徳長ずるところあれば、形忘るるところあり
徳充符(とくじゅうふ)
※ 天に養われる:徳が長ずるにしたがって、人は形を忘れてゆく。逆に、
形を忘れない者は徳を忘れる。これこそまことの忘失というものだ。
したがって、全き徳を抱く聖人は何ものにもとらわれぬ。かれは知を
ひこばえのようなものとみる。
Published online:Apr 19, 2017
【ZW倶楽部:廃棄ガラスから高性能蓄電池をつくる】
今月19日、カリフォルニア大学リバーサイド校(UCR)の研究グループは、廃棄ガラス瓶から、電
気自動車やパーソナ電子機器用の高性能リチウムイオン電池の製造に成功したことを公表。廃棄ガラ
ス瓶を使い低コストで、高性能リチウムイオン電池のナノシリコン陽極の製造を行った。この電池は
電気自動車とプラグインハイブリッド電気自動車、携帯電話やラップトップ電子機器向けの省エネに
して高出力な電力供給できる(この研究経過は、Nature journalのScientific Reportsに掲載:上図ダブク
リ参照)。毎年何十億本ものガラス瓶が埋め立て処分される廃棄飲料用瓶の二酸化ケイ素を再資源化
し、リチウムイオン電池用の高純度シリコンナノ粒子の製造方法研究課題としてきた。
従来の黒鉛陽極材と比較して、最大10倍ものエネルギーを蓄電可能だが、充放電時の膨張/収縮に
よる不安定となる問題を抱えるが、シリコンをナノスケールにダウンサイジングすることで、この問
題が軽減される。同上グループは、比較的純粋で豊富な二酸化ケイ素を低コストな化学反応で、従来
の黒鉛陽極材より約4倍のエネルギー貯蔵できるリチウムイオンハープ電池をつくる――3段階プロ
セス、❶ガラス瓶を細かく粉砕、❷マグネシア熱還元法で――高温でマグネシウムで還元させ、複雑
な形状を保持しながら――ケイ素中のシリカ含有量を逓減し、二酸化ケイ素をナノ構造のシリコンに
変換し、❸安シリコンナノ粒子を炭素でコーティングすることで安定性/エネルギー貯蔵性の改善す
る。
Apr. 19, 2017
✪ガラス瓶とそれから作られた陽極材料(写真/上)
カーボン被覆ガラス誘導シリコン電極は、C / 2速度、400サイクル試験で、〜1420mAh / gの容量で優れた電
気化学的性能を示し、予想どおり、ガラス瓶由来シリコン陽極使用したコイン型電池は、従来の電池を大きく
上回わる成果を得る。また、1本の廃棄ガラス瓶で、数百個のコイン型電池または3〜5個のパウチ型電池用
ナノシリコンを供給できる量である。
今月24日、ふだんは釣り餌として養殖されているガの幼虫が、耐久性の高いプラスチックを食べる
ことを発見した。レジ袋などのプラスチックごみによる環境問題への対策にこの幼虫が一助となる可
能性がある。英ケンブリッジ大学(University of Cambridge)のパオロ・ボンベーリ教授は、今回の発
見は、ごみ処理場や海洋に蓄積しているポリエチレン製のプラスチックごみ除去に寄与する重要な手
段となる可能性があるとする。この幼虫はハチノスツヅリガ(学名:Galleria mellonella)。成虫がミ
ツバチの巣に卵を産み付け、幼虫がこれを餌とする。フェデリカ・ベルトッチーニ(Federica Bertocch-
ini) 生物学者が、幼虫が湧いてしまったハチの巣をプラスチック袋に入れておいたところ、多くが
穴を開けて外に這い出しているのを発見。幼虫数百匹をレジ袋の上に乗せて実験を行ったところ、40
分後には複数の穴を確認、さらに12時間後には、92ミリグラムが食べられていたが、そのスピー
ドは、真菌や微生物よりも格段に速い。
18.好奇心が殺すのは猫だけじゃない
「免色さんも暗闇には気をつけて下さい」
免色はそれには返事をせず、私の顔をひとしきり見上げていた。下を向いている私の表情の中
