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一億総プロファイラー時代

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               ただ道は座に集まる。虚は心斎なり            
                         
                                        「人間世」(じんかんせい)     

                                                 

       ※ ガツガツと肩ひじ張り、人よりぬきんでようとしたところでどうなるか。
       才子は才で身を械ぼし、策士は策に倒れる。人間世-人間社会に生きて、
       危害を避け、天命を全うするには、どうすればよいか。本篇もまた、さま
       ざまな事例に即して「無為」を説き、「無用の用」を語る。

     ※ 心の斎戒(さいかい):顔回が「心の斎戒といいますと?」尋ねると孔子
       は「一切の迷いを去って、心を純一に保つがよい。耳で聴くより心で聴く、
       いや、心で聴くより気で聴くがよい。耳は音を感覚的にとらえるにすぎず、
       心は事象を知覚するにすぎない。だが、気はちがう。気で聡くとは、あら
       ゆる事象をあるがままに、無心にうけいれることだ。『道』はこの無心の
       境地において、はじめて完全に顕現する。心の斎戒とは、この無心の境地
       をわがものとすることなのだ」と答える。

 

     

 読書録:村上春樹著『騎士団長殺し 第Ⅰ部』  

  14.しかしここまで奇妙な出来事は初めてだ

 「わかりました」と私は言った。「政彦には明日にでも連絡をとってみましょう」
 「私の方も明日になったら、造園業者に連絡をとってみます」と免色は言った。そして少し間を
 置いた。「ところで、ひとつあなたにうかがいたいことがあるのですが」
 「どんなことでしょう?」
 「あなたはこのような――どういえばいいのだろう――不思議な、超常的な体験をよくなさるの
 ですか?」

 「いいえ」と私は言った。「こんな奇妙な体験をするのは生まれて初めてです。ぼくはごく普通
 の人生を送ってきた、ごく普通の人間です。だからとても混乱しています。免色さんは?」
  彼は曖昧な微笑みを口許に浮かべた。「私白身は、何度か奇妙な体験をしたことはあります。
 常識ではちょっと考えられないことを見聞きしたことはあります。しかしここまで奇妙な出来事
 は初めてだ」

  そのあと私たちは沈黙の中で、その鈴の音にずっと耳を澄ませていた。
  いつもと同じようにその音は二時半を少し過ぎてぴたりと止んだ。そして山の中は再び虫たち
 の声で満たされた。

 「今夜はそろそろ失礼しましょう」と免色は言った。「ウィスキーをご馳走さま。また近いうち
 に連絡させていただきます」

  免色は月の明かりの下で、艶やかな銀色のジャガーに乗り込んで帰って行った。開けた窓から
 私に軽く手を振り、私も手を振った。エンジン音が坂道の下に消えてしまった後で、彼がウィス
 キーをグラスに一杯飲んでいたことを思い出したが(二秤目は結局口をつけられていなかった)

 顔色にもまったく変化はなかったし、しゃべり方や態度も水を飲んだのと変わりなかった。アル
 コールに強い体質なのだろう。それに長い距離を運転するわけではない。もともと住民しか利用
 しない道路だし、こんな時刻には対向車も、歩いている人もまずいない。

  私は家中に戻り、グラスを台所の流し台に片づけてから、ベッドに入った。人々がやってきて
 重機をつかって祠の裏の石をどかし、そこに穴を掘る様子を思い浮かべた。それは現実の光景と
 は思えなかった。そしてその前に私は上田秋成の「二世の縁」という話を読まなくてはならない。
 しかしすべては明日だ。昼の光の下ではものごとはまた運って見えることだろう。私は枕元の明
 かりを消し、虫の声を聞きながら眠りについた。


  朝の十時に雨田政彦の仕事場に電話をかけて、事情を説明した。上田秋成の話までは持ち出さ
 なかったが、念のために知り合いに米てもらって、その夜中の鈴の音が私だけに聞こえる幻聴で
 はないことを確認したことを話した。

