僖公二十七・八年:城濮(じょうぼく)の戦い / 晋の文公制覇の時代
※ 前六三二年、晋を中心とする宋、斉、秦の四国連合軍と、楚を中心とする
陳、蔡の三国連合軍が衛の城濮(現在の河南宵陣留県境)で激突、前者が
勝利した。晋の文公はこの一戦によって強楚の北進を抑え、勝者の地位を
確定的なものにした。即位役わずか数年を出でずしてこの偉業をなしとげ
たのは、父献公の時代にすでに北方に揺がぬ勢力を扶植していたことにも
よるが、文公の人心把捉の巧みさ、君臣の協力一致、要するに亡命十九年
の苦労が実ったというべきである。
読書録:村上春樹著『騎士団長殺し 第Ⅱ部 遷ろうメタファー編』
36.試合のルールについてぜんぜん語り合わない
一九三八年の夏の終わり頃というと……つまりその弟さんが屋根裏で自殺を遂げたとき、雨田
典彦さんはまだ留学生としてウィーンに滞在していたわけですね?」と私は尋ねた。
「そうです。彼は葬儀のために日本には戻りませんでした。当時はまだ飛行機使はそれほど発達
していませんでしたし、鉄道か船で帰るしかありません。だからどうせ弟の葬儀には間に合わな
かったわけですが」
「弟の自殺と、それとほとんど時を同じくして雨田典彦がウィーンで暗殺未遂事件を起こしたこ
ととのあいだには、何かしら関連性かおるのではないかと、免色さんは考えておられるわけです
か?」
「あるかもしれませんし、ないかもしれません」と免色は言った。「それはあくまで憶測の領域
になります。私はただ調査で判明した事実を、あなたにそのままお伝えしているだけです」
「雨田典彦にはほかに兄弟姉妹はいたのでしょうか?」
「お兄さんが一人いました。雨田典彦は次男でした。三人兄弟で、死んだ雨田継彦は三男になり
ます。彼の自殺は不名誉なこととして世間には伏せられました。熊本第六師団は剛胆勇猛な部隊
として名を馳せていました。戦地から帰国して名誉の除隊をしたものがそのまま自殺なんかした
ら、家族も世間に傾向けができません。しかしご存じのように噂というのは広まるものです」
私は情報を教えてくれた礼を言った。それが具体的に何を意味するのか、私にはまだよくわか
らなかったけれど。
「もう少し詳しく事情を調べてみようと思っています」と免色は言った。「何かわかったらまた
お知らせします」
「お願いします」
「それでは、来週の日曜日のお昼過ぎに、あなたの家にうかがいます」と免色は言った。「そし
てあのお二人をうちにご案内します。あなたの絵をお見せするために。それはもちろんかまいま
せんよね?」
「もちろんかまいません。あの絵は既に免色さんの所有するものです。誰に見せても、誰に見せ
なくても、すべてあなたのご自由です」
免色はしばし沈黙した。まるでいちばん正しい言葉を探しているみたいに。それからあきらめ
たように言った。「正直言って、ときどきあなたのことがとてもうらやましくなります」
うらやましくなる?
彼が何を言いたいのかよくわからなかった。免色が私の何かをうらやましく思うなんて、まっ
たく想像がつかないことだ。彼はすべてを持っているし、私は何ひとつ持っていない。
「ぼくのいったい何かうらやましいのでしょう?」と私は尋ねた。
「あなたはきっと、誰かのことをうらやましいと思ったりはしないのでしょうね?」と免色は言
った。
少し間を置いて考えてから私は言った。「たしかにこれまで、誰かのことをうらやましいと思
ったことはないかもしれない」
「私が言いたいのはそういうことです」
でも私にはもうユズさえいない、と私は思った。彼女は今ではどこかで、誰かほかの男の腕に
抱かれている。時折、白分か世界の果てに一人で置き去りにされたような気持ちにさえなる。し
かしそれでも、私はほかの誰かをうらやましいと思ったことがない。それはやはり奇異に感じる
べきことなのだろうか?
