公孫丑(こうそんちゆう)篇 「浩然の気」とは / 孟子
※ 真の勇気を養うには: 弟子の公孫丑がたずねた。「先生ほどのお方が斉の
宰相となり、存分に腕を振われたとします。そうなれば、斉が天下の王者に
のしあがったとしても、別に不思議ではありません。ですが、実際そのよう
な重職におつきになれば、やはり動揺されるのではありませんか」
「いや、わたしは四十をすぎてから何事にも動揺しなくなった」
「それなら孟賁(もうほん✻)よりはるかに上ですね」
「そうむずかしいことではない。告子は、もっと若いときから動揺しなくな
った」
「どうすればそうなるのでしょう」
「うむ。北宮黝(ほくきゅうゆ✻)はこうやった。
身体を刺されてもみじろぎせず、目を突かれてもまばたきしない。毛筋ほど
の侮辱でも、公衆の面前でむち打たれたほどに感じる。相手が賤民であろう
と王侯であろうと、侮辱は一切許さない。王侯が刺殺されても、賎民が殺さ
れたぐらいにしか思わない。悪口を聞けば、たとい相手が諸侯でもかならず
復啓した。また、孟施舎(もうししゃ✻)はこう言っている。『たとい勝て
ない相手でも、のんでかかれ。敵の力をはかり、勝てる見こみが立ってから
戦うのは、優勢な敵を恐れているのだ。自分が必ず勝てるとは限らない。し
かし、ひるまないで戦うのだ』、孟施舎のやり方は曽子(そし✻)に似てい
る。北宮黝のやり方は子夏(しか✻)に似ている。どちらがすぐれていると
はいえないが、〈気〉を重視した孟施舎が一枚上だ。曽子は弟子の子襄(し
じょう)にこう言った。『おまえは勇者になりたいか。いつかわたしの先生
(孔子)から大勇についてうかがったことがある。それによると、わが身を
反省して、やましいことがあれば、たとい相手が賎民でもひるんでしまう。
しかし正しいと確信できれば、相手が千万人であろうと、ぶつかってゆく。
これが本当の勇気だ』、曽子は内心の正しさを重視している。これは気を重
視した孟施舎よりすぐれている」
「告子も動揺しなくなったとおっしゃいましたが、先生とのちがいは?」
「かれはこう言っている。『人の話が判断できないとき、心の中でむりやり
納得しようとするな。心の中で判断できないとき、気によってむりやり納得
しようとするな』、さて、"心の中で判断できないとき、気によってむりやり
納得しようとするな" というのは正しいが、”人の話が判断できないとき、
心の中でむりやり納得しようとするな〃 というのは間違っている。意志は
気を左右する。気は肉体をつかさどる。意志の向かうところに気は従う。そ
こでわたしはいうのだ。意志を固く守り、気を乱してはならぬ、と」
「ちょっと待ってください。”意志の向かうところに気は従う”とおっしゃ
った。それなのに”意志を固く守って気を乱さぬように”といわれるのは?」
「意志が集中すれば、気を動かす。しかし、”気が集中すれば、逆に意志を
動かすこともあるのだ。たとえば、物につまずくと、思わずトントンとたた
らを踏む(=よろめいた勢いで、数歩ほど歩み進んでしまうしまうこと)。
これは気の仕業だ。つまり気が意志をを動かしたのだ」
「では、告子に較べて、先生はどこがすぐれているのですか」
「人の話を理解する、浩然の気を養っている、この二つだ」
「浩然の気といいますと?」
「一口にはいえない。このうえなく広大で、このうえなく剛健なもの、すな
おに正しく養えば、天地の間に充満する。それが浩然の気だ。しかし、それ
は道と義とに伴われてこそ存在するものだ。さもなければ消える。義をくり
かえし行なっている間におのずから得られるものなのだ。たまに義を行なっ
たからといって得られるものではない。また心にやましいところがあっても
消えてしまう。いつか。”告子は義を理解していない”と言ったのは、かれ
が義を心の外に存在するものとみなしているからだ。浩然の気を養うには、
