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デスクトップな試作場

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        ぼくは市民運動が嫌いです。群れて集まって、その数を頼みにしていろいろな
        ことを言う。そこには冷静さがなく根拠といえば漠然とした「感覚」だけです。


                               

 

                                    Takaaki Yoshimoto 25 Nov, 1924-16 Mar, 2012 

        ※ ここまで言い切ることはできないと考えるが、指摘するようなことがあり、該
          当することがあれば、是正すればいいことで、完全無欠でない市民運動を拒絶
          するのも不自然なことだと考える。

 

【すごいぞ!ロードスター】

  2017 Mazda MX-5 Miata RF

世界各国の自動車ジャーナリストが選ぶ、ことしの「ワールド・カー・オブ・ザ・イヤー」――去年1月以降に世
界の2つ以上の大陸で発売された車の中から、最も優れた車を世界各国の自動車ジャーナリスト73人の投票によ
って選ぶ賞――に、マツダの新型オープンスポーツカー「ロードスター」が選ばれた。今朝も、彼女が、湖西の春
を感じたいというので、それじゃと、午前11時からマイロードスター「クワトロ・セブン」に乗り朽木村まで走
らせ、遅めの昼食を道の駅で頂き、鯖の燻製とへしこを買って、風が少しきつかったが、帰りは湖岸走路をオープ
ンで日本一のパワースポットの右方向に、木蓮、白木蓮や河津桜の開花を愛で、沖のパラサーフィンを眺め帰って
くる。

 

【デスクトップな試作場】

落成式?竣工式?それはさておき、デァゴスティーニの三次元プリンターの組み立て試運転調整が終了。これから
トレーニングに入り9月頭には、やってみようの試作を開始し、サンプル提供――非営利の無料試作――していく
予定。

さて、なぜ、これほどまで遅れてしまったのか反省点もある。49号のエクストレーダーの組み立てを間違ってい
たことだ。笑われるかもしれないが、マニュアルの写真が不鮮明なので、キャップ型拡大鏡で見ながら組み立てて
いくのだが結局見落とす。すべては眼精疲労・欲張り計画の二つになるのだが、言い分けがましいが、透明のアク
リル樹脂製の照明技術に工夫がいると考えている。八畳のフィットネスマシン付き書斎兼作業兼寝室の上に、さら
に、スリーディープリンタがテーブルにオンされる。ノウハウの習得と、もう忘れてしまったCADリテラシーと
言っていいのか、要再学習とあとはイメージングの質次第――カッティング・ラビング・カラーリングなどの派生
工程をどうするか?――ということになり、"すべてはデザインで決まる"世界がこの小さな空間で試行されていく
ととなる。ところが、彼女はご機嫌斜めだ。

 

 


 【中国の思想: 戦国策Ⅱ】

  ● 目 次

   解題
   秦
   斉
   楚
   趙
   魏
   韓
   燕
   西周・東周・宋・衛・中山


 

   『戦国策』の成立と内容

 中国古代の大歴史家・司馬遷が『史記』を書くにあたり、戦国時代に関する事件、人物の事跡は、『戦国策』
 から多くをとったといわれている。『戦国策』の原著者は明らかでない。おそらく、当時の口承の類、記録の
 断片などがまとめられたものであろう。書名も、『国策』とか『国事』、あるいはまた『短長』『長書』など
 と呼ばれ、一定しなかった。その錯乱を正し、現在ある形に編集しなおして『戦国策』と命名したのが、前漢
 末の劉向(前七七~六年)である。 

 ちなみに、「戦国」ということばは、もともと「天下の戦国七」(戦国策)などといわれたように「大国」と
 いう意味であった。古くは、歴史書の中に分類されていたが、のちに、子部の従横家の中に入れられるように
 なった。従横家とは、蘇秦、張儀の合従、連横から名をとったもので、戦国時代に、外交戦略を説いた学派を
 いう。むろん学派とはいっても、儒家、道家などのように、整然たる思想体系は持っていない。全篇ことごと
 く、いわゆる策士、説客の権謀術数の言論、行動でうずめられている。

 乱世の戦国時代ともなれば、道学者の金科玉条とする伝統的な規範、道徳は、用をなさない。そしてそれに代
 わって新しい時代にふさわしい規範、生き方が求められる。時代に適応したものは生き残り、それに失敗した
 ものは滅びる。この理屈は、今も昔も変わりない。各国ともあらそって富国強兵をはかる一方、国力の損耗を
 最小限にくいとめるため、兵を動かさずに、もっぱら外交交渉にうったえて、事態の収拾をはかろうとする。
 
 こうした時代の要求にこたえて、国際紛争の解決にあたった。"移動大使"が、すなわち従横家と称される一群
  の説客たちである。かれらは大臣・宰相として、一国の存亡を双肩にになって外交の秘術をつくす。あるいは
  また自己の売り込み、保身に、機知をふるい、脆弁を弄する。一歩あやまれば、国の滅亡、身の破滅を招くだ
  けに、真剣そのものだ。その弁説にはかれらの合がかかっていた。それだけにかれらの弁説には、処世の知恵、
  乱世の英知がこめられている。現実に密着した思想、行動に根ざした思考がある。

  古来、融通のきかない道学者は、『戦国策』を目して、内容浅薄、思想低劣として、眉をひそめた。しかし、
 『戦国策』の面白さは、まさに道学者流のひんしゅくをかった、その点にあるといっても過言でない。唐来八
 家の一人曽鞏は、劉向以後再び放映した『戦国策』をもとの形に編集しなおした人物であるが、かれは、『戦
 国策』 の内容を「流俗に惑い、自ら信ずるに篤からず」と批判しながらも、その存在価値をこう評価する。


  「君子の邪説を禁ずるや、固よりその説を天下に明らかにせんとす。当世の人をして、皆その説の従うべ
  からざるを知らしめ、しかる後もって禁ずれば、すなわち斉る。後世の人をして、皆そのなすべからざる
  を知らしめ、しかる後もって戒となさば、すなわち明らかなり」

 また、元代の呉師道は、

  「君子のこの書におけるや、事変を考え、情偽を究むれば、すなわち、守ますますもって堅く、知ますま
  すもって明らかなり。小人のこの書におけるや、その始めに利あって終りに害あり、小に得て大に喪うを
  見ば、悔悟懲創の心生ぜん」

 と述べている。

 この二人は、儒家の立場にたって、逆の意味での教育的な効果、つまり現代中国のことばをかりれば、"反面
 教師"を期待したのである。また、末代の李格非は、

  「『戦国』策の載する所は、たいていみな、従横捭闔(はいこう)の譎誑(けつきょう)、相軋傾奪(そ
  うあつけいだつ)の説なり。その事、浅嗣にして道うに足らざれども、これを読まば、必ずその説の工な
  るを尚び、その事の師なるを忘れん。文辞の勝これを移すのみ」

 明代の王覚もこういう。

  「義理の存する所にあらざれども、弁麗横肆にして、また文辞の最たるものなり」

 つまりこの二人は、内容はともかくとして、その文辞については一旅中の一流だと評価しているわけである。
 これが『戦国策』を最初に編集した劉向となると、さすがに違う。道学者流の偏見から完全に免れている。

  「みな、高才秀士にして、時君のよく行なう所を度り、奇策異智を出し、危を転じて安となし、亡を運(
  めぐら)して存となす。また喜ぶべく、みな観るべし」

 宋代の蘇洵は、いっそう積極的に評価する。

  「少年の文字なり。まさに気象をして崢(そうこう)ならしむべし」

 気象を崢ならしむとは、気持をふるいたたせる、やる気を起こさせる、というほどの意味であるが、あるい
 はこの辺に、古来、『戦国策』が読みつがれてきた秘密がかくされているのかも知れない。日本には、横田惟
 孝の『戦国策正解』、安井息軒の『戦国策補正』等の注釈書がある。

 『戦国策』の構成は国別に分かれている。すなわち、四周・乗馬・秦・斉・楚・趙・魏・韓・燕・来・衛・中
 山の十二国である(一国をさらに数篇に分け計三十三篇)。ここでは、歴史的に大きな影響をもち、説話とし
 ても興味のある七国を重点的にとりあげ、四周・車馬・来・衛・中山の小国はまとめて一章におさめられてい
 る。
            
                              『戦国策』(「中国の思想」第二巻)より


マイケル・ピルズベリー著『China 2049』(『帝國のロングマーチⅡ』2016.02.26参照)で「戦国策」から
の引用記述が多いので、「墨子」の次は「戦国策」をリラーニングすることにした。併せて、『China 2049』
を読み進めていくことにする。

 

 


● 折々の読書  『China 2049』17


                                  秘密裏に遂行される「世界覇権100年戦略」     

                                                   マイケル・ピルズベリー 著
                                                   野中香方子 訳   

ニクソン政権からオバマ政権にいたるまで、米国の対中政策の中心的な立場にいた著者マイケル・ピルズベリーが
、自分も今まで中国の巧みな情報戦略に騙されつづけてきたと認めたうえで、中国の知られざる秘密戦略「100年
マラソン( The Hundred-Year Marathon )」の全貌を描いたもの。日本に関する言及も随所にあり、これからの数十年
先の世界情勢、日中関係そして、ビジネスや日常生活を見通すうえで、職種や年齢を問わず興味をそそる内容とな
っている。 

  序 章 希望的観測
 第1章 中国の夢
 第2章 争う国々
 第3章 アプローチしたのは中国
 第4章 ミスター・ホワイトとミズ・グリーン
 第5章 アメリカという巨大な悪魔
 第6章 中国のメッセージポリス
 第7章 殺手鍋(シャショウジィエン)
 第8章 資本主義者の欺瞞
 第9章 2049年の中国の世界秩序
 第10章 威嚇射撃
 第11章 戦国としてのアメリカ
 謝 辞
 解 説 ピルズベリー博士の警告を日本はどう受け止めるべきか
     森本敏(拓殖大学特任教授・元防衛大臣)  

 

  第3章 アプローチしたのは中国 

 


                                  東の呉と組み、北の魏と戦う-『三国志演義』(配元前200年)

                                        毛主席への覚え書き(1969)より引用  

  1978年、米中の関係は正常化、つまりアメリカが共産主義中国を中国の政府として正式に認める方向へ
 向かっていた。その年、鄭はアメリカに求めるもののリストのトップ、すなわち科学と技術に狙いを定めた。
 これは「無為]と呼ばれる戦国時代の姿勢で、自らは動かず、ほかの人間に仕嘔をさせることを意味する(注
 50)。1978年になてた戦略で述べているように、鄭は、経済発展にとって「技術は第一の生産力(注51)」
 だと考えていた。そして、中国が経済力でアメリカをしのぐ唯一の道は、科学と技術を大々的に発展させるこ
 とだと確信していた。それを手っ取り早く実現するには、アメリカがすでに持っているものを拝借すればいい。
 男はその目論見を助けてくれる最溶のパートナーを見つけた。米中の公式な協力関係の確立を熱望する新大統
 領、ジミー・カーターである。

  1978年7月、カーター大統領は中国に、それまでに海外に派遣した中では最高レベルの科学者の代表団
 を派遣した。団を率いたのは、カーターの科学顧問で、地震科学を専門とする元マサチューセッツエ科大学教
 授、フランク・プレスだ。プレスは1975年から77年にかけて、米中の学術交流委員会のt席を務めたため、
 中国との学術交流に強い関心を寄せていた,この代表団に中国は大いに注目した。人民日報が外国人のスピー
 チを掲載することは滅多になかったが、晩餐会の席上でブレスが行った、グローバル化のメリットを強調する
 スピーチは同紙に掲載された。国家安全保障会議で中国政策を担当するマイケル・オクセンバーグはそれまで
 14回ほど、郵小平との会談に同席したことがあったが、この時ほど郵が知的好奇心をみなぎらせ、中国の未
 来についての展望を熱く語ったことはなかった、と後に述べている。この時も鄭は、か弱い嘆願者という役割
 を演じ、プレスらに、中国の科学と技術は絶望的なまでに遅れていると語り、アメリカが中国へのハイテク輸
 出を抑制していることを心配しているそぶりを見せた。

  それまで中国政府は、亡命を怖れて、科学者のアメリカヘの渡航を制限し、渡航後も厳しく管理してきた。
 したがって、西側諸国との科学交流の拡大についても慎重になるだろうとプレスは予想していた。だが、驚い
 たことに郵は、科学を学ぶ中国の学生700人の留学受け入れを求め、さらにその後数年のうちに、数万人を
 アメリカに留学させたいという大きな目標を掲げた。郵が回答をすぐに聞きたいと迫ったため、これは自分の
 キャリアにとって重要なブレークスルーになると考えたプレスは、ワシントンは夜中の3時だったが、かまわ
 ずカーター大統領に電話をかけた。プレスと同じくカーターは、中国が科学的交流に急に熱を入れはじめた理
 由を考えることもなく、それを米中の関係改善を歓迎する証と見なした。

  1979年1月、郵はワシントンD.C.を訪問し(これが最初で最後となったが)、成功を収めた。カー
 ター大統領は鄭をもてなすために公式晩餐会を開き、対中政策における二大政党の連携を讃えようと、リチャ
 ード・ニクソンを招待した。ニクソンにとってホワイトハウスに足を踏み入れるのは、ウオーターゲート事件
 で1974年7月に退陣に追いこまれて以来のことだった。郵は13口問、アメリカに滞在し、コカコーラ本社、
 ヒューストンのジョンソン宇宙センター、さらにはディズニーワールドまで訪れた。アメリカの大衆メディア
 が彼を受け入れた証として、鄭の顔写真がタイム誌の表紙を飾った。それも二度にわたってである。

  北京の国立博物館には、テキサスでプレゼントされたテンガロンハットをかぶって微笑む郵の写真が展示さ
 れているが、その写真は、彼の訪米を象徴するものとなった。それはアメリカ国民に、男はユーモアにあふれ、
 「あの共産主義者]のひとりというより、「わたしたち」にずっと近い人間だと実感させた。だが、後にその
 写真は中国とそのマラソンにとって折り返し地点であったことが判明する。この訪米で鄭小平は、毛沢東より
 はるかに多くを手に入れた。

  1979年1月31日、アメリカ滞在中に、鄭と国家科学技術委員会主任の方毅はアメリカと科学交流を加
 速させるための協定に署名した。その年、最初の50人の中国人学生がアメリカに留学した。最初の5年間に
 1万9000人ほどの中国人学生がアメリカの大学で、主に物理科学、保健科学、工学を学び、その数は増え
 つづけた(注52),カーターと郵は、領乍館、貿易、科学、技術についての協定にも署名したが、それは、ア
 メリカが中国の科学者にあらゆる種類の科学的・技術的知識を提供することを約束するもので、結果的にアメ
 リカの科学的・技術的専門知識の史上最大の流出を招いた。

  さらに中国は全米科学アカデミーにも食指を伸ばし、中国が選んだ複数の分野で科学交流を始めるために、
 科学者の代表団を訪中させることを求めた。アメリカ科学界の要人を手中に収め、物理、原子力、宇宙航法な
 どを扱う国際的な組織に加入する土台固めをするというのが、中国の戦略だった。アメリカは同意し、これが
 八つ目のプレゼントとなった.

  アメリカはまた、秘密裏に軍事協力を強化することも約束した。カーター大統領は中越戦争で中国に対して
 情報支援したが、それについてはヘンリー・キッシンジャーでさえ、2011年の著書『中国』で明かしてい
 る通り、衝撃を受けた。キッシンジャーは、カーターは北京とつながる扉を開き、怪物を作り出してしまった
 とでも言いたげな口調で、中国のベトナム侵攻を認めるカーターの「非公式な共謀」は、「間接的にポル・ポ
 ト派の残党を支援することにほかならなかった(注53)」と非難した。「ハロルド・ブラウン国防長官の訪中
 は、数年前には想像もできなかったレベルまで、米中の陥力関係を押し上げた」と、キッシンジャーは息巻く。

  九つ目のプレゼントである1978年に調印された大統領指令43は、教育、エネルギー、農業、宇宙、地学、
 商業、公衆衛生の分野において、アメリカの進んだ科学と技術を中国に伝えるために多数のプログラムを創設
 することを命じた(注54)。翌年、カーター政権は、貿易相手国として中国に最恵国待遇を約束した。

注50.Edward Slingerland,Effortless Action: Wu-Wei as  Conceptual Metaphor and Spiritual Ideal in Early China(New
           York: Oxford univcrsity Prcss, 2003).
注51.  Deng xiaoping,“Realize the Four Modernizations and Ncvcr Scek Hegemony,” May 7,1978. 以下のサイトで人手可
           能。http://dengxiaopingworks.wordPress.com/2013/02/25/「ealize-the-four-modcmizations-and-never-seck-hegemony/
注52.  EzraF.vogcl,Deng iaopingand the Transformation of  China(Cambridgc,MA: Harvard Univcrsity Press,2011),323
           (Kindle edition).
注53.Kissingcr,0n China, 366-68
注54.  Presidential Directive/NSC-43,Novembcr 3,1978,以下のサイトで人手可能。http://www.jimmycarterlibrary.gov/do -
           cuments/y.・gov/docunlents/pddirectives/pd43.pdf.

                                                                                                                                                                                 この項つづく

 


遠近両交・非攻結合論

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      日本では80何パーセントかの人が、自分は中流だと思っているわけです。食事の世話
                 くらいは誰かがしてくれるわけで、そういう社会になっているから自立が遅れる面があ
                 ります。どこからの時点で意志的に働きに出て、持続性のある仕事につく転換点がくる
                 はずで、結婚だったりするのでしょうが、いまの社会ではそれが割合に遅くてすむとい
                 うことなのでしょう。

                                                                               吉本 隆明

 

                                   

                                          Takaaki Yoshimoto 25 Nov, 1924-16 Mar, 2012 

 

        ※ トップテンの富裕層が2%の所得を寡占する時代にあって、中流階級にいると錯覚
          する人が80数パーセントもいるとは驚くばかりであるが、多角的な視点からの分
          析が必要。 
 

 

 
 【中国の思想: 戦国策Ⅱ】

 

  ● 目 次

   解題
   秦
   斉
   楚
   趙
   魏
   韓
   燕
   西周・東周・宋・衛・中山

 

   秦

  黄河上流、函谷間の西、当時なお未開の地にあった秦(都は咸陽)が他国から。"虎狼の国"としてその富強
 を恐れられたのは、孝公のとき、商君を用いて大改革を行なってからのことだ。中央集権国家となった秦は、
 以後、張儀の連横策、范睢の遠交近攻を国是とし、着々と勢力を拡大する。勇将白起の力も大きかった。そし
 てついに、前221年、始皇の手で天下を統一した。

  「貧窮なれば、父母も子とせず」
  「人の世上に生まるる、勢位富厚、けだしもって忽せにすべけんや」
  「わが妻たらば、そのわがために人を罵らんことを欲す」
  「王、遠く交りて近く攻めんにはしかず。寸を得れば王の寸なり、尺を得るもまた王の尺なり」
  「一臣のために屈して天下に勝つなり」

    ● 遠交近攻 

       ――いくつかの勢カがいりまじっているとき、だれと結んで、だれと戦うか。自己保存のために
         は容赦は無用だ、として説きおこす戦略のすさまじさ。

  范睢が秦の昭王に説いた。

 「お国はまことに天険の地、北には甘泉、谷口、南には泥水、澗水、西には贈、蜀、東には函谷関、商阪の要
 害があります。また戦車は子柄、勇卒百万を擁しています。この武力をもって諸侯に当たるのは、名犬・韓盧
 がびっこの兎を追うようなもの。天下に覇を称えるのも難事ではありませぬ。それなのに、国境の守りを固め
 るばかり、あえて函谷関以東に出撃なさらぬのは、宰相穣侯の補佐がよろしくないからであって、王の落度で
 もあります」
 「どうして落度だというのか」
 「隣接の韓・魏をとび越して、遠い強国の斉を攻めるのは愚策であります。少々の兵力では、斉は破れません。
 かといって大軍をくり出せば、本国が危い。そこで、ご自分の兵はなるべく出さないで、韓・魏の兵を使おう
 となさる。それでは義にはずれています。
  また、同盟国が信頼できないのに、それをとび越して斉を攻めるのは、上策とは申せません。むかし、斉が
 楚を攻めたとき、さんざん相手をけちらして、大いに領土拡張の勢いをみせながら、結局わずかの土地も確保
 できずに終わりました。いかに領土が欲しくても、遠すぎて守り切れなかったからです。しかも、戦いで疲弊
 し、君臣の不和をまねいた斉は、諸侯に攻められて破れました。こうして、斉王は恥を天下にさらしました。
 それというのも、遠国の楚を討つことに熱中し、近隣の韓・魏をふとらせてしまったからです。まるで山賊に
 武器を貨し、盗人に食糧を与えるようなものではありませんか。
  王よ、遠国と結んで近隣を攻めるのがよろしい。一寸の地を得ればその一寸が、一尺の地を得れば、その一
 尺が、確実に王の領土となります。この良策を捨てて遠国を攻めるなど、誤りもはなはだしい。
  それにこういう例もあることです。かつて趙が五百里四方もあった隣国の中山を併呑した際、他の諸国の介
 入をいっさい許しませんでした。それというのも他の利を得ていたからこそできたのです。
  かの韓・魏は、中原に位置する国、 まさに天下の要です。天下に絹を称えようとするなら、まず韓・魏と
 結んで中原に進出し、楚と趙に圧力をか けるのです。趙が強ければ楚が、楚が強ければ趙が、秦になびきま
 しょう。両国ともになびけば、斉は必ず恐れて、鄭重に朝貢を請うてまいります。そうなれば、韓・魏を滅ぼ
 すのは難しいことではありません」
 「魏と親しくしたいが、なにしろ信頼のおけない国なので、因っている。どうしたものか」

  范睢は答えた。

 「こちらから朝貢してはなりません。土地を与えて機嫌をとってもいけません。攻撃するにかぎります」
  昭王は、魏の邢丘を攻めた。邢丘が陥ると、魏は朝貢を詔うた。范睢はさらに昭王に説いた。

  秦と韓の国境は、刺繍の糸のように交錯しております。秦から見れば、韓は木食虫、腹の病であります。ひ
 とたび変事が起これば、韓ほど厄介な国はありません。韓を味方につけておくべきです」
 「そうしたいとは思うが、相手がきかなければ、どうする」
 「韓の榮陽を攻めれば、成皐への通は不通になります。太行山の道を分断すれば、上党の兵は南下できません。
 そのすきにどっと榮陽を攻める。相手は三分され、滅亡は必至です。韓はそれがわかっています。従わないは
 ずはありません。韓が従えば、天下に剖を称えることができましょう」
 「なるほど」
 と、昭王は答えた。



 〈范睢〉 魏の人、宇を叔といった。長い間不遇な生活を送ったが、秦に行って昭王(在位・前306~25
 1年)に上書したことがきっかけとなって認められ、宰相にとりたてられる。かれが秦の昭正に説いた遠交近
 攻――遠国と結んで近隣を攻める――は、この後、秦の国是となり、秦の勢力拡大に大きな助けとなった。中
 原〉 中国ともいう。一口に東夷・南蛮・西戎・北秋と称された四方の蛮族から区別して、黄河中流に建国し
 た国々が、"中国"となのった。戦国時代でいえば、韓・魏・趙などの位置したあたりで、今の河南省を中心と
  した地域である。

古色蒼然とした武力(軍事力)を持って「遠交近攻」で領土を拡張し世界統一を図る帝國主義遺制から脱却するに
は、非軍事手段と"遠近両交論"で互いの国を解く努力を行っているのだろうか?!と再考を迫まる。戦前は、抗日
戦争に邁進すべく国民党と手を結び(国共合作)し敗戦とともに国共内政再開の後政権奪取に成功する、戦後は、
抗米、抗日、抗ソナショナリズムをバネとして「帝國のロングマーチ」を続けているが、その野望は単一国家によ
る覇権か中米ロの邦連(トロイカ)覇権なのか?どちらにしろ、中国の帝国主義膨張による、長期亘る膨大な軍事・
経済負担と国内外の人権抑制に耐きれず体制崩壊が待ち受けている。それの回避行政システム――たとえばリコー
ル制に是正――よるの構築に成功できるのか、強権政治に保守反動するのか細心要注意である。


                                            この項つづく

 


● 折々の読書  『China 2049』18


                                  秘密裏に遂行される「世界覇権100年戦略」     

                                                   マイケル・ピルズベリー 著
                                                   野中香方子 訳   

ニクソン政権からオバマ政権にいたるまで、米国の対中政策の中心的な立場にいた著者マイケル・ピルズベリーが
、自分も今まで中国の巧みな情報戦略に騙されつづけてきたと認めたうえで、中国の知られざる秘密戦略「100年
マラソン( The Hundred-Year Marathon )」の全貌を描いたもの。日本に関する言及も随所にあり、これからの数十年
先の世界情勢、日中関係そして、ビジネスや日常生活を見通すうえで、職種や年齢を問わず興味をそそる内容とな
っている。 

  序 章 希望的観測
 第1章 中国の夢
 第2章 争う国々
 第3章 アプローチしたのは中国
 第4章 ミスター・ホワイトとミズ・グリーン
 第5章 アメリカという巨大な悪魔
 第6章 中国のメッセージポリス
 第7章 殺手鍋(シャショウジィエン)
 第8章 資本主義者の欺瞞
 第9章 2049年の中国の世界秩序
 第10章 威嚇射撃
 第11章 戦国としてのアメリカ
 謝 辞
 解 説 ピルズベリー博士の警告を日本はどう受け止めるべきか
     森本敏(拓殖大学特任教授・元防衛大臣)  

   第3章 アプローチしたのは中国 

                                  東の呉と組み、北の魏と戦う-『三国志演義』(配元前200年)

                                        毛主席への覚え書き(1969)より引用  

  カーター大統領はまた、1979年ごろ、中国北西部に信号情報を傍受する基地を設立することを許可した。
 この件については、元CIA秘密諜報員で後に駐中大使になったジェームズ・リリーが回想録「チャイナハン
 ズ 元駐中アメリカ大使の回想1916~1991」に記している。

  「わたしがCIAから勲功メダルを授与された理由の一つは、北京にCIA支局を開設したことで、もう
  一つは、戦略情報の収渠を中田と協力する体制を整えたことだ,{中略)突拍もないアイデアだと思える
  かもしれない,何しろほんの数年前までベトナムで代理戦争をしていたアメリカと中国が、対ソの情報収
  集で協力しようというのだから(注55)」

  1978年、わたしは上院予算委員会で専門スタッフとして働きながら、国防総省の顧問も務め、そこでは
 相変わらず中国関連の機密情報を分析したり、報告書にまとめたりしていた。1980年、ロナルド・レーガ
 ンが2期目を目指して大統領選に立候補したとき、わたしは顧問団のメンバーに指名され、外交政策に関する
 最初の選挙演説の、草稿の作成を手伝った。草稿には、アメリカははるかに大きな脅威であるソ連を打倒する
 ために中国を助けるべきだという、顧問団に共通する見解を盛り込んだ,レーガンが選挙で勝つと、わたしは
 政権移行チームのメンバーに選ばれた,当時のわたしは依然として、中国といっそう協力すべきだと主張して
 いた。国務長官のアレクサンダー・ヘイグはそんなわたしに力を貸してくれた。彼はカーター政権下で進めら
 れた、中国との初期の交渉のすべてを知っており、国務長官として北京を訪問するとともに、中国への武器輸
 出を公に提案した。

  1981年にレーガン大統領が著名したNSDD(国家安全保障決定令)11は、人民解敗軍の戦闘能力を
 国際レベルにまで底上げするために、先進的な空軍、陸軍、海軍およびミサイルの技術を中国に売ることを国
 防総省に許可するものだった。翌年出されたNSDD12は、中国の軍嘔力と民生用核開発(原子力発電所)
 計画を拡大するために、核分野で米中が陥力することを提言した。
  レーガンは前任者たちの対中政策に強い疑念を抱いており、それを巡って政権内の意見は大きく対なした。
 レーガンは、わたしを含め、波の政隆を支える中国専門家の大半より鋭く、中国の本質を見抜いていた。しか
 し、表面的には、中国を強くしようというニクソン・フォード・カーター路線を踏襲し、1984年のNSD
 D140では「強く安全で安定した中国はアジアと世界の平和を保つ力になるはずなので、その近代化を助け
 よう」と述べている(暗示的だが、国家安全保障会議のスタッフはNSDD140へのアクセスを厳しく制限
 した。それは15部しか作成されなかった――おそらく、中国強化という異論の多い目標の概略が記されてい
 たからだろう(注56)。

  レーガンは、中国に武器を輸出して軍服力強化を支援し、台湾への武器輸出は削減しようとする指示書に署
 名した,しかし前任者と違って、重要な意味を持つ但し書きを添えた。それは「対中支援は、中国がソ連から
 の独立を維持し、拙誠的体制の民主化を図ることを条件とする」というものだ。しかし残念ながら、この但し
 書きを彼の顧問団はほとんど無視し、どういう理由からか、レーガン自身も無視した。加えて、レーガン政権
 は、遺伝工学から自動化、バイオテクノロジー、レーザー、宇宙工学、有人宇宙飛行、知能ロボット工学にい
 たる分野で中国が新たに設立した研究機関を、財政と教育の両面で支援した。さらにレーガンは、中国の軍事
 使節団が、アメリカの安全保障の核の一つである国防総省国防高等研究計画局、すなわちインターネットやコ
 ンピューター・ネットワークといったハイテクプログラムを開発した研究機関を訪問することさえ承認した。

  レーガン大統領の在任中、米中が交わした軍事に関わる密約は、以前なら考えられなかったレベルにまで拡
 大した。米中は密かに協力して、反ソ連のアフガン反乱軍、クメールルージュ、アンゴラの反キューバ勢力に
 軍需品を提供した。中国は、ベトナムによるカンボジア占領にも対抗した。5万人のゲリラ兵の武装を含む、
 このカンボジア支援については、THe Combodian Warsという本で4名のCIA幹部が詳細を暴露し、議論して
  いる(注57)。ジョージ・クライルの著作、『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』では、他のCIA幹部が
 さらに大きな秘密を暴露した。それはアメリカが中国から武器を20億ドル分購入し、反ソ連のアフガン反乱
 軍に提供したというものだ(注58)。キッシンジャーの回想録は、アンゴラでも米中は秘密裏に協力したと語
  っている(注59)。

  中国はなぜ、これほど大規模な隠密作戦をアメリカと協力して行おうとしたのだろう。本当のことは、中国
 政府がその記録を公開するか、非常に高位の要人が亡命するまでわからないだろう。ともあれ、中国が、アメ
 リカの力とテクノロジーを利用して、自国を長明的に増強しようとしていたのは確かだ,その本意は、「囲碁」
 の戦略、すなわち、ソ連による包囲を阻止することにあったようだ。中国が了フソンで先頭集団に良い込もう
 としているとは誰も想像すらしていなかった。それは中国が一貫して、アメリカの保護を必要とする、防衛が
 精一杯の弱々しい国というイメージを巧みに装っていたからにほかならない。

  ニューヨーク・タイムズ紙の記者、パトリック・タイラーによると、10番目のプレゼントとして、アメリ
 カはソ連との国境沿いで中国と協力して情報を収集することを約束した。これは密かに「チェスナット作戦」
 と命名された。1979年8月、カーターの副大統領のウォルター・モンデールが訪中した折に、国防総省と
 CIAはこの作戦で用いる機材を軍用輸送機で中国に運んだ,タイラーによると、中国はその輸送機、C14
 1スターリフターを、ソ連のジェット旅客機の隣に駐機させ、米中の協力がソ連に見えるようにしたという(
 注60)。

  タイラーによると、この時に作られた通信監視基地は、ソ連の防空施設からのレーダー信号や、航空交通に
 関する情報を収集するだけでなく、KGBの通信を傍受することもできた。また、ソ連の核兵器の警戒すべき
 変化も検知できた(注61)。そのおかげで中国は、仮にソ連に攻撃されても、態勢を整える時間の余裕を持て
 るようになった。1979年2月にソ連を後ろ盾とするベトナムがカンボジアに侵攻し、同年12月にソ連が
 アフガニスタンに侵攻するというきな臭い時代にあって、中国の安全保障は格段の進歩を遂げた。忍従の末に
 中国は、6年前にキッシンジャーとイクレとわたしが提案したよりずっと多くの支援を手に入れつつあった。

注55  James Lilley and Jeffrey Lilley, China Hands: Nine Decades of Adventure, Espionage, and Diplomacy in Asia (New
          York: Public Affairs, 2004), 214-15.
注56. NSDD120で、レーガン大統領は、アメリカ政府に「特に技術移転の自由化により、中国の近代化への努力に支援を
          差し伸べるyう指示した。NSDD 120, "Visit to the US of Premier Zhao Ziyang,” January 9, 1984,以下のサイトで人
          手可能。http://www.fas.org/irp/offdocs/nadd/  NSDD140は、「強く、安全で安定した中国は、平和のため成長する
    力となりうる」と断言した。NSDD 140. "‘President's visit to People's Republic of China,” Apr.21,1984,以下のサイト
          で人手可能。http://www.fas.org/irp/offdocs/nsdd/nsdd-140.pdf.
注57. Kenneth Conboy,The Cambodian ars; Clashing RMIES AND CLA Covert  Operation(Lawrence: Univcrsity Prcss of
          Kansas,2013).以下も参照。Andrew Mertha,Brothers in Arms Chinese Aid to the Khmer Rouge, .1975-1979(lthaca.
          NY: CornlI University Press,2014).
注58.  George Crile,Charlie Wilso's War: The Extraordinary Story of the Largest Covert Opertion in History (New York:
           Atlantic Monthly Press. 2003).
注59.  Kissinger、Ycarsof Renewal, 819.
注60.  Tyler,Great Wall, 284. 
注61.  同上、285.テイラーは 注97 でカーター他8名の大統領の名を挙げている。

                                                                                                                                                                                  この項つづく   

  ● 乞うご期待!

