※ 鄭は、弟を処断してお家馳勣を解決(前節)した荘公ではあったが、そ
の原因をつくった母の処置には困りはてる。
※ 荘公は母の武装を城潁(じょうえい)というところに幽閉し、誓いとし
て言いわたした。
「黄泉へ行かぬかぎり、絶対にお目にかかりません」
しかしその後、自分の言いすぎを後悔していた。
潁考叔(えいこうしゅく)は頴谷の国境守備の役人であった。この話を
聞くと、献上物を持って荘公のもとに推参した。荘公はこれに馳走をと
らせた。ところが考叔が肉を残したので、荘公がわけを聞いた。すると
考叔は答えた。
「わたくしの母は健在です。いつもわたくしの差しだすすまずい物ばか
り食べていまして、まだこのように結構なものを食べたことがございま
せん。どうかこれを頂いて帰り母に食べさせたいと存じます」
「なるほど、お前には母がいるから、これを持って帰って食べさせると
いうのか。しかし、わたしには母がないからなあ」
「恐れ入りますが、それはどういう意味でございますか」
潁考叔に問かれて、荘公はわけを話して聞かせ、そして後悔している旨
を告げた。すると潁考叔は言った。
「それならご心配には及びません。泉の出るところまで地を掘り下げ、
地下道を作って、そこでご対面なさったならば、誰も誓いをお破りにな
ったとは申しますまい」
荘公はその言葉のとおりにした。荘公が地下道にはいって歌った。
「大きな穴の中その楽しみはのんびりと」
母の武姜は地下道から出てきて歌った。
「大きな穴の外/その楽しみはゆったりと」
ついにまたもとの母子仲となった。
当時の識者がこのことを評していった。
「潁考叔は孝行一途の人物である。その母への愛情は、荘公にまで感化
を及ぼした。詩(大胆・既酔)に、
とことわに孝子はつきず/つぎつぎに友呼びつどう
とあるのは、こういうことをいったものではなかろうか」
【RE100倶楽部:蓄電池電篇】
● 圧縮空気電池の克服課題とは
NEDOと早稲田大学、エネルギー総合工学研究所らは、天候の影響を受けやすい風力発電の出力
調整用に、圧縮空気エネルギー貯蔵システムを完成し、先月20日から実証試験を開始。 圧縮空
気利用ステムは珍しく、大規模なものは世界的にも数例し かない。将来、再生可能エネルギーが増
えて行くと、発電施設の立地や規模、出力特性などに合わせた様々なエネルギー貯蔵技術が必要に
なる可能性がある。
● 電池より安全でクリーン
現状、エネルギー貯蔵システムの主力技術である2次電池のシステムには、コストが高い、寿命が
短い(劣化する)、廃棄物処理にコストがかかる、などの問題点がある。また可燃性の材料が使わ
れるので火災の危険性があり、十分な管理が必要である一方、圧縮空気システムは、高価な部品や危
険な材料は使われない。圧縮空気の利点を整理すると、低コストの可能性、長寿命、廃棄が楽、枯
れた技術で信頼性が高い、環境に優しい(下図ダブクリ参照)。
Apr. 29, 2017
この施設は、伊豆半島南端の三筋山山頂付近に建設された東京電力の東伊豆風力発電所に隣接する。
静岡県の伊豆稲取駅から4kmほど山中に入った所にある。天候に左右されやすい風力発電の出力を
、正確な気象予測(前日抑制)や周辺の発電設備の稼働状況を参照(15~30分前抑制)することで
細かく予測し、出力変動による電力系統への影響を最小にする技術研究を行う(「電力系統出力変
動対応技術研究開発事業」)。山あいを切り開いた約1500m2の敷地に、発電・充電ユニットと空気
タンクが立ち並んでいた。発電・充電ユニットは空気圧縮機/膨張機、蓄熱槽などからなり、出力は
1000kW(500kWが2基)であるが、容量はわずか500kWhしかなく、電気自動車(30kWh)の17台分に
すぎずエネルギー密度が低い。つまり、❶ライフサイクルコストと❷環境負荷コストの2つの説明
要因を詳細に考察していくこと喫緊の課題であることを意味する。
● 太陽光発電プロジェクトの入札が世界全体で増加
【RE100倶楽部:水素製造篇】
● 最新アンモニア/水素転換技術
先月29日、大分大学らの研究グループは、アンモニアをエネルギーキャリア利用法は、短時間で
起動でき、水素を高速で製造可能なアンモニア分解プロセスが求められていたが、アンモニアの触