よくよく心がけなければならぬ。しかしそれを目的として意識してはいけな
い。忘れてしまっては、もちろんいけないが、むりに””助長”✻してもい
けない。宋の国のある百姓は、苗の成長を早めたい一心から苗を引っぱって
しまった。疲れきって家に帰り、こう言った。『ああ、今日はくたびれた。
苗を伸ばして来たのだから』、息子があわてて畑にかけつけると、苗はすで
に枯れていた。世間にはこんな人間が少なくない。浩然の気を養うのを無益
だときめつけるのは、畑の草とりもやらない人間だ。”助長”しようとせっ
かちになるのは、苗を引っぱる人間だ。これは無益なばかりか、有害でさえ
ある」
〈孟賁 北宮黝 孟施舎〉 いずれもむかしの斉の勇者。
〈告子〉 孟子の論敵で、性善説に反対して性には善も不善もないと主張し
た(告子篇261項参照)。
〈曽子〉 孔子の弟子。内省的な人物で常に自分の心を正しく守ることに意
を用いた。
〈子夏〉 孔子の弟子。外面的な規範を忠実に守ることを心がけた。
〈かれが義を心の外に存在するものとみなしている〉 孟子が仁、義の二つ
ともみずからの心に根ざした徳とみているのに対し、告子は、義は外的事実
によって生ずる徳であるとみている。したがって義の徳を積む修養は不要だ
とした(告子篇二六四頁参照)。
〈助長〉 来国の百姓の寓話にあるように、本来の意味は。”長ずるを助け
る”で、性急に伸ばそうとするあまり、逆にダメにしてしまうことである。
【量子ドット工学講座 No.46】
【量子ドットディスプレイ篇:省エネで高品質の高精細カラー表示器】
10月16、17日 「Display Innovation CHINA 2017」でサムソンディスプレイ社の量子ドット液晶
ディスプレーの技術と戦略が話題となっている。量子ドット液晶は有機ELよりも鮮やかな色を表現
できるだけでなく、焼き付きも起こらない。消費電力も低い。(課題とされる)視野角は改善可能で
あり、輝度も向上できる。同社は環境負荷物質のカドニウムを使わない量子ドット材料を使用してお
り環境にも優しいと優位性を強調し、量子ドット液晶テレビの製品戦略として、現在のバックライト
上に量子ドットシートを置く方式から、来年(2018年)は液晶用ガラス基板の中に量子ドットの機能
を取り込んだ形にしてディスプレー全体の薄型化を図る。2019年には8Kの量子ドット液晶テレビも
製品化を計画。さらに、同社はこの技術をテレビだけでなく、モニターディスプレーにも展開する方
針を打ち出している。
携帯電話、PDA(personal digital assistant)、コンピュータ、大型TV(television)といった各種電
子機器の発展につれ、それらに適用される平板表示装置への要求がだんだんと増大している。平板表
示装置のうち、液晶表示装置(LCD:liquid crystal display)は、低い電力消耗、容易な動画表示及び
高いコントラスト比などの長所をもつ。 液晶表示装置は、2枚の表示基板の間に配置された液晶層を
含み、液晶層に電場を印加して液晶分子の配列方向を変化させ、入射光の偏光を変化させるのであり、
それを偏光子と連動させて、画素別に入射光の透過いかんを制御することによって映像を表示する。
具体的にその最新工学事例を下記の特許公開事例で俯瞰する。尚、ここでは量子ドットと量子ロット
が含まれる。
❏ 特開2017-161884 液晶表示装置及びその製造方法 三星ディスプレイ株式會社
【概要】
下図3のように、液晶表示装置及びその製造方法を提供にあっては、第1副画素領域、第2副画素領
域及び第3副画素領域を含む下部基板と、下部基板上に配置された液晶層と、液晶層上に、下部基板
と対向するように配置されたカラーフィルタ基板と、を含み、カラーフィルタ基板は、下部基板に対
向する上部基板と、上部基板の下部基板に対向する面上に配置された電極パターンと、電極パターン