に何かの意味を読み取るうとしているみたいに。しかしその視線にはどことなく漠然としたとこ
ろがあった。まるで私の顔に焦点を合わせようとして、うまく合わせられないような。それはあ
まり免色らしくない、どこかあやふやな視線だった。板はそれから思い直したように地面に腰を
下ろし、湾曲した石壁に背中をもたせかけた。そして私に向かって小さく手を上げた。準備はで
きている、ということだ。私は梯子を引き上げて、厚板をできるだけぴたりと穴の上に被せ、そ
の上にいくつか重しの石を置いた。木材と木材のあいだの細い隙間から少しくらいは光が入って
くるだろうが、それで穴の中はじゆうぷん暗くなったはずだった。私は蓋の上から中にいる免色
に何か声をかけようかと思ったが、思い直してやめた。私は孤独と沈黙を自ら求めているのだ。
私は家に帰って湯を彿かし、紅茶をいれて飲んだ。そしてソファに座って読みかけの本を読ん
だ。しかし鈴の音が聞こえないかとずっと耳を澄ませていたので、なかなか読書に意識を集中す
ることができなかった。ほとんど五分ごとに腕時計に目をやった。そして真っ暗な穴の底に一人
で座っている免色の姿を想像した。不思議な人物だ、と私は思った。自分で費用を持ってわざわ
ざ造園業者を呼び、重機を使って石の山をどかせ、わけのわからない穴の口を聞いた。そして今
はその中に一人で閉じこもっている。というか、自ら志願してそこに閉じ込められている。
まあいいさ、と私は思った。そこにどんな必然性があるにせよ、意図があるにせよ(もし何ら
かの必然性や意図があるとすればだが)、それは免色の問題であって、すべて彼の判断に任せて
おけばいいのだ。私は他人が描いた図の中で、何も考えずに勤いているだけだ。私は木を読むの
をあきらめてソファに横になり、目を閉じた。でももちろん眠りはしなかった。今ここで眠って
しまうわけにはいかない。
結局鈴は鳴らないまま、一時間が経過した。あるいは私は何かの加減で、その音を聞き逃した
のかもしれない。いずれにせよ蓋を開ける時刻だった。私はソファから立ち上がり、靴を履いて
外に出て、雑木林の中に入った。スズメバチだかイノシシが現れるのではないかとふと不安にな
ったが、スズメバチもイノシシも現れなかった。メジロのような小さな鳥が目の前を素進く横切
っただけだった。私は林の中を進み、祠の裏にまわった。そして重しの石を取って、板を一枚だ
けどかせた。
「免色さん」と私はその隙間から声をかけた。しかし返事はなかった。隙間から見える穴の中は
真っ暗で、そこに免色の姿を認めることはできなかった。
「免色さん」と私はもう一度呼びかけてみた。しかしやはり返事はない。私はだんだん心配にな
ってきた。ひょっとして免色は姿を消してしまったのかもしれない。そこにあるはずのミイラが
どこかに姿を消してしまったのと同じように。常識ではあり得ないことだったが、そのときの私
は真剣にそう考えた。
私はをもう一枚、手早くどかせた。そしてまた一枚。それで地上の光がようやく穴の底まで
届いた。そしてそこに座り込んでいる免色の輪郭を、私は目にすることができた。
「免色さん。大丈夫ですか?」と私は少しほっとして声をかけた。
免色はその声でようやく意識が戻ったように顔を上げ、小さく頭を振った。そしていかにも眩
しそうに両手で顔を覆った。
「大丈夫です」と彼は小さな声で答えた。「ただ、もう少しだけこのままにしておいてくれませ
んか。目が光に慣れるのに少し時間がかかります」
「ちょうどT時間経ちました。もっと長くそこに留まりたいというのであれば、また蓋をします
が」
免色は首を振った。「いや、もうこれで十分です。今はもういい。これ以上ここに居ることは
できません。それは危険すぎるかもしれない」
「危険すぎる?」
「あとで説明します」と免色は言った。そして皮膚から何かをこすり落とすみたいに、両手でご
しごしと顔をさすった。
五分ほどあとに彼はそろそろと立ち上がり、私が下ろした金属製の梯子を登ってきた。そして