媒への吸着熱を利用し、触媒層を内部から加熱し、室温から水素製造反応を起動させる新しい触媒
プロセスの開発に成功したことを公表。これにより、触媒表面の酸点と金属酸化物粒子表面へのア
ンモニア吸着が、反応起動のためのキーステップであることを明らかにする。この成果により、ア
ンモニアから水素を簡単に、瞬時に取り出すことが可能な新しい触媒プロセスが構築されている(
詳細は上図ダブクリック参照)。
23.みんなほんとにこの世界にいるんだよ
ある日、私たちは少し足を伸ばして富士の風穴を訪れた。富士山のまわりに数多くある風穴の
うちのひとつで、まずまずの規模のものだった。叔父はその風穴がどのようにして出来上がった
かを教えてくれた。洞窟は玄武岩でできているので、洞窟の中でもほとんどこだまが聞こえない
こと。夏でも気温が上がらないので、昔の人々は冬のあいだに切り出した氷をその洞窟の中に保
存しておいたこと。一般的に人が入り込める大きさを持つ穴を「ふうけつ」、入り込めないよう
な小さな穴を「かざあな」と呼び分けていること。とにかくなんでもよく知っている人だった。
その風穴は入場料を払って中に入れるようになっていた。叔父は入らなかった。前に何度か来
たことがあるし、背の高い叔父には洞窟の天井が低すぎてすぐに腰が痛くなるから、ということ
だった。とくに危ないところはないから、君たち二人だけで行くといい。ぼくは入り口のところ
で本を読みながら待っているから、と叔父は言った。私たちは入り目で係員にそれぞれ懐中電灯
を渡され、プラスチックの黄色いヘルメットをかぶらされた。穴の天井には電灯がついていたが、
明かりは暗かった。奥に行くに従って天井が低くなっていった。長身の叔父が敬遠するのも無理
はない。
私と妹は懐中電灯で足もとを照らしながら、奥の方に進んでいった。夏の盛りなのに洞窟の中
はひやりとしていた。外の気温は摂氏三十二度あったのに、中の気温は十度もなかった。叔父の
アドバイスに従って、私たちは持参した厚手のウィンドブレーカーを着込んでいた。妹は私の手
をしっかり握っていた。私に保護を求めているのか、あるいは逆に私を保護しようとしているの
か、どちらかはわからなかったが(ただ離ればなれになりたくないと思っていただけかもしれな
い)、洞窟の中にいる間ずっと、その小さな温かい手は私の手の中にあった。そのとき私たちの
他に見物客は、中年の夫婦が一組いただけだった。でも彼らはすぐに出ていってしまって、私た
ち二人だけが残された。
妹は小径という名前だったが、家族はみんな彼女のことを「コミ」と呼んだ。友人たちは「み
っち」とか「みっちやん」とか呼んでいた。「こみち」と正式に呼ぶものは、私の知る限りI人
心いなかった。ほっそりとした小柄な少女だった。髪は黒くてまっすぐで、首筋の上できれいに
カットされていた。顔の割りに目が大きく(それも黒目が大きく)、そのせいで彼女は小さな妖
精のように見えた。その日は白いTシャツに淡い色合いのブルージーンズ、ピンク色のスニーカ
ーという格好だった。
The Lobster Quadrille
洞窟をしばらく進んだところで、妹は順路から少し離れたところに、小さな横穴を見つけた。
それは岩陰に隠れるようにこっそり口を開けていた。彼女はその穴のたたずまいにとて心興味を
惹かれたようだった。「ねえ、あれってアリスの穴みたいじやない?」と妹は私に言った。
彼女はルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』の熱狂的なファンだった。私は彼女のため
に何度その本を読まされたかわからない。少なくとも百回くらいは読んでいるはずだ。もちろん
彼女は小さな頃からしっかり字が読めたけれど、私に声を出してその本を読んでもらうのが好き
だった。筋はもうすっかり覚え込んでいるはずなのに、その物語は読むごとにいつ心妹の気持ち
をかきたてた。とくに彼女が好きなのは「イセエビ踊り」の部分だった。私は今でもそのページ
をそっくり暗記している。
「うさぎはいないようだけど」と私は言った。
「ちょっとのぞいてみる」と彼女は言った。
「気をつけて」と私は言った。