上にあって、第1副画素領域、第2副画素領域及び第3副画素領域にそれぞれ対応するように配置さ
れた、第1量子ロッドを含む第1光変換部、第2量子ロッドを含む第2光変換部、及び第3光変換部
と、を含む液晶表示装置構成/構造とする(詳細は下図をクリック参照)。
【符号の説明】
1,2 液晶表示装置
1100,2100,3100,4100 カラーフィルタ基板
1110,2110,3110,4110 上部基板
1120,2120,3120,4120 電極パターン
1130,2130,3130,4130 配向膜
1141,2141,3141,4141 第1光変換部
1142,2142,3142,4142 第2光変換部
1143,2143,3143,4143 第3光変換部
1141a,2141a,3141a,4141a 第1量子ロッド
1142a,2142a,3142a,4141b 第2量子ロッド
1143a,2143a,3143a 異方性物質
1141b,1142b,1143b,2141b,2142b,2143b,3141b,3142b,3143b,4141b,4142b,
4143b 液晶
1150,2150,3150,4150 隔壁
1160,2160,3160,4160 平坦化層
2141c,3141c,4141c 高分子化合物
2170,3170,4170 ノッチフィルタ
2200,4200 下部基板
2300,4300 共通電極
2400,4400 液晶層
2500,4500 偏光子
2600,4600 バックライトユニット
4143a 第3量子ロッド
Sub1 第1副画素領域
Sub2 第2副画素領域
Sub3 第3副画素領域
【図面の簡単な説明】
【図1】一実施形態によるカラーフィルタ基板を概略的に示した断面図
【図2】他の実施形態によるカラーフィルタ基板を概略的に示した断面図
【図3】図2のカラーフィルタ基板を含む一実施形態による液晶表示装置を概略的に示した断面図
図4H】図3の液晶表示装置を製造する方法を順次に示した断面図
【図4I】図3の液晶表示装置を製造する方法を順次に示した断面図
読書録:村上春樹著『騎士団長殺し 第Ⅱ部 遷ろうメタファー編』
第61章 勇気のある賢い女の子にならなくてはならない
「あたしは幻覚ではあらない」と騎士団長は繰り返した。「あたしが実在しているかどうかはい
ささか議論の分かれるところであるが、とにかくもって幻覚ではあらない。そしてあたしはここ
に諸君を助けにやってきたのだ。おそらく諸君は助けを求めているのではないだろうか?」
〈諸君〉というのはどうやら自分のことらしいと、まりえは推測した。彼女は肯いた。しゃべり
方はかなり奇妙だが、たしかにこの人の言うとおりだ。私はもちろん助けを求めている。
「今さらテラスまで行って靴を持ってくることはかなわない」と騎士団長は言った。「双眼鏡の
こともあきらめよう。でも心配はあらないよ。あたしが全力を尽くして、免色くんがテラスに出
ないようにしよう。少なくともしばらくのあいだは。しかしいったん日が暮れたらそれもかなわ
なくなる。あたりが暗くなれば彼はテラスに出て、谷の向かいの諸君の家の様子を双眼鏡で見る
だろう。それが日々の習慣だ。それまでに問題を解消しなくてはならない。あたしの言わんとす
ることは理解できておるね?」
まりえはただ肯いた。なんとか理解できる。
「諸君はしばらくのあいだこのクローゼットの中に隠れているのだ」と騎士団長は言った。「気
配を殺して身を潜めている。それしか道はあらない。うまい時期が来たら教えてあげよう。それ
まではここから勣いてはならないよ。たとえ何かあっても、声を発してはならない。わかったか
ね?」
まりえはもう一度肯いた。私は夢を見ているのだろうか? それともこの人は妖精か何かなの
だろうか?