The Musketeers  銃士隊 : 4月3午後11時スタート NHK

昨日の友は今日の敵

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   この社会に生きることのどこにいいところがあるのか、言われたら、どこにもないよと言うより仕方がない。

                                                               吉本 隆明

                                   

                                          Takaaki Yoshimoto 25 Nov, 1924-16 Mar, 2012 

          ※ ひとは、時間軸を無限に外延て内省すれば漆黒の空に至る。そこから「生」の全を考え行動する。
                                                     

 


 【中国の思想: 戦国策Ⅱ】 

  ● 目 次

   解題
   秦
   斉
   楚
   趙
   魏
   韓
   燕
   西周・東周・宋・衛・中山 

 

   斉

  釣をしていて周の文王に認められた呂尚(太公が待ち望んでいた人だから。太公望’といわれ、後世、釣り師
 の代名詞となる)を始祖とする斉の国は、現在の山東省にあった。紀元前十一世紀いらいその子孫が君臨してい
 たが、前三七九年、重臣の田氏がこれをうばって王となった。前四世紀後半、威王、宣王の代には学問のメッカ、
 百家争鳴の中心地となる。
 そ の国都臨溜は、春秋中期すでに戸数四万二千(『国語』)戦国時代になると戸数七万、男子人口二十一万、
 街のにぎわいは肩と肩がふれるほどだった(『史記』)という。が、その後ふるわず、前二二一年、秦に滅ぼさ
 れる。

  「蛇足をなす者、ついにその酒を亡えり」
  「猿、摺孤(びこう)も、木を錯てて水に拠らば、魚駈(ぎょべつ)にしかず」
  「狡兎は三窟あり」
  「いやしくも民なくんば、何をもってか君あらん」



 ● 本末転倒

    斉王・建は趙の威后のもとに使者をやって、ご機嫌を伺わせた。威后は手紙を開きもせずに、使者に問うた。
 「今年の作柄はどうなの? 民の暮し向きは? 王にも変りはない?」
  使者は不満そうな顔をした。

 「王の使いとして参りましたのに、王のことは二の次ぎ、まず作柄や民の暮し向きをおたずねになる。王を後
 まわしになさるのは、順序がまちがってはいませんか」
 「いいえ。作柄がよくなければ、民は生きられません。そうなれば、工も生きられません。根本を問わないで
 末節を尋ねるほうがまちがっています」

  威后は、身を乗り出して言葉をついだ。

 「斉に鎮座子という浪大昔がいたはずですが、元気ですか。あの男は、人々に着るものや食べるものを不自由
 ないようにさせる大。これこそ王を助けて民を養う人物です。どうして浪人などさせておくのかしら?それか
 ら、葉賜は変りありませんか。あの男はやもめを哀れみ、孤児や身よりのない老人をいつくしみ、貧乏人に衣
 食を補助しています。これこそ王を助けて民を洽める人物。どうして浪人などさせておくのかしら?また北宮
 の嬰兄子という女はどうしていますか。あの女は、耳飾りもつけず、お嫁にも行かずに、父母を養っています。
 これこそ民に孝行を教える手本です。どうして朝廷に入れてやらないの? このような人たちをほったらかし
 ておいて、どうして国を洽めることができましょう。それから於陵の子仲はまだ生きていますか。あの男は臣
 下としての礼をつくしません。自分の家の世話もみません。諸侯とも交わりません。あんな男がいては、民が
 役立たずになるばかり。どうしていつまでも生かしておくの?」

 〈斉王・建〉 建は斉の最後の王(在位・前二六四~二二一年)。龍二二一年、秦王政(始皇帝)によって国
        都臨溜をせめおとされ、捕えられた。秦は斉を最後に諸国併呑を完成する。

 

 


● 折々の読書  『China 2049』18 


                                  秘密裏に遂行される「世界覇権100年戦略」     

                                                    マイケル・ピルズベリー 著
                                                    野中香方子 訳   

ニクソン政権からオバマ政権にいたるまで、米国の対中政策の中心的な立場にいた著者マイケル・ピルズベリーが
自分も今まで中国の巧みな情報戦略に騙されつづけてきたと認めたうえで、中国の知られざる秘密戦略「100年マラ
ソン( The Hundred-Year Marathon )」の全貌を描いたもの。日本に関する言及も随所にあり、これからの数十年先の
世界情勢、日中関係そして、ビジネスや日常生活を見通すうえで、職種や年齢を問わず興味をそそる内容となって
いる。 

 

  序 章 希望的観測
 第1章 中国の夢
 第2章 争う国々
 第3章 アプローチしたのは中国
 第4章 ミスター・ホワイトとミズ・グリーン
 第5章 アメリカという巨大な悪魔
 第6章 中国のメッセージポリス
 第7章 殺手鍋(シャショウジィエン)
 第8章 資本主義者の欺瞞
 第9章 2049年の中国の世界秩序
 第10章 威嚇射撃
 第11章 戦国としてのアメリカ
 謝 辞
 解 説 ピルズベリー博士の警告を日本はどう受け止めるべきか
     森本敏(拓殖大学特任教授・元防衛大臣)  

 

   第3章 アプローチしたのは中国 


                                   東の呉と組み、北の魏と戦う-『三国志演義』(配元前200年)

                                         毛主席への覚え書き(1969)より引用  

  中国は、勢を読み、アフガニスタンとベトナムにおいてソ連による包囲を破るには、アメリカの支援が必要だ
 と考えたに違いなかった。ソ連による包囲は、毛沢東がアメリカからもらったものより、さらに多くもらうこと
 を正当化した。こうして郵は、アメリカからかなりの支援を取り付けた(注62)。

  1982年から89年にかけて アメリカとベトナム共和国軍は、中国、タイ王国軍、シンガポール、マレー
 シアの支援を受けて、カンボジアプログラムをバンコクで展開した。これは、アメリカから中国への11番目の
 プレゼントとなった。この内密の協力はむしろ公然と行われたために、20年にわたって、世間に気づかれなか
 った。USAID(アメリカ国際開発庁)は、カンボジアで非戦闘的な人道支援を進めるための二つの基金(提
 唱者であるフロリダ州選出の共和党のピル・マコラム下院議員と、ニューヨーク州選出の民主党のステファン・
 ソラーズ下院議員にそれぞれちなんで名付けられた)を提供した。レーガンは、これらのプログラムに年間20
 0万ドル相当の支援を秘密裏に提供するよう、CIAに命じた。ケネス・コンボイによると、その金額は198
 6年までに1200万ドルに膨らんだそうだ(注63)。このプログラムはタイが「プロジェクト328」と呼ぶ
 作戦と合わせて遂行された。中国、マレーシア、シンガポール、タイも、このブログラムに武器と資金を提供し
 た。シンガポールのリー・クワンユー首相さえバンコクを訪れ、秘密基地を視察した。わたしは1985年と8
 6年にその基地を訪れ、CIAの職員から簡単な説明を受けたが、その職員はCIA本部の極東部門の長を務め
 た人物だった。彼はそのプロジェクトを、冷戦という状況下にあって、中国と連携してソ連に立ち向かうための
 「不本意ながらやむをえない方策」と見ていた(注64)。

  カンボジアでのプログラム開始から2年後の1984年の夏、中国はソ連をアフガニスタンから追い出すため
 に、密かにアメリカに協力しはじめるが、やがてその規模はカンボジアでの協力の50倍に達した。
  当時、わたしたちは、勢と逆包囲について理解しておらず、アフガンの反乱軍を助けるアメリカの主要な武器
 供給源になることによって、中国がソ連の復讐というリスクを負うことになるとは考えてもいなかった。それに
 気づいたのは、中国の標準語(北京語)を話すCIAの優秀な協力者、ジョー・ディトレイニーだ(注65)。米
 中のつながりは極秘にされており、タイラーによると、この作戦を知っているのはCIA全体で10人足らずだ
 った。現在でも中国側は、当時このような武器の提供を行ったことを認めていない。著書『チャーリー・ウィル
 ソンズ・ウォー』でジョージ・クライルは、アメリカが中国に最初に注文したのは、AK47狙撃ライフル、機関
 銃、対戦車ロケット砲、地雷だったと記している(注66)。

  1984年、チャーリー・ウィルソン下院議員は、アフガン反乱軍への支援を増やすために、5000万ドル
 を獲得した。クライルによると、CIAはそのうちの3800万ドルで中国から武器を買うことにしたそうだ。
 1990年、ワシントン・ポスト紙は、匿名の情報として、米中が密かに協力していたこの6年間に、中国から
 買い入れた武器の総額は20億ドルを超えたと報じた。 

  米中の秘密協力はレーガン政権時にピークに達した。ニクソンとフオードはソ連の情報を中国に提供した。カ
 ーターは、チェスナット盗聴作戦を確立した。だが、秘密裏にではあるが、中国を戦略上の対等なパートナーと
 して遇したのはレーガンだった。米中が協力した三つの主な作戦は、アフガニスタン、カンボジア、アンゴラに
 おける反ソ勢力への秘密支援だった。当時わたしは、中将に相当する文民の位にあり、国防総省で政策の策定と
 秘密活動に取り組み、そうした諸々を政策担当幹部であるイクレに報告していた。イクレとわたしは、キッシン
 ジャーが1973年に中国を支援したことやカーター大統領がチェスナット・ブログラムを遂行したことを知る
 限られた人間だった。彼とわたしは、中国がアメリカの同盟国になることを本気で望んでいるのかどうかを調べ
 たいと思っていた。答えがイエスなら、アメリカの上級幹部はこの先何年も中国に肩入れすることになるだろう。

  わたしの任務は、イスラマバード、バンコク、アンゴラ南部を訪れ、反ソ勢力のリ-ダーから、計画と要望を
 聞き出すことだった。また、助言、承認、支援を得るために中国も訪れた。わたしたちはレーガン大統領にNS
 DD166(アフガンヘの直接支援を可能にし、支援内容を拡大させた)への署名を勧めた。アフガンでの抵抗
 運動の 高まりが、ソ達による報復を誘発しかねないからだった(注67)。アメリカは中国による状況の評価と、
 願わくば、支援を必要としていた。



  20年後、ジャーナリストのスティープ・コールは、「中国の共産主義者はCIAがまとめた武器取引で莫大
 な利ざやを稼いだ」と主張した(注68)。反ソ勢力に送るためにアメリカが中国から買い入れた武器の総額が2
 0億ドルを超えたという主張が本当なら、中国がアメリカから購入した軍装備品の5億ドル以上という金額は少
 なく思える。
  中国は反ソ勢力のための武器をアメリカに売っただけでなく、秘密協力をどう進めるかについての助言もした,
 その助言から、傾きかけた覇権国、この場合はソ達に対する中国の戦略がいくつか見えてくる。まず中国は、ソ
 連の弱みを見つけることを強調した。そして第一の戦略は、ソ達朗のコストを上げることだと説いた。アフガン
 とアンゴラの反乱軍にスティンガー対空ミサイルを提供することをわたしが提案すると、それでヘリコプターや
 ジェット戦闘機を撃ち落とせば、ソ達にとては高くつくと、彼らは大喜びした。

  第ニの戦略は、他者を戦わせることだ。言うまでもなく、「無為」という戦国時代の戦略である。

  第三の戦略は覇権国の同盟国を攻撃することだ。カンボジアの反乱軍は、ソ達の傀であるベトナムと戦った。
 アンゴラの反乱軍は、ソ連の航空機でアンゴラに送られたキューバ人を追放したが、もしスティンガー対空ミサ
 イルを持っていたら、その航空機を撃墜していたことだろう。アメリカは中国と協力して、これらすべてと、そ
 れ以上のことを行った。

  わたしは中国の代表に、さらに二つのことをするのは、あまりにも挑発的だろうか、と尋ねた。その一つは、(
 冷戦の問でさえ行われなかったことだが、アフガンの反乱軍を支援して、ソ連領内で破壊工作をさせることで、
 もう一つは、アフガンの要求に応えて長距離狙撃銃、暗視ゴーグル、同国に駐在するソ連高官の居場所を掲載し
 た地図を提供し、暗殺を成功させることだ。わたしの同僚は、中国もさすがにそれには賛成しないだろうと考え
 ていた。一方わたしは、中国の歴史書をたくさん読んでいたので、彼らは賛成するのではないかと予測した。し
 かし、そんなわたしでさえ、中国がこの提案のどちらにも諸手を挙げて賛成した時には、あまりの情け容赦ない
 さまに当惑した。
  スティーブ・コールは、ピュリツアー賞を受賞した著書『アフガン諜報戦争』で、アフガンからのこれらの要
 請を却下したのはアメリカ側だと述べている。CIAの法律顧問が、それはほとんど「暗殺行為」であり、現地
 のCIA支局長が「手錠をかけられる羽目になる」と警告した、とコールは語る(注69)。そういうわけで、狙
 撃銃は承認されたが、地図と暗視ゴーグルは承認されなかった。また、ソ連領内で奇襲攻撃を仕掛けるという案
 も、まもなく取り下げられた。中国側はその案をいたく気に入り、傾きつつある覇権国に心理的ショックを与え
 ることができると、しきりに推したのであったが(注70)。

  1985年、アメリカは中国のマラソンを支援するために、武器さえ提供するようになった。レーガン政権が、
 10億ドル超の六つの主要な武器システムを中国に売る手はずを整えたのだ。その狙いは、中国の陸軍、海軍、
 空軍を増強し、さらには海兵隊の拡大を支援することにあった(注71)。そして1986年3月、レーガン政権
 は、遺伝子工学、知能ロボットエ学、人工知能、自動化、バイオテクノロジー、レーザー、スーパーコンピュー
 ター、宇宙工学、有人宇宙飛行に焦点をあてた中国の八つの国立研究センターの設立を支援した(注72)。ほど
 なく中国は、1万を超すプロジェクトで著しい進歩を遂げた。それらは中国の了フソン戦略にとって極めて重要
 なものだったが、西側諸国の支援がなければ、到底なし得なかったはずだ。レーガン政権は、中国を後押しすれ
 ばソ連に対抗できると信じ、レーガンをはじめとして誰もが、積極的に自由化を進めているという中国の主張を
 信じようとした。

  仲間に支援してもらってソ連の包囲を破るという中国の戦略は成功しつつあった。1989年、ソ連はアフガ
 ニスタンから退却し、まもなくベトナムもカンボジアから撤退した。では、アメリカと中国は、信頼の土台を築
 き、真の同盟国になれたのだろうか。なれた、と当時のわたしは考えていた。しかし、戦国時代の原理に則れば、
 中国はついに真の覇権国と向き合うべき時を迎えていた。その相手は、アメリカであ 勢の重要な要素の一つは、
 包囲を仕掛けてくる敵を迎え撃つことだ。1989年2月、鄭小平は、北京でジョージ・H・W・プッシュ大統
 領と会談した折に、「ソ連による包囲は、中国にとって致命的な脅威だった」と語った。おそらくそれは本音だ
 ったのだろう。だが、今、囲碁の形勢は逆転し、弱体化したソ連を中国が包囲しつつあった。そして、ソ連が衰
 退しはじめ、アメリカの覇権が拡大しつづけている時に、中国が勢をどう読み取るかは、誰にも予測できなかっ
 た。  

武力という悪魔が跋扈する『国家覇権戦略』に取り憑かれるとどうなるか?国家主義という大魔王は罪なき民の生命
が奪う――現代中国史から「覇権」に翻弄される世界をこの著書は炙り出す。そのひとつが「朝の友は、昨夜の敵」
のう中ソ(ロシア)の内ゲバを通し、中越戦争、カンボジアの大虐殺、アフガニスタン紛争、9・11、イラク侵攻、
北アフリカ・中東紛争と南沙諸島紛争まで貫く。鬱陶しくも興味深い読書時間を提案する。

                                             この項つづく
      

注63  Conbov.Cambodian Wars, 288.
注64 同上、226-27.
注65 Mary Louisc Kclly,"Intelligcnce Veteran Focuses on North Korea.” NPR, Octobcr 13, 2006.以下のサイトで入手可能,
    http://www.npr.org/templates/story/story.php?storyld=6259803.
注66. Crile,Charlie Willsu's Wαe,and Conboy, Cambodian Wars.
注67. NSDD 166, US Policy. Programs,and Strategy in Afghanistan,March 27, 1985,以下のサイトで入手可能。
    http://www.fas.org/irp/offdocs/nsdd/nsdd-166.pdf
注68.. Steve Coll, Ghost Wars: The Secret History of  the CIA, Afghnistan, and Bin Laden, from the Soviet Invasion to Septem
           10, 2001(New York: Penguin Press, 2004),66.
注69.  同上、137.
注70.  同上。このすべてでわたしが果たした役割は3冊の本に記されている。レイモンド・L・ガーソフは「マイケル・ピルズベ
    リーは当初、1975年秋のフォーリン・ポリシー誌のかなり話題になった記事で、中国への武器輸出と、中国との広範囲
    にわたる軍事安全保障関係を提案した。当時知られていなかったのは、ピルズベリーが中国当局者と内密の会談を
    行ってきたことだ。(中略)彼の報告書は秘密文書として、国家安全保障会議、国防総省、国務省の10名あまりの幹部
    に回覧された」としている,Raymond L.Garthoff,Dètente and Confronation: American-Soviet Relations from Nixon to
           Reagan (Washington,DC: Brookings lnstitution, 1983),696. マフムード・アリによれば、「ランド研究所の中国分析家、
           マイケル・ピルズベリーは(中略)1973年夏、中国の国連監視団という名目でアメリカに来ていた人民解放軍将校たち
           と密かに会った。(中略)国防総省の命によるものだ」。Mahmud Ali,US-China Cold War CoLLaboration; 1971-1989.
           (New York: Routledge, 2005),81.アフガニスタンからの退却についてソ連と交渉した国連事務次長、ディエゴ・コルド
           ベスによると「当初、スティンガー・キャンペーンの陣頭指揮をとったのは、国防次官フレッド・イクレと、攻撃的なアフガ
           ニスタン問題の調整官、マイケル・ピルズベリーだった。(中略)スティンガー支持者は最終的に勝利を収めたが、官僚
           は  最後の最後まで激しく抵抗した」。Dicgo Cordovcz,Out of Afghanistan: The Inside Story of theDiegoCordovez, Out
           of Afghanistan: The Inside Story of theΓ・(New York: Oxford university Prcss, 1995),195.クリントン大統領の副司法
           長官、フィリップ・ヘイマンは次のように潜いた。「秘密行動委□会は3~4週間ごとに集まった,その存在は公には知ら
           れていなかったが、こうした委員会はアイゼンハワー以来、全政権で運営されていた。例えば、ケネディ政権では、40
           委員会と呼ばれていた。秘密行動についての情報はすべて「VEIL」というセキュリティーシステムで保護されていた」。
    Philip Heyman Living the Policy Process(Ncw York: Oxford univcrsity Prcss, 2008),44.
注71 KarI D. Jackson,Mernorandum for the lnteragency Group on U.S--China Military Relations,Subject: U.S.-China 
           Military Relations: A Roadmap,September 10,1986,Department of Defense,lntermational Security Affairs,
           Douglas Paal file. Reagan Presidential Librarv. 
注72.  同上。以下も参照。Feigenbaum,China's Techno-Warriors.      

 

  ● 今朝の朝食              

懐かしい、万平ホテル製のランチョンマット、山中漆器の榛(ハンの木)のプレートに「マッシュパンプキンと卵の
厚巻きトーストのルッコラとミニトマト添え」を戴くことに。ハンの木のプレートが 新鮮だったので慌ててデジカ
メする。                      

 

 

 

今夜も技術がてんこ盛り

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    本当に偉い人は、千年、百年単位の人ではなく、もっと向こう側に
       無名の領域があって、そこへ行けた人が本当に偉いのだ

                                               吉本 隆明

                           

                               Takaaki Yoshimoto 25 Nov, 1924-16 Mar, 2012 

 

【再エネ百パーセント時代:シリコン複合セルで29.8%を実現】

● 太陽光発電30%超時代にはずみ

過日1月5日、米NRELとスイスCSEMがシリコン技術をベースに化合物半導体を組み合わせた。タンデム層を上下に並
べたセルで29.8%という高い変換効率――単結晶シリコン(Si)太陽電池の上に、III-V族化合物半導体であるガ
リウムインジウムリン(GaInP)太陽電池を重ねた二接合構造シリコン複合系太陽電池で初めての記録――を達成。
単結晶シリコン系の理論限界29.4%をバンドギャップの大きな半導体を上層(トップ層)に、小さな半導体を下層
(ボトム層)に配置し、トップ層で吸収できなかった光が透過するように工夫すればよい(タンデム構造)。層の数
が2つの場合、変換効率の理論上限は42%まで高まる。ただし、非シリコン系。

 

 

● いかにして変換効率を高めるか?

まず、接合構造を採るとそれぞれの層がそれぞれのバンドギャップに近い光を吸収でき、変換効率が高くなる。言い
換えれば熱として失われるエネルギーが減る。接合構造を使い加えて、「4端子構造」を採用――4端子構造では2
端子構造と異なり、2つの層が生み出す電流をそろえる必要がなく、それぞれの層の出力電力を最大にでき、装置全
体の効率は、それぞれの層の効率で決まる。トップ層の電流密度と電圧の組み合わせ(JV)は、太陽光の一般的な条
件のままで、当然ボトム層に到達する光は少なくなり、JVは一般的な条件からずれるが、変換効率にして8~12%
の効率ポイントで動作する。「定圧-調流回路」(マイクロインバータ、否、時代はナノインバータ時代を迎えてい
るのかも?! と呼ぶもので、電流を調整することで電圧を一定にする電気回路と個人的に呼称している)が必要に
なるが原理的に問題ない。さらに、単結晶シリコンは散乱光の利用が難しいが化合物半導体やペブスカイト・有機半
導体系のセルは散乱光を取り込め、曇天や朝方・夕暮れの太陽光を利用でき、変換効率だけでなく、発電電力量を増
やすことができ、壁掛け型のパネルとして使用できるので、ルーフトップだけでなく、建造物と一体化できる利点が
ある。

 

 

● 進化する形態・ウエアラブル端末用デジタル気圧センサ

 

スマートフォンやタブレット、ウエアラブル機器は、多機能・高機能化が進み、ドローンなどの飛行高さ制御、インドア
ナビゲーションや健康管理、各種スポーツデータの記録など、さまざまなソフトウエアやアプリケーションの普及に合
わせ拡大中。今月24日、アルプス電気は、低消費電流かつ高精度な気圧センサ「HSPPAD042A」――業界最高レベ
ルの低消費電流(1.8μA:Low Power Mode 時)と、高い検知精度(絶対圧力精度 ±0.7hPa、相対圧力精度 ±0.05hPa)を達
成――を開発販売すると発表。

 
● 20年のパワー半導体市場予測

富士経済が、今月23日、シリコンカーバイド(炭化ケイ素)やガリウムナイトライド(窒化ガリウム)といった次
世代パワー半導体の20年の世界市場を、850億、530億、計1380億円、比率で、4.8倍、53倍、計7.
3倍――16年は6インチ基板の採用が活発化、量産が本格化するのは17年以降にずれ込み、大口径化と電力損失
が低減できるトレンチタイプや低価格化、高効率化が進む――と発表。また、業界別には、SiCパワー半導体市では
サーバや無停電電源装置、ストレージなどの情報通信機器向け需要が大きい。新エネルギー向けには、太陽光発電用
パワーコンディショナ向けの需要が高く、新興国では風力発電システムでの採用も期待される。

自動車/車載電装分野向けには、EV(電気自動車)/PHV(プラグインハイブリッド車)用急速充電スタンドや車載
充電器などの需要が大きいとする。今後は、HV(ハイブリッド車)やEVの駆動用インバーターでの採用が増え、低価
格化が進めば、20年には電動自動車全体の5%に搭載されると予想。さらに、GaNパワー半導体は、課題の電気特性
やノイズ対策、低コスト化への取り組みが進み、量産化のハードルが低くなっている。600Vから1200Vクラスの耐圧
領域で需要が増加、低価格化が実現すれば、市場が大きく拡大する予測する。

GaNパワー半導体向けは、情報通信機器向けではサーバのDC-DCコンバーターなどでの採用が多いという。新エネルギ
ー向けには、太陽光発電用パワーコンディショナ向けの需要が今後期待される。自動車/車載電装分野では、600Vク
ラスの中耐圧領域でAC-DC変換回路、車載充電器での搭載向け開発が進み20年以降はSiCパワー半導体と競合すると
予想する。

 




●  世界最高レベルのQ値 光ナノ共振器の大量作製に成功 

今月16日、大阪府立大学と産業技術総合研究所(産総研)の研究グループは、共振器が光を閉じ込める強さを表す値(Q)
が最高200万以上を持つ光ナノ共振器をフォトリソグラフィー法で作製することに成功たと発表。光ナノ共振器は、
シリコンフォトニック結晶を用いて数百ナノメートル程度の小さな領域に光を閉じ込める共振器だ。百0万を超える極
めて高いQ値により、微小領域に光を強く閉じ込めることができるが、1μW程度のしきい値でレーザー発振する超低
消費電力のシリコンラマンレーザーや、光メモリ、医療向けなどの新規センサーを実現できる。従来、百万以上のQ
値を持つ光ナノ共振器は、電子線リソグラフィー法を用いた作製しかできず、産業界で実用化するには、大量生産に
向く作製法が求められていた。

一般的に、光ナノ共振器は、直径2百ナノメートル程度の非常に小さな空気孔を周期的な配列構造であり、高い精度
のリソグラフィー技術が要求され、リソグラフィー法の中でも高い精度を誇る電子線リソグラフィーを用いた場合で
も作製が難しいが、今回、シリコンデバイス一貫試作ラインを利用し、サンプル作製を実施。波長193ナノメート
ルのフッ素アルゴンエキシマレーザー光源を使った液浸フォトリソグラフィー法で3百ミリシリコンウエハー全面に
光ナノ共振器を作製する。



フォトリソグラフィーで作製したフォトニック結晶の電子顕微鏡写真 出典:産業技術総合研究所



● ここまできたフォトニク結晶技術

尚、シリコンフォトニック結晶は、高Q値光ナノ共振器だけでなく、光を自在に制御できることで、太陽電池、熱輻射
光源、熱電発電などの研究開発されており、研究成果を発展させフォトリソグラフィー法を用いた大量生産が加速する
と期待される。





【田んぼで魚介類の養殖 世界初?!ニゴロブナ養殖に成功】

滋賀県を代表する発酵食品「ふなずし」。その最高級の素材とされるのがニゴロブナは3~4月には脂がのり、身も
卵もうまみたっぷり。地元では刺身や煮付やシソを巻いて天麩羅やジャラートとして食べられている。そのニゴロブ
ナを、塩と米で長い時間をかけて乳酸発酵させた保存食がふなずし。その歴史は古く、奈良時代以前から食べられて
きた。琵琶湖固有種「ニゴロブナ」が、水の汚染や外来魚に追われ、漁獲量は激減。価格は高騰。子どものころ食べ
たあの昔ながらの鮒寿司が食べたいと、そんな思いでニゴロブナの養殖に取り組む(株)飯魚(いお)社長の大島正
子さんの養殖池が、安土町大中の41年前に干拓し百ヘクタールの干拓地の一角にある。

  

当初、国家事業として干拓した田んぼを養殖池にすることに、周囲の理解はなかなか得られなかったが、コンクリー
トで固めるわけではない。田んぼを少し深く掘って水を張るだけ。琵琶湖の水を引き込み、薬も一切使わず、できる
だけ自然の生態系を生かして育てきたが、流通している食餌から、ニゴロブナも自然に育つのではないかと考え池の
底に鶏糞をまき、昔の琵琶湖のように、魚のエサとなる微生物が育ちやすい土づくりをし、外来魚とその卵が入り込
まないように取水口も工夫し、「ミニ琵琶湖」の養殖地をつくり、養殖池だけで産卵を繰り返すと、ニゴロブナはど
んどん小さくなり、顔つきまで違っくる。そこで毎年、漁師に頼んで琵琶湖から獲ってきてもらったニゴロブナを養
殖池に天然のニゴロブナだけ選び放流する。




勿論、これは完全養殖でない――孵化は外部で天然物を選別し養殖する。しかし、食餌は天然だから食餌経費は経営
次第で近似ゼロ(ZCoF)も不可能でない。そこで、ナマズの養殖の話だが、田んぼでナマズを養殖すればいいんじゃ
ない。それも食餌が豊富であれば共食いもないはずだと。卵巣もカラスミなどとして頂けるし、アメリカンフィッシ
ュの場合、外部環境への流出するリスクさえクリアされればそれも可能で、日本ナマズと調理比べ・味比べできて面
白い。「河豚よりやすくてうまい滋賀の川河豚」のキャッチコピーが数年後に定着していると思うのだが、どうだろう。

  ● 彦根城入山が80万人超え

 

カレーパンに閃く

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      何も知識の専門家だけを、「専門家だ、あの人は」と言う必要もありません。だけど、知識
                 の専門家はテレビに出てよくしゃべって、「すごいな」と思われる機会も多いでしょう。

                                                                                      吉本 隆明


                                     

                                              Takaaki Yoshimoto 25 Nov, 1924-16 Mar, 2012 

 

 

 

 

【カレーパンは餡屋なり】

毎秋火曜日はパンの移動販売に大津からやってくる。いつものピザやお好み焼きのパンは飽きてしまったので、カレ
ーパンを選択。名前を忘れたが、二つに割ってオーブントーストすると美味しいと彼が教えてくれたので、いつも電
子レンジしか使わないわたしがオーブントースターで昼時にそれを頂く。丁寧にパンきりナイフで真っ二つに切り分
けたのはよいが、不慣れの上に目が悪いときて焼き過ぎ表面が焦げるしまったが、彼が言った通り大変美味しいに驚
き、なにやら頭で閃くものあり。そして天使がこう囁く「」カレーパンは餡屋なり!」と。それで、食後、ネットサ
ーフし構想を頭の中でまとめあげる。



それで、今月6日、二子玉川にある「iTSCOM STUDIO & HALL 二子玉川ライズ」で開催された「カレーパン博覧会」
大好評で予想以外のお客さんが殺到し、午前11時(~19時)開始からわずか30分で終了するという珍事が起き
るほどの盛況ぶり。へぇ~っ、そんなに日本では人気なんだ、知らなかったという世事の疎さを知る(その必要もな
いが)。このブログでも「世界初のあんこ専門事業:『餡屋』構想Ⅱ」(『気分転換のランチョンマット』2015.11.
16)もあり、パン生地とカレー餡を下図のごとくコーティングし揚げればできる。このとき、ひと工夫し、パン生地
を餡がはみ出さないほどに極力少なくし揚げ、放冷・凍結、そのまま加熱しかき混ぜ、ご飯や麺などに注ぎかければ
カレーライスができあがり、勿論、スープカレーとしても楽しめる。具材の裁断サイズが大きいと手づくりとなり、
生産性が低くなる。話は少し逸れたが、カレー種類が多いので、たこ焼きのように、一口サイズのカレーパンもあっ
ても好きなカレー餡のパンをブレンドしても面白いと思う。この事業素描に従い世界市場を概算すると売上高24兆
円/年、利益3兆7千万円となった。毎日でも食べたい?頭がクラクラするほどの金額になる。^^;?!