 「とても不思議な話だ」と政彦は言った。「しかし本当にその石の下で誰かが鈴を鳴らしている
 と、おまえは思っているのか?」
 「わからない。しかしこのままにはしておけないよ。音は実際に毎晩鳴り続けているんだから」
 「もしそこを掘り返して、何か変なものが出てきたりしたらどうする?」
 「変なものって、たとえばどんなもの?」
 「わからないよ」と彼は言った。「よくわからないけど、とにかくそのままそっとしておいた方
 がいいような、得体のしれないものだよ」
 「一度夜中にここにその音を聞きに来るといい。実際にそれを耳にしたら、このまま放置しては
 おけないということがきっとわかるから」
  政彦は電話口で深いため息をついた。そして言った。「いや、そいつは遠慮しておく。おれは
 小さな頃から根っからの怖がりでね、怪談みたいなのが大の苦手なんだ。そんなおっかないもの
 には関わり合いたくない。すべておまえに一任するよ。林の中の古い石をどかして穴を掘ったっ
 て、そんなこと誰も気にしない。どうとでも好きなようにすればいい。でもくれぐれも、変なも
 のだけは掘り出さないようにしてくれよな」
 「どうなるかはわからないけど、結果が判明したらまた連絡するよ」
 「おれならただ耳を塞いでいるけどね」と政彦は言った。

  電話を切ったあと、私は居間の椅子に座り、上田秋成の「二世の縁」を読んだ。原文を読み、
 それから現代語訳を読んだ。いくつかの細部の違いはあったが、免色の言ったように、そこに書
 かれている話は、私がここで経験したことに酷似していた。話の中では、鉦の音が聞こえてきた
 のは丑の刻(午前二時頃)だった。だいたい同じ時刻だ。しかし私が間いたのは鉦ではなく、鈴
 の音だった。話の中では虫は鳴き止んではいなかった。主人公は夜更けに、虫の声に混じってそ
 の音を聞き取ったのだ。でもそのような細かい違いを別にすれば、私が体験したのはその話とそ
 っくり同じ出来事だった。あまりに似ているので、呆然としてしまうほどだった。

  掘り出されたミイラはからからに干からびているものの、まるで執念のように手だけを動かし
 鉦を打っている。恐ろしいまでの生命力がその身体を、ほとんど自動的に動かしているのだ。お
 そらくその憎は念仏を唱え、鉦を叩きながら入定していったのだろう。主人公はそのミイラに服
 を着せかけ、唇に水をふくませてやる。そうするうちに薄い粥を食べるようになり、次第に肉も
 ついてくる。最後には、普通の人と変わらない見かけにまで回復する。しかしそこには「悟りを
 開いた僧」の気配はまったく見当たらない。知性も知識もなく、高潔さのかけらも見当たらない。
 そして生前の記憶はすっかり失われている。どうして白分か地中にそんな長い歳月入っていたの
 かも思い出せない。今では肉食をし、少なからず性欲もある。妻をめとり、卑しい下働きのよう
 なことをして生計をたてるようになる。そして「人定の定肋」という名を与えられる。村の人々
 はそのあさましい姿を見て、仏法に対する敬意を失ってしまう。これが厳しい修行を積み、生命
 をかけて仏法をきわめたもののなれの果ての姿なのか、と。そしてその結果、人々は信仰そのも
 のを軽んじるようになり、寺にもだんだん寄りつかなくなる。そういう話たった。免色が言った
 ように、そこには作者のシニカルな世界観が色濃く反映されている。ただの怪異譚ではない。


 Nyuzyodou

  さても仏のをしへは、あだあだしき事のみぞかし。かく土の下に入りて鉦打ちならす事、凡百
 余年なるべし。何のしるしもなくて、骨のみ留まりしは、あさましき有様也。
 (それにしても、仏の教えとはむなしいものではないか。この男、土の下に入って鉦を打ち鳴ら
 しながら、おおよそ百年以上は経過しているはずだ。それなのに何の霊験もなく、こうして骨だ
 け残っているとはあきれ果てた有様である)


