(以降、下図ダブクリ参照――詳細は後日別途掲載)。
19.私の後ろに何か見える
土曜日の午後の一時に、ガールフレンドが赤いミニに乗ってやってきた。私は外に出て彼女を
迎えた。彼女は緑色のサングラスを掛け、ベージュのシンプルなワンピースの上に軽いグレーの
ジャケットを羽織っていた。
「車の中がいい? それともベッドの方がいい?」と私は尋ねた。
「馬鹿ねえ」と彼女は笑って言った。
「車の中心なかなか悪くなかった。狭い中でいろいろと工夫するところが」
「またそのうちにね」
我々は居間に座って紅茶を飲んだ。少し前から取り組んでいた免色の肖像画(らしきもの)を
無事に完成させたことを、私は彼女に話した。そしてその緑は、私かこれまで業務として描いて
いたいわゆる「肖像画」とはずいぶん違う性質の心のになってしまったことを。話を間いて、彼
女はその緑に興味を持ったようだった。
「私がそれを見ることはできる?」私は首を振った。
「一日遅かったね。君の意見も聞いてみたかったんだけど、免色さんがもう家に持ち帰ってしまった。
まだ絵の具も十分に乾いていないんだけど、一刻も早く自分のものにしたいみたいだった。まるで他の誰
かに持って行かれるんじやないかと心配しているみたいに」
「じやあ、気に入ったのね」
「気に入っていると本人は言ったし、それを疑う理由もとくに見当たらなかった」
「絵は無事に完成して、依頼主にも気に入ってもらえた。つまりすべてはうまくいったととね?」
「たぶん」と私は言った。「そしてぼく自身も絵の出来に手応えを感じてにぼくが描いたことのない種類の
絵だったし、そこには新しい可能性みたると思うから」
「新しいスタイルの肖像画ということかしら」
「さあ、どうだろう。今回は免色さんをモデルにして描くことを通して、その方法にたどり着くことができた。
つまり肖像画というフレームをとりあえず入り口にすることで、たまたまそれが可能になったということかも
しれない。もうコ伎同じ方法が通用するのかどうか、それはぼくにもわからない。今回は特別だったのかも
しれない。免色さんというモデルがたまたま特殊な力を発揮したのかもしれない。でも何より大事なことは、
ぼくの中にまた真剣に絵を描きたいという気持ちが生まれたことだと思う」
「とにかく、絵が完成しておめでとう」
「ありがとう」と私は言った。「少しまとまった額の収入が得られることにもなる」
「とても気前の良いメンシキさん」と彼女は言った。
「そして免色さんは、緒が完成したことを視って、自宅にぼくを招待してくれている。火曜日の夜、夕食を
一緒にするんだ」
私はその夕食会のことを彼女に話した。もちろんミイラを招待したことは抜きにして。プロのコックとバー
テンダー、二人きりの夕食会。
「あなたはようやく、あの白亜の邸宅に足を踏み入れることになるのね」と彼女は感心したように言った。
「謎の人の住む謎のお屋敷に。興味津々。どんなところだかよく見てきてね」
「目の届く限り」
「出てくる料理の内容も忘れないように」
「できるだけ覚えておくようにする」と私は言った。「ところでこのおいたたしか、免色さんについて何か新
しい情報が手に入ったと言っていたよね」
「そう、いわゆる『ジャングル通信』で」
「どんな情報なんだろう?」
彼女は少し迷ったような顔をした。そしてカップを持ち上げ、紅茶を一口飲んだ。
「その話はもっとあとにしない」と彼女は言った。「それより前に少しばかりやりたいことがあるから」
「やりたいこと?」
「口にするのがけばかられるようなこと」
そして我々は居間から寝室のベッドに移動した。いつものように。
私は六年間、ユズと共に最初の結婚生活を送っていたわけだが(前期結婚生活、と呼んでいい
だろう)、そのあいだ他の女性と性的な関係を持ったことは一度もなかった。そういう機会がま