再び地上に立ち、ズボンについた埃を手で払い、それから目を細めて空を仰いだ。樹木の枝の間
から青い秋の空か見えた。彼は長いあいだその空を愛おしそうに眺めていた。それから我々はま
た板を並べて、穴を元通りに塞いだ。人が誤ってそこに落ちたりしないように。そしてその上に
重しの石を並べた。私はその石の配置を頭に刻んでおいた。誰かがそれを勣かしたときにわかる
ように。梯子は穴の中にそのまま残しておいた。
「鈴の音は聞こえませんでした」と私は歩きながら言った。
免色は首を振った。「ええ、鈴は鳴らしませんでした」
彼はそれ以上何も言わなかったので、私も何も尋ねなかった。
我々は歩いて雑木林を抜け、家に戻った。免色が先に立って歩き、私はそのあとに従った。免
色は無言のまま、懐中電灯をジャガーのトランクにしまった。それから我々は居間に腰を下ろし、
熱いコーヒーを飲んだ。免色はまだ口を間かなかった。何かについて真剣に考え込んでいるよう
だった。とくに深刻な領をしたりするわけではないのだが、彼の意識がここから遠く離れた別の
領域に移ってしまっていることは明らかだった。そしてそこはおそらく、彼一人の存在しか許さ
れない領域なのだ。私はその邪魔をせず、彼を思考の世界にひたらせておいた。ちょうどシャー
ロック・ホームズに対してドクター・ワトソンがそうしていたように。
私はそのあいだとりあえずの自分の予定について考えていた。今日の夕方には車を運転して地
上に降り、小田原駅の近くにある絵画教室に行かなくてはならない。そこで人々の描く絵を見て
まわり、講師としてそれにアドバイスを与える。子供向けの教室と成人教室が続けてある日だ。
それは私が日常の中で生身の人々と顔をあわせ、会話を交わすほとんど唯一の機会だった。もし
その教室がなかったら、私はこの山の上で隠者同然の生活を送ることになっていただろうし、そ
んな一人きりの生活を続けていたら、政彦が言うように、精神のバランスが変調をきたしていた
かもしれない(あるいはもう既にきたし始めているのかもしれないが)。
だから私としてはそのような現実の、言うなれば世俗の空気に触れる機会を与えられたことを
感謝しなくてはならなかったはずだ。しかし実際には、なかなかそういう気持ちになれなかった。
教室で顔を合わせる人々は私にとって、生身の存在というよりは、ただ目の前を通り過ぎていく
影みたいなものに過ぎなかった。私は一人ひとりににこやかに応対し、相手の名前を呼び、作品
を批評する。いや、批評とは呼べない。私はただ褒めるだけだ。ひとつひとつの作品にどこかし
ら良き部分を見つけて――もしなければ適当にこしらえて――褒める。
そんなわけで講師としての私の、教室内での評判は悪くないらしい。経営者の話によれば、多
くの生徒が私に好感を持ってくれているようだ。それは私にとっては予想外のことだった。自分
か他人にものを教えるのに向いていると思ったことは一度もなかったから。しかしそれも私にと
ってはどうでもいいことだ。人々に好かれても好かれなくても、どちらでもかまわない。私とし
てはできるだけ円滑に、支障なくその教室の仕事がこなせればいい。そうすることで雨田政彦に
対する義理は果たされる。
いや、もちろんすべての人々が影であるわけではない。私はその中から二人の女性を選んで、
個人的な交際をするようになったのだから。私と性的な関係を持つようになってから、彼女たち
は絵画教室に通うことをやめた。たぶんなんとなくやりにくかったからだろう。そのことで私は
責任のようなものを感じないでもなかった。
二人目のガールフレンド(年上の人妻)は明日の午後にここに来る。そして我々はしばしの時
間ベツドの中で抱き合い、交わり合うだろう。だから彼女はただの通り過ぎていく影ではない。
立体的な肉体を具えた現実の存在だ。あるいは立体的な肉体を具えた通り過ぎていく影だ。どち