「あたしは夢でもあらないし、妖精でもあらない」と騎士団長は彼女の心を読んで言った。「あ
たしはイデアというもので、本来は姿を持っておらない。しかしそれでは諸君の目には見えない
し、何かと不便であるので、こうしてとりあえず騎士団長の姿かたちをとっておるのだ」
イデア、きしだんちょう……とまりえは声には出さず頭の中でその言葉を繰り返した。この人
には私の考えが読めるのだ。それから彼女ははっと思い出した。この人は雨田典彦の家で見た、
横に細長い日本画の中に描かれていた人物だ。この人はきっとあの絵からそのまま抜け出してき
たのだ。だからこそ身体も小さいのだろう。
騎士団長は言った。「そのとおりだ。あたしはあの絵の中の人物の姿を借用している。騎士団
長――それが何を意味するのか、それはあたしもよく知らない。しかしあたしは今のところその
名前で呼ばれている。ここで静かに待っていなさい。時がきたら、迎えに来てあげよう。怖がる
ことはあらない。ここにある衣服が諸君を護ってくれる」
イフクが護ってくれる? 彼の言っていることの意味がよく理解できなかった。しかしその疑
問に対する答えは返ってこなかった。そして次の瞬間、騎士団長は彼女の前から姿を消した。水
蒸気が空中に吸い込まれるみたいに。
まりえはクローゼットの中で息を潜めていた。騎士団長に言われたようにできるだけ動かない
ように、音を立てないようにしていた。免色は帰宅して、家の中に入ってきた。どうやら買い物
をしてきたらしく、紙袋をいくつか抱えるかさかさという音が聞こえた。部屋履きを雁いた彼の
柔らかな足音が、彼女の隠れている部屋の前をゆっくりと通り過ぎるとき、彼女の息は詰まった。
クローゼットのドアはベネシアン・ブラインドで、その下向きの隙間から優かに光が入ってき
た。それほど明るい光ではない。夕方が近づくにつれて、部屋はますます暗くなっていくだろう。
ブラインドの隙間からはカーペットの敷かれた床が見えるだけだった。クローゼットの中は挟く、
防虫剤のきつい匂いが満ちていた。そしてまわりを壁に囲まれ、どこにも逃げ場はなかった。逃
げ場がないことが、少女を何よりも怯えさせた。
時がきたら、迎えに来てあげよう、と騎士団長は言った。彼女はその言葉を信じて待つしかな
かった。そして彼はまた「イフクが諸君を護ってくれる」と言った。たぶんここにある衣服のこ
となのだろう。知らないとこかの女性が、おそらくは私の生まれる前に身につけていた古い衣服。
それがどうして私の身を護ってくれるのだろう? 彼女は手を伸ばして、目の前にある花柄のワ
ンピースの裾にさわった。ピンク色の生地は柔らかく、指に優しかった。彼女はしばらくのあい
だそれをそっと握っていた。その服に手を触れていると、どうしてかはわからないけれど、少し
だけ心が休まるようだった。
もしそうしようと思えば、私はこのワンピースを着ることができるかもしれない、とまりえは
と思った。その女性と私の身長はそれはどかおりないだろう。サイズ5なら私が着てもおかしく
はない。もちろん胸の膨らみがないから、そのところはなんとか工夫しなくてはならない。でも
その気になれば、あるいは何かの理由でそうしなくてはならないとなったら、私はここにある服
に着替えることもできるのだ。そう考えると、なぜか胸がときめいた。
時間が経過した。部屋は少しずつ暗さを増していった。夕方が刻々と近づいている。彼女は腕
時計に目をやった。暗くて字がよく見えない。彼女はボタンを押して文字盤の明かりをつけた。
時刻は四時半に近くなっていた。もう日は暮れかけているはずだ。今はどんどん日が短くなって