電話を切ったあと、私はソファに腰掛け、屋根裏部屋で手首を切って自殺したという雨田典彦
の弟について考えた。屋根裏といっても、もちろんこの家の屋根裏であるはずはない。雨田典彦
がこの家を買ったのは、戦後になってからだから。弟の雨田継彦は自宅の屋根裏で自殺を遂げた
のだ。おそらくは阿蘇の実家だろう。それでも屋根裏という薄暗い秘密の場所が、弟の雨田継彦
の死と『騎士団長殺し』という絵画を結びつけていた。ただの偶然かもしれない。それとも雨田
典彦はそのことを意識して『騎士団長殺し』をここの屋根裏に隠しだのかもしれない。しかしい
ずれにせよ、雨田継彦はなぜ除隊してまもなく、自らの命を絶だなくてはならなかったのだろ
う? 中国戦線の激しい戦闘をなんとか生き延び、五体無事に帰国できたというのに?
私は受話器をとり、雨田政彦に電話をかけた。
「一度東京で会うことはできないかな」と私は政彦に言った。「そろそろ画材屋に行って、絵の
典なんかを買い込まなくちやならないんだ。そのついでに君とちょっと話ができればと思うんだ
けど」
「いいよ、もちろん」と彼は言った。そして予定表を調べた。結局我々は木曜日の見頃に会って、
昼食を共にすることになった。
「四谷のいつもの画材屋に行くのか?」
「そうだよ。キャンバスの布地も必要だし、オイルも足りなくなってきている。ちょっとした荷
物になるだろうから、車で行く」
「うちの会社の近くに、わりに落ち着いて話ができる店がある。そこでゆっくり飯を食おう」
私は言った。「ところで、ユズがこのあいだ離婚届の書類を送ってきて、それに署名捺印して
送り返した。だから近いうちに正式に離婚が成立するんじやないかと思う」
「そうか」といくぶん沈んだ声で雨田は言った。
「まあ、仕方ない。時間の問題だったからね」
「でもそれを間いて、おれとしてはとても残念だよ。君らはずいぶんうまくやっていると思って
いたんだけど」
「うまくいっているあいだは、ずいぶんうまくいっていたと思う」と私は言った。古いジャガー
と同じだ。トラブルの発生しな
いうちはとても気持ちよく走る。
「それでこれからどうするんだ?」
「どうもしないよ。しばらくはこのまま生きていく。ほかにするべきことも思いつけないし」
「それで、絵は描いているか?」
「進行中のものがいくつかある。うまくいくかどうかはわからないけれど、とにかく描いてはい
る。
「それはよかった」と雨田は言った。そして少し迷ってから、付け加えるように言った。「電話
をもらってちょうどよかった。実を言うと、おれの方からおまえに話したいことも少しあったか
らな」
「良い話か?」
「良いか悪いか、いずれにせよ紛れもない事実だ」
「ユズのことか?」
「電話では話しにくい」
「じやあ、木曜日に話そう」
私は電話を切り、テラスに出てみた。雨はもうすっかりあがっていた。夜の空気はくっきりと
澄んで冷え込んでいた。割れた雲間からいくつか小さな星が見えた。星は散らばった水のかけら
のように見えた。何億年ものあいだ溶けることのない使い水だ。芯まで凍りついている。谷間の
向こう側には、免色の家がいつものようにクールな水銀灯の明かりを受けてぼんやり浮かび上が
っていた。
私はその明かりを眺めながら、信頼と尊重と礼儀について考えた。とくに礼儀について。しか
しもちろん、どれだけ考えても何の結論も導き出されなかった。
37.どんなものごとにも明るい側面がある
小田原近郊の山の上から東京までは長い速のりだった。何度か道を間違え、そのせいで時間を
くった。私の東っている中古車にはもちろんナビゲーション・システムなんてついていないし、
ETCの機器も搭載されていない(たぶんカップ・ホールダーがついているだけでも感謝しなく