 

 
それにしてもこれほどまでにカレーパンがブームとは、日本人って不思議だな?!

 

【ちょっとだけ量子ドット工学講座1】

今回は、最新の量子ドット(あるいは)ナノサイズの半導体微粒子を使った太陽電池製造新規考案事例(京セラ)を
考察してみよう。従来の太陽電池の受光層は、主にバルク結晶と同じエネルギーバンド構造を有する半導体結晶のp
-n接合あるいはp-i-n接合構造だが、量子ドットを用いて、光電変換効率の向上や受光波長帯域の制御などで
より高性能の開発研究が行われている。その1つとして、量子ドット周囲を、量子ドット自身のバンドギャップより
も大きなバンドギャップの障壁層により囲むことで、理論的に電子のフォノン放出によるエネルギー緩和の起こりに
くくキャリアが消滅しにくい構造の研究がなされきたが、量子ドットを集積し量子ドット層を形成した場合、量子ド
ット内に生成したキャリアが、障壁層を含む量子ドット層内に存在する欠陥に結合消滅し、キャリアの密度が低下し、
電極まで到達できる電荷量の低下が起こり、光電変換効率を高められない。

この対策に、量子ドット層と接合層とが交互に積層し、この複数の量子ドット層は、バンドギャップが異なる量子ド
ット層を2層以上で構成し、この量子ドット層内に、量子ドット層の厚み方向に延伸する柱状のキャリア収集部を設
けることでキャリアの集電性に優れ、光電変換効率を高めることができるという構造が提案されている(下図)。


 
上図では、実施形態を部分的に示す断面模式図。ここでは量子ドット層1、3が2層構造のものを例示するが、これ
に限らず。量子ドット層1、3が3層以上も可能。ここで、2層の量子ドット層1、3が、バンドギャップが互いに
異なるとは――2層の量子ドット層1、3間で0.2ev以上の差があることを意味し、接合層5から量子ドット層
1、3の厚み方向に延伸する柱状のキャリア収集部7をもつ。

量子ドット層1の上層側に透明導電膜に相当する導体層9とガラス基板10を設ける一方、量子ドット層3の下層側
には接合層5、支持体11を設けた構成を示している。この場合、ガラス基板10の上面側が光の入射面13a側と
なり、支持体11の下面側が光の出射面13b側となる。図1(a)では、キャリア収集部7と接合層5は一体化構
造を――キャリア収集部7と接合層5とは、異なる材料によって形成されていても良い――示している。なお、光の
入射面13a側のガラス基板10の表面や光の出射面13b側である支持体11の下面には、保護層や反射防止材な
どが設けられる場合がある。

1)実施形態によれば、量子ドット層1、3が2層以上に積層構造のため、量子ドット層1、3により異なるバンド
 ギャップをもつ光吸収層の形成が可能になり、吸収できる光の波長の範囲を広げることができる。
2)これに加え、積層量子ドット層1、3の各層に厚み方向に延伸させた柱状キャリア収集部7をもつことで、量子
 ドット層1、3内に生成したキャリアが、量子ドット層1、3内で消滅する前に、キャリア収集部7により効率良
 く捕獲できる。

 

 


 【中国の思想: 戦国策Ⅱ】 

  ● 目 次

   解題
   秦
   斉
   楚
   趙
   魏
   韓
   燕
   西周・東周・宋・衛・中山 

 

   楚
 姦臣の讒言にあって懐王にうとんじられ、もんもんたる憂国の情を「楚辞」に託してうたった大詩人屈原、かれの仕えた国
 が楚である。楚は当時まだ、"蛮夷の地"だった揚子江流域にあって、荊とも呼ばれた。悼王(在位・前四〇一年
 ~三ハー年)の時代、たまたま魏から亡命して来た呉起(『孫子』と並ぶ兵法の書『呉子』を著す)を登用して、
 内政の改革に乗り出した。しかし、この改革も、悼王の死を契機とする封建領主の巻き返しによって挫折し、呉
 起は。"車裂き"の刑に処せられる。こうして中央集権に失敗した楚は、以後も、広大な国土を持ちながら、国と
 してのまとまりにかけ、次第に領土を侵略され、ついに秦の統一を許したのである。

  「婦人の夫に仕うるゆえんは色なり。しかして妬ひはその情なり」
  「これに与うるは信なり。これを攻ひるは武なり」
  「君のために高く梁に屈するを鳴くを得しむるに意なきか」

 ● 資金調達法

 張儀は楚に遊説して金に困った。供の者が辛抱しきれなくなって、暇をくれといってきた。張儀は「貧乏暮しが
 つらいのなら、しばらく待て。楚王に会って何とかする」といって、かれを引きとめた。その頃、楚では、出府
 と鄭袖の二人が懐王に寵愛されていた。張儀は懐王に謁見した。が、王には張儀をとりたてる気はない。

 「王はわたしにご用がないようですから、北へ行って晋王に会おうかと思いますが」  
 「よかろう」
 「ついては晋の国に何かあなたのほしいものはありませんか」
 「わが国には黄金、玉、犀、象、何でもある。ほしいものなど何もない。」
 「女もいらぬとおっしゃるのですか」
 「というと……」
 「鄭や周の街でみかける女たちの化粧の美しさ、よそから来た者にはヽまるで天女が降り立ったように見えます」
 「なにぶんにも楚は辺鄙な国、中原諸国の美人には縁がない。ぜひ、そうい女を可愛がってみたいものだ」

 王は、その費用として珠玉を与えた。
 南后と鄭袖は、この話を聞いて気が気ではない。南后から張儀のもとに使者がたつ。

 「将軍は近く晋へ行かれるとのこと。ここに金千斤がごずいます。路用の足しにでもしてください」

 鄭袖も金五百斤を贈った。張儀は楚王にお別れの挨拶に伺った。

  「各国とも往来を厳重にしている今日、いつまたお会いできるかわかりません。つきましては、おれの盃を頂戴
    したいと存じます」
  「よかろう」

 王は、盃を賜った。頃あいをみて、張儀はうやうやしく、

 「二人だけでは寂しゅうございます。どなたかお気に入りの方に、お相手を願うわけにはまいりませんでしょう
  か」
 「それもそうだ」

 王は、南后と鄭抽の二人を呼んで、酌をさせた。
 張儀は、またもや、うやうやしく言上した。

 「申訳ないことをいたしました」
 「何ごとか」
 「わたしは全国を歩いて来ましたが、これほど美しい方にお目にかかったのは、はじめてです。そうとは知らず
  美人を求めてまいるなどと、たわけたことを申しました」 
 「よいよい、気にするな。わたしも実は天下にこの二人ほどの美人はおるまいと思っていたのだ」

 

 


● 折々の読書  『China 2049』19


                                  秘密裏に遂行される「世界覇権100年戦略」     

                                                    マイケル・ピルズベリー 著
                                                    野中香方子 訳    

ニクソン政権からオバマ政権にいたるまで、米国の対中政策の中心的な立場にいた著者マイケル・ピルズベリーが
自分も今まで中国の巧みな情報戦略に騙されつづけてきたと認めたうえで、中国の知られざる秘密戦略「100年マラ
ソン( The Hundred-Year Marathon )」の全貌を描いたもの。日本に関する言及も随所にあり、これからの数十年先の
世界情勢、日中関係そして、ビジネスや日常生活を見通すうえで、職種や年齢を問わず興味をそそる内容となって
いる。 


【目次】

  序 章 希望的観測
 第1章 中国の夢
 第2章 争う国々
 第3章 アプローチしたのは中国
 第4章 ミスター・ホワイトとミズ・グリーン
 第5章 アメリカという巨大な悪魔
 第6章 中国のメッセージポリス
 第7章 殺手鍋(シャショウジィエン)
 第8章 資本主義者の欺瞞
 第9章 2049年の中国の世界秩序
 第10章 威嚇射撃
 第11章 戦国としてのアメリカ
 謝 辞
 解 説 ピルズベリー博士の警告を日本はどう受け止めるべきか
     森本敏(拓殖大学特任教授・元防衛大臣)  

 

 第4章 ミスター・ホワイトとミズ・グリーン

                趁火打却(ちんかだこう)――火に趁(つけこ)んで却(押し込み)を打(はたら)く

                                                                     『兵法三十六計』第五計

  1989年4月、わたしはまた北京にいた。北京に来るのはこれでもう13回目だ。当時、わたしはアメリカで
 二つのポジションに就いていた。一つは上院のための調査員。もう一つは国防総省直属の地位で、中国に関する
 報告をまとめ、国防総省の総合評価局に報告するのが仕事だ。その報告書は直接、ディック・チェイニー国防長
 官のもとへ送られていた。わたしの地位は高くなり、1983年には郵小平と長く会談したことさえあった。当
 時のアメリカ大使、アーサー・フンメルを驚かせたのは、わたしが中国語で鄭に、ふたりが握手する姿を写真に
 収めさせてほしいと頼んだことだ。国防総省のために翻訳した、中国の軍嘔記事をまとめた本の宣伝に使うため
 だった(注1)。

  この1989年の訪中では、天安門広場で進行中の学生の示威行動がどのように報道されているかを調べるつ
 もりだった,学生たちは迅速な改革を求めており、それは順調に進んでいるはずだと、わたしたちは思い込んで
 いた、。中国の動向を追うアメリカの人々は、中国では民心化と資本心義化か着々と進んでいて、その流れが逆
 行することはあり得ないと考えていたのだ,
  4月22日、ピーター・トムセン代理大使から、数名の学生と一緒に車で広場へ行くことを許可された(注2)。
 わたし自身、1960年代には学生運動に参加したので、中国で民れ化を求めるデモがどのように実行されてい
 るかを見るのは有益だと思っていた。広場に向かう前、ピーターはわたしに、前任のウィンストン・ロード大使
 が退任する折に、次明大統領、ジョージ・H・W・ブッシュに送った、機密扱いの電報をにせてくれた,

  フォード政権時代に中国大使を務めたこともあるブッシュは、中国との間に建設的な関係を築くことに、ひと
 かたならぬ関心を寄せていた,実際、彼は中国に大いに期待していた,プッシュは1989年2月、大統領とし
 ての最初の外遊で、北京を訪れた、わたしの訪中の2ヵ月前だ..ブッシュは、出立前に両院のa同会議で演説
 し、「民主主義の風が新たな希望を創造し、自由市場のパワーが新たな力を解き放ちつつあります(注3)」と、
 中国に対すろ楽観的な期待を述べた。 
  ロードの電報は、北京での「信頼できる一筋からの情報に基づいて、米中が良好な関係にあることを褒めそや
 していた。だが具体的な内容はといえば、民主的な選挙が中国の村々で始まり、急速に広まりつつあるとか、真
 の自由市場経済を構築し、企業の国営を終わらせるための基盤が整ったとか、北京とモスクワの和解はあり得な
 いといった、聞き覚えのあるデマを繰り返しているだけだった。加えて、中国がリーダーシップをとるようにな
 っても、アメリカの国益にとって脅威とはならず、民主的な統治を求める天安門の学生たちもアメリカにとって
 脅威ではないと、ロードは記していた、

  ロードを弁護すると、それは、わたしも含め、中国を研究するアメリカ人に共通する見解だった。わたしから
 国防総省への報告にもそれは反映されていた,すでに広場には学生のデモ隊が集まっていたが、それでもわたし
 は、彼らの抗議はそれほど憂慮すべきものではなく、6月に学期が終われば学生たちは帰省するだろう、と決め
 込んでいた。ただひとり、大使館職員のラリー・ウォーツェル大佐だけが、学生たちはきわめて真剣だと考えて
 いたようだ。さらに肢は、騒動を治めるために軍が出動することまで予測していた。ウォーツェルはわたしと同
 じく、長年にわたって中国タカ派に多くの情報源を持っていた。つまり彼はタカ派の動向に注意を払っていたの
 だ。後にウォーツェルは、武力による鎮圧という予測は、タカ派の情報によるもので、あの事件はタカ派のほう
 がハト派より指導者の気持ちを理解していた稀な例だったと語った.、

  わたしたちの多くは、学生たちの行動は共産党内部の真の改革者を当惑させるのではないかと懸念していた。
  当時、米国のほとんどの人が信じ、その多くが今でも頑なに信じているのは、中国は改革への道を邁進してい
 るということだ。実のところわたしたちは、中国政府のトップクラスの数名が改革への道を急ぎすぎている、と
 さえ聞かされていた。その人々が数年のうちに収監、自宅軟禁、亡命、国外追放といった憂き目に遭うことにな
 ろうとは思いもしなかった。改革を巡って政局内部に異論があることは知っていたが、誰が何を望んでいるか、
 改革の敵がどれほど強いかという詳細は、わたしたちにはまったく見えていなかった。

  この楽観に水を差すような事実はほとんどなかったが、注意深く見ていれば、確かにそれは存在した。1週間
 前に少し驚かされたことがあった。北京の人民大会堂で胡耀邦の追悼式が行われているさなか、5万人の学生が、
 胡を譜えてデモ行進を行ったのだ,胡は共産党の前総書記で、公には、その「移り気な」性格ゆえに郵小平に退
 けられたと説明されていた(注4)。学生たちと約100万人のデモ参加者はその後、天安門広場に集結し、7
 週間にわたって、演説や報道の自由を訴え、腐敗政治を批判し、より開かれた政府を求めた。彼らは「独立宣言」
 のコピーをかざし、ビルの3階の高さがある「民主主義の女神」を建てた。さらには、ソ連のリーダー、ミハイ
 ル・ゴルバチョフの訪中前夜に、共産党幹部との対話を求めてハンガーストライキを始めた。ゴルバチョフがモ
 スクワに帰るまでに、天安門広場のデモ隊のことは世界に知れ渡り、中国共産党中央政治局にとっては、政局を
 撹乱しかねない大規模で厄介な存在になった。

  アメリカ側は小平を真の改革者と見ていたので、中国の学生がその非公式な抗議行動において、鄭小平では
 なく胡耀邦を讃える讃えるのを不思議に思った。自分たちが胡耀邦を、そして鄭小平をずっと誤解していたとは、
 夢にも思わなかった。

  しかし、わたしの心の奥底には言葉にならない疑問が漂っており、ゆえにデモ隊をこの目で見たいと思ったの
 だろう。ピーター・トムセンとわたしは、ボンネットにアメリカ国旗をはためかせた黒いキャデラックで広場に
 向かった。Tシャツを着た髪の長い数百人の学生たちのほうへ歩いていく時、遮る人は誰もいなかった,わたし
 たちが話しかけた学生は、ハンガーストライキをするとは言わず、共産党をあからさまに非難することもなかっ
 た。わたしは1968年にコロンビア大学でベトナム戦争に反対する「ストライキ委員会」にいた頃のことを思
 い出しながら、パイロット用サングラスをかけ、ひっきりなしに煙草を吸っている男性と、示威行動について語
 り合った。



  その男性の名前は劉暁波、当時は北京師範大学の教師で、抗議行動に参加するために、前日、ニューヨークか
 ら空路で戻ったばかりだった(注5)。コロンビア大学で客員研究者として教壇になっていた彼は、歴史の一部
 になることを望んでいた。20年後、彼は実際に歴史に名を刻むことになる。度々投獄された末に、2008年
 には「零八憲章」を起草した容疑で逮捕された。しかし、2010年にはノーベル平和賞を受賞した。彼の近著
 は、中国の過剰なナショナリズムと軍部の強硬派を真正面から批判している。1989年当時、中国でも西側諸
 国でも、中国政府のタカ派は優勢ではなく、学生に対して武力は決して行使されないという見方が主流だった。

  5月、小平は戒厳令を発令し、北京に25万人の兵士を集結させた。そしてデモ隊が解散を拒むと、戦車と
 兵士を出動させた。おそらくは、武器を持たない数千人の学生たちが街路で死に、多くは殺傷力の高い「開花弾」
 で撃ち殺された,広場を囲むすべての建物が機銃掃射された。兵士はデモ隊の人々を蹴ったり梶棒で殴ったりし、
 戦車が彼らの足や背中を踏み潰しながら進んだ。向かってくる何台もの戦車の前に立ちはだかるひとりの男の写
 真が、虐殺の象徴となった。彼は一群の人々に引き戻され――その後の消息はわかっていない。


開発独裁課程にある政権中枢は、民主化要求を武断拒絶・弾圧に至ることはわたし(たち)はすでに見通していたこ
とはこのブログで掲載してきたが、そこに、ロシアマルクス主義の脆弱性であることも当然折り込み済み。双方が合
意形成(≒政治的妥協)できずに終わることもあるていど想定していた。

                                             この項つづく


注1   Pillsbury, Chinese Views of Furture Warhare. が握手している写真が2ページ目に掲載されている その上.にあるのは
    わたしが写した。著名な強行派で5冊の本の著者である彭光謙将軍の写真だ。
注2  上院委員会の職員兼国防省の顧問としてわたしは1982年以来7年たってピーターの報告に頼ってきた。82年に初めて
   会った時、彼は、北京のアメリカ大使館の分析官のトップだった。
注3 George H.W.Bush.Address on Adnlinistration Goals before a Joint Session of congress, February 9, 1989,以下のサイ
         トで入手可能。http://www.presidency.ucsb.edu/ws/?pid=16660.
注4   James Mann, About Foce,158.
注5   劉暁波は天安門の人虐殺を生き延び、約20年後の2010年、零八憲章と呼ばれる民主化運動を導いた功績により、ノー
         ベル平和賞を受賞した。

                    

      

帝國のロングマーチⅢ

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      教養については、学校や学歴がどうだということとは全然関係ないと思います。


                                                                           吉本 隆明


                                     

                                                 Takaaki Yoshimoto 25 Nov, 1924-16 Mar, 2012 


 【中国の思想: 戦国策Ⅱ】 

 

  ● 目 次

   解題
   秦
   斉
   楚
   趙
   魏
   韓
   燕
   西周・東周・宋・衛・中山 

 

  
   趙

  二千四百年前、黄河中流から太行山脈にかけて栄えていた晋がおとろえ、趙・魏・韓の三氏族がこれを分割した。
 趙は河北省南部から山西省北部を占め、前四〇三年、諸侯としての地位を確立した。戦国中期には一時勢力をふ
 るったが次第に四隣の秦に圧迫され、前二二二年、ついに秦にほろぼされる。河北省耶鄲県の南西四キロにある
 部落が、首部耶鄲のあとだという。

  「士は己れを知る者のために死し、女は己れを説ぶ者のために容づくる」
  「兵はもとより天下の狂器なり」
   「功なきの尊、労なきの奉を特みて、もって金玉の重きを守ること飽かず」
   「その言一なれども、言う者異なれば、人心変ず」
   「国亡ぶるは、賢人なきにあらず、用うること飽わざればなり」

  ●  政治は "きれいごと″ではない

  鄭同が北方に遊説し、趙の恵斑文王に謁見した。王が言った。

 「あなたは、南から来た学者とのこと。ひとつご高見をうけたまわりたい」
 「わたしは南方の田舎者、とても人に教えるどころではありません。しかし、わざわざ、ご引見くださったので
 すから、何か申しあげてみましょう。わたしは、子供のころ、親から軍備について教わりました」
 「せっかくだが、軍備には興味がない」

  鄭同は手をさすり、天を仰いで笑った。

 「もちろん軍備は危険なしろもの。おきらいであろうとは察していました。以前、魏の昭王に軍備の話をしたと
 ころ、やはり面白くないとのご返事でした。わたしはこう申しあげたのです。『許由ならば話は別です。許由も
 軍備の話を聞こうとしなかった。それは、許由が政治とかかわりがなかったからです。しかし、あなたはちがい
 ます。あなたは先代の封地を受けついでいらっしゃる。宗廟を安んじ、領土を守り、社稜(しゃしょく)の祭り
 を絶やさぬことを、望まれないのですか』
  昭王は『むろん、のぞんでいる』とおっしゃいました。
  さて、ある男が随侯の珠と持丘の環、それに数えきれぬ大金を身につけて、ひとりで野宿するとします。この
 男に、孟賁や 成荊、慶忌のような勇気がないばかりか、身を守る弓矢もなかったとしたらどうでしょう。一晩
 のうちに盗賊に襲われるにちがいありません。同様に、いま、隣りが貪欲な強国で、あなたに領土の分割を要求
 してきたとします。こんなとき、軍備がなかったら侵略を防ぐ手段があるでしょうか。隣国の思いのままになる
 ばかりです」

  趙王はうなずいた。

 「たしかにそのとおりだ。お言葉に従いたい」

   〈鄭同〉    鄭の人。
   〈趙の恵文王〉 在位・前二九八~二六六年。趙襄子から九代目の王。「肘剱の交わり」(首をはねられて
           も悔いないほどの友情)で名高い勇将廉頗と菊相如はかれに仕えた。「完璧」という語源
           になった故事もこの時代の出来ごとである。すなわち恵文王が名玉を手に入れたところ、
           強国・秦の昭襄王がだましとろうとした。
           そこで萌相如が使者となって秦にのりこみ、無事に名玉をもちかえった(この故事は『史
           記』にくわしい。           い)。
   〈許由〉    堯が天子の位をゆずろうとしたが受けず、潁水(えいすい)で耳を洗ったという。伝説
           の人物。

 《解説》 "再軍備論"の論拠によく引用される一節だが、むしろ、腹とは別に君子づらをしている王にたいする
      皮肉の意味に解せるだろう。

「兵固同天下之狂器也」つまり、「兵はもとより天下の狂器なり」である。"秦"を中華人民共和国、"趙"を日本とし
仮定し、"鄭同"があなたならどのように説くだろうかと想定するのも面白いほど急迫した現実がそこにある。わたし
なら墨子に見習い、反帝國邦連外交を促進し、侵略の不合理さを中国に説き二国間協議を求めながら、トランプ大統
領候補に言われるまでもなく、THAAD(Terminal High Altitude Area Defense missile)を超える、国産のミサイル防御システ
ムを開発配備し、粘り強く解決の糸口を模索するだろうか。


Terminal High Altitude Area Defense missile

 

 

 


● 折々の読書  『China 2049』20


                                  秘密裏に遂行される「世界覇権100年戦略」     

                                                    マイケル・ピルズベリー 著
                                                    野中香方子 訳    

ニクソン政権からオバマ政権にいたるまで、米国の対中政策の中心的な立場にいた著者マイケル・ピルズベリーが
自分も今まで中国の巧みな情報戦略に騙されつづけてきたと認めたうえで、中国の知られざる秘密戦略「100年マラ
ソン( The Hundred-Year Marathon )」の全貌を描いたもの。日本に関する言及も随所にあり、これからの数十年先の
世界情勢、日中関係そして、ビジネスや日常生活を見通すうえで、職種や年齢を問わず興味をそそる内容となって
いる。 


【目次】

  序 章 希望的観測
 第1章 中国の夢
 第2章 争う国々
 第3章 アプローチしたのは中国
 第4章 ミスター・ホワイトとミズ・グリーン
 第5章 アメリカという巨大な悪魔
 第6章 中国のメッセージポリス
 第7章 殺手鍋(シャショウジィエン)
 第8章 資本主義者の欺瞞
 第9章 2049年の中国の世界秩序
 第10章 威嚇射撃
 第11章 戦国としてのアメリカ
 謝 辞
 解 説 ピルズベリー博士の警告を日本はどう受け止めるべきか
     森本敏(拓殖大学特任教授・元防衛大臣)  

 

 第4章 ミスター・ホワイトとミズ・グリーン

 

                趁火打却(ちんかだこう)――火に趁(つけこ)んで却(押し込み)を打(はたら)く

                                                                     『兵法三十六計』第五計


  天安門の後、中国の改革家の多くは、終生の自宅軟禁を宣告されたが、党のシンクタンクの高官のなかには
 西側へ亡命した人もいた,政府による検閲は強化された。新聞や歴史書からこの抗議行動に言及する部分を削
 除するのが主な目的だった。政治学者の裴敏欣によると、虐殺から1年もたたないうちに、中国政府は「全新
 聞の12パーセント、社会科学系の定期刊行物の13パーセント、中国にある534の出版社の76パーセン
 ト」を閉鎖した(注6)。また、3200万冊の書籍を押収し、150本の映画を上映禁止にし、メディアを
 通じて活動した8000人を罰した(注7)。

  こうした恐ろしい出来事にもかかわらず、アメリカの対中政策は、すぐには変わらなかった。連邦議会はト
 ムセンの後継者であるジェームズ・リリー大使の召還を検討し、米中関係を変化させようとしたが、ブッシュ
 大統領はそれを懸命に阻止した(注8)。代わりに彼は、かつてのボス、リチャード・ニクソンの「関係を中
 断してはならない。起きたことは手際が悪く、遺憾でもあるが、長い目で見なければならない」という助言に
 従った,ブッシュの日記によると、ニクソンは「中国とは長期にわたってよい関係を維持すべきなので、貿易
 を停止したり、それをにおわす行為をするべきではない」と考えていた(注9)。ブッシュは大安門に集まっ
 た学生たちを「ありがちなデモ隊の一例にすぎない」と呼んだ(注10),

  しかし、いつもと同じく、中国の見方は違っていた。鄭小平にとって中国で起きた学生運動は、かねてより
 著名なナショナリストが警告していた、民衆の問で親米感情が高まるという危険だけでなく、アメリカが中国
 にもたらしたダメージを体現するものだった。言うまでもなく鄭は、西側の譲歩を得るために、親米感情の表
 出を大目に見てきたが、どうやらたがを緩めすぎたらしいと感じたに違いない。
  中国の過激なナショナリスト(タカ派)は、1980年代初期にはすでに、アメリカの生活様式や文化を、
 中国を破壊する「精神的汚染」と見なす思想集団を築いていた。アメリカは世界的な消費文明を創出し、世界
 を支配しようとしていると、彼らは確信していた。この思想集団の中心的な伝導者である力群と胡喬木は、
 人民解放軍と政治局に支持者を得た(注11)。

  小平はこの過激な反米集団のメンバーではなかったが、こちらが考えてい鄭小平はこの過激な反米集団の
 メンバーではなかったが、こちらが考えていた以上に、彼らに共感していたようだ。北京や他の主要都市で学
 生たちが蜂起したことは、国のどこでも共産党は絶対的に正しい存在だと信じきっていたと他のリーダーを
 驚愕させた。党内部では、あのような抗議行動が起きたのは、共産党打倒を目論むアメリカが、心理作戦を実
 行して導いたからだと説明されるようになった,本来、偏執的だったは、この偽りの主張を信じ、アメリカ
 が、「宣伝組織を活用して、中国のいわゆる民主活動家、いわゆる反体制派、実のところは国の屑を扇動し、
 けしかけ、その気にさせた」と書いている(国司),男はアメリカが中国共産党を打倒しようとしていると本
 気で信じていたのだ,

  天安門事件が自由化への潮流の崩壊を招こうとは、誰も予想していなかった。直後には保守派のひとり、
 江沢民を総書記に任命し、天安門事件を機に、ナショナリストが主張する「精神汚染」という論理を利用する
 ようになった(注13)。そして、李鵬、胡喬木、力群といった強硬派の役割を強化し、人民解放軍と政治局
 にいた改革志向の人々を、組織的に追放しはじめた。多くのアメリカ人に衝撃を与えたのは、改革派の党の指
 導者、趙紫陽が終生の自宅軟禁に置かれたことだ。20年後、コロンビア大学の政治学が‥アンドリュー・ネ
 イサンが、謎に包まれた方法で趙の回想録を人手し、出版した。その回想録には、当時のわたしたちは知らな
 かった圧倒的に不利な状況で、彼がいかにして強硬派に立ち向かい、真の改革を実現しようと苦闘していたか
 が綴られている(注14)。

  ブッシュ政帳内の中国支持者は、一連の成り行きを、できるかぎり肯定的に捉えようとした。わたしもその
 ひとりで、次のように思い込んでいた。趙紫陽の軟禁は一時的な後退にすぎない。中国は依然として民主化の
 途上にある。この追放は過剰反応だ。わたしたちは鄭小平率いる「穏健な」派閥を保護しなければならない。
 は米中が乗った船を正しい航路に戻すだろうし、船は今後も凪いだ海を穏やかに進んでいくだろう、と。
  何かが変わったことをわたしたちは知っていたが、それが永遠には続かないことを、ひたすら望んでいた。

  今になって、自分の単純さが悔やまれる。優れたアナリストなら、一つにすべてを賭けたりしない,少なく
 とも、物事がうまくいかない可能性、例えば改革派と反対派との対立が壊滅的な結果を迎え、真の改革者が自
 宅軟禁になるか、あるいは追放され、アメリカから中国への武器輸出がキャンセルされるシナリオをいくらか
 は想定するものだ。アメリカの最高機密に接していた人々は皆、冷戦時に諜報部門が犯した失敗の数々につい
 て知っている。CIA初の「国家情報評価」は、中国の主張に基づいて、中国は朝鮮戦争に介入しないと断言
 したが、その数日後に中国は介入した。1962年にCIAは、ソ連はキューバにミサイルや核兵器を配置し
 ないと予測したが、それは、そんなことをするつもりはないというソ連幹部の嘘を、CIAのアナリストが真
 に受けたからだった,1979年には、CIAの最高位の分析官ロバート・ボウイが連邦議会において、イラ
 ンの皇帝は権力を維持しており、アヤトラ・ホメイニがそれを奪取する見込みはなく、イランは安定している
 と証言した(注15)。多数の情報源によるものだったが、これも誤りだった。

  1980年代にCIAあるいは国防総省でわたしと一緒に働いたスタッフの中に、中国がアメリカをだまそ
 うとしているとか、諜報上の重大な失策を招く恐れがある、と考えていた人はいなかった。それは無理もない
 ことで、当時はあらゆる情報源と亡命者が、中国は自由巾場経済、選挙制、アメリカとの協力拡大の途上にあ
 る、と語っていた。けれども、天安門後、中国からの亡命者は増える一方で、彼らは何か起きようとしている
 かを警告し、祖国の未来について、これまでとは異なる暗い声で語りはじめた。その時になってもなお、わた
 したちは彼らに耳を傾けようとしなかった。

  一人の亡命者は、少なくともわたしの考えでは、突出していた。高位の亡命者にしては、要求はいたって控
 えめで、国による庇護、新しい名前、家、妥当な給与の仕事、そしてもちろん、彼は死んだと中国の情報部に
 信じさせるための作り話を求めただけだった。通常、亡命者は多くを要求し、特に、かなりの金を得ようとす
 る。また、自分は誰よりも重要な秘密を知っていると言い立てるものだ。しかし、この落ち着きのない小太り
 の男は違った。要求が少ないというだけでなく、わたしたちの常識とアメリカのこれまでの政策を完全に否定
 するようなことを、彼は語った。

