本当は戦争なんてしたくない。しかし、絶望感から、そんな発言をせざるを得ない。『逆説』ですよ。
貧困から東北の農村で娘が売られることもあり、国民に『現状を変えねば』との思いが確かにあった。
欧米の植民地支配からアジアを解放することも、『正義』だと私は信じていた。
「『希望は戦争』絶望感が生んだ逆説」北海道新聞 2008.08.14
Takaaki Yoshimoto 25 Nov, 1924 - 16 Mar, 2012
贈り物
テスへ
昨夜おそく、雪が降りだした。湿った雪ひらが
窓の外を落ち、天窓にも
積もった。僕らはしばらく見ていた。それは
幸福な驚きだ。ここにいて、ほかのどこにもいないことを、喜ぼう
僕は薪ストーブに薪をいれた。煙道を調整した。
僕らはベッドに行った。僕はすぐに目を閉じてしまった。
でもどうしてかはわからないけど、眠りにつく前に、
ブエノスアイレスの空港の情景を思い出した。
出発する夕方のことだ。
そこはなんともいえず、静かで、がらんとして見えた。
僕らの乗った飛行機のエンジンの響きをべつにすれば、
死んだみたいに物音ひとつしなかった。飛行機は、ゲートを出て、
小雪の中を、ゆっくりと滑走路にむかった。
ターミナル・ビルディングの窓は真っ暗だった。
誰のすがたも見えない。地上作業員のすがたさえ。「飛行場が
そっくり喪に服しているみたいじゃない」と君は言った。
僕は目を開けた。君の呼吸を聞けば、熟睡している
ことがわかる。君のからだに腕をまわし、僕の想いは
アルゼンチンをはなれ、いぜんパロアルトに住んでいた
ときの家に移る。パロアルトには雪は降らない。
でも僕には部屋があって、その窓はふたつ、ベイショア・フリーウェイを
見おろしていた。
ベッドのとなりに冷蔵庫があった。
ま夜中に喉が渇いたとき、僕は
ただ腕をのばして扉を開け、渇きを潤せばよかった。冷蔵庫の明かりが、
冷たい水のありかを示してくれた。バスルームの
流しのわきに、電熱器があった。
僕が髭を剃るとき、コーヒーの粉がはいった瓶の横の、
電熱コイルの上で、やかんのお湯がちりちりと音を立てていた。
ある朝、僕はベッドにすわって、ちゃんと服を着て、髭もきれいに剃って、
コーヒーを飲みながら、やろうと決めたことを後回しにしていた。でもとうとう、
サンタクルーズのジム・ヒューストンの家の電話番号をまわした。
そして七十五ドルを無心した。そんな金ないよと彼は言った。
彼の奥さんは、メキシコに一週間行っている。
ほんとうに持ちあわせがない。今月はもう
あっぷあっぷで暮らしてる。「べつにいいんだ。わかってる」と僕は言った。
ほんとによくわかる。そのあと少し話をしてから、
電話を切った。いずこも同じ、か。
僕がコーヒーをほぼ飲み終えるころ、
飛行機が滑走路を、夕日にむけて飛び立った
コーヒーを飲み終えていた。
僕は座席の中でうしろを振り返って、
ブエノスアイレスの街の明かりに、最後の一瞥をくれた。それから目を閉じ、
長い帰りの旅の中に戻っていった。
朝、あたり一面、雪に覆われている。僕らはそれについて語る。
よく眠れなかったわと君は言う。僕は言う、
僕も同じだ。ひどい夜だったわ。「僕もさ」
僕らはお互いに対して、とびっきり穏やかで、優しく接する。
まるで相手の参った精神状態を、そっくり感知しているみたいに。
お互いの感じていることがわかっているみたいに。でも
もちろんそうじゃない。そんなことありえない。でもいいんだ。
大事なのは、思いやりなんだ。この朝、僕を動かし、
とらえているのは、その贈り物なんだ。
毎日の朝とおなじく。
The gift
Snow began falling late last night. Wet flakes
dropping past windows, snow covering
the skylights. We watched for a time, surprised
and happy. Glad to be here, and nowhere else.
I loaded up the wood stove. Adjusted the flue.
We went to bed, where I closed my eyes at once.
But for some reason, before falling asleep,
I recalled the scene at the airport
in Buenos Aires the evening we left.
How still and deserted the place seemed!
Dead quiet except the sound of our engines
as we backed away from the gate and
taxied slowly down the runway in a light snow.
The windows in the terminal building dark.
No one in evidence, not even a ground crew. “It’s as if
the whole place is mourning,” you said.
I opened my eyes. Your breathing said
you were fast asleep. I covered you with an arm
and went on from Argentina to recall a place
I lived in once in Palo Alto. No snow in Palo Alto.
But I had a room and two windows looking onto the Bayshore Freeway.
They refrigerator stood next to the bed.