いる。そして暗くなったら免色はテラスに出て行く。そしてすぐさま、彼の家に誰かが侵入した
ことを発見するだろう。そうなる前にテラスに出て、靴と双眼鏡を始末しなくてはならない。
まりえほどきどきしながら、騎士団長が自分を迎えに来るのを待っていた。しかし騎士団長は
いつまでたっても姿を見せなかった。ものごとがうまく運んでいないのかもしれない。免色はつ
けいる隙を彼に与えてくれないのかもしれない。そして騎士団長という人物に―――「イデア」
というものに――あるいは「イどれはどの実際的な力が具わっているものか、彼のことをどこま
で頼りにしていいものか、彼女には見当がつかなかった。しかし今のところ騎士団長を頼りにす
る以外に方法はなかった。まりえはクローゼットの床に腰を下ろし、両手で膝を抱え、クローゼ
ットの扉の隙間から床のカーペットを眺めていた。そしてときどき手を伸ばして、ワンピースの
裾をそっと握った。それが彼女にとっての大切な命綱であるみたいに。
部屋の中がずいぶん暗さを増した頃、廊下に再び足音が聞こえた。やはりゆっくりとした柔ら
かな足音だ。その足音は彼女の潜んでいる部屋の前あたりまで来て、急に立ち止まった。まるで
何かの匂いをかぎつけたみたいに。少し間があり、それからドアが開けられる音がした。この部
屋のドアだ。間違いない。心臓が凍りついて、そのまま止まってしまいそうだった。そしてその
誰か(おそらく免色だろう。それ以外にこの家の中には誰もいないはずだから)は部屋の中に足
を踏み入れ、後ろ手にゆっくりとドアを閉めた。かちやりという音がした。部屋の中にはその男
がいる。間違いない。その人物も彼女と同じようにやはり息を殺し、耳を澄ませ、気配を探って
いる。彼女にはそれがわかった。男は部屋の明かりをつけなかった。薄暗い部屋の中でじっと目
をこらしていた。なぜ明かりをつけないのだろう? 普通はまず明かりをつけるものではないか。
彼女にはその理由がわからなかった。
まりえは扉のブラインドの隙間から床をにらんでいた。誰かがここに近づいてくれば、その足
先が見えるはずだ。まだ何も見えない。しかしその部屋の中にははっきりとした人の気配があっ
た。男の気配だ。そしてその男は――おそらく免色は(免色以外の誰が今この屋敷の中にいるだ
ろう)――暗がりの中でこのクローゼットの扉をじっと見つめているようだった。彼はそこに何
かを感じ取っているのだ。このクローゼットの中にいつもとは違う何かが持ち上がっていること
を。その人物が次にするのは、このクローゼットの扉を開けることだ。それ以外にはあり得ない。
この扉にはもちろん鎚なんてかかっていないから、開けるのは簡単なことだ。手を伸ばしてノブ
を手前に引きさえすればいい。
彼の足音がこちらに近づいてきた。激しい恐怖がまりえの全身を捕らえた。腋の下を冷たい汗
が筋になって流れ落ちた。私はこんなところに来るべきではなかったのだ。私は自分の家におと
なしく留まっているべきだったのだ、と彼女は思った。向かい側の山の上にある、あの懐かしい
自分の家に。ここには何か恐ろしいものがある。そしてそれは私がうっかり近づいてはならない
ものだ。ここには何かのイシキが働いている。そしてたぶんスズメバチもそのイシキの一部なの
だろう。そしてその何かは今、私にその手をじかに伸ばそうとしている。ブラインドの隙間から
足の先が見えた。茶色の革の部屋履きらしきものを雁いた足たった。でも暗すぎて、そのほかに
は何も見えない。
まりえは本能的に手を伸ばし、そこに吊されたワンピースの据を思い切り握りしめた。サイズ
5の花柄のワンピース。そして念じた。私を助けてください、どうか私を護ってください、と。