それは本当に狭い小さな穴だったが(叔父の定義によれば「かざあな」に近い)、小柄な妹は
そこに苦もなく潜り込むことができた。上半身が穴の中に入って、彼女の膝から下だけがそこか
ら突き出していた。彼女は手に持った懐中電灯で穴の奥を照らしているようだった。それからゆ
っくりあとずさりをして、穴から出てきた。
「奥の方がずっと深くなっている」と妹は報告した。「下の方にぐっと下がっているの。アリス
のうさぎの穴みたいに。奥の方をちょっと見てみたいな」
「だめだよ、そんなの。危なすぎる」と私は言った。
「大丈夫よ。私は小さいからうまく抜けられる」
そう言うと彼女はウィンドブレーカーを説いで白いTシャツだけになり、ヘルメットと一緒に
私に手渡し、私か抗議の言葉を口にする前に、懐中電灯を手にするすると器用に横穴の中に潜り
込んでいった。そしてあっという間にその姿は見えなくなってしまった。
長い時間が経ったが、妹は穴から出てこなかった。物音ひとつ聞こえなかった。
「コミ」と私は穴に向かって呼びかけた。「コミ。大丈夫か?」
しかし返事はなかった。私の声はこだますることもなく、間の中にまっすぐ呑み込まれていっ
た。私はだんだん不安になってきた。妹は狭い穴の中にひっかかったまま、前にも後ろにも勤け
なくなっているのかもしれない。あるいは穴の奥で何かの発作を起こして、気を失っているのか
もしれない。もしそんなことになっていても、私には彼女を助け出すことができない。いろんな
不幸な可能性が私の頭の中を行き来した。まわりの暗闇がじわじわと私を締め付けていった。
もしこのまま妹が穴の中に消えてしまったら、二度とこの世界に戻ってこなかったら、私は両
親に対してどのように言い訳すればいいのだろう? 入り口で待っている叔父を呼びに行くべき
なのだろうか? それともこのままここに留まって、妹が出てくるのをただじっと待っているし
かないのだろうか? 私は身をかがめて、その小さな穴を覗き込んだ。しかし懐中電灯の光は穴
の奥にまでは届かなかった。とても小さな穴だったし、その中の暗さは圧倒的だった。
「コミ」と私はもう一度呼びかけてみた。返事はない。「コミ」ともっと大きな声で呼んでみた。
やはり返事はない。身体の芯まで凍りついてしまいそうな寒気を感じた。私はここで永遠に妹を
失ってしまったのかもしれない。妹はアリスの穴の中に吸い込まれて、そのまま消えてしまった
のかもしれない。偽ウミガメや、チェシャ猫や、トランプの女王のいる世界に。現実世界の論理
がまるで通じないところに。私たちは何かあるうとこんなところに来るべきではなかったのだ。
しかしやがて妹は戻ってきた。彼女はさっきのようにあとずさりするのではなく、頭から這い
出てきた。まず黒髪が穴から現れ、それから肩と腕が出てきた。そして腰が引きずり出され、最
後にピンク色のスニーカーが出てきた。彼女は何も言わず私の前に立ち、身体をまっすぐに伸ば
し、ゆっくり大きく息をついてから、ブルージーンズについた土を手で払った。
私の心臓はまだ大きな音を立てていた。私は手を伸ばして、妹の乱れた髪を直してやった。洞
窟の貧弱な照明の下ではよく見えないが、彼女の白いTシャツには土やら埃やら、いろんなもの
がくっついているようだった。私はその上にウィンドブレーカーを着せかけてやった。そして預
かっていた黄色いヘルメットを返した。
「もう戻ってこないのかと思ったよ」と私は妹の体をさすりながら言った。
「心配した?」
「すごく」
彼女はもう一度私の手をしっかり握った。そして興奮した声で言った。
「がんばって細い穴をくぐって抜けちやうとね、その奥は急に低くなって、降りていくと小さな
部屋みたいになっているの。それで、その部屋はなにしろボールみたいにまん丸の形をしている
のよ。天井も丸くて、壁も丸くて、床も丸いの。そしてそこはとてもとても静かな場所で、こん
な静かな場所は世界中探したって他にないだろうと思っちゃうくらいなんだ。まるで深い深い海
の底の、そのまた奥まった窪みにいるみたいだった。懐中電灯を消すと真っ暗なんだけど、怖く
はないし、淋しくもない。そしてその部屋はね、私一人だけが入れてもらえる特別な場所なの。