 「二世の縁」という短い物語を何度か読み返し、私はすっかりわけがわからなくなってしまった。
 もし重機を使って石をどかせ、土を掘り返し、本当にそのような「骨のみ留まりし」「あさまし
 き」ミイラが地中から出てきたとしたら、私はいったいそれをどのように扱えばいいのだろう?
 拡がそれを蘇らせた責任をとらされることになるのだろうか? 雨田政彦の言ったように余計な
 手出しはせず、ただ耳を塞いですべてをそのままに放置しておくのが賢明なのではないか?

  しかしもしそうしたくても、ただ耳を塞いでいるというわけにはいかなかった。どんなにしっ
 かり耳を塞いだところで、あの音から逃れることはできそうになかった。あるいはほかのどこに
 引っ越したところで、あの音はどこまでも私を追いかけてくるかもしれない。そして免色と同じ
 ように、拡にもまた強い好奇心があった。その石の下に何か潜んでいるのか、それをどうしても
 知りたいと思うようになっていた。

  昼過ぎに免色から電話があった。「雨田さんの許可は得られましたか?」

  雨田政彦に電話をかけてだいたいの事情を伝えたことを、私は話した。そしてなんでも私の好
 きなようにしていいと披が言ったことを伝えた。

 「それはよかった」と免色は言った。「造園業者の方はこちらでいちおう手配しました。業者に
 は謎の音のことは話していません。ただ林の中にある古い石をいくつかどかして、そのあとに穴
 を掘ってもらいたいと指示しただけです。急な話ですが、ちょうど手があいていたので、もしよ
 ければ今日の午後に下見をして、明日の朝からでも作業にかかりたいということです。業者が勝
 手に上地に入って下見をしても差し支えありませんか?」
 自由に入ってもらってかまわない、と私は言った。

 「下見をしてから、必要な機器を手配します。作業そのものは数時間あれば済むと思います。私
 がその場に立ち会います」と免色は言った。 
 「ぼくももちろん立ち会います。作業を開始する時間がわかったら敦えて下さい」と私は
 それからふと思い出して付け加えた。「ところで、昨夜あの音が聞こえる前に我々が話し合って
 いたことですが」

  免色は私の言っていることがうまく理解できないようだった。「我々が話し合っていたことと
 言いますと?」
 「まりえさんという十三歳の女の子のことです。ひょっとしてあなたの実の子供かもしれないと
 いう。その話をしているときに、あの音が聞こえてきて、それで話がそのままになってしまいし
 た」
 「ああ、その話ですね」と免色は言った。「そう言えばそんな話をしていた。すっかり忘れてま
 した。ええ、その話もまたいつかしなくてはなりません。でもそちらはそれほど急ぐ話ではあり
 ません。今回の一件が無事解決したら、そのときにあらためてお話をします」

  私はそのあと、何をしてもうまくそれに意識を集中することができなかった。本を読んでも、
 音楽を聴いても、食事の支度をしても、そのあいだ常にあの林の中の、古い石の塚の下にあるも
 ののことを考えていた。干し魚のようにからからに乾いた黒いミイラの姿を、私はどうしても頭
 から追い払うことができなかった。


 

  15.これはただの始まりに過ぎない 

  免色が夜に電話をかけてきて、作業は明日、水曜日の朝の十時から開始されることになったと
 教えてくれた。
  水曜日は朝から細かい雨が降ったりやんだりしていたが、作業に差し支えるほどの降りではな
 かった。帽子かフードをかぶり防水のコートを着ていれば、傘をさす必要もない程度の小糠雨だ。
 免色はオリーブ・グリーンのレインハットをかよっていた。英国人が鴨撃ちにかぷっていきそう
 な帽子だ。色づき始めた木の業が、目にもほとんど見えない雨を受けて次第に鈍い色合いに染ま
 っていった。