When I became dehydrated in the middle of the night,
all I had to do to slake that thirst was reach out
and open the door. The light inside showed the way
to a bottle of cold water. A hot plate
sat in the bathroom close to the sink.
When I shaved, the pan of water bubbled
on the coil next to the jar of coffee granules.
I sat on the bed one morning, dressed, clean-shaven,
drinking coffee, putting off what I’d decided to do. Finally
dialed Jim Houston’s number in Santa Cruz.
And asked for 75 dollars. He said he didn’t have it.
His wife had gone to Mexico for a week.
He simply didn’t have it. He was coming up short
this month. “It’s okay,” I said, “I understand.”
And I did. We talked a little
more, then hung up. He didn’t hate it.
I finished the coffee, more or less, just as the plane
lifted off the runway into the sunset.
I turned in the seat for one last look
at the lights of Buenos Aires. Then closed my eyes
for the long trip back.
This morning there’s snow everywhere. We remark on it.
You tell me you didn’t sleep well. I say
I didn’t either. You had a terrible night. “Me too.”
We’re extraordinarily calm and tender with each other
as if sensing the other’s rickety state of mind.
As if we knew what the other was feeling. We don’t,
of course. We never do. No matter.
It’s the tenderness I care about. That’s the gift
this morning that moves and holds me.
Same as every morning.
【我が家の焚書顛末記 Ⅴ】
このレイモンド・カーヴァー全集第5巻も今夜で終える。そうしないと時間がいくらあっても処分できない。そう
考えると詩篇のひとつひとつに愛着が残る。アルコール中毒の影響も感じさせ、ミニマリズムでありながら、行動
思考的空間スケールの大きさを感じさせる作品集である。これで残りは第4巻と第6巻となるが、本書の解題で村
上春樹は次の様に書いている。
「カーヴァーの時は、延長していくとそのまま短篇小説になるし、また彼の短篇小説は蒸留していくとそのま
ま時になる」と表現した評論家がいる。もちろんすべてがそんなに単純明快に割り切れるものではないだろう
が、その言わんとするところは気持ちとしてよくわかるし、それはカーヴァーの詩について(そしてまた短篇
小説について)かなり多くのことを語っているように思える。
前にもどこかに書いたエピソードをまたここで繰り返すことになるが、僕自身も昔レイモソド・カーヴァー
に会って話をしたときに、「あなたの詩はときとして小説のように見えるし、あなたの小説はときとして詩の
ように見えますね」と言ったことがある。それを聞いてカーヴァーはとても嬉しそうだった。わざわざ別の部
屋にいたテスを呼びに行って、「この人はこんなことを言うんだよ」と伝えたくらいだった。だからたぶん自
分でも そのような詩と小説の呼応性については、ある程度明確に意識をしていたのだろうと思う。
僕は詩人に関しても詩に関してもそれほど詳しい人間ではないので、詩と小説の両方の分野でカーヴァーと
同じような並行的な書き方をする詩人/小説家がほかにいるのかどうか正確な知識を持だない。しかしこれほ
ど密接に呼応する内容の作品を、詩と小説というふたつのジャソルにわたって書き分けた人は――そしてその
両方が第一級の芸術作品として高い評価を受けている人は――それほど多くはないだろうという気がする。と
くに現代においては。
―― 中略 ――
カーヴァーが「詩と小説のどちらかひとつをどうしても選べ」という選択肢をつきつけられて、どちらを選
んだか、僕はもちろん知らない。いずれにせよそれは、本人にとってはずいぶんむずかしい選択であったにち
がいない。ふたつのうちのどちらかを選ぶことなんてでぎなかったかもしれない。もともとが根拠のない架空
の質問だし、ある意味では無意味な質問だ。しかし僕の勘では(あくまで勘に過ぎないわけだが)、おそらく
彼は最終的には詩のほうを選んだのではないかと思う。そして彼は詩という、その制限のない自由な形式を利
用して、ふたつの方向を同時的に追求していったかもしれない。そのひとつは徹底的に研ぎ澄まされた短く結
晶的な心象世界であり、もうひとつは物感性をより深く煮詰めた痛いほどの「詩小説」であったのではないだ
ろうか?