らなのか、私にも決められない。
免色が私の名前を呼んだ。私はそれではっと我に返った。知らないうちに私も、一人で深く考
え込んでしまっていたようだった。
「それは私の肖像画のことですか?」
「そうです」と私は言った。
「それは素晴らしい」と免色は言った。顔には微かな笑みが浮かんでいた。「実に素晴らしい。
しかしそのある意味というのはどういうことなのでしょう?」
「それを説明するのは簡単じゃありません。何かを言葉で説明するのが、もともと得意じゃない
んです」
免色は言った。「ゆっくり時間をかけて、好きなように話して下さるから」
私は膝の上で両手の指を組んだ。そして言葉を選んだ。
私が言葉を選んでいるあいだ、まわりに沈黙が降りた。時間の流れる音が聴き取れそうなほど
の沈黙だった。山の上では時間はとてもゆっくりと流れていた。
私は言った。「ぼくは依頼を受け、あなたをモデルにして一枚の絵を描きました。しかし正直
に申し上げて、それはどう見ても〈肖像画〉と呼べるようなものではありません。ただくあなた
をモデルとして描いた作品〉であるとしか言えないのです。そしてそれが作品として、商品とし
てどれはどの価値を持つものかも判断がつきません。ただ、それがぼくが描かなくてはならなか
いか絵であるということだけは確かです。しかしそれ以上のことは皆目わからない。正直なとこ
ろ、ぼくはとても戸惑っています。いろんな状況がもっとクリアになるまで、その絵はあなたに
お渡しせず、こちらに置いておいた方がいいのかもしれません。そういう気がします。ですから、
受け取った着手金はそのままお返ししたいと思います。それからあなたの貴重な時間を潰させて
しまったことについては心からお詫びします」
「肖像画ではないとあなたは言う」と免色は慎重に言葉を選ぶように質問した。「それはどのよ
うな意味合いにおいてなのですか?」
私は言った。「これまでずっとプロの肖像画家として生活してきました。肖像画というのは基
本的に、相手が描いてもらいたいという姿に相手を描くことです。相手は依頼主であり、できあ
がった作品が気に入らなければ、『こんなものに金を払いたくない』と言われることだってあり
得るわけですから。ですからその人物のネガティブな側面はできるだけ描かないようにします。
良い部分だけを選んで強調し、できるだけ見栄え良く描くことを心がけます。そういう意味にお
いてきわめて多くの場合、もちろんレンブラントみたいな人は別ですが、肖像画を選ぶことはむ
ずかしくなります。しかし今回の場合、この免色さんを描いた絵の場合 あなたのことなんて何
も考えず、ただ自分のことだけを考えてこの絵を描いていました。言い換えるなら、モデルであ
るあなたのエゴよりは、作者である自分のエゴを率直に優先した絵になっています」
「そのことは私にとってはまったく問題にはなりません」と免色は微笑みを顔に浮かべたまま言った。「む
しろ喜ばしいことです。あなたの好きなように描いてくれ、何も注文はつけない、最初にはっき
りそう申し上げたはずです」
「そのとおりです。そうおっしやいました。よく覚えています。心配しているのは、作品の出来
よりはむしろ、ぼくがそこで何を描いてしまったのかということなのです。ぼくは自分を優先す
るあまり、何か自分か描くべきではないことを描いてしまったのかもしれない。ぼくとしてはそ
のことを案じているのです」
私は彼の顔を見た。その目を見て、彼が本当の気持ちをそのまま語っていることがわかった。
彼は心から私の絵に感心し、心を動かされているのだ。
「この絵には私がそのまま表現されています」と免色は言った。「これこそが本来の意味での肖
像画というものです。あなたは間違っていない。実に正しいことをした」
彼の手はまだ私の肩の上に置かれていた。ただそこに置かれているだけだったが、それでもそ
