今のグローバル化は、米国を主体に、財政力や軍事力の
圧力が加わったもの。本物とはいえない。
私の3作:評論家・吉本隆明さん/下 『悲劇の解読』
毎日新聞 2007.12.24
Takaaki Yoshimoto 25 Nov, 1924 - 16 Mar, 2012
California solar homes final - PaulosAnalysis | Tableau Public
【カリフォルニア州 50の屋根用ソーラー飽和地区】
このところの原油価格下落の影響を受け、シェールガスの採掘関連事業が景気が悪い。そのなか
でカルフォルニア州の各地区での家庭用ソーラー住宅が不動産販売が好調。04年アーノルド・
シュワルツェネッガー州知事が18年までに家庭用ソーラー導入目標を百万戸に設定。現在57
万7千戸(家庭・学校・企業・農場)の導入達成状況にある。特に、サンディエゴ郡の50地区
(郵便番号)調査で21地区がソーラー集中地区であることが判明。サンディエゴ郡は今年4月
辞典で一戸建てのうち76,239戸がソーラー住宅であったと、今月1日、EcoWatch 社は報じ
ている(上下図写真をバブクリ参照)。
50 Most Solar-Saturated Zip Codes in California EcoWatch Aug 01, 2016
● 折々の読書:ファイアズ(炎)Ⅱ
影響というのは力である。環境やパーソナリティー、それらは潮の満ち干のようにあらが
いがたいものである。私には自分が影響を受けたかもしれない作品や作家について語ること
はできない。そういった影響、つまり文学的影響というものは、私はこれこれこういう具合
に影響を受けましたと明確に指摘できるものではないのだ。私にとって、これまでに読んだ
あらゆる本から私は影響を受けましたというのは、私はどんな作家からもぜんぜん影響なん
て受けていないと思うというのと同じくらい不正確であるだろう。具体的に名前をあげるな
ら、私はアーネスト・ヘミングウェイの長篇と短篇の長年のファンである。そしてなおかつ、
私はローレソス・ダレルの作品は、文体において特異にしてかつ卓越したものだと思ってい
る。もちろん私はダレルのようには書かない。そういう点では私は彼に「影響」されていな
い。ときどき私の文章はヘミングウェイの文章「みたいだ」と言われることがある。でも彼
の文章が私の文章に影響を及ぼしたと言うことは私にはできない。ヘミングウェイも、ダレ
ルと同じように、私が二十代にその作品を初めて読んで非常に感心した数多くの作家たちの
一人ということなのだ。
Lawrence Durre 27 Feb 1912 - 7 Nov 199
そんなわけで、私は文学的影響力というものについては多くを知らない。でもそれ以外の
種類の影響力についてならいささかの意見を持っている。私に覚えのある影響力というのは、
最初はしばしばミステリアスな、ときには奇跡に近い姿をとって私のところに押しかけてく
る。しかしこのような影響力というものは、私の仕事が進捗することによって、初めて明ら
かになるのである。これらの影響力は容赦のないものであった(今でもそうなのだが)。こ
れらの影響力こそが私をこの砂嘴のような地に押し流したのである。それは私を、一例をあ
げるなら、湖のあっちの岸には押しやらなかった。しかしながら、もし私の人生と文章とが
受けた主要な影響力がネガティヴなものであり、抑圧的で敵意に満ちたものであったとした
ら(事実そうであったと思うのだが)、いったいどう考えればいいのだろう?