そこは私のためのお部屋なの。誰もそこにはやってこれない。お兄ちゃんにも入れない」
「ぼくは大きすぎるから」
妹はこっくりと肯いた。「そう。この穴に入るには、お兄ちゃんは大きくなりすぎている。そ
れでね、その場所でいちばんすごいのは、そこがこれ以上暗くはなれないというくらい真っ暗だ
っていうことなの。灯りを消すと、暗闇が手でそのまま掴めちゃえそうなくらい真っ暗なの。そ
してその暗闇の中に丁人でいるとね、自分の身体がだんだんほどけて、消えてなくなっていくみ
たいな感じがするわけ。だけど真っ暗だから、自分ではそれが見えない。身体がまだあるのか、
もうないのか、それもわからない。でもね、たとえぜんぶ身体が消えちゃったとしても、私はち
ゃんとそこに残ってるわけ。チェシヤ描が消えても、笑いが残るみたいに。それってすごく変で
しょ? でもそこにいるとね、そういうのがぜんぜん変に思えないんだ。いつまでもそこにいた
かったんだけど、お兄ちゃんが心配すると思ったから出てきた」
「もう出よう」と私は言った。妹は興奮してそのままいつまでもしゃべり続けていそうだったし、
どこかでそれを止めなくてはならない。「ここにいると、うまく呼吸ができないみたいだ」
「大丈夫?」と妹は心配そうに尋ねた。
「大丈夫だよ。ただもう外に出たいだけ」
私たちは手を繋いだまま、出口に向かった。
「ねえ、お兄ちゃん」と妹は歩きながら、小さな声で――他の誰かに聞こえないように(実際に
は他に誰もいなかったのだが)――私に言った。「知ってる? アリスって本当にいるんだよ。
嘘じゃなくて、実際に。三月うさぎも、せいうちも、チェシャ猫も、トランプの兵隊たちも、み
んなほんとにこの世界にいるんだよ」
「そうかもしれない」と私は言った。
そして私たちは風穴から出て、現実の明るい世界昆戻った。薄い雲のかかった午後だったが、
それでも太陽の光がひどく眩しかったことを覚えている。蝉の声が激しいスコールのようにあた
りを圧していた。叔父は入り口近くのベンチに座って、一人で熱心に本を読んでいた。私たちの
姿を見ると、彼はにっこり微笑んで立ち上がった。
その二年後に妹は死んでしまった。そして小さな棺に入れられて、焼かれた。そのとき私は十
五歳で、妹は十二歳になっていた。彼女が焼かれているあいだ、私は他のみんなから離れて一人
で火葬場の中庭のベンチに座り、その風穴での出来事を思い出していた。小さな横穴の前で妹が
出てくるのをじっと待っていた時間の重さと、そのとき私を包んでいた暗闇の濃さと、身体の芯
に感じていた寒気を。穴の口からまず彼女の黒髪の頭が現れ、それからゆっくりと肩が出てきた
ことを。彼女の白いTシャツについていたいろんなわけのわからないもののことを。
妹は二年後に病院の医師によって正式に死亡を宣告される前に、あの風穴の奥で既に命を奪わ
れてしまっていたのではないだろうか――そのとき私はそう思った。というか、ほとんどそう確
信した。穴の奥で失われ、既にこの世を離れてしまった彼女を、私は生きているものと勘違いし
たまま電車に乗せ、東京に連れて帰ってきたのだ。しっかりと手を繋いで。そしてそれからの二
年間を兄と妹として共に過ごした。しかしそれは結局のところ、拶い猶予期間のようなものに過
ぎなかった。その二年後に、死はおそらくあの横穴から這い出して、妹の魂を引き取りにきたの
だ。貸したままになっていたものを、定められた返済期限がやって来て、持ち主が取り返しに来
るみたいに。
いずれにせよ、あの風穴の中で、妹が小さな声でまるで打ち明けるように私に言ったことは真
実だったんだ、と私はこうして三十六識になった私は――今あらためて思った。この世界には本
当にアリスは存在するのだ。三月うさぎも、せいうちも、チェシャ描も実際に実在する。そして
もちろん騎士団長だって。
Alice's Adventures in Wonderland (1972)
天気予報は外れて、結局大雨にはならなかった。見えるか見えないかというくらいの細かい雨
が五時過ぎから降り出し、そのまま翌朝まで降り続けただけだ。午後六時ちょうどに、黒塗りの
大型セダンがしずしずと坂道を上がってきた。それは私に霊柩車を思い出させたが、もちろん霊