男はクローゼットの両開きの扉の前に、長いあいだじっと立っていた。何ひとつ物音を立てな
かった。息づかいさえ聞こえない。男はまるで石でできた彫像のように身勤きもせず、ただそこ
に立って様子をうかがっていた。重い沈黙と深まりつつある間がそこにあった。床の上に丸まっ
ている彼女の身体が細かく震えた。歯と歯がぶつかってかたかたという小さな音を立てた。まり
えは目をつより、耳を塞いでしまいたかった。考えを丸ごとどこかよそにやってしまいたかった。
しかしそうはしなかった。そうしてはならないと彼女は感じたのだ。どんなに恐ろしくても、恐
怖に自分を支配させてはならない。無感覚になってはならない。考えを失ってはならない。だか
ら彼女は目を見開き耳を澄ませ、その足先を睨みながら、ピンクのワンピースの柔らかな生地を
すがるように強く握りしめていた。
イフクが私を護ってくれるのだ、と彼女は強く信じた。ここにあるイフクたちが私の味方なの
だ。サイズ5の、二十三センチの、そして65Cのひと揃いのイフクたちが私をくるむようにして
護り、私の存在を透明なものにしてくれるのだ。私はここにいない。私はここにいない。
どれはどの時間が経過したのかわからない。そこでは時間は均一ではなかったし、順序だって
もいなかった。しかしそれでも一定の時間は経過したようだった。男はある時点で、手を前に伸
ばしてクローゼットの扉を開けようとした。そういう確かな気配をまりえは感じた。彼女は覚悟
を決めた。扉は開かれ、男は彼女の姿を目にするだろう。そして彼女はその男の姿を目にするだ
ろう。それから何か起こるのか、彼女にはわからない。見当もつかない。この男は免色ではない
のかもしれない、そういう思いが一瞬彼女の頭に浮かんだ。じやあそれは誰なのだ?
しかし結局、男が扉を開けることはなかった。しばらくためらってから手を引いて、そのまま
扉の前から去っていった。どうして男が最後の瞬間に思い直したのか、まりえにはわからない。
たぶん何かが彼がそうするのを押しとどめたのだ。そして男は部屋のドアを開け、廊下に出て、
それからドアを閉めた。再び部屋は無人になった。間違いない。それはトリックなんかではない。
この部屋の中にはもう私ひとりしかいないのだ。彼女はそれを確信した。まりえはようやく目を
閉じ、身体中にため込んでいた空気を大きく吐き出した。
心臓はまだ速い鼓動を刻んでいる。早鐘を打っている――小説ならそう表現するところだろう。
早鐘というのがどんなものなのか彼女にはわからないけれど。本当に危ういところだった。でも
何かが最後の最後に私を護ってくれたのだ。とはいえこの場所はあまりに危険すぎる。その誰か
はこの部屋の中に私の気配を感じたのだ。間違いなく。いつまでもここに身を隠しているわけに
はいかない。今回はなんとかうまくやり過ごすことができた。しかしこれから先いつもうまくい
くとは限らないだろう。
彼女はなおも待った。部屋の中はますます暗さを増していった。しかし彼女はそこでじっと待
った。ただ沈黙を守り、不安と恐怖に耐えた。騎士団長は決して彼女のことを忘れたりはしない
はずだ。まりえは彼の言葉を信じた。というか、その奇妙なしゃべり方をする小さな人物をあて
にするしか、彼女に選択肢は残されていなかった。
気がついたとき、そこには騎士団長がいた。
「諸君はここを出るのだ」と騎士団長は囁くような声で言った。「今がまさにそのときだ。さあ、
立ち上がりなさい」
まりえは戸惑った。床に座り込んだままうまく腰を上げることができなかった。いざそのクロ
ーゼットを出るとなると、新たな恐怖が彼女を襲った。この外の世界にはもっと恐ろしいことが
待ち受けているかもしれない。