  わたしはその男性(ミスター・ホワイトと呼ぼう)と、1990年代初めにペンシルバニア・アベニューに
 あるFB1本部ビルの8階にある国家安全保障会議室で開かれた会合で初めて会った。その会合は異例で、政
 府のあらゆる部門の中国専門家が、数名の亡命者の秘密情報を評価するために呼ばれていた。コーヒーブレイ
 クはあったが食べ物は出されず、1時間の予定だった会合は3時間に及んだ。
  ミスター・ホワイトは、重要な評価対象のひとりだった。秘密を語るとき、視線が泳ぎ、指が震えたが、そ
 れを除けば、信用できるように見えた。彼は、アメリカにいる数名の中国人スパイ、中国の指導者が用いる会
 議室のレイアウト、機密扱いの電話システムについて語ったが、それらの情報は正しかった。また彼は、わた
 したちが既に人手していた中国の機密文書を、偽の文書の中から見つけ出すことができた。嘘発見器による検
 査にもか格した,だが、問題は、彼が提供した新しい情報だった,わたしたちはそれを信じなかった,

  ミスター・ホワイトによると、1986年から89年までの3年間、今後の戦略を巡って政治局内で権カ闘争
 が起きたそうだ。高位の秘密会議の記録を読んだと彼は主張し、タカ派の力と、親米感情を徹底的に排除しよ
 うとする取り組みについて語った。天安門事件は中国の安定を揺るがした。男小平は今、こうしたタカ派の側
 にいるという。ミスター・ホワイトは、あるタカ派集団の役割と、彼らがどのようにしてハト派を制圧したか
 を知っていた。それでも彼は、アメジカはどうにかして真の改革者を助けるべきだと訴えた。わたしにとって
 うれしいことに、彼は、アメリカは中国内部の駆け引きに通じており、改革者を助けることができる、と考え
 ていたのだ。

  にはタカ派が奉じるナショナリズムを普及させる、さらに大胆な計画があったと、ミスター・ホワイトは
 語った。中国共産党がこれまで数十年にわたって、儒教文化や、少しでも宗教色のあるものを攻撃してきたこ
 とを踏まえたうえで、いかにして孔子を国の英雄として復活させるかを話し合う秘密会議に、彼は出席したこ
 とがあった。
  言うまでもなく、全体主義の中国において、指導者が歴史の書き直しを命じるのはそれが初めてではない。
 1949年に共産党が政権を握ると、中国の歴史学者のチームは、すべての進歩は農民の反乱に由来すること
 を強調するべく、中国の歴史を書き直したが、歴史学者のジェームズ・ハリソンはそれを「人類史上、最も大
 規模なイデオロギー再教育の試み」と呼んだ(注16)。だが、ミスター・ホワイトが述べたこの最近の変化は、
 あまりにも劇的で信じがたかった。中国の歴史からの脱出を一貫して訴えてきた共産党が今になって、歴史を
 利用するつもりなのか。政府を存続させるために、共産主義のイデオロギーを静かに捨て去り、度を超したナ
 ショナリズムを掲げようとしているのか。赤い中国は、もはや赤くないのだろうか。それらはすべて、信じが
 たいことだった。

  ミスター・ホワイトの状況を複雑にしているのは、彼が提供した情報が、その働きを長く評価されてきたF
 BIの女スパイ(ミズ・グリーンと呼ぼう)が同時期に提供していた情報と相反するという事実だった。彼女
 が求める報酬は、200万ドルとはるかに高額だったが、妓女が情報源と称するもののレベルも高かった。自
 分は政治局だけでなく、郵の後継者として共産党紀書記の地位に就いた江沢民をよく知っており、そこからの
 情報だと言うのだ。郵は依然として親米の立場を維持しており、江は輪をかけて親米派だと、彼女は主張した。
 江は英語でエルビス・プレスリーの歌を歌って楽しんでいると言われていた。大安門の虐殺後、中国はアメリ
 カとさらに密接に協力することを望むようになったと彼女は言い、孔子が賞賛されるとか、マルクス主義教育
 が教育カリキュラムから外されるというようなことはあり得ないと笑った。そして、タカ派は非主流の年寄り
 ばかりで、力はあまり持っておらず、それも急速に失いつつある、と断言した。

  はたしてミズ・グリーンは信用できるのだろうか。ミスター・ホワイトと違って、彼女は、アメリカ内の中
 国のスパイの名前も居所も明らかにせず(あるいは明らかにできず)、中国人スパイを写真から見つけること
 もできなかった。党の上級幹部が用いる北京の秘密トンネルの長さも知らなかった。さらには、中国の機密文
 書を偽の文書と見分けることもできなかった。しかし、たどたどしい英語しか話せないミスター・ホワイトと
 追って、ミズ・グリーンは流暢に英語を話した。そして大半の政策に関する米中の協力を、ひたすら楽観して
 いた。さらには、中国人との再会をひどく恐れているらしいミスター・ホワイトと追って、危険を覚悟の上で、
 年に一、二度、新鮮な情報を得るために中国に飛行機で帰っていると彼女は言った。

  わたしは、このふたりの亡命者を、政府のお抱えにしておくことを主張したが、同原たちは同意しなかった。
 アメリカの情報コミュニティは一致した見解の上に成り立っており、米中関係に関するこの見解の対立は、厄
 介だった。正しいのはミズ・グリーンだ。わたしたちは彼女を信じることにして、要求する金額を支払った,
  最初の会合からほどなくして、わたしは肖びミスター・ホワイトに会う手はずを整えた。彼の言葉を信じた
 わけではなかったが、好奇心をそそられたのだ。彼とわたしは中国語で話した。国のイデオロギーと教育カリ
 キュラムからマルクス主義を外すという一見途方もないアイデアが真実であるなら、中国はそれをどうやって
 実行するのだろう、とわたしは尋ねた。

  ミスター・ホワイトは、無害な響きの「愛国教育」カリキュラムを創設する計画について聞いたことがある
 と答えた。全国に100ヵ所の「愛国教育」拠点、新しい歴史記念碑、観光用の新しい博物館を建設しようと
 いうのだ。また、中国の指導者たちは、テレビやラジオ、映画に資金提供して、中国が日本やアメリカといっ
 た外国に苦しめられてきた過去を、「国辱の世紀」としてまとめることを計画した。そうした番組や映画は複
 聴者の民衆に、アメリカは躍起になって中国を手に入れようとし、中国がかつての栄光を取り戻すのを妨害し
 ようとしたと訴えた。

 「天安門広場に集まった若者やインテリは、アメリカに恋していました」と、彼は言った。
 「あのようなことは、二度と起きてはなりません。だから中国の指導者はアメリカを中傷し、西側諸国による
 屈辱を終わらせ、往時の勢いを取り戻そうとしているのです」
 「一石二鳥ですよ]と言って、彼は話を結んだ。西洋の諺だが、中国にも同じ意味の諺がある。
 「二鳥とは何のことですか」とわたしは尋ねた。
 「一番目の鳥はソ迪です。もはやソ連の脅威は存在しません]
 彼は答えた,
 「ソ連が崩壊したので、中国はアメリカに守ってもらう必要がなくなりました」
 では、二番目の鳥とは何か。それはアメリカだと彼は明言した。彼は「覇]という言葉を口にし、「勢はシフ
 トしています一と言い添えた。

注6.  Minxin Pei, From Reform to Revolution: The Demise of Communism in China and the Soviet Union(Cambridge, MA:
           Harvard University Press, 1994)、152.
注7.  同上
注8.  George H. W. Bush, diary entry,、June 5. 1989、in Georgc H.W.Bush and Brent Scowcroft. A World Transformed (New
          York: Alfred A. Knopf),98.
注9.  同上
注10.George H.W.Bush.Mcmorandum of Conversation、 Suhjcct: "Meeting with Wan Li. Chairman of the Standing Comm-
           ittee of  Nation People's Republic of China," May 23, 1989.  2:30 p.m. -3:45 pm., Oval office、Cabinet Room. and Re-
           sidence,以ドのサイトで入手可能。 http://www2.gwu.edu/~nsarchiv/NSAEBB/NSΛEBB16/docs/doc07.pdf.
注11.1992年の胡喬木の死は、ニューヨーク・タイムズ紙を含め、国際的に報道された.,“Hu Qiaomu, a Chincsc Hard-
           Liner,ls Dead at 81,” New York Times, September 29, 1992, 以下のサイトで入手可能,
           http://wwww.nvtimes.com/1992/09/29/obitu;1rics/hu-qiaomu-a-chinese-hrd-lincr-is-dcad-at-81.html
注12.Deng Xinping. Selected Works, Volume III (1982-92)(Bdjing:Rcnmin chubanshc. 1983).108.
注13.Ezra vogel,Deng Xiaoping and the Transformation of China(Cambridge,MA: Harvard university Press,2012),659-63
注14.Zhao Ziyang,Prisoner of the State: The Secret Journal of Premier Zhao Ziyang, trans. and ed. Bao Pu, Rcnee Chiang.
    and Adi lgnatius (New York: Simon & Schuster,2009). 同書において、編者は「趙紫陽の回想録が出版されるまで
           には、中国の政界内部にいた何人もの匿名の人物が、多大な危険を覚悟のトで、趙紫陽の秘密のテープを保管し、
           安全に国外に持ち出した」と述べている(306)。
注15.Robert L. Jervis, Why Intelligence Fails: Lessons from the Lranian Revolution and the Iraq War (Ithaca, NY: Conell
           University Press, 2010),15.p25でジャーヴィスは、彼が調べた情報活動失敗の四つの主な理由の一つは、「ナショ
           ナリズムとその双子である反米主義の役割を見落とし、誤解したことだ」と説明した。
注16. James P. Harrison, The Lomg March to Power: A History of the Chinese Communist Party, 1921-72 ( Bethesda, MD: 
            International Thomson Publishing, 1972). 

                                                                                                                                この項つづく



● シェールオイル採掘に暗雲

目が離せませんなぁ~。

● シャープ 有機ELディスプレーで経営立て直し

敢えてコメントなしのコメントですね。^^;

 


 

 

 

 

オールバイオマス時代

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        左翼とは何かを探しつつあるものだけが左翼なのだ。         吉本 隆明


                                     

                                                 Takaaki Yoshimoto 25 Nov, 1924-16 Mar, 2012 




● エイプリルフールにM6.1の長周期地震動

昼前、三重県沖を震源とする地震があった。それも忘れもしない、5年前の東日本大震災当時の長周期地震動
のように大きな横ゆれが続く。たまたまNHKの衛星放送を見ていたときで、緊急地震警報が発令し、しばら
くすると彼女から詳細を問い合わす携帯が入る。和歌山沖の陣だよと返事する。震度4の揺れを観測。正確に
言うと、午前11時39分ごろ、三重県南東沖を震源とするマグニチュード6.1の地震。 今回の地震は陸側
のプレートに海側のプレートが沈み込んでいるプレート境界で起きたもので、12年前の9月にも大きな地震
が起きている。震源は72年前に発生した昭和の東南海地震の震源域よりはやや南側で、南海トラフで想定さ
れる巨大地震と直接関係するかは分からない。先回はマグニチュード6から7前後の比較的規模の大きな地震
が相次いで発生しているので、しばらくは強い揺れを伴う地震が起きるおそれもあるとのことだ。 



念のため、JESEAの3月30日付のメルマガ予測を確認すると、レベル3の震度5以上の地震の起きる可
能性が高い――南海・東南海地方東北・関東の太平洋岸、奥羽山脈周辺北海道北部周辺釧路・根室・えりも周
辺鳥取県・島根県周辺――とある。まぁ~多角的な検討が必要だが、備えを見直すことに。枕元にはスニーカ
ー、ブレーカー遮断、ガス栓を締める、防災備品の点検・・・。こんな地震・火山大国に終末処理法も決まっ
ていない原子力発電施設が50箇所(原子炉基数)強もあるなんて、いかにも、時代感覚、バランス感覚が悪い。


 

【ちょっとだけ量子ドット工学講座2】 

 

量子ドットは無機及び無機化合物だけでなく、フラーレンのC60などの有機化合物も含まれる。下図の公開特
許はその典型例で、カーボンナノチューブにP型有機半導体を蒸着さるだけでは太陽電池の変換効率を高める
ことができないのでカーボンナノチューブ表面に量子ドットC60を蒸着させ、P型有機半導体(P3HT:ポリ(
3-ヘキシルチオフェン-2,5-ジイル)を蒸着後。溶剤アニール処理し残留応力を除去し変換効率を高める方法特
許を開示している。

 
US 9293720 B2  Carbon nanotubes as charge carriers in organic and hybrid solar cells



以上、黒い有機半導体太陽電池が実用化できれば、エネルギーフリー時代は実現する。これど『デジタル革命
渦論』である。下節の熱電発電シートもそれである。これらはすべて、ネオコンバーテックで製造するという
ものである。これは自慢話のようになってしまうねぇ~。

 

【耐久性のあるカーボンナノチューブの熱電変換シート】

人の体や車の配管などに貼り付け、温度差を利用して発電する「熱電発電シート」の耐久性を実用可能な水準
まで高めることに成功したと、奈良先端科学技術大学院大学の河合壮教授らの研究チームが発表。それによる
と、世界最高水準の発電性能と耐久性もつフレキシブルな熱電発電(温度差発電)シートとなる。特に高耐久
の問題改善に、材料のカーボンナノチューブに食塩などを添加することでり、出力特性が従来の約3倍に向上
150℃の温度で1ヶ月以上の性能保持を実現。

このプレスリリースの前に、ブログで特許公開を掲載(『最新ナノ電子工学:熱電変換素子の場合』2016.03.
07「最新ナノ熱電変換素子技術」)している(下図クリック参照)。これまで、導電性高分子がフレキシブル
なプラス型(p型、低温側がプラスに帯電)の熱電材料として注目されてきたが、実用的な高効率発電のため
には、高性能で耐久性のあるマイナス型(n型、低温側がマイナスに帯電)熱電発電材料を開発、これらを組
み合わせて双極型熱電発電シートを実現する必要があった。

まず、母材である単層カーボンナノチューブに食塩(NaCl)などのアルカリ金属塩と、クラウンエーテルとい
う有機化合物を添加したところ、単層カーボンナノチューブが高性能のマイナス型(n型)材料になることを
発見する。その結果、従来の方法で調整したマイナス型カーボンナノチューブに比べて、電力特性がおよそ3
倍になり大幅に向上する。

さらに、このタイプのカーボンナノチューブ複合体の熱電発電特性をもとに一般的な双極型熱電変換素子(上
図1(B))に適用した場合の出力電圧を推定したところ、プラス型(p型)材料のみを利用した場合に比べて
2倍以上に増強されることが判明。これはカーボンナノチューブがマイナス型(n型)になったことによる。

 特開2016-009851

先進国で消費されるエネルギーのうち約3分の1が未利用で排熱――この1%でも回収できれば、地球温暖化
の抑制や省エネに大きな効果が見込め、火力・原子力発電所や自動車の排熱などがあり、温泉や私たちの人体
そのものもエネルギー資源である――の80%以上は200℃以下であり、大概は分散し、タービンを回して
発電するような従来型の発電技術によるエネルギー回収は困難であったが、今回の発明の特徴は(1)マイナ
ス型有機材料で世界最高水準の耐熱性と発電出力性能をもっている。(2)従来の熱電モジュールとほぼ同等
の電力を出力できる。(3)従来の熱電モジュールにないフレキシビリティや耐衝撃性を備え、有機系熱電発
電シートとして百℃以上の高温でも高い安定性を示すという3つである。

● オールバイオマスシステム完結論 Ⅹ

わたし(たち)がここで注目するのは、日本の「オールバイオマスシステム」(事業プラットホーム)の実現
が加速することである(『オールバイオマスシステム完結論 Ⅸ』/「ようこそ!スマートキャンティへ」2016
.01.23)。例えば、木屑をバイオエタノール発酵製造工程の特殊な発酵室投入し発酵熱を熱電変換パネルで直
接変換するか、熱電反感チューブで熱媒体を通して間接変換すれば、燃焼することなく、エタノールなどの有
機溶剤を製造し発電できるので、(1)バイオ燃料やバイオプラスチックなどが製造可能な上に、(2)従来
法よりダウンスペーシングなスマートな発電システムとなる。まぁ、これは、わたし(たち)の独自の事業開
発特許に該当することですが。


  ● 大紫羅欄花

メールで「通勤途中の道端にショカッサイが咲き競い、春の到来を告げています」と文が目に入る。ショカッ
サイとは、ハナダイコン、ムラサキハナナ、オオアラセイトウと解説している。何だ、ハナダイコン、あるい
は、ムラサキハナナ(紫花菜)のことかと少し驚く。ショカツサイ(諸葛菜)とも呼ばれは、諸葛孔明にちみ
孔明は大軍を率い野営するときこの種子を用意し、兵士の野菜を栽培させ食用に供したことに因むが、野菜と
食せばカロチンやビタミンCを含んでいるが調理方法は不詳、ただ、シードはリノール酸系の種子油として生
産されているようだが、道端に咲く春告げ花として愛でたい。生憎のPM2.5の基準値オーバーの曇天日和
だったが、タイム-コモンタイム、サフラワー、クミンの3つのハーブの種を捲く。

  ● 今夜の一曲

ジェロが舟木一夫の「高原のお嬢さん」の歌をカバーしていることを偶然テレビでみる。それと同時に、上司
だった人のことを思い出していた。歌が上手く時折懐かしい青春歌謡曲を歌っていたのだが、退職後の彼の身
の回りの出来事などが去来し侘びしさと切なさが押し寄せて来るとともに、学生時代の記憶も思い出され、複
雑な気分にもなった。さて、ユーチューブで再生して聴くがオリジナルはもちろんカバーも趣があり、懐かし
さにしばし溺れる。 

 

帝國のロングマーチⅣ

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           ぼくはきみたちの標本箱のなかで死ぬわけにはいかない。     


                                   吉本 隆明『その秋のために』


                                     

                                                 Takaaki Yoshimoto 25 Nov, 1924-16 Mar, 2012 

 

 

 

● ロ-リングストーズ・イン・キューバー

 



The Rolling Stones are coming to Cuba!

 

さすが、ヘミングウェイが愛したキューバ。何でも気楽に受け入れる国柄。キューバ危機はいまや隔世の感。劇的に変わっ
ていくのだろうか?所得格差や環境破壊や犯罪がだけがガン細胞のごとく浸潤していく社会になっいくのか?そんな心配
事はさておき50万人の観客が熱狂する。 


 【中国の思想: 戦国策Ⅱ】 

  ● 目 次

   解題
   秦
   斉
   楚
   趙
   魏
   韓
   燕
   西周・東周・宋・衛・中山 

 

   魏

 中原にあって"天下の枢(くるる)"と称された魏は、戦国初期、他国に先がけて国内の改革に着手した結果、当
 時最強の国にのしあがった。最初、安邑に都したが、前三六一年、大梁に遷都してからは、"梁"とも呼ばれる
 ようになった。中原は文化も開けていたが、反面、戦乱に巻き込まれる回数も少なくなかった。魏はそれで急
 速に国力を消耗する。とくに決定的な損害を受けたのは、斉に大敗した「馬陸の戦い」(前三四一年)である。
 その翌年には、商君の率いた秦の軍にも敗れ、時代の指導権を秦、斉にあけわたした。

 「悖(もと)れる者の患(うれ)いは、まことに悖らざる者をもって悖れりとなすにあり」
 「王の動いよいよ数(しばしば)せば、王を離るることいよいよ遠からのみ。楚に至らんとして北行するがご
 とし」
 「天子の怒りは、伏屍百万、流血千里なり」


  ● 無茶な話

 魏の公叔痤(こうしゅくざ)病む。恵王往きてこれに問いて曰く、「公叔、病もし諱むべからずんば、まさに
 社稜をいかんせんとする」。公叔痤対(こた)えて曰く、「痤に御庶子(ごきょし)・公孫鞅(こうそんおう)
 あり。願わくは王、国事をもってこれに聴け。もし聴くこと能わずんば、境を出でしむるなかれ」。王応えず、
 出でて左右に謂いて曰く、「あに悲しからずや。公叔の賢をもってして、寡人に、必ず国事をもって鞅に聴け
 と謂う。悖らずや」。公叔痤死す。公孫鞅これを聞きて出奔し、西して秦にとく。孝公受けてこれを用う。秦
 果して日にもって強く、魏、日にもって削らる。これ公叙の悖れるにあらず、恵王の悖れるなり。悖れる者の
 思いは、まことに悖らざる者をもって悖れりとなすにあり。

  大秦帝国


 〈公叔座〉 魏の功臣で、宰相の地位にあった。公孫骸の才能を見込み、いずれ恵王に推薦するつもりで自分
 の手元に引き留めておいたのである。このころが魏の全盛時代で、これ以後魏の勢力は下降線をたどって行く。


 〈公孫鞅〉 のちの商君。衛の国王の一族、衛鞍ともいう。かれが魏を出奔したことによって、かれ自身の運
 命だけでなく、その後の歴史を大きく変えた。すなわちかれはこのあと秦に行って孝公に仕えるが、そのとき
 行なった改革は"商君の変法"といわれ、法治主義の立場に立って、強力な中央集権国家をつくりあげたもので、
 後年、秦が富強をなす礎石となった。しかし、あまりにも厳しく法を執行したので、人々の恨みをかい、次の
 恵王の代に、謨言にあって車裂きの刑に処せられる。前三三八年のことである。

 

 


● 折々の読書  『China 2049』22 


                                  秘密裏に遂行される「世界覇権100年戦略」     

                                                    マイケル・ピルズベリー 著
                                                    野中香方子 訳     

ニクソン政権からオバマ政権にいたるまで、米国の対中政策の中心的な立場にいた著者マイケル・ピルズベリーが
自分も今まで中国の巧みな情報戦略に騙されつづけてきたと認めたうえで、中国の知られざる秘密戦略「100年マラ
ソン( The Hundred-Year Marathon )」の全貌を描いたもの。日本に関する言及も随所にあり、これからの数十年先の
世界情勢、日中関係そして、ビジネスや日常生活を見通すうえで、職種や年齢を問わず興味をそそる内容となって
いる。 


【目次】

  序 章 希望的観測
 第1章 中国の夢
 第2章 争う国々
 第3章 アプローチしたのは中国
 第4章 ミスター・ホワイトとミズ・グリーン
 第5章 アメリカという巨大な悪魔
 第6章 中国のメッセージポリス
 第7章 殺手鍋(シャショウジィエン)
 第8章 資本主義者の欺瞞
 第9章 2049年の中国の世界秩序
 第10章 威嚇射撃
 第11章 戦国としてのアメリカ
 謝 辞
 解 説 ピルズベリー博士の警告を日本はどう受け止めるべきか
     森本敏(拓殖大学特任教授・元防衛大臣)   

 第4章 ミスター・ホワイトとミズ・グリーン

                 趁火打却(ちんかだこう)――火に趁(つけこ)んで却(押し込み)を打(はたら)く

                                                                     『兵法三十六計』第五計 

  ニクソンが1972年に対中交渉を始めて以来、アメリカは、中国に対する立ち位置を変え、それほど薔薇
 色でもない光の中で中国のリーダーシップを見つめ直す機会を得た。しかし、アメリカ政府はその機会を生か
 そうとせず、安定した米中関係をできるだけ早く取り戻そうとした。学生たちが虐殺され、リベラルな改革派
 が排除され、穏健派のトップが失脚した後でさえ、ブッシュ大統領は以前からの誤解にしがみついた。自宅軟
 禁に置かれているかつての改革派指導者、趙紫陽や、趙に先立つ機知に富む指導者、胡耀邦を讃えようとする
 人は、アメリカ政府にはいなかった。両者がそれぞれ亡くなった時も、アメリカ政府はその悲運を嘆こうとは
 しなかった。彼らこそ真の改革者だったのでは、と推測する人はいなかった。そもそも、彼らがトップにいた
 時に進めようとした改革の内容を誰も知らなかった。その情報は後に、かつて胡と趙のもとで政治の民乳化に
 取り組んだ亡命者によってもたらされた。

  当時のわたしは相変わらず、小平と江沢民は真の改革者だと思っていた。だがまもなく、偽の改革者を支
 援し、真の改革者を事実上見捨てたことは、アメリカにとって取り返しのつかない過ちだったことを悟った。
  報告を完全なものにするため、わたしはパリに派遣された,逮捕を逃れ、フランス政府に保護されている多
 数の党幹部に会って話を聞くためだった。彼らは天安門事件の後に国外に亡命し、反体制組織を築いて、「民
 主中国陣線」と命名した。民主中国陣線は、10カ条の綱領を採用し、亡命政府として西側諸国に受け入れら
 れることを夢見て指導者を選出した。しかし、ブッシュ大統領は、その組織も、10カ条も、その指導者の厳
 家其も無視した。厳は回想録の中で、政治改革を求める苦闘や、アメリカ式のシステムを採用しようとする努
 力について、詳しく述べている(注17)。嚴は趙紫陽直属の部下であり、彼の記述は別の亡命者で、胡耀邦直
 属の部下だったk銘の回想録の内容と一致する(注18)。だが、彼らの声はあまりに小さく、また、アメリカ
 に届くのがあまりに遅かった。結局のところ、鄭小平はフォード、カーター、プッシュ大統領をもてなし、タ
 イム誌の表紙を二度飾った。ミズ・グリーンによると、が選んだ後任者は、エルビス・プレスリーの歌まで
 歌うという。

 「民主主義の力は、天安門広場での不幸な出来事を乗り越えると確信する」と、ブッシュ大統領は語り(注18)
 さらには国防総省に中国への魚雷、レーダー、その他、契約済みの軍需品の出荷を命じた。ニクソンの中国政
 策と深く関わっていたため、ブッシュには中国を新たな光の中で見ることができなかった,その立ち位置をア
 メリカのピジネスリーダーはよしとした。彼らは、いずれ世界最大の市場になるはずの中国とのつながりを深
 め、ピジネスの機会を拡大することを熱望していたからだ。

  中国の「擁護者]というブッシュのスタンスを、後任のビル・クリントンは痛烈に非難した。1992年の
 大統領選でクリントンは、就任した暁には、中国に対し、ブッシュより厳格な姿勢をとると約束した。そして、
 ブッシュに勝って大統領になると、アイゼンハワー、ケネディ、ジョンソン以来、どの大統領より強硬な対中
 路線を敷いた。
  クリントンは、中国を訪れたことがなく、アーカンソー州知事時代に、四度、台湾を訪れている。大統領選
 のさなかには、「ブッシュ大統領は北京の肉屋を甘やかしている」と攻撃した(注20)。クリントンが大統領
 に就任するとすぐ、国務長官のウォーレン・クリストファーは、上院外交関係委員会でこう宣言した。
 「わたしたちの政策は、経済力の強化と政治の自由化を後押しして、中国における共産主義から民主主義への
  広範で平和的な移行を手助けすることだ」
  このような取り組みに、前大使、ウィンストン・ロードも加わったが、彼は大安門の大虐殺と、中国のリー
 ダーシップについての長きにわたる自らの読み違いに大いに衝撃を受けており、アメリカにおける最も容赦な
 い中国批判者のひとりになった。当時、国務次官哺(東アジア・太平洋担当)だったロードは、中国に厳しい
 条件(人権擁護と民主的選挙の面で進歩が見られなければ、貿易上の特別待遇はなくなる)を突きつけること
 を、上院外交関係委員会に約束した。1993年、下院のナンシー・ペロシと上院のジョージ・ミッチェルの
 ふたりの民主党員の尽力により、中国に対する一連の条件が定められた(注21)。1980年代に見られた、
 中国の改革に対する楽観的期待は消滅したように思われた。

  1993年5月28日、クリントン大統領はホワイトハウスにダライ・ラマの代理人と、天安門広場で抵抗
 した学生のリーダーを含む40名の反体制派中国人を招待し、クリントン政権の中国に対する厳しい姿勢はピ
 ークに達した。中国政府はこれを、中国繁栄に必要な米中関係のすべてを脅かす、前例のない批判と見なした。
 そこで彼らは仕事に取りかかった。

  中国の情報源との接触を維持していたミスター・ホワイトによると、中国の諜報局はクリントン政権内部に
 中国の扱いを巡る対立があることに気づいていたので、アメリカ政府内に強力な親中派グループを築く戦略を
 立てた。そして、中国に対して好意的な国家安全保障担当補佐官のトニー・レイクと、副補佐官のサンディー
 バーガーに目をつけた,また、当時、国家経済会議議長だったロバート・ルービンを、グローバリゼーション
 と自由経済を擁護するその立場ゆえに味方と見なし、経済諮問委員会議長のローラ・タイソン国際問題担当の
 財務次官でハーバード大学の経済学者、ローレンス・サマーズもその同調者だと判断した。

  中国はあらゆる手を使って、これらの人々を中国寄りの財界人と接触させた,合わせて、影響力あるアメリ
 カの財界人に、商取引をちらつかせた。クリントンの選挙戦を経済的に支援した有力者たちは、クリントンに
 直訴して、中国にボーイング航空機を売り込むのを邪魔したり、アメリカの商業衛星を中国のロケットで打ち
 上げる計画(アメリカにとって数百万ドルの節約になると見込まれた)を妨げたりしないことを求めた。有権
 者の経済的利益を守るという名目のもと、アメリカ連邦議会では、中国に味方する議員が増えていった。

  そしてついに1993年末、中国が現在、「クリントン・クーデター」と呼ぶものが起きた。中国に同調す
 る面々が大統領に、反中姿勢の緩和を認めさせたのだ。クリントンがかつて約束したダライこフマとの新たな
  会談は実現しなかった。対中制裁は緩和され、後に解除された。クリントン政権内の親中派の多くは、先見性
 のある政治的手腕と、中国の意思決定者たちとの接近により、中国政府に「中国の友人」と呼ばれるまでにな
 った。その間、中国では静かに、反体制派に対する厳しい弾圧が進んでいた(注22)。

  すべてが元通りになった、あるいはそのように見えた,再び、アメリカは中国を同盟国らしきものと見なす
 ようになった。アメリカ側は、大安門の弾圧は不幸な、そして一時的な後退にすぎないと解釈した。必要なの
 は、あとしばらくの辛抱だ、と。しかし中国側の反応はまったく違っていた。彼らは、いにしえより覇権国が
 挑戦者をどう扱うかを熟知していた。

  United States bombing of the Chinese embassy in Belgrade,  May 7, 1999

  クリントン政権の2期目の終わりに近い1997年5月7日金曜日、アメリカはNATO同盟国を率いて、
 セルビアとその代理国に軍事攻撃をしかけた。2機のB2爆撃機がミズーリ州ノブ・ノスターのホワイトマン
 空軍基地を離陸し、セルビアの首都、ベオグラードに向かった。パイロットは、「ベオグラードー番倉庫」と
 (表示?)されたものにJDAM(衛星誘導爆弾)を5発、投下した。標的のデータを提供したのはCIAで、
  データは二度検証されていた。しかし、その情報は残念ながら、そして悲劇的に、誤っていた。爆弾は深夜、
 ベオグラードの中国大使館の南側に命中し、3名の大使館員が亡くなった。

  この誤爆が起きたのは、わたしがミスター・ホワイトと出会ってから10年ほどたった頃だった。彼はミズ・
 グリーンほど信頼性は高くなかったが、愉快な人なので、わたしは好ましく思うようになり折に触れて会って
 いた。中国大使館が爆撃を受けた夜、クリントン大統領の謝罪に中国がどう反応するか、見通しを尋ねるため
 にミスター・ホワイトに接触した。
  ベオグラードでの誤爆は、言うまでもなく悲劇的な事故だった。わたしには、それが中国政府からある補の
 反応を引き出すことはわかっていた。だが、その大きさまでは予測できなかった,アメリカ側の情報アナジス
 トの大半もそれを予測できず、中国の意図について別の筋から警告を受けたが、無視した。

  ミスター・ホワイトは即座に、その誤爆は、かつて彼が語っていた新たな超ナショナリズムを実行するため
 の絶好の機会を中国政府に提供した、と言った。「反米の暴動が起こり、何日も続くでしょう」と彼は予測し
 た。
  暴動? まさか。事故だったことが、これほど明らかなのに? すでに、アメリカ高官は謝罪していた。
  しかし、ホワイトの確信は揺るがず、それには十分な理由があった。かねてより彼は中国政府内部で反米勢
 力が力をつけつつあることを知っており、わたしたちにそれを警告していた。その頃、駐中国大使のジェーム
 ズ・サッサーは、自分が包囲されていることに気づいた。

  ミスター・ホワイトは、中国は誤爆を事故と見なさず、覇権国による「鼎の軽重を問う」行為として見ると
  読んでいた。「中国側はこれをアメリカによる警告、中国の決意を問う行為と見るでしょう」と彼は語った。
  暴動が始まったときサッサー大使は、ミスター・ホワイトの予測、つまり中国のタカ派と戦国時代から続く
 考え方を軽視してはならないという信念に基づく予測について、何も知らなかった。またサッサーは、3マイ
 ル西にある共産党中央政治局の秘密会議室で何が起きているかも、まったく把握していなかった。そこでは、
 アメリカによる大使館の「攻撃]は、抗しがたい「開の声」であると結諭づけられた。爆撃から数時間のうち
 に、何百人もの中国の市民が、アメリカ大使館の門前に集結し、その多くが石や卵、トマトを投げ込み、アメ
 リカとNATOへの「復讐」を叫んだ。

  その土曜の午後、サッサーは執務室にいた。まもなく彼は、大使館から安全に脱出できないことを悟った。
 数日間で外の抗議者は数万人に増え、中国で最も高位にあるアメリカ人は事実上、中国大衆の囚人となり、着
 替えもシャワーもできなかった。執務室に閉じ込められたまま、フリーズドライの軍用食を食べ、毛布もなし
 に床で寝た。
  翌5月9日、日曜の夜、デモ隊が大使館の割れた窓から火炎瓶を2本、投げ込んだ。燃え上がった火は、海
 兵隊保安警備隊(各国の米大使館の警備にあたる部隊)が消火器で消した。さほど遠くない部屋には、コンク
 リートの塊が投げ入れられたが、そこは大使の妻と息子が逃げ込んでいた居間だった。大使は、中国高官と電
 話で話せないことに困惑していた。サッサーがニューヨーク・タイムズ紙に語ったように、「大使館の前で何
 が起きているのかを、彼らが知っているかどうかもわからなかった(注23).