てはならないのだろう)。まず最初に小田原厚木道路の入り口を見つけるのにかなり手間取った
し、東名高速道路から首都高速道路に入ったものの、道路はひどく渋滞していたので、三号線の
渋谷出目で降りて、青山通りをとおって四谷までいくことにした。一般道路もやはり混雑してお
り、そんな中で速切な車線を選ぷのは至難の業だった。駐車場を見つけるのも簡単ではなかった。
世界は年を追ってどんどん面倒な場所になっていくみたいだ。
四谷の画材屋で必要な買い物を済ませ、荷物を後部席に積み込み、それから雨田の会社のある
青山一丁目の近くに車を停めたときには、私はかなりくたくたになっていた。まるで都会の親戚
を訪れた田舎の鼠のように。時刻は午後一時過ぎを指しており、約束より三十分遅刻していた。
私は彼の会社の受付に行って、雨田を呼び出してもらった。雨田はすぐに下に降りてきた。私
は遅刻したわびを言った。
「気にしなくていいよ」と彼はなんでもなさそうに言った。「店の方も、こっちの仕事の方も、
それくらいの時間の融遅はきくから」
彼は私を近所のイタリアン・レストランに連れて行った。小さなビルの地下にある店だった。
いつも使っている店らしく、ウェイターは彼の顔を見ると、何も言わずに我々を奥の小さな個室
に遅した。音楽もなく人の声も聞こえず、とても静かな部屋だった。壁にはなかなか悪くない風
景圃がかかっていた。緑の岬と青い空、そして白い灯台。題材としてはありきたりだが、少なく
とも「そういう場所に行ってみるのも悪くないかもしれない」という気持ちを見る人に起こさせ
る絵だった。
雨田は白ワインのグラスを注文し、私はペリエを頼んだ。
「これから運転して小田原まで帰らなくちやならないからね」と私は言った。「ずいぶん連い道
のりだ」
「たしかに」と雨田は言った。「でもな、葉山とか逗子に比べたらずっとましだよ。おれはしば
らく葉山に注んでいたことがあったけど、夏場にあそこと東京を車で往復するのは、まさに地獄
だったな。海に遊びに来る連中の車で道路が渋滞しまくっているんだ。行き帰りがもう半日仕事
だったよ。その点、小田原方面は道路がそれほどは込まないから楽でいい」
メニューが遅ばれてきて、我々はランチのコースを注文した。生ハムの前菜と、アスパラガス
のサラダと、アカザエビのスパゲティー。
「おまえもやっとまともに絵を描きたいという気持ちになってきたんだな」と雨田は言った。
「一人になって、生活のために絵を描く必要がなくなったからじやないかな。それで自分のため
の絵を描きたいという意欲が出てきたのかもしれない」
政彦は肯いて言った。「どんなものごとにも明るい側面がある。どんなに暗くて厚い雲も、そ
の裏側は銀色に輝いてる」
「いちいち雲の裏側にまわって眺めるのは手間がかかりそうだ」
「まあ、いちおうセオリーとして言っているだけだよ」と雨田は言った。
「それから、あの山の上の家に住むようになったせいもあるかもしれないな。たしかに集中して
絵を描くには申し分のない環境だから」
「ああ、あそこはとびっきり静かだし、まず誰も訪ねてこないから気も散らない。普通の人間に
はいささか寂しすぎるけど、おまえみたいなやからなら問題あるまいと踏んだんだ」
部屋のドアが問いて、前菜がテーブルに運ばれてきた。皿が並べられるあいだ、我々は黙って
いた。
「そしてあのスタジオの存在がずいぶん大きいかもしれない」、ウェイターが行ってしまうと私
は言った。「あの部屋には、絵を描きたいと人に思わせる何かがあるような気がするんだ。あそ
こが家の核心になっていると感じることがある」
「人体で言えば心臓みたいに?」
「あるいは意識みたいに」
「ハート・アンド・マインド」と政彦は言った。「でもな、実を言うと、おれはあの部屋がちっ