の手のひらからは特別な力が伝わってくるようだった。
「しかしどのようにして、あなたはこの絵を発見することができたのですか?」と免色は私に尋
ねた。
「発見した?」
「もちろんこの絵を描いたのはあなたです。言うまでもなく、あなたが自分の力で創造したもの
だ。しかしそれと同時に、ある意味ではあなたはこの絵を発見したのです。つまりあなた自身の
内部に埋もれていたこのイメージを、あなたは見つけ出し、引きずり出したのです。発掘したと
言っていいかもしれない。そうは思いませんか?」
そう言われればそうかもしれない、と私は思った。もちろん私は自分の手を動かし、自分の意
志に従ってこの絵を描いた。絵の具を選んだのも私なら、絵筆やナイフや指を使ってその色をキ
ャンバスに塗ったのも私だ。しかし見方を変えれば、私は免色というモデルを触媒にして、自分
の中にもともと埋もれていたものを探り当て、掘り起こしただけなのかもしれない。ちょうど祠
の裏手にあった石の塚を重機でどかせ、格子の重い蓋を持ち上げ、あの奇妙な石室の口を開いた
のと同じように。そして私の周辺でそのような二つの相似した作業が並行して進行していたこと
うに自負しています」
それでも私にはまだ、免色の言葉をそのまま素直に受けとめて喜ぶことができなかった。絵を
凝視しているときの、あの肉食鳥のような鋭い目つきが心にひっかかっていたせいかもしれない。
「じやあ、この絵は免色さんの気に入っていただけたのですね?」と私は事実を確認するために
あらためて尋ねた。
「言うまでもないことです。これは本当に価値のある作品だ。私をモデルとしてモチーフとして、
このような優れた力強い作品を描いていただけたことは、まさに望外の喜びです。そして言うま
でもなく、依頼主としてこの絵は引き取らせていただきます。それでもちろんよろしいですね?」
「ええ。ただぼくとしては――」
免色は素遠く手を上げて私の言葉を遠った。「それで、もしよるしければ、この素晴らしい絵
が完成したことを枇して、近々あなたを拙宅にご招待したいのですが、いかがでしょう? 昔風
に言えば、万屋振る舞いたいということです。もしそういうことがご迷惑でなければ」
「もちろん迷惑なんかじやありませんが、しかしわざわざそんなことをしていただかなくても、
もう十分――」
「いや、私がそうしたいんです。この絵の完成を二人で祝いたいのです。一度私のうちに夕食を
食べにきてくれませんか。たいしたことはできませんが、ささやかな祝宴を張りましょう。あな
たと私と二人だけで、他の人はいません。もちろんコックとバーテンダーは別ですが」
「コックとバーテンダー?」
「早川漁港の近くに、昔から親しくしているフレンチ・レストランがあります。その店の定休日
に、コックとバーテンダーをこちらに呼びましょう。腕の確かな料理人です。新鮮な魚を使って
なかなか面白い料理を作ってくれます。実を言えば、この絵の一件とは関係なく、コ伎あなたを
うちにご招待しようと思って、その準備を進めてはいたのです。でもちょうど良いタイミングで
した」
驚きを顔に出さないようにするにはいささかの努力が必要だった。それだけの手配をするのに
いったいどれはどの費用がかかるのか見当もつかないが、たぶん免色にとっては通常の範囲なの
だろう。あるいは少なくとも、それほど常軌を逸した行いではないのだろう。
免色は言った。「たとえば四日後はいかがですか? 火曜日の夜です。もしご都合がよるしけ
ればその段取りをします」
「火曜日の夜にはとくに予定はありません」と私は言った。
「じやあ、火曜日で決まりです」と彼は言った。「それで今、この絵を持ち帰ってもかまわない
でしょうか? できればあなたがうちに見えるまでにきちんと頬袋をして、壁に飾りたいので」
「免色さん、あなたにはこの絵の中に本当にご自分の頬が見えるのですか?」と私はあらためて
尋ねた。