   大使の主張、少なくとも希望に反して、中国の指導者たちは何が起きているかを正確に知っていた。中国で
 抵抗運動が自発的に起きることは稀であり、10年前に起きた天安門広場での示威行動が、国の指導者たちを
 怖がらせたのもそのためだ。大使館前の抗議行動を衷で操っていたのは中国情報部だった。その証拠に、多数
 の僧侶、チベットの僧侶、道学者、カトリック、プロテスタント、イスラム教の指導者といった政府公認の主
 要な宗教の代表もやってきて、デモ行進を始めた。

  5月10日月曜は終日、警官が行進の参加者をアメリカ大使館の25フィート内に誘導した。多くの人が「
 打倒、アメリカ帝国主義」と叫び、中国の国歌を歌った。若い男たちがヘルメットをかぶった民兵越しに大使
 館の中ヘコンクリート片を投げ入れた(注24)。ある時点で、大使館貝は、抗議者たちが突入するのを恐れて、
 重要書類をシュレッダーにかけはじめた。ついにその日の午後、中国外相の唐家蔵は、当惑するアメリカ大使
 に電話をかけた。唐は「アメリカ率いるNATO」に四つの要求を突きつけた。それには誤爆に対する「公式
 の謝罪」も含まれていた(注25)。 

                                                                                                                       この項つづく

注18.Ruan Ming、with Nancv Liu. Peter Rand. and Lawrence R,Sullivan,eds.,Deing  Xiaoping: Chronicle  of an Empire
           (Boulder,CO: Westview Press, 1994),140,50.
注19."Thc Prcsidcnt's N(nvsConfercnce," June 5、 1989,Thc Georgc Bush PresidentiaI Library, 以下のサイトで人手可能。
           http://bushlibrary.tamu.edu/research/public_papers.php?id=494&ycar&month.
注20.Mann, About Face, 262.
注21.例えば次を参照。Constantine Menges,China: The Gathering Threat (Nashville,TN: Nclson Currcnt, 2005),124-25.
注22.Tylcr,Great Wall, 381-416.
注23.Elisabeth Rosenthal, “Envoy Says Stoning Will End. Ties Won’t, "New York Time, May 11, 1999, 以下のサイトで入
    手可能。http://partners,nytimes.com/library/world/euroPe/05H99kosovo-china-sasscr.html.
注24. Erik Eckholm ”China Raises Then Lowers Tone in Anti-U.S. Protests at Embassy,¨New York Times,May 11. 1999,
            以下のサイトで入手可能。 http://www.nytimes.com/1999/05/11/world/crisis-balkans,china-china-raises,then-lowers-
            tone-anti,us-protests'embassy.html
.
注25.同上。

 



終結合唱「われらは涙流してひざまずき:Wir setzen uns mit Tränen nieder」

昨日、安土駅に所用で車を走らせる。カーステの選曲は自動選曲で、何が出てくるかわからないが、偶然に、バッ
ハの『マタイ受難曲』が流れる。"心の中の乾き"に津波のごとく流れ込み聞き入る(運転のの不注意にならぬよう
にBGM感覚で)。

マタイ受難曲 (Matthäus-Passion) とは、新約聖書「マタイによる福音書」の26、27章のキリストの受難を題材にし
た受難曲。バッハのマタイ受難曲 (Matthäus-Passion) は新約聖書「マタイによる福音書」の26、27章のキリストの
受難を題材にし、聖句、伴奏付きレチタティーヴォ、アリア、コラールによって構成された音楽作品。正式なタイ
トルは「福音史家聖マタイによる我らの主イェス・キリストの受難 Passion unseres herrn Jesu Christi nach dem Evan-
gelisten Matthäus」となる。バッハが作曲したとされる受難曲は、マタイ受難曲(2作あったとされるが、2作目は
合唱が2組に分けて配置される)のほか、ヨハネ受難曲、ルカ受難曲、マルコ受難曲の4つあり、ルカ受難曲は真
作と見なされておらず、マルコ受難曲は台本のみが現存し、他は消失している。



ヨハネ受難曲(Johannes-Passion)は、新約聖書「ヨハネによる福音書」の18-19章のイエスの受難を題材にした受
難曲。多くの音楽家が作曲してきた。このうち最も有名なものはバッハ作品(BWV245)である。この二曲とも合唱
迫力に圧倒されてしまう。飽きるまでオペラや賛美歌など聴きいることに。 

著作権法が改定あるいは強化され、ユーチューブも何となく疎遠な感じになっている。以前なら、作業の合間気分
転換に鑑賞できた楽曲類も素人がカバーする曲しか聴けなくなるわびしくなる。車のBGM用に本格的に聴くなら、
ダウンロードするかレンタルCDで簡単に聴けたのだが、これから、そうも行かなくなるのだろうか?不安だ。、

著作権が彼の創作した著作物に関して有する枠利には次の2種煩のものがある。 その1は、複製権,上演権,翻
訳権など著作者が著作物に対しもつ財産的利益を保護する権利――総称して著作財産権という。その2は、公表権,
氏名表示権,同一性保持権など制乍者がノ著作物に対して有する人格的利益を保護する権利――総称して著作人格権
または著作人格権という。この2種の権利相互の関係およびこれらの権利と著作権との関係いかんをめぐり、3つ
の見解が対立しているという。

著作権を財産権と解し,著作財産権として総括される各種の権利はこの著作権から派生するものととらえる
見解。この説によれば,制乍者人格権は著作権の概念には包含されず、これとは全く別個の権利ということ
になる(a)。 著作者人格権を著作権の概念の中に含めはするが,その中で著作財産権と対立・併存するものと解する見解。
この説によれば,著作権は著作財産権と著作者人格権という性質の相容れない2種の権利の複合権となる(b)。 著作者人格権を著作権概念の中に含める点では第2説と共通であるが,著作財産権と著作者人格権とは相互
に密接な関係にあり、分離することは不可能であるとする見解である。この説によれば、著作権とは著作財
産権と著作者人格権権とが渾然一体となった単一の権利であるということになる(c)。

これらの3つの説は、a、bは二元的構成論、cは一弦的構成論として整理できるが本来的に一致できず、著作権
概念の統一的把握がいかに困難であるかを如実に物語っていると、『著作権概説』の著者は指摘しているが、粘り
強く合意形成しなければならない?ということらしいしい。


ルックスも全て

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   日本人の中からサドとかバタイユのような、そういう作家を求めようとしても難しい。
      みんな何かにすり替わっている。          


                                         吉本 隆明


                                     

                                                 Takaaki Yoshimoto 25 Nov, 1924-16 Mar, 2012 

 

● ルックスが全てじゃない、遺伝子の宝くじに当たっただけ!

毎年大規模な世界的講演会を主催している非営利団体TEDの公開ビデオの驚異的なアクセス数を記録するキャメ
ロン・ラッセル――87年6月14日米国ボストンに生まれ、16歳のときスカウトされ、モデルとなる。身長1
メートル75センチ、黒めのブロンズの髪の毛、茶色の瞳、趣味はチョロ演とカンフー――は、彼女自身が「遺伝
子の宝くじ」に当たったと認めている。彼女は長身で美しいファッションモデル。下着モデルとしても有名だが、
外見だけで判断してはいけないと、彼女はこの勇気ある誠実なトークで、自身を育てたモデル業界の実情をセルフ・
デリジョンにシニカルに暴き、「ルックスが全てじゃない、遺伝子の宝くじに当たっただけ!」と語り注目を浴び
る。たしかに、生命を授かる確率が2百数十兆分の1といわれるなかのでのことと考えれば彼女の言い分通りだが、
数億分の1の頂点に立つ現実はいかんし難く、「ルックスも全て!」と 見惚れている男がいることも事実。しかし
ながら、高価なプレデンターション料を支払っても出演する裏には、ヒラリークリントンに見倣い女性大統領を目
指すつもりか、あるいは、新しい企業家を目指すのかそれはわからなが、それはさておき、米国はTEDのように
プレゼンテーション事業のプラットフォームを開発する国柄であると感心するビデオである。

 

 

 


 【中国の思想: 戦国策Ⅱ】 

  ● 目 次

   解題
   秦
   斉
   楚
   趙
   魏
   韓
   燕
   西周・東周・宋・衛・中山 

  韓

  中原の、しかも中心にありながら、そのためにかえって強くなれなかった国、それが韓だ。強国に囲まれて外
  交に腐心し、この国出身の韓非子に「外交にぽかり気をとられて内政の充実を忘れるとは!」と叫ぱしめたゆ
 えんである。韓は、現在の河南省中部から山西省にかけて位流し、都を鄭においた。魏・趙とともに晋を三分
 して独立し、前四〇三年、諸侯として認められる。七雄の中では、国土も狭く国力もふるわなかった。地理的
 に、まともに秦の圧力を受けたので、滅ぼされたのも六ヵ国の中では一番早い(前二三〇年)。

 「それ尽くるあるの地をもってして、已むなきの求めを逆(むか)うるは、これいわゆる怨(うらみ)を市(
 う)りて禍を買うなり」
 「むしろ鶏口となるとも、牛後となるなかれ」
 「禍を造(な)して福を求むるは、計戊くして怨深し」
 「唇掲(つ)くればその歯寒し」

 

   燕

 戦国時代の刺客には、後世の"暗殺者""殺し屋"のくらいかげはない。あるものは。"意気"に感じ、"義"を行な
 う悲壮感である。有名な刺客・荊軻の故事をうんだ燕は、戦国七強のうち、最も北にあった。北方の勇猛な未
 開民族と南の強国にはさまれ、よく八百年にわたって存在をつづけたが、そのフィナーレは悲壮であった。

 「臣の不信は、これ足下の福(さいわに)なり」
 「指を詘(く)してこれに事え、北面して学を受けば、己れに百する者至り、先だち趨(はし)りて後れて息
 (いこ) い、まず問うて後に嘿(もく)せば、己れに什する者至り、……恣睢(しすい)奮撃し、呴籍叱咄
 (くせきしつとつ)せば、徒隷の人至らん。これ……士を致すの法なり」
 「死馬すらかつこれを五百金に買う。いわんや生馬をや」
 「王、まことに士を致さんと欲せば、まず閥より始めよ」
 「風は蕭々として易水寒し、壮士ひとたび去りてまた還らず」

  ● 先ず隗より始めよ

 前四世紀末、燕は内乱がおこり、これに乗じた斉の侵略を受けて壊滅状態となった。そのさなかに即位した昭
 王は……。
 
 燕は敗戦で荒廃していた。そのとき、王位についたのが昭王である。
 昭王は、敗戦の恥をすすぐため、礼をつくし、禄を厚くして、人材を招こうとした。
 そこでまず郭隗先生に相談した。
 
 「わが国は、内乱に乗じられて斉に破れた。この恥をすすぎたいが、小国の悲しさ、力不足はいかんともしが
 たい。この際、人材を招き、その協力を得て先代の恥をすすぎたいが、ついては、先生の考えを、お聞かせ願
 いたい」

 郭隗先生は答えた。

 「帝王はよき師をもっております。また王者はよき友を、覇者はよき臣をもっているもの。しかるに燕国を滅
 ぼす王は、つまらぬ臣をかかえているものです。人材を招きたいとおっしゃるが、それにはいくつかの方法が
 あります。
 礼をつくして相手に仕え、謹しんで教えを受ける。これならば、自分よりも百倍すぐれた人材が参ります。
 相手に敬意を表し、その意見にじっと耳を頓ける。これならば、自分よりも十倍すぐれた人材が集まります。
 相手と対等にふるまう。これでは自分と似たり寄ったりの人間しか集まりません。
 床几(しょうぎ)にもたれ、杖をにぎって横目で指図する。これでは小役人しか集まりません。
 頭ごなしにどなりつけ叱りとばす。これではもはや下僕しか集まりません。
 これが人材招致の常識です。
 いま、広く国内の人材を選んで教えを受ける。この贈が広まれば、天下の人材は、われもわれもと集まって来
 ます」
 「では、誰に教えを受けたらよかろう」
 「こんな話を間いたことがあります。むかし、ある王が、千金を投じて千里の馬(一日に千里も走る名馬)を
 さがし求めました。三年かかっても手に入れることができません。そのとき、『わたしがさがして参ります』
 とお付きの者が申し出ました。王はこの男にまかせました。それから三月、男は、千里の馬の居所を聞き出し
 たが、いざ行ってみると、馬はすでに死んでいたのです。男は馬の骨を五百金で買い取り、帰って王に報告し
 ました。王は立腹し、『欲しいのは生きている馬だ。死んだ馬に五百金も出す馬鹿があるか』男は答えました。
 『死んだ馬さえ五百金で買ったのです。生きた馬ならもっといい値で買ってくれる、ときっと評判になります。
 馬はすぐにも集まって参ります』
 はたして一年もたたぬうちに、千里の馬が三頭も集まってきたということです。
 あなたも本気で人材を招こうとなさるなら、まずわたし、この傀からお始めください。わたしのような者でも
 大切にされるとなれば、わたしよりすぐれた人物はなおさらのこと、千里の道も遠しとせずにやって参りまし
 ょう」

 そこで昭王は、邸宅を築いて郭隗に与え、師と敬って教えを受けることにした。すると魏の国からは楽毅が、
 斉の国からは都府が、趙の国からは劇辛がはせ参じ、人材はぞくぞくと燕に集まった。昭王は、戦死者をいた
 み、生存者の安否を気づかい、喜びも悲しみも人民と共にした。こうして二十八年、国力は充実し、休養十分
 な兵卒は戦いを恐れなくなった。

 時は来た。燕は楽毅を総大将にし、秦、楚、三晋の諸国と語らって斉に攻め入った。斉は破れ、閔(びん)王
 は国外に逃亡した。
 燕の軍は単独で、敗走する敵を追撃、斉の都臨溜に入城するや、斉の宝物をことごとく奪い、宮殿、宗廟を焼
 き払った。斉の城で降らなかったのは、苢(きよ)と即墨(そくぼく)だけだった。

      〈昭王〉 燕の三十九代目の君主。内乱と隣国背の侵略で疲弊しきった燕の王位を継ぎ、みごとに
       国力を回復した。すなわち、在位三十二年(前三一一~前二七九年)のうち、二十八年間はもっ
       ぱら内政の充実につとめ、前二八四年に至って韓・魏・秦・趙と同盟を結び、名将楽毅を起用し
       て宿敵背を討ち、一時は首都まで陥落させた。
      〈郭隗〉 昭王の師傅(しふ)。
      〈楽毅〉 燕の名将。もと趙の武将だったが、燕の昭王があつく人を遇することを聞いて来たり仕
       え、前ニ八四年、総司令官として背を討ち、全土を席巻した。しかし、この章の末尾にあるよう
       に、菖と即墨の二城(ともに現在の山東省)は陥落せず、包囲戦は三年に及んだ。その間、楽毅
       をねたんだ燕の太子が父の昭王に「楽毅は敵に恩を売り背王になろうとしている」と中傷したが、
       王はかえって太子を笞で打ち、楽毅を占領地の王に任じようとした(韓非子流の見方をすれば、
       王は楽毅の本心を試したことになろう)。もちろん楽毅は受けず、王の信頼は増した。が、前二
       七九年、昭王が没すると、楽毅に不運が訪れた。かれに反感をもつ太子が王位をついだのである
      (恵里という)。恵王は、敵国斉の田単が流したデマに乗せられて楽毅を罷免した。いらい燕の遠
       征軍は振るわず、ついに全戦線で後退し、斉に失地回復を許した。恵王は再び楽毅を登用しよう
       としたが、かれは受けず、生国の趙でぬいた。
       相手は自己の投影 人材を得る基本は、人間の幅射作用にあるという発想は、きわめて合理的だ。
       こちらに熱がなければ、相手も熱せられないはずである。その意味では、相手は自己の投影であ
       る。
       「死馬を買う」「まず傀より始めよ」という故事成句はこの章から出ている。死んだ馬を買う―
       ――人材を得るにも捨て石が要る、という文宇どおりの意味だけでなく、「無用の用」「ジグザ
       グのコース」を示すゆとりの知恵をもくみとることができよう。

       ※ 余りにも有名エピソードは、現代ビジネスもそれは生かされているが、その逆もある。それ
         が「シャープの凋落劇」でもある。ビジネスの栄枯盛衰も、結局は、そのコアにあるのは人
         材の"情熱"(=アクショでありパッション)の塊の総合力である。インセンティブ、モチベ
         ーション、報酬、教育、企業内外福祉、そして、ゴールと計画、人・もの・金・技術などの
         再配分への腐心・・・・など全て収斂させ行動する。やつぱり一番は報酬? ^^;。

 

 

 

 

一期一櫻 2016

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       法あるいは宗教あるいは儀礼あるいは風習、習慣というものを、本来的
               な所有よりも、もっと強固な意味で、 自らのものであるかの如く振舞
               う構造のなかに、 本当の意味での、日本の大衆の総敗北の構造がある。

                                                                    吉本 隆明 

 

                                         

                                                                                 Takaaki Yoshimoto 25 Nov, 1924-16 Mar, 2012  

 

【今夜のソーラー工学Ⅰ:自動電圧調整器】

自動電圧調整器(AVP:Automatic voltage regulation for photovoltaic systems)は、太陽電池で生成された直流電力
で、電圧降下検出器測定で電圧降下を検出する電源システム――直流電圧制御の第一次直流電圧制御装置(インバ
ータ)で、電圧低下を検出した場合に直流電圧を自動制御――で出力電流抑制し発電効率(従来のパワーコンディ
ショナー統合型よりコストはアップ(数%?)するが、大規模ソーラー発電施設の実例では25%以上)を高める
ことができるというものである。原理的には、ソーラー発電だけでなく、系統別発電装置の統合システムは簡単に
(?)構成できるものである。ところが、ひょんなことから米国特許情報を検索していると、2つの特許が目にと
まる。1つは東芝三菱電機産業株式会社の「US 9300226 Solar power generation system」と2つめはサンパワー株式
会社の「US 9300224 Automatic voltage regulation for photovoltaic systems」で公開日は先月の29日と同日で登録番号が
2つ後者が先行しているというわけだ(2つの下図参照)。


US 9300226 Solar power generation system US 9300224 Automatic voltage regulation for photovoltaic systems

特許請求項目をみているが項目件数では、19対8で前者の方が多いが内容はほとんど同じ。そこで、前者の日本
国内特許を検索するが、「特開2016-032353 自動電圧調整器」が該当するが(下図参照)、太陽光発電という利用
分野の規定がなされていないが、機能・構成特許では類似している。つまり、前者が適用事業分野を指定し被せ公
開されたものと推測――言い換えれば、出願側が自己優位性の確信的動機(防衛行為)があり申請されたともとれ
るが、熾烈な情報戦争の一例である。


特開2016-032353 自動電圧調整器



 【中国の思想: 戦国策Ⅱ】  

  ● 目 次

   解題
   秦
   斉
   楚
   趙
   魏
   韓
   燕
   西周・東周・宋・衛・中山 

  

  西周・東周・宋・衛・中山

 戦国乱世の時代にあっては弱小国の立場ほど苦しいものはない。生きのびるためには、強大国以上に権謀術数
 をめぐらさなければならないし、手のこんだ外交的テクニックも弄さなければならぬ。東周・西湖・宋・衛・
 中山の六カ国はいずれも"戦国七雄"の間にはさまれた弱小国である。「戦国策」に記載されているこれらの国
 々にまつわるエピソードは、弱小国の苦しさと生きのびんがための必死の"あがき"を浮きぼりにしているもの
 が少なくない。

 「名加わるところありて実帰するところあり」
 「それ人はおのれに剪うるに於いては急に過ぎ、人に事うる
 に於いては緩に過ぐ」
 「与は衆少を期せず、それ厄に当たるに於いてし、怨は深浅
 を期せず、それ心を傷うに於いてす」

  ● 怨は深浅を期せず

 中山君が国中の名士を招いて一席設けた。その席に、司馬子期(しばしき)という者がつらなっていたが、た
 またま羊のスープが足り  なくなって、かれのところまで回ってこなかった。これを根にもった司馬子期怒
 りにまかせて楚に逃亡し、楚王をけしかけて中山を攻撃させた。中山君は、国外へ脱出をはかった。と戈(ほ
 こ)を手にした男が二人、後を追ってくるではないか。中山君は振り返って、

 「何者だ」

 「先年、君から一壺の食物を与えられて飢死を免れた者がおりました。わたしどもはその者のせがれ
 『中山に事あるときは、死をもってこの思に報いよ』
 と言い遺して果てました。今こそ恩に報いるときと思い、かくはせ参じたしだい」

 中山君は思わず歎息した。

 「わずかな施しでも、相手が困っているときにすれば効果はてきめん。ささいな怨みでも、相手の心を傷つけ
 れば、手ひどい報いを受ける。わたしは一杯のスープで国を失い、一壺の食物で勇士二人を得た」

以上をもって『戦国策』はひと先におわるが、マイケル・ピルズベリー著『China 2049』の考察はつづく。
中国二千数百年に脈々と綴れてきた思想、現代中国の政治背景をこの一巻に求めるわけもいかないだろうが、ピル
ズベリーの力を借りなんとか理解を深耕できるだろうと楽観しつつ?『China 2049』を読み通した後も、
この『中国の思想』のほぼ全巻読み飛ばしていこうと考える。なお、『戦国策』の詳細を知りたい方は上図2をク
リックし参考されたし。各々のビジネスや人生シーンで窮地に陥ったときの打開の一助になる言葉に出会あえるか
もしれない。次回は、『管氏』を紐解く予定だが、いつからはじめるかはわからない。

                                              この項了

 



● 一期一櫻 2016

桜満開の好日、早速、弁当とお酒・ビールを持つて城内におきまりのドーンで頂く。馬屋の改修工事が完了していたので参観
し、散策し彼女の運転で帰ってくる。デジカメが生憎の不調でピンぼけばかりで、二枚だけアップ。お陰で男前が台無し???
お酒が回り頭が痛い中打ち込みしているので、今夜はこの辺で。

 フルート&ピアノ演奏

  arrange cove by HINA

                                                                         

 

帝國のロングマーチ Ⅴ

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       今の年寄りは、体のほうだけ成長というか、老いていって、寿命は延びていって、精神のほうは成長しないです。 
  

                                          

                                Takaaki Yoshimoto 25 Nov, 1924-16 Mar, 2012     

 

 

● マエケン強烈なデビューで初勝利!!

 


● 折々の読書  『China 2049』23  


                                  秘密裏に遂行される「世界覇権100年戦略」     

                                                    マイケル・ピルズベリー 著
                                                    野中香方子 訳 

ニクソン政権からオバマ政権にいたるまで、米国の対中政策の中心的な立場にいた著者マイケル・ピルズベリーが
自分も今まで中国の巧みな情報戦略に騙されつづけてきたと認めたうえで、中国の知られざる秘密戦略「100年マラ
ソン( The Hundred-Year Marathon )」の全貌を描いたもの。日本に関する言及も随所にあり、これからの数十年先の
世界情勢、日中関係そして、ビジネスや日常生活を見通すうえで、職種や年齢を問わず興味をそそる内容となって
いる。 

 【目次】

  序 章 希望的観測
 第1章 中国の夢
 第2章 争う国々
 第3章 アプローチしたのは中国
 第4章 ミスター・ホワイトとミズ・グリーン
 第5章 アメリカという巨大な悪魔
 第6章 中国のメッセージポリス
 第7章 殺手鍋(シャショウジィエン)
 第8章 資本主義者の欺瞞
 第9章 2049年の中国の世界秩序
 第10章 威嚇射撃
 第11章 戦国としてのアメリカ
 謝 辞
 解 説 ピルズベリー博士の警告を日本はどう受け止めるべきか
     森本敏(拓殖大学特任教授・元防衛大臣)   

  第4章 ミスター・ホワイトとミズ・グリーン

                趁火打却(ちんかだこう)――火に趁(つけこ)んで却(押し込み)を打(はたら)く

                                                                     『兵法三十六計』第五計  

  実のところ、中国政府もよく知っていたように、アメリカはすでに、その出来事について繰り返し謝罪して
 いた。その月曜日、クリントン大統領自身が記者たちの前に現れて、再度、謝罪した。

  「謝罪します。この出来事を残念に思っています。けれども、悲劇的な過ちと、故意の民族浄化行為との間
 に明確な線引きをすることは非常に重要であり、アメリカはその線引きを今後も続けます(注26)」

  アメリカの情報コミュニティの反応は、サッサーと同じく当惑と驚きだった。ミスター・ホワイトから中国
 の行動についての予測を聞いていたにもかかわらず、わたしも同じ気持ちで、とりわけ中国の公式の反応の激
 しさには当惑させられた。共産党政府のプロパガンダ機関紙である人民日報は、大使館への爆撃を「野蛮な犯
 罪」と呼び、「アメリカ合衆国に率いられたNATO」は「凶悪犯罪者」だと断じた。第一面の長い記事は、
 アメリカは八つの点でナチス・ドイツと同じだと主張した,例えば、アメリカの「自己中心性と覇権を求める
 野心はまったく同じだ。(中略)世界のどの国家が、かつてナチス・ドイツが目指したように『地球の支配者』
 になろうとしているのかと尋ねれば、答えは一つ、つまり覇権主義を奉じるアメリカである(注27)。」

  10年前の大安門広場で民主主義を求めるデモのさなかに立てられた中国版自由の女神とは対照的に、この時、
 中国の学生は、アメリカを中傷するポスターを掲げた。中には、ピカソの1937年の反戦壁画「ゲルニカ」
 の巨大な複製に赤いペンキを散らせたものもあった。彼らはまた、段ボールで自由の女神像を作り、ピル・ク
 リントンの面をかぶせ、その手にはたいまつの代わりに血塗られた爆弾を握らせた(注28)。

  アメリカの情報コミュニティの面々は、中国の行動についてさまざまな結論を出していた。それを中国人の
 過度の敏感さ、ひいては被害妄想のせいにする人もいた。一方、それほど害のない騒動であるとし、他の問題
 についてアメリカの譲歩を引き出すのが目的だと見る人もいた。しかし、わたしが覚えているかぎり、中国に
 はさらに深い計算があり、やがてアメリカは対中戦略の見直しを強いられることになる、と予測する人はいな
 かった。つまり、ミスター・ホワイトの推測に基づく主張を信じようとする人はいなかったのである。

  2001年、アメリカの情報コミュニティは、1999年のベオグラード爆撃直後に中国共産党中央政治局
 が問いた緊急会議の、機密扱いの議事録を人手した(注29)。この議事録には、中国指導者の真のアメリカ観
 が露呈していた。会議のメンパーは、状況をどう理解し、どう対処するかについて意見を交わした。それを読
 むと、中国政府の偏執的な愛国主義に関するミスター・ホワイトの警告は、まだ控えめだったことがわかる。
 江沢民はこう述べた。

 「アメリカはこの出来事を利用して、国際危機や衝突、とりわけ突発的な事件に対する中国の反応の強さを調
 べようとしている」

  江は、空爆は「さらに大きな策略」の一部かもしれないと警告した。政治局常任委員会で二番目に高位の李
 鵬は宣言した。

 「同士よ!血塗られた大使館の事件は単独の問題ではなく、単なる中国人民への侮辱や挑戦でもない。これは
 入念に仕組まれた破壊工作だ。この出来事は、他の何よりも、アメリカが敵であることをわたしたちに思い出
 させる。ある者が言うような友人では決してない」

  副首相の李嵐清は次のように述べた。

 「将来、中国とアメリカとの直接的な衝突は避けられない!」

  彼は、クリントン大統領が「国際危機と衝突に対する中国の反応の強さ、人民の生の声と大衆の意見、それ
 に政府の意見を確かめ、中国がどんな手段に出るかを調べるために」「軌道を探る石として」爆撃を命じたと
 いう見方を提起した。
  議事録によると、アメリカを弁護する人はひとりもいなかったようだ。この爆撃は本当に事故かもしれない
 と考え、主張する人は皆無だった。クリントンを非難する前に数時問待ってみよう、アメリカ大使館前で学生
 による大規模なデモ活動を始める前にアメリカの見解を尋ねてみよう、と提案する人は誰もいなかった。19
 73年以来北京で築いてきた善意と信頼は、議事録のどこにも見当たらなかった。

  こうしたことが明らかになっても、中国に関するわたしたちの満足と楽観は揺らがなかった,中国にタカ派
 は確かに存在するが、その影響力は、より理性的で冷静な考え方をする人々によって排除できるし、実際、排
 除されるだろうとわたしたちはまだ考えていた。そして同僚たちは再度、信頼を築き、誤解を減らすための努
 力を始めた。まもなく、江沢民と「中国の友人たち」は、ところかまわず、「減少誤会、増加信任」(誤解を
 減らし、信頼を築く)という言葉を口にするようになった。それを見てわたしたちは、中国の「愛国教育」は
 無害らしいと結論づけた,結局、アメリカ人も同じことをしている。中国政府内の反欧米分子は厄介だが、中
 国トップの指導者は彼らには同調していない、とわたしたちは自らに言い聞かせた,

  米当局者の大半は、反米の兆候を完全に無視した。兆候の中には、もみ消されたものもあった。1990年
 代、わたしは(ワシントン首都圏内の)バージニア州レストンにあるCIA翻訳センターをよく訪れたが、そ
 の折に、中国指導者のアメリカに対する非難が報告書にほとんど見られないのはなぜかと翻訳者に尋ねた(注
 30)。米当局者の大半は、中国指導者の考えを追うのに、このセンターで翻訳した情報を頼っていたが、それ
 は中国語を読める人、そして多くの重要なニュアンスを把握できる人がほとんどいなかったからだ。

 「簡単なことです」と、翻訳者は答えた。
 「ナショナリズム的な書類は翻訳しないよう指示されているからです」

 わたしは当惑した。

 「どうして?」
 「本部の中国部門から、そんなことをすれば、ここワシントンの保守派と人権擁護左翼のどちらをもあおって、
 中国との関係を悪くするだけだからと言われました」