  人々は運搬専用のトラックを使って、小型のショベルカーのようなものを山の上まで運んでき
 た。とてもコンパクトな機器で、小回りがきき、挟い場所でも作業ができるように作られていた。
 人数は全部で四人だった。機器の操作を専門とするものが一人、現場監督が一人、そして作業員
 が二人だ。操作員と監督がトラックを運転してきた。彼らはブルーの揃いの防水コートと、防水
 パンツを身につけ、泥だらけの厚底の作業靴をはいていた。頭には強化プラスチックのヘルメッ
 トをかぶっていた。免色と監督は知り合いらしく、祠の横で二人でにこやかに何かを語り合って
 いた。しかしたとえ親しげではあっても、監督が免色に対して終始敬意を払っていることが見て
 取れた。

  たしかに短い間に、これだけの機器と人材を手配できるのは、それだけ免色の顔が利くという
 ことなのだろう。私はそのような成り行きを半ば感心し、半ば困惑しながら眺めていた。すべて
 が自分の手から離れていくような軽いあきらめの感覚がそこにはあった。子供の頃、小さい子供
 たちだけで何かのゲームをしていると、年上の子供たちがあとからやってきてそのゲームを取り
 上げ、自分たちのものにしてしまうことがあった。そのときの気分が思い出された。

  シャベルと適当な石材と板を使って、ショベルカーを作動させるための平らな足場がまず確保
 され、それから実際に石を撤去する作業が開始された。石塚を囲んでいたススキの茂みは、あっ
 という間にキャタピラに踏みつぶされてしまった。我々は少し離れたところから、そこに積まれ
 た古い石がひとつひとつ持ち上げられ、離れたところに移されるのを見物していた。作業自休に
 は特別なところは見当たらなかった。おそらく世界中いたるところで、ごく当たり前に日常的に
 行われているであろう種類の作業だ。働いている人々もごく通常の行為として、いつもどおりの
 手順に従って淡々とそれをおこなっているように見えた。重機を運転する男はときどき作業を中
 断し、監督と大声で話し合っていたが、何か問題が生じたということでもなさそうだった。会話
 は短く、エンジンが停められることもなかった。

  しかし私は落ち着いた気持ちでその作業を眺めていることができなかった。そこにある方形の
 石がひとつまたひとつと撤去されていくごとに、私の不安は深まっていった。まるで長いあいだ
 人目から隠されていた自分自身の暗い秘密が、その機械の力強く執拗な切っ先によって一枚一枚
 覆いを剥がされていくような、そんな気がした。そして問題は、その暗い秘密がどのような内容
 のものなのか、私自信にもわかっていないところにあった。この作業を今ここでなんとか止めな
 くては、と私は途中で何度も思った。少なくともショベルカーみたいな大がかりな機器を持ち込
 むことは、この問題の正しい解決法ではないはずだ。雨田政彦が電話で私に言ったように、「得
 体のしれないもの」はすべて埋まったままにしておくべきだったのだ。私は免色の腕を掴み、

 「もうこの作業は中止にしましょう。石は元通りにしてください」と叫びたい衝動に駆られた。

  しかしもちろんそんなことはできない。決断は下され、作業は開始されたのだ。既に多くの人
 がこのことに関与している。少なからぬ金も動いている(金額は不明だが、おそらく免色がそれ
 を負担している)。今更中止するわけにはいかない。その工程はもう私の意志とは無関係に、
 着々と前に進んでいるのだ。
  まるでそんな私の気持ちを見抜いたように、ある時点で免色が私のそばにやってきて、私の肩
 を軽く叩いた。