もちろんこれはあくまで無責任な推測でしかないわけだが、彼が自分の体内に癌が存在することを告知され
てから、詩作にそそいだすさまじいまでの集中力と愛情を見ていると、僕はどうしてもそのように感じないわ
けにはいかないのだ。もちろんカーヴァーは自分が病との戦いに勝利し、生き残ることを信じて、必死の努力
を続けていた。それはたしかだ。テスも後日会ったとき、カーヴァーがどれほど明日を信じて生きていたかと
いうことを感ってくれた。しかしそれと同時に、彼は自分が「いずれにせよ何かを言い残していくべき時期に
さしかかっている」ことを、心のどこかで感じていたはずだ。そして自分の中にある〈切実な何か〉を世界に
向かって言い残そうとするときには、彼としてはやはり詩という、よりパーソナルな、より自由な形式を選び
とらざるをえなかったのではないかと僕は想像するのだ。
そして、彼は4つの――(1)思春期の育まれた「原罪意識」「喪失感」に嘖まれ堕落・崩壊に繋がっていくこと
になる過去の出来事の記憶をたどるようなかたちで物語った群・メモワール詩、(2)テスとの間で始まった成熟
した再春期の群・日常生活スケッチ詩、(3)「旅行もの」「釣り・狩猟もの」、(4)本歌取りというべき現実
乖離した群・象徴的詩――例えば、「筋」はW・B・イェーツの『イュスフリーの島湖』を本歌にし実に生き生き
と、今そこにある人の営を描き出し、湖で魚釣りをするW・B・イェーツと、歯のあいだにはさまった豚肉の筋を
ほじくる若い娘の取り合わせは、カーヴァーのお家芸であり、「カフカの時計」でカフカの手紙を原型とどめ、手
紙の一節をアレンジすることで見事な一篇の詩になっていると持ち上げ、「天国の門のジャグラー」はマイケル・
チミノの映画『天国の門』の酒場のシーンを映画の本筋を離れてこの名もなきジャグラフの姿に惹きつけ描き、「
灰皿」は終生敬愛したアソトソ・チェーホフの文章をもとにし、シャーウッド・アンダーソンの手紙の一節を引用
した「ハーリーの白鳥」、「音楽」「スコール」「コーカサ バス、あるロマンス」また、「鶴」「戦いの前夜」
「賞」「コーソウォールの幸福」「この家の後ろの家」(残念ながら原典不詳)なども紹介し――カテゴリーとし
てとしてまとめている。
この項了
【ピスタチェリーと砂ずり藤】
時雨せぬ 吉田の村の 秋を冷め 刈り干す稲の はかりなきかな 大江匡房
ぐんっと気温が上昇する。けれど琵琶湖の水位はプラス。朝から草津の三体神社の砂擦り藤の鑑賞に出かけ、甘い
香りを楽しんだ。朝日新聞デジタルによると、周辺の草刈りなどを続ける藤古木保存会が樹齢は約400年。約2
メートル20センチの藤棚から、地面を擦りそうになるほど長く伸びるため「砂擦りのフジ」とよばれる藤が今年
は例年より約1週間早く4月17日ごろに開花したとのこと。
到着して驚いたことは、まず草津市志那町にという近江平野の真っ平らな農地の集落にある三体神社――創祀年代
不詳、つまりいつ頃どのような経緯で建立されたかわからないが、延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)
記載によると式内社伊冨伎神社の論社で、天智天皇の時代、風神二座(志那津彦命・志那津姫命)を祀り、応徳年
間に大宅公主命が合祀されたと伝わってきたが、明治時代に入り現社号に改め、明治9年に村社に格付けされる―
の境内にその規模はさほど大きくないが、丁寧に手入れされた藤棚として毎年多くの参観者が訪れていることであ
る(入場料金は大人2百円)。
ところで、砂擦り藤は、一般名称としての藤には、つるが右巻き(上から見て時計回り)と左巻きの二種類がある
が、右巻きの藤の和名が「フジ」または「ノダフジ」、左巻きの藤の和名が「ヤマフジ」または「ノフジ」と呼ば
前者の変種にあたり、藤の花穂が1メートル以上垂れ下がり地面の砂を擦るほどのびることから、この名前がつけ
られたとか。
藤は日本固有種で、本州・四国・九州の温帯から暖帯に分布し、低い山地、平地の林に普通。強い日当たりを好む
ため、公園や庭園などの日光を遮るもののない場所に木や竹、鉄棒などで藤棚と呼ばれるパーゴラを設置し、木陰
を作る。天蓋に藤の蔓を這わせ、開花時には隙間から花が垂れ下がるように咲く。変異性に富み園芸品種が多い。
一才藤(いっさいふじ)として鉢植えや盆栽用に流通するのは、樹高50センチメートルの一才物のフジ。大阪市
福島区野田はノダフジ(野田藤)と呼ばれる藤の名所で、牧野富太郎による命名のきっかけとなる。花は天ぷらな
どにすることができる。他のつる性植物同様、茎を乾燥させて椅子などの家具に加工される。藤の花や葉を図案化
した家紋「藤紋」。
午後からすこし薄曇り風も強くなる中湖岸を走り帰宅するが途中、守山市の「ラフォーレ琵琶湖」の「カフェ ド
ゥース」(「喫茶 やわらぎ」とでも訳せるか?)でピズタチェリー(ピスタチオのガレットの上にピスタチオの
ムースとチェリーのコンポート)とダージリンを頂き少し休憩する。 上には白玉(真珠)は牛乳?の砂糖菓子と金粉
がデコレートされている。