  その時ですら、わたしが中国の未来に対して抱いていた信頼は、多少、揺らぎはしても、消えはしなかった。
 ミスター・ホワイトと政治局会議の議事録から得た情報にもかかわらず、わたしは依然として中国懐疑派では
 なかったし、また、どの筋からの情報もこれは一時的な段階にすぎないと語っていた。中国は、経済はいまだ
 脆弱だが、必然的に民主化に向かっている。タカ派は70年代後半から80年代という高齢で、いずれ穏健派
 の改革者たちに取って代わられる。したがって、アメリカはしばらく我慢していればいいのだ、と。それほど
 多くの情報が皆、中国の情報機関によって操作されているというのは、あり得ないことのように思えた。

  言うまでもなく、わたしたちの楽観は、中国の内部情報を提供してくれるトップスパイのひとり、ミズ・グ
 リーンに支えられていた。彼女は、中国政府はアメリカにとって脅威ではなく、中国のさらに過激で危険な政
 治分子を監視するために共産党のリ-ダーシッブは不可欠だと、繰り返し語った。彼女の報告と中国指導者と
 のつながりは、2003年4月9日、彼女がFBIに逮捕されるまで、アメリカの当局者に影響しつづけた(
 注31)。中国にいるCIAの情報源が彼女の正体を暴露したらしい。彼女はFBIから受け取った170万ド
 ルを申告しなかったことを認め、自分が中国の当局者に語った秘密を明かすことに同意した。しかし、司法省
 が彼女をFBIの担当者のもとに拘束し、証人を喚問する権利を侵害したため、連邦裁判所判事は本件を棄却
 した。彼女は再び起訴されたが、協力を約束したため、3年の執行猶予ですんだ(注32)。

  この件を受けてFBI監察官は、偽情報を提供しかねない中国人情報源のファイルに赤旗(警告信号)を立
 てるシステムを作ることを推奨した。FBIで防諜活動を担当する副長官、デビッド・スザディは記者に、本
 件は「(FBIには)その情報源をよりしっかり管理し、彼らが提供する情報をチェックする」必要があるこ
 とに光をあてた、と語った(田淵)。ミズ・グリーンの偽情報に基づいてまとめた報告書の機密扱いをFBI
 が解くことは決してない。そしてそれが公開されるまで、世間の人々は、どちらがより悪いか(彼女が中国に
 秘密を漏らしたことか、それとも、中国のことを心配しなくてもいいとアメリカ人に思わせたことか)を知る
 ことはできない。現代版の「赤壁の戦い」を語るタカ派の言葉を無視する者は、このような間違いを犯しやす
 い。


注26.Transcript: Clinton opens youth violcncc summit、 May 10,1999,CNN,以下のサイトで入手可能。
     http://www.cnn.com/ALLPOLTICSICS/stories/1999/05/10/youth.violence.sumnlit/transcript.html.
注27. “Anlerica vs. Japan and Germany,”Jin Dexiang, 3, cited in Pillsbury, China Debates the Future Security, 99.
注28. Eckholm,“China Raises Then Lowers Tone in Anti-U.S.Protcsts at Embassv.” 
注29. だが、中国の外交政策決定にとって、中国の指導者たちがベオグラード爆撃をどう解釈するかを知ることのほうがも
            っと重要だった。ゆえに朱鎔基が、共産党の記録保管所から密かに持ち出した文書をもとに、自らも参加した秘密会
            議の詳細を、Zhu Rongji(1999),Publishcd in Chinese Law and Goverment 35, nos. 1-2(2002)で公表したのは、非常
            に啓発的だった。これらの文書は、中国の政策決定のトップにいる人々が1999年、特にベオグラードの中国大使館
            をアメリカが爆撃した時にどう考えたかを明らかにしている。ニューヨーク・タイムズ紙のある記事が論評するように、
            この文書の出現は情報を西側に漏らすことで党の歴史を書き換え、中国の将来を変えようとするパワフルな集団が
           共産党内部で育ちつつあることを示唆している。Craig S. Smith,“Tcll-AII Book Portrays Split in Lcadcrship of China,”
            New York Times, January 17,2002,以下のサイトで入手可能。
            http://www.nytimcs.corn/2002/01/17/world/tell-all-book-portrays-split-in-lcadcrship-of-china.html.
注30. その組織の当時の名称は Foreign Broadcast lnformation Center だった。Hoffman,Spy Within,54-55 によると、ラリ
            ー・チンは数年間、そこで働いていた,
注31. BiII Gertz,Enemies; How America's Foes Steal Our Vital Secrete -and How We We Let It Happen(Ncw York: Crown
            Forum, 2006), 52-53.
注32. 次を参照,Glenn P. Hastcdt,“Leung,Katrina(May 1, 1954-),”in Glcnn P. Hastcdt,cd.,Splies, Wiretaps, and Secret
            Opertions:An  Encyclopedia of American Espionage, Volume I(Santa Barbara,CA: ABC-CLIO, 2011). 468-69, Cha-
            rles Feldnlan and Stan Wilson, “AIleged Chinese Double Agent lndicted, ”CNN.com,May 9, 2003,以下のサイトで
            入手可能。http://wlvxv.cnn.conl/2003/LAW/05/08/double.agent.charges/; and  “A Review of the FBI’s Handling and
            ovcrsight of FBI Asset Katrina Leung (Unclassincd Executive Sunlmary).”SpcciaI Rcport. U.S.Departmcnt of Justice,
            Office of the lnspector General, May 2006. 以下のサイトで人手可能。
      http://www:justice.gov/oig/special/s0605/index.htm. 
注33. Gcrtz,Enemies,52-53.

  First Opium War


  第5章 アメリカという巨大な悪魔 

                                   夢中生有――夢中に有を生ず

                                     『兵法三十六計』第七計

  当時の米当局者は知らなかったことだが、1989年6月4日を境に、中国共産党指導者が国民に描いてみ
 せるアメリカのイメージは大きく変わった。共産党内部には常に、西洋から不当な扱いを受けているという根
 深い認識があったが、中国が西洋諸国と並ぶ超大国に発展するには西洋の力が不可欠だという、毛沢東の計算
 によってそれは和らげられていた(注1)。亡命者が後に明らかにしたところによると、その頃、最高レベル
 の指導者たちは、真の民主主義化さえ検討したそうだ。当時はジェームズ・マディスンの権力分散という考え
 までもが支持されていた。中国から密かに持ちだされた公文書から2001年までに明らかになったのは、
 小平と長老たちをパ二ックに陥れるために、タカ派がいかに事実を歪曲して伝えていたかということだ。

  本書の主張が根拠としているのは、近年増える一方の、「中国のタカ派が指導者たちを巧みに操り、アメリ
 カを凌駕すべき危険な覇権国と見なすように導いた」ことを裏づける証拠である。1989年、中国政府は、
 アメリカを危険な覇権国と見なす姿勢を明らかにし、アメリカ政府は悪魔のような存在だと国民に思わせるた
 めの組織的な活動を始めた。党公認のメディアが国内に流している情報は、中国がアメリカの前で装っている
 姿からは想像もつかないものだ。タカ派の主張ははっきりしている。覇権国アメリカは中国政府の転覆を目論
 んでおり、1980年代には実際に転覆を試みた、というものだ。中国タカ派はこの「愛国教育」と反米教育
 を推し進めようとしている。なぜなら、ライバルであるハト派が今なおアメリカに魅了されているからだ。

  実際、毛沢東がニクソンを招待した後の数年問、中国の大衆文化と国営メディアは、アメリカを注目すべき
 輝かしい存在として描いていた。しかし「天安門」の後、タカ派はそれを危険な過ちだったと断じ、政治局の
 指導者に方針転換をさせた。アメリカは異議を申し立てることもできたはずだが、黙っていた。というのも、
 アメリカの諜報機関の分析官と中国専門家は、自分たちが目の当たりにしているのは一時的な局面であり、マ
 ルクスを奉じ、中国が超大国になるという夢にしがみついている極端なタカ派が、恐竜のごとく死に絶えれば、
 そうした局面はたちどころに消えるだろうと楽観していたからだ。

  天安門の虐殺とほぼ同じ時期に、もう一つの地政学的大変動が起きた。タカ派の高官が毛沢東、魏(ソ連)
 に対抗するために呉(アメリカ)と同盟するよう進言してから20年が過ぎた1991年、ソビエト連邦は崩壊
 した。冷戦におけるアメリカの勝利(ベルリンの壁の崩壊、東ヨーロッパにおける民主主義国家の誕生、ソ連
 の完全な解体に象徴される)は、中国政府を揺るがした。それは、天安門事件以来強まっていた、中国指導者
 の反アメリカの妄想をさらに強めた。彼らの目に「天安門事件」は、戦国時代の言葉を借りれば、アメリカに
 よる「混水摸魚(こんすいぼぎょ)」(敵の内部を混乱させる戦略)」(『兵法三十六計』)の最初の一打の
 ように見えた。急進的なタカ派に言わせれば、中国共産党はアメリカのせいで崩壊しかけたが、その瀬戸際で、
 改革主義の趙紫陽やその他のアメリカの「味方」を政府から追放し、辛くも持ちこたえたのだった。

  1980年代に影響力を増してきた親米の改革論者を追放したことは、中国知識階級やアナリストのコミュ
 ニティに空席をつくったが、それは高位にいた親米論者をほぼ.掃しただけでなく、そうした人々の将来の出
 現を抑止することにもなった。こうして、かつては「超ナショナリスト」として敬遠されていたタカ派の妄言
 が、党の公の方針になった。
  中国政府はその後、事実上、中国とアメリカの歴史を徹底的に「改ざん]しはじめた。その時代もアメリカ
 は、中国の成長を支えつづけていたが、涅造された歴史では、アメリカはそのような表向きの姿とは別に、中
 国人に害を与えつづける悪魔のような側面を持つ国として描かれた。しかし、中国の指導者は、大衆文化には
 アメリカを攻撃させながら、アメリカの指導者の前では、それについて何も知らないようなそぷりをした。ア
 メリカの官僚や外交官は、中国の指導者から、わたしもよく聞かされたお題目を何度となく聞かされた。そう
 した反米姿勢は、保守強硬派の小さな派閥のものであり、「主流」の共産党指導各層の見方ではない、と。

  現在、中国の若い世代が知るアメリカの物語は、ほとんどのアメリカ人が知るものとはまったく異なる。彼
 らは、アメリカは170年にわたって中国を支配しようとしてきたと信じている。中国は、アメリカの国民的
 英雄であるアブラハム・リンカーン、ウッドロウ・ウィルソン、フランクリン・ルーズベルトを、中国の官僚
 などを操り、中国を弱体化させようとした「邪悪な画策者」と呼ぶ。このねじ曲げられた歴史観は、両国の「
 協力」に対する現在の中国人の見方に影響し、多くの中国人は両国の協力を、中国の正当な世界的地位を破壊
 しようとアメリカが絶えず十字軍を派遣する中での、一時的な局面にすぎないと考えている(注2)。

注1.  ジミー・カーター政権下のNSCにおける中国の専門家で、後にスタンフォード大学の政治科学教授になったマイケル・
         オクセンバーグは、「中国の指導者は通常、外国勢力を信用できないものと見なしている。外国の指導者は中国の台
         頭を歓迎せず、その進歩を遅らせるか、妨害しようとしている、と彼らは考えている。さらに、多くの外国が機会さえあ
         れ ば中国を分割しようとしている、と恐れ、(中略)外国の影響を受けやすい周辺地域・海域に関する戦略マップを常
         に念頭に置いている」と記している。
         Michel Oksenberg,Taiwan, Tibet, and Hong Kong in Sino-American Relations (Stanford,CA: lnstitute for lntemational
         Studies、 1997).56.
注2 米中関係の歴史と進展に関する中国の解釈については、例えば、Qiao Mingshun,The First Page in Chinese-US Rela-
         tion(Beijing:Social Sciences Academic Press. 2000):Shi Yinhong and Lu Lei.“Thc U.S.Attitudc Toward China and China’s
         Entrancc to thc lntcmational Communitv: An Ovcrvicw of 150 Years Historv,” in Tao Wcnzhao and Liang Biyin, eds.,
         The United States and Modern and Contemporary China (Beijing:  CASS Press, 1996)を参照。


中国が170年にわたり侵略を企てているとしたのはアヘン戦争を起点に想定しているのではと考える。さて、人
口13億人を中国共産党が教育し煽ればどうなるか。マルクス思想を信奉すれどマルクスを逸脱した世界が待って
いると、本書はそのように警告している。さて、それを確認するために先を急ごう。

                                                                                        この項つづく

   ● 今夜の一曲

『北京の55日』(55 Days at Peking)は、63年に製作・公開された米国映画。清朝末期に義和団の乱が起こり、
首都北京に義和団が押し寄せて、外国人居留区が包囲されて11か国の居留民が籠城して55日間を戦った物語を
描いている。ジェームス・ディーン主演の「理由なき反抗」のニコラス・レイ監督で主演はチャールトン・ヘスト
ン、エヴァ・ガードナー、デヴィッド・ニーヴン。音楽は「真昼の決闘」や「OK牧場の決闘」などを手がけたディ
ミトリ・ティオムキン。また日本から伊丹十三が当時としては珍しく米国の超大作に出演して日本軍将校柴五郎を
演じている。オーケストラの演奏であるテーマを主題歌として“55 DAYS AT PEKING”は、ブラザーズ・フォア
日本で販売されヒットする。

 

レモンタイムとパラモータ

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       自民党と民主党も、反対なもののはずなんだけど、今は同じなんですよ。利害関係が同じになってる。
       同じことを小さく言うか大きく言うか、または、同じことをカッコよく言ってるかどうか、そこだけの問題に
       なっています。
       自分たちは汚いことはしないよ、と言うのか、自分たちのポッポに入れちゃっておいて、でも何かもう少
       し違うことを考えてるよとか、そういう違いはあるかもしれないけどでも、そのくらいの違いなんです。 

                                          吉本 隆明

 

                                         

                                Takaaki Yoshimoto 25 Nov, 1924-16 Mar, 2012 

 



Scarborough Fair/Canticle / April Come She Will (Word&music:Simon & Garfunkel) 

【レモンタイムを植える】

昨日、注文したレモンタイムの苗木をいつものユーパックの女性に届けてしたのだが、天候が悪く、今朝方植え
る。ところで、タイムにはフルーツの香りのするオレンジバルサムタイムやレモンタイムなどいろいろ種類があ
るという。ほふく性――茎が地面表面に沿って伸びる性質、這い性、クリーピング性を意味――のクリーピング
タイム、ゴールデンタイムやゴールデンクィーンタイム、シルバータイムこれはほんと一面に植えると銀の世界
に広がり展開する。その他にはキャラウェイタイムなどがある。日本のイプキジャコウソウは細い枝をのはして、
ほふくして広がる。葉をもむと芳香が匂い立つ。民間では発汗剤として利用。タイムを敷石や岩組の間に植える
とはぴこり、歩く折に踏みつけると足元ら芳香が漂い香りの散歩道として親しまれてきた。



レモンタイムは、名前のとおり、レモンの香りが特徴のヨーロッパ南部地中海沿岸が原産地のタイム。直立性か
らほふく性様々な品種があり、花は初夏~夏にかけて白やピンクの小さな花を咲かせ一面を覆うと美しい。古代
ギリシア・ローマ時代の人達にとり、タイムは勇気、品位、優雅の象徴で男の人は入浴後、このタイムの香りを
胸にすりつけたといわれる。中世の婦人たちは、スカーフに蜂とタイムを刺繍して勇者に贈ったと伝えられてい
る。葉は対生――葉が茎の一つの節に2枚向かい合ってつくこと。対生葉序――につき濃緑色の円形で長さ7ミ
リたらずと小さい。また、日当たりを好み、水はけがよ<風通しのいい場所を好みます。初夏にはじゅうたんの
ように花を咲かせる。とてもコンストランスがよく楽しませてくれる。水やりは、乾燥を好むハープだが、地植
えや植替えの場合は根がつくまではしっかり約1ケ月は水を与える。冬の期間は乾いたら2~3日、そのままで
置いてから水を与えると良いが、肥料は生育期間に液肥などを施こせばよいと言う。



レモンタイムのレシピは香草としてサラダやチキンなどの肉類に加えられるが、それ単独でも、レモンの芳香が
強いが、レモン汁を加えよりシャープに調理するため加えられる。下/左写真は「ズッキーニトルテのレモンタ
イムゴーダチーズ添え」。

  

また、レモンタイムは、上/右写真(右はレモンタイム、左はコリアンダー)のようにレモンタイムシロップ―
―砂糖を水を沸かし溶かし放冷し、レモンタイムの茎を投入し30分間浸漬し香りだしを行えばシロップができ
る。砂糖を入れずに香りだしたものを冷水として飲むと仄かなレモンの香りしておいしくいただける。写真のよ
うにコリアンダーをレモンタイムシロップにコリアンダーの茎をピッチャーに加え、テキーラ:ウオッカ・ライ
ムジュース:レモンタイムシロップ(コリアンダー入り):炭酸水=1::1:1:1.8:4でよくかき混ぜ
「ハーブ・テキーラーのシンコ・デ・マヨ」の爽やかなカクテルができあがる。今年の夏はサマー野菜サラダや
野菜スープで暑さを楽しく乗り切り、レモンタイムの冷水でのどを渇きを癒すことにしよう。


● パラモータを楽しもう!

  、Paramotor Sky Racers - Parabatix

 


川を渡り、海を越え、山飛びのバラグライダーが、いかにサーマルを掴まえて距離を稼ぐかにかかっているのかに
対し、燃料の続く限り半永久的にフライトを続けることができるパラモーター。クロカンは、その醍醐味を存分
に味わえるフライトスタイルと言える。仲間と一緒に無線交信しながら、次々と変わっていく景色を進んでいく
フライトは、普段の決められたエリア内でのフライトでは味わえない発見の連続となるだろう。ただし、当然ど
こを飛んでも良いわけではない。離着陸する場所は事前に許可を得る必要があるし、通過する空域も、空港や基
地の管制圈やフライト制限区域を通ってはならないルールがある。場所によっては関係省庁や自治体、電力会社
などに事前に許可を申請する必要がある場合がある。万が一のために、安全に着地できる途中のランディング候
補地も考えてく。許可の必要はなくても、住宅地や市街地、ゴルフ場や放牧地などを避けたり、または十分な高
度をキーブする必要がある(エンジン音は、フライトしていない者にとっては、迷惑な騒音であることをしっか
り自覚しておこう)。水辺をフライトするなら浮力体などの装備も必須。気象条件や地形の調査なども含めた事
前の徹底した情報取集や準備が、楽しいクロスカントリーフライトの秘訣となる。自己責任の重さを腹に括り飛
び立ち、そいて自然環境の奇跡を楽しもうではないだろうか。

Jigsaw Sky High

国内には、複数エリアで連絡を取り合って、お互いのエリアを行き釆したり、クラブなどでマイクロバスを貸切
り、機材も積み込んで、各地を旅しながらフライトツアーを楽しんでいる人達もいる。また、体一つで海外へ渡
り、レンタルのパラモーターユニットで、現地のフライトを楽しむことも整いだしている。

Van Halen Jump

 

 

 

 

 

おかしな写真

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                 人は他者によって作られたじぶんに責任を負わなければならない。    吉本 隆明

 

                                         

                                Takaaki Yoshimoto 25 Nov, 1924-16 Mar, 2012 

 



【おかしな写真】

天気もよく昼からラコリーナからシャーレに出かける。多くの客でごったがえしたいたが、樹齢250年の「ご神
木」と本社の「銅屋根」工事も完成間近となっている。建築家の藤森照信氏の設計になるが、ご神木といい銅屋根
も意表を突きおかしな感じがしないでもないが周りの環境に溶け込んでいて、面白いフォルムをつくりだしていて
面白い、あとは、ラコーテの入り口前のおかめ笹が成長すれば奥行きと歩道を包む茂り丁度目線を遮る高さまでに
剪定すれば迷路のようになるし、腰あたりで剪定すれば一面の笹畑が広がる前庭となるのではと想像している。本
社の落成式が楽しみだ。 



水ヶ浜シャーレも客でごった返し、外はBBQが漂いめいめい春を楽しんでいるが、ウエルカム・ベルを鳴らした
だけでチャイム店には入らずしばらく休憩し、国民休暇村まで車を走らせる。ウグイス、メジロ、アオジ、カワラ
ヒラ、コガラ、そしてサシバ?などの競演場となっているが圧倒的にウグイスが多いい。しばらくすると10数艇
のカヤック集団と併走するのでデジカメすれど、結果は何も写っておらん?でガッカリ!―――そのうちフランス
などで競技されているカヤックボール、水球でもなく、バスケットもなくハンドボールでもない――水上ゲームが
はやるかもしれないと。下は消えたカヤックの写真。

The largest destroyer ever built for the U.S. Navy is currently undergoing sea trials. Future versions of the radical design will be
fitted with 'star wars' railguns, if tests go according to plan.

Read more: http://www.dailymail.co.uk/sciencetech/article-3351736/Watch-Navy-s-largest-stealth-destroyer-paces-sea-trials-ra
dical-design-fitted-ultrapowerful-RAILGUN.html#ixzz45NX0GVND



もうひととつの変わった上の写真の話。これだけみていてはわからないだろう?家の屋根のように見えるけれど?
なぁに~っつ、物騒なもの一部だと?!

カーター米国防長官は8日、ニューヨーク市内で行った講演で、ステルス性能を持つズムウォルト級駆逐艦全3隻
を、太平洋とインド洋を管轄する太平洋艦隊に配属する方針を表明。アジア太平洋地域に戦略の重心を移すリバラ
ンス(再均衡)政策の一環。 長官は「国防総省はリバランス履行の新たな段階に入りつつある」と述べ、最新鋭
の兵器を地域に振り向けると強調したが、そのステレス同艦艇の制御操舵部の写真というからびっくり。

 

 

 

【ちょっとだけ量子ドット工学講座3】 

 

● 量子ドット型カラー表示装置 

エレクトロルミネセンス(Electroluminescence;EL:電界発光)とは主に半導体中において、電界を印加することで
得られる光の発光のことで、注入型と真性とがる。注入型電界発光は電界により、電子と正孔を注入し、その再結
合で発光をさせるもの。一方真性電界発光とは電界により加速した電子が何らかの発光中心に衝突し、その発光中
心が励起されて発光するものである。との説明はもう必要ないだろうが、エレクトロルミネセンス素子等の発光素
子で構成する画素をもつ量子ドットの表示装置が提案されている。 

しかし、量子ドットを含有する発光層や光散乱層を、光の取り出し方向である縦方向に重ねたスタック構造とする
ものが多く、微細な画素を有する高精細の小型表示パネルに適用すると、隣接画素に光が漏れる(クロストーク)
の問題があり、画素ごとにR(赤)、G(緑)、B(青)に発光する発光素子を設けた電界発光表示装置では、隣
接画素への光漏れにより混色が発生し正確な画像表示が出来なかったが、この問題を解決するために下図のような
新規考案が公開されている。

発光素子が設けられた第1基板と、複数のカラーフィルタが設けられた第2基板と、これらの基板との間に設けら
れ、第2基板の主面に対して垂直な方向に配向制御された物体を含む充填層とを備え、充填層の物体は、ロッド状
量子ドットで、また、充填層の物体が複数の量子ドットの集合体で構成することで、隣接画素への光漏れを防止し
画素間の混色を防ぎ、画質改善された表示装置を提供するものである。

尚、図の説明は以下の通りである。

【図1】実施形態に係る表示装置の概略構成を示す平面図
【図2】第1の実施形態に係る表示装置における画素部の概略構成を示す平面図
【図3】第1の実施形態に係る表示装置における画素の概略構成を示す断面図
【図4】第1の実施形態に係る表示装置の製造方法を示す図
【図5】第1の実施形態に係る表示装置の製造方法を示す図
【図6】第2の実施形態に係る表示装置における画素の概略構成を示す断面図
【図7】第3の実施形態に係る表示装置における画素の概略構成を示す断面図
【図8】第4の実施形態に係る表示装置の製造方法を示す図
【図9】第6の実施形態に係る表示装置における画素の概略構成を示す断面図
【図10】第7の実施形態に係る表示装置における画素の概略構成を示す断面図


● 量子ドット太陽電池の構造

「ちょっとだけ量子ドット工学講座1」(『カレーパンに閃く』2016.03.30)で紹介した京セラ株式会社の直近の
量子ドット太陽電池の構成・構造のバイオレーションである(下図)。ところで、量子ドット太陽電池の光電変換
効率は、量子ドット集積部内に生成するキャリアの総量に関係し、量子ドット集積部の厚みを厚くして量子ドット
の集積度を増やすことが発電量の向上につながるが、その1つとして、量子ドット周囲を、量子ドット自身のバン
ドギャップより大きなバンドギャップの障壁層で囲み、理論的に電子のフォノン放出エネルギー緩和の起こりに
くく、キャリアが消滅しにくいしているが、量子ドットを集積し量子ドット層を形成した場合、量子ドット内に生
成したキャリアが、障壁層を含む量子ドット層内に存在する欠陥に結合消滅し、キャリアの密度が低下し、電極ま
で到達できる電荷量の低下が起こり光電変換効率が上がらない。そこで、下図6に示すように、量子ドット集積部
内に、ナノロッドと呼ばれる柱状のキャリア収集部101を配置例を示す。

しかし、キャリア収集部101は、キャリア収集部101が基体膜である接合層103の表面に対し、ほぼ垂直な
方向に、互いに離間するように設けられていることから、量子ドット105から発生したキャリアは、一本のキャ
リア収集部101を介してしか接合層103までたどり着くことができず、キャリア収集部101により導電性の
低いものがあった場合に、キャリアを接合層103まで到達させることが困難となり、変換効率が上がらなかった。

そこで、今回は 量子ドット集積部1と、量子ドット集積部1の少なくとも一方主面に配置された接合層3と、こ
の接合層3から量子ドット集積部1内に延伸する柱状をした複数のキャリア収集部5とをもつつともに、延伸方
向の異なるキャリア収集部5同士で一部が接触。また、延伸方向の異なるキャリア収集部5同士で一部が接合。
キャリア収集部5は、接合層3側の根元部5aから延伸し、量子ドット集積部1内に解放端5bを有しており、
解放端5b近傍で接触または接合させることで、キャリアの接合層までの伝導性を高め、これにより光電変換効
率を高くできる構成・構造の新規考案が公開している。
尚、3の柱状晶は酸化亜鉛を例示しているが、わたし(たち)はこの問題解決のための構成・構造と製造方法を
考えをもっている。そのれはこのブログに掲載されているので、注意深く読んでいただければ分かる仕掛けにな
っている。以下、詳細は上図クリックし参照されたし。



【政府長期革新戦略、太陽光の効率2倍、発電コスト7円】

内閣府が3月24日、エネルギー・環境イノベーション戦略策定ワーキンググループの第4回会合を開催し、「エ
ネルギー・環境イノベーション戦略」のとりまとめ案を公表した。次世代太陽光発電では、「変換効率2倍」「発
電コスト7円/キロワット時以下」を掲げているが、革新技術は、現在の太陽電池とはまったく異なる新構造・新
材料として、「量子ドット」「ペロブスカイト」を掲げている。これはすでに、環境工学研究所WEEFの公式ホ
ームページすでにピックアップし掲載済みだが、もう一度記載しておく。

これからわたし(たち)の出番となる!これは実に面白い(隣で、いなくても大丈夫とたわけた声が聞こえたが?)。ところで、
「パナマ文書」が問題になっている。わたしはナショナリスト、民族主義者でもなく共同体主義的な考えをもつ。
英国・ロシア・中国・アイルランドの統治者の身辺はオープンにすべきである、先進国はもちろんのこと況や、ブ
ラジル・北挑戦などの開発独裁諸国もだ。それこそ、彼女じゃないが、「あなたがいなくても大丈夫よ!」といっ
てみようか、それともヘイトスピーチ風に「売国奴!」、あるいは、田中正造風に「亡国に至るを知らざれば、こ
れすなわち亡国なり!」とで叫んでみようか?ここは、ムロツヨシ風に「どうしてやろうか!!」と。ここは「オ
ー・マイ・ロード!」「吾に、汝に課せられた試練なり也!」と受け止めよう。

                                                                        

 

カイラル対称性を掴える。

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                   いいことを照れもせずにいう奴は、みんな疑ったほうがいいぞ。    

 

                                         

                                Takaaki Yoshimoto 25 Nov, 1924-16 Mar, 2012 

 

   訳  村上 春樹

 




            流離にも飽いて、彼らは今や望郷の念に焦がれる。彼らの目は

            群青(ウルトラマリン)の、一番星が穿った暗闇に向けられた。

            暗い寄せくる波に映し出された暗闇に。



                       ――デレク・マーソ「ゲイブリエル山」
                『南極大陸』(1985年ギャラリー・プレス刊)より

  

      今 朝

    今朝はまったく見事な朝だった。地面には少し

    雪が残っていた。クリアな青い空に太陽が

    浮かんで、海はどこまでもブルー、そしてまた

    ブルー・グリーソ。

    さざ波ひとつなく、穏やか。服を着替えて

    散歩に出た-自然のさしだすものを

    しっかりと受け取らずにはおくものかと。

    身をかがめるように曲がった、古木のそばを通った。

    あちこちの岩陰に雪が吹き溜まった

    野原を横切った。断崖まで

    歩いていった。

    そこで僕は海を、空を、はるか眼下の白い砂浜の上に

    輪を描いているかもめたちを、じっと

    見つめた。すべてがすばらしい。すべてが、混じりけのない

    ひやりとした光を浴びている。でもいつものように、僕のあたまぱ

    ふらふらどこかにさまよっていこうとした。僕は

    今、目の前にあるものだけを見るように、

    それ以外のものを見ないように、気を引き締めなくては

    ならなかった。自分にこう言い聞かせた。

    大事なのはこれなんだ、ほかのことは忘れろと(そして事実

    ひとしきりそれを見ていたのだ!)。そのひとしきりのあいだ、

    日常のあまたの雑念は、僕のあたまから放逐された。何が

    正しくて何か間違っているか-責務、

    美しい追憶、死についての思い、別れた妻を

    どうしよう。そんなものみんなどこかに

    消えてしまえばいいのにと、今朝願っていたことすべて。

    毎日まいにち、僕が抱え込んできたあれこれ。生きていく

    ために、踏みつけにしてきたあれこれ。

    でもそのひとしぎりのあいだ、僕は自分のことも、ほかの

    いろんなことも、きれいさっぱり忘れた。完全に。

    その証拠に、ふり返ったとき、自分がどこに

    いるのか、わからなかった。何羽かの鳥たちが、

    こぶだらけの木からさっと飛びたち、僕が行かなくては

    ならない方向にむかって行く、そのときまで。


 

 

 

【ナショナルトレッキング・スタートアップ】

● 安土山をトレッキング起点に

滋賀県の「トレッキングの山」の電子パンフレットによれば、赤坂山からスタートしているが、ここを起点(スター
トアップし反時計回りで一筆で戻って来るのは、また綿向山から北に縦走し次の霊仙山を目指すルート――三重の鈴
鹿・北鈴山系、御在所岳~藤原岳~御池岳(滋賀)~三国岳――のように鈴鹿山系を入れには、公共交通機関の利便
性を考えると繋ぎが悪そうだ。そこで、JR安土駅をポイントに安土山~箕作(みつくり山~竜王山~綿向山~雨乞
岳~御在所岳のコースがベターに思える。織田信長の「天下布武」にあやかり「天下高踏」とちょっと気取り過ぎも
するが悪くもない。尚、「ナショナル・トレッキング」の呼び方での「ナショナル」は「ナショナル・パーク」との
意味である。今年は1泊2日の関東の百名山の踏破も予定している。

コース距離は、JR安土→安土城趾→観音寺城趾→五個荘清水鼻町間で約17キロメートル、弾丸登山で2日にわけ
試踏(点線の赤と青)。天候次第だが16日(土)、23日(土)、30日(土)は吉野山、これは県外で関係ない。

 

  

 