 「なにも心配することはありません」と免色は落ち着いた声で言った。「すべては順調に通んで
 います。すぐにいろんなことが片付きます」

  私は黙って肯いた。

  昼前には石はおおかた運び終えられた。崩れた塚のように雑然と集積していた古い石は、少し
 離れたところに小型のピラミッドのように小綺麗に、しかしどことなく実務的に積み上げられて
 いた。その上に細かい雨が音もなく降っていた。しかし積まれていた石をすっかりどかしても、
 上の地面は現れなかった。石の下には更に石があった。石は比較的平らに整然と敷かれており、
 正方形の石床のようになっていた。ニメートル四方というところだろう。

 「どうしたものでしょうか」と監督が免色のところにやってきて言った。「てっきり、地面の上
 に石が積まれているだけだと思っていたんですが、そうではありませんでした。この敷石の下に
 は空間があいているようです。細い金属棒を隙間から差し込んでみたんですが、かなり下まで行
 きます。どれくらい深いかはまだわかりませんが」

  私は免色と共に、新しく現れた石床の上に恐る恐る立ってみた。石は黒く湿っており、ところ
 どころぬるぬるしていた。人工的に切り揃えられた石ではあったが、古くなって丸みを帯びてお
 り、石と石のあいだには隙間がおいていた。夜ごとの鈴の音は、おそらくその隙間から洩れて聞
 こえてきたのだろう。そこから空気も出入りするはずだ。身を屈めて隙間から中を覗き込んでみ
 たが、真っ暗で何も見えなかった。

 「ひょっとしたら古い井戸を敷石で塞いだものかもしれませんね。井戸にしちやちょっと口径が
 犬きいみたいですが」と監督が言った。
 「敷石をはがして取り去ることはできますか?」と免色が尋ねた。

  監督は肩をすくめた。「どうでしょうね。想定外のことなので、作業はいくらか面倒になりま
 すが、たぶんやれるでしょう。クレーンかおるといちばんいいんですが、ここまでは運べません。
 それぞれの石自体はさして重いものではなさそうです。石と石の間には隙間もありますし、工夫
 すればこのショベルカーではがせるんじやないかな。今から昼休みに入りますので、そのあいだ
 にうまい案を練って、午後に作業にかかることにします」

  私と免色は家に戻り、軽い昼食をとった。私は台所でハムとレタスとピックルスで簡単なサン
 ドイッチを作り、二人でテラスに出て雨を眺めながらそれを食べた。
 「こんなことにかまけていると、肝心の肖像画の完成が遅れてしまいそうですね」と私は言った。
  免色は首を振った。「肖像画は急ぐものではありません。まずこの奇妙な案件を解決するのが
 先決です。そのあとでまた制作にとりかかればいい」

  この男は自分の肖像画が描かれることを本気で求めているのだろうか? 私はそんな疑問をふ
 と抱かないわけにはいかなかった。それは今思いついたことではなく、最初から心の片隅でくす
 よっていた疑問だった。彼は本当に、私に肖像画を描いてもらいたがっているのだろうか? 何
 かしら別の心づもりを持って私に近づくことを必要とし、その名目として肖像画の作製を依頼し
 ただけではないのか?

  しかし別の目的とはたとえばいったいどんなことなのか、どれだけ考えても思い当たる節はな
 かった。あの石の下を掘り返すのが彼の求めていたことなのか? まさか。そんなことが最初か
 らわかるわけはない。これは肖像画を描き出したあとで持ち上がった突発事件なのだ。しかしそ
 れにしては、彼はあまりに熱心にその作業に取り組んでいた。少なからぬ金も投入している。彼
 には何の問係もないことなのに。
 そんなことを考えているときに、免色が私に尋ねた。「『二世の縁』はお読みになりましたか?」
 読んだ、と私は答えた。