まず最初に断っておきたいのだが、私はこの文章をヤドーという場所で書いている。それ
はニューヨーク州サラトガ・スプリングズのちょっと外れにある。八月の初めの、日曜日の
午後である。しょっちゅう、だいたい二十五分に一回くらいの割合で、三万人以上の声がわ
あっというひとつの巨大な叫びになってわき起こるのを私は耳にすることができる。この見
事な雄叫びはサラトガ競馬場から聞こえてくるのだ。有名なレースが今開催されている。私
は原稿を書いている。しかし二十五分おきに、私はアナウンサーがラウドスピーカーで馬の
ポジションを放送する声を聞くことができる。人々の咆呼が大きくなってくる。その歓声は
木立の上に作裂する。その雄大にして、かつまことにスリリングな音は、馬たちがゴールに
駆け込むまで、あたりに響き渡っている。それが終わると私は、まるで私自身がそれに参加
していたみたいに、どっと疲れてしまう。私は自分が入賞した馬や、またある場合には惜し
いところで入賞を逸した馬の馬券を握りしめているところを想像する。もしそれが写真判定
を仰がなくてはならないものであれば、一分か二分か経って写真が現像され公式判定が出た
ときに、またあの歓声がどっとやって来るなと待ち受けることになる。
何日か前に私はここにやってきて、ラウドスピーカーから流れてくるアナウンサーの声と
興奮した観客たちの咆眸を初めて耳にしたわけだが、私はそれ以来ずっとエル・パソを舞台
にした短篇小説を書いている。私はちょっと前のことだが、その町にしばらくのあいだ住ん
だことがあった。それはエル・パソの郊外にある競馬場に出かけた人々の話だ。その物語は
ずっと書かれるのを待っていた、というようなことを言うつもりはない。そんなことはなか
ったし、もしそんな風に言ってしまったら話はちょっと違った色彩を帯びてくることになる
だろう。でもこの短篇を例にとって言うなら、私はこの作品に目の目を見せるためには、何
かを必要としていたのだ。私がヤドーにやって来て、最初に観客の歓声やラウドスピーカー
から聞こえるアナウンサーの声を耳にしたとき、あのもう過ぎ去ってしまったエル・パソで
の生活のひとこまが私の脳裏に蘇ってきて、その物語のヒントを与えてくれたのだ。私は自
分がその競馬場に行ったときのことや、そこで起こったことや、あるいは起こったかもしれ
ないことや、ここから二千マイルも離れたところにあるその場所で(少なくとも私の小説の
中で)これから起こるであろうこと。
というわけで、私の小説は進行中である。「影響力」というのはこのような姿をとること
もあるのだ。言うまでもないことだが、すべての作家はこのような種類の影響力の支配下に
ある。これはもっともありふれた種類の影響力である。これがそれを示唆し、それは別の何
かを示唆する。これは我々にとってはありふれたことであり、そしてまた雨降りのように自
然なことである。
しかし話の本題に入る前にもうひとつ、私はこの最初の例によく似た影響力の実例につい
て語りたい。それほど前のことではないが、私がシラキュースの家で、小説を書いている真
っ最中に電話のベルが鳴った。私は電話を取った。受話器の向こうから聞こえる声は間違い
なく黒人のものだった。ネルソソを出してくれと彼は言った。それは間違い電話だったし、
私は間違いですよと言って電話を切った。そして私は自分の小説に戻っていった。でも間も
なく私は、自分が知らず知らずのうちにその小説の中に丁人の黒人を登場させていることに
気づいた。それはネルソンという名の、不吉な影のある人物だった。そしてそれを契機にそ
の小説は違った展開をみせることになった。でも今にして思えば(いやそのときにだってち
ゃんとわかっていたのだが)有り難いことに、それは小説にとっては正しい展開であった。
私がその短篇を書き始めたとぎには、ネルソンという登場人物をあらかじめ準備したり、
その必要性を予知したりすることは不可能だった。でも今ではその小説は書き上げられ、間
もなく全国詰に掲載されることになっている。そして私にはわかっている。ネルソソの存在
が、そしてその不吉さの影の存在が、正しく、また当を得たものであり、審美的に見て間違
いの ないものであるということが。もうひとつ私にとってよかったことは、この人物がい
ねば出会いがしらにぴたっとうまく私の小説の中に入り込んできたことである。そして私は
ちゃんとそれを受け入れたのである。
私の記憶力は貧弱なものである。つまり私は、自分の人生に起こった多くの出来事を忘れ
てしまっているということである。これはまことに有り難いことではあるのだが、しかし私
には全然説明できなかったり、あるいは思い出すことのできないいくつかの長い期間がある。
私の住んでいた町や都市のこと、知っていた人の名前、人々そのもの。それは大きな空白で
ある。しかし私はいくつかの物事を記憶している。いくつかのささやかな物事――誰がどん
な口調で何を言ったか、そしてまた、誰かの激しい、あるいは声をひそめた、神経質な笑い
声。ある情景。誰かの顔に浮かんだ悲しみや当惑の表情。そして私はいくつかのドラマティ