【ちょっとだけ量子ドット工学講座 4】



● カイラル対称性とグラフェン

素粒子物理学の生成子Τの基本表現:SU(n)={g∈U(n);detg=1}で定義――ここで U(n) はユニタリ
群、 det は行列式――したとき、SU(3)は、Ta=1/2λa――ここでλはゲルーマン行数として表現したゲー
ジ対称性に基づき強い相互作用を記述される量子色力学(quantum chromodynamics、略称: QCD)、色つまり色荷(
カラーーチャージ)と言っても光の三原色で説明するための記述上の話。因みに、白色はカラーチャージを持たない状
態を表現で、SU(3)リー代数を表したもので、「白色」状態を作るには、三原色を持つクォークと「補色」となる
カラーチャージをもつ反粒子とでペアを作る(メソン)か、3つのクォークにつき、3つの三原色を重ねて「白色」と
なるようにトリオを作る(バリオン)かが考えられる。SU(3)の表現論では、3×3=1+8/3×3×3=1+
8+8+10に現れる1がそれぞれメソンとバリオンに対応すると説明される。

QCDには、クォークのフレーバー(素粒子)を入れ替える対称性が存在する。クォークの質量がゼロである場合は、
クォークの右巻きスピン成分と左巻きスピン成分の間の転換を表す項が理論のラグランジアンに含まれず、右巻きと左
巻きで別々にフレーバーを入れ替える変換でラグランジアンが不変となる。例えば、アップクォークとダウンクォーク
のみの理論を考える場合、カイラル対称性は SU(2)L×SU(2)R となる(ここでは U(1) 部分は考えない)。一般にフレー
バーが Nf 種類の場合、対称性は SU(Nf)L×SU(Nf)R であるが、通常は Nf=2、またはストレンジクォークを加えて
Nf=3 の場合を考え、実際は、クォークの質量は完全ゼロでなく、アップクォークは1.5~3.3 MeV、ダウンクォーク
は3.5~6.0 MeV であり、現実のQCDのカイラル対称性も厳密な対称性でない、近似的な対称性でQCDの非摂動ダ
イナミクスが重要になるエネルギー領域(200 MeV程度、QCDスケールと呼ばれる)付近では、この対称性の存在や、
その破れが大きな影響(ハドロンの質量など)を及ぼす。

つまり。このカイラル対称性の自発的対称性の破れが凝縮し真空期待値を持ち、理論が元々持っていた対称性 SU(2)L
×SU(2)R が破れ、右巻き成分と左巻き成分を同時に変換する、対称性 SU(2)V のみが残る。陽子や中性子などのハド
ロンが、構成要素であるクォークの質量の和よりもはるかに大きな質量は、ハドロンの内部で、クォークが凝縮したク
ォーク・反クォーク対との相互作用であると説明される。



グラフェンは単位胞に2原子(上図の白、黒の格子点)をもち、各格子点に1軌道を考えれば2バンドとなり、並進
対称性であれば、波数表示に移ったとき2行2列のハミルトニアンH(k) で記述し、グラフェンの基本的な特徴として、
蜂の巣格子上でA、B部分格子に分けたとき、図のように、主要な飛び移り積分はAB格子間にのみ存在し、一般に
bipartite と呼ぶ。この性質により、グラフェンのハミルトニアンは、γ=σ3 として、{ H, γ }= H + H =0 と
いう関係式を満たし、グラフェンのカイラル対称性と呼ばれ、このカイラル対称性はグラフェンの一つの重要特性で
あるフェルミオン・ダブリング(Fermion doubling) において本質的な条件なのである。

グラフェンは、実際に存在する試料には必ず乱れが存在し、グラフェンの物理における重要な一側面をつくる。グラ
フェンの乱れは、種々のタイプが考えられ、これらを上表にまとめる。この表では、乱れが存在するとき系のカイラ
ル対称性が保たれるか否かを示す。カイラル対称性を保つ乱れに関しては、ゼロ・エネルギーが特別な意味をもち、
後で説明する磁場中のn=0 ランダウ準位は大きな影響を受ける。表にあるように、不純物原子等からの乱れの効果
はカイラル対称性を破り、フリースタンディング・グラフェンと呼ばれる空中に浮かんだグラフェンを想定すると、
この系では不純物以外に、2次元固体の安定性要求の必須であるリップル(さざ波・揺動)には内的要因の乱れが存
在する。実験的に極限的に乱れを減らしてもリップルだけは取り除けない。このリップルの主な効果は、原子間の距
離を変更し、π軌道間の重なりの角度変更に寄与する。これは格子模型には長周期の空間相関を持つランダム・ホッ
ピング、ランダム位相として系に影響をあたえ、また、連続模型としてはゆらいだゲージ場をもたらす。 



このような特異な物性をもつグラフェンシートに、グラデーション量子ドットを挟み込み二層(≦数十ナノメートル)
のシートの周りをシリコン結晶のバンドギャップエネルギーより大きいバンドギャップエネルギー化合物で閉じ込め、
水平から、孔径の小さい方を受光面、大きい方をバックコンタクト下に垂直に方向転換し、光電変換素子とすれ一番
小さく軽い高変換効率な太陽電池が誕生する。構成・構造に多様な形態が考えられる。


   ● 今夜の一曲

レニー・トリスターノはイリノイ州シカゴに生まれる。白人。十歳で失明。十二歳で既にサロンでピアノをひいたり、
デキシーバンドでクラリネットやテナーを吹いていたという。アメリカ音楽院を経て46年にニューヨークヘ。60
年の〈ニュー・トリスターノ〉(アトランティック)を聞いていると、来るべきモダンジャズの原型を確認出来る。

   

重版出来

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             言葉の幹と根は、沈黙である。    

 

                                         

                                Takaaki Yoshimoto 25 Nov, 1924-16 Mar, 2012 

 

   訳  村上 春樹

 

      カフカの時計

 

                          書簡から

    私の得た職はサラリーがわずかに八〇コルナというもので、

    永遠とも思える八時間から九時間、働きます。

    私は会社の外では、野獣のように時間をむさぼり食います。

    いつか外国で、椅子に座って、窓の外に見える

    さとうきび畑や、イスラムの墓地なんかを

    眺めることができたらなあと思います。

    私は仕事に文句があるというよりは、ぐずぐずと流れる

    時間がいやなのです。仕事時間というのは、分割することが

    できません! いちにちの最後の半時間にだって、

    私はまるまる八時聞か九時間ぶんの重みを、

    ひしひしと肩に感じるのです。それはまるで夜も昼も

    列車に乗っているような感じです。そのうちにあなたはとことん

    うんざりしてしまうでしょう。あなたはエンジンの奮闘ぶりやあるいは

    窓の外の丘陵や平野に思いをめぐらすことも

    やめてしまうでしょう。起こることすべてが時計のせいに

    思えてきます。あなたはいつも時計を

    手のひらに握りしめます。それを振ってみます。そして信じられないという

    顔つきで、ゆっくりと耳に持っていくのです。


                      Kafka's watch

     I have a job with a tiny salary of 80 crowns, and
    an infinite eight to nine hours of work.
    I devour the time outside the office like a wild beast.
    Someday I hope to sit in a chair in another
    country, looking out the window at fields of sugarcane
    or Mohammedan cemeteries.
    I don’t complain about the work so much as about
    the sluggishness of swampy time. The office hours
    cannot be divided up! I feel the pressure
    of the full eight or nine hours even in the last
    half hour of the day. It’s like a train ride
    lasting night and day. In the end you’re totally
    crushed. You no longer think about the straining
    of the engine, or about the hills or
    flat countryside, but ascribe all that’s happening
    to your watch alone. The watch which you continually hold
    in the palm of your hand. Then shake. And bring slowly
    to your ear in disbelief.

 ※ レイモンド・カーヴァーが他界する3年前、1985年にニューヨーカーに掲載された作品である。

 

  

 

【ちょっとだけ量子ドット工学講座 5】



● 表面欠陥をなくせ!

現在の太陽電池の主流はシリコン太陽電池は、原料供給や製造コストが高いなど様々な問題を抱えている。その中で安
価、高効率な次世代太陽電池の候補としてpnヘテロ接合太陽電池がある。この太陽電池は、半導体量子ドット(QD)
と呼ばれるナノスケールの半導体を光吸収材料に用いることで、その特異な性質を利用しシリコン太陽電池を上回る変
換効率が期待されているとブログ掲載してきた。先々回このシリーズで紹介した「特開2016-048716 量子ドット太陽電
池」とよく似た「特開2016-051785  太陽電池」(国立大学法人電気通信大学)が開示されているので掲載する。

n型半導体とp型半導体を電極で挟んだ構造を有する。n型半導体に酸化亜鉛(ZnO)や酸化チタン(TiO2)な
どの酸化物半導体を用い、p型半導体として硫化鉛(PbS)、セレン化鉛(PbSe)量子ドットなどの16族原子
を用いたカルコゲナイド量子ドットが用いられる。この太陽電池の性能を決定する上で、量子ドットの種類や大きさに
より決定される吸収領域の選択、n型半導体の表面構造、それぞれの層の厚さが重要となっている。これまでの研究で
n型半導体を平面膜ではなくZnOナノロッド(ナノワイヤー)を適用しpn界面の比表面積を増大させることで光電
変換効率を向上させた報告を例示し※、PbS量子ドットとZnOナノロッドとのpn接合を含むヘテロ接合型の太陽
電池では、pn接合の界面準位に電荷がトラップされ――界面準位による電荷のトラップは、主にZnOナノロッドの
表面の酸素欠損等による欠陥(表面欠陥)が原因であると考えられる――電子と正孔の再結合による電荷損失が生じ、
十分な開放電圧が得られず。また、このような表面欠陥は、ZnOの代替材料でナノロッドを作製した場合にも同様
に生じ得るものであり、PbSの代替材料で量子ドットを作製した場合にも同様に生じるため、上述のようなヘテロ接合
型の太陽電池のエネルギー変換効率を改善するには、n型のナノロッドの表面欠陥を低減が必要である。

※ H. Wang, T. Kubo, J. Nakazaki, T. Kinoshita, H. Segawa, Jour. Phys. Chem. Lett. 4, 2455 (2013)MIT News, David L. Chandler,
   MIT News Office, March 25, 2013

この問題を解決の具体事例に、光透過性を有する基板と、この基板の光入射面の反対側に形成される導電膜に積層する
正孔ブロック層とpnヘテロ接合型光電変換層とその上の電極とで構成。光電変換層は、正孔ブロック層の光入射側と
は反対側の面から光電変換層の厚さ方向に沿い伸延する複数のn型ロッドと、これを被覆する被覆層と、複数のn型ロ
ッド同士の間、及び複数のn型ロッドの間に形成したp型量子ドット層で構成し、n型ロッドは、ZnO、In2O3、
あるいはSnO2製で、また被覆層が、TiO2、Y2O3、Al2O3、ZnS、SiO2製で、p型量子ドット層は、
PbS、PbSe、あるいはCuInS2製で構成することで目的を果たす。

上図1の太陽電池100は、基板110、導電膜120、正孔ブロック層130、ZnOナノロッド140、被覆層1
50、量子ドット層160、及び電極170を含む。図1(A)、(B)では、太陽光は太陽電池100の下面から入
射する。基板110は、太陽電池100の光入射側に位置するため、太陽光を透過する透明な基板であればよい。基板
100としては、例えば、ガラス基板、又は、ポリカーボネート等の樹脂製の基板を用いることができる。なお、図1
(A)、(B)では基板110の下面が光入射面である。

導電膜120は、基板110の光入射面とは反対側の面(図1(A)、(B)における上面)に形成される。導電膜1
0は、例えば、FTO、または、ITO等の透明な薄膜状の導電膜を用いることができる。また 
正孔ブロック層130は、導電膜120の光入射面とは反対側の面(図1(A)、(B)における上面)に形成される。
正孔ブロック層130は、ZnOナノロッド140と量子ドット層160とで構成される光電変換層から導電膜120
への正孔の流入を阻止するために設けられている。ところで、正孔ブロック層130は、一例として、ZnO(酸化亜
鉛)で作製される。正孔ブロック層130は、例えば、導電膜120の上にスピンコート法によってZnOの原料溶液
を塗布し、加熱処理を行うことによって作製することができる。加熱処理は、例えば、100℃~250℃程度で行え
ばよい。ここでは、150℃で行ってZnO膜を作製する。

ZnOナノロッド140は、例えば、純水中に硝酸亜鉛六水和物(Zn(NO3)2・6H2O)とヘキサメチレンテト
ラミン(C6H12N4)を溶解して、それぞれの濃度が25mMとなるように調整した混合水溶液を用い、基板110、
導電膜120、及び正孔ブロック層130の積層体を、90℃に加熱した混合水溶液に含浸させた状態で数時間結晶成
長させた後、電気炉で加熱処理を350℃ですることにより、正孔ブロック層130の表面に形成させることができる。
尚、ZnOナノロッド140の太さ、長さ、及び成長方向は、加熱温度や混合溶液の濃度等の作製条件によって変化す
るため、これらのパラメータを最適化して成長させ最適化すること。

また、図1(A)、(B)には、説明の便宜上、ZnOナノロッド140が正孔ブロック層130の上面に対して垂直
な方向に伸延している状態を示すが、実際のZnOナノロッド140は、正孔ブロック層130の上面に対する垂直な
方向に対して湾曲するように成長する場合がある。ここでは、このような成長方向を光電変換層の厚さに沿った方向と
称し、ナノロッドと称すが、ナノワイヤーとして捉えることもできる。  図3は、蛍光強度スペクトル分布を示す図で
ある。横軸は波長(nm)、縦軸は発光強度(a.u.)である。図4は、電流電圧特性を示す図である。また、下表
1は、図4に対応するTiO2の原料溶液濃度、処理時間、短絡電流Jsc(mA/cm2)、開放電圧Voc(V)、
FF、PCE(%)を示す。なお、太陽電池100における被覆層150を作製するための処理時間は、すべて5秒で
ある。

上図2は、ZnOナノロッド140の表面に形成される被覆層150を示すTEM写真を示す図。  図2(A)には、
被覆層150を形成する前の状態における、太さ(直径)34nmのZnOナノロッド140を示す。図2(A)には
ZnOナノロッド140の表面が鮮明に写り、ZnOの格子定数は、0.26nmである。 図2(B)には、被覆層
150を形成したZnOナノロッド140を示す。図2(B)のTiO2膜による被覆層150は、図2(A)のZn
Oナノロッド140を、2.5mMのTiO2の原料溶液で5秒間含浸処理した後、電気炉において350℃で加熱処
理をすることによって作製された。 図2(A)に比べると、ZnOナノロッド140の表面に分子が付着しているこ
とが分かる。これがTiO2製の被覆層150である。ZnOナノロッド140の太さ(直径)が34nmに対し、約
3nm~5nm程度のTiO2膜をZnOナノロッド140の側面及び先端面に形成できることが確認できる。


 被覆層150を含まない比較用の非TiO2太陽電池と、ZnO@1.0mM TiO2、ZnO@2.5mM TiO2、
ZnO@5.0mM TiO2、ZnO@12.5mM TiO2の太陽電池100とを比べると、短絡電流Jscは、被
覆層150を含む太陽電池100の短絡電流Jsc(23.5±1.0mA/cm2~26.5±1.0mA/cm2)
が、被覆層150を含まない非TiO2の短絡電流Jsc(28.7±0.6mA/cm2)よりも少し低い。また、
TiO2の原料溶液濃度が12.5mM以上になると、短絡電流Jscが低下する傾向がある。

また、開放電圧Vocについては、被覆層150を含む太陽電池100の開放電圧Voc(0.42±0.01V~±
0.05V)が、被覆層150を含まないWithout TiO2(0.28±0.02V)よりも少し高い。また、
TiO2の原料溶液濃度による影響は比較的小さい。FFについては、ZnO@12.5mM TiO2の太陽電池100
(0.43±0.01)は、被覆層150を含まないWithout TiO2(0.43±0.01)と等しいが、Zn
O@1.0mM TiO2、ZnO@2.5mM TiO2、ZnO@5.0mM TiO2の太陽電池100のFF(0
.45±0.002~±0.46±0.01)は、被覆層150を含まないWithout TiO2(0.43±
0.01)よりも少し高いことが分かった。また、TiO2の原料溶液濃度が12.5mM未満の場合に、FFが増大
する傾向がある。

以上より、PCEについては、被覆層150を含む太陽電池100(4.1±0.15%~5.1±0.15%)が、
被覆層150を含まない非TiO2(3.5±0.15%)よりも改善されていることが分かった。また、TiO2の
原料溶液濃度が12.5mM未満の場合に、PCEが増大する傾向があることが分かったという。

今回は長々と部分引用したが、このようにひとつづつ問題解決され、さらに新しい知見や改良がつづけられている事例
を紹介することで課題の共有を深めることができればと考えた次第である。 

マンガに関わる人々の超骨太人間ドラマ!

「マンガ」は、漫画家だけのものじゃない。
編集者、営業、宣伝、製版、印刷、デザイナー、取次、書店員…。
数えきれないマンガの裏方たちのリレーで、読者の手に届くもの。
そう、裏方の熱き想いがあるからこそ「マンガは売れる」んです!

マンガに関わる一人ひとりの人間ドラマをぐいっと描く本作、
全ての仕事人へのエール漫画です!!!

黒木華主演の「重版出来!」(じゅうはんしゅったい)をたまたま観たが、これまでのおとなしいイメージと変わって
黒木華がチャキチャキの新入社員を演じていて釘付けになる。これは面白い!楽しみの番組がまたひとつ増えた。とこ
ろで重版とは出版物を初版と同じ版を使い、刷り直すこと。増刷と重刷と同じ意味で、その重版が出来てその書籍が販
売されることだが、「じゅうはんでき」とも読まれる。出版業界では昔から使われている言葉なので、今回も出版業界
の色を濃く出すこのドラマにはぴったりなタイトルとなっている。

 

   


清貧と過剰

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        青春は例外なく不潔である。人は自らの悲しみを純化するのに時間をかけなけばならない。  


                                                                        吉本 隆明「初期ノート」  

 

                                         

                                Takaaki Yoshimoto 25 Nov, 1924-16 Mar, 2012 

 
※ 三田明の「美しい十代」や森田公一「青春時代」などを追憶ともに唄えるのも年の功。青春とは、未生にして隷属自
  虐(=不潔)。蹉跌(=悲しみ)から覚醒する時間が必要と箴言(mišlēy、Liber Proverbiorum)上梓する。凄い!

 

 

※ 13日、ミヤンマーで22年ぶりの大きな地震があったが、近畿(三重沖)でも小さな地震が続くものの静謐状態。



※ 怖いですね!?

  JP 2014-111932 A 2014.6.19

【再エネ百パーセント時代:最新小水力発電技術】

福岡工業大学の阿比留久徳教授が「フラッター水力発電装置」を開発し、一部の技術について特許権を取得。まだ試作段
階の発電機だが、落差がない流れの緩やかな水路に低コストで設置できるのが大きな特徴。日本の各地に広がる農業用水
路を活用した小水力発電のニーズは高いものの、発電に必要な水の落差の確保や設置工事に伴う周辺環境への配慮、さら
にコストの問題など導入に向けた障壁も多い。福岡工業大学 工学部 知能機械工学科 教授の阿比留久徳教授氏が開発を
進め特許を取得した「フラッター水力発電装置」は、こうした課題をクリアする発電機。フラッター水力発電装置は水中
翼が水の流れる方向に対して左右に往復運動をすることで発電する。水中翼につながった機械構造は蒸気機関車のピスト
ンのような動きで発電機を一方向に切れ目なく回転させる。これにより発電する仕組みだ。大雨などで水流が速くなった
場合には破損しないように水中翼の角度を調整できる。複数台を並べて、発電量を増やすことも可能。


今回発表したフラッター水力発電装置は試作段階で、小型のため発電量は水流が毎秒1メートルの時に50ワット程度。
現在、農業用水路で実証運転を進めている。今回、将来の実用化に向けて水中翼の往復運動を、発電機の特定方向の回転
に変換する機械構造部分について特許を取得。将来的なフラッター水力発電装置の用途としては、緩やかな水流でも発電
できるメリットを活用し、送電線を引くことが難しい地域で小規模に自然エネルギー利用を活用したいといったニーズで
の利用などを見込んでいるという。具体的にはLED外灯の点灯や災害時の非常用電源、電動農機具の夜間充電などへの活用
を見込んでおり、福岡工業大学では現在バッテリーへの充放電の組み合わせを最適に制御し、電力を有効利用するための
研究も進めているとのこと。

上の写真を看ると堰のように横断設置させている。また、特許説明図を見るといかにもメカニシャンの発想で面白い?大
きな河川なら水運用の船舶対策は必要になり保全からはコスト高の予想される。それなら、ブログ掲載した圧電素子の振
動子(『ドライマウスからスマートキャンティ-』2015.02.06)を水中浮体に収め連珠綱(ロープ)を河幅似合わせ流れ
に併行、水中に両端を発条固定し沈設させ、流れと水中浮体が生み出す振動を発電変換した方が、保全が簡素で水運の利
便性を損なわないし、河川だけでなく、潮流や波力などエネルギー変換が可能だと思うが、それはさておきこれはこれで
試す価値はある。

 

How Solar Became Mainstream, and Why It Will Keep Growing

● 屋根貸し発電で電気料金を安くする事業に乗り出す

日本で太陽光発電の日本エコシステムが、太陽光発電を手持ち資金なしで設置でき、自分の屋根で発電した電気を自分で
使える電力小売り事業をスタートアップする(「日経テクノロジーオンライン」2016.04.13)。「じぶん電力」と名付け
たこの新サービスは、米国で08年から急速普及している「第三者所有(Third-Party Ownership:TPO)モデル」の仕組み
とほぼ同じで、ニューヨーク州での「TPOモデル」浸透率は90%という実績を誇る。

因みに、従来はインストーラーがシステムを販売して設置し、電力消費者がシステムを(現金、またはローンで)購入、
所有していた。TPOモデルの場合、デベロッパーが第三者から資金を調達して電力消費者の自宅の屋根に太陽光発電を設
置し、さらに、システムから発電される電力を消費者に販売する。消費者は大きな導入費無し、修理・メインテナンスに
煩わされずに、太陽光発電の恩恵を享受できる。このモデルはシステムのリースと違い、電力売買を伴うので、電力購入
契約(Power Purchase Agreement:PPA)とつなげて、TPOPPAと呼ばれることもある。 「導入費なし」が受け、TPOはオー
ナー所有(現金、ローン購入)を抜き、14年には米国住宅用太陽光発電市場のなんと72%を占めるまでに成長した。そ
の設置容量は890MWに達する。TPOの貢献は大きく、米国住宅用太陽光発電市場は過去4年連続で50%の成長率を続け、
14年から非住宅用(産業・商業)市場規模を上回るまでになっている。さて、このモデルが日本でも実現するかそれは
当事者の努力次第!?

 

● 再生可能エネルギー発電が世界で過去最高の8%増加

 

世界140カ国以上が加盟するIRENA(国際再生可能エネルギー機関)が2015年の全世界の導入状況をまとめた。1年間
に運転を開始した再生可能エネルギーの発電設備は1億52百万キロワット、累計で19億8千5百万キロワットに達し
た(上図)。原子力発電所1基を百万キロワットで計算すると、2千基基分に相当する再生可能エネルギーで稼働できる状
況だという(スマートジャパン 2016.04.12)。

 

● 電力の自給率百%超の市町村が百カ所

千葉大学と環境エネルギー政策研究所が07年から続けている「永続地帯」の研究結果で明らかになった。国各地で再生
可能エネルギーの導入量が拡大して、地域ごとの電力自給率が上昇している。自給率が百%を突破した市町村は15年3
月末の時点で百カ所に達した。都道府県別では地熱が豊富な大分県が38%でトップを走り、続いて秋田県でも300%
を超える自給率になっている。市町村別に見た電力の自給率でも大分県の九重町が1位。日本最大の地熱発電所である「
八丁原(はっちょうばる)発電所」をはじめ、大規模な地熱発電所が3カ所で運転中で、電力の自給率は実に2百%を超
える。特に九州の各県の伸びが顕著で、中でも宮崎県は9.5%から15.8%へ6ポイント以上も上昇した。宮崎県ではバイオ
マス発電が3倍以上に拡大したほか、太陽光発電も2倍に増えている。そのほかの県でも太陽光発電の増加が自給率を引き
上げた大きな要因である。

ところで、たとえば大分県の太陽光発電は13%程度閉めているが、仮に変換効率15%だとすると30%のパネルに変
えた場合、再エネ全体で38%だからさらに増加し、再エネ発電量は51%となる。ただし、設置面積は変わらないもの
とする。設置面積を現行の3倍にすると大分県全体で百パーセントに到達する。

 

● 清貧か過剰かそれが問題

質素な生活ぶりから「世界で一番貧しい大統領」とも呼ばれたホセ・ムヒカ氏が富裕層への富の集中が進み、これ以上な
いほど豊かな人がいる一方、取り残される人たちが先進国でも増えている。そこに向き合うべきは政治だ。不公平をその
ままにすれば争いが生まれ、政治が主導して格差の解消に取り組むべきだと訴えていると彼女が突然こう言い出す(いつ
もこの調子で同意をもてめてくるのだ)。こうも言っていると、13億近いインドの国民が一人一台の自動車を保有する
れば、国民は幸福になるだろうか、むしろの世界の環境が荒廃不幸になるだろう。そうではなく、貧しくとも幸福な生き
方はできる、と。清貧耐乏か過剰消費という選択が迫られているが、清貧で幸福でいられたら良いねと共感しているのだ。
20年前もこの命題が突きつけられたことを思いだし、"この進歩"は止められないが、アル・ゴアの「不都合な真実」の
警告も受けざるをえないねと応える。

最強の八畳工房

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            資本主義の制度に欠陥があるってことはですね、多分、
            百年ぐらい前にはもうわかっていたんだと思っています。



                                         

                                Takaaki Yoshimoto 25 Nov, 1924-16 Mar, 2012 

【動き出す"気づき工房"】

昨夜の地震で寝不足。義兄が熊本に住んでいるので電話すれど通信不能でやきもき。しばらくすると、どうやら姪
っ子がち早く連絡をとったので安否確認できほっとする。熊本といえば89年に熊本大学に出張の帰りに件の義兄
と再会し、震源地の益城町の熊本空港まで見送ってもらたことや、宿泊したホテルやカラオケを歌ったビルはは大
丈夫だったのかなど思い出していたが、熊本城はひどいことになっていた。余震はいまも続いているが、断層のハ
レーションによる最寄りの断層の群発地震も心配もされる。ところで、この地震研究には興味があり、ノストラダ
ムスの予言のグランドクロスの重力影響とそのヒステリシス地球の共振の影響は1999年を時間軸として±10
年範囲で、大きな地震しとして現れるのではという突拍子もない仮説をたてたものの成果なしにここまできた。



● 群発地震拡大中!

  The Nostradamus Address

● 最強の八畳工房

そんなていたらくなのだが、この八畳の書斎、作業城、兼寝室でテレビを地震情報みながら、ナショナルトレッキ
ングのアプリ開発の準備のためルームランナーで体力を維持し、スリーディプリンタを立ち上げ――直近作業で、
「アヒルのスマホスタンド」をプリント中で、これは3時間かかる――ているが、そこに、環境情報の調査研究と
ホームページと2つのブログ更新と、かなり結構きつい上に、三次元CADが入ってくる――眼精疲労は半端じゃ
ない。焦りはないと言えば嘘になるるがこの方向性は間違っていなかった。万一、通販業に手を出していたら大失
敗するところだった。ところで、下の写真のように、簡単に三次元出力データが作れる簡易版ハンディスキャナー
(定価で2万円余やすくて1万8千円)で手に入る時代で、自分のデスマスクも石膏なしで作ることができるし、
ブログでも掲載したが靴のオーダーメイド通販事業も可能な時代であり、何度も書いているが、八畳の小さな"環
境工房事業"が可能とさせるのは『デジタル革命渦論』ならではのこと。



 
● モンベルのトレッキングポールの付録

トレッキングポールをアウトレットでなく通販で注文すると、カタログやカード勧誘や機関誌など盛りだくさん付
録がついてきたので急ぎ目を通す。ことしは8月11日が山の日に制定されていることを知る。シニア世代が多く
なり、トレイルやトレッキングがちょっとしたブームになっているからなんだろう。広報誌の対談で、外国旅行者
が増えたが、山歩きなどディープな楽しみ方がうえるのではという問いかけに、養老孟司が日本は雨が多いので、
雨が降っても大丈夫、雨が降った方が気持ちがいいといったものがあればよいと(モンベル社に商品開発を)提案し
ている件がなるほどと思わせる。それいがいには「山の環境を守るには」(下の切り抜き)で、トイレマナーが取り上げられて
いた。これは重要課題だと再確認することになる。できれば地方創世事業の共通公共事業として知恵を絞って、技術、設備、
費用への支援があれば「国土の価値」を高めることになように思える。

 


● 折々の読書  『China 2049』24  


                                  秘密裏に遂行される「世界覇権100年戦略」     

                                                    マイケル・ピルズベリー 著
                                                    野中香方子 訳 

ニクソン政権からオバマ政権にいたるまで、米国の対中政策の中心的な立場にいた著者マイケル・ピルズベリーが
自分も今まで中国の巧みな情報戦略に騙されつづけてきたと認めたうえで、中国の知られざる秘密戦略「100年マラ
ソン( The Hundred-Year Marathon )」の全貌を描いたもの。日本に関する言及も随所にあり、これからの数十年先の
世界情勢、日中関係そして、ビジネスや日常生活を見通すうえで、職種や年齢を問わず興味をそそる内容となって
いる。 

 【目次】

  序 章 希望的観測
 第1章 中国の夢
 第2章 争う国々
 第3章 アプローチしたのは中国
 第4章 ミスター・ホワイトとミズ・グリーン
 第5章 アメリカという巨大な悪魔
 第6章 中国のメッセージポリス
 第7章 殺手鍋(シャショウジィエン)
 第8章 資本主義者の欺瞞
 第9章 2049年の中国の世界秩序
 第10章 威嚇射撃
 第11章 戦国としてのアメリカ
 謝 辞
 解 説 ピルズベリー博士の警告を日本はどう受け止めるべきか
     森本敏(拓殖大学特任教授・元防衛大臣)   

 

    第5章 アメリカという巨大な悪魔 

                                   夢中生有――夢中に有を生ず

                                     『兵法三十六計』第七計

  1990年以降、中国の教科書の、アメリカに関する記述は書き直され、アメリカは150年以上にわたって
 中国の繁栄を抑え、中国文明の精神を破壊しようとしてきた悪者として描かれるようになった。この再教育の試
  みは、「愛国教育プログラム」という当たりさわりのない名のもとに行われた(中3)。亡命者であるミスター・
 ホワイトは、このプログラムによって毛体制の最初期(アメリカとの交渉が始まるはるか昔)以降、封印されて
 いた、歪曲されたアメリカ史が再び浮上することを予見していた。おそらくその印象的な一例は、1951年に
 刊行された王春による歴史の教科書『美国侵華史話(アメリカによる中国侵略の歴史)』が、2012年に再版
 になったことだろう。オンライン上のコメントは、その教訓は時を経ても不変だと主張していた。
 「本書はしばらく絶版となっていたが(わたしたちはそれを再版した)……時を経ても、この本に描かれた歴史
 的事実は真実であり、時代が変わろうとも不変である(注4)」

  このコメントが掲載されたのは、穏健と見なされている中国社会科学院のウェブサイトだ(注5)。
  2013年の秋、中国国家博物館を訪れたわたしは、このプロパガンダの衝撃的な実例を目の当たりにした,
 中国共産党のタカ派と自由主義の改革論者は、中国の歴史の解釈と、それをどのように公表するかについて、長
 く争ってきたので、もの台頭以降、その博物館は開いている時期より閉まっている時期のほうが長かった。19
 61年に、天安門広場のすぐそばに建設され、1966年、文化大革命の始まりとともに閉鎖した。1979年
 に中国経済を開放しはじめた小平は、その歴史博物館も再びオープンさせた。しかし2001年、新たな世紀
 を迎えてまもなく、再び閉鎖された。そして2011年に中国の指導者が再びその一脈を開くまでに、10年の
 歳月と4億ドルの資金が費やされた,指導者たちには二つの目標があった,一つは、その博物館を世界最大のも
 のにすること、ルーブル博物館、大英博物館、メトロポリタン美術館より大きくすることだった。エントランス
 ホールは壮大で、天井の高さはピルの10階に相当し、サッカー場を三つ並べたくらいの奥行きがある。その上
 の展示室には三つの巨大な鼎が飾られていた(迂闊な楚の王とは違って、わたしはその重さを尋ねなかった),