 「どう思われました? ずいぶん不思議な話でしょう」と彼は言った。 
 「とても不思議な話です。たしかに」と私は言った。

  免色は私の顔をしばらく見て、それから言った。「実を言うと、私はなぜか昔からあの話に心
 を惹かれてきたのです。それもあって、今回の出来事には個人的に興味をそそられます」
  私はコーヒーをひとくち飲み、紙ナプキンで口許を拭った。二羽の大きなカラスが互いを呼び
 合いながら、谷を渉っていった。彼らはほとんど雨を気にしない。雨に濡れると、その羽の色が
 少し濃くなるだけだ。

  私は免色に尋ねた。「仏教の知識があまりないので、細かいところがよく理解できないのです
 が、憎が入定するというのはつまり、自ら選んで棺に入って死んでいくわけですね?」
 「そのとおりです。入定するというのはもともとは『悟りを間く』ということですので、それと
 区別するために、生入定と言うこともあります。地中に石室をつくり、竹筒を地上に出して通風
 口を設けます。人定をする憎は地中に入る前に一定期間木食を続け、死後腐敗したりせず、きれ
 いにミイラ化するように身体を調整します」
 「木食?」
 「草や本の実だけを食べて生活することです。穀物を始め、調理したものはいっさい口にしませ
 ん。つまり生きているあいだに、脂肪分と水分を極力身体から排出してしまうのです。きれいに
 ミイラになれるように、身体の組成を変えるわけです。そうしてしっかり身体を浄めてから、土
 の中に入ります。そして憎はその暗闇の中で断食をしながら読経し、それに合わせて鉦を叩き続
 けます。あるいは鈴を鳴らし続けます。竹筒の空気穴を通して、人々はその鉦や鈴の音を間くこ
 とができます。しかしそのうちに音が聞こえなくなります。それが息を引き取ったしるしになり
 ます。それから長い歳月をかけて、その身体は徐々にミイラ化していきます。三年三ケ月を経て
 掘り起こすというのがいちおうの決まりになっているようです」
 「何のためにそんなことをするのですか?」
 「即身仏となるためです。そうすることによって人は悟りを開き、自らを生死を超えた境地へと
 到達させることができます。それがまた衆生を救済することに繋がっています。いわゆる涅槃で
 す。掘り起こされた即身仏は、つまりミイラは寺に安置され、人々はそれを拝むことによって救
 済されます」



 「現実的には一種の自殺のようなものですね」

  免色は肯いた。「だから明治時代になると、入定は法律で禁止されます。そして入定を手伝っ
 たものは自殺幇助罪に問われました。しかし現実にはこっそりと入定する憎はあとを絶たなかっ
 たようです。ですから秘京表に入定し、誰かに掘り出されることもなく、そのまま地中に埋まっ
 ているようなケースも少なくないかもしれません」
 「あの石の塚はそういう秘密の人定のあとだったのではないかと、免色さんは考えておられるの
 ですか?」
  免色は首を振った。「いや、そればかりは実際に石をどかしてみなくてはわかりません。しか
 しその可能性はなくはないでしょうね。竹筒みたいなものはありませんが、ああいう造りであれ
 ば、石の隙間から通風はできますし、音も聞こえます」
 「そして石の下ではまだ誰かが生き延びていて、鉦だか鈴だかを夜ごとに鳴らし続けていると?」

  免色はもう一度首を振った。「言うまでもなく、それは常識ではとても考えられないことです」
 「涅槃に達する――それはつまり、ただ死ぬというのとは違うものですね?」
 「違うものです。私も仏教の教義にたいして詳しいわけではありませんが、私が理解する限りで
 は、涅槃は生死を超えたところにあるものです。肉体は死滅したとしても、魂は生死を超えた場
 所に移っていると考えることもできるでしょう。この世の肉体というのはあくまでかりそめの宿
 に過ぎませんから」
 「もし憎が生入定によってめでたく涅槃の境地に達したとして、そこから再び肉体に復帰するこ
 とも可能なのですか?」