ックな出来事を思い出すことができる。誰かがナイフを手に持って、怒りに燃えた目で私の
方に向き直ったこと。あるいは誰かをおどしつける私自身の声。誰かがドアを叩き破るのを
見たこと。あるいは階段から転げ落ちるのを見たこと。そういうドラマティックないくつか
の記憶を、私は必要に応じて思い出すことができる。でも私にはそのときの会話の全部をそ
っくりそのまま、一言一句違わずにジェスチャーやニュアンスをも添えて、ここに呼び起こ
せるような種類の記憶力は持ちあわせていない。あるいはまた、これまでに自分が暮らした
どんな部屋でもいいけれど、そこにどのような家具があったかなんてまったく覚えてはいな
い。ましてや家全体の家具となると、完全にお手上げである。あるいは競馬楊には具体的に
どんなものがあったというようなことすら、私にはまるで思い出せない。
私に思い出せるのは、そう、観客席とか、馬券窓口とか、場内中継テレビのスクリーンと
か、人込みとか、その程度だ。そしてざわめき。私は小説の中の会話を自分で作り上げる。
私は人々のまわりにある家具とか、物体とかを、必要があれば小説の中に差し入れる。たぶ
んそのせいで、往々にして私の小説は飾りがなくて、寒々しいと言われ、あるいはまた「ミ
ニマリスト」的とまで言われてきたのかもしれない。でもそれはあるいは、ただ単に必要性
と便宜性とが実際的な折り合いをつけたということに過ぎないのかもしれない。そしてその
折り合いこそが、私が今書いているような種類の小説を、今書いているような方法で書くよ
うにさせたものなのかもしれない。
言うまでもないことだが、私の書いた小説はどれも本当に起こったことではない。私は自
伝を書いているわけではないのだ。でもそれらの大抵のものには、それはほんのちょっとし
たことかもしれないけれど、何かの実際の出来事やら状況やらへの類似性が認められる。し
かし私がその物語の状況に関連して、そのまわりにあった物体なり家具なりのことを思い出
そうとするとき(そこにはどんな花があったか、だいたい花なんかあったのか、それは匂い
を放っていたのか、エトセトラ)、私はしばしば途方に暮れることになる。そんなわけで、
私は話を進めるためにはその手のことを適当にでっちあげなくてはならない。その物語に出
てくる人々は、かくのごとき言葉が口にされたあと、どんなことを言いあうか、そのときに
どんなことをするか。そしてそのあと彼らの身にどんなことが起こるのか。私は彼らがお互
いに向かって言ったことを作り上げる。しかしそこには、その会話の中には、実際にそこで
口にされた一言や、あるいはセンテンスのひとつやふたつは(それは私がいつか、何かの折
りに耳にしたことのあるものだ)混じっているかもしれない。そのセンテンスこそが、ある
いは私の小説の出発点であるということだってあるかもしれない。
ヘソリー・ミラーは四十代のころに『北回帰線』(それはたまたま私の愛読書でもある)
を執筆していたのだが、彼はそのときに他人の部屋で必死になってそれを書こうとしていた
ときのことについて語っている。彼はそこではいつなんどき仕事を中断させられるか予測も
つかなかった。というのは、彼が座っていた椅子は、次の瞬間にはお尻の下から持っていか
れるかもしれなかったからだ。かなり最近になるまで、私の人生においてもそのような状況
がずっと続いていた。私の記憶している限りにおいては、十代のころからずっと、私は常に、
自分の座っている椅子が誰かに持っていかれやしないかといつもひやひやしながら暮らして
いた。何年ものあいだ、私と私の妻とは、屋根の下に住み、テーブルの上にミルクとパンを
並べるために、ほとんどすれちがい同然の忙しい生活を送らなくてはならなかった。私たち
には金がなかったし、目に見えるような、つまりどこかに売り込めるような特別な職業的技
能も持だなかった。
そのおかげで、私たちはアルバイト同然の仕事をやりながら、やっとこさ生きていくしか
道がなかったのだ。そして私たちには、私たちは二人ともそれを喉から手が出るほど求めて
いたのだが、教育もなかった。教育は自分たちにチャンスを与えてくれるだろうと、私たち
は信じていた。それは私たちにまともな職に就く機会を与えてくれるだろう、そしてそれは、
我々が自分たちや子供たちのために求めているまっとうな種類の生活を与えてくれるかもし
れないのだ。私と妻とは大きな夢を持っていた。自分たちは頭だって下げられる、懸命に働
ける、やろうと心に決めたことならどんなことだってやれると我々は思っていた。でも我々
は考え違いをしていた。
私の人生と私の書くものを、直接的にであれ間接的にであれ、いちばん大きく左右した影
響力といえば、それはやはり私の二人の子供であったと言わなくてはならない。彼らが生ま
れたのは、私が二十歳になる前のことだった。そして一緒の屋根の下に暮らした期間を通じ
て、その始めから終わりまで(それは全部で十九年間に及んだ)、彼らのずしりと重く、そ
して往々にして悪意に満ちた影響力が及ばない場所というのは、私の生活の中には一寸たり