「免色くんは今、シャワーを浴びておる」と騎士団長は言った。「彼は見ての通り清潔好きな男
だ。シャワー室の中にいる時間はうんと長い。しかしむろん永遠にそこにいるわけではあらない。
チャンスは今しかあらない。さあ、急がねば」
まりえは力を振り絞って、なんとか床から腰を上げた。そしてクローゼットの扉を外に押して
開けた。部屋は暗く無人だった。彼女は出て行く前に後ろを振り返り、もうコ茨そこに吊された
衣服に目をやった。空気を吸い込み、防虫剤の匂いを嗅いだ。それらの衣服を彼女が目にするの
は、これがもう最後になるかもしれない。それらの衣服はなぜか彼女にとって、とても懐かしい
もの、近しいものとして感じられた。
「さあ、急ぎなさい」と騎士団長が声をかけた。「時間の余裕はあらない。廊下に出て、左に向
かうのだ」
まりえはショルダーバッグを肩にかけ、ドアを開けて外に出て、廊下を左に向かった。そして
階段を駆け上って居間に入り、その広いフロアを横切り、テラスに面したガラス戸を開けた。ま
だスズメバチがそのへんにいるかもしれない。あたりはすっかり暗くなったから、蜂はもう活動
をやめたかもしれない。いや、それは暗闇を苦にしない蜂かもしれない。でもそんなことを考え
ている余裕はなかった。彼女はテラスに出ると、ねじをまわして双眼鏡を専用台からはずし、も
とあったプラスチックのケースにしまった。そして専用台を畳み、前と同じように壁に立てかけ
た。緊張して指がうまく動かなかったから、思ったより長い時間がかかった。それから彼女は床
に置いてあった黒いスリッポン・シューズを拾い上げた。騎士団長はスツールに腰掛けて、その
様子を見ていた。スズメバチはどこにもいなかった。そのことにまりえはほっとした。
「それでよし」と騎士団長は肯いて言った。「ガラス戸を閉めて、中に入りなさい。それから廊
下に出て、階段を二階ぶん下に降りるのだ」
階段を二階ぷん降りる? それではますますこの屋敷の奥に入り込んでいくことになる。私は
ここから逃げ出さなくてはならないのではないのか?
「今ここから逃げ出すことはかなわない」と騎士団長は彼女の心を読んで、首を振りながら言っ
た。「出目は堅く閉ざされている。諸君はしばらくのあいだこの中に身を隠すしかあらない。こ
このところは、あたしの言うとおりにするのがよろしい」
まりえは騎士団長の言葉を信じるしかなかった。だから居間を出て、足音を忍ばせて階段を二
階ぷん下りた。
この項つづく
【DIY日誌:台風21号の残件】
この間の21号で、停電になりエクセルの蛍光灯(パール金属株式会社/下写真)2つだけが点灯せ
ず修理を行うも、乾電池の水素ガス発生封止破壊による電極接点腐食とわかり修理充電し1つ分だけ
復元、残りは電池陰極側スプリング脱離1箇所(代用品は自前で作れるがアルカリマンガン単一電池
(8本/組)を購入し修理する。不良品はすべて国外製、パナソニック制覇はすべて充電再利用(メー
カーサイドは安全面から禁止扱い)。やはり、メイドインジャパン神話は生きていた。もう一件、雨
漏り修理は、先ず天井裏に入り調査から始めることに(スズメバチ巣除去と同じ)。電動式マルチツ
ールの購入準備を行う。後者は調査後方針決定する、以上。
Ain't That a Shame | Fats Domino
ロックンロールの創始者のファッツ・ドミノ(1928年2月26日 - 2017年10月24日、ルイジアナ州ニュ
ーオーリンズ生)が他界。ビートルズもリスペクトし、ジョン・レノンは「ロックン・ロール」、ポ
ール・マッカートニーは「バック・イン・ザ・USSR」この極「エイント・ザット・シェイム」をカバ
ーしている。
合唱