  免色は何も言わずにしばらく私の顔を見ていた。それからハム・サンドイッチを一口啜り、コ
 ーヒーを飲んだ。

 「というのは?」
 「あの音は少なくとも四、五日前までは聞こえていませんでした」と私は言った。「それは確信
 をもって言えます。もしその音が鳴っていたら、私はすぐにそれに気づいていたはずです。たと
 え小さくはあっても、聞き逃せるような音ではありませんから。あの音が聞こえだしたのは、ほ
 んの数日前のことです。つまりあの石の下に誰かがいるとして、その誰かはずっと前からあの鈴
 を鳴らし続けていたわけではないのです」

  免色はコーヒーカップをソーサーに戻し、その図柄の組み合わせを眺めながらしばらく何かを
 考えていた。それから言った。「あなたは実際の即身仏をごらんになったことはありますか?」
  私は首を振った。



  免色は言った。「私は何度か目にしたことがあります。若い頃のことですが、山形県を一人で
 旅したときに、いくつかのお寺に保存してあるものを見せてもらいました。なぜか即身仏は東北
 地方に、とくに山形県に多いのです。正直に言ってあまり美しい見かけのものではありません。
 こちらに信仰心が不足しているせいかもしれませんが、実際に目の前にして、それほど有り難い
 気持ちにもなれませんでした。茶色くて小さくて、ひからびています。こう言ってはなんですが、
 色も質感もビーフジャーキーを思わせます。実のところ肉体はかりそめの虚しい住まいに過ぎな
 いのです。少なくとも即身仏は我々にそのことを教えてくれます。我々は究極のベストを尽くし
 ても、せいぜいビーフジャーキーにしかなれません」

  彼は食べかけのハム・サンドイッチを手にとり、それをしばらく珍しそうに眺めていた。まる
 で生まれて初めてハム・サンドイッチを目にするみたいに。
  彼は言った。「とにかく昼休みが終わって、それからあの敷石がどかされるのを待ちましょう。
 そうすればいろんなことがいやでも明らかになるはずです」

                                     この項つづく 

✪  一億総プロファイラー時代

異常気象が続いているようだ。大規模気候変動リスクに備えよ!とは、このブログでも掲載してきた
ことだ。理由は簡単だ。「環境リスク本位制」への政策転換であり、これに失敗すれば世界動乱は必
定である。すでに、過剰な新自由主義(似非グローバリズム)による格差拡大は、社会構造を歪め、
世界的なポピリズムの嵐が吹き荒むかのようである。最近、高画質の大型テレビを見ていて、大国の
政治家たちの挙動を目にし、その表情からこのリーダーはこんな精神状態にあり、この先こんな行動
を辿るだろうということが素人でも分かるようになっているのではと、ふとそんなことを感じる。こ
れは情報技術の著しい発達が背景にある。その意味では日本国民・一億総プロファイラー時代とでも
表現できる。もっとも、プロファイラーすなわち、優れた自律的なある種の「社会政治的犯罪心理分
析官」を多数輩出し続けている時代であるのかもしれない。

 ● 今夜の一曲

「ふれあい」は、中村雅俊のデビューシングル。1974年7月1日に発売され、同年の10月25日には、同
名のアルバムもリリースされる。収録曲2曲は、同年放送の日本テレビ系ドラマ『われら青春!』の挿
入歌(劇中歌)である。前者は中村扮する沖田先生が下宿のベランダで弾き語りし、後者はキャンプ
ファイヤーなどで生徒たちと一緒に歌うシーンで使用された。同年、『ふれあい』という映画(松竹)
も製作され、中村自身が主演した(市村泰一監督)。「ふれあい」はさらに、2007年6月公開の映画
『大日本人』(松本人志監督)の挿入歌としても使用されている。「青春貴族」も、2015年にテレビ
ドラマ『民王』の挿入歌(劇中、菅田将暉と知英により歌唱)ともなる。尚、「ふれあい」の累計売
上は170万枚といわれる。

  


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