とも存在しなかった。
Mary Flannery O'Connor (March 25, 1925 – August 3, 1964)
あるエッセイの中でフラナリー・オコナーはこう書いている。作家は二十歳を過ぎてしま
ったら、あとはその身に何が起ころうとたいして意味はない、小説を作りだす材料の多くは、
それ以前に既に起こってしまっているのだ、十分すぎる以上に、と彼女は言っている。そこ
にはその作家がI生かけても書ききれないくらいの十分な材料がつまっているのだ、と。こ
れは私の場合にはあてはまらない。今私を執筆に駆り立てる「材料」の大半は、二十歳を過
ぎてから私の身に起こったことである。私は子供が生まれる前の自分の人生について、本当
にろくに覚えていないのだ。私は二十歳になり、結婚し、父親になる以前に、自分の人生に
何かたいしたことが起こったとはどうしても思えないのだ。そのあとで、やっといろんなこ
とが起こり始めたのだ。
ここで、翻訳者の村上春樹は「解題」で次のように解説しているので掲載する。
John Gardner (Jul 21, 1933 – Sep 14, 1982)
1982年の秋に「アンティーアス」と「シラキュース・スコラー」という二冊の雑誌に
掲載された。またそれと前後してハーバー・アンド・ロウから出版された『存続しつづける
ものを讃えて』というアンソロジーにも収録された。この題はカーヴァーの大学時代の先生
であったジョン・ガードナーの言葉から取っている。つまり炎とは、作家になるために必要
な「創造の炎」のことである。これがなければ人は作家になることはできない。しかし彼の
中にあったその創造の炎は、二人の子供の面倒をみなくてはならないという現実の重みに少
しずつ押しつぶされ、吹き消されていく。彼にはじっくりと腰を据えて小説を書くだけの暇
が与えられないのだ。「私はそのような飢えた年月を通じて、欲求不満のために徐々に正気
をなくしつつあったように思う」と彼はここで書いている。そして彼は酒に溺れ、現実に子
供たちのことを敵として憎みはじめるようになる。そして子供たちもまた彼を敵として憎み
はじめるようになる。そのような子供だちとの深刻ないさかいは最後まで彼を苦しませるこ
とになった。
彼がここで言いたいのは、我々の書くものがどれほど強く現実の環境に支配されているか
ということである。そのような現実的影響は(少なくとも彼の場合にはということだが)文
学的影響なんかよりもずっと強いものであり、またあらがいがたいものである。彼が長篇小
説というものを書けなくなってしまったのは、彼が子供たちに時間と精力を奪われ、仕事に
集中することがでぎなくなったからだ、と彼は言う。そのような生活が、彼の中から長篇小
説を書くための炎を消してしまったのだ。彼はその悲痛な事実を混んだコイン・ランドリー
の中で悟る。そしてそれ以降は長篇小説の執筆をあきらめて、短篇小説と詩にしがみついて
書きつづけることになる。
僕も彼の言わんとすることはよくわかる。僕には子供がいなかったけれど、最初の二冊の
小説を書いたときには、自分で小さな店を経営していたから、文字通り朝から晩まで働かな
くてはならなかった。夜中の一時に帰宅して、台所のテーブルに座って一時間か二時間の書
く時間を絞り出すのがやっとだった。たしかにそういう風な書き方をしていると、長い小説
は書けない。長い時間集中できないから、ストーリーも文章も分断されてしまう。とくにカ
ーヴァーのような文章的な完璧さを目指す作家にとっては、それは本当に苦しいことだった
と思う。
カーヴァーは自伝的なエッセイをあまり残してはいない。そういう意味でもこの『ファイ
アズ(炎)』というエッセイは、作家としてのカーヴァーの貴重な肉声であると言えよう。
悲痛といえばたしかに悲痛な文章だが、自己憐惘に沈んでいかない率直な潔さのようなもの
が文章をしっかり支えている。
この項つづく
【男の野外料理レシピ:ベビーラムの炭火焼き】
焦げた皮は香ばしいので、野菜を巻いて食らう。通称バラ先と呼ばれる、あぱら骨の腹の部分。
あるいは、モモ肉の二度焼きはおすすめ。
● 材 料:ベピーラム(冷凍品)1頭(約5~6キロ)、香草(タイム。セージ、ローズマリー、
オレガノ)、赤唐辛子、粉チーズ、ニンニク、オリーブオイル
● 作り方:①ベビーラムはあばら骨のつけ根を、ナタて切り離し、火が全体にまわるように
開く(A)。股(モモ)の部分は骨に沿って、切れ目を入れて筋を切る(B)。②ボー
ルにみじん切りにしたローズマリー、セージ、タイム、オレガノ、赤唐辛子、二
ンニク、そして粉チーズ、オリーヴオイル、塩、コショウを入れてよく混ぜ合わ
せる(C)。肉全体にすり込んで、10分位おき、なじませる。③はじめに羊の内
側を炭火で焼き(D)、次に皮の方を焼く。
● この秘伝のたれは、どんな肉にもOK。鹿、兎、ジビエにもおいしい。いろいろな香草を
入れ試そう。市販のタレは野外料理には似つかない。自分(たち)だけのタレを開拓した
いもの。 I
今じゃすっかりおなじみのカルフォルニアロール。