柩車なんかじゃなく、免色がよこした送迎リムジンだった。車種は日産インフィニティたった。
黒い制服を着て帽子をかぶった運転手がそこから降りて、雨傘を片手にやってきて、うちの玄関
のベルを鳴らした。私がドアを開けると帽子を取り、それから私の名前を確認した。私は家を出
て、車に乗り込んだ。傘は断った。傘をさすほどの降りではない。運転手が私のために後部席の
ドアを開け、ドアを閉めてくれた。ドアは重厚な音を立てて閉まった(免色のジャガーのドアが
立てる音とは少し響きが違う)。私は黒い丸首の薄いセーターの上に、グレーのヘリンボーンの
上着を着て、濃いグレーのウールのズボンに黒いスエードの靴を履いていた。それが私の所有し
ている中ではいちばんフォーマルに近い服装だった。少なくとも絵の具はついていない。
迎えの車が来て騎士団長は姿を見せなかった。声も聞こえなかった。だから、彼がその日に
免色に招待されていることをちゃんと覚えているのかどうか、私には確かめようもなかった。で
もきっと覚えているはずだ。あれほど楽しみにしていたのだから、忘れるはずはないだろう。
しかし心配する必要はまったくなかった。車が出発してしばらくしてふと気がついたとき、騎
士団長は涼しい顔をして私の隣のシートに腰掛けていた。いつもの白い装束に(クリーニングか
ら返ってきたばかりのようにしみひとつない)、いつもの宝玉つきの長剣を帯びて。身長もやは
りいつもどおりの六十センチほどだ。インフィニティの黒い革のシートの上にいると、彼の装束
の白さと清潔さがひときわ日たった。彼は腕組みをして前方をまっすぐ睨んでいた。
「あたしにけっして話しかけないように」と騎士団長は釘を刺すように私に語りかけた。「あた
しの姿は諸君には見えるが、ほかの誰にも見えない。あたしの声は諸君には聞こえるが、ほかの
誰にも聞こえない。見えないものに話しかけたりすると、諸君がとことん変に思われよう。わか
ったかね? わかったら一度だけ小さく肯いて」
私はコ伎だけ小さく肯いた。騎士団長もそれにこたえて小さく肯き、そのあとは腕組みをした
きりひとことも目をきかなかった。
あたりはもう真っ暗になっていた。カラスたちもとっくに山のねぐらに引き上げていた。イン
フィニティはゆっくりと坂道を降りて谷間の進を進み、それから急な上り坂にかかった。それは
どの距離ではないのだが(なにしろ狭い谷間の向かい側に行くだけだから)、道路は比較的狭く、
おまけに曲がりくねっていた。大型セダンの運転手が幸福な気持ちになれるような種類の道路で
はない。四輪駆動の軍用車が似合いそうな道だ。しかし運転手は顔色ひとつ変えずにクールにハ
ンドルを操作し、車は無事に免色の屋敷の前に到進した。
屋敷は白い商い壁にまわりを囲まれ、正面にいかにも頑丈そうな扉がついていた。濃い茶色に
塗られた、大きな両開きの本の扉だ。まるで黒輝明の映画に出てくる中世の城門みたいに見える。
矢が数本刺さっていると似合いそうだ。内部は外からはまったくうかがえない。門の脇には番地
を書かれた札がついていたが、表札はかかっていなかった。たぶん表札を出す必要もないのだろ
う。ここまでわざわざ山を上ってやってくる人なら、これが免色の屋敷であることくらいみんな
最初から承知しているはずだ。門の周辺は水銀灯で明々と照らされていた。運転手は車を降りて
ベルを押し、インターフォンで中にいる人と短く話をした。それから運転席に戻って、遠隔装置
で扉が開けられるのを待った。門の両側には可動式の監視カメラが二台設置されていた。
両開きの扉がゆっくり内側に開くと運転手は中に車を入れ、そこから曲がりくねった邸内道路
をしばらく道んだ。道はなだらかな下り坂になっていた。背後で扉が閉まる音が聞こえた。もう
もとの世界には戻れないぞ、と言わんばかりに重々しい音を立てて。道路の両側には松の木が並
んでいた。手入れの行き届いた松だ。枝がまるで盆栽のように美しく整理され、病気にかからな
いように丁寧に処置が施されている。道路の両側にはツツジの端正な生け垣が続いていた。ツツ
ジの奥には山吹の姿も見えた。椿がまとめて楠えられた部分もあった。家屋は新しいが、樹木は
みんな古くからあるもののようだった。それらすべてが庭園灯できれいに照らし出されていた。
この項つづく