「もちろんです」と免色は不思議そうな目で私を見て言った。「もちろんこの絵の中には私の頬
が見えます。とてもくっきりと。それ以外にここに何か描かれているというのですか?」
「わかりました」と私は言った。それ以外に私に言えることはなかった。「もともと免色さんの
依頼を受けて描いたものです。もし気に入られたのなら、作品は既にあなたのものです。ご自由
になさって下さい。ただし絵の具はまだ乾いていません。だから十分注意して運んでください。
それから順装をするのも、もう少し待たれた方がいいと思います。二週間ほど乾かしたあとの方
が良いでしょう」
「わかりました。気をつけて扱います。順装も後日にまわします」
帰り際に玄関で彼は手を差し出し、我々は久しぶりに握手をした。彼の順には満ち足りた笑み
が浮かんでいた。
「それでは火曜日にお目にかかりましょう。夕方の六時頃に迎えの車をこちらに寄越します」
「ところで夕食にミイラは招かないのですか?」と私は免色に尋ねてみた。どうしてそんなこと
を口にしたのか、その理由は自分でもよくわからない。でも突然ふとミイラのことが順に浮かん
だのだ。そしてそう言わずにはいられなかった。
免色は探るように私の顔を見た。「ミイラ?いったい何のことでしょう?」
「あの石室の中にいたはずのミイラのことです。毎夜鈴を鳴らしていたはずなのに、鈴だけを残
してどこかに消えてしまった。即身仏というべきなのかな。ひょっとして彼もおたくに招待され
たがっているのではないでしょうか。『ドン・ジョバンニ』の騎士団長の彫像と同じように」
少し考えて、免色はようやく俯に落ちたというように明るい笑みを浮かべた。「なるほど。ド
ン・ジョバンニが騎士団長の彫像を招待したのと同じように、私がミイラを夕食の席に招待すれ
ばどうかということですね」
「そのとおりです。これも何かの縁かもしれません」
「いいですよ。私はちっともかまいません。お視いの席です。もしミイラが夕食に加わりたいの
であれば、喜んで招待しましょう。なかなか興味深い夕べになることでしょう。でもデザートに
はどんなものを出せばいいのだろう?」、彼はそう言って楽しそうに笑った。「ただ問題は本人
の姿が見当たらないことです。本人がいないことには、こちらとしても招待のしようもありませ
ん」
「もちろ」と私は言った。「でも目に見えることだけが現実だとは限らない。そうじやありま
せんか?」
免色はその線を大事そうに両手で抱えて運び、まずトランクから古い毛布を出して助手席のシ
ートに敷いた。そしてその上に、絵の具がついたりしないように絵を寝かせて置いた。そして細
いロープと二つの段ボール箱を使って、動かないように注意深くしっかりと固定した。とても要
領がいい。とにかく車のトランクには様々な道具が常備されているようだった。
「そうですね、たしかにあなたのおっしやるとおりかもしれません」と帰り際に免色はふと呟く
ように言った。彼は両手を革のハンドルの上に置いて、私の顔をまっすぐ見上げていた。
「ぼくの言うとおり?」
「つまり我々の人生においては、現実と非現実との境目がうまくつかめなくなってしまうことが
往々にしてある、ということです。その境目はどうやら常に行ったり来たりしているように見え
ます。その日の気分次第で勝手に移動する国境線のように。その動きによほど注意していなくて
はいけない。そうしないと自分か今どちら側にいるのかがわからなくなってしまいます。私がさ
きほど、これ以上この穴の中に留まっているのは危険かもしれないと言ったのは、そういう意味
です」
私にはそれに対してうまく言葉を返すことができなかった。そして免色もそれ以上は話を進め
なかった。彼は開けた窓から私に手を振り、V8エンジンを心地よく響かせながら、まだ絵の具
の乾ききっていない肖像画と共に私の視界から消えていった。
チェコの“茹でるパン”クネドリーキ料理:クネドリーキと酢キャベツのローストポーク