  ニつ目の目標は、その博物館に「中国の国民は勤勉、勇敢、聡明で平和を愛し、中国は人類文明の進歩に不滅
 の貢献をする」というストーリーを語らせることだった。もちろん、国立の歴史博物館がその国を賞賛しようと
 するのは珍しいことではない。しかし、その博物館でわたしが驚いたのは、アメリカを含む諸外国と中国との関
 係について、そこで語られていること、そして語られていないことである。

 「再生への道」と呼ばれる常設展.小では、中国共産党の視点から見た、1840年から現在までの近代中国史
 が紹介されている。その歴史は、「西洋資本主義諸国の大規模な発展と略奪の時代」における中国の「半植民地、
 半封建社会への後退」に始まる。これらの「帝国主義の列強(アメリカを含む)」は、「ミツバチの大群のよう
 に中国に襲いかかり、われわれの富を略奪し、人民を殺害した]。1900年の義和団の乱(注6)については、
 「中国国民は異国の侵略者に対して断固たる攻撃を行った」という歪んだ説明がされている。そして、第二次世
 界大戦における日本との戦いでは、「中国国民はその近代史において初めて、外敵の侵略への抵抗、撃退に成功
 し、勝利を収めた」。中国はその後、「とるべき進路についての歴史的決断」を迫られ、「反動的」な蒋介石の
 「独裁支配」よりも、毛の中国共産党(平和と民主主義のために断固として闘争する党)を選択する。

  共産党のリーダーシッブにより、中国国民は「独立心を育み、困難に打ち勝って、他国に頼らない、より包括
 的な産業システムと経済システムを創出し、社会主義の近代化のためにきわめて重要な、物質的、技術的基盤を
 築いた」。党のおかげで、この「偉大な国家」は、「活気あふれる社会主義市場経済」を建設し、今では「広範
 囲にわたる開放」を享受している,将来、中国人は「CCP(中国共産党)中央指導部を中心として密に団結し」
 「中国ならではの社会主義の旗印を高く掲げるだろう」。

  語られていなかったのは、第二次世界大戦における中国の勝利が、展示が悪者とする「西洋資本主義諸国」の
 軍事介入によること、アメリカの投資とアメリカ市場があればこそ、中国の輸出は劇的な急成長を遂げたという
 こと、そして中国の技術の進歩はアメリカとの科学技術交換プログラムの、100件近い協定に依存していたこ
 とである。その代わりに、わたしが見た唯一の、アメリカ人が写った大きな写真は、100年前、義和団の乱の
 時に、数名のアメリカ人が紫禁城の皇帝の玉座に座り、皇帝を侮辱している姿を収めたものだった。なぜそのア
 メリカ人が中国にいたのかについての説明はなく、彼らの主な目的は、中国を隷属させ侮辱することだったとい
 う印象を来館者に与えている。写真の隣の地図には、義和団の乱の後、アメリカを含む諸外国の軍隊が侵攻した
 地域が示されていた。

  わたしの招待で、中国国政の外交学院の大学院生が3人、わたしとともにその博物館を訪れた,彼らは外交官
 になるための教育を受けているところで、共産党政府の見方を教え込まれていた。彼らは、義和団の乱で10万
 人の中国の民間人が殺されたことや、弟一次世界大戦中にアメリカが中国を援助したこと、1959~62年ま
 でに毛沢東の大躍進政策とそれがもたらした飢饉のせいで、2000万人以上の国民が死んだことや、国立大
 学を閉鎖し中国を引き裂いた1966~78年の文化大革命により、数百万人が死んだことについてはよく知ら
 なかった,そして、天安門広場の抗議緊会について聞いたことはあっても、それ以上のことは知らかった。
  言うなれば、この大学院生たち自身が、天安門広場の虐殺後に小平が下した決定の産物だった,天安門事件
 は、それについて言及していないこの博物館からわずか200ヤードのところで起きた(注7)、1989年以
 降、男は党の支配をより強固にするため、李鵬をはじめとするタカ派と手を結ぶことにした。そして彼らは、も
 う一度と中国の学生が自由の女神を建てることも、独立宣言を引き合いに出すことも、アメリカの価値観を中国
 共産党のそれより優れたものと見なすこともないだろう、と明言した。1年とたたないうちに、教科書はアメリ
 カを「大悪党」と潜き直し、今後、中国の学校や図書館では、アメリカについてはこの唯一の公式見解に沿って
 教えられ諸られることになった。

  

John Tyler (March 29, 1790 – January 18, 1862)

  最新の中国版の歴史では、ジョン・タイラー大統領がアメリカの悪人の筆頭に挙げられている,1844年の
 望厦条約で、タイラーは中国に、毛が「アメリカの中国侵略の結果として初めて締結された不平等条約」と呼ぶ
 ものを押しつけた(注8)とされる。中国の学生に与えられた教科書によれば、アメリカにとってその条約は、
 「中国を搾取するための不法行為一ヘの門戸を開くものだった,タイラーとアメリカ人は「敵が働いているとき
 は、ゆっくりと侍つ」(『戦国策』の言葉)ことを選んだ。アメリカはまだ中国を支配する力を持っておらず、
 その好機を待つつもりだった。中国タカ派にとって、タイラーは邪悪な天才であり、アメリカが中国を完全に支
 配するための台を築いた人物とされている(注9),

  タイラーに続いて中国に大鉈を打ち込んだのは、反中国の首謀者、エイブラハム・リンカーンである。もちろ
 んアメリカでは、リンカーンは丸太小屋で育ち、合衆国を統一し、奴隷を解放し、その信条ゆえに生命を奪われ
 た高潔な大統領として記憶されている.、しかし中国では、冷厳で残忍な、アメリカの帝国主義者でしかない,
 人民大学の国際関係学教授、時殷弘は、リンカーンは「中国が国際社会の中で支配され、搾取されることさえ望
 んだ」と述べている(注10)。

  この中国版の歴史によれば、リンカーンが中国と西洋社会との関係を正常化するために太平洋を越えて外交官
 アンソン・バーリゲームを送り込んだのも、真の動機はそこにあった。北京外国語学院、アメリカ研究センタ
 ーの梅仁毅によれば、1868年に締結されたバーリンゲーム条約は、中国に「西洋文明の基準に従う」ことを
 強いるものだった(注11)。つまり、西洋の外交流儀に合うよう中国のしきたりや礼儀作法を破壊し、アメリカ
 による太平洋の支配というリンカーンの夢の実現を助けた、と言うのだ。

  20世紀初頭、アメリカはさらに本性を露わにした,1900年の義和団の乱では、愛国心の強い反乱軍(義
 和団)が中国を西洋の支配から解放するために戦ったが、アメリカはこの反乱軍を制圧しようとする8カ国連合
 軍に加わった。連合軍は中国を破壊、略奪し、勝利を収めると、中国に610億ドルの賠償金(現在のドルに換
 算)を課した。アメリカは、他の国々をだまして中国を攻撃させ、趙火打劫(火事につけこんで泥棒をはたらく、
 「兵法三十六計』第五計)と、借刀殺人(同盟者や第三者が敵を攻撃するよう仕向ける、「兵法三十六計』第一
 二計)を図ったとしている(注12)。

  義和団の乱の後、中国の勢いは、衰えはしたが、消えたわけではなかった。中国は第一次世界大戦で連合軍を
 助け、勝ち組の大統領、ウッドロウ・ウィルソンがヴェルサイユ条約で人権尊重と民族自決を約束した時、中国
 にとって事態は好転しつつあった。しかし中国に言わせれば、ウィルソンが掲げた、平和を守るための自由と世
 界の軍事協力という夢は、世界を欺き、覇権を狙うアメリカの侵略行為を認めさせるための巧みな謀略だった。

  郵蜀生の影響力ある教科書『美国歴史与英国人(アメリカの歴史とアメリカ人)』によると、ウィルソンは「
 中国のすべてをアメリカの支配下におく」ことを狙っていたそうだ(注13)。そのため肢は、山東省のドイツ租
 借地を中国政府に戻すのではなく、日本へ譲渡することを約束し、条約でそれを保証した。戦国時代に二枚舌を
 駆使した覇権国と同じく、ウィルソンは密かに、戦いで疲弊した中国の息の根をとめようとしたのだ。悲劇的に
 も、この「裏切り」は1919年に五四運動と呼ばれる抗議運動を引き起こした。それが近代中国のナショナリ
 ズムを触発し、1921年、ついに中国共産党が結成された。

  中国のアナリストは、第二次大戦中の日本による1931年の満州侵攻と、1937年の中国本上への侵攻も
 アメリカの戦略の一部だと主張する。日中両国が西太平洋地域でアメリカの覇権を脅かす存在に成長するのを阻
 むため、互いに反目させて、終わりのない戦いに陥れようとした、というのだ。済南大学の歴史家、ターン・チ
 ーンは、フランクリン・ルーズベルト大統領がいかにして「抵抗運動において中国人が大きな犠牲を払うように
 仕向けたか」を説明する。


ことの歴史的確度はともかくとして、清王朝末期は欧米の多国籍軍(日本も含む)にひどい犠牲を強いられたことも、
そして、その犠牲の規模において、大躍進や文化大革命犠牲での犠牲は遙かにそれを上回ったことも事実と考えるの
は妥当なんだろう――個人的には時間があれば関連資料を集めてみたい――と思える。

注4.この本が再版されるという主張のソースは、CASSのウェブサイトである。 Wang Chun,A Histrory of the U.s. Aggression
         in China (Beijing Worker's Press, 1951).さらなる詳細はAndrew J. Nathan and Andrew Scobell. “How China Sees Ame-
    rica: The Sum of Beijing's Fears," Foreign Affairs (September/October 2012) を参照。以下のサイトで人手可能。 
         http://www.foreignaffairs.com/articles/138009/andrewj-nathan-and-andrcw-scobcll/how-china-sccs-amcrica.
注5.  CASS ウェブサイトの中国版は、以下のサイトで人手可能。httP://www.cssn.cn/.英語版はこちら。 http://english.cass.cn/.
注6.  義和団の乱についてさらなる詳細は、Larry Clinton Thonlpson,William Scott Ament and the Boxer Rebellion: Heroism,
          Hubris, and the "Ideal Missionary" (Jefferson, NC: MCFarland, 2009)を参照。
注7.  鄭の規定の影響についてより幅広く知りたい場合は、Vogal, Deng Xiooping and the Transformation of Chine を参照。
注8.  Secret Works of Mao Tes-Tse-tung, Volume iv (Beijing: Foreign Lunguages Press, 1961)、450.
注9.  Xiong Zhiyong. “A Diplomatic Encounter between China and America Reviewed from the Signing of the Treaty of Wan-
          gxia,” Modern Chinese History Studies. no. 5(1989): Qiao Mingshun, First Page in Chinese-U.S. Relations, 200, 33-34,
          38, 147, 171; Li Jikui, "Chinnese Republican Revolutions," 41-42, in  Tao Wenzhao and Liang Biyin, eds., The United
          States and Modern and Contemprary Chinaj(Beijing CASS Press, 1996).
注10.  Shi Yinhong, Lu Lei, “U.S.Attitude toward China and China’s Entrancc to thc lntcmational Conlnlunity,” 6. 
注11.  Mci Renyi,Centcr for American Studics, Bcijing Foreign Languages Univcrsity, “Amcrican Reporting on China’s
           Reform and Opening up.” 422 (Beijing Foreign Languages University Press,1995).
注12   The Thirty-SIx Stratagems (兵法三|一六計)、第1章、以下のサイトで人手可能。
           http://wengu.tartarie.com/wg/wengu.php?1=36ji&&no=3.
注13.  Deng Shusheng,Malguo Lishi yu Meiguo Ren American History and Americans(Beijig: Peoples’ Press, 1993)、55.
注14.  Tang Qing, “U.S. Policy Toward Japan Before the Outbreak of the Pacific War,” in Jianghandaxue Xuebao {Jianghand
           University ournal}(April 1997):105-9

                                                                    この項つづく

 

 

  

トレッキングと修景 Ⅰ

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         現実化と映像化との同一化の核心にあるものは、ふたつだ。
            ひとつは、規定できるかぎりでの現実よりも過剰になり、重畳された現実は、かならず
            映像化されるということだ。もうひとつは、構築された物の体系からできた現実が、天
            然を内包するところでは、差異を介して映像化が生じるということだ。   

            何をなすべきかという問いが消滅して、その同じ場所にどう存在すべきかという問いが
            発生するのはそのためなのだ。

                                                                    『ハイ・イメージ論
 

                                          

                                  Takaaki Yoshimoto 25 Nov, 1924-16 Mar, 2012 

 



【トレッキングと修景 Ⅰ】

● 安土から繖山へ

連日の地震報道でぐずつき、予定時間の午前6時になっても態度を決めかねていたが、8時に家を出て30分後安土城趾の
向かい無料駐車場(見寺:そうけんじ)に止め入場する。入園料は700円だが以前は無料で大手門を仰ぎ望めたが見せ
物小屋の様に視界を遮る配置となっている。

 

入場門の右手にトイレと休憩城の建屋か新築されていたのも目新しいかったが(下写真)、過去2度ほど登城しているので
朧気ながらレイアウトは記憶に残っている。ただ予定していた安土山を経由して繖山(きぬがさやま)に向かうことは不可
能であることをが理解できた(囲い込みされていて抜け道がない)。



天主跡――背丈ほどの宮古の石垣に囲まれ東西南北それぞれ約28メートルの台地。今は礎石が1.2メートルおきに整然と
並ぶだけだが、この部分は天主の穴蔵(地階の部分)にあたり、その上にさらに大きな天主がそびえていた、五層7階(地
上6階地下1階)の天主はイエズス会の宣教師ルイス・フロイスによればヨーロッパにもあるとは思えないほどの壮大さで
あったとし、高さ33メートルの高層木造建築は当時、わが国で初めてのものである。内部は信長の御用絵師、狩野永徳の
豪壮な障壁画や装飾を配している――にと登ると、日本一のパワースポットである琵琶湖が眺望できるが、常緑針葉樹林の
スギ、ヒノキなどの高木が周りの景観を遮り、竹田城のような開放感は失われている。一通り散策した後下城し、繖山への
登山口をどこにするか考え、安土城考古博物館の駐車場を経由し、正規の登山口コースではなく、途中から合流する保安林
道からの入山を試みる。

  西の湖の眺望

 

  信長公本廟

天主跡西下の伝二の丸跡に信長の本廟がある。重臣、羽蔡秀吉は天正11年1月三法師に年賀を表すべく登城し、翌2月信長
ゆはりの安土城二の丸跡に太刀、烏帽子、直重などの遺品を埋葬して本廟とした。そして6月2日の一周忌には織田一族や家
臣を集め、盛大に浩要を行った記録されている。

  三重塔

山の中腹に見える三重塔は三間三重の塔で屋根は本瓦葺き、室町時代の建物で棟柱に、享徳3年(1454)建.た、天文24
年(1555)修理の墨書きがある。天正3~4年に信長が甲賀の長寿寺(甲賀市石部町)から移築したものと書かれている。
慶長9年(1604)豊臣秀吉の次男、秀頼が一部修理してしいる。大正3年9月、突然三層目の屋根と一、二層の軒が崩落し
たがすぐに修復されている。

  二王門(楼門)

棟木に「元亀二2(1571)7月甲賀武士山中俊好建立」とある。屋根は入母屋造り、本瓦蒼吉茅葺き。門内に安置されて
いる金剛力像も門同様国措定重要文化財で頭部の内側に応仁元年(1467)因幡院朝市の造像銘が残っており、信長が天
正年間に甲賀から移した。 

  安土城趾から同考古博物館と繖山

 同上から滋賀県県道2号線(能登川)を望む

  登山道合流点道標

  繖山登山道から考古博物館を眺望

  繖山登山道から安土山と八幡山を眺望

  繖山(観音寺山)三角点



目的の安土山-繖山(観音寺山)三角点へは約3時間を要し到達、天候は、晴天、微風で午後から谷風が吹き心地が良かった。
ここで一旦昼食を取り、観音寺城跡に向かい、そこで反転し、元来たコースを辿り博物館駐車場まで戻る、帰りのコースは約
1時間(体調は、睡眠不足でも悪くはないが1年のブランクもあり身体は重い)次回は、1週間後日枝神社から観音寺城趾ま
でピストンし登山し、箕作山々頂を目指しコース確認する。今回のコース観察の感想を下記に列記する。

安土城趾は、「修景:雄大な景色や都市計画・道路計画的側面である自然の美しさを損なわないように風景を整備とい
う保存」事業と言う観点からは物足りなさがある。 また、安土城趾天主と繖山(観音寺山)三角点の二つの眺望への配慮整備も望まれる。 「ビオトープ:有機的に結びついた生物群群集の生息空間」的側面では、四季折々の特徴を調査し情報を積極的に発信
が望まれる。 綺麗にコース道が整備された木段もあるが一部手の入らない箇所がある。できれば、登降坂用強化集成材の共通規格を
定め、積極的全国展開できればと考える(耐候・防腐・強靱などで優れた強化集成材は高価だが量産体制が整えば、む
しろ 総コストで有利になるだろう。

以上、「すべてはデザインで決まる」というジョージ・ルーカスの言葉を念頭におき思いつくままを列記する。

きぬがさの由来



● 繖山と奥石神社

観音寺山こと繖山(きぬがさやま)432.7メートルの南、国道8号線と東海道新幹線が立体交差する地点に老蘇(おいそ)
の森の中に奥石神社(おいそじんじゃ)がある。祭神は、藤原氏の祖である天津児室根命(あまつこやねのみこと)。創祀に
ついて明らかではない。もともと、この神社は繖山山頂の磐座を遠拝する祭祀場として営まれたもの――由来によれば、孝霊
天皇の頃、一帯は湿地で蒲が生えていたが、石辺大連は神の援助を得て この地に松、杉、桧を植え、それが現在の老蘇の森。
である。人間が植えて作り出した鎮守 の森である。この森の中に神社を建てた。現在の建物(国重)は天正9年(1581)
建立、中世には蒲生野から転化して鎌となり鎌宮神社とよばれ 二本の鎌が社印―――であるといわれ、わたしが腰掛けて岩
は(上写真)、畏れ多くもご神体だったのか?!

    夜半ならば老蘇の森のほととぎす 今もなかまし忍ぶ音のころ   本居宣長

    身のよせにいつまで見ん東路の  老い蘇の森にふれる白雪    加茂真淵 

 

● 安土山と中之湖神社 

安土山(198メートル)は繖山(433メートル)の北西に張り出し、北端には大中の湖の干拓地が広がる。特別史跡
指定された安土城跡があり、織田信長が天下統一し、天正7年(15799)に築城される。山内の各所には、武将の陣屋
を置き、安土山の最高所に日本の本格的な天守閣。西側尾根に菩提寺の見寺(そうけんじ)を造立し。天正10年(15
82)、本能寺の変で織田信長が倒れると、山崎の合戦後の混乱による兵火や土民の放火によって、城郭の大部分が消失し、
今は、見寺の二王門と三重塔が現存する。発掘調査も進み、大手道の石垣や石段などが整備、天守跡から北に延びる尾根
に沿って進むと三角点峰があるものの指定城跡から向かうことは禁止されており、また、遊歩道整備はされいない。従って、
山頂に向かうには、北側の中之湖神社(下写真)からの南下稜線のブッシュを進むしかないだろう。 


● 観音正寺と繖山

観音正寺(かんのんしょうじ)は、近江八幡市安土町石寺にある仏教寺院。宗旨は天台宗系の単立。山号は繖山(きぬがさ
さん)。本尊は千手観音、西国三十三所第32番札所である。伝承によれば推古天皇13年(6055年)、聖徳太子がこ
の地を訪れ、自刻の千手観音を祀ったのに始まるという。聖徳太子はこの地を訪れた際に出会った「人魚」の願いにより一
寺を建立。その人魚は前世が漁師であり、殺生を業としていたために人魚に生まれ変わり苦しんでいたという。寺にはその
人魚のミイラと称するものが伝えられていたが、平成5年(19933年)火災で焼失。実際に創建時期については不明で
あるが、少なくても11世紀(平安時代)には既に存在。また、元弘3年(1333年)に足利高氏(後の尊氏)に攻めら
れた六波羅探題北条仲時が後伏見・花園両院及び光厳天皇を連れて東国に下ろうとした際に両院や天皇の宿舎に充てられた
とする伝承がある。

また、佐々木六角氏の居城である観音寺城があり、寺は佐々木六角氏の庇護を得て栄えた。戦国時代中期に六角氏により観
音寺城が改修された際に、観音正寺は山麓に移転させられたとする説がある。観音寺城は永禄11年(1568)、織田信
長の軍勢に攻められて落城。数年後には佐々木六角氏所縁の観音正寺も焼き討ちに遭い全焼した。再興されたのは慶長年間
(1596 - 1615)である。現在ある木造入母屋造の本堂は平成16年(04年)に再建される。新たに造立された本
尊千手観音坐像は仏師松本明慶の作。旧本尊が1メートル足らずの立像に対し、像高3.56メートル、光背を含めた総高6.
3メートルの巨大坐像で、像はインドから輸入した23トンもの白檀から作られ、白檀は輸出禁制品であったが、観音正寺
の住職が、20数回インドを訪れ交渉し、特例措置として日本への輸出が認められたものであるという。   



● 繖山と石馬寺

西国三十三観音霊場で有名な観音正寺の北側、同じ繖山(きぬがさやま)の山裾に石馬寺がある。通称「馬の寺」とも呼ば
れ、聖徳太子が開基と伝えられている。太子がこの山の山麓に馬をつないで、山上まで自ら登りこの山の地形を観察し下山
すると馬が沼に沈み石になったのだという。その霊験をみて感動した聖徳太子が寺を建立したのが石馬寺の始まり。推古2
年(594年)、摂政の聖徳太子が「霊地は近江国にある」と占い、駒の蹄に任せて永久に鎮護国家、仏法興隆を祈る道場
を求め、繖山の麓辺りに来ると、駒は歩みを止めて進まなくなり、傍らの松の樹につないで山に登ったところ、瑞雲※たな
びき風光明媚な風景が広がる。太子は「積年の望みをこの地に得たり」と深く感動し山を下ると、松の樹につないだ駒が傍
の池に沈んで石と化していた。という、奇瑞に霊気を感じこの山を『御都繖山(ぎょとさんざん)』と名付け寺を建立し、
馬が石となった寺、つまり『石馬寺(いしばじ)』と号する。
また、石と化した『石馬』も寺に至る石段下の蓮池に現存し、霊験として語り継がれ、建立以後、法相宗、天台宗と転宗し、
近江源氏である佐々木氏の篤く帰依するが、永禄11年(1568)、織田信長の上洛に抵抗した佐々木承禎との戦いによ
る戦禍を受け、伽藍や院坊のことごとく兵火に遭う。さらに、豊臣秀吉は天下を取ると寺領及び山林を没収、山主や僧徒は
退散を命じられる。慶長8年(1603年)、徳川氏により『石馬寺』が復興。寛永11年(1634)家光公上洛にあたり、
現東近江市に造営した御茶屋御殿(伊庭御殿)を移築し大方丈(本堂)とし、正保元年(1644年)11月、宮城県松島
の瑞巌寺の雲居国師を中興祖として招き、臨済宗妙心寺派の寺院として現在に至ります。

※ 「瑞雲」めでたい兆しとして出現する、紫色や五色の珍しい雲

 

経験則を超えた熊本地震

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              災害を予測した人は、災害発生後に現れる     マーフィーの法則

 

 

 


【経験則を超えた熊本地震】

● 地震の今後の展開は予測できない?!

テレビの緊急地震報知で震度7という数値をみて驚き、階上に彼女にそのことを伝えたものの、マグニチュードが6.5
の数値の低さに二度驚いた。翌日の午前1時25分の地震が、6強の7.3のいままでの、つまり、今夜までの最大強度
の最大加速度(マグニチュード)で本震であったことを気象庁が報じ、さらに、「今後の展開は予測できないと」とも
報じた。また、カグニチュード3.5以上の内陸部での発生回数推移は、上図のように04年新潟中越地震を上回るペー
スで発生するという特徴を示している。マグニチュード6を超える揺れが連鎖的に襲い被害を拡大させている熊本を中心
とする今回の大地震。最初の揺れに耐えた住宅が、2度3度目の揺れで倒壊した ケースが相次いだ。14日に起きた震
度7の地震後、現地調査に入った愛媛大の森伸一郎准教授は、その後の本震で倒壊した住宅の状況から、最初の揺れで建
物の耐震性が大きく変質し、その後の倒壊を引き起こしたと見ている。

これは、阪神淡路大震災の教訓から建物の耐震化を行ってきたが、今回の建物被害調査で浮かび上がったことは神戸との
類似性――役場や病院などの公共施設の損傷。犠牲者の大半が圧死・窒息死など、建物や家具が倒壊したことによる被害
が共通している。このように(1)発生回数の多さだけでなく、(2)別府、宮崎など九州全体に波及拡大するかに見え
る断層地震のリンクと、(3)阿蘇山の噴火にみられる火山とのリンク、(4)川内原発の再稼働し続けていること、そ
して、(5)地震災害の拡大による緊急支援物資の遅配が問題になっている。わたし(たち)が一番心配するのは、リン
ク拡大という経験則外の異常事態の発生である。


 

【ジャジーな風に吹かれて Ⅹ】 

 

 Jaco Pastorius (full Album with 2 bonus tracks)

ジャコ・パストリアス (Jaco Pastorius、本名 ジョン・フランシス・パストリアスⅢ世、1951年12月1日 - 1987年9月21日)
は、ジャズとフュージョンのエレクトリックベース・プレーヤーで作編曲家。 1970年代半ばに頭角を現し、1975年にパッ
ト・メセニーの初リーダー作に参加、翌1976年にはファースト・ソロ・アルバム『ジャコ・パストリアスの肖像』の発表
(上写真クリック)と共にウェザー・リポートにベーシストとして参加。その革新的なテクニックをもって、エレクトリ
ックベースをアンサンブルでの花形楽器にまで昇華させ、奇才を生まれながらにもち、36才という若さで夭折。
尚幼少の頃から地元の聖歌隊に参加し、音楽的な素養を身に付けていた。ジャコが7歳の頃、家族はフロリダ州フォート
ローダーデールに移住したことでスティール・ドラムが多く用いられるのは、ロリダで過ごした影響が大きい。

 

 Pat Metheny Live In Switzerland

パット・メセニー(Pat Metheny、1954年8月12日 - )はアメリカ人ジャズギタリストでパット・メセニー・グループのリ
ーダー。ミズーリ州リーズサミット出身。兄にジャズトランペッターのマイク・メセニーがいる。ピックは親指と中指で
つまむ独特の持ち方をし演奏。ピック自体も通常使われる尖った部分ではなく、丸い部分を弦に当てる。ソロ・プレイで
は左手はハンマリングとプリングを多用した基本的にピッキングの少ないレガート奏法が中心。そのテクニックを駆使し
たアルペジオや半音進行を多用した独自のフレーズがトレードマークである。尚、メセニーは若い頃よりミルトン・ナシ
メントやロー・ボルジェス、トニーニョ・オルタ等のブラジル音楽に興味を持つ。オルタとは1980年にブラジル公演に来
た時に女性ギタリスト、セリア・ヴァスの紹介で出会い、意気投合し、レコーディング中のオルタの1980年発表のセカン
ド・アルバム『トニーニョ・オルタ』に2曲参加し、オルタのアメリカでの録音による1983年の『ムーンストーン』にも
参加。1987年にブラジル音楽を取り入れた、『スティル・ライフ』や『レター・フロム・ホーム』を発表する。

 

ナショトレ・アプリの全貌 Ⅰ

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           激動のときにじぶんがこうかんがえているとできるかぎり率直に公開しよう。
           それはじぶんの身ひとつで、吹きっさらしのなかに立つような孤独な感じだが、
           誤謬も何もおそれずに公言しよう。


 

                                          

                                  Takaaki Yoshimoto 25 Nov, 1924-16 Mar, 2012  

● 熊本地震速報

 

 



【ナショトレ・アプリの全貌 Ⅰ】

 

滋賀の四月の野鳥の代表はやはりウグイスだろう。しかし、それ以外の野鳥の場合、聞き慣れた野鳥のさえずりだがわからない。
知っていればナショナルトレッキングの面白さは倍増するにちがいない。そんなとき、スマホの「ナショトレ・アプリ」を起動
させ録音し自動検索させれば、「ビンズイ」であるとことが音声回答されさらに詳しい情報がスマホ操作で閲覧できる。あるいは
検索履歴を残し後から確認できる。

 全長15.5センチメートル。ほぼホオジロ大のセキレイの仲間の鳥。尾はそれほど長くはありません。体の上面は緑褐色で、緑
 色味が強い。アジアの温帯地域に広く分布している。日本では北海道・本州・四国の山地の林縁や岩地、草地などの明るい場
 所で繁殖している。木の上や岩上など目立つ場所でさえずったり、そこから舞い上がってさえずりながら隣の樹上や岩の上に
 止る行動を行なう。これは縄張りの確保の行動で、山地の林でこんな飛び方をするのは、日本では本種のみ。冬には本州以南
 (北海道は雪が多く、地面で餌が摂れないので)の平地の林、それも松林に好んですみ、地上で餌を探します。セキレイの仲間
 ですから、地上でも木の枝でも、脚を交互に出して歩るく。

このように、小鳥のような動物だけでなく、植物なども、画像で音声指示されたように部位を撮像すれば自動的に記録、検索され、
たとえば、「ヤマツツジ」であるとか音声回答され、下記のような情報を閲覧することも可能だ。

 
 北海道南部・本州・四国・九州の暖温帯域全域に生育する落葉半低木。図鑑には高さ1~5mと記されているが、高さ競争は苦
 手ではないかと思っている。ヤマツツジの群生と開花が目立つのは、沿岸部の痩せたアカマツ林と県北の脊梁山地の尾根筋で
 ある。気候的には大きくかけ離れているが、強い日照があるという点では共通性がある。日照の強い尾根筋に生育する個体の
 葉は厚く て光沢があるが、アカマツ林内に生育するものでは葉は光沢が少なく、柔らかくて花数も少ない。


勿論、外来種などが紛れ込み様々な種類を網羅することは最初から難しいだろう。そこで、アプリ提供者と利用者の共同作業で、
内容を豊富にし情報の品質を自律的に高めていくことができる(=学習機能)ようにプログラミングしておけば楽しさは倍増する
だろう。このように滋賀の自然・社会環境固有の情報価値を付加させるように、GPS(位置情報)に関連する気象やトイレ・山
小屋情報などの様々な情報がネットワークでリンケージされ「ナショトレ情報」の安全・利便・共有が行える。すでに下記の図の
ように国内外でもスマホ通信情報システムが立ち上がっている。
 

 



スマホの機能性も様々で、気圧センサ、加速度センサ、あるいは防水性など機能性と性能(=品質)も多様である(下写真参照)。
また、『滋賀の山々 Ⅷ』(「守る会」2016.04.07)で記載したワイヤレスバイタルセンサとスマホとのリンクも可能だ。すでに方
針管理を間違えなければ、アプリ開発は簡単に行え実現可能な段階にあると言える。 さらに、スマホ充電を確実に行うための充電
システムも入手可能である。できればバックパックに高変換効率で可撓・軽量・意匠・堅牢なとの特性をもつ携帯ソーラー発電及
び(ワイヤレス)充電デバイスがほしいところで、その実現もたやすいだろう。また、、それをわたし(たち)が手がけることも
できるだろう。

 

 

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