とばかし苦手なんだ。あそこにはあまりにもあの人の匂いが染みこみすぎている。いまだに気配
がしっかり漂っているっていうかさ。なにしろ父はあの家にいるとき、ほとんど一日スタジオに
籠もりきりで、一人で黙々と絵を描いていたからな。そして子供にとっては、あそこは決して近
づいてはならない神聖にして不可侵な場所になっていた。そういう記憶がまだ残っているのか、
あの家に行っても、今でもスタジオにはできるだけ近寄らないようにしているんだ。おまえも気
をつけた方がいいぜ」
「気をつけるって、何に?」
「父のタマシイみたいなものにとりつかれないようにな。なにしろタマシイの強い人だから」
「タマシイ?」
「タマシイっていうか、言うなれば気合いのようなものだ。気の流れが強い人なんだ。そしてそ
ういうのって長い時間のあいだに、特定の場所にたっぶりと染みこんじまうのかもしれない。匂
いの粒子みたいにさ」
「それにとりつかれる?」
「とりつかれるというのは、表現が良くないかもしれないが、何かしらの影響を受けることはあ
るんじやないかな。その場の力みたいなものに」
「どうだろう。ぼくはただの留守番だし、だいたい君のお父さんに会ったこともない。だからあ
まりそういう負担は感じずに済むのかもしれない」
「そうだな」と雨田は言った。そして白ワインを一ロすすった。「おれは身内だから余計に敏感
になってしまうのかもしれない。それにまあ、そういう〈気配〉がおまえの創作意欲にプラスに
作用しているなら、それはそれで言うこともないんだろうし」
「それで、お父さんはお元気なのか?」
「ああ、とくに具合の悪いところはないんだ。なにしろもう九十を越しているから、元気そのも
のとは言えないし、頭は避けがたく混沌に向かっているけれど、杖を使ってなんとか歩くことは
できるし、食欲もあるし、目も歯もしっかりしている。なにしろ虫歯▽不ないんだから、おれの
歯よりもきっと丈夫だよ」
「記憶はずいぶん失われてしまっているのか?」
「ああ、ほとんど何も覚えちゃいないよ。息子であるおれの顔だって思い出せないくらいだから
な。親子とか家族とかいう観念はもうないんだ。自己と他者との違いも曖昧になっているかもし
れない。そういうのも考えようによっては、すっきりしててかえって楽なのかもしれないが」
私は細いグラスに往がれたペリエを欲みながら肯いた。雨田典彦は今ではもう一人息子の顔さ
え思い出せない。ウィーン留学時代に起こったことなど、遠く忘却の彼方に消えてしまっている
はずだ。
「しかしそれでも、さっき言った気の流れみたいなのは、まだ本人の中に残っているみたいだ」
と雨田は感慨深げに言った。「なんだか不思議なものだね。過去の記憶はほとんど消えてしまっ
ても、意志の力みたいなものはまだちゃんとそこに留まっているんだ。それは見ていればわかる。
よほど気合いの強い人だったんだな。息子であるおれがそういう資質を引き継げなかったことに
ついては、少しばかり申し訳なく思っているが、それはしようがない。人にはそれぞれの、生ま
れつきのウツワっていうものがあるんだ。ただ血筋がつながっているっていうだけで、そういう
資質は引き継げるものじゃない」
「それで、お父さんはお元気なのか?」
「ああ、とくに具合の悪いところはないんだ。なにしろもう九十を越しているから、元気そのも
のとは言えないし、頭は避けがたく混沌に向かっているけれど、杖を使ってなんとか歩くことは
できるし、食欲もあるし、目も歯もしっかりしている。なにしろ虫歯一本ないんだから、おれの
歯よりもきっと丈夫だよ」
「記憶はずいぶん失われてしまっているのか?」
「ああ、ほとんど何も覚えちゃいないよ。息子であるおれの顔だって思い出せないくらいだから