ったくなかったわけではないのだが、私はその時期、よその場所に行って別の可能性を追求する
よりは、妻と一緒に穏やかに生活を送ることの方により強い興味を持っていた。また性的な観点
から見ても、ユズと日常的にセックスをすることで私の性欲は十分満たされていた。
しかしあるとき妻が何の前触れもなく(と私には思える)「とても悪いと思うけど、あなたと
一緒に暮らすことはこれ以上できそうにない」と打ち明ける。それは揺らぎのない結論であって、
交渉や妥協の余地はとこにも見当たらない。私は混乱し、どう反応すればいいのかわからない。
言葉が出てこない。でもとにかくもうここにいられなということだけは理解できる。
だから身の回りの荷物を簡単にまとめて古いプジョー205に積み込み、放浪の旅に出る。春
の初めの一ケ月半ばかり、まだ寒さの残る東北と北海道を私は移動し続ける。とうとう車が壊れ
て動かなくなるまで。そして旅をしているあいだずっと、夜になると私はユズの身体を思い出し
た。その肉体のひとつひとつの細かい部分まで。そこに手を触れたときに彼女がどんな反応を見
せ、どんな声をあげるか。思い出したくはなかったのだが、思い出さないわけにはいかなかった。
そしてときおり、私はそのような記憶を辿りながら一人で射精した。そんなこともしたくはなか
ったのだけれど。
でもその長い旅行のあいだ、ただ一度だけ生身の女性と性交したことがある。わけのわからな
い不思議な成り行きで、私はその見知らぬ若い女と一度のベッドを共にすることになった。私の
方から求めてそういうことになったわけではなかったのだが。
それは宮城県の海岸沿いの小さな町での出来事だった。岩手県との県境に近いあたりだったと
記憶しているが、その時期私は日々細かく移動を続け、似たような町をいくつも通過してきた。
町の名前をいちいち覚えている余裕もなかった。大きな漁港があったことを覚えている。しかし
そのへんの町にはたいてい大きな漁港があった。そしてどこにもディーゼル油と魚の匂いが漂っ
ていた。
町外れの国道沿いにファミリー・レストランがあり、そこで私は一人で夕食をとっていた。午
後の八時頃のことだ。海老カレーとハウスサラダ。店の中に客は数えるほどしかいなかった。私
か窓際のテーブルで、一人で文庫本を読みながら食事をしていると、私の向かいの席に出し抜け
に一人の若い女が座った。彼女はまったく躊躇することもなく、私にひとこと断るでもなく、無
言でそのビニール張りのシートに素遠く腰を下ろした。まるで世界中にこれ以上当たり前のこと
はないという様子で。
私は驚いて顔を上げた。もちろんその女の顔に見覚えはなかった。まったくの初対面だ。突然
のことなので、事情がよく理解できなかった。テーブルは他にいくらでも空いている。わざわざ
私と相席するような理由はない。あるいはこの町では、こんなことはむしろありふれた出来事な
のだろうか? 私はフォークを置いて、紙ナプキンで口許を拭い、彼女の顔をぼんやり眺めてい
た。
「知り合いのような顔をして」と彼女は手短に言った。「ここで待ち合わせをしていたみたいな」。
ハスキーな声と言っていいかもしれない。あるいは緊張が彼女の声を一時的にしやがれさせてい
るだけかもしれない。声には徴かな東北誼りが聞き取れた。
私は読んでいた本にしおりをはさんで閉じた。女はたぶん二十代半ばだろう。襟の丸い白いブ
ラウスに、紺色の力ーディガンを羽織っていた。どちらもあまり上等なものとは言えない。とく
に洒落てもいない。人が近所のスーパーマーケットに買い物に行くときに着ていくような、ごく
普通の服だ。髪は黒く短く、前髪が顔に落ちていた。化粧気はあまりない。そして黒い布製のシ
ョルダーバッグを膝に載せていた。
これという特徴のない顔立ちだった。顔立ちそのものは悪くないのだが、それが与える印象が
希薄なのだ。通りですれ違ってもほとんど印象に残らない顔だ。そのまま通り過ぎて忘れてしま
う。彼女は薄くて長い唇をまっすぐ結び、鼻で呼吸していた。呼吸がいくらか荒くなっているよ
うだった。鼻孔が小さく膨らみしぼんだ。鼻は小さく、口の大きさに比べてバランスを欠いてい
た。まるで塑像を追っている人が途中で粘土が足りなくなって、鼻のところを少し削ったみたい
に。
「わかった? 知り合いのような顔をしていて」と彼女は繰り返した。「そんなびっくりした顔
「いいよ」とわけがわからないまま私は返事をした。
「そのまま普通に食事を続けて」と彼女は言った。「そして私と親しく話をしているふりをして
くれる?」
「どんな話を?」
「東京の人なの?」 私は肯いた。フォークを取り上げ、プチトマトをひとつ食べた。そしてグラ
スの水をひとくち飲んだ。
「しゃべり方でわかる」と彼女は言った。「でもどうしてこんなところにいるの?」
「たまたま通りかかったんだ」と私は言った。
生姜色の制服を着たウェイトレスが、分厚いメニューを抱えてやってきた。驚くほど胸の大き
なウェイトレスで、制服のボタンが今にもはじけ飛びそうに見えた。私の向かいに座った女はメ
ニューを受け取らなかった。ウェイトレスの顔さえ見上げなかった。私の顔をまっすぐ見ながら
「コーヒーとチーズケーキ」と言っただけだった。まるで私に注文するみたいに。ウェイトレス
は黙って肯き、持ってきたメニューをそのまま抱えて歩き去った。
「何か面倒なことに巻き込まれているの?」と私は尋ねた。
彼女はそれには答えなかった。まるで私の顔を値踏みするみたいにじっと見ているだけだった。
「私の後ろに何か見える? 誰かいる?」と彼女は尋ねた。
私は彼女の背後に目をやった。普通の人々が普通に食事をしているだけだ。新しい客も入って
きていない。
「何もない。誰もいない」と私は言った。
「もう少しそのまま様子を見ていて」と彼女は言った。「何かあったら教えて。さりげなく会話
を続けて」
我々の座ったテーブルから店の駐車場が見えた。私の埃だらけの小さな古いプジョーが駐まっ
ているのが見えた。他には二台の車が駐まっていた。銀色の軽自動車が一台と、背の高い黒のワ
ンボックス・カーだ。ワンボックス・カーは新車のように見える。どちらもしばらく前から駐ま
っている。新しくやってきた車は見えない。女はたぶん歩いてこの店まで米たのだろう。それと
も誰かに車でここまで送ってもらったか。
デカ文字文庫
「たまたまここを通りかかった?」と女が言った。
「そうだよ」
「旅行をしているの?」
「まあね」と私は言った。
「どんな本を読んでいたの?」
私は読んでいた本を彼女に見せた。それは森鴎外の『阿部一族』だった。
「『阿部一族』」と彼女は言った。そして本を私に通した。「どうしてこんな古い本を読んでい
るの?」
「少し前に泊まった青森のユースホステルのラウンジに置いてあったんだ。ぱらぱら読んでみた
ら面白そうだったので、そのまま持ってきた。かわりに読み終えた本を何冊か置いてきた」
「『阿部一族』って読んだことないわ。面白い?」
私はその本を読み終え、もう一度読み返していた。話がなかなか面白かったこともあるが、森
鸚外がいったい何のために、どのような観点からそんな小説を書いたのか、書かなくてはならな
かったのか、うまく理解できなかったということもある。でもそんな説明を始めると話が長くな
る。ここは読書クラブではな い。それにこの女は二人で自然に会話をするために(少なくとも
そのように周りの目には映ることを目的として)、目についた適当な話題を持ち出しているだけ
なのだ。
蛾とカミキリ虫の一穴:大切なバランス感覚