な。親子とか家族とかいう観念はもうないんだ。自己と他者との違いも曖昧になっているかもし
れない。そういうのも考えようによっては、すっきりしててかえって楽なのかもしれないが」
私は細いグラスに注がれたペリエを欲みながら肯いた。雨田典彦は今ではもう一人息子の顔さ
え思い出せない。ウィーン留学時代に起こったことなど、遠く忘却の彼方に消えてしまっている
はずだ。
UNIT 731 Documentary
「しかしそれでも、さっき言った気の流れみたいなのは、まだ本人の中に残っているみたいだ」
と雨田は感慨深げに言った。「なんだか不思議なものだね。過去の記憶はほとんど消えてしまっ
ても、意志の力みたいなものはまだちゃんとそこに留まっているんだ。それは見ていればわかる。
よほど気合いの強い人だったんだな。息子であるおれがそういう資質を引き継げなかったことに
ついては、少しばかり申し訳なく思っているが、それはしようがない。人にはそれぞれの、生ま
れつきのウツワっていうものがあるんだ。ただ血筋がつながっているっていうだけで、そういう
資質は引き継げるものじゃない」
私は顔を上げて、彼の顔をあらためて正面から見た。雨田がそんな風に気持ちを正直に吐露す
るのは珍しいことだった。
「偉い父親を持つというのはきっと大変なことなんだろうな」と私は言った。「ぼくにはどうい
うものなのか、さっぱりわからないけど。うちの父親はあまりぱっとしない中小企業の経営者だ
ったから」
「父親が有名だと、もちろん得をすることもあるけれど、あまりおもしろくないこともある。数
からいうと、おもしろくないことの方が少し多いかもしれない。おまえの場合は、そういうこと
がわからないぷんラッキーだったんだよ。自由に自分のままでいられるからさ」
「君は君で自由に生きているみたいに見えるけれど」
「ある意味ではな」と雨田は言った。そしてワイングラスを手の中で回した。「でもある意味で
はそうじゃない」
雨田はそれなりに鋭い美的感覚を具えていた。大学を出て中堅の広告代理店に就職し、今では
かなりの高給を取り、気楽な独身者として都会生活を自由に楽しんでいるように見えた。でも実
際のところがどうなのか、もちろんそれは私にもわからない。
1937 南京戦 Battle of Nanking
「君のお父さんのことで少し尋ねたいことがあったんだ」と私は切り出した。
「どんなことだろう? そう言われても、おれだって親父のことはそれほどよく知らないんだ
力」
「お父さんには、継彦さんという名前の弟がいたという話を聞いた」
「ああ、たしかに親父には弟が一人いた。おれの叔父にあたる人だ。でもこの人はずっと昔に亡
くなっている。日米戦争の始まる前の話だけど」
「自殺したと聞いているんだけど」
雨田は顔を少し曇らせた。「ああ、そいつはいちおう家庭内の秘密ってことになっているんだ
が、ずいぶん昔の話だし、一部ではもう知られてしまっている。だからたぶん話してもかまわな
いだろう。叔父は剃刀で手首を切って自殺した。まだ二十歳そこらの若さで」
「自殺の原因は何だったんだろう?」
「どうしてそんなことを知りたがるんだ?」
「君のお父さんのことが知りたくて、いろいろと資料を調べていたら、そのことに行き当たった
んだ」
「おれの父親のことを知りたかった?」
「君のお父さんの描いた絵を見て、履歴を調べているうちに、だんだん興味がわいてきたんだ。
どういう人なのかをもっと詳しく知りたくなった」
雨田政彦はテーブル越しにしばらく私の顔を見ていた。それから言った。「いいだろう。おま
えはうちの父親の人生に興味を持つようになった。それもあるいは意味のあることなのかもしれ
ない。おまえがあの家に往んでいるのも何かの縁だからな」
彼は白ワインを一口のみ、そして話し始めた。
「叔父の雨田継彦は当時、東京音楽学校の学生だった。才能に恵まれたピアニストだったという
ことだ。ショパンやドビュツシーを得意分野として、将来を嘱望されていたらしい。自分の口か
ら言うのもなんだが、うちの血筋は芸術的才能みたいなものにけっこう恵まれているみたいだ。
まあ、程度の差こそあれね。ところが大学在学中、二十歳のときに徴兵された。どうしてかとい
うと、大学に入学したときに出した徴兵猶予の書類に不首尾があったからだ。その書類さえきち
んと出しておけば、とりあえず徴兵を免れることはできたし、そのあともうまく融通はつけられ
たんだ。うちの祖父は地方の大地主で、政界にも顔はきいたからね。ところがどうも事務的な手
違いがあったらしい。本人にとっても寝耳に水の話だった。しかしシステムというものはいった
ん動き出したら、簡単には止められない。とにかく問答無用で兵隊に取られ、歩兵部隊の一兵卒
として内地で基礎訓練を受けてから輸送船に乗せられ、中国の杭州湾に上陸した。その当時、兄
の典彦は――要するにおれの父親のことだが――ウィーンに留学し、当地の有名な画家に師事し
ていた」
私は黙って話を闘いていた。
「叔父は体格も立派ではないし、神経も繊細で、厳しい軍隊生活や血なまぐさい戦闘に耐えられ
ない<ことは最初からわかりきっていた。そして南九州から兵隊を巣めた第六師団は荒っぽいこと
で知られていた。だから思いもよらず兵隊にとられて戦地に送られたことを知って、父は心を痛
めた。うちの父親は次男坊で、我の強い負けず嫌いな性格だが、弟の方は可愛がられて育った末
っ子で、引っ込み思案なおとなしい性格だった。そしてピアニストとして指を常に大事にしなく
てはならなかった。だからいろんな外圧から三つ年下の弟の身を護ることが、うちの父親にとっ
ての小さい頃からの習慣みたいになっていた。つまり保護者のような役割をつとめてきたわけだ。
しかし今はもう遠く離れたウィーンにいるわけだから、どれだけ案じても役には立たない。とき
どき送られてくる手紙で、弟の消息を知るしかなかった」
ここに来て、父雨田具彦が熊本は阿蘇の大地主で「軍-顔-官」の縁故閥をもつ祖父を持つ長男で画
家として育ち弟の雨田継彦がピアニストとして育ったこが了解され、「騎士団長殺し」の絵のありか
と自殺した場所である「屋根裏」で結ばれながら、長男の具彦は、ナチスヒットラー率いるドイツ帝
国のオーストリア併合と弟の継彦は大日本帝国の南京戦争に熊本第六師団として参戦する日独伊三国
同盟として結ばれていることをやっと了解する(読み手も、そして、36歳の肖像画家の主人公も)。
次回以降は、想像上だが「日独あるいは世界の歴史修正主義への抵抗」のメタファが明確に描かれて
いくのではないかと想像している。それにしても丁寧に歴史をなぞるのは、大変重い作業だと再認識
する。早く「紫雲蒼天」しないとこれはしんどい。
この項つづく
Giant river prawn
「満天☆青空レストラン」で養殖オニテナガエビのクリーンカレーが紹介されていた。カワエビの養
殖はいまや内陸部生産される時代。大きな海運・空輸のモーダルエネルギーを使わなくても、国内生
産が可能な時代である。いま不漁で困っているスルメイカも養殖可能だとわたし(たち)は考えてい
る。そのことはいずれ掲載してみるが、テレビで自家製のトムヤムペースト――えび、豆もやし、万
願寺とうがらし、無添加鶏がらスープの素、ココナッツクリーム、レモングラス、コブミカン(カフ
ィア・ライム)、レモン汁、ナンプラー、パクチー、塩など――が紹介されていたが、家庭でオリジ
ナルスパイが作れることに気付く。早速、カップラーメンにオレガノやチリペッパーを加えと何と見
違える程に変化